戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年12月23日
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カテゴリ: 江戸めぐり
さてね、山内上杉憲実が子に家督および関東管領職を継がせようとしなかったのに、
享徳の乱で結果的に憲忠が殺されるハメになったのは、
家宰の長尾景仲が憲忠を担ぎ出したからだった。
江ノ島合戦の時も、鎌倉公方の御所を襲撃したのは山内上杉の長尾景仲と
扇谷(おうぎがやつ)上杉の太田資清だった。
つまりこの頃、各上杉氏の中でもそれぞれの家宰がかなりの力を持っていたらしい。

戦国時代から日本史に入ったわたくしとしては、上杉といえば春日山城のある越後であり、
関ヶ原後に押し込められた米沢のイメージが強い。
結構最近になって上州も上杉の領地だったことを知って、

納得をしましたが、謙信よりほんのちょっと前までの上杉氏は越・上なんて辺鄙な土地ではなく、
関東平野のど真ん中を我が物顔に闊歩する関東の王者だった。
もちろん、名目的には関東のトップは鎌倉公方だけどね。

ここまで書いてきたように、頼朝以降、鎌倉は武家の聖地的扱いであり、
実質的な関東の支配にあたっては特に相模と武蔵を押さえることが重要で、
上杉憲顕以降、上杉氏が関東管領を独占するようになってはじめのうちは
山内と犬懸(いぬかけ)が交互に関東管領を継ぎ、あわせて武蔵守護も兼帯した。
そのほか、山内は上野・伊豆・越後守護を、犬懸は上総守護を相伝した。
守護職以外にも各上杉家ではひろく関東のあちこちに所領を持ってはいたが、
おもに南関東を陣取っていたものとイメージください。

扇谷家は当初は山内家の家宰の長尾氏にすら遠く及ばなかったともいうものの、
山内憲実がガンとして身を引いた ため、
憲実の弟・清方が憲実親子の穴を埋めたものの、まだ若く経験不足に見えたので
清方のサポートにつく形で扇谷家の発展も始まる。

扇谷家の家宰は、太田氏。
太田氏は信憑性の高い系図がほとんどないらしく、ゆえに系図詐称の疑いはあるものの、
平賀義信とともに頼朝に優遇された源広綱

広綱は何を思ったか突然出奔したという人で、伝承によると広綱の子が朝廷に仕え、
のち丹波に所領をもらってその子孫が関東に移住してきたって流れのようで、
上杉氏も丹波から関東へ移住してきた氏族だから、その当時から上杉氏と太田氏に
主従関係があったかはわからないものの、まあ 上杉重房あたりの下向 に伴って
太田氏も関東に土着したものと思われる。

で、山内憲忠が殺されて「古河公方」が誕生したあたりまで話を戻しますが、
この頃、扇谷の太田資清は子に家督を譲った。
その子が太田氏でもっとも有名となる太田資長(すけなが)・・・
戦国ファンの中には「三楽のが有名じゃん!!」て方もおるかもしれませんが、
歴史に興味のない人にも「太田道灌」の名(だけ)を知る人は多いでしょう。

ま、家督を譲られたといってもまだオヤジもバリバリの壮年だったので、
資清&資長で親子鷹のよーに果敢に現実に立ち向かう。

山内憲忠が殺されたあと、公方の足利持氏みずから出陣して上杉氏を苦しめたあたりを
前回書きましたが、この戦いの中で扇谷当主・顕房も討ち死にしてしまう。
のでマジモードはさらにエスカレートし、成氏が古河に拠点を置いてからは
利根川をはさんで東(おもに下野・常陸・下総・上総・安房)の古河公方陣営、
西(おもに上野・武蔵・相模・伊豆あたり)の堀越公方&関東管領陣営と
真っ二つに割れることになった。
もちろん、ここでいう利根川の流れは現在とはまったく違うものです。

それで、川向こうの古河公方陣営に対抗するため、太田の親子鷹は
川に近い要所に3つの城を築くことになった。
それが河越・岩槻・江戸の各城で、資長はそれまでは品川あたりに居を構えていたらしいが、
あらたに城を整備するに至って江戸城に移ったそうな。
もっとも、3つの城のうち岩槻は近年になって古河公方方の忍城主・成田氏による
築城だということが有力視されているようだけど、
いずれにせよ古河公方方との全面戦争に際して前線基地を利根川に近い場所に置き、
それまで相模を中心として活動していた扇谷家が武蔵に進出する足がかりを作ったことに
変わりはない。

そして長い戦いの中で資長は出家し「道灌」となるので
もうここからは道灌さんとしますが、道灌さんはあっちに行きーのこっち来ーので
獅子奮迅の大活躍をしている。
その中で、実は柏にも来ていましてね。
単なる来訪ではなく、この享徳の乱にからむものです。

 【酒井根合戦場

  現在は光ヶ丘地区となっていますが、このあたり一帯は「酒井根合戦場」といわれ、
  ここにあるような小塚が数十もありました。酒井根原合戦場と言われているのは、穀倉地帯で
  ある下総国を求めて太田道灌と千葉孝胤が一戦をかわしたところからこういわれています。
  この戦いの最も激戦の地は、現在の麗澤大学の前(小字赤作)あたりとされています。

  当時の模様は、松戸市小金の本土寺の過去帳に「文明15年(1478)12月10日
  於境根原打死諸人等皆己成仏云々」とあり、また鎌倉大草紙に「太田道灌は、国府台より
  はせ向かい、合戦終日、木内、原(千葉勢)ことごとく討ち死にし、千葉孝胤は臼井城に
  退いた」とあります。戦いに勝った太田道灌は、戦死した者の霊を弔うため、敵、味方の
  区別なく首、武具をそれぞれより分け、首塚、胴塚、刀塚としたと伝えられています。

  その一部と伝えられている塚がここに保存されています。地名の「酒井根」は、ちょうど
  このあたりが相馬郡と葛飾郡の境だったことから「境根」と呼ばれたそうです。また、
  合戦に勝った太田道灌が乾いたノドを酒井根薬師堂近くの井戸の水でうるおし、まるで
  酒のようにうまかったので以後「酒井根」に変わったなどの言い伝えが残っています。

  また、平成11年、12年度の団地建て替えに伴う財団法人千葉県文化財センターの発掘調査
  によって中近世と思われる道路状遺構、溝状遺構、土抗などの遺構や常滑・渥美産の陶器、
  宝篋印塔、板碑、銭貨などの遺物が確認され、交通路あるいは墓地に利用されていたことが
  明らかになりました。
  このように本地域と歴史上の太田道灌とのつながりは深いものが見られます。】
  (現地解説板より。漢数字は戦国ジジイが変換)

「ここにあるような小塚」の写真がないのでとりあえず解説板にある
小塚の測量図だけ載せておきますが、

KIMG0250

ホントにちっさくて地味な塚。
この塚があるのは、かつてはホントに昭和の団地~ってカンジの場所で
今ではそれが大きくて近代的な建物に建て替えられたので、
住民でも最近住み始めた人の中にはここが古戦場だったなんて知らない人も
おるんじゃないかと思いますが、わたくしの知り合いがここの近くの小学校卒でしてね。
彼が小学校在籍中、付近の古老が昔話にやってきたことがあったそうで、
この小塚のある場所から南東にある坂が激戦地だったので
坂の下は討ち死にした兵たちの血で真っ赤に染まった・・・なんて話を聞かされたらしい。

この坂は解説にある麗澤大学の前とは違う場所のことだと思うんだけど、
解説にある激戦地の小字は「赤作」だとあるから、
これも流れた血を連想させる字名ではあるよな。

ちなみに、道灌さんが出陣した理由は「穀倉地帯の取り合い」なんて単純なものではなく、
長く続いた享徳の乱の1ページ、千葉氏の跡目争いによるもの。
古河公方と対立したといっても、道灌さんは乱の鎮静化に努めたらしく、
最終的には古河公方と幕府の和解が成立して(=都鄙合体)
長い享徳の乱が終焉を迎えるんだけど、個人的都合から都鄙が合体されては困る者もいた。
その1人が酒井根で対戦相手となった千葉孝胤で、
要するに乱を終結に導くために道灌さんが柏にお出ましになったということらしい。

千葉氏はその名の通り千葉県の氏族だから、道灌さんはよそから来た攻撃者ということに
なるけど、柏には酒井根以外にもずばり「道灌」の名を冠する小字が9つもあるそうで、
意外にもよそ者の道灌さんに対し好意的に受けとめているらしい。

道灌さんといえば足軽の創始者のように言われたりもするけど、
実際にはもっと以前から足軽は活躍し始めていたらしい。
それでも道灌=足軽軍法みたいに言われたりするのは、
それだけ縦横無尽に活躍したヒーロー的存在だったということかもしれない。

しかし、目立つ活躍をする家臣を持ってそれに心から感謝するには、
その主君は相当「できた人」でなければならない。
あいにく、道灌さん晩年の主君である扇谷定正は「できた人」ではなかったので、
道灌さんを糟屋の館に招き、家臣に命じて風呂から上がった道灌さんを
斬り殺させてしまった。
享年54歳。

扇谷定正が忠実な家臣を殺してしまった理由については諸説ある。
もっとも有名なのが山内家の陰謀によるというもので、
道灌さんの大活躍によって存在感を増した扇谷家に危機感を持った山内顕定が
扇谷定正にあることないこと吹き込んで殺させたとか、
他にも自分の力におごった道灌を扇谷定正が誅伐したという説などもある。

そして、斬られた道灌さんも

「当方滅亡!!」

というナゾの言葉を残したとされる。
この言葉についても色んな解析がなされているようだけど、
いずれにせよ


永遠に不滅ですっっ!!」


て祝福した言葉でないことに間違いはない。

有名な「太田道灌状」では、頑張った家臣に対して正当な評価がなされていないと
一種の不満を表明しているようなので、あるいは扇谷定正から見て
我慢のならない粗暴な振る舞いなんかも時にはあったのかもしれない。
それでも、これは時期が悪かった。

同じ上杉氏でも山内家と比較にならないほどの小勢力だった扇谷家は
かつて「小さな鳥」と笑われていたそうで、それを山内家と肩を並べるほどの
勢力に育て上げたのが道灌さんだったのに、その家臣を無残に殺したことで
扇谷定正の人望はガタ落ちとなり、扇谷家を出て山内家に走る者が続出したという。

すぐ近くでは虎視眈々と付け入るスキを狙う者がいたのに、
大勢を見ることができずに小事にこだわってみずからスキを作り出した。
ここから扇谷家のみならず、上杉氏全体の凋落が始まる。



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最終更新日  2015年12月23日 22時57分30秒


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