戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年12月15日
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カテゴリ: 江戸めぐり
上杉憲実は、永享の乱だけではなく、金沢文庫や足利学校を再興させた人としても
有名な方。

ウィキペディアのブラックユーモア版ともいうべきアンサイクロペディアでは、

 【上杉憲実とは、室町時代に活躍した、足利学校の先生である。学識に富んだ人物
  だったが、一番の教え子である足利持氏の教育に失敗してしまったので、
  模範的な教師としては及第点に及んでいない。 】

としている。
「足利学校の先生」というのはもちろん冗談だけど、
憲実の正確な生年は不明のようであるも、鎌倉4代公方・持氏よりは年下らしく、


  就任すると若年の鎌倉公方を更に幼い関東管領が補佐するという事態が発生する。
  そのため、本来は上位者である鎌倉公方の命令を伝えるために関東管領が作成する
  施行状を作成することが出来ず、持氏本人が憲実の代理で施行状を作成するという事態が
  応永31年(1424年)まで続いている。】
  (ウィキペディアより)

という笑える現象もあったらしい。

んで前回の続きですが、足利持氏の死後、将軍・義教は自分の子を鎌倉公方として
あらたに鎌倉府を再建しようと画策するが、これは上杉氏などの反対にあったという。

憲実はなにも持氏を討てという義教の命令に

「合点承知のすけ!!」

とホイホイ従った訳ではなく、なんとかならないかと固辞しているうちに
うたぐり深い義教が

「まだ持氏に未練があんのかよ?
まさかワシを裏切ろうってんじゃ・・・」



そして乱後に弟を呼び寄せ、自分の子が成人するまでの名代として
弟に関東管領を譲ったと『永享記』ではいうものの、
ウィキでは関東管領職の委譲は幕府が認めなかったとしている。

いずれにせよ、憲実は身を引き、出家した。
その後、持氏の墓前に詣でて焼香し、涙を流しながら

「このたびは讒者のために君のお怒りを買い、
思いがけず御敵となってしまいました。
しかし、決して心中に不義があった訳では
ございませぬ・・・
どうぞ、御照覧あれ!!」



後ろに控えていた憲実の家臣たちは主人の突飛な行動に仰天して

「ぎゃああああ、殿!!
なにやっちゃってるんですかあああ~~!!」


と急いで脇差を取り上げ、館に連れて帰って看病したのでどうにか回復したという。
その後憲実は伊豆に引きこもって隠棲した。

ところで、持氏の遺児が数名生き残っていたようで、
結城氏が2人の遺児たちを奉じて幕府に対し反乱を起こした(結城合戦)。
これはあちこちに飛び火し、

関東公方相関図


前回は省きましたが、持氏の叔父で稲村公方の満貞も
永享の乱で持氏とともに自害している。
が、篠川公方・満直の方は前回義教に持氏討伐を命じられてましたね。
篠川公方・稲村公方はともに奥州対策のための鎌倉府の出先機関のようなもので、
鎌倉公方の一族でもあるし心を一つにしていたのかと思いきや、
満直は色々あった末に義教と誼を通じるようになっていったようで、
それゆえに永享の乱では幕府の命に従って持氏の敵に回った。

そういう人だったので、結城合戦が起こると満直の篠川御所も奥州南部の諸氏に攻められ、
満直は自害に追い込まれる。

『永享記』によると、上州で評議が行われ鎌倉方は蜂起軍討伐の軍を募ったが、
どちらが有利とも判断がつかず日和見を決め込む者が多かったので
なかなか軍勢が集まらなかったという。
それでも、反乱軍を放置しておく訳にもいかなかったので手勢だけで出陣したところ、
ぼちぼち兵も集まり出してそれなりの数になったので、寄せ手の数を見て
城に籠っていた結城方は再起を約して一旦は落ちていった。

鎌倉方では越後上杉や犬懸上杉などが軍勢を集めていたが、
幕府からは伊豆で引きこもっていた憲実のもとにも再三の出撃命令が届いており、
憲実もついに重い腰を上げて出陣した。
鎌倉方には東海道の諸国および信濃・上野・武蔵・越後からも軍勢が集まり、
あれこれの攻防の末、結城方は敗北した。
首実検の際には、つい昨日まで仲間だった者たちの変わり果てた姿を見て
大名小名僧俗貴賎問わず涙を流したそうな。

そして、打ち取った首のうち大将格の29の首は、
捕らえられて輿で護送される持氏の遺児たちに添えて京へ送られた。
が、2人の遺児が生きて京に入ることはなく、途中の美濃垂井で義教の命によって殺された。
ここまでが結城合戦。
乱の終結後、憲実はまた隠遁する。
『永享記』では、2人の子を連れ、三男坊だけを伊豆に置いてきぼりにして
諸国漫遊・・・いや、修行の旅に出たという。

結城合戦の勝利の2ヶ月後、将軍・義教が赤松邸に御成の最中に殺される
「嘉吉の乱」が起こる。
赤松邸に招かれた口実の一つは「結城合戦の慰労」だったそうな。
この時、大内家当主の持世も巻き添え食って後日死亡したことは
過去の記事でも何度か触れてますが、大内氏と上杉憲実の関わりは
この件じゃありません。

