戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年03月04日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
恵亮堂の手前にはこんな石塔がある↓。


叡山2・西塔・恵亮堂3


 【円戒国師寿塔

  寿塔とは、生前あらかじめ造ったお墓です。この塔は、円戒国師・慈摂大師真盛上人
  (1443~1495)が、最初建立された。上人は、西塔南上坊で20年間修学されて
  いたが、10年間におよぶ応仁文明の大乱でおきた世の惨状を見るに忍びず、遂に意を
  決し、社会浄化に身を挺するために、三千宗徒との交わりを辞し、黒谷青龍寺へ隠棲
  されるが、その直前に建てられた。決死の覚悟の表明である。上人建立の寿塔は、
  元亀の兵乱で破壊され、現在の寿塔は、天保10年(1839)知恩院二品尊超親王、

  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換) 

南上坊跡の解説とほとんど同じ内容ですが、
黒谷は西塔より少し北に行ってそこから京都側に降りる場所にある。
ぜひ行ってみたい場所ではあるんだけど、今回はちょっと時間的に無理。

で、真盛さんは慈摂大師という大師号をお持ちですが、
そのほかに円戒国師という諡号もお持ちらしい。

何度も応仁文明の乱を連呼されると、その中心になってたのは大内政弘だから、

「どうも~、すいませんね~。
ウチの政弘がお騒がせしまして~」


と謝らなければならない気分になってくる

真盛さんの寿塔の隣にはこんなのがあった↓。


叡山2・西塔・恵亮堂4


それから、恵亮堂エリアには歌碑もある↓。


叡山2・西塔2


 【中西悟堂の歌碑より

  樹之雫しきりに落つる暁闇の 比叡をこめて啼くほととぎす

  16歳で得度し、比叡山で教義を学んだ後悟堂は、やがて慈愛のまなざしを
  野鳥や自然に向けるようになります。この歌も、そんな生命あるものに対する悟堂の
  温かさが詠まれたものです。なお、恵亮堂の前にあるこの歌碑は、悟堂が野鳥・自然

  ものです。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)

え~と、この歌はアレですね。
本坂最初の石段を登りきったところのポールに刻まれていた歌 。
学友と友人はどう違うのだろうとプチツッコミを入れてみる。


さて、恵亮堂を出て石段を降りきると正面にどーんとあるのが


叡山2・西塔・中堂


金堂(こんどう)ですが、そこまで行く途中にあるものを
いくつかご紹介。


叡山2・西塔・中堂3


かなり年季も入っていて、近代以降の新築か改修だろうけど、
玄関がやたら立派で思わずカメラを向けました。


叡山2・西塔・中堂5


↑これね、胴の部分には「金光明経王」と刻まれています。
日付とかの銘は見てないんだけど、経塚ってことなのかな。
長らく国家鎮護を祈ってきた叡山にこれがあるのは、当然ともいえる。

金堂の前から、来た道を振り返ったところ↓。


叡山2・西塔・中堂10


薄日が射しーの雪が降りーのの繰り返しでしたが、
かなり降ってきた頃。
もちろん寒い。
境内に人はほとんどおらず、金堂内に1組がいるだけだった。 

山内にある看板の地図にはここにトイレのマークがあるからアテにしてたんだけど、


叡山2・西塔・中堂11


か、簡易トイレか・・・
やめとこ



金堂に入る前に、西塔にまつわる伝承を2つご紹介しましょう。
まずは延暦寺七不思議から。

西塔のにない堂で修行する僧に、彫刻の巧みな者がいた。
ある時、なぜかタヌキを彫った。
その夜、そのタヌキが

「お前の腕は大したもんだが、
俺一人だけ造ったところでしょうがないだろう。
どうだ、この際、千体のタヌキを彫ってみては?」


と言った。
僧は千日の回峰行コンプリートを目指していたので、
その満行を祈願して1日に1体のタヌキを造ることにした。

千日の回峰行とは、東塔にある無動寺の回峰行のことで、
叡山三大地獄のひとつ「回峰地獄」とも呼ばれ、
7年かけて驚異的な距離を歩くというもの。

最初のタヌキに毎晩励まされながら僧は千体のタヌキを造り上げ、
回峰行も満行、のちに高僧になることができたが、それはタヌキのおかげだった。
この僧が造ったタヌキのマユはなぜか皆一文字だったそうで、
ここから「一文字タヌキ」と呼ばれる伝説ができたそうな。


