戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2015年10月15日
XML
それでは寺岡山施薬院薬師寺(←ホームページにそう書いてあるのを見つけた)・・・
通称「寺岡山元三大師」境内の紹介に入ります。


佐野・寺岡山薬師寺3


佐野・寺岡山薬師寺2


佐野・寺岡山薬師寺4


佐野・寺岡山薬師寺5

良源さんを祀るお寺ですから、天台宗であることは
このブログの読者様にはとうにおわかりですね。

こちらが山門↓。

佐野・寺岡山薬師寺6


佐野・寺岡山薬師寺8

留蓋はおなじみの狛犬ですが、フツー狛犬は正面の参拝者の方を向いてるのに、
こちらは取り付け方がちと変わっていて、側面に向かって付けられているので、
正面から撮ると

佐野・寺岡山薬師寺9

ちょっとなまめかしい構図になってしまふ
ただ、お腹から太ももにかけてのラインはふっくらおいしそうでも、
顔はこんな↓。

佐野・寺岡山薬師寺92


佐野・寺岡山薬師寺10

↑こちらの隅には【三千院門主 大僧正 光詮】とある。


京都~お~はら三千院

の三千院でしょう。
三千院のホームページを見ると、小堀光詮大僧正は現職の三千院門跡であるらしい。


佐野・寺岡山薬師寺11


佐野・寺岡山薬師寺12


佐野・寺岡山薬師寺13




佐野・寺岡山薬師寺15


佐野・寺岡山薬師寺16


佐野・寺岡山薬師寺17


佐野・寺岡山薬師寺18


佐野・寺岡山薬師寺19


佐野・寺岡山薬師寺20


佐野・寺岡山薬師寺21


佐野・寺岡山薬師寺22

山門は比較的新しいようだけど、派手こい彫刻が楽しい。
門をくぐった正面は

佐野・寺岡山薬師寺23

門を入る前から新しい造りの印象があって、
中に入っても現在境内を整備中の新設のお寺のような雰囲気だけど、
寺伝による創建は聖徳太子の命によるものだとしており、
それが史実であればかなり古いお寺ということになる。

ただ、薬師寺のホームページでも、境内にある解説板でも、
聖徳太子の時代の創建のあとの寺の歴史は、一気に江戸中期まで飛ぶ。
つまりはおそらく途中経過についてはよくわかっていないということで、
仮に薬師寺がひとケタ世紀の頃から存在していたとしても、
江戸中期頃まではほとんど寺としての機能を果たしていなかったんじゃないだろうか。

で、江戸中期の寺の再興ですが、これは山門の扉に付いているこの紋↓と関係がある。 

佐野・寺岡山薬師寺14

境内には「亀田庄左衛門則重翁之碑」というのがあり、
その碑についての解説文を先にご紹介しましょう。

 【氏は長兵衛翁の長男にて、性格剛直、神仏を敬い、縁ありて江戸、上野東叡山寛永寺に
  数十年奉職、第六世門主、崇保院宮准三宮一品公寛法親王より、永年身命を賭しての
  忠節が認められ、帰郷の折自筆の元三大師尊像壱幅を拝領し、自家に安置して礼拝恭敬を
  していた所、ある日夢の中に元三大師が現れ、「世の人々の為に尽くしたい。」との
  お告げを受け、また御前のご尊像を汚さぬ為に享保年間、寺岡山薬師寺に奉安した。
  当時、薬師寺は無住職で極めて荒廃しておりましたが、元三大師のご信仰によって、
  数十万の信徒の人々が参詣し、寺が復興した。現在にてもお大師様の信仰は連綿と
  続いている。
  尚、亀田家の現当主は寺岡町亀田家十二代目 亀田俊雄氏である。】
  (現地解説板より)

まず公寛法親王ですが、解説にある「第六世」は寛永寺貫主のカウントのことで、
江戸期の寛永寺貫主で法親王であればイコール輪王寺宮であることは
もう説明はいらないでしょうが、公寛法親王は輪王寺宮としては第4世にあたる。

公寛法親王は「叡山攻め」でも何度かご登場いただいてましてね。
おさらいしたい方はひとまず薗田秀延の上京イベント(「玉川子園田君遺稿」:
「叡山攻め(210)」 以降数話)をご覧ください。
はい、公弁法親王の跡を継いで輪王寺宮となり、
公弁法親王の急死を受けて泣き暮らす秀延を毘沙門堂へ送り出したのが公寛法親王です。

で、亀田則重さんについてはわたくしは上の解説にある分しか知りませんが、
寛永寺で長年公寛法親王に仕えたというのなら、薗田秀延と同じように
宮の 坊官 だったってところだろうな。

公寛法親王が第5世輪王寺宮を次代の公遵法親王に譲ったのは
自らの死後のことのようで、公寛法親王の死亡日は元文3年(1738)3月15日。
公寛法親王が公弁法親王から第4世輪王寺宮を譲り受けたのは
正徳5年(1715)5月5日だから、23年間輪王寺宮を務めたことになる。

薗田秀延は公弁法親王が亡くなったその年のうちに引退した。
秀延の同僚の吉川養盛はその後もしばらく公寛法親王に仕えたので
進退は人それぞれのようだけど、亀田則重はどのあたりで引退したのだろうかと
考えてみると、享保年間に薬師寺へ良源さんの画像を奉納したというんだから、
公寛法親王がまだ生きているうちに宮のおそばを辞して帰郷したことになる。
享保は元文の前の元号なのでね。

亀田則重が公寛法親王に仕え始めた時期も、引退した時期もわからないし、
おまけに享保年間は21年もあるので一体どのくらいの期間
則重が公寛法親王に仕えたのかも割り出しにくい。

公寛法親王が輪王寺宮に就任した正徳5年の翌年には享保へと改元するので、
単純に計算してみると則重が公寛法親王に仕えた期間は短くて1年、
最大で21年ということになる。

でもまあ、寺伝では長年の忠節が認められて餞別を戴いたことになってるので
それなりの年数は勤めていたんだろうし、公寛法親王のおそばに
どのくらいの数の坊官がいたのかはわからないけど、
それなりの立場でそれなりに宮の側近く仕え、それなりに目をかけられていたと
いうことだろう。

詳しいことがわからないので「それなり」を連発するしかないけど、
この場合の「それなり」は推測できる最低限のラインで、
あるいは秀延のように坊官の中でも高い位置にあったかもしれない。
でもそうだとしたらなんで宮がまだ生きているうちに帰郷したのかという
疑問も湧くけど、材料が少なすぎてこれ以上の推測は不可能ざます。

ともかく、公寛法親王のお手になる良源さん(の画像)を連れて則重は帰ってきた。
亀田家だけで良源さんのあり余るパワーの相手を務めるのはいかにも役不足で、

「お前んちだけじゃワシ、暇すぎるよ~。
ワシにはもっと多くの人々を救う力があるんだから、
こんなとこに押し込めんなよ~」


と則重の夢の中で良源さんが不満を訴えたことで、
「寺岡山元三大師」としての本格的な歴史が始まる。

え~ど~の昔より~祈願寺~
厄除け開運商売繁盛なんでもござれの祈願寺~


これは前回紹介した薬師寺のCMの歌ですが、
亀田則重が良源さん(の画像)を薬師寺に奉納して世におひろめされた江戸中期から
良源さんは下野の人々の信仰を集め、時には願いを叶え、時には心の支えとなり
現代に至って境内が立派に整備されるところまで来た。

その裏には10世紀を生きた良源さんのサクセスストーリーと苦労があり、
良源さんの死後の叡山の混乱から生まれた元三大師信仰があり、
天海が寛永寺を創建して輪王寺宮を誕生させた努力があり、
亀田則重と公寛法親王の絆がある。
歴史というのは、知れば知るほど考える幅も広がるので実に面白く、またいとおしい。


にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2015年10月15日 23時24分35秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: