戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2016年03月17日
XML
カテゴリ: 城(東北・関東)
引き続きカネのお話。

女たちが妍を競い綺羅を飾る大奥で、すべての女中が衣裳代や交際費に追われ
汲々と暮らしていたかというとそういう訳でもない。

 【奥女中は、蓄財にたいへん長けていた。千両ぐらいは普通で、七千両という
  事例もあった。現代で言うと、数億円のレベル。最低でも百両を下らない。】
  (『江戸城・大奥の秘密』より)

元祖・大奥の女たちともいうべきイエアスの側室たちも、
かなりヘソくっていたらしい。

 【慶長12年(1607)12月、駿府大火の折、側室たちが、せっせと貯めた

  1500枚、茶阿の局、お万の方(蔭山。頼房の母)は300枚または500枚を
  焼いた。】
  (『考証[大奥]』稲垣史生/ グーテンベルク21より) 

イエアスが晴れて天下人になったといってもそれまでは色々苦労したし、
幕府を開くところまでこぎつけてもこの先どうなるかはわからない。
寛永寺シリーズで お梶の小袖の話 を紹介してますが、
おそらくお梶に限らず他の側室たちもイエアスにならってケチケチ生活を送りながら
「せっせと貯めた」のだろう。
稲垣氏はイエアスの側室たちを

 【何かみみっちくて天下人の思われ者らしくない。】


と失礼な言い方をしているものの、イエアスと時代の影響によるものだから
無理からぬことだと思う。
しかし、後代の奥女中たちのヘソクリは全く質が違う。

よく時代劇などで、無役の御家人が有力者に付け届をして猟官運動をする姿が
描かれるけど、そういう類のお願い事は大奥へも向けられた。

ワイロや汚職といったものとはまた別なものだそうで、
大奥へ流れるカネの質が変わり始めたのは6代・家宣の頃だという。

公家風にハマった家宣が諸事を公家風に改めたあたりを 「(15)」 で
少し書いてますが、家宣が大奥改正のほか雅楽を奨励するなどしたため、
各方面で公家風の衣裳を新調する必要が出て、それまでの官民の衣裳調達係だけでは
とても間に合わなくなった。
そこで新たな業者を開拓することになったが、何しろ幕府が相手の商売で
しかも贅沢品がおもな取引対象ということになれば、
業者としてもおいしい商売になる。

ので業者間の争いも激しくなり、カネだけではなく芝居や料理で歓待するといった
オプションを付けてあの手この手で勝者になろうとする。
選ぶ側としても、おいしいオマケを付けてくれる業者を選びたくなる。

まさに「ワイロ」そのものだけど、そうやって取り入ろうとするのは
何も商人だけではなく、利権が絡む者達・・・
たとえば寺社や コエビ 業者など色々いただろう。
そういう方面から入ってくるカネが、「最低でも百両」は下らない
後代の奥女中たちのヘソクリの重要な財源となっていた。


なぜ、大奥がターゲットになるのか。
それは、大奥の基本的存在意義にある。

大奥の記事の最初の方で書いたけど、大奥とは将軍と御台所の生活空間。
将軍は中奥にも御座所を持っていたが、

 【原則として、将軍の側近や身の回りの世話をする御小姓や御小納戸役、あるいは
  奥医師ぐらいしか中に入ることはできなかった。幕府の閣僚である老中でさえ、
  将軍の許可なくして中奥には入れなかった。】
  (『江戸城・大奥の秘密』より)

中奥が老中でさえ気軽に入れない空間だとはちょっとオドロキでしたが、
江戸も中期頃からは側用人が力を持つなどしていったこともあって、
将軍はどんどん「雲の上の人」になり、老中筆頭であっても
将軍と直接言葉を交わしたことのない人もいたという。

それに対して、大奥では女中たちが将軍の側近く仕えて身の回りの世話をする。
もちろん、奥女中が誰でも将軍の側に行かれた訳でもないけど、
国政を預かる老中でも簡単に言葉を交わすことのできない将軍と、
老中よりも身分の低い奥女中が親しく話せる場合もある。

 【とりなしができるということは、将軍と込み入った会話ができるということ。】
  (『大奥のおきて』より)

が、とりなしだけならまだいいけど、場合によっては大奥による政治への介入もあった。
大奥の高級女中に

「これは将軍様の御意向ですのよ」

なんて言われても、大奥に入れない男性役人にはそれが本当のことなのかどうか
確かめるすべはない。
世の男性陣が入れない将軍のプライベート空間を握る大奥は、
利権を狙う者にとって是非とも味方につけたい相手だった。

しかし、大奥による介入は政治の混乱や腐敗を招く。
そこで、幕府ではワイロだの口ききだの介入だのを禁止するお達しを
幾度となく出すことになる。

徳川吉宗の母・お紋は身分の低い女性で、
大昔の大河ドラマ『八代将軍吉宗』では山田邦子が演じて、
素朴な女性だという印象をわたくしは持ってますが、
ある時、お紋に長く仕えた女性の息子が老中ににらまれて紀州で蟄居の身となった。
近しい人間の不遇に同情したお紋は、自分の息子に罪の軽減を頼んでみた。
しかし、頼まれた吉宗は

 【天下の政治は重大ゆえ、婦人のことばに左右されたくない。今後とも
  表向のことはお控あるよう。】
  (『考証[大奥]』より)

ときっぱり断ったそうな。
お紋はおそらく金で動いた訳じゃないと思うけど、
それでも実の息子に願いを却下された。
まして金によって奥女中たちが親類縁者や町方の各種業者の口ききをするなど、
言語道断。