永享の乱での憲実の行動は、持氏に対する不忠の思いから出たものではなかった。
でも義教の圧力に屈して、直属の上司である持氏に刃を向けることになったので、
憲実は不忠のそしりを受けることを恐れていたともいう。

赤松氏の場合は、義教の恐怖政治に追いつめられての行動で、
赤松氏がやらなくてもいずれ誰かが同じようなことをした可能性はあるとは思う。
ま、どちらも「やむなし」の感はあるものの、理由はどうあれ主君、
それも仮にも「公方」を名乗る持氏と義教がほぼ同じ頃に
家臣によって殺されたことは、次の時代を予感させる象徴的な出来事ともいえるだろう。


さて、鎌倉府は持氏の死によって一旦滅びたものの、
幕府は関東に統括者を置くというこれまでの路線は変えなかった。
そこで、上杉憲実に再び関東管領に復帰するよう命じるが、憲実はこれを固く拒否。
どころか、1人を除いて子供達も出家させ、



と厳命したというから徹底している

上の方の文章で、永享の乱のあと憲実が弟に職を譲ったと書きましたが、
憲実親子が出家して身を引いてしまったことで、結局幕府も憲実の弟の
関東管領職を認めざるを得なかったという。
しかし、その弟が亡くなってしまうと、山内上杉当主の座と関東管領がカラになる。
それでも憲実は初志貫徹で自分の子に跡を継がせることはせず、
なんと血縁の佐竹氏に継がせようとしたというからどんだけ・・・

まあな、持氏を殺しただけでも深い心の傷になっただろうに、
さらには結城合戦で持氏の子まで攻めるハメになった。
憲実に対して幕府は相当御執心のようだから、
文武のバランスの取れた有能な将ではあったんでしょうけど、
鎌倉経営のナンバー2であり、実務においてはトップだったであろう
関東管領をこなした憲実にしてこれだから、過酷な状況ではあったのだろう。

ここまでのところではあえて割愛してますが、山内上杉氏の家宰は長尾氏。
上杉謙信を輩出した、あの長尾氏です。
山内上杉の立場が上がれば上がるほど当然家宰の地位も向上し、
結城合戦でもずいぶんと長尾氏が活躍している。
で、その長尾氏は

「ハア?佐竹から当主を迎えるですって!?
冗談もほどほどにしてくださいよ!!」


とばかりに憲実の長男・憲忠を引っ張り出した。
これにキレた憲実は憲忠に対し、

「なんちゅう不忠の子じゃ!!
も~、お前の所領はボッシュート!
もはや親でも子でもないわ!!」


とした。
あまりの徹底ぶりについ笑いが出てしまうのはわたくしだけでしょうか・・・

で、永享の乱の8年後には持氏の子・成氏(しげうじ)を立てて鎌倉府が再興される。
再興された理由について『永享記』では、上杉氏が中心となって
関東にも公方と関東管領を置かなければ世は鎮まらないと幕府に嘆願したというが、
ウィキペディアでは

 【永享の乱とその後の結城合戦を経て、上杉氏と伝統的豪族層・国人層との対立が
  顕在化すると、両者ともにそれぞれの思惑から新たな鎌倉公方を必要としたのである。】

とする。
まあ、上杉氏と国人衆の対立をも含めて「世が鎮まらない」と表現したとも読めるからな。

もう本格的な戦国時代の幕開けはすぐそこまで来ているので、
成長してきた国人衆と関東管領の対立構造があったというのが実情なんでしょうが、
関東には鎌倉府があったので、群雄割拠というよりは
相変わらず「上部権力」との対立を続けていて、
そこが関東と他のエリアとの違いだろうと思う。

して、成氏は8代将軍の義成(よししげ)から偏諱を受けて、
再び将軍の家臣として再スタートを切った。
義成はのちに義政と名を変え、この方が本シリーズ最初の東山御物で出てきた義政さんです。
成氏の補佐には、長尾氏が担ぎ出した憲実の子・憲忠が関東管領として付いた。

扇谷(おうぎがやつ)の上杉氏は最初はあまりぱっとしなかったようだけど、
この頃には有能な家宰がいた。
扇谷上杉の家宰は太田氏で、この時は資清(すけきよ)。
資清さんの子は超有名人ですが、それは後にして・・・

永享の乱では扇谷上杉は山内上杉方についた。
その後どちらの上杉の当主も引退したので、両上杉の新当主はまだ若く、
それぞれの主を補佐した山内の家宰・長尾景仲と扇谷の家宰・太田資清は
2人あわせて「関東無双の案者(=知恵者)」と評された。

で、せっかく鎌倉公方になれたんだから成氏も過去のことは水に流して
頑張ればよかったのに、親の仇を討ってうっぷんを晴らしたいという感情を捨て切れず、
山内上杉の憲忠と反目し合うようになっていった。

さらには成氏の家臣が長尾氏の所領を押領する事件が起こり、
怒った長尾氏と太田氏が手勢を率いて成氏の御所を襲撃。
成氏は江ノ島に逃れて、成氏を支持する千葉・小山・宇都宮などの諸氏が応戦する。

これが「江ノ島合戦」で、緒戦は成氏方が優勢だったようだけど、
次第に膠着状態になり、和議が結ばれて成氏は4ヶ月ぶりに御所に戻る。



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最終更新日  2015年12月15日 23時20分50秒


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