戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年03月22日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
連休はバシバシ記事を上げようと思っていたのに、
アマゾンプライムの無料月間に入ったため、
映画観まくりでした(←もちろんすべて時代劇)。

少し前の記事で、日本史にはそこら中に面白い話が転がってるんだから
同じ時代ばっか大河でやってんじゃねえ!と書いた記憶がありますが、
今回お祖師を扱った映画を2本観ましてね。

お祖師を扱うとなれば、その宗派の本山の介入・・・
いえ、アドバイスも当然入る訳だからそこそこポイントは外さない訳ですが、
観ていて正直

「言うは易し、だな・・・」


面白くないとかって言うんじゃなくて、お祖師を描くのは難しいもんだな~と思って。
1本は難しい人物を描いたなかなかの意欲作だと思ったけど、
もう1本はちょっと意図的なものも感じてね。
それに、映画ともなればそれなりの興業収入も挙げねばならんから
一般にもわかりやすいような見せ場も作らなきゃならんし、
ドラマティックな材料が沢山あっても、それをひとつの作品に仕立てるには
色々と難しい問題があるもんなんだな~と思った訳でして。


ところで、お祖師といえばわたくしがトライしていた『金光明最勝王経』(大辨才天女品)、
ようやく最後まで行き着きました

頭で考えずにスムーズに言えるようになるまではあと少し時間が必要ですが、
その期間を含めて1年半ぐらいかかったことになりますかね(笑)。

中だるみで1~2週間もサボったりと色々ありましたが、天女がいかなる人なのかわかったし、
理解できることも増えたので、コンプリートできて良かったです。

わたくしの場合、きちんとした仏教の勉強をしている訳じゃなく
独学で勝手な解釈をしていることは百も承知ですが、
ごく最近、金光明最勝王経について少し触れている歴史ブログをたまたま読みましてね。


「この人は単に他人の文章を小綺麗にまとめているだけだな」

とすぐにわかりました。
ま、そんなことも自分なりにあれこれやっている中で付いてきたオマケな訳で、
仏教であれ歴史であれ、つたない知識でもしっかり自分のモノにするとしないとでは
記事の厚みや深みがずいぶんと違ってくるものなんだな~と思いました。

特に仏教関係は、読む人が読めば自分なりの理解の上に書いてるのかが一目瞭然なので、
何も知らない人が安易に他人の文章をコピペしない方がいいもんなんだと知りました。
まあ、わたくしのようにバカ丸出しってのもどうかとは思いますが



さてと、2話続けて桂川家が出てきたので、話の流れで
ここからは奥医師と桂川家について書くことにします。

奥医師には広義の奥医師と狭義の奥医師があるそうで、ここで取り上げるのは狭義のほう。
幕府が抱える広義の奥医師のうち、狭義の奥医師が医官の実務上の最高位で、
その制度が確立されたのは5代・綱吉の代だという。

古くは「御匙」(おさじ)「御近習医師」といい、宝永年間(1704-11)に
「奥医師」という名称が登場し、延宝の頃には「御側医師」という呼び名も現れる。
狭義の奥医師は文字通り「奥」のエリアで将軍およびその家族たちの診療を行うのが役目。
「奥」には本丸御殿の中奥も含まれ、その他二の丸や西の丸でも診療にあたったそうな。

現在の総合病院は各診療科に分かれているけど、江戸期にもいくつかの診療科があり、
このうち最高位が内科。
ほかに外科・針科・眼科・口科があった。
桂川家は外科ね。

文化・文政年間(1804-30)には各科をあわせて15人ほどの奥医師がいたらしい。
ものによっては、各診療科でそれぞれ20人程度の医師を抱えていたと書いてる人もいる。
その奥医師たちが交代で毎日登城して、中奥での将軍様のお支度の間にお脈を測り、
場合によっては腹診なども行った。
将軍だけでなく、将軍世嗣や御台所、側室たちの診察もしたので、
大奥への出入りは比較的自由だったという。

大奥へも出入りする関係からか、奥医師は坊主だったようで、
高貴な方々を診察するという職務上、格上になると 法印や法眼 という高位に叙せられた。

スウェーデン人医師のC.P.ツュンベリーが1776年に初めて江戸参府した際、
日本人医師たちが彼のもとへ色々と質問に来たが、ツュンベリーは

 【医師らは、頭髪を全部剃りあげていることで、他の者と区別できることもあるが、
  他の者と同様、剃らずにそのままにしている者もいる。】
  (『江戸参府随行記』平凡社/高橋文氏の訳によるもの)

と書いている。
TV時代劇でおなじみの小石川養生所の医師も広義の奥医師に含まれるけど、
竹脇無我(←古い)は頭にちょんまげ載せてたもんな。
だから、必ずしも奥医師が坊主だったとも言えないのかもしれないけど、
職場が江戸城の「奥」になれば出家は必須だったんじゃないかという気がする。


今泉みねの父は桂川7代・甫周(ほしゅう)で、甫周の弟に甫悦(ほえつ)という人がいた。
甫悦はのちに三千石の旗本の藤沢という家に養子に行ったらしいが、

 【御城に何かありました時の話、叔父(甫悦:ジジイ註)は「こんどこそおあにいさまと
  同席ができると思ったら、あにはからん、自分はまだまだはるか小さく見えるくらい
  段がちがって下座にいた」と申して、私の父(甫周:ジジイ註)を心から敬って
  おりました。】
  (『名ごりの夢』今泉みね/平凡社より)

『江戸幕府大事典』には、内科が200俵高でそれ以外の科は100俵高だとある。
もっとも、『名ごりの夢』の解説には甫周の頃は家禄2~300俵、役高100ぐらいだったと
あるものの、いずれにせよ三千石の知行取りの家に養子に行って
「藤沢志摩守」となった甫悦とでは年収にかなりの差がある。
それでも、江戸城では甫周は甫悦よりはるか上座にいたというのだ。
『名ごりの夢』の7代・甫周の解説にはこうも書いてある。

 【公卿に準じて地位は非常に高く、参議、納言にも匹敵したという。】

いやいや、さすがに参議・納言に匹敵とはちょっと大げさじゃないかと思うものの、
『名ごりの夢』の初代・甫筑の解説文にある奥医師は

 【(前略)道中には長柄の駕(かご)に乗り、駕かきの陸尺(ろくしゃく)四人、駕脇侍
  二人、薬箱持ち一人、傘持ち、挟箱持ち、袋杖持ち、草履取りなど、すべて十一人の供方を
  備え、旗本などと行きあうときに道を譲らせるほど幅をきかせたという。】

とあり、みねが語る少女時代のエピソードにも、奥医師の「格」を物語る内容がある。

桂川家は蘭学をもって代々世襲で幕府に仕えた家柄で、
みねは娘時代に明治維新を迎えているので、歴史に名を遺した幕末の著名人たちが
桂川家に数多く出入りしていた。
福沢諭吉もその1人で、みねが6~7歳の頃、福沢諭吉におぶわれて出かけたことがあった。

 【普通は駕籠でなければ出られないのですが、福沢さんがかまわずそっとつれ出して
  下さいましたので、はじめて大川を見て大きなお池だとびっくりいたしました。】

食事の時は家の主人だけは別格で、その辺の区分けはかなり厳格だったようなんだけど、

 【お給仕のしかたがまた問題で、誰が給仕に出るということまできまっていて、女中に
  それぞれ順番がありました。(中略)女中のことを考えてみますと、(中略)それぞれ
  係りがあって、燭台を磨いたり、行灯をつけたり、あかりの係りだけも上下で数人、
  洗たくのもの、お客様のお茶係り、その他女中たちの数からしても、人間が多かったように
  思います。】

こうしたことについては、みね自身、なにぶん子供の時の記憶であり、
よそ様の旗本がどうだったかは知りませんが、と断っており、
わたくしもみね同様、他家と比較する材料を持っていないので
どこまでが旗本のスタンダードなのかはわからないものの、
おそらく同じ年収の旗本の家の娘はみねほどのお姫様育ちはしなかったんじゃないかと思う。

とにかく年収と格が見合っていなかったことは確かで、
それが桂川家にひとつの悲劇をもたらすことになるんだけど、その話は少し置いといて、
みねが語る桂川家の実情をいくつか拾ってみると、

 【食物は前申しましたとおり、旗本屋敷だなどいっても、まことに簡単でお粗末でした。
  まあおからだのお豆腐だの八杯酢だので、お肴といったらひものか鮭をよく使ったようです。
  ごまみそ、てっかみそなどもありました。平生は精々二種ぐらいのもので、江戸に生まれても
  浅草のりの香などそのころはあまり覚えがありません。私は一人娘も同様でしたのに
  そんな風でした。】

といい、

 【それにいただきものは少なくって、いわば位まけがしていた桂川のことですから。】

と言っている。
7代・甫周の父の代でもかなり家計が苦しかったことを前々回紹介してますが、
甫周の代になってもそれは続いていたようで、ビンボーなくせに
奥医師としての対面は保たなければならない、プラス洋学を志す若者たちが多く出入りする。
ので、

 【朝などあんまり大勢で、おみおつけの実がなくなり「桂川の山吹汁」・・・
  みの一つだになきぞ悲しきは当時有名だったようです。】

という。

山吹のエピソードをご存じの方も多いでしょうし、
それゆえにあえて太田道灌さんのところでは書かなかったのですが、
補足としていちおう書いておきますと、ある時道灌さんが父の所へ行く途中で突然雨に降られた。

「うわっ、スゲー雨!
あ、あそこの農家でミノを借りようっと

ごめんくださ~い、ちょっと雨に難儀してるんで、
ミノ貸してくださ~い」


農家から出てきた娘は黙って一輪の山吹の花を差し出すだけだった。

「え、いや、花じゃなくてミノを・・・
あ~もう、わかりました!
どうもお邪魔さま!!」


と怒ってその場を立ち去った。
あとで家臣にその話をすると、

「ははあ・・・
で、殿はその意味がわからなかったというワケですな?
それは娘ごに可哀想なことをしましたな。

後拾遺和歌集にこんな歌があります。

七重八重 花は咲けども 山吹の実の一つだに なきぞ悲しき

娘の家は貧しくて、ミノ(実の)一つもないということを
奥ゆかしい方法で殿にお伝えしたのですよ」

そんなこともわからなかった道灌さんは恥じて、それ以後古歌も勉強して
立派な歌人となったというお話。

このエピソードにかけて、「実のひとつだになき」味噌汁を
桂川家では山吹汁と呼んだというワケですな。



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最終更新日  2016年03月22日 23時53分45秒


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