戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年02月15日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
大手三の門の枡型内部にはこんなものもある↓。


東山御物展・江戸城・同心番所2


 【同心番所

 「番所」とは、警備の詰所のことで、百人番所、大番所とこの同心番所の3つが残っています。
  城の奥の番所ほど、位の上の役人が詰めていました。ここには同心が詰め、主として、
  登城する大名の供の監視に当っていました。】
  (現地解説板より)

どんなに虎口を強化しようとも、こんな場所に番所なんか置いたら
防御力ガタ落ちで元も子もないので、城好きの方はもともと別の場所にあったものだと

監視をしていたというのがこの番所で、ゆえに一の門の内側ではなく、
外側に置かれていた建物。

大名の江戸城登城というのは、今でいえばさしずめ大病院を受診するようなもんかな。
さんざん待たされたあげく診察時間はわずか、みたいな・・・
まっ、それでも城内で粗相でもしようもんなら、ヘタしたら一族郎党どころか
一国の家臣が一斉にプータローになってしまうので、
大名本人にすれば「御城」への定例登城は大変なお勤めですが、
門外で待ってる家臣たちは長い待ち時間を情報交換などのおしゃべりに
費やしたりもしたそうで、「下馬」の立て札がある場所でのおしゃべりから
「下馬評」の言葉が生まれたなんて話もある。


それにしても、こんな場所に番所を移してくれんでもええのに・・・


東山御物展・江戸城・三の御門8


番所がジャマで枡型内部の石垣の眺めが一部遮られるからです。
ちょっとわかりにくいですが、上の写真の奥は雁木になってます。

反対の二の門側の雁木の前には、なにかある↓。


東山御物展・江戸城・三の御門7




さて、大手三の門の渡櫓門を突破すると、とたんに開放的な光景が広がります↓。

東山御物展・江戸城・百人番所前

左に写っている大きな建物が百人番所で、あれの場所は往時と変わってない。
城内には要所要所にいくつか番所があり、大手三の門は門の外に同心番所、
門の城内側に百人番所があるという厳重な構成だった。

ちなみに、『落穂集』では「現在の百人番所の門が当初の外構の大手門だったんですよ」
と言っているので、イエアス入府直後頃の城域はかなりミニマムだったことがわかる。

現在では大手三の門の先はやけに緊張感のないだだっ広い場所ですが、


東山御物展・江戸城・構成図-4 二の丸へ-2


青のラインが本丸へ向かう正式な登城ルート。
わたくしは二の丸から攻めたので赤のラインをたどっていきますが、
本丸・二の丸どちらへ行くにも複雑で厳重な造りとなってます。

この付近は現在ではこうなっていて↓

CIMG2882(補正) 大手三の門さき

かつて城を厳重に守った御門は見事に取っ払われていて、一部の石垣が残るのみなので、
城の構成を知らずにただ二の丸目指して歩いていくとどうなってたんだ、これ?
ってカンジになっちゃってますが、縄張図の方を見ていただくとわかるように、
大手三の門を抜けるとすぐ右に90°向きを変え、またすぐ右に折れて枡型に入る。
つまり、大手三の門の背中あわせにもうひとつ枡型があり、
二の丸を攻めるには二重の枡型を立て続けに突破しなければならない訳です。

第2の枡型の一の門は高麗門、二の門は渡櫓門の「二丸銅門」があり、
「あかがね」だから門扉に銅を貼っていたものと思われます。
慶長19年(1614)、寺沢広高によって建てられた門。
で、これが銅門の枡型に入ろうとするところの写真で↓


東山御物展・江戸城・三の御門ウラ


右に写ってる石垣は、下乗橋を渡って大手三の門の高麗門の正面にあった石垣の裏側。
なので、ひとつの石垣を効率良く使って2つの枡型を作り上げる構造になってます。

銅門は二の丸の正門にあたり、門前には番所があった。
銅門の警備は持弓・持筒組が各5人ずつ詰め、門番は大番与力および同心が務めたそうな。

銅門の枡型は、上の写真に写っている正面と右の石垣しか残っておらず、
しかも石垣直下は園地に作りかえられているので、
何も知らなければここが枡型だったとはとても思えない。
その上、この場所から本丸側を見ると


東山御物展・江戸城・本丸石垣



東山御物展・江戸城・本丸石垣2


コレですから。
幻の銅門枡型を思い描くより、目の前にそびえたつ石垣にみとれちゃいます

上の縄張図で、赤の矢印の先端の上に短い堀と、堀の左右の端に櫓が描かれてますが、
石垣2枚目の写真は左側の櫓の直下から本丸石垣を撮ったもので、
この石垣の上に「台所三重櫓」があった。
頑張って銅門を突破しても、あの石垣の上の櫓からまた攻撃されるんだな・・・

んで、石垣直下の堀は「白鳥(しらとり)堀」といい、いくつかの変遷をたどっている。
まず、太田時代から遠山(後北条)時代にかけては本丸・二の丸・三の丸の間に
かなり深い空堀があったのを、イエアスが入府してまず堀を埋立てたので
城の敷地がかなり広がったと『落穂集』は語る。
白鳥堀も天正18年(1590)のイエアス入府直後に埋立てられたというから、
一連の土木工事の対象になっていたものと思われる。

その後、慶長11年(1606)の本丸工事の際に再び掘り起こされたようで、
寛永12年(1635)頃には今よりもっと長い堀だったらしい。
寛永14年(1637)になると堀の幅もずんと拡張され、
銅門枡型も堀の中にすっぽり入るほど幅が広かった。
堀には能舞台が建てられ、舞台から堀をはさんだ正面には観劇のための殿舎が建てられて
ここで優雅に能鑑賞を楽しんでいたというからまあ家光らしいというか・・・

が、その優雅な施設も寛永20年(1643)には取っ払われてしまう。
寺沢広高が銅門を建てたのが寛永19年というから、
レジャーエリアを撤廃して白鳥堀の幅を縮小し、防御を厳重にしたってところかな。

もともと本丸は堀に囲まれていたらしいんだけど、
二の丸の拡張工事などで多くが埋立てられ、現在本丸の東側で堀が残っているのは
白鳥堀のみ。

ところで、白鳥堀付近の石垣はイエアス当時のものだそうで、
城内にはほかにもその頃の石垣があるにはあるようなんだけど、
一般公開されている場所でイエアス当時の古い石垣を見られるのはこの場所だけとのこと。
上の本丸石垣の2枚目の写真なんかを見ると、確かに算木の積み方は
高度に完成されたスタイルじゃない。
堀越しでもあり、堀っぱたは園地になっているのであまり石垣には近寄れませんが、
往時をしのばせる貴重な石垣ですので、登城の際はぜひご覧ください。


で、二の丸の方へ向かって歩き出すとこんなものがある↓。


東山御物展・江戸城・皇居正門石橋旧飾電燈

これは「皇居正門石橋旧飾電燈」だそうで、それ以外の詳しい解説はない。
台座の部分の拡大↓。


東山御物展・江戸城・皇居正門石橋旧飾電燈2


「江戸城」にはとても似つかわしくないものだけど、
日本橋にあった照明灯を思い出させる華麗な作り。
で、このすぐ先に二の丸への入口があります。


東山御物展・江戸城・二の丸庭園へ

右側に写ってるのは、トイレ。
えっ、ここが入口?ってカンジの地味な造りになっちゃってますが、
まあこれも時代の流れですから仕方ありませぬ・・・

時代による差はあるんでしょうが、幕末頃にはすでにこのあたりから
二の丸御殿が奥へと広がっておりました。


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最終更新日  2016年02月17日 22時46分17秒


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