戦国ジジイ・りりのブログ

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2015年12月25日
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カテゴリ: 江戸めぐり
さあて、ここからは「新興勢力」の登場です。

関東における戦国時代は享徳の乱から始まるという見方もあるようだけど、
鎌倉がずっと「副都心」的な存在だったがために、
関東では鎌倉幕府の成立以降ずっと「上部権力」に振り回されてきて、
特に鎌倉幕府の滅亡以降はたえずドンパチやっているような状態で、
関東の場合は「ここから戦国時代」なんて区分けができないんじゃないかというのが
わたくしの率直な感想ですが、ここで初めて「上部権力」からほぼ卒業した勢力が
出来上がります。
それが、後北条氏。


「梟雄」として名高い彼は、かつては一介の素浪人から戦国大名にのし上がった
下剋上の典型として語られていましたが、近年の研究では名族の伊勢氏の出で、
素浪人どころか将軍に近侍し幕府申次なども務めた立派な経歴を持つ人だということが
判明したそうな。
ま、早雲自身は「北条」を名乗ってはいないし「早雲」ものちの号ではありますが、
ここでは(めんどくさいので)「北条早雲」で通します。

早雲は備中の生まれだそうだけど、姉妹が駿河守護の今川義忠に嫁いだ関係で
今川氏との縁が深い。
この姉妹は「北川殿」と呼ばれ、早雲が素浪人だと見られていた頃は側室だろうと
されていたものの、近年では正室だろうと推測されておるそうな。

成長した早雲が歴史に登場するのは、足利義視(よしみ)の近士という立場。

兄弟に持つ。
義視は幼い頃から僧として育つも、将軍・義政が子に恵まれなかったため、
僧侶から還俗して次期将軍として迎えられた人だったが、
のち義政の正室・日野富子に男子が生まれたためビミョ~な立場となり、
この将軍継嗣問題が応仁の乱の一因ともなる。


早雲も義視の供をして伊勢に行っている。
その翌年、義視は京に戻るがその中に早雲の姿はなかった。

早雲が義視に従って京へ行かなかった理由は不明のようだけど、
小和田哲男氏はこの頃、北川殿から駿河へ来ないかという誘いを受けていたのではないかと
推測しておられる。

早雲が駿河へ行ったことは間違いないものの、その具体的な時期が不明で、
仮に義視から離れてプータローになって間もなく下向したんだとしても、
駿河での早雲の具体的な動向は当面は現れない。

ところが文明8年(1476)、今川家当主の義忠が急死する。
今川義忠は応仁の乱では東軍として活動していたようで、
ちょいちょい遠江に出兵していたらしい。
で、この時も遠江の国人を討って凱旋したのに、
討った国人の残党に帰国途上に襲われてあえない最期を遂げた。

今川義忠と北川殿の間には男子・龍王丸(たつおうまる)が生まれていた。
が、龍王丸はまだ3歳かもしくは5歳という幼児で、
戦火が全国的に広がる中で幼い龍王丸を当主に据えることに不安な空気が家中に広がり、
義忠のいとこにあたる小鹿範満(おしか・のりみつ)を
当主に立てようとする家臣も現れた。

これが単なる今川家内での家督争いというんならわたくしもラクなんですが、
すぐ東の関東ではここまで見てきたように諸家入り乱れての泥沼合戦が続いており、
ゆえにここにも関東の面々が乗り出してくる。

今川氏関係図-2


かなり大ざっぱな関係図ですが、小鹿範満の母は犬懸上杉氏の政憲。
犬懸政憲は 足利政知 (まさとも)の執事を務めた方でね。

今回の歴バナは「点描」を念頭に置いているので、
ものすごく複雑なところは簡単な説明だけでスルーしようと思って
一旦はそういう文章を書くものの、流れを説明する上でどうしても省けない部分もあり、
また戻っては書き直すということを繰り返しておるのですが、
ここでもまた足利政知に戻ってしまいます。

関東の歴史はエリア全体で動いているために総じて複雑ですが、
鎌倉幕府の滅亡後は複雑さが加速しており、鎌倉公方がどんどんおかしな方向へ
行くに従って混迷度を増殖させております。
特に永享の乱以降はその度合いがひどくて、限りなく透明度の低い泥沼、
もしくは日本一汚い沼として有名だったかつての手賀沼のように
ヘドロが溜まりまくった水面下ではさらに元気な藻がこんがらがっているようなもんです。


で~え、堀越公方・まさとも。
政知は幕府から公認された正式な「鎌倉公方」で、
京から下向する際には「執事」を2名連れてきた。
そのうちの1人が犬懸政憲の父・教朝(のりとも)。

結果的には政知は鎌倉に入れず伊豆止まりのままだったので
「堀越公方」とされるものの、当然ハナから堀越に落ちつくつもりだった訳じゃない。
本当は鎌倉に入って、時の将軍家に血の近いあらたな血統の「鎌倉公方」を
再スタートさせるハズだった。
そういう政知を補佐する「執事」は、これまたあらたに公認された「関東管領」だった。

政知さんという人は可哀想っちゃ~可哀想な人で、
「新・鎌倉公方」として「旧・鎌倉公方」の足利成氏を討つ大仕事もあった。
これは政知単独での任務ではなく、幕府からは関東周辺の諸氏にも動員命令が出ており、
彼等と協同して成氏包囲網で一気にカタをつけるハズが、
まず強大な軍事力を持つ斯波氏が氏族内の内紛にかかずらわっていて包囲網に参加できず、
大幅な戦力減で第一段階敗退。

ただ、一般的に「古河公方・成氏の勢力が強大だったため
政知は鎌倉に入れずまず伊豆の国清寺に入った」と言われるものの、
政知が関東に来た頃にはまだ駿河の今川範忠が鎌倉を押さえたままだったし、
相模に地盤を持つ上杉氏は幕府ともつながっていたので、
何で政知が鎌倉に入れなかったのかがどうもよくわからないんだけど、
鎌倉に入っていれば政知は「鎌倉公方」と呼ばれていたハズなので、
鎌倉というゴールにたどり着けなかったことは事実なのだろう。

そして政知が伊豆に来て2年ほどすると、鎌倉にいた今川範忠が駿河へ戻る。
本来であれば、政知を鎌倉に迎え入れるまで今川範忠は頑張るべきところだろうけど、
新・鎌倉公方の誕生を果たさないままなぜか帰国。
帰国の翌年には子の義忠に家督を譲ってまもなく死去しているようなので、
体調が思わしくなかったのか、あるいは斯波氏の内紛の影響が駿河にも及んでいたとも
いうので、政治的な理由によるものか。

なんにせよ、今川範忠の帰国によって防衛ラインが少し緩んだところで
古河公方陣営が政知のいる国清寺を攻撃してきたので、
もう少し西に拠点を移し、ここが堀越御所と呼ばれる。
ええと、近年世界遺産にもなった韮山反射炉から結構近い場所のようですね。
(伝・堀越御所の場所は こちら )

古河公方のおもな勢力範囲はかつての利根川を挟んで関東の東半分だったから、
陸路なら伊豆の政知を攻撃するには相模・武蔵に強い地盤を持っていた
上杉氏の領地を突破しなきゃならないと思うんだけど、
房総半島から海路で攻めたのか?
あるいは、今川範忠が家督を相続する際も当時の鎌倉公方・持氏に与する国人が
蜂起したというから、鎌倉公方の駿河への影響力もあなどれないもので、
伊豆周辺の公方勢力が国清寺を攻めたのかもしれないな。

古河公方・成氏の討伐と関東の安定統治というミッションを背負って下向したのに、
予定していた戦力は整わなくて戦に負けるし、住んでた寺は焼き討ちされるし、
つい「ミッション・インポッシブル」のテーマソングなんか歌っちゃうような展開に至って
政知は幕府へ使いを出す。

幕府としても放置しておく訳にもいかないので、再度斯波氏の兵の派遣を検討し、
この時あの朝倉氏からも兵が出されたというからオドロキ。
軍備補強でやっと新・鎌倉公方の誕生か!?と思いきや、

 【しかし、政知が斯波軍の兵力を背景に鎌倉へ移ろうとすると8月22日に義政に
  制止された。これは幕府が関東の幕府方勢力である上杉氏と堀越府が結びつき、
  堀越府の自立することを恐れて幕府の統制下で繋ぎ止めようとしたからであり、
  軍事指揮権も政知ではなく幕府が掌握、政知の頭越しに関東諸侯に命令していたため
  政知に実権は全く無かった。】
  (ウィキペディアより)

・・・読んでるわたくしも、他人事ながら




と憤慨したし、当の政知はもっとやるせない気持ちでいっぱいだっただろう。

関東の歴史がごちゃごちゃになるのは一種の風土病のようなものかもしれん、
とわたくしは思うのですが、政知が新・鎌倉公方になりそこねて
堀越公方として関東の辺縁で日を過ごすうち、
堀越府もじわじわと風土病に侵されて独自の動きを始める。

政知が下向して3年後の寛正2年(1461)、
共に下向してきた執事の犬懸上杉教朝が死去。
享年53歳。
死因は病死とも自害ともいわれるが、教朝の死の翌年には政知が
扇谷上杉氏当主・持朝(もちとも)の謀叛を幕府に報告しており、
扇谷家宰の太田資清(道灌の父)は隠居、さらに扇谷家の重鎮数名も隠遁している。

もともと上杉氏は憲顕以降、幕府とも関係を持っていた。
ので、幕府もすぐに政知の注進を信じた訳ではなく、
まずは政知に扇谷持朝の保護を命じたという。
ところが、政知は扇谷持朝から相模守護職を奪い取った。
これ以前から、政知の家臣が相模国人の所領に
勝手に入り込むというような事態も起こっているので、
堀越府が自力で関東をもぎ取ろうと独自の動きを始めたのかもしれない。

上杉氏内では、当然堀越府の行動が問題視された。
鎌倉には入れなくても、政知はいちおう幕府から公認された新・鎌倉公方予定者だったし、
犬懸教朝のように政知を補佐する者もいたので、両者は協調関係にあったと思われるが、
すでに現時点で関東はほとんどコントロールのきかない状態なのに、
このうえ上杉氏が堀越府・・・ひいては幕府からも離れるようなことにでもなれば、
完全に手のつけられない危険な状態に陥ってしまう。

こうした経緯を見るにつけ、将軍・義政が東山山荘(銀閣寺)で
自分の世界に没頭したくなったのもわかる気がするわ~とつくづく思いますが、
とりあえずこの時は関東の危機に際して義政みずから調停に乗り出し、
扇谷家の地位を安堵し上杉氏をつなぎ留めることに尽力した。
その一方で、扇谷教朝とともに政知を補佐していたもう1人の執事・
渋川義鏡(よしかね)を堀越府から追放した。

こうした流れから、一連の出来事は渋川義鏡の讒言によるものと世間では推測される。
だから、扇谷教朝の死はそれと関連する自害であった可能性が高い。


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最終更新日  2015年12月27日 18時25分31秒


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