戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年08月26日
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カテゴリ: 旅日記(近畿)
この鐘楼は本堂の向かい側にあったんだっけかな(←覚えてない)。


叡山4・東本願寺山科別院18



叡山4・東本願寺山科別院19



叡山4・東本願寺山科別院20


すごい派手~。
これだけデコラティブな鐘楼にお目にかかることはめったにない。
もちろん、世間にはこれでもかってぐらいの派手な鐘楼もあるけどね。
わたくしになじみ深い、あの系列の寺社とかね。

ここへは蓮如の像がお目当てで来ただけなので、別院はこれで終了。



叡山4・東本願寺山科別院21


アハハハ、境内のこういう注意書き、これまで何度見てきただろう
いや笑っちゃいかんな、文化財の保護も大変だ。
で、これが入ってきた門を外側から見たところかな↓。


叡山4・東本願寺山科別院22


しかし、ここまで南下してきたのは別院がお目当てだった訳じゃありません。
この近くには西本願寺の別院もあるんだけど、体力不足でパス。
東本願寺の別院あたりはかつての山科本願寺の外寺内域にあたるらしく、
安祥寺川から離れて外寺内をさらに南下すると、こういう場所が現われます↓。


叡山4・蓮如廟2


これが第1のお目当て、蓮如廟の入口(場所は こちら
入口には大きな灯篭も立っている↓。


叡山4・蓮如廟3

入口からそのまままっつぐ進むと奥に御廟がある↓。


叡山4・蓮如廟4



叡山4・蓮如廟5



叡山4・蓮如廟7


筋塀 は5本ライン↓。


叡山4・蓮如廟6


叡山4・蓮如廟8



叡山4・蓮如廟9


叡山4・蓮如廟13



廟所の中には立ち入れませんが、塀の格子がどうぞご自由に覗いてくださいと
言わんばかりの間隔だったのでお言葉に甘えて中を覗き見↓。


叡山4・蓮如廟10



叡山4・蓮如廟11


あそこに蓮如さんが埋まっておられるのだな。
中興の祖にしてはシンプルな造りだけど、大きな石を使った石組は
組み方はスカスカなので当時のままじゃないのかもしれないけど、
なかなか風格がある。


叡山4・蓮如廟12


蓮如は74歳の時に隠居してこの地の南殿に住む。
ただ、隠居といってもホントに隠棲してた訳じゃなく、
のち石山に御坊ができてからは布教のために精力的に石山と山科を往復していたらしい。
前回紹介した、大坂城趾に残る袈裟懸けの松の解説では明応8年(1499)まで
石山に住んでいたとあったけど、石山と山科の両方にそれぞれ一定期間
滞在していたってことなんだろうな。

そして隠居から10年後の明応8年山科へ戻り、そこで没。
享年84歳。
長い人生の旅路では4度妻に先立たれ、生涯で5回結婚。
なした子は総勢27名。
実にタフなご生涯であられました。

蓮如は土葬ではなく荼毘に付され、骨を拾ったあとに残った灰や土を
信者たちは争って持ち帰ったという。
まあ、球児たちが甲子園の土をすくって持ち帰るようなカンジ?

日本仏教の各宗派には中興の祖がいて、それぞれタイプは異なるものの、
鎌倉新仏教に多いのは布教の天才タイプなのかな。
ただ、そうした人達は当初尖鋭化していた宗派の教義を大なり小なり変えて
より受け入れやすい形としたりして教線を拡大した。
それの是非はともかくとして、そういう史実を経て日本仏教は生き残っている。

日本天台宗の場合、教義的な面での中興の祖は円仁さんになるんじゃないかと思うけど、
堂宇の復興・整備や制度の刷新などのどちらかというと外的な面での中興の祖は
文句なく良源さんだろう。
円仁さんも後世ではかなりのカリスマとして崇められたけど、
良源さんのカリスマ性たるや、それはすさまじいものがある。
だって、慈恵大師の名を知る人のほとんどがまず思い浮かべる姿といったら、
もはや人間のナリをしてないんだからね

