戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年03月14日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
250もの戒(女は348)を律義に守ったところで
悟りを開ける保証なんてないのに、もっと数の少ない梵網戒に戻すなんて、
最澄は何を目指していたのだろうか。


最澄法統


これは最澄の歴バナの最初で載せた法統の略図ですが、
鑑真も道センもともに天台を学んでおり、鑑真の後継者とも言うべき法進は
唐から持ってきた天台教疏の写本を広く許した り、 法進の著述が最澄の願文に
影響を与えた可能性がある
という方。

梵網戒はハードルが低いゆえに、天皇の死や仏事に伴う大法要に参加させるための

が、そうして僧となった者たちには色んなのが混ざっており、
そういうレベルの低い僧を軽蔑する向きが具足戒の輸入を図ったともされる。

授戒師として来た渡来僧によって日本に本格的な具足戒の戒壇ができたのに、
最澄はそれに真っ向から挑戦したようにも見える。
でも最澄は『長講法華経式』の中で天台大師・智ギやらの偉大なる先人たちの名とともに
鑑真・法進の名をも挙げており、

 【最澄が鑑真・法進の師弟に対して特別な意識を持っていたことは間違いない。】
  (『奈良仏教と古代社会』冨樫進/東北大学出版会より)

という。

同書は難しくてなかなか南都仏教についての勉強は進んでおりませんが、
(難しすぎてとりあえず)拾い読みしているうち、興味深い記述を見つけた。


  その師鑑真と共に一体化され、常に最澄の脳裏を離れることがなかったのではないか、
  と考えられるのである。もしこのような推測が正しければ、最澄は授戒制度の面に
  おいては(鑑真・法進によって確立された)南都戒壇の否定・離反という方向に
  進むものの、天台教学の法統及び「大唐」護国仏教の移植という側面においては
  鑑真と法進の業績を常に意識すると共に、自らもその継承者であることを自覚して

  (前掲書より)

最澄が大乗戒壇の設立を目指していた頃、
南都六宗の中で相変わらずの勢いを持っていたのは法相宗であり、
そのトップにいたのは護命(ごみょう)。

この方は19歳の時、法進から沙弥戒と儀制を受けており、
その翌年に具足戒を受けるために再び法進のもとを訪れた。
この時、護命は法進から

最近のヤツぁ、今日沙弥戒を受けたと思ったら
明日具足戒を受けに来るようなのばっかりだ。
なのにお前はこうしてきちんと順を追って来た。
えらいぞ、えらいぞ・・・


というお褒めの言葉をもらったそうな。
そういう方だったから、法相宗をしょって立つ立場になった護命の中にも
法進の後継者たる自負があったのではないかと冨樫氏は推測する。

 【最澄と護命とは、鑑真一門を理想視する立場にあったという出発点において
  共通していた。しかし、最澄は最新の唐仏教の移植者という面を継承することを
  志す一方、後者は鑑真らによってもたらされた唐仏教の墨守者たることに価値を
  見出したが故に、結果的には日本仏教史上に残る大規模な論争が行われることと
  なった。】
  (前掲書より)

この新しい視点には少なからず驚いたものの、
当然のことながら歴史というものは絶えずつながっている。

何か新しい流れが始まった時、教科書のように文字制限がありすぎるものだと
「誰々が出て何々をした」なんて風に突然歴史の表舞台に登場したような表現になる。

が、プレートが少しずつ沈み込んでいく時に長い時間をかけて力が蓄えられて
それに耐えきれなくなった時、歪みを治そうと一気に力を解放して
大きな地震を起こすように、歴史にも流れが変わっていく準備期間というものは必ずある。

時代の区切りというのはあくまで便宜的なもので、
奈良仏教と平安仏教の間がブツ切りになってる訳じゃない。

ので、冨樫氏の解釈を受け入れた方が日本仏教の過渡期のひとつの要素を
少し消化できるような気がした。

冨樫氏の説によれば、最澄と護命は方法論が違っていただけということに
なると思うけど、「唐仏教の移植者」というのは、
最澄が入唐したことにプライドを持っていたらしいことを指すと思われる。

最澄という人はまっすぐなだけにちょっと世渡りベタというか不器用というか、
南都仏教界から色々と反発をくらった時、

「唐に行ってもいないアンタ達が
なんでそんなこと言えるワケ!?」


ぐらいの勢いで反論したりしている。
ただ、入唐という外的な面だけじゃなく、精神面での連続性らしきものも
うかがえるらしい。


『日本霊異記』の著者・景戒は最澄と同時代の人ですが、

 【『霊異記』所収の各説話は、法会等の現場において教理や経説、道徳規範などを
  教えるという「唱導性」を有しているとされる。そうだとすれば、『霊異記』所収の
  各説話において説かれる内容とは、その場の聴衆の教学的知識や関心の程度に
  大きく影響を受けることになるはずだ。このように考えると、「迷盲を懐き罪福を
  信(うべな)は」ざる「愚癡なる類」をも享受層の視野に入れて編纂された
  『霊異記』所収の説話と同一の構造をもつ法進の『梵網経』『威儀経』註釈とは、
  当時の日本における在家信者の教学的知識の水準や仏教に対する期待に即した、
  極めて現実的な内容をもつものであったと評価することができるだろう。】
  (前掲書より。出典は割愛)

