戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年10月06日
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直弼が16歳の時、父の直中が亡くなり、城内の再編成が行われた。

300俵の「捨扶持」を与えられて埋もれて暮らす直弼の不遇の時代の開始、
というのが一般的な見方じゃないかと思うけど、
『井伊直弼のこころ-百五十年目の真実-』では

 【これは、千石から三百石の武役席の藩士、すなわち上級藩士に相当する生活を
  保証されていたと考えられます。】

と表現している。
なるほど、そういう言い方もできるのか・・・



  ざつ事もうきも聞かじや埋木の うもれて深きこゝろある身ハ
  (世の中の雑事も憂い事も聞くまい。深く埋もれた埋もれ木で、風雅を愛し、
   もののあわれを知る我が身であるのだから:訳は前掲書より)

と人に説明してきたと言っている。

兄である藩主にはすでに養子(これも直弼の兄)がいる。
ただ、井伊家では5・6・9代の藩主が就任後早々に亡くなって
存続の危機にさらされたことがあったそうで、世子の兄のさらなるスペアとして
生きることになった直弼は、風にも雪にも折れない強くしなやかな柳に
自分を重ね合わせてもいたそうで、埋木舎の玄関先に植えられた柳を見つめつつ、
和歌・国学・居合・兵学・茶の湯などの文武諸芸に取り組み、
柳のように強くしなやかに自分を鍛えていったという。


直弼は一本気というか凝り性というか、居合でも茶でも一派を立てている。
茶に関しては各種茶道具なども自作するという凝りようで、
以前彦根城の番組を観ていた時、井伊のお姫様が登場して
お茶の師範か何かをされているって話だったけど、
直弼の遺したものは現在も子孫に大切に引き継がれている。


少年の頃から禅にも親しみ、それが根底にあるのではないかという。


そういう日々を重ねた直弼に、ある時養子の話が舞い込む。
ただ、直弼をご指名という訳ではなく、弟も同時に候補に上がっていた。
縁組の相手は親戚にあたる延岡藩主の内藤家。
ここで初めて19歳の直弼は弟と共に江戸に向かう。

この縁組に直弼が期待をかけていたかはわからないけど、
結局養子に選ばれたのは弟の方だった。

しばしの江戸滞在ののち、彦根に帰って元の暮らしに戻った直弼だったが、
24歳の時に扶持が300俵から500俵へ加増され、奥向が置かれることになった。
家庭を持った2年後、直弼にまた転機が訪れそうになる。
今度は井伊家とも関係の深い長浜の寺の住職になるという話だった。
これは住職の座が空いたための話で、寺の方では直弼を住職に迎えたいという
申請を藩に出したものの、結局認められることはなかったそうな。

部屋住みのまま、ヘタしたら一生日陰の身かもしれない直弼に2回チャンスが訪れ、
2回とも実を結ばずに終わった。
その時点では直弼もガッカリしたかもしれないけど、
もしどちらかの話がまとまっていたらそれこそ本当の「埋もれ木」に
なっていたかもしれないんだから、人生というのはわからない。

埋木舎で妻を迎え、最初の子供は夭折したらしいが
次子が生まれた弘化3年(1846)、31歳の直弼は突然江戸から呼び出された。
世子として藩主である兄・直亮の養子となっていた、
これまた兄の直元の急死によるものだった。
江戸に着いたらすぐに幕府へ世継ぎの届け出が出され、
将軍へ目通りして晴れて世継ぎとなった。

31歳にして誕生した「若殿」直弼は、まさか自分がこのように
藩の供を引き連れるようになるとは不思議なものだと思い、
藩主・直亮のご高恩が身に余り、駕籠の中で落涙したと書状に記しているそうな。

ちなみに、大名社会ではめんどくさい・・・いへ、厳格なしきたりが色々あったので
その手順にのっとって直弼の世子の手続きが取られたらしいんだけど、
申請書を受理した月番の老中は 福山の阿部正弘さん

時代はこの後、加速度的に大変なことになっていくし、
押しの強い外様の英君はゴロゴロいるし、
正弘さんはのちの直弼の処遇に頭を痛めたこともあるようなので、
正弘が若くして急死したのは絶対心労だよな・・・
とあらためて思ったりもした。

いやさ、正弘じゃなくて直弼。
直弼が兄・直亮の死をうけて藩主になるのは若殿就任の4年後だけど、
それまで部屋住みの生活が長かったので、順当に殿様コースを歩んだ大名とは
少し違う考え方をしていたらしい。

その最たるものが現実主義であり現場主義なんじゃないかと思うけど、
徳川四天王と呼ばれイエアスの天下取りに貢献した初代・直政が押し上げた井伊家を、
子の赤牛・直孝が秀忠以降3代の将軍から信任を受けてゆるぎないものとした。
その子孫たちからは大老を務めた者も出て、大老が出ていない時でも
彦根藩主は譜代の重鎮グループの一員だった。
また、その軍事力ゆえに万が一の時には京都を守護するという役割で、
近江に大藩を与えられた。

直弼が若殿になった頃、異国の船が江戸周辺の海に頻繁に出没するようになっており、
若殿就任の翌年、井伊家は相模の三浦半島の海岸警備を命じられる。
直弼という人は、家格だとかしきたりだとかに強いこだわりを持っていたようで、
かつて京都守護を命じられた我が藩に海岸警備なんてふさわしくない!として
藩主になると積極的に運動したらしいんだけど、
ただ先祖の功績に乗っかって華々しいお役目にしてくれと言った訳ではなく、
現時点での役目で実績を挙げれば当家の家格にふさわしい役目が得られるだろうとして
自ら相州に足を運び、巡見などを行ったそうな。