時として良源さんへの信仰が宗祖・最澄を上回るほどのものだったことは
ここまでの記事で書いてきてますが、遠い昔の宗祖よりも
身近でその時代に合った整備をした中興の祖に人気が集まるのは
人間として素朴な感情だろうという気もする。

まあ、同時代の人にとって真宗内で親鸞よりも蓮如の方が人気が高かったかどうかは
わたくしは知りませんが、蓮如もかなりのカリスマ性を発揮していたとは
言えるんじゃないかな。



ここはだだっ広い感じで外寺内のはずれにあたる場所のようだけど、
廟所域の隅っちょには「これ土塁か?石垣の名残か?」てな盛り上がりがあった↓。


叡山4・蓮如廟14


廟所を出て、お隣の山階小学校との間にある細い道を西に進むと、
廟所のすぐ裏を流れる安祥寺川がある↓。


叡山4・山科中央公園


右手の5本ラインの筋塀に囲われているのが御廟所。
川を渡って道なりに北上するとすぐに現れるのが山科中央公園(場所は こちら )。
公園入口には園内の絵図がある↓。


叡山4・山科中央公園3

真ん中にでーんとあるのが多目的広場で、その右上に描かれてるのが
ここでの第2のお目当て。


叡山4・山科中央公園4


山科本願寺の中心部「御本寺」は文字通り寺の心臓部ともいえる堂舎が建ち並んでいた場所で、
ここより南西にあり、国道1号線をはさむ南北のエリアで現在ではほとんどが住宅地。
南の方にはお店や工場などが建っている。
そのメインエリアを取り巻くように御本寺のすぐ外側にあるのが「内寺内」で、
本願寺トップの家族や家臣たちが住む居住空間。
内寺内の北東にぽこんと突き出たエリアが職人や商人などの町衆の住む「外寺内」。
城風にいうなら、御本寺が本丸で内寺内が二の丸、外寺内は城下ってカンジですかね。

公園内に残る山科本願寺の貴重な遺構は、内寺内の北東にある外寺内との境目の位置に
あたるらしい。
立派な「城」だよな。

ウィキペディアには

 【天文元年(1532年)の『経厚法印日記』によると「山科本願寺ノ城ヲワルトテ」と
  記載が見受けられることから、当時より城として呼称されていた。】

とあり、

 【『戦国の堅城』には「山科本願寺が本格的に城郭化していったのは実如と証如の時代で、
  天文元年の焼き討ちに近い時代に完成されたのではないか」と記されている。】

ともあるけど、まあそりゃそうだろうな。
ただ、石山にいた蓮如が明応8年2月に山科へ戻ってきたのは
死期を悟ったためだといい、戻ってからは周囲にある土塁や堀を
見回ったともいうから、のちの本格的城塞へ発展する前の蓮如の段階でも
城ちっくな体裁はすでに整いつつあったといえるのかもしれない。

隠居した蓮如が住んだといわれる「南殿」はここから少し東に行った場所にあり、
山科本願寺の遺構として国史跡の指定を受けている。
して、ここ山科中央公園の「御土居」は南殿の附(つけたり)として
これまた国史跡の指定を受けている。

が、残存状況はイマイチなものの土塁の遺構はここだけではないらしく、
たとえば御本寺の西、現在は住宅地になっている付近にも土塁の下部が残っており、
発掘調査も行われているそうな。
京都市の発掘調査報告によると、御本寺西側の内寺内とを隔てていた土塁は
郭の内側からは4m、外側からは5mの高さを持っていたそうで、
高い土塁の内部に堂宇が建っていた様子を想像すると、
いかにも本願寺ィィィ~って感じィィィ~。



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最終更新日  2015年08月26日 23時43分33秒


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