戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年03月08日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
引き続き、絵看板からの紹介です。



総持院東塔(鎌倉絵図)


 【鎌倉古絵図による東塔

  今に残る比叡山最古の唯一の記録である「比叡山東塔絵図」(鎌倉初期)によると、
  中央にとりわけ大きく描かれた塔は基壇の上に立ち下層は方五間で前面に格子戸が
  入り、上層は方三間、屋根は、檜皮ぶき、屋上には相輪があったらしいと予想がつきます。
  そして塔内には慈覚大師が、唐から授かってきた仏舎利はもちろん大日如来など胎蔵界
  五仏が安置されていました。昭和の大再建といわれる東塔の様式にはこの鎌倉古絵図が


延暦寺会館で買った『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』には
本シリーズでは多大なお世話になってますが、寺内の執筆によるものかと思ったら、
仏教美術史など外部の研究者などによって最初に刊行されたものを
昭和の終わりになって叡山の僧なども加わって改訂されたのが
現在叡山で売っているものらしい。

で、同書によると総持院東塔が再建される少し前に古絵図が見つかって、
それによって再建ムードが高まっていったらしいんだけど、

 【図の一部には上、下層共正方形の二重の塔が描かれていたが、上層が円形平面なら
  別に問題とすることはない。しかし上層が正方形の平面で二重の塔はあるのかどうか
  お寺でも疑問にされた。それでこのような塔の例があるものかどうか、お寺から
  筆者の方へ尋ねに見えた。私はこの型の塔は四国その他に現存し、その他の写真も


とある。

うん?
上層が正方形?

前回紹介した現地碑文には、法華総持院東塔は「重層多宝塔」とある。
多宝塔といえば一般的にはこんなで


宮島・多宝塔
       (宮島)

上層は


CIMG6664


白いふっくらした亀腹の上に、円筒形のものが乗る。
もひとつ例を挙げると、


CIMG1649
       (川越・喜多院)

上層はやっぱり


CIMG1650


こーゆースタイル。
方形の上層なんてわたくしは見たこともない。
ので古図を拡大してみると、


東塔拡大


下層の屋根の上に乗るのは亀腹じゃなく、細長い石を並べたようなもので
その上に確かに方形の建物が乗っている。
前回載せた現在の塔の写真に石部分は写ってないけど、
上層は方形になっている。
なるほどね~、古絵図を基に再建したってことか。

絵看板にある法華総持院東塔の解説は

 【古絵図によれば多宝塔を中央に、東に潅頂堂、西に真言堂を配した一堂両伽藍式で
  あったと見られます。現在の伽藍は、伝教大師が比叡山をお開きになって1200年
  たった昭和62年に、これを記念に再建されたもので、東塔(二重の塔)を中心に
  北に阿弥陀堂(このお堂は昭和12年に建立)と寂光堂、南に潅頂堂が配され回廊で
  それぞれがつながっており、およそ400年ぶりに復興されたものです。】

とある。    


さて、一番上の「鎌倉古絵図による東塔」というタイトルの解説の中に
慈覚大師・円仁が持ち帰ったものを色々と総持院に納めていたとありましたが、
ここでまた良源さんの登場です。

康保3年(966)8月27日、第18世天台座主の勅命が下りた時、
良源さんは54歳。
その頃の天台座主は年功序列的な秩序の中で選ばれることが多く、
ゆえに高齢で座主に就任することになり、必然的に座主としての期間は短かった。

数多くいる天台座主の中でも5本の指に入る著名座主である良源さんは、
どちらかというと経営者としての面に秀でていたものと思われ、
数多くの事跡を残し、叡山の発展に多大な貢献をした。
そういう彼の現実的かつ強力なリーダーシップはのちに様々な伝説を生み、
それが宗教的・霊的な元三大師信仰へと発展し、現在へとつながる。

良源さんがそれだけのものを遺せたのはそれまでの座主に比べて
格段に若い時点で座主となったからであり、19年の長きにわたって
座主の地位にあったからだった。

諸先輩を差し置いて 座主となった良源さんは、その直後から行動を開始する。    
が、彼の座主人生は波乱の幕開けとなった。


座主を拝命した翌々月、母が死去。
さらにその翌月には東塔で計31宇を焼失するという大火が起こり、
東塔の主要堂宇は灰燼に帰した。
閏8月を挟んで、座主となってから約3ヶ月目の出来事だった。

が、パワフルな良源さんは火災の当日から復興計画に乗り出す。
朝廷からは見舞いの品が届けられ、さらに翌年には援助の封戸が下賜されて
復興は順調に進んでいった。
総持院もあわせて再建された。

火災から4年後の天禄元年(970)、講堂の再建に着手し
檜皮の屋根を葺く段階になって再び総持院が火災で焼失するという不運に見舞われる。
この時、良源さんは講堂の工事を一旦中止して先に総持院の再建に取り掛かり、
宝塔を建て仮の門楼を造るということを猛スピードでやってのけた。

総持院の再焼失が天禄元年の4月20日。
翌年の4月には総持院恒例の舎利会を行い、塔供養も同時に行われた。
この手際のよさには周囲は感嘆したという。
舎利会とは、円仁が帰国後に始めた重要な法要だそうな。

総持院が再焼失した直後の天禄元年7月、
良源さんは「二十六ヵ条制式」というものを全山に布告した。
その最初の項目では、舎利会の総責任者による役職僧への饗応や
慰労の品を配ることを禁止している。
布告の時点では総持院は焼けてしまっているのに。

これについて『人物叢書 良源』(平林盛得/吉川弘文館)では、
東塔の復興という大事業がありながらも、派閥外の僧は無関係を決め込み
ロクな協力もせず華美な生活を送るなど山内は腐敗しきっており、
座主となって最初に出した制札の効果も上がらない。
こうした中での総持院の再焼失だったので、全山を率いる座主のプライドをかけて
予定通り滞りなく舎利会を行うために全力を上げて総持院の再建に取り組んだとしている。

ここからも彼の強い意思が感じられるけど、
舎利会が流派の祖である円仁さんの始めたものだったから、ということもあるだろう。


「舎利会」は最初の解説にあった円仁さんが唐から持ち帰った仏舎利に関連する
法会だけど、円仁さんが持ち帰った経典類なども最澄の関係経典と共に
総持院の根本経蔵に置かれていたらしい。
そしてそれは、円仁さん自身の意思によるものだったという。

が、天元3年(980)に円仁さんの住房であった前唐院を良源さんが再建した時、
総持院にあった円仁さんの関係経典類を前唐院へ移したそうな。
もともと総持院に移す前には前唐院に置かれていたものらしいんだけど、
でも故人の遺志に反することになる。

円仁さんが最初に横川を開いてのち、良源さんが入るまでの間
横川にはあまり守る人もなく、前唐院が管理していた時期があった。
また、良源さんの遺言の中には前唐院に関することも含まれていて
彼が前唐院を重視していたことがうかがえるので、

 【中堂とともに焼失した前唐院を再建、円仁の意思に反してまで円仁関係経典を
  集めて、この院(前唐院:ジジイ註)を慈覚派の象徴的場所としたのでは
  あるまいか。】

と『人物叢書 良源』は語る。

法華総持院の「法華」は法華経で天台の教義、「総持」は密教を指す。
六所の宝塔を企画したのは最澄で、顕教と密教の両立を表したエリアではあるけど、
円仁一派にとっても重要な場所だったようです。

『比叡山 その歴史と文化を訪ねて』によると、

 【かつて平安の昔、総持院を見た人びとがさながら浄土だと感嘆したという】

だそうな。
早めに西塔を切り上げてきたとはいえ、ケーブルの時間もあるので
あまりここには長居しませんでしたが、現在の「浄土」の残りの写真をご紹介します。


叡山2・東塔・阿弥陀堂前1



叡山2・東塔・阿弥陀堂前2



叡山2・東塔・阿弥陀堂前3



叡山2・東塔・阿弥陀堂前4



叡山2・東塔・阿弥陀堂前5


叡山2・東塔・阿弥陀堂前6



叡山2・東塔・阿弥陀堂前7


叡山2・東塔・阿弥陀堂前9




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最終更新日  2015年03月08日 21時55分16秒


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