戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年03月12日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
かなりお~回りをしてきましたが、諸外国の一神教における
「法」や「戒律」がいかなるものか、少し理解いただけたんじゃないかと思います。

さて仏教、ここでいう仏教は初期仏教のことを指しますが、
仏バナのあたりで書いたように、仏教のお経は「神たる釈迦」から授かったものじゃない。

仏教は因果律に支配される。
本来の仏教はインド人の苦しみである永遠の輪廻から逃れることが目的であり、
修行(行為)によって悟り(結果)を得られるもの。

この因果応報の理(ことわり)は、仏の意思決定によっても変更できない。
  いやこの理をこのうえなくさとることによって人は仏に成る。

一神教とは成り立ちも違うし、システムも違う。


 【戒とは、仏教徒が守るべき、自分を律する内面的な道徳規範である。律とは、
  僧侶(比丘・比丘尼)のみに課される戒である波羅提木叉(別解脱戒、具足戒)のことで
  あり、僧団で守るべき集団規則である。】
  (ウィキペディアより)

とそれぞれ全く違うものであり、コムロ風に言うと戒は修行ルール、
律は集団ルール。



日本における戒については 「叡山攻め(10)」 で簡単に書きましたが、
おさらいすると、鑑真以前の梵網戒は『梵網経』に基づくもので、
重いものが10、軽いものが80。
これを守ることを仏前で誓う自誓受戒のスタイルだった。


受戒の儀式も10人のちゃんとした資格を備えた僧を証人に揃えるものに変わる。
これが「具足戒」。
実際は戒を伝えるのに鑑真に先だって 道セン が来日してるんだけど、
ここではいちおう鑑真を境としておきます。


この三戒壇で具足戒を受けて初めて正式な僧の認可がおりる。
「奈良仏教は国家仏教」という安直な言い方には最近疑問を持つようになりましたが、
ともかく具足戒を受けて国家の承認を得ることが
日本での正式な僧侶のステップだった。
もちろん、最澄も 東大寺で具足戒を授かっている。

のち、最澄が唐に渡った時、通訳として同行したのちの初代座主・義真は
唐の本場で具足戒を受けている( 「叡山攻め(72)」 参照)。

鑑真の戒壇設立によって、それまでの梵網戒は出家・在家の区別なく受けるもの、
一方の具足戒は出家者が受けるもの、となった。

浄土院以降、「最澄は晩年に大きな夢を抱いていた」と何度か書きましたが、
その夢というのが、叡山に戒壇を設立すること。

中国にも日本にもいちおう小乗仏教は入ってきたみたいだけど、
やはり栄えたのは大乗。
それなのに、戒は仏教伝統の小乗の戒を用いていた。
小乗の戒イコール、具足戒。
最澄はこれに異議を唱えた。

じゃ叡山に何の戒壇をつくろうとしたのかとゆーと、
もとの梵網戒(菩薩戒)。
天台大師・智ギは菩薩戒を重要視していたらしく、最澄は唐で道邃(どうずい)から
円教(円満な教えの意で、究極的な完全な教え)の菩薩戒を授かっている。
菩薩戒は大乗戒とも言われ、最澄は大乗戒壇の設立を目指した。

最澄が大乗戒壇を造ろうと思ったのは、もちろん天台僧としての
思想に基づくものでもあるだろうけど、そのほかに現実的な問題もあったからだった。

最澄の歴バナの後半で、法相宗と三論宗の争いに対して
朝廷があれこれと口を出していたのを覚えてますか?
宗派の争いは新興勢力の天台宗に対しても向けられた。

当時、叡山の僧も最澄のように東大寺へ具足戒を受けに奈良へ出向いていたが、
あちらに行っている間に法相宗などに引き抜かれて帰ってこない天台僧もいたそうな。
せっかく度者を得て人材を育てても、これじゃ何にもならない。
そういうこともあってか、独自の戒壇を持つことを考えるようになる。

梅原猛氏はこのあたり、

 【最澄が三師七証という多くの戒師による数多い戒を否定したのは、そのような戒を
  厳しく守る人間が当時の世の中には甚だ少ないと感じていたためであろう。最澄は
  末世の世に厳しく戒を守る僧を探すのは町にいて虎を探すようなものだといって
  いるが、戒を守らない堕落した南都の戒師によって授けられた彼自身の戒に
  疑念を感じていたのであろう。】
  (『京都発見 比叡山と本願寺』新潮社より)

と語る。

梅原氏といえば、独特の視点と独創的な推測で人気の高い方ですが、
その氏がこんな軽々しい文章を書いていることに少なからず驚きました。
もちろん、「堕落した南都の戒師」の背景には道鏡の愛人説があります。
なら、道鏡の愛人説が崩れればこの文章も崩れるのか?とちょっと、いやだいぶ
苦々しく思って読んでおったのですが、まあ、それはともかく・・・


お釈迦様が生きて説法をしていた時は、直接の教えを受けたラッキーな弟子たちは
ぼろぼろと悟りに至っている。
じゃあ、お釈迦様が死んだらもう悟りは開けないのか?

