戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2015年03月11日
XML
カテゴリ: 旅日記(近畿)
だんだん本題に近づいてきますよ~。

ユダヤ教における救い(サルヴェーション:Salvation)とは、危機に際して、
  神が必ず奇蹟によってイスラエルの民を危機から脱させたもうことをいう。

  一般に救いとは、当該宗教がめざす人間最高の状態、宗教的至福を意味する。
  仏教における救いとは、このうえなきさとりを開いて涅槃に入ることをいう。
  儒教における救いとは、聖人が天子の位に即いて理想的によい政治を行うことをいう。
  キリスト教における救いとは、神の国に入って永遠の生命を得るにある。
  イスラム教における救いとは、コーランをはじめとするイスラムの法を遵守して
  天国に入れてもらうことをいう。

  宗教は、救済単位が、救済を確信することによって成立する。そして、確信し続ける
  ことによって存立し、確信しなくなることによって亡びる。


小室氏はわかりやすい言葉で大事な部分を繰り返し説明するので、
なんとなくわかったような気にもなるんだけど、繰り返し読んでみると
やはり氏の言う通り日本人にとって予定説が相当なネックであることがわかる。

各宗教の救済単位は、ユダヤ教と儒教が集団、それ以外が個人。
ここはいいですね。

神の予定は絶対。
予定説に含まれる宗教はユダヤ教・キリスト教・イスラム教かと思いきや、


えっ?
なんで?
神がイスラエルの民を救うことを決めたんだから、予定説じゃないの!?

ここで、日本の神勅との違いを思い出してください。
ユダヤ教は「お前達が私の法を守れば」という条件が付くから、
因果律なんだそうな。

う~、難しい難しい。
内村鑑三はキリスト教についてかなり深い理解を持っていたらしいんだけど、
やはり日本人的思考が邪魔をして、予定説を理解するところまではいかなかったらしい。

日本人的思考・・・
因果応報もさることながら、日本の善悪・正不正の判断基準は

が、一神教の場合、救済は道徳とは関係なく、すべては神の選択にゆだねられる。
神は何物からも自由であり、その神が自由に定めた法に人間はがんじがらめに縛られる。


さて、ユダヤ教の基本を説明したところで小室氏の話はキリスト教へ移っていきます。
まずはパウロの有名な言から。

 「義人はいない、一人もいない。悟る者もいない、神を求める者もいない。みな道を
  迷って、みな腐り果てた。善を行う者はいない、一人もいない。」

  人間はすべて罪人であるから、もし、行為によって人間が救われるとすれば、救われる
  人間なんか、一人もいないことになる。義(ただ)しい人が救われるとすれば、
  救われる人は、一人もいない。
  では、救われる人は、一人もいないのか。
  いや、いる。
  誰か。
  神の予定した(選んだ)人びとである。
  神は、予定した人びとを救済し、義(よ)きことをなさしめたもう。



「義人」は人間的基準の善悪・義不義ではなく、もちろん日本人的発想の
道徳・倫理感によるものでもなく、「神の定めた法を守る人」のことです。
神と神の定めた法がすべての原点。

 「ところが今、律法なしに神の正義が現われた。これを証明するのは律法と預言者である。
  イエズス・キリストへの信仰による神の正義は、信じるすべての人に与えられ、
  それには差別がない。」

  いかにして義とされるか。
  イエス・キリストを信ずることによって、義しいとされる。
  その人の行為ではない。行為は、しょせんどうでもいいのである。「どうでもいい」
  どころではない。行為に関するかぎり、義しい人は一人もいない。
  しかし、行為が義しくない(法にてらして)人でも、イエス・キリストを信ずることに
  よって義しい人(神と正しい関係にある人)になれる。そして救済される。
  という福音を伝えるものが、すなわち、福音書である。


だんだん、話が複雑になっていきます。
まず、キリストのあがないによって救済される人は、彼を信じるすべての人か?
そうではなく、パウロが手紙のあて先としたローマ人信者であり、
神によってすでに予定されていたキリスト教信者なんだと。
この人たちは、行為うんぬんに関わらず無条件で救われる。
ここがユダヤ教とキリスト教の違いであり、かなり誤解を受けやすい部分のようです。

重要なのはここからですよ~。
「律法なしに神の正義が現われた」とはどういうことか?

それまでは、神が定めた法に従うことが義だった。
しかし、イエス氏はあらたな法を定めることなく、あらたな基準を打ち出した。
どうやって?
それが、判例変更。

知っての通り、キリスト教では旧約聖書を受け継いでいる。
同じものを使うならユダヤ教と同じかと思いきや、
イエスの画期的な判例変更によってユダヤ教とは別の道を歩んだ。

一つの例として、モーセが授かった法に「姦淫するな」というのがある。
イエスが生きてローマで布教していた頃、ローマ人たちはあれこれ
難題をもちかけてはイエスを困らせようとした。
で、姦淫の罪で現行犯逮捕された女をイエスのもとに連れて来た。

「先生~、この女、姦通しちゃったんですよ~。
モーセの律法だと石で打ち殺すのが決まりですけどね~。
どうしますう~?」


当時は民衆が自主的に参加して、民衆が石を投げて刑を執行した。
それは民衆の娯楽の一つでもあったそうな。

「じゃ、あなたたちの中で罪のない人が
まず石を投げなさい」


で1人、また1人と去っていき、そして誰もいなくなった・・・

それまで、死刑執行者の資格が問われたことなんかなかった。
  イエスは、まさに、その資格を問うたのである。
  これ、判例変更である。
  法律を変えるには、二つの方法がある。一つの方法は、条文の変更である。もう一つの
  方法は、判例変更である。
  イエス・キリストは、モーセの法律の条文は、一点一画も変更していない。しかし、
  「判例変更」をしてしまったのであった。

  この物語は、もうひとつ、きわめて重要な結論を下す。
  罪を犯した人も処刑されない。
  これはまことに、気が遠くなるほど重大な結論ではないのか。
  罪と刑は対応する。
  人間の外面的行動に主軸をおくかぎり、どうしてもこうなる。
  それゆえ、啓典宗教たるユダヤ教もイスラム教も、根本的経典(トーラー、コーラン)
  およびそれらの補助経典(タルムード、スンナ以下)において、必ず、罪と刑とを
  対応せしめている。

  ところが、キリスト教にかぎって、これがないのだ。
  ない、ない、全くない。
  ということは、一体全体、何を意味する。
  罪は、外面的行動によって論ずべからず。
  どうしても、こうなるではないか。


神との契約を守るには、法と法を補助する細かいルールがいる。
仏教の経典は神から与えられたものじゃないけど、それでもルールはある。
いわゆる「戒律」というやつです。

ユダヤ教とイスラム教においては、宗教の戒律と世俗の法(法律)とは同一である。
  社会規範も同一である。
  第一法源は、ユダヤ教においては、モーセ五書(トーラー)、イスラム教においては、
  コーラン。
  第二法源は、ユダヤ教においてはタルムード(教義。法学者の口伝、解説)、
  イスラム教においてはスンナ(聖行。預言者マホメットの言行と承認)・・・。

  仏教においては、仏教のルールたる戒律と世俗の法律とは全然ちがう。出家集団たる
  僧伽(さんが)の中には、世俗の法律は侵入してこない(ことになっている)。
  僧伽には、独自のルールが支配している。この点、ユダヤ教、イスラム教とはちがう。
  キリスト教には、戒律はない。法(律)もない。あれをせよ、これをするなとは、
  福音書には一言も書いてないからである。


イエスは何も言ってない訳じゃない。
ただ、姦通の女の例にあるように、外面的行動から内面の心の持ち方へ
重点をスライドさせた。
だから、戒律も法も持つことはなかった。
その結果、キリスト教は神と法律を切断した。

小室氏はこれを「政教分離」とは言ってないけど、まあそういうことだよな。
現代日本人からすると特別なことにも思えないけど、当時の社会からすると
これは大変なことだったらしい。

政教分離は近代国家発展の第一歩とも言えるだろうから、
イエスが現われなかったら世界史はもっと違っていたかもしれない。

ただ、後世においてキリスト教社会は独自の法や戒律などをあみだした。
が、それはイエス・キリストとは無関係のものだという。

イエス自身は何も命令せず、禁止事項も設けなかった。
明確なルールがない上に外面的行動による善悪の判定もしないとなると、
かなりあいまいになってしまう。

内面が基準だと、各個人の良心だけが頼り。
でもそんなの他人には判定できないから、問題行動が噴出するのは目に見えてるし
そんなことじゃキリスト教はあっとゆー間に雲散霧消してしまうに決まってる。
「白紙の刑法典」ともいうべきキリスト教の弱点を克服したのが、使徒パウロ。

パウロは、新約聖書だけでなく、旧約聖書をもまた、キリスト教の聖書として
  採用した。このパウロの決断によって、キリスト教は世界宗教として発展し得た。
  何故、旧約聖書をもキリスト教の聖書として保存したことが、それほどまで重要か。
  新約聖書は、全く法律をもたないからである。その萌芽すらない。これでは、
  教会にルールを与え、キリスト教徒に日常倫理を与えることは覚束ない。神秘教団なら
  これでもいいかもしれない。が、こんなことでは、大宗教への発展はのぞむべくもない。


ここまでが、法や戒律の世界の常識、つか認識。
次回からはいよいよ仏教に移ります。

↓ぽちっとよろしく~。

にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2015年03月11日 21時32分57秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: