戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年08月28日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
では、土塁へ上がりま~す。


叡山4・山科中央公園6


上から見下ろしたところ↓。


叡山4・山科中央公園7


結構高い。
この土塁は位置的には内寺内の北東側にあたり、
この外側にある外寺内と接している土塁のうちちょうど真ん中ら辺にある。
つまりはこの土塁は内寺内と外寺内を分けるもので、高さは7m。
ここの土塁はどうか知らないけど、発掘調査の行われた御本寺西側の残存土塁からは


土塁の上は整備された道が続いていた↓。


叡山4・山科中央公園8


土塁には何箇所か階段が取り付けられている↓。


叡山4・山科中央公園10


中にはこんな大木が土塁に長く根を垂らしていて↓
過ぎ去った年月を思わせる。


叡山4・山科中央公園11



叡山4・山科中央公園12


現在残っている土塁はごく一部なので、
遊歩道をテケテケ歩いているとすぐ終点に着いてしまう。
降りて土塁の断面を見たところ↓。


叡山4・山科中央公園13



山科本願寺では各郭の境は厳密に区分けされていたそうだけど、
土塁の上部は結構広いし高さも寺とは思えぬ規模を誇っているので、
単なる外寺内との境というだけでなく、この上に隅櫓のような施設を置いて
防御のみならず攻撃にも使える造りとなっていたんじゃないかと推測されているらしい。

ここからは土塁の北側にある自由広場を抜けて土塁沿いに公園入口まで戻る↓。


叡山4・山科中央公園14


すると、さっき見たすごい根っこの木の下に出た↓。


叡山4・山科中央公園15


根が浮いた部分にはギリ小さい人が入れるぐらいのうろができていた↓。


叡山4・山科中央公園16


今回わたくしが歩いたのは山科中央公園の3分の1程度のエリア。
それでも、疲れていたせいもあってそこだけでも広いと感じたのに、
公園全体はもっと広い。
それだけ広い公園でも、内寺内のほんの一部。
御本寺・内寺内・外寺内の連続した郭を合わせると
山科本願寺が大変な規模を持っていたことがよくわかる。 


よし、これで山科でのお目当てはゲットした
もう14時を過ぎている・・・
そもそも出発したのが遅かったからな。
スープジャーで調理したお昼を宿に置いてきてるんだけど、
あまりの疲労と空腹に公園入口にある遊具広場に座って手持ちの食料で小腹を満たす。

帰りは来た道をそのまま戻っていったが、
大丸に連結しているスーパーに寄っていった。
1日目の食料を買いにここのスーパーの食料品売り場に行った時、
ブリの刺身があって買って帰って宿で食べたら美味しかったので、
もういちど食べておこうと買いに寄ったのだ。

うちの方ではブリの刺身ってあまり見ないんだよね。
史跡めぐりを始めて間もない頃、冬に京都市中心部の戦国関連の史跡を回ったんだけど、
その時も晩メシに「ぶりしゃぶ」を食べに行って美味しかった。
京都市は海から離れてるけど、「鯖街道」があるくらいだから
関東に比べて日本海の新鮮な海の幸が手軽に豊富に手に入るのだろう。

ま、この時はブリの他にもケーキとか色々買った気がするけどね。
旅先で疲労が限界を超えると見境なく大量に食べるのはわたくしの悪いクセですが、
もうこうなってしまった以上は仕方ありません。
(そう言って毎回同じようなことを繰り返す)


して、ヘロヘロになって東山へ戻る。
これが地下鉄東山駅のすぐ東にある白川の流れ↓。


叡山4・白川


前日の夜、宿替えした時は明智光秀の首塚を横目に見つつ
この川沿いを祇園に向けて歩いていきましたが、
今度は三条通りをもう少し東に進んで別の道から入る。
と、三条通り沿いにはこんな石碑があった↓。


叡山4・龍馬結婚式場跡


これの側面↓。


叡山4・龍馬結婚式場跡2


 【当地は青蓮院の旧境内で、その塔頭金蔵寺跡です。元治元年(1864)8月初旬、
  当地本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は「内祝言」、すなわち内々の結婚式をしました。
  龍馬とお龍(鞆)の出会いや「内祝言」の具体については、1899年(明治32)
  ごろに聴きとられた、彼女の回想に詳しい。お龍(鞆)は1906年まで生きていました。
  一般には、慶応2年(1866)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは
  中岡慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれます。が、この話は
  根拠が薄く、他の史料との検討からお龍(鞆)の話こそ信用すべきだと思われます。

  この地が選ばれたのは、お龍(鞆)の亡父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であった
  ためでしょう。その縁により金蔵寺住職智息院が仲人をつとめました。
  当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のおきたあとで、京都は物情騒然でした。
  しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。
  龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍(鞆)を寺田屋などに託します。二人は
  ながく別居夫婦だったのです。
  当地を京都における龍馬とお龍(鞆)の重要史蹟として、ここに建碑します。

  歴史地理史学者 中村武生】
  (現地案内文より)

ほ~、龍馬とお龍(りょう)は結婚式を挙げていたのか。
それに、父親が青蓮院宮の侍医だったとは知らなかったな。
で、この先の道を南に入っていきます↓。


叡山4・粟田口


知恩院や祇園へ行くのに東山駅から歩いていく人はそういないかもしれないけど、
同じ方向へ向かうにしても観光客は白川沿いを歩いていく人が多いらしく、
この道はあまり観光客は歩かない。
その分、静かでゆったりと雰囲気を楽しみながら歩くことができるので
わたくしはこちらの道の方が好きで、駅との往復にはほとんどこの道を使いました。

さて、歩いてすぐの場所にあるのがこちら(場所は このへん )↓。


叡山4・粟田口2



叡山4・粟田口3


 【粟田口(あわたぐち)

  粟田口とは、三条通(旧東海道)の白川橋から東、蹴上付近までの広範囲に渡る
  地名である。この付近は奈良時代以前から開かれた土地で、粟田氏が本拠とし、
  粟田郷と呼ばれていた。平安京ができると、東国との交通の要衝あるいは軍事上の
  要衝にあたることから、やがて粟田口(三条口)と呼ばれ、京の七口の一つにも
  数えられた。

  鎌倉・室町時代にはここを通って馬借(ばしゃく)や車借(しゃしゃく)など
  運送業者が物資を運んだ。江戸時代には東海道五十三次の西の起点、三条大橋を
  間近に控え、人や物資の往来で一層にぎわった。またこの付近には、平安時代の末以降、
  刀鍛冶(刀を作る職人)たちが住居を構えていた。中でも、童子に化けた狐に鍛冶の
  手伝い(相槌)をしてもらい名刀「子狐丸」を打ったという伝説が残る刀匠・
  三条小鍛冶宗近が有名である。江戸時代の元和年間(1615~1624)には
  瀬戸から焼き物の技術が伝えられ、「粟田焼」と呼ばれる陶器の産地になった。
  この右手にある門跡寺院・青蓮院は「粟田御所」とも呼ばれている。】
  (現地解説板より)

と、これが 山崎の戦い後に明智光秀の首がさらされた という粟田口を示す石碑ですが、
「京の七口」は秀吉が天下を取って洛中に御土居をめぐらしたのと
セットでできたんだから、光秀の首がさらされたのは必ずしもこの付近という訳では
ないのかもしれないな・・・と思ったら、『京都時代MAP』(光村推古書院)に
こんな記述があった。

 【洛中と洛外の出入り口として、秀吉が御土居につくった「京の七口」。しかし
  室町以前から、すでに京都と諸国を結ぶ街道の出入口には「口」があった。
  その数は七に限らず、「六口」とも「十口」ともいわれ、一定していない。
  実際には十数か所あり、どの口を取り上げるかは時代や解釈で変化するようだ。】

ふむ、元々「口」があちこちにあったのなら、京の中心部から見て
天然の堀ともいえる鴨川のすぐ東側にあるこの付近にも
御土居ができる以前から「口」があった可能性は高いよな。
であれば、「粟田」の地は結構広いので場所は多少ズレるかもしれないけど、
やっぱりこの近辺で光秀の首がさらしものにされたのかもしれない。



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最終更新日  2015年08月28日 23時14分47秒


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