もちろんそこで諦める訳にはいかないので、皆でお釈迦様のエピソードを持ち寄って
あれこれ議論しながら言行録(お経)をまとめ、律蔵・経蔵・論蔵の「三蔵」が出来上がった。
以後はこれを基にして修行に励み、僧伽(サンガ)での規律正しい生活を送った。
ただ、ルールの中には当然インドならではのものもあり、
それが考え方も気候風土も生活習慣も違う中国に入った時、中国人たちはとまどった。

それでも、熱心な仏教徒は本場の戒律を理解し持ち帰ろうとして、
玄奘やら法顕やら義浄やらが熱砂の砂漠を越えてインドへ渡っていった。

仏教において、戒律は、その本質である。

菩薩戒も、決まり事を定めた戒ではある。
が、わたくしの職場なんかでも何か新しいことを始めようとする時、

え、じゃあこーゆー場合はどーするの?
こんなのが出てきたらどーすんの!?


というあれこれ細かい疑問が湧いてきたりするものですが、
あまりに戒が少ないと抜け道は沢山あるし、そういうことを吟味した上で
男は250、女は348という

覚えられねーだろ!!

って数の戒ができたという歴史がある。
それを、最澄はあえて旧来の形に戻そうとした。


戒をきっちり守れば、誰でも悟りが開ける訳じゃない。
戒に頼らず悟りに至れるのなら、それにこしたことはない。

でも凡人には自力で悟りを開くなんてことまず無理だから、
とりあえずお釈迦様の歩んだ道を追いかけるのが幾分近道。 
小乗戒はお釈迦様が逐一定めたものじゃない。
けど、ともすればルーズになりがちな人間にはやはりきちんとしたルールは必要。
大乗が生まれ大幅に路線変更したとはいえ、「悟りに至る」という最終目標は
「仏教」を標榜する以上、(いちおう)変わってない。

のちの日本では「浄土」の人気が高くなるけど、実は浄土はゴールじゃない。
大乗の仏の救いによって浄土に入れれば、より悟りを開きやすくなるってだけのこと。
宗教にうとくなった現代人は浄土=極楽=天国と思ってる人が多いかもしれないけど、
後世の創作である大乗のベールをはぎ取ると、仏教本来の「悟りへの願い」は
厳然と生きている。

日本に三戒壇ができた後も、菩薩戒は具足戒と併存していた。
菩薩戒の成立過程については不勉強ゆえに詳しいことはわからんのですが、
そもそもは大乗ができた時にもとの在家向けの戒をよりシンプルにして
一般の信者にもどうにか守れるような形に整えていったものじゃないかと思う。

が、在家と出家者とは違う。
お釈迦様はあくまで出家主義であり、ゆえに出家向けの戒は
在家向けよりはるかに厳しいものだったという。
出家向け修行システムを踏襲して流布したのが具足戒。
そこには大乗も小乗もない。
出家者が在家より厳しいルールを守らなきゃいけないのは当然のことだろう。


しかし、最澄はせっかく受けた具足戒を自ら捨てた。
そして大乗戒壇設立に向けて次々と著作を上奏。
光定 が朝廷との折衝に奔走した。

当然、南都の仏教界は激しく反発した。
光定が何とかして戒壇設立の勅許を得ようとして頑張っても、

「う~ん・・・
もうちょっと待って?」


と言われるばかりで、なかなか許可は下りなかった。

 【最澄は病床で、「大乗戒壇」設立がかなわなかった無念を述べる一方で、「我、鄭重に
  この間に託生(たくしょう)して三学を習学し、一乗を弘通(ぐずう)せん」とも
  語っている。この意味は、何度でも生まれ変わり、今生でかなえられなかった大乗仏教の
  国を建設してみせる     つまり、「大乗戒壇」を設立してみせると、執念をあらわに
  した。】
  (『あなたの知らない最澄と天台宗』山折哲雄監修/洋泉社より) 

弘仁13年(822)6月4日、夢見ていた大乗戒壇の設立を現実に見ることなく、
最澄はこの世を去った。
そのまま放置プレイが続いたら、

戒壇造らせてくれないから、ボクが怪談
やるハメになっちゃったよ~。
うらめしや~~~・・・


て化けて出てきたかもしれない。
しかし、光定が最澄の死の報告とその遺志を伝えに宮中に出向いて
藤原冬嗣らの有力者に訴えた結果、死後1週間めの6月11日、突然勅許が下りた。

まあ、もうちょっと早く何とかしてあげれば・・・と誰もが思うところだけど、
最澄の死ぐらいの大きなきっかけでもなければ実現困難だったのかもしれない。

こうしてできたのが、叡山にある戒壇院。
叡山が「日本仏教の母胎」といわれるのは、叡山で学んだ僧たちが
それぞれ独自の主義主張をかかえて新仏教を開いていったのが主な要因だと思われるけど、
それよりもこの大乗戒壇こそが日本仏教・・・いや、「日本教」の成立を許した
最も大きな要因だろうと思う。

最澄自身はまさか何百年もたって日本の仏教があんな形で発展するとは
夢にも思ってなかったんじゃないかと思うんだけど、
ともかく最澄という一人の僧の大胆な夢は日本における仏教に新たな道を開き、
良くも悪くも日本の仏教の発展に大きく寄与した。

ある面では最澄の期待以上の成果を挙げ、ある面ではさすがに

「ええ~、そうくる!?
そ、それはちょっとどんなもんだろうか・・・」


と言ったかもしれない。


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最終更新日  2016年01月22日 22時54分47秒


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