戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年11月28日
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カテゴリ: 江戸めぐり
今日はお呼ばれして寛永寺の法要に行って参りました~。

今回は2回おみくじを引いて、最初のは半吉だったけど中身は相当良くない・・・
寛永寺に行く前に一つ別の寺に寄ったので、かなり早い時間に家を出た分
昼過ぎには帰ってきたのですが、いい1日だったので最後に観音堂にお礼参りに行って
2回めのおみくじを引いたらば、ずばり「凶」・・・

おみくじ運のいいわたくしに対し、観音堂のおみくじがいつもシビアな内容なのは
過去の記事でも書いた通りですが、 去年の春 が「たんきの人は死すべし」で
去年の夏 は「悪人は死」だった。


もはやトラウマになりつつある寛永寺観音堂のおみくじでの焦点は
生きるか死ぬかという点になっている。

で、今回。

生死(いきしに)は十に七八は死ぬ

まただよ~~~!!!
しかも今回は生き残れるのは2~3割という具体的な数字が出ている。
わたくしは決して「M」じゃないので、良源さんのきっつ~い言葉を聞きたくて
あえて観音堂でおみくじを引いている訳じゃないんですが、
もう今回は少々鼻で笑っちゃいましたね。

「凶」の割合が多い某神社では、毎回大吉引きまくりなのにな・・・
なんで観音堂だけはこうなんだろ。

ま、書かねばならない話もブログネタもまだ腐るほどあるので(てか、一部はすでに腐ってる)、



さて、今日の報告はひとまずこれぐらいにして前回の続きですが、
建武政権の始動からわずかな期間で後醍醐天皇は吉野へ逃走し、
南北朝時代の始まり始まり~。

ご存じの通り、わたくしは戦国時代から日本史に入っているので、
戦国時代って大変だ~と思ってきました。

これは戦国期より大変だったんじゃないかと思うようになりました。

もちろん、その時代に身を置いた訳でもないので
どちらが大変かなんて簡単に比較はできないのは当然ですが、
南北朝頃と比べると、戦続きであっても戦国期は割合単純なんだよな。

乏しい知識の中での、南北朝期と戦国期との相違点のわたくしのイメージは、
「公的な権力」・・・すなわち、「治天の君」的な存在がいるかいないか、ということ。

まあ、戦国期も途中までは「足利将軍家」はあったけど、
ぶっちゃけただ「いる」的な存在へとどんどん変化していったし、
戦国期を彩るヒーローたちは皆様自力で道を切り拓いていったので、
わたくしが歌で戦国期を表現するなら

これから始まる大レース~ (by「走れコウタロー」)

みたいな~。

ところが南北朝期は、まだ「治天の君」的な存在がいた。
なんで「的な」を付けるかとゆーと、単独じゃなかったからです。

まずは天皇家。
これは吉野に逃げた南朝と、足利家が支援する北朝とに分裂した。
ここでまず2つ。

それから足利家。
室町初代将軍とされる足利尊氏は、戦には強かった。
でも、戦が終息の方向に向かえば武力より政治力、行政能力が必要になってくる。
それを補ったのが弟の直義(ただよし)で、尊氏と直義は2人揃って1人というような、
別の優れた才能を持った兄弟だった。

尊氏という人は、上杉謙信にちょっと似てるとゆーか、
なにかっつーと引きこもりたがって

やる気あんのか、ワレェ!!

てカンジで、直義の方は戦が苦手だったのか、出れば負けるみたいな・・・
直義が連敗に次ぐ連敗という状況になって、尊氏が

「直義が死んだらボクも生きちゃいられないよ~」

とか言ってのっそり出ていくと勝っちゃう。
その繰り返しじゃないかと思うんだけど、それでも当時はカリスマ性があったようだから、
尊氏という人は不思議な人です。

けど、戦より統治の重要性が高まれば高まるほど、
直義の存在が当然アップする。
それで、何やかんやで仲の良かった尊氏と直義の兄弟も分裂することになり、
2つに割れた足利家に先の南朝・北朝の天皇方を加えて計4つもの勢力ができた。
まあ、北朝は足利家に担がれたようなもんだから、実質的には3つかな。

それに従う者たちにも、一族内の内紛やら土地争いやら過去の因縁やら
様々な事情と思惑がある。
さらにそこに北条氏の残党なども出張ってくる。

叩いて叩いてやっと南朝が下火になったかと思えば、
それぞれの事情から南朝と手を組む者などが次々と現れて
また南朝が息を吹き返す。
果ては、直義方が南朝に付くという事まで起こる。

えんえんこんなことの繰り返しで、流れを追って読んでても

「あれ、この人って今どこに付いてるんだっけ?」

ってワケわからなくなる。

ひとつ、下野の小山氏の例を挙げましょうか。

鎌倉幕府滅亡の時、小山氏は後醍醐天皇の檄に応じて倒幕軍に参加した。
その後、足利尊氏が後醍醐天皇から離れると尊氏と行動を共にして、
東国で南朝方と敵対した。
東国では北畠親房・顕家の南朝方親子が頑張っていたのでね。

北畠顕家が上洛しようとした際、足利方はそれを阻止しようとして
小山城での攻防が3ヶ月続き、当主の小山朝氏(ともうじ)は捕らえられて
北畠軍に防衛線を突破されてしまった。
その朝氏の助命嘆願をしたのが小山氏と同族の結城宗広(南朝方)で、
朝氏はめでたく開放された。

北畠顕家が死んだ後、東国を押さえるために顕家のオヤジの親房が下向して
常陸で奮戦した。
親房は再三にわたって小山朝氏へ支援を要請するが、
元来足利方である朝氏はなかなか動かない。
朝氏にすれば、釈放してもらった恩があるので攻撃せず中立を保つというのが
精一杯の譲歩だったんじゃないかという気がするけど、
「助けてやったのに、何だよアイツ」とイラついた親房は、
所領の一部を結城氏に預けてしまう。

これにキレた朝氏の弟の氏政は、足利方に接近する。
弟に対抗するため、朝氏は南朝方へなびく姿勢になっていく。
ただ、決定的な事態になる前に北畠親房がいなくなり、朝氏が死ぬんだけど、
朝氏の跡を継いだ氏政は尊氏方に付いて発展するものの、
東国では足利直義の政策を復活させようとする動きが起こる。

その中で、尊氏方として戦ってきた宇都宮氏は一旦討伐の対象となるが、
小山氏は最初は討伐を免れていた。
が、直義の政策を復活させようとする新・直義派ともいうべきお方によって、
小山氏政の子・義政と宇都宮基綱がともに下野守に任じられる。

この人事は、明らかに宇都宮氏をもって小山義政を牽制しようとしたものであり、
義政は不満を抱いただろうと櫻井彦氏は語る。
だとすれば、新・直義派はもともと尊氏方だった小山氏を
いつか排除しようという肚を持っていた可能性もあるということになると思うけど、
途中で下野守を外された宇都宮元綱に対し、小山義政が攻撃を仕掛ける。

新・直義派はこの戦いをやめるよう厳命するも、
足利3代将軍・義満とつながりのあった小山義政は強気に出て
宇都宮元綱を敗死させてしまう。

それによって今度は小山義政が新・直義派から討伐されることになるんだけど、
義満からの援助が期待できないことを悟った小山義政は降服する。
が、義政がなかなか新・直義派の下にやって来なかったため、
2度めの討伐令が下された。

将軍・義満は新・直義派への牽制にもなる小山氏の存続を望んでいたようで、
小山氏を討伐するにしてもほどほどにね、と新・直義派へ伝えており、
2回めの時には小山義政が出家して隠棲し、嫡子を新・直義派へ出仕させることで
終わりを迎えた。

ところが、小山親子は小山城に火をかけて出奔してしまった。
これの詳しいいきさつはわからないものの、
出奔の知らせを聞いた新・直義派は喜んだというから、
出奔せざるを得なくなる状況に追い込んだのではないかという。
この3回めの討伐で小山義政は自刃、嫡子は逃げおおせた。

しかし、逃げたその嫡子がのちに小山城で挙兵。
もちろんこれにも討伐軍が差し向けられたが、今度もまた嫡子は逃げた。
で、その嫡子を小田氏がかくまっているという話が新・直義派の耳に入り、
またあらたな乱が起こった・・・・・・・・


うんざりするっしょ?
まあ、経緯や事情はケースバイケースだけど、
色んな人間の思惑が絡み合うこんな複雑な争いが
全国規模で繰り広げられるんだからね。
どう身を処すか、当時の人は本当に大変だったろうとしみじみ思います。

「叡山攻め」で仏教漬けだった時は、もう戦いの歴史とかやりたくね~と思っていたのに
また戦いの場面に戻ってきてしまいましたが、戦国期は複雑ながらもまだ面白いと思えるけど、
南北朝期は複雑なんてレベルをはるかに越しているので、
面白いなんてとてもじゃないけど言えません。

わたくしが今回猛勉強したのは、南北朝期でもおもに東国がからむ部分だけだけど、
西国でもそれぞれに色んな争いや戦いがありました。
わたくしの愛する大内氏だって例外じゃありません。

鎌倉・室町・江戸の3つの幕府はどれも案外長く続いたけど、
3つのうちで最も人気がないのが室町幕府じゃないかと思う。
それは、なかなか内乱状態を収められなかったのも1つの要因じゃないかと思うけど、
その一方で下っぱたちが自己の権益を確保する手段を
あらたに整えていった時期でもあった。
それが「一揆」で、一揆自体は鎌倉期からあったものらしいんだけど、

 【上部権力に対して連携した地域社会が抵抗するという争乱のあり方は、いずれかの
  上部権力に与して戦われたそれまでの戦争とは異質なものであり、そこには彼らの
  自立の萌芽をみることができる。】
  (『動乱の東国史4 南北朝内乱と東国』櫻井彦/吉川弘文館より)

と長い内乱で一揆の質が変化していき、さらに戦いが全国展開したことで
京と地方との人的および物的な交流が活発にもなったらしい。

「バサラ大名」として有名な佐々木導誉(どうよ)はこの時期の人で、
はじめは畿内でバサラの風潮があったものが、内乱による交流の活発化で
他地域にもバサラが広がっていったという。

一般的には南北朝期と戦国期を結んで考えはしないだろうけど、
クソ長い内乱の過程で少しずつ、でも確実に次の時代への準備が進められていたのだと
今回理解しました。


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最終更新日  2015年11月28日 21時36分35秒


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