かたや現代の私達でも読みやすい平易な説法集、
かたやお経の註釈というまったく異なるスタイルの景戒と法進の著作に共通するもの、
それは大乗の真髄ともいえる衆生の救済だろうと思われる。
そして法進と最澄の思想に直接の接点は見いだせないものの、

 【ここで筆者が重視したいのは、あらゆる衆生の救済の可能性について言及する最澄の
  思想と法進の戒律観とが同一の構造を有しているという事実そのものである。なぜなら、
  この事実は法進の戒律観が(少なくとも理論上は)あらゆる衆生の成仏を保証する、
  万人に対して広く開かれた内容をもっていたことを示しているからである。

  以上の点をふまえると、景戒や最澄によって採用された「(当面の目標としての)方便の
  果報を経て、真実の果報へ」という構図は、(相互の影響関係があったか否かという
  点は別として)奈良時代末期から平安時代最初期における仏教的救済論の一つのモデルと
  して一種の普遍性を有していたと考えられる。そのようなモデルが、両者の前世代に
  相当する法進の段階において既に発生の兆しを見せていたという事実は、奈良仏教から
  平安仏教への思想的な流れを考える上で見過ごすことのできないポイントである。】
  (前掲書より)

法進が鑑真とともに来日した頃は孝謙天皇が一旦退位して、
淳仁天皇が帝におさまっていた時期。
桓武の前の時代にあたる。

ちょうどその頃、藤原仲麻呂の乱などもあって
山林修行禁止令が出されている。
その後の桓武の時代では、「勝手に説法して愚かな民衆を惑わすな」といった内容の
勅が何回も出されている。

ただでさえ平安直前の南都仏教界は堕落したというイメージが一般に先行しており、
そのうえ僧が具体的に民衆にどんな説法をしていたのか逐一書き留めたものなんてのは
残ってないから、正史だけを見てるとアヤシゲな呪術を使ったりして
いかがわしい説法が行われていたのカモ、という想像も湧いてくる。

しかし、『霊異記』に見るようなそこそこまともな説法が行われていたとすれば、
確かに救われるべき民衆のことを考える僧もそれなりにいたということになり、
冨樫氏の言うようにレベルの低い民衆向けの救済というテーマが
ひとつの大きな流れを作りつつある時代だったのかもしれない。

それは一種の普遍性を持ちつつ、地道な活動として行われていた。
それを格別思いきった、現実的かつ大々的な方法として打ち出したのが
最澄の大乗戒壇設立なんじゃないかという風に思った。


小室氏の『「天皇」の原理』をかいつまんでまとめていた時、
具足戒と大乗戒の関係はキリスト教における旧約聖書と新約聖書のそれと
少し似ていると思った。

とは言っても、大乗戒は福音書のように「白紙の刑法典」ではないし、
最澄は別に戒をないがしろにしていた訳でもない。
イエスの判例変更ともまた違うものではあるけど、
戒のハードルを下げて門戸を広く開放し、イエスのように内面重視にスライドさせた、
という風に考えることもできるのかな、とも思った。

原始仏教では、必ずしも戒がメインではなかった。
が、悟りへの極意を伝えることのできるお釈迦様が死んだ後は
戒という形式にのっとって修行を積んでいく以外に方法はなかった。
その時点で小室氏の言うように戒が仏教の本質へ昇格したものだろうと思われるが、
仏教の戒は「戒=法=神から授かったもの」という点ではユダヤ教などと異なるものの、
戒を守らなかった場合の厳しさにおいては同じ。

具足戒では、違反者への罰則でもっとも重いものは僧籍の剥奪であり、僧伽からの追放。
これをくらうと、もう二度と復帰はできない。
が、大乗戒では大ざっぱに言って本人が真摯に反省すれば復帰は可能だそうな。
これでは罰則規定はないも同じ・・・
その点ではイエスの判例変更と似てもいるけど、パウロは旧約聖書を採用することによって
戒の厳しさも残した。

日本で具足戒が正式なものとされた頃は、いわば旧約と新約をセットにした
キリスト教のようなものだった。
その例えで言えば、最澄が行ったことは旧約を取り払ったようなもの。
これは、最澄の願文に見える『解脱の味独り飲まず、安楽の果独り証せず、
法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく妙味を服せん。』という
目的に基づくものだったと思われるものの、ハードルを下げた分、
さまざまな解釈の余地を残した。
これがのちに日本新仏教を生み出すことになる。

その後の展開を見ると、何が良くて何が悪いとかってことはもう言えない。
そもそも外国の戒のような、「戒(法)にてらして判断をする」というような
明確な基準はないんだし。
ファジーな日本人にぴったりのシステムを最澄が作り上げたとも言えるんじゃないかな。

最澄がその死をもってもぎ取った大乗戒壇の設立は、
一方では驚くべき方向へと進化し、その進化によって仏教が日本人の心に深く深く根ざした。
平安時代も仏教はすでに民衆へ浸透してはいたけど、
本格的に庶民の生活レベルにまで根ざし、ついには日本人の遺伝子に
刻み込まれたんじゃないかというくらいにまで染み込んだのは、
やはり鎌倉の新仏教以降じゃないかと思う。

だから、叡山の戒壇院は仏教界だけじゃなく、
日本人にとって重要な場所でもあるのだ。


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最終更新日  2015年03月14日 18時56分33秒


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