戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2015年10月31日
XML
カテゴリ: 江戸めぐり
ハッピー・ハロウィン

・・・なんて、わたくしが言う訳ないでしょう。
年を追うごとにハロウィン関連のバカ騒ぎが増えていくので、
毎年この時期はとっとと11月になってしまえ~!と思うジジイでございます。

だいたい、ハロウィンを喜ぶ日本人の1割も
ハロウィンを正しく語れないに違いない。
日本人はカボチャの煮付けでも食ってりゃいいのさ


さて、前回の道路元標のすぐ後ろに立つのがこれ↓。


東山御物展・日本橋4


これにも「東京市道路元標」とあるので、前回の解説にあった


道路元標が新しく作られたのに、新旧の元標がそろって橋の北詰に並んでるのも
おかしな気がしますが、実はプレートの方の元標はコピーで、
本物の元標は橋の中央部の道路に設置されているらしい。
ま、橋は交通量が多くとても本物を見ることはできないので、
こういうのがここにあるよってことでコピーを道路脇に置いたんだろうな。

進行方向に向かってここから橋を南に渡りますが、まずこれ↓。


東山御物展・日本橋5


この台座部分にあるのが


東山御物展・日本橋6


これが徳川最後の将軍・ケイキさん(慶喜)の揮毫によるもので、
日本橋に江戸時代の面影を残そうと当時の東京市長・尾崎行雄氏が

綺麗な字だなあ~。

日本橋がかかるのは、日本橋川。
橋を渡りながら川をのぞくと、ちょうど船が通りかかるところだった↓。


東山御物展・日本橋7


船を見て、わたくしの機嫌はとたんに悪くなった。

と言っても、別にこの日に乗るつもりだった訳ではなく、
本所編を書いた後ぐらいだったかな、日本橋川クルーズなるものがあることを知って、
いくつかコースもあるようなので、日本橋川を東に下って
大川(隅田川)へ抜ける船に乗る予定を立てていたことがあるのだ。

あいにくその時は天候不良だかで行くのをやめたんだけど、
ここで船頭さんの解説を聞きながら嬉しそうに乗ってる乗客を見た時に
チッ!と思った(←要するに嫉妬)。
いいもん、私だってそのうち乗るんだもん。

で、日本橋川↓。


東山御物展・日本橋8


現在ではあまりそういうイメージを抱かない人が多いかもしれないけど、
実は江戸は水の都。
かつては特に東側を中心に江戸市中に水路が張り巡らされていた。

現在ではその多くが埋立てられたとはいえ、
まだまだかつての水の都の雰囲気を残すエリアもある。
学生の頃、深川近くの門前仲町までバイトに行ってた時があって、
日の長い時期や気が向いた時などは永代橋を渡って茅場町までひと駅分
歩いたりもしたもんだけど、ちょっと歩くとすぐ水辺ってカンジだったもんな。

ま、かつての江戸の大きな水路は現在ではほとんど上に首都高が通っていて
見通しが遮られているので、景観の点ひとつ取っても
あまり江戸の川は存在感を主張できていないのが現状。

「名橋『日本橋』保存会」では日本橋の上を通る高架の撤去を最大の目標と
しておられるようで、つまりは首都高を地下に埋め込むということらしいんだけど、
莫大な予算もかかるし地下鉄が通っているのでホントにそれが実現可能なのかとは
思うものの、せめて名橋・日本橋ぐらいは高架に遮られない空を取り戻したいというのは
わたくしだけではなく多くの人が賛同するところだろう。



さてと、ここで少し歴史の話に移ります。
江戸の記事はこれまでにも上げてきたけど、
ピンポイントでの歴史に触れることはあっても
なかなか全体の歴史まで書く機会はなかったのでね。

けど、江戸だけに絞ると古い時代は内容が限られてくるし、
近世に入って江戸の町が大々的にクローズアップされるまでは
元気いっぱいの武者たちが広く駆け抜けたエリアの一部分でしかないので、
江戸の属する武蔵国、およびその周辺の南関東あたりも絡めながら
ざっと流れを見ていきます。

全体的にはおおざっぱな流れですが、いよいよ関東の歴史に
本格的に足を踏み入れようとしているわたくしのブログでは、
概論から踏み込んだ詳細なそれぞれの歴史に触れる記事も今後多くなるでしょう。
ので、今後の予習的な意味合いもあります。

で、時計の針をぐっと戻して先土器時代。
1万年以上前から武蔵にも人が住みついていたようで、
調布や杉並・板橋などに細石器などの遺跡が残っている。

7~8000年前の縄文時代になると土器が発達し集落も増え始める。
6~7000年前頃になると「縄文海進」といって今よりも海面が2~3m上昇して
陸地に海が侵入してきた。

その影響で、その頃の武蔵から下総あたりは今とは相当地形が違っていた。
その頃、本所は海の中だったことを 「本所Wデビュー編(20)」 で書いてますが、
正確な境はよくわからないものの、だいたい西は大川付近、東は市川あたりかな~。
そこから海が入り込んで、ずずっと北の川越あたりまで海だったというからオドロキ。

千葉県も、今でこそ「房総半島」として本州に垂れ下がる形になってるけど、
当時は鹿島あたりから海が入り込んでずっと西まで内海が広がり、
皮一枚でつながってるような状態だった。
いや、ものによっては分断されて完全に島のようになってる地図もある。
相模も海岸線が今よりも北になっていた。

当時は気温も少し上がったようで、現在でも温暖化による氷河の減少が
地球規模での環境問題となってますが、縄文海進の原因は確かに氷河期でできた
ヨーロッパや北アメリカの膨大な氷床が溶けだしたことによる海面の上昇が
主なもので、7000年前頃がもっとも海面が高かったそうなんだけど、
氷床が溶けだしたのは日射量の増加によるものらしい。

が、長い時間をかけてそのうち海水は引いていった。
これは別にまた寒くなってどこぞに氷河ができて海の体積が減ったという
単純な理由ではなく、海水がべらぼ~に増えたことによって
海底にある地表そのものが海の重さで沈んでいったというメカニズムだそうな。
規模がデカすぎる話だけど、面白いなあ。

4000万年前頃になると、都内の海岸に貝塚ができ始める。
もっとも有名なのが、大森貝塚(大田区・品川区)ですかね。

弥生時代になると関東にもその文化が及んで稲作も始まり、
5世紀頃になると都内にも大型の前方後円墳が現れる。
行田にある さきたま古墳群 もこの頃できたものなのかな。
先土器時代からここまで、都内には色々と各時代の遺跡が残っている。


さて「武蔵」。
畿内ではヤマト政権が誕生し、比較的早い時期に関東まで勢力範囲が及んでいたようで、
日本書紀に「ムサシ」の名が登場する。



  武蔵の笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)は武蔵国造の地位を
  長年争っていた。小杵は激しい性格で、素直ではなくタカビーであり、ひそかに上毛野君
  小熊(かみつけぬのきみおくま)に助力を求めて使主を殺そうとした。
  これを察知した使主は逃げ出して都へ向かい、朝廷に報告した。朝廷では使主を国造として
  小杵の討伐へ向かった。晴れて国造となった使主は感激し、横渟(よこね)・橘花
  (たちばな)・多氷(おおい)・倉樔(くるす)の四ヵ所の屯倉を設けて帝へ献上した。
  これは即位元年の534年のことである。


これが史実なのかも不明だし、使主と小杵の争いも南北の武蔵での争いなのか、
北武蔵の内での争いなのかなど色々な推測がされているらしい。
ただ、先に回想したさきたま古墳群の付近は武蔵国造の本拠と見られているようで、
いずれにせよその頃には今でいう埼玉の北武蔵が武蔵国の中心であったらしい。

とはいっても、初めから「武蔵」と表記されていた訳でもなく、
「无邪志」とか「胸刺」といった表記が見られるという。

ウィキペディアによると、【同じ頃の継体天皇21年(527年?)には
筑紫君磐井がヤマト王権に打倒されている】そうで、
当初からムサシがヤマト政権に従属していたというよりも、
各地方での乱などを足がかりにして次第にヤマト政権が影響力を強めていった
ということかもしれない。



にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2015年11月01日 22時04分42秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: