戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年02月11日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
では、まずは大手高麗門の方からご紹介します。


東山御物展・江戸城・大手高麗門2


戸は筋鉄(すじかね)。
戸を横から見ると


東山御物展・江戸城・大手高麗門3


前回の写真の通り、この脇にはすぐに渡櫓門が控えているから、
お城ファンにはここが枡型だとすぐにわかるでしょうが、
それにしてもずいぶん薄い戸だなあ。
福山城の筋鉄御門 もこんな感じの薄さだったし、

なんて思ってみたりもする。

高麗門内側のすぐ脇は


東山御物展・江戸城・大手雁木



東山御物展・江戸城・大手雁木2


おお、城だよ城!!

江戸城跡地といっても、現在は「皇居東御苑」なので
どの程度城の遺構が残っているのかとちと不安もあったのですが、
入口からこれだから当然テンションは急上昇。

東山御物展・江戸城・大手門前


堀っぱたの石垣とは違って、内部は巨石もふんだんに使われた
綺麗な切込ハギでさすがの風格。
はつってるような石もあるし↓


東山御物展・江戸城・大手門前2


石垣の上部は綺麗に揃えられている↓。


東山御物展・江戸城・大手門前3


この石垣の先が


東山御物展・江戸城・大手門


工事中でシートをかぶっている大手渡櫓門。

工事前の渡櫓門の写真が現地にあったので、いちおう載せておきます↓。


東山御物展・江戸城・大手門2


大手門が最初にできたのが慶長11年(1607)で、
築城の名手・藤堂高虎による。
その後、元和6年(1620)に伊達政宗などによって修復されたが、
明暦の大火 (1657)の時に渡櫓門は焼失したらしい。

本丸御殿などは何度も焼失しているものの、
大火のあとに再建された渡櫓門は近代に入るまで罹災しなかったらしく、
大正12年の関東大震災で大破して昭和2年に改築、
その18年後に焼失してかつての門の遺物が大手枡型内に展示されている↓。


東山御物展・江戸城・旧大手門渡櫓のシャチ


 【旧大手門渡櫓の鯱

  1945年(昭和20年)4月、戦災で消失した旧大手門渡櫓の屋根に飾られていた鯱です。
  頭部に「明暦三年酉」と刻んであることから、明暦の大火(1657年)で消失した後、
  再建された際に製作されたものと推定されます。今の大手門渡櫓は、1968年
  (昭和43年)に再建されたものです。】
  (現地解説板より)

「戦災で消失」って、皇居って攻撃対象から外されたんだと思ってたんだけど、
結構あれこれ罹災しているらしい。
ネットで調べると、攻撃対象にはなってなかったけど堀を飛び越えた火によって延焼したとか、
皇居(当時は宮城といった)への攻撃は禁止されていたのに、
爆撃機のパイロットが行きがけの駄賃とばかりに勝手に爆弾を投下したとかあって
実際のところはよくわからない。
そもそも戦時下のことだから、正確な情報なんて公開されるハズもないし。

ただ不思議なのは、渡櫓門は燃えたのにそのすぐ近くにある高麗門は残ったということ。
高麗門の方がずっと燃えやすいだろうに・・・
ということで、渡櫓門は昭和の再建ですが、
高麗門の方はおおむね往時の姿をとどめているらしい。

ちなみに、今回の工事は東日本大震災で建物が大きく変形したためだとある。
年月の経過による耐久性の低下という面をのぞいても、
大破したという関東大震災の規模のすさまじさがうかがえる話ですが、
まあ東日本大震災は震源からかなり離れてるからな・・・


んで、こちらが現在の皇居東御苑の全体図↓。


東山御物展・江戸城案内図-2
  (現地看板より)

大手渡櫓門をくぐってすぐの場所の写真がありませんが、
現地にある別の絵図を一部拡大して加工したのがこれで↓


江戸城(三の丸)-2

赤い四角が大手門。
橋を渡るとすぐに右に90°向きを変えるので、
渡櫓門をくぐると赤い矢印の方向を見ることになるのですが、
濃いグリーンになってる部分は一般が立ち入れないエリア。
ここには宮内庁病院のほか、皇宮警察の宿舎や厩舎などがある。

ここはかつての江戸城三の丸にあたり、最下段。
渡櫓門のすぐ正面には大番所があり、その奥に下勘定所、
奥の門を入ると三の丸があった。
とはいっても、三の丸の御殿は元文3年(1738)に撤去されたといい、
しかも現在はパンピーは入れないエリアなので、
江戸城の訪問記を含めあまり世間で三の丸が話題になることはない。

どのみち入れないエリアだからここでまとめて三の丸の概略を紹介しておきますが、
ここも大手門と同じ慶長11年にやはり藤堂高虎が縄張を行ったとされる。
当初は石垣のみで建物などはなかったようなんだけど、
徳川四天王の1人・酒井忠勝の屋敷などは三の丸にあったというからオドロキ。

寛永12年(1635)に隣接する上の段の二の丸の拡張工事が行われたため、
三の丸の規模も変更される。
幕末には約2万坪の敷地があったという。

寛永20年(1643)に御殿の造営が始まり、正保3年(1646)に完成。
新築なった三の丸御殿には、3代将軍・家光の子である亀松と徳松が入った。
徳松はのちの5代将軍・綱吉ね。
慶安2年(1649)にはさらに徳松のための御殿が建てられたそうなんだけど、
それらの御殿も明暦の大火で灰燼に帰した。

歴代将軍の生母でメジャーな人といえば、家光の母・江か
綱吉の母・玉(桂昌院)がいい勝負かと思いますが、その桂昌院のための御殿が
延宝8年(1680)に建てられ、元禄2年(1689)に改修されている。

時期は異なるとはいえ、綱吉親子が住んだゴーカなエリアに
今では警察官などが住んでおる訳ですが、そのほかにも銃器庫・製薬所などがあり、
延宝5年(1677)には貨幣の改鋳が行われたりもしたらしい。
(三の丸概略の参考文献:『江戸幕府大事典』大石学編/吉川弘文館)

んで、上の三の丸エリアの図に戻りますが、
「二の丸庭園」との間に石垣が描かれているので段差があることはわかるものの、
上の図では地続きになってますね。

が、かつては二の丸との間には堀があって、独立した郭だった。
『鹿鳴館秘蔵写真帖』には大手渡櫓門を入ってすぐの、枡型の外側から
三の丸方面を見た写真が載っており、それには二の丸石垣の下を堀が流れている。
ので、御殿は江戸中期に撤去されたものの、江戸城開城まで二の丸とは堀で隔てられており、
近代に入ってから埋立てられて現在のような地形になったものと思われる。


さて、江戸城の図を見ると色々道が描かれていて

「わ~、どこからどうやって回ろうかな~」

とウキウキしますが、一般公開されているとはいえ
天皇陛下のお住まいのすぐ隣でもあり、東御苑も皇居の一部ではあるので
なにげに立ち入れない場所も多く、ゆえに大手を入ると悩む必要もなく
観光客は必然的にすぐ左に90°折れて奥を目指すことになる。

道なりに進んだ右手にあるのが三の丸尚蔵館↓。


東山御物展・江戸城・三の丸尚蔵館-2


ここでは何かの企画展をやっていたけど、お腹もすいてきたし
早く奥へ進みたいので中には入らず。
ここにも二の丸東側石垣下から続く堀があったけどすっかり埋立てられている。
三の丸尚蔵館の奥3分の2はかつての堀の中。

その斜め向かいにあるのがこれ↓。


東山御物展・江戸城・大手休憩所向かい


「済寧館」とあるこの建物は案内図に「gymnasium」とあるから、
武道館てとこかな。
ここも入れないエリアなので、皇宮警察の兄ちゃんたちが
汗を流している場所なのかもしれない。

その向かいにあるのが「大手休憩所」なんだけど、
写真がないな・・・
いろんな人種のニンゲンたちが沢山おったからな。

中は売店のようだったので、掘り出し物がないかと休憩所へ入ってみた。
せっかくの皇居なので、娘さんたちの首輪に付ける菊のストラップでもないかと
期待していたのだ。
・・・が、土産物の数はそう多くはなく、しかも

「オオ!ジャパ~ン!!」

てガイジンが喜びそうなグッズが多かった。
それでも、「これ、買おうかな」と思った何か(←覚えてない)があったんだけど、
売り子のおじさんは同僚とのおしゃべりに忙しかったので
声をかける気も失せて早々に城攻めに戻る。



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最終更新日  2016年02月11日 23時53分28秒


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