6代家宣の代で最初に口ききの禁止令が出た時、当然大奥からはブーイングが出た。
それで奥女中たちは意趣返しのために表役人の落ち度を探し始めたといい、
ある誤認裁判を見つけて敗者を逆転勝訴させて表役人にカウンターを
くらわせてやったという。

 【表役人が大奥の機嫌をとらねば、いつ足をすくわれるかも知れない。大奥との
  緊密な連絡を保ち、顔色をうかがうようになったのは、この時からである。】
  (前掲書より)

それでも、時には骨太の政治家が出て再び禁止令を出すといったことが繰り返され、
表向と大奥とのいたちごっこは続けられた。

安藤氏によると、ある時表向の高級役人が知り合いの御年寄に対して
大奥の贅沢な暮らしぶりに苦言を呈したことがあったそうな。
言われた御年寄は




考えてもみてくださいな。
贅沢をするには先立つものがいりますでしょ。
いくら奥女中がゼイタクしたいと思ったところで、
お金がなかったらどうにもなるもんじゃありません。

わたくし達が望みもしないワイロを、表の役人やその家臣たちが
せっせと運んでくるものですから、しぜん贅沢になっていくのですよ。
つまり贅沢の源は表にあって、奥での贅沢はその支流に過ぎません。
表をたださずに奥にばかりお小言を言うのは、
油を注いで火を消そうとするようなもので、
まったく意味のないことじゃございません?」


と笑いながら言うので、返された方もただ苦笑するしかなかった、とな。

実にふてぶてしいけど、さすがに大奥を差配する御年寄、とも思うし、
大奥の力とすごみを象徴するエピソードだとも思う。


現代でも政治改革には経済的項目が盛り込まれるけど、江戸期も同じで、
大所帯でぜいたくな暮らしをする大奥は幕府財政の大きな負担だった。
ワイロというおいしい副収入があるとはいえ、正規の運用費は幕府の負担。
経済改革をするには、どうしても大奥の経費削減は外せない。

たとえば、草履。
大奥では御年寄は上履きを履いていたそうで、奥女中最下級の御末でさえ
御殿向へ出勤する際に履く草履の草履取りを雇っていたんだと。
つまり奥女中にとって上履きは職務上の必需品だったようなんだけど、
その消費の仕方がハンパない。

 【彼女たち(御年寄:ジジイ註)が御台所の居間に参上する時には、新しい草履を
  用いることになっていたが、一度履いたら、二度と履かないのが慣例であり、
  上草履だけで、毎日数百は必要だった。居間に行くたびに、新しい草履に
  履き替えたのである。】
  (『江戸城・大奥の秘密』より)

幕末の御年寄の定員は6人だったかな。
その程度の人数で1日に数百の草履が必要ってどんだけ・・・
寛政の改革を行った松平定信は、これを1日に1足(笑)にカットしようとしたが、
大奥の猛反発をくらってあえなく断念したという。

草履の話はほんの一例で、エコとはほど遠い巨大な金喰い虫である大奥へ
手を入れようとすると、いつも猛反発をくらって思うように改革が進まなかったという。


と、ここまでカネと権力の話を書きましたが、
大奥はいつだって悪者だったという訳じゃない。
方向性によっては、善男善女から感謝されることもあった。

前回、奥医師・桂川家のことを少し書きましたが、
桂川初代の甫筑(ほちく)は伊豆諸島の御蔵島(みくらしま)で神として祀られているそうな。

数ある大奥のスキャンダルの中でも、絵島・生島の事件(1714)はかなり有名ですが、
御年寄・絵島と歌舞伎役者・生島の間を取り持ったという罪で
奥医師の奥山交竹院は御蔵島に配流となった。

櫛の原料といえばツゲが有名ですが、御蔵島はツゲの産地として知られており、
江戸期にツゲの櫛の人気が出てからはツゲを輸出して島の財源としていたそうな。
ところが、奥山交竹院が流された頃は三宅島が御蔵島のツゲを伐採して搾取していたそうで、
苦境にあえぐ御蔵島では島の神主であり実力者である加藤蔵人らが中心となって
独立運動に燃えていた時期だった。

それを知った奥山交竹院は、元同僚の桂川甫筑に島の現状を訴えて助勢を依頼する。
甫筑の願いはすぐには通らなかったらしいが、老中に熱心に嘆願した結果、
御蔵島は三宅島からの独立を果たし、幕府の直轄となったそうな。
それで、独立運動の功労者である加藤蔵人・奥山交竹院とともに
桂川甫筑も島の神社に祀られ、今でもその三者を祀る社が残っているらしい。

前回書いた奥女中・桂川てやの姪にあたる今泉みねは晩年、
『名ごりの夢』という回想録を残している。
みねによると、独立した御蔵島の島人は桂川家への感謝の念をずっと持ち続け、
島では手に入らない物の買い出しに島人が年に1度ほど江戸へやって来るたび、
桂川家へ寄ってシイタケや薪やその他の島みやげを大量に置いていったそうな。

それは維新後に桂川家が幕臣でなくなって引っ越しても続けられたそうで、
島人が桂川家へ納めたシイタケは島にある桂川大明神の境内の木に生えたもの、
また薪の方は境内の木を手入れして薪に仕立てたものだというから
何とも心温まるエピソードでございます。

江戸で奔走した甫筑が具体的にどういう行動を起こしたのか詳しいことはわからないものの、
奥医師という立場での人脈を活かし、大奥のバックアップも得ただろうと安藤氏は語る。
力の格差が歴然としていた時代、大奥の力がいい方へ働いたケースもあったというお話です。


にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2016年03月17日 22時50分23秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: