戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年12月01日
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カテゴリ: 江戸めぐり
前回は天皇方に2つ、足利方に2つの計4つ(実質的には3つ)の「上部権力」が


話の流れで順序が入れ違ってしまったので、前回は違う表現を取りましたが、
小山氏の話でわたくしが「新・直義派」としたのがそれで、
一般的には「鎌倉公方」と呼ばれる方です。

コイツが・・・いえ、この方がまた厄介な存在で、
でも関東の歴史において外す訳にはいかないので、
過去の記事でもさわりだけ少し書いてます。( 「道灌山城」 参照)


思っていたのと少し違うようなことを読んだので、
ここでもそっと詳しく鎌倉公方について書いておこうと思います。


そもそも、鎌倉幕府は倒されたのになんでまた鎌倉が重要視されたのかといえば、
前々回で紹介した建武式目のトップ項目に柳営(幕府)をどこに置くかという
問題が来ていたように、曲がりなりにも150年ほど鎌倉に幕府が存在し、
武家政権の象徴となっていたからに他ならない。

歴史というのは当然連続しているものなので、
南北朝での全国規模での長い内乱の過程で、下級レベルの武士たちが
血族での連帯から地域での連帯へ軸がスライドした一揆を成立させる以前から
武士の自我のようなものはすでに芽生えており、それが鎌倉幕府を崩壊させる原動力にもなった。
が、


  治安を回復することであった。】
 (『動乱の東国史4 南北朝内乱と東国』より)

これにいち早く応えたのが足利尊氏であり、後手に回るハメになった後醍醐天皇は
「鎮守府将軍」・・・これは河内源氏の祖・源頼信なども任じられた官職で、
ウィキによると【平安時代中期以降は武門の最高栄誉職と見なされた】というもので、


鎮守府は陸奥に置かれ、歴代鎮守府将軍の中では陸奥守を兼任している者も多くいる。
「叡山攻め」の最澄の歴バナに蝦夷への出兵も出てきましたが、
古代では陸奥にあって蝦夷と対峙し、さらには奥州を統括して治安を回復させるのが職務だった。
だから、陸奥守を兼務するのは当然とも言えるわな。

だけど、中央集権を目指す後醍醐天皇はいつまでも尊氏ごときに
遅れをとっている訳にはいかない。

そこで、天皇が帰京してから4ヶ月ほどした頃、
自分の子の義良(のりよし)親王に側近の北畠親房・顕家親子を付けて
奥州へ下向させた。

北畠顕家は、敵地の真っただ中とでもいうような遠い奥州にあって
尋常でない頑張りを見せた南朝の雄ですが、この方は陸奥守を拝命していた。
鎮守府将軍は尊氏、陸奥守は顕家・・・
職務内容のカブる陸奥守に顕家を任じてわざわざ奥州へ下向させたのは、
臣下でありながらどうも目障りな動きをする尊氏への牽制もあっただろうという。
それから、奥州には滅ぼされた北条の得宗家の所領も多くあったそうで、
ここを速やかに押さえることがすなわち治安の回復にも直結したんだそうな。

その2ヶ月後には鎌倉に「鎌倉将軍府」が置かれた。
これは関東の10ヵ国を統括するもので、鎌倉期の関東御分国が
最盛期で伊予・豊後などの相当遠い国や信越を含んでいたのに対し、
もっと関東らしい顔ぶれ(武蔵・伊豆・相模・上総・下総・上野・下野・常陸・安房・甲斐)
に入れ替わっている。

鎌倉将軍府にも後醍醐天皇の皇子(成良親王)を下向させたが、
成良親王を奉じたのは後醍醐天皇の近臣ではなく、尊氏の弟・直義だった。

 【体裁としては鎌倉の頂点に立つのはあくまでも成良であったが、実質的な実力者が
  直義であったことは明らかであり、この人事の背景には、「武家の棟梁」を自負する
  尊氏の強い要請があったものと思われる。尊氏には、ひと足早く奥州に下向し、
  周辺の武士を掌握することに成果を上げつつあった、奥州鎮守府を牽制する意図も
  あっただろう。】
  (前掲書より)

まだこの段階では、足利方は天皇に敵対してはいない。
が、すでに泥沼の内戦の準備は着々と整いつつあった。

ただまあ、尊氏は結構ギリギリまで「自分は天皇の臣下だ」みたいなことを言って
ぐずっているので、尊氏本人の意思というよりは直義を初めとする周辺の思惑が
強かったんじゃないかとも思うんだけど・・・

でその直義が鎌倉でまず行ったのは、「関東廂番(ひさしばん)」を置くことだった。

 【廂番は、鎌倉幕府の初代親王将軍宗尊(むねたか)親王のために置かれた将軍護衛役で、
  直義がこれにならって関東廂番を設置した背景には、成良を宗尊に擬して、東国政権
  (武家政権)を復活させようとする意図が存在したといえるだろう。】
  (前掲書より)

そして廂番には足利一門と足利家臣団から選抜したメンバーが就いた。
鎌倉で着々と「足利幕府」の準備が進められていく中、
後醍醐天皇の足下から建武政権を揺るがす事件が起こった。

それが、処遇に不満を抱く公家によって北条高時の弟を担ぎ出すクーデターで、
これは早々にバレて大規模なクーデターとはならなかったものの、
今度は北条高時の子・時行が信濃の諏訪氏の助力を得て蜂起した。

この挙兵は「中先代の乱」と呼ばれ、時行軍は立ちふさがる信濃国司軍や
廂番の軍を次々に撃破して南下していった。
目指す先は、当然鎌倉。
直義も軍を率いて武蔵で迎え討ったものの、あえなく敗退。
結局、成良親王を連れて鎌倉から逃げ出して、親王を京へ帰してやったらしい。
これによって鎌倉将軍府は終焉を迎える。


長い目で見れば、これはまだほんの序の口なんだけど、
逃げ続ける直義に対し、鎌倉を奪還した時行軍に呼応して各地で挙兵する者も相次ぎ、
まだまだ予断を許す状況ではなかったことがうかがえる。

この時期の武士の姿を象徴する人物として、
前掲書では常陸の小栗重貞という人物を挙げている。

 【すなわち、自己の権利を建武政権に否定された重貞は、建武政権打倒を目指す時行軍に
  従軍するが、尊氏の下向によって時行軍が崩壊すると、さっそく時行軍の大将の首を
  取って(この点は伝承の可能性があるものの)尊氏軍に投降しているのである。
  こうした重貞の行動から、自らの権利を保障してくれる存在は誰なのかといった点を
  基準に、彼が行動を選択していたことは明らかだろう。そしてこの基準は、多くの武士
  たちに共通するものであったに違いない。】

後醍醐天皇は戻ってきた成良親王をあらためて征夷大将軍に任じて
中先代の乱を収めようとしたけど、直義救援のためにさっさと下向した
戦上手の尊氏が鎌倉を奪還して大勢が決まる。

そこからは足利方が天皇方と決別しーの、南朝ができーの、
混乱の度合いがどんどんヒートアップする。
尊氏や直義が京におさまっては脱出し、南朝方が京に入っては脱出し、
京の庶民たちもいいかげん呆れてたんじゃないかと思うほど激しく入れ替わりが続く。
後代の室町将軍も権威が低下するにつれよく京を脱出するようになるけど、
京の脱出は尊氏以来の伝統とも言えるかもな

京の町が戦で荒廃したというのは何と言っても応仁の乱が有名だけど、
南北朝の争乱の過程でも戦禍に巻き込まれてかなり被害を被ったらしい。

これまで、なんで足利家は京に幕府を置いたかな~と思ってきたけど、
こういう激しいバトルがあったことを知って初めて
京に本拠を置かざるを得なかったことを理解しました。

南朝ってなんか好きじゃなかったんだけど、結構いい人材が揃ってるんだよね。
特に北畠親房・顕家親子なんかは案外まともな進言をしてるんだけど、
もし後醍醐天皇がそれを受け入れていたなら、歴史はもう少し違っていたかもしれないなんて
思ったりもした。

けど、数々の戦いの中で南朝の有力な武将がどんどん失われ、
政権復帰の夢は次第に遠ざかりながらも、上部権力同士の争いに加えて
小栗重貞のように庇護者を求めてさまよう武士たちの動向などもからんで
南北朝時代は実に56年も続く。

今年は戦後70年の節目にあたるけど、たとえば終戦を朝廷の分裂の時に置き換えれば、
2001年までずっと分裂が続いていたという計算になる。
どんだけ長く続いたのか感覚的にわかろうってもんですが、
色々流れを追って読んでくと、歴史の大きなうねりの中で
どいつもこいつも頑張ったんだよな~としみじみ思いました。

南北朝の歴史を見ていて思うのは、倒幕そのものよりも
一旦倒幕運動で起こったエネルギーを収束して統治していく方が大変なんだなってこと。
そう考えると、徳川3代なんかのすごさがあらためてわかったりもしたのですが、
この歴バナはまだまだ江戸まで遠うございます。


で話を戻しますが、建武3年(1336)11月7日、
建武式目の成立を以って室町幕府が誕生する。
「室町」はのちの3代・義満が京都北小路室町に花の御所を置いたことに由来する名称で、
幕府成立の直後に後醍醐天皇が吉野に逃げ出して朝廷が分裂する。

そういう時期だから京にあって直接統治するのは必然の選択でもあったけど、
武家政権の中心という長い伝統を持つ鎌倉、および周辺の坂東諸国を
きっちり統括する必要性も十二分にあったので、
尊氏は鎌倉将軍府の後身となる「鎌倉府」を鎌倉に設置して、
嫡子の義詮を鎌倉府の総帥「関東管領」とした。

関東管領と聞けば多くの人が上杉謙信に代表されるような上杉一族を
思い浮かべるんじゃないかと思いますが、最初は鎌倉府のトップが関東管領で、
上杉氏などの家臣が就いたのは関東管領を補佐する「関東執事」だった。
それがのちに関東管領⇒鎌倉公方、関東執事⇒関東管領へスライドすることになるんだけど、

 【鎌倉公方はあくまでも歴史学用語及び鎌倉公方の自称であって当時の一般呼称ではない。
  当時の一般呼称は“鎌倉御所”か“鎌倉殿”である。また、鎌倉公方は将軍から任命
  される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。】
  (ウィキペディアより)

まあここでは、鎌倉府のトップを「鎌倉公方」としておきますが、
鎌倉府も鎌倉将軍府と同じ関東10国を統治した。
当初の鎌倉公方はウィキの解説の通り、「鎌倉を留守にしている将軍の代理」的な存在で
鎌倉府は副都心みたいなもんだっただろうけど、次第に独自性を強めて
プチ独立国みたいな様相を呈するようになった。
「大阪都構想」にちょっと似てる?(笑)

そして、独立性を強めることによって、東国では中央での上部権力同士の争いの影響を
受けながらも、また別の次元の争いや問題を抱えることになった。
それゆえに、中央で南北朝問題が収束しても、
坂東は坂東で鎌倉府独自の問題がずっと後をひき、
そのまま戦国時代へ突入していく。



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最終更新日  2015年12月01日 23時51分50秒


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