地元においてもその精神は発揮され、若殿になった際には心を許した家臣に
あるべき藩主の姿についての提言を求め、藩主になると領内をくまなく巡った。
もちろん、歴代藩主も巡見は行っているんだけど、
それまでは街道を通って国境を視察するという程度だったそうな。

ところが、直弼の意向は領内をすみずみまで回りたいというもので、
実際に4年かけて9回に分けてすべての村を回ったという。
供回りは軽装の最小限の人数で、ただ馬に乗ってカッポカッポ見物しただけではなく、
孝行者がいれば褒賞し、難病人がいれば同行の医師に診察させ、
ビンボー人がいればお救い米を分け与え、土地の産物を献上されれば代価を払い、
寺社に参詣しては金品を奉納するなど、領民とじかに接した濃い内容のものだったらしい。

自分を「木訥(ぼくとつ)者」だと言っていた直弼は茶会を多く開き、
その記録も残されているようだけど、ゲストの多くは家臣や領内の僧侶で、
大名や幕府の茶道役などを招いての茶会はそれほど多くないという。

「一期一会」は千利休の言葉だというけど、直弼が書いた茶の書の序文に
この言葉が使われたことでより広まったという。
わたくしが買い物で悩んだ時、「一期一会じゃ~!」と決断することも多いですが、
もとは同じメンバーで何度茶会を開いたとしても、同じ茶会は2度とない。
今日のこの茶会は一生に一度きりのものだと真剣な気持ちで茶をいただく
心構えが必要だ、という意味で、同じ書の最終章で「独座観念」・・・
客が帰ったあとに茶室に1人座って、もう2度と同じ茶会を行うことはできないんだなあ
としみじみと今日の茶会を顧みるという、茶会後のホストのあるべき姿を示している。

・・・シブいなあ。
大名同士の派手な茶会ではなく、弟子や心を許せる人達との静かな茶会を好んだという姿や
領内やお役目の現場を細やかに見て回ったという姿は
幕政の中心にあって歴史に名を遺した人のギラギラしたイメージとはほど遠い。


そんな意外な顔を持つ直弼が佐野を通ったのは嘉永6年(1853年)3月。
日光東照宮への社参の帰路だったという。
いやあ~、「いやござんなれ」の年じゃないか!
ペルリ来航はこの年7月。
海岸警備とかだってその前から始まってたのに、こんな時期に社参かよ?

しかしまあ、この社参が将軍の代参なのか、あるいは個人的なものなのか
直接の理由はわからないものの、直弼の人となりを知れば「領内巡見」も
兼ねていたものなんじゃないかという気もする。
帰りに寄ったということは、行きは古河・小山・宇都宮を経由する日光道中を通って、
帰りは例幣使街道の一部を通ったってことなのかな。
例幣使街道は佐野を通ってるからね。

この社参の際、日光で手に入れた栗山桶に黒漆を塗って水指に見立てたものが
直助自作の茶道具として現存しているので、行く先々で親しく店なども
覗いたかもしれないし、本藩に比べたらさほど広くもない佐野では
自国と同じように丁寧に村々を回ったことだろうから、
名前は付いてなくとも領内の多くの道が「殿町通り」だったかもしれないよな。

現在の殿町通りの少し西には、かつて天明(てんみょう)宿があり、
多くの鋳物師が住んでいた。
茶の湯の流行とともに天明釜はあの芦屋釜と並び称されたそうで、
大名茶人として名高い直弼も天明の鋳物師たちを激励したかもしれないし、
気に入った鋳物があればお買い上げしたかもしれない。


して、桜田門外の変において水戸藩の脱藩者を中心とした一団に襲われ、
45歳の若さで直弼が死亡。
彦根藩の公式発表では直弼の死亡日は実際の命日より遅らされたようだけど、
当然家中では大混乱があり、殿の仇・水戸を討つべしという声も上がって
佐野領からも千人が江戸藩邸に駆け付けるなどの動きもあった。

地図を見ると、江戸から水戸へ向かうより佐野から向かった方がいくぶん近い。
そうしたこともあってか、『井伊家史料』によると佐野から水戸へ出撃するルートを
検討した形跡があるようで、あわせて佐野では水戸藩についての
情報収集も行われていたそうな。

もちろん、幕府から両藩での戦いは禁じられていたので
実際に藩同士での戦闘が行われることはなかったけど、
場合によっては佐野も戦場になっていたかもしれない。

佐野領が彦根藩に組み込まれた時の当主は直孝。
直孝は佐野にも菩提寺を置き、菩提寺となった天応寺には直孝とその子の直澄の墓がある。
直弼は江戸の豪徳寺へ葬られたが、直弼の遺髪を納めたとされる直弼の墓が天応寺にある。

ちなみに昭和43年、彦根市は明治維新100年を契機に因縁のある水戸市と
親善都市として提携を結ぶ。
その翌年に旧藩領であった佐野市とも親善都市となり、
佐野でのイベントにひこにゃんが出張することもあるらしい。



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最終更新日  2015年10月06日 23時00分10秒


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