タヌキに励まされるぐらいだから毎日タヌキを生産するのも
結構大変だったんじゃないかと思うけど、ちゃんと修行もしてたのか?
だいたい、なんでタヌキにマユを付けたんだ?
とついツッコミを入れたくなるわたくし・・・



さて、天暦6年(952)7月15日の夜、
西塔で修行僧が念力を披露するイベントが行われた。

参加者のうちの1人、浄蔵は 「叡山攻め(100)」 で
平将門調伏の祈祷を行った話を紹介してますが、その他にも京の八坂の塔が
御所の側へ傾いた時、念力で一夜にして傾きを直したとも言われる力の持ち主で、
その浄蔵と修入という僧の対決が評判を呼んでいたので、
2人の対決をぜひとも見ようと山内からぞくぞくと僧が西塔に集まった。

いよいよイベントが始まり、浄蔵が祈ると大きな庭石がひとりでに動き出して
広場の中央に移動を始めた。
みんなが驚いていると、修入は「止まれ」と声をかけ、
すると石はぴたりと止まって2つに割れた。

結局勝負は引き分け。
ギャラリーはただあぜんとするだけだった・・・


2つに割れた石は「護法石」と呼ばれ、西塔金堂の近くに今もあるそうです。
ま、西塔はあまり丁寧に見てないし、そもそもこのエピソードを知ったのが
帰ってから読んだ『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』だったので、
現地では護法石の存在を知るよしもなく、ゆえにわたくしは
護法石を見てはおらぬのですが。


では、金堂へ向かいます。


叡山2・西塔・中堂2



叡山2・西塔・中堂4


金堂コンドー言ってますが、西塔の中堂にあたるこの建物は、
フツーは金堂とは呼ばれないし、正式な名称も通称もちゃんと別のものがあります。
それでもわたくしがついコンドーと言ってしまうのは、
このお堂の持つ歴史にあります。

 【転法輪堂(釈迦堂) 重文

  転法輪堂は現在の西塔の中心をなす大堂で、ご本尊に釈迦如来を祀ることから、
  釈迦堂の名で親しまれています。延暦寺に現存する最古のお堂で、元は大津の
  園城寺(三井寺)の金堂であったものを豊臣秀吉の命により、文禄4年(1596)に
  山上に移築したもので、造営年代は園城寺の記録から南北朝の貞和3年(1347)と
  認められます。細部様式もその頃をよく表しており、根本中堂と同じく天台様式の
  典型で、内陣は土間中央に本尊を安置する宮殿を壇の上に設けています。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)

解説版はもうひとつあり、屋根は栩(とち)葺形の銅板葺、
正面の柱間がすべて戸口になっているのは珍しいとある。
明治33年に国の重文に指定、昭和34年に解体修理が行われたそうな。

・・・という歴史があるので、園城寺へ先に行ったわたくしとしては、
つい「金堂」と言いたくなってしまうのです。

移築の前年が 園城寺に闕所が言い渡された 年だから、
釈迦堂は運良く解体をまぬがれた貴重な建物と言えるでしょう。

しかし、園城寺の元の金堂が現在は重要文化財で、
おねが寄進した現在の金堂 が国宝だというのはちょっと笑える。

上記リンク先(「大津編(21)」)の金堂の写真と見比べてみると、
全体的に似ているカンジはする。

ただ、園城寺のは慶長4年(1599)の建立だから、
桃山風の華麗な彫刻も沢山ついてるし、屋根には向拝が増えて、
正面は全面扉じゃないなど違う点も色々ある。

まあ、ぶっちゃけ個人的には園城寺の金堂の方が好みだけどね~。
時代を反映して華麗ということもあるけど、なんたって檜皮葺だし

もうひとつの解説の方には「織田信長の焼き討ち後」釈迦堂が移築されたとあるから
もとの釈迦堂も織田軍に焼かれたと言いたいのかもしれないし、
叡山は秀吉の庇護を受けたのに園城寺は突然の闕所となって
山門・寺門ともに嬉しくない出来事でもあったでしょうけど、
その結果、現在では園城寺の古い金堂と華麗で大変に美しい新しい金堂を
見ることができるので、何が幸いするかわからないとゆーか・・・
あちらには大内氏の見事な一切経蔵も残ってるしね~。



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最終更新日  2015年03月04日 23時36分38秒


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