戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年01月23日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
江戸城を落としたことは、武蔵進出への大きな足がかりとなった。
北条氏綱は江戸城本丸に富永政直、二の丸に遠山直景を入れ、
香月亭には今回の功労者である太田資高を配した。

扇谷上杉朝興は結果的に江戸城を取り戻すことはできなかったけど、
だからといって敗北してそのまま歴史の闇の中に消えていった訳でもなく、
江戸城奪還および後北条氏掃討を目指して長きにわたる精力的な活動を展開する。

そのさ中には、反目していた山内上杉家や古河公方とも和睦し、
さらに甲斐の武田信虎(信玄の父)とも手を結んで、
そのうえ 小弓公方
しゃかりきになって北条氏綱に対抗しようとする。

甲斐武田氏との同盟にあたっては、扇谷朝興は自分の娘を
武田信虎の嫡子・晴信に正室として嫁がせたという。
武田氏に詳しくないわたくしは、

えええええ~、晴信の奥さんて
三条殿じゃないのぉぉぉ~!?


と仰天しましたが、三条殿は継室だったらしいんだな。
朝興の娘は晴信に嫁いだ翌年、難産によって若くして亡くなったらしい。


後北条氏と今川家とは、この頃までは父・早雲のラインを引き継いで友好な関係にあり、
氏綱は天文4年(1535)には今川氏輝( 氏親 の子)の要請を受けて
甲斐国境に出陣したりもしていたが、今川氏輝が急死するとその跡目をめぐって
弟たちが争った(=花倉の乱)。


義元は当主となった翌年、武田信虎の娘を正室に迎えて甲駿同盟を成立させてしまう。

個人的には氏綱にはあまり激しい人という印象は持ってないんだけど、
義元の甲駿同盟には氏綱は相当怒ったといわれ、今川氏とも争うようになって
後北条氏は今川氏からの完全な独立を果たした。

周り中敵だらけ、という中を氏綱はよく辛抱し、敵の内紛にも助けられて

でもそこまで行くには時間がかかったし、扇谷朝興の頑張りというのも
なかなか見上げたもので、江戸城奪還までには至らなかったものの
扇谷朝興によって江戸城に火がかけられたこともあったし、
一時は相模・玉縄まで攻め込まれてもいる。

江戸城を後北条氏に奪われた後には、扇谷朝興は早雲や氏綱とそっくりな花押を使って
品川の寺に禁制まで出しているそうでね。
氏綱と扇谷朝興との争いは、天文6年(1537)4月に朝興が病死するまで続いた。

『快元僧都記』では、扇谷朝興の兵がちょいちょいやって来ては
火をかけて村々を荒らし回って困っていたので、相模の人は朝興の死を喜んだとしている。
江戸城を奪われてから朝興が死ぬまで13年。
その間ずっと相模に扇谷軍が入っていった訳でもないだろうけど、
名将の氏綱にこれだけしぶとく対抗したのだから、
扇谷朝興も有能な将だったと言っていいだろう。


後北条氏はその後も関東に勢力を伸ばし続け、
機動的な連携のために支城ネットワークが張り巡らされた。
後北条氏の本城は言わずと知れた小田原城だし、
後北条時代には沢山の支城の中で江戸城はあまりぱっとしない。
でも東京湾の制海権という点では重要な城だったと思うし、
後北条2代・氏綱の頃の制海権は東京湾の東半分に留まっていただろうに、
扇谷朝興がまだ生きてる間の享禄元年(1528)には
なんと八丈島に後北条の陣屋を置いたというからオドロキ。
まあ、相模や伊豆の方から船を出したかもしれないけど、房総には里見氏とかもいるし、
この時期に八丈かよ、すげえなと素直に思った。


さて、後北条配下となってから、江戸の町は城代・遠山氏などによって治められていた。
この記事の冒頭で、江戸城本丸には本丸に富永氏が入って、
遠山氏は二の丸に入ったと書きましたが、3人の城代のうち本丸の富永氏が
城代トップかと思いきや、【同時代の資料(宗牧の記述)によれば、遠山氏を城代として
重きを置いている】とウィキは言う。

扇谷家から後北条家に寝返った太田資高は北条氏綱の娘を娶ったようで、
その辺の詳しい経緯はわからないけど、たぶん江戸城が後北条方になって以降のことだろうな。
それによって太田氏は新参者の他国衆にも関わらず、一門並の処遇を得る。

太田資高と北条氏綱の娘との間には、男子が生まれた。
母方の伯父であり主君である後北条3代・氏康から偏諱を受けて
康資(やすすけ)と名乗ったその子は、氏康の養女を妻に迎えた。
氏康の養女は江戸城代・遠山綱景(直景の子)の実の娘といわれるので、
旧城主と新城主およびその重臣が婚姻を通して密接な関係を結んだことになる。

太田康資は後北条家臣として戦功も挙げるが、
のちに上杉方への復帰を目論んだとされる。
その理由については、戦功に対する恩賞に不満があったとか、
もともと江戸城は太田氏のものだったのに城代止まりで城主になれなかったのを
根に持ったとか言われているようだけど、いずれにせよこれは北条氏康にすぐバレたらしい。

康資がつなぎを付け、氏康にバレて逃げ込んだのが同族である岩槻の太田資正・・・
のちの三楽斎ですが、この頃の関東における上杉氏の勢力はもうほとんど
風前の灯といった状態で、ゆえに上杉を継いだ上杉謙信がしつこく関東に出張ってきていた頃で、
数少ない上杉方である太田康資・資正の救援のために
謙信は安房の里見氏に出陣を要請し、自身の軍とあわせて後北条軍を挟撃しようとした。

こうして起こったのが第2次の国府台合戦で、経過の詳細はここでは省きますが、
後北条方は本隊のほか、江戸城からも兵を出した。
江戸城代の遠山氏と富永氏も出陣したが、太田康資とともに城代であった2人とも・・・
特に遠山綱景は自分の娘婿でもある康資の寝返りに気付けなかったことに
責任を感じていたともいわれ、遠山・富永の両氏は本隊に先駆けて兵を進め、
2人とも討ち死にしてしまう。

これで一旦は里見軍が勝利したかに見えたものの、
後北条軍が夜襲をかけて結果的に後北条方の勝利に終わった。
太田康資は里見氏を頼って安房に落ち延びたとされるが、
その後については諸説あり、実のところはわからない。

ちなみに、この太田康資の娘がイエアスの寵愛を受けた お梶 (英勝院)と言われます。
お梶の出自も諸説あるけど、太田康資の娘という説が一番メジャーかな。

第2次国府台合戦を経て、築城者一族だった太田氏は
江戸城の歴史から姿を消す。
以後は遠山氏が江戸の支配に力を持ち、秀吉による小田原攻めまでそれは続く。
江戸城の整備も遠山時代に行われている。


して、いよいよの小田原攻め。
武蔵松山城が攻略された15日後の天正18年(1590)4月27日、
江戸城は開城した。

もうこれは相手が悪かったからしょうがない、と 「(29)」 で書きましたが、
それにしても駿河の端からスタートして最終的には関東一円を支配するに至ったのに、
後北条氏がいつまでも小田原なんかに居座っていたことは
関東人としてはどうも理解に苦しむ。
塩見鮮一郎は

 【平将門のころに成立した坂東圏イデオロギーは長く生きつづけたが、いつのころからか
  効力をなくした。たぶん、そのイデオロギーの最後の体現者にして破壊者は、太田道灌
  であったろう。】
  (『賤民の場所 江戸の城と川』より)

とする。

「(29)」では天下の険に守られて関東独自の経済圏ができていたらしいとも
紹介しましたが、これは小和田哲男先生と下山治久氏の対談にあった話で、
お2人はこんな話もしている。

 下山  断言めいた言い方をするなら、後北条政権は中央との関係を断つ状態にあった。
     そう言っても的はずれではありませんでしょうか。

 小和田 むしろ独立していたと言っていい。

 下山  それも意識的に。(中略)ところで、この意識的独立への姿勢は、
     何から生まれてきたんでしょうね。

 小和田 それなんですがね、この関八州東国国家の構想は、うがった見方と言われる
     だろうことを承知で言えば、平将門にありと実は考えているんですよ。
     どうですか、この憶測は・・・。

 下山  将門ですか、なるほど。将門こそ中央と抗い、なにするものぞといった気魄で対峙し、
     独立を欲しいままにしていたからね。その精神に倣ったというわけですか・・・。

 小和田 そうした精神が伝統として関東に根づいていたんじゃないでしょうか。中央とは
     一線を画すという風土があって、後北条はその影響を受け、独立意識を強めて
     いった・・・。

 下山  なるほどね、面白い。さもありなんというものですよ。
 (『真説【戦国北条五代】』より) 


え~とこの本は1989年発行なので、その間研究も色々進んでいるし、
お2人とも今では違う考えを持っておられるかもしれないけど、
ひとまず対談の時点では「将門」をどう捉えるかで塩見氏とは解釈が違っている。

共通している部分は、将門が独立国家構想を持っていたという点で、
違っている部分は塩見氏は「武」に重点を置いている点。
なぜ塩見氏は太田道灌が体現者にして破壊者だというのか。

 【丹波からはるばると東国へ流されてきた太田氏も、いつしか相模から武蔵にかけて
  根をはった。その足軽を使った戦法といい、江戸城内で毎日行われていた訓練といい、
  坂東武者の伝統を受けついでのことである。そして江戸の周辺には、まだ秩父氏の
  末裔たちが城をかまえていた。たぶん、このころまで、道灌は自分がよって立つ場が
  どこかをちゃんとわきまえていただろう。
  だが、彼の無双ぶりが評価され、気をよくして、風雅の道にいそしんでいるうちに、
  しだいに骨抜きになった。同時に、関東在地の豪族とのあいだに隙間風が吹き始めた。】
  (『賤民の場所 江戸の城と川』より)

それで秩父流平氏の豊島氏は反乱を起こし、最後は主君に殺されたのだという。
かなり辛口の評価で、素直に支持しかねる部分もあるものの、
さりとて小和田氏の考えもどこかなじめない。

中央なにするものぞ、という気魄は確かに関東にはあった。
ただ、ここまでを見てきた中でわたくしが感じたのは、関東は中央に反発する反面、
権威が大好きでかなり相当ものすごく保守的なお土地柄でもあるということ。
その「伝統」は貴種を鎌倉に戴いたことに始まる。
むしろ、「 風土病 」や「伝統」に後北条氏が染まらずに
どこまでも「よそ者」だったからこそ、後北条氏の意識的独立政策が生まれたんじゃないのか、
な~んて風にもちょっと思いました。


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最終更新日  2016年02月11日 23時44分14秒


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