戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年01月27日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
前回の続き。

 【北条氏綱は、江戸に拠点を移すべきであったのに、そうはしなかった。もはや関東圏は
  成立しないと知ったのか、小田原に尻をすえてしまった。中途半端である。たぶんに、
  父の早雲が伊豆韮山にいて、西のほうを気にしていたのに影響されてであるが、
  箱根・足柄両山の東と西の双方を領有する戦国大名早雲の出現によって、道灌死後も
  ちらついていた坂東圏の残り火も完全に消えた。】
  (『賤民の場所 江戸の城と川』より)

塩見氏のこの本はとても面白いが少々難もある、と旅日記の方で書きましたが、
長い長い歴史をひと通り自分なりに追った後でまたこの本に戻ってくると、


江戸へ拠点を・・・確かにそうだ。
後北条氏が独立構想を持っていたかは置いておくにしても、
関東の覇者を目指すのなら、版図が東に伸びた時点で
もっと関東のど真ん中に引っ越してくるべきだった。

氏綱が武蔵に手をかけた段階の江戸は、道灌時代の繁栄もまだ残っていたにせよ
本拠を置くにそれほど魅力ある土地ではなかったかもしれない。
それにしたって、せめて鎌倉の近くあたりまで移ってきたってよかったと
わたくしも思う。
ベストは武蔵だと思うけど。

これまでの関東の支配者は、がっちり関東を囲いこんでいた。
もちろん、いつだって一枚岩という訳じゃ全然なかったし、

でも関東、いや「坂東の盟主」としてのテリトリーははっきりしていた。
「坂」より西をあわせて領有したのは、後北条氏が初めてだった。

抵抗勢力が強かったから?
・・・それもあるかもしれない。
でも後北条氏は太田氏のように婚姻を通じて積極的に国人の取り込みも行って

氏綱や氏康ほどの人なら、その気になれば武蔵に腰を据えることは可能だっただろう。
なんで東に引っ越してこなかったのだろうか・・・
塩見氏は続けて言う。

 【関西から入ってきた北条は、関東の中心に居城をおけなかった。箱根の山の東のすみ、
  関東平野の西のすみを本拠地にした。結果、西の文化からも取り残されたし、坂東武者の
  荒夷(あらえびす)の夢を再現することもできなかった。やはり、どこか中途半端
  なのである。そのあと、西からきた徳川は、はじめ小田原城を居城にしたがったが、
  秀吉がそれをきらい、江戸城に入れと命じた。京からより遠く、より僻地へと追いやった。
  家康はよくがまんしたが、なにが幸せになるかわからない。
  東京はこの偶然から生まれたのである。】
  (前掲書より)

けっして小田原が悪いと言ってるんじゃない。
でも、関東には他のエリアとは違う独自の伝統と気質があった。
そういうところへあらたな支配者として切り込んで尻を据えるのなら、
みずから「伝統」の中へ飛び込むべきだったんじゃないのか。

時間をかけて辛抱強く、またあざやかに勢力図を塗り替えていった後北条氏は、
たいしたもんだと素直に思う。
前支配者たちが後北条氏の進出を手助けするようなスキばかり持っていたにせよ、
名将を続けて輩出した後北条氏の実力は誰もが認めるところでもあるだろう。
それなのに関東でどうも影が薄いのは、「坂」の真下にいつまでもとどまっていたことが
ひとつの要因なのかもしれないと塩見氏の文を読んで思った。



さて、徳川氏。
徳川家臣の間で語り継がれた話では、江戸に本拠を置くことが決まった時、
イエアス周辺の家臣たちはブーブー言ったという。

現代では、江戸に本拠を置いたのは「厭離穢土 欣求浄土」の「穢土」(えど)を
「江戸」に見立て・・・みたいな風水説もさかんで、そういう見方は江戸期からあったものの、
その一方で江戸期の家中では当初は喜ばしいことだと受け止められなかったという言い方も
されている。

「(29)」 で紹介した『徳川実紀』のエピソードは、
小田原城を見下ろせる陣中で秀吉とイエアスがしょんべんしながら
語ったものだとも言われるけど、連れションの事実はさておき、
江戸に本拠を移すことはイエアスの本意ではなかった可能性をうかがわせる。

ではここからは、『落穂集』あたりを中心に
江戸入府から徳川の江戸城初期の頃にかけての流れを紹介しましょう。

『落穂集』は享保12年(1727)に大道寺友山重祐が発表したもので、
質問者の問いに答える形になっている。
江戸中期に書かれたものなので、「まあホントかどうかはわかりませんがね」という言葉も
文中に見られるものの、大体が「年寄りに聞いた話によりますと」としているので、
正確な史実ではなかったとしても、家中ではこういう風に語られていたのかと考えると
興味深い史料でもあります。

小田原攻めにあって後北条氏第5代・氏直が降服を申し入れたのが
天正18年(1590)7月5日。
その後、イエアスは駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国を召し上げられ、
かわって後北条氏の遺領である相模・武蔵・伊豆・上野・上総・下総
および下野の一部と常陸の一部の関八州を与えられた。

同年8月1日にはイエアスが江戸へ入る。
1日は朔日ともいい、江戸入府が8月朔日であることから「八朔」と呼ばれ、
以後八朔は徳川家にとって重要な記念日となる。
のちの江戸では、記念すべき八朔の日には吉原の遊女も白無垢を着たという。

国替えにあたっては徳川四天王の1人、榊原康政が惣奉行に任命され、
ほかに青山忠成・伊奈忠次・板倉勝重や目付衆を中心として準備が進められた。
まずは大身・小身に関わらず、とにもかくにも知行割を急ぐようにとの言いつけで
家中の諸役人を全員江戸へ呼び寄せた。

まあ、当時の御城内には前城主の遠山綱景の家が残ってると言いましてもなあ、
 長い籠城のため城内はロクな手入れもされないままになっとりまして、
 あちこち破損してるわ、上板で葺いた屋根の上は土で塗り固められてたもんで
 雨漏りがするわで畳や敷物なんかも腐っておりましてなあ。 

 とりあえず、本丸はもとより二の丸・三の丸・外曲輪にある家々まで残ってましたので、
 当面の住居には不自由はしなかったそうです。
 とはいえ、城内の家々は瓦葺きどころかこけら葺きでさえ1つもなく、
 屋根はすべて日光杉や甲州杉、台所は茅葺きで、広いには広かったんですが、
 とにかく古い。玄関はといえば、上段には幅の広い船板を二段に重ね、
 板敷きはなく土間。権現様のお住居としてはあんまりなもので、本多正信殿などは

 「殿ぉ~、ちょっとコレ、あんまりじゃないッスか?
  これじゃ他国から使者が来ても応対できないし恥ずかしいッスよ。
  まず玄関廻りの普請から始めましょ~よ~。」


と申し上げたそうなんですが、権現様はからからとお笑いになって

 「なんだよ、お前。
  普段言わないようなずいぶん立派な伊達を言うじゃねーか」


とお取り上げにならず、まずは本丸と二の丸の間にある堀の埋立て工事を
 お急ぎになったそうです。

 さて、役人衆がしゃかりきになって知行割を終えると、権現様はご家中衆へ
 それぞれ下し置いた知行所へ軽く陣屋を構え、ただちに妻子を引っ越させるようにと
 お命じになったので、これは手早く片づきました。

 知行割にあたっては、権現様は旗本で小身の者には江戸に近いところへ知行を下され、
 高禄の者ほど遠い場所へ割り渡すように、ただしどんなに遠くても道中一泊の場所が
 限度だと仰せになったそうです。
 御隠居前に秀忠様に「旗本で小身の者達に良く目をかけ、親しく使う事が大事なんだよ」と
 言い残されたという権現様らしい御差配ですなあ。
 御大身の家臣には北条家の旧城地を下し置かれたのですが、誰にどこを、ということについては
 権現様が自らのお考えでお決めになったそうですよ。

 ま、各自で陣屋を構えると言ってもお国替えでやることは山ほどありますし、
 自分のことだけに構ってもいられませんので、小身の者は名主の家や寺などを借りて
 当座の住まいとしたのが多くあったようです。

 そうしてご家中衆が妻子をそれぞれの知行所へ移すと、自身の身と人馬だけを引き連れて
 御城の周辺に場所を受け取り、御用にあたりました。
 小田原攻めの際には江戸城の周辺は焼かなかったので家々もそのまま残っており、
 御城の近くには家中の御番衆を下宿させる町家はいくらでもあったそうでな、 
 知行所の遠い者はそういう町家に何日も逗留して、非番がどーだとか言うこともなく
 皆毎日出勤しておったそうです。

 当時は御番帳に名前を書いておけば1ヶ月、2ヶ月も勤めを済ますことができたそうで、
 そのうち段々と家を建てるようになっていったようです。
 例の玄関の船板も長い間放っておかれたようで、そのうえ御殿の普請でさえ
 質素な様子だったので、ご家中衆が自分の屋敷を質素にしても
 とがめる者もなかったそうですよ。

 そんな具合で家中が一丸となって作業に当たったので、国替えのあった同年の
 9月~10月頃には早くも家中の侍たちの引っ越しもおおむね終わりました。
 そして、権現様は秀吉公に


 「引っ越し終わりました~。ウチの旧領はもういつでもどこへでも
 引き渡せますよ~」


と使者を通じてご報告したところ、秀吉公は大層驚かれ、

 「いや~、旧領のうち三河・遠江・甲斐あたりはまだわかるけどさ、
  本城の駿府までも同じようにこんな早くに引き払うなんて、
  ちょっと考えられなくね?一体、どんな風に作業をやったんだろう。
  いやはや、イエアスちゃんのやることは凡人には理解できないよな」

と浅野長政に申されたそうです。


まとめるとこんなカンジ?

もうごっそりお国替えだからね。
小田原城のように整っている城へ入るのならともかく、

 江戸に城はあるにはありましたけど、太田や遠山などいずれも上杉や北条の
 小身の侍大将の城だもの。本来であれば、江戸が関八州の太守となられた権現様の
 居城になることなど、あり得ないものだったのですよ。


という所へまるっと引っ越して2~3ヶ月で完了させるなんて、
秀吉でなくても驚いただろう。

非番の日も倦まずに城に詰めて骨身を惜しまず働いた家臣たちの努力があってこそですが、
そういう侍を下宿させる町家はいくらでもあったと言ってるから、
やはり江戸城周辺にはそれなりの商業圏が残っていたものと思われます。



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最終更新日  2016年01月27日 22時52分58秒


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