戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年12月13日
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カテゴリ: 江戸めぐり
ふっっっ・・・

毎度のことですが、これを読んでいる方の中には、
江戸の記事のハズなのに戦国ジジイは何を書きたいんだ?と
思う方もおられるかもしれません。

基本的にはシリーズのテーマである「江戸」が中心で、
多少枠を広げて武蔵国の簡単な流れを書き留めておこうという意図なのですが、
実は関東の歴史というのは、大きな眼で見るとただ一国の中にちんまり収まるような
ものではなく、国をまたいで関東というエリア全体で動いております。


こと関東に関しては広いエリアを「武者たちが駆け抜けた」と
表現するのがぴったりくるとわたくしは思います。

西国なんかでもたとえば大内氏や尼子氏、山名氏などのように
何ヶ国もの守護を兼ねた大々名もいるにはいますが、
それとはまたちょっと違うイメージなんだよな。

それはやはり、坂東武者が発展したエリアであり、
朝廷からの独立性の高い武家の最初の政権が鎌倉に置かれたことが大きいと思う。
鎌倉に幕府が置かれたからこそ、次の時代でも関東を直接統治する鎌倉府が設置され、
関東に独自の争乱をもたらした。

何でそんなことになったのか、そのなれそめを押さえるには
どうしても広く歴史を眺める必要がある。



え~とそれで、上杉氏が関東管領として確固たる地盤を築いたあたりまで来ましたが、
鎌倉公方は次第に幕府から自立するような姿勢を見せ始める。

関東公方相関図


足利2代将軍・義詮と初代鎌倉公方・基氏の兄弟は仲良く同年に亡くなったので、
3代将軍・義満と2代鎌倉公方・氏満はほぼ同じ頃にそれぞれの父の跡を継いだ。

一般的に義詮は「鎌倉公方」としてはカウントされないので、
ここでも初代鎌倉公方を基氏としておきます。

のちの俺様・義満も将軍就任当初はまだ少年だったので、
室町のジイ・細川頼之が補佐についた。
が、義満が20歳を超えた頃、ジイが失脚する事件が起こる(康暦の政変)。

ジイの失脚については色んな推測がなされているけど、
この政変を敏感にキャッチした鎌倉の氏満は京のスキに乗じて挙兵しようとした。
しかし、氏満の軍勢が京に入ることはなかった。
上杉憲顕の子で関東管領となっていた上杉憲春が、
氏満をなんとか止めようと鎌倉の自邸で自害したからだという。
憲春の諌死についてウィキペディアでは

 【氏満に加担すれば関東管領の地位を失い、対立すれば氏満の信頼を失い、いずれに
  しても正当な後継者とされた憲方と彼を押す上杉氏一門による政治的失脚は
  避けられなくなる。】

としている。

前回、上杉憲顕が死去すると憲顕の実子で宅間上杉の養子となっていた能憲が
関東管領になってますが、憲春は能憲の弟にあたる。
本来であれば能憲のあとはその子(憲方)が継ぐべきところ、
憲春が上野守護となり関東管領にもなったことで一族内でも問題になったらしい。

鎌倉公方・氏満が危険な方向へ進み始めたのと同様に、
上杉氏内でもすでに分裂の萌芽が見え隠れしている訳ですが、
いずれにせよ上杉憲顕の代から関東管領は幕府の取り次ぎ役も務めていたので、
一族内での問題がなかったとしても、氏満が危険な思想を持てば持つほど
関東管領である上杉憲春は幕府と鎌倉府の板挟みで苦しい立場になっただろう。

そこから20年経つと俺様・義満の権威は絶大なものとなり、
明徳の乱で山名氏を叩き、九州探題・今川貞世(了俊)を罷免するなどして
有力大名を排除する方向へ進み、さらには大内氏に矛先が向けられる。

堺で挙兵(応永の乱)した大内義弘 は諸大名に連合を呼び掛けた。
応永の乱の頃には義満の権威は相当なものだったから、
諸大名を誘うなんて義弘もずいぶん大胆なことしたよな~とこれまで思ってたけど、
尊氏から義詮までの室町初期よりはずっと世情もおさまっていたものの、
長すぎた内乱の傷跡はまだ残っていた。
だから、義弘の読みもあながち間違ってたとは言えないのかもしれない。

その傷跡とゆーか、直義の置き土産の影響を恐らくもっとも強く受けたのが関東で、
鎌倉3代公方となっていた満兼が義弘に呼応した。
この時も上杉憲顕の孫で関東管領の上杉憲定に止められて、
武蔵国の府中まで進軍したものの、大内義弘が討ち死にして総崩れとなったため、
途中で引き返した。
俺様・義満が当然この動きを看過するハズもなく、
さらに鎌倉4代公方・持氏は、関東にいながらにして幕府と主従関係を結んでいた
「京都扶持衆」と呼ばれる武士たちの討伐なども行ったので、
幕府と鎌倉府の溝はますます深くなっていく。

そのうち、上杉氏が鎌倉公方に反乱を起こすようにもなってきて、
関東では鎌倉公方と関東管領・上杉氏との反目が続く。
そこに幕府の思惑も絡む。
さらに、上杉氏内でも勢力争いがエスカレートするようになる。
全国的に見れば、ある程度の時期までは南北朝や観応の擾乱の影響が遠ざかって
落ち付いていったのに対し、関東だけはいつまでも
直義の遺した熾火がくすぶり続けていたようなもんだった。


実は、この時期の1人の上杉氏当主は大内氏と関係を持っています。
その名は上杉憲実(のりざね:1410?-1466)。
山内上杉氏の出で、4代鎌倉公方・持氏のもとで関東管領を務めた方ですが、
京では将軍の後継者問題が持ち上がり、神意(くじ引き)によって義教が6代将軍となった。

この辺の経緯は 「道灌山城」 でも簡単に書いてますが、
将軍になれなかった持氏は将軍・義教への祝賀の使者を送らず、
元号が改元されてもシカトして前の元号を使い続けるわ、
将軍に任命権があった鎌倉五山の住職を勝手に指名するわ、
将軍家に露骨に対抗する姿勢を見せ始める。

関東管領・上杉憲実は当然必死になって持氏をいさめ、京への取りなしも行ったが、
持氏はそんな憲実をウザいと感じ始め、遠ざけるようになる。
果ては、持氏が憲実を討伐するというウワサまで流れるようになり、
憲実は関東管領を辞職する。

憲実が辞職した翌年は持氏の嫡子がお年頃を迎えた年で、持氏の子は元服した。
上の系図をちょっと見てください。
2代・氏満と3代・満兼は将軍義満から一字をもらい、
4代・持氏は将軍義持から一字をもらった名前。
主君である将軍から偏諱を受けるというのがこれまでのルールだったから、
持氏の子は本来であれば「教氏」とかいう名前になるハズだったのが、
義教から一字はもらわず、それどころか将軍家の通字である「義」の字を用いた
「義久」という名前を勝手に付けた。

さらには義久の加冠を鶴岡八幡宮で行い、通称を「八幡太郎」とした。
・・・つまり、源義家にならった訳ですね。
八幡太郎義家から続く嫡流だと誇示したかったのかもしれない。

ここに至って憲実は

「コイツ、もうアカンわ~」

と思ったのかもしれない。
憲実は義久の元服式には出席せず、領国の上野へ帰っていった。

ところで、6代将軍・義教といえばもと僧侶だったのにも関わらず
独裁政権を目指してエネルギッシュに行動した方として有名ですが、
義久の元服より少し前には、鎌倉公方・持氏と叡山が共謀して
義教を呪詛しているというウワサが流れ、義教は叡山の僧侶4人を
だまし討ちにして殺している( 「叡山攻め(86)」 参照)。

義教が叡山を攻撃したのは、持氏がらみの理由だけではなく、
呪詛の噂が流れる前からひと悶着あったが、最初の頃はまだ
将軍職継承の世話人ともいえる満済ちゃんや畠山満家がいてなだめたので
どうにかおさまっていた。

が、義久の元服の頃にはその2人もこの世の人ではなく、
もはや義教を止める人は誰もいなかったとウィキは語る。

して、次代の鎌倉公方となるべき義久の元服式に出席せず、
領国へ帰った上杉憲実の行動を、持氏は「謀叛」と認定して軍を起こした。
これに対し、義教も持氏の叔父にあたる篠川公方・満直や駿河の今川氏など
手近な勢力に持氏討伐を命じ、加えて幕府軍も出した。
さらに義教は朝廷に綸旨を出させて、持氏を「朝敵」に仕立てあげた。

これに敗れた持氏は、偶然なのか何なのか、鎌倉へ戻る途中で
憲実の家宰に出会ったそうで、憲実に調停を依頼したそうな。
それで、鎌倉に戻った持氏は称名寺で出家したというんだけど、
この称名寺は金沢文庫(現・神奈川県立金沢文庫)の裏手にある寺で、
戦国ジジイになってまだ初めの頃に1度行ったことがある。

『永享記』によると、持氏は異心のないことを示すために
まだ40歳という若さで出家し、長春院殿揚山道継と号した。
ところが、山内上杉氏の家宰が率いる軍勢が称名寺へ押し寄せ、
持氏の近臣たちの多くが討たれた。
そのほかにも永安寺で討たれた家臣もいた。
持氏の近臣の中には、常々持氏に諌言していた者もおり、
憲実はその者を討たないように使者を送ったが、間に合わず殺されてしまった。
永安寺に入った持氏には扇谷(おうぎがやつ)上杉氏や千葉氏が交代で監視につき、
さながら「禁籠」のようであった・・・

あの静かな称名寺でそんなことがあったなんて、現地に行った時は全く知らなかったので
驚きましたが、憲実はそんな持氏の助命と、義久の鎌倉公方就任を京に懇願した。
が、義教は持氏を許さず、憲実に持氏を討つように命じた。
これに従って憲実は永安寺を攻め、持氏は自害し、鎌倉府は終焉を迎えた。
これを「永享の乱」という。

将軍に代わって関東を統括し、治安の維持を図るハズだった鎌倉公方本人が
乱の当事者になってどーする!!ってカンジですが、系図はまだ続いてますね。
混乱はまだここでは終わらないのだ。
つか、南北朝&観応の擾乱からイエアスの入府までの間、
関東に平和な日々はやって来なかったというのが実情じゃないかと思う



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最終更新日  2017年10月29日 00時01分35秒


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