戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2016年03月26日
XML
カテゴリ: 城(東北・関東)
桂川甫周が将軍から目をかけられたのには甫周の父と妹のことも関係していると


 【(前略)毎晩人が寝しずまってから調べものなどをしていますと、トントントントン
  戸をたたものがございます。「たぬか、はいれ」と申しますと、戸がスウッとあきます。
  何かこちらの都合で「おまち、まだいけないよ」と叱りますと、決してはいらなかった
  そうですが、ときにはたぬの方でいたずらをして、「この夜更けに何をしておるか」と
  将軍の声色をつかうこともあります。なにしろ仮にも公方様のお姿に化けておりますの
  ですから、どうにもできませぬ。「おい、それだけはよしてくれ」とあやまって油揚を
  やりますと、行ってしまいましたとか。】



桂川初代の甫筑は森島小助といい、蘭方の始祖といわれる嵐山甫安に学び、
のち長崎でオランダ人医師から外科を学んで日本で初めての兎唇手術を行った。
その後、甲府綱豊の侍医となるが、綱豊が6代将軍となるに従って江戸に入り、
以後蘭学をもって幕府に仕えた。

3代・甫三は青木昆陽に学び、前野良沢・杉田玄白とは友人で
【「解体新書」は彼の推挙により将軍に内献した】(『名ごりの夢』解説文より)そうで、
4代・甫周(国瑞)は「解体新書」の翻訳に参加し、
日本で初めて顕微鏡を医学に用いた。

たぬのエピソードを持つ6代・甫賢はオランダ商館長のズーフから
「ボタニクス」(植物学者)という呼び名を与えられ、
シーボルトからは学識やオランダ語のレベルの高さを評価されたという。


いわゆる「シーボルト事件」が有名ですが、
ツュンベリーの第1回江戸参府記(1776年)によると

 【通詞は全員が現住の日本人であり、多かれ少なかれ、はっきりしたオランダ語を
  話す。幕府は、外国人が日本国の情報を入手できなくするため、外国人の日本語習得を
  許していない。】


だそうで、日本語の輸出も禁止していたらしい。
が、ズーフはフランス人のフランソワ・ハルマの蘭仏辞書をもとにして
蘭日辞書の編纂に着手し、ズーフの帰国後は日本人通詞が引き継いで
20年ほどかけて「ズーフハルマ」(道富波留麻)という辞書を完成させた。

桂川家は日本で唯一蘭学の研究を許された家で、ズーフハルマは当初桂川家に1冊、
ほか長崎訳官と天文台に各1冊のみが置かれた。
それ以外の刊行は幕府からは認められなかったが、7代・甫周(国興)の代は
もう明治維新目前で、国防という観点からも甫周はズーフハルマの刊行の必要性を
幕府に熱心に訴えたそうな。

 【が、なかなかむずかしくて、そのためにはもう地位を捨ててもいいというほどに
  論じましたそうです。やっとのことで御許可が出ましたが、それは代々幕府に仕える
  桂川ゆえ許されましたので、他には決してそれをきかれなかったと申します。】

ツュンベリーの参府の際には大勢の日本人が彼を訪問し、6人の医師もいた。
うち4人はあまり訪ねてはこなかったし、来ても目立たないようにして来たと言うが、
残りの2人は毎日来て、夜遅くまでツュンベリーの教えを乞うた。

 【一人は桂川甫周で将軍の侍医であり、まだ若く、親切で、頭の回転が早く、そして
  はつらつとしていた。桂川は衣服に将軍の紋章をつけており、友人の中川淳庵と
  連れ立ってきた。淳庵は多少年上で、最も主要な藩[小浜藩]に属する藩主の侍医で
  あった。二人とも-とくに中川は-かなりうまいオランダ語を話し、また自然誌、
  鉱物学、動物学、植物学についてなにがしかの知識を持っていた。(中略)

  二人とも言い表せないほどにうちとけ、進んで協力し、学ぶことに熱中した。そして
  前任者にはなかった知識を私が持っていたことから、次々と質問を浴びせてきた。
  (中略)彼らの熱心さに疲れ切ってしまうことがよくあったが、彼らと一緒に楽しく
  かつ有益な多くの時間を過ごしたことは否めない。】
 (『江戸参府随行記』平凡社/高橋文氏の訳によるもの)

・・・とまあ、教科書に載るほどの超有名人ではなくても、
桂川当主は代々さまざまな活躍をして、時にはガイジンからも高い評価を与えられるような
根っからの学者家系だったようで、ビンボー学者として有名でいながら、
それでいて世間の尊敬も集めていたらしく、
大名でさえ簡単に奥医師の診察は受けられないルールであるにも関わらず、

 【しかし、よくよくの事情で、例外として、往来でかごをとめて、かごの中から病人を診た
  ということもきいています。そんな時決して直接には患者の手に触れないで、ふくさを
  かけてその上から脈をとったのだそうですが、先方はなんでも気ちがいのようになって
  桂川のかごに追いすがり、「せめて桂川さまに脈をとっていただいて死にたい」という
  非常な執心なのですから、それでかえって病気はけろりとよくなったとかいうためしも、
  再三再四ではありませんでした。よしんばなおらない場合でも、「ああよくよく業の深い
  病気でした。これで思い残しはさらにありません」とあとから涙ながらに申して来る
  者もおりました。】

なんてこともあったそうな。

将軍の奥医師、法眼という高い地位にありながらも甫周は

 【父はいかにも情深い人であったと思います。歌、俳諧が好きでした。よく申しますが、
  人好きのする方で、一度あった方は誰でもいい方だと言います。】

という気さくな人であったようで、唯一の幕府公認蘭方医ということもあり、
洋学を志す前途洋洋の若者たちが桂川家に入り浸っていたようなんだけど、
学者の家に集まるのは学者だけではなかったそうな。

 【それから芸者がよく来た訳を申しませば、ああいう人達は病気だのけがだのを
  将軍の御脈をとる御典医に診てもらうなどというわけにはどうしてもゆきませんので、
  なにかの口実をつくって、じつは診察を願いたいというようなわけがあったようです。

  こういった意味で、ほかにもまだまいった人のなかに杵屋文左衛門がありました。この人は
  当時長唄の方では三芝居にも出て、その名声を鳴らした人でしたが、指をはらしてぜひ
  御療治をうけたかったのです。なにしろまだ河原ものなどといったそのころのことで、
  文左衛門なる大師匠にも表向きにはそれがかなわぬものでしたから、七つになる私に
  お稽古をつける理由で邸へ出入りいたしました。毎日毎日痛い指をかかえて出かけて
  まいりましたが、当の私はのんきなもの、ほかの者たちがこれ幸いと夢中でした。なにしろ
  音にきこえたその人からけいこをつけてもらうことは並では大したことで、大名などの
  ところでもちょっとできなかったのを、前のようないきさつで私はりっぱな師匠から稽古が
  はじめられました。】

あいにく、おてんば娘のみねは色々とおいたをして大師匠を怒らせたりしたようだけど、
ある時などは芸者衆が1日休みをもらってお金を出し合い、
桂川の台所を借りて揚げたてのエビを食べる息抜きのイベントがあったそうで、

 【その日はお客様の方で遊ばしてやる、芸者をお客にして今日こそのびやかに遊ばして
  やります。また名前も桂川様とか殿さまとか言わないで、カネールカネールと父のことを
  言いました。水品<楽太郎>さんはたきさん(あちらでは旦那さんという意味でしょうか)、
  あごが長い成島<柳北>さんはおばけと言われなさいました。そのお皿をこっちに取って
  下さい、そのお肴をくしにさして下さい、という調子で、芸者からつかわれてゲラゲラ
  笑いながらごきげんで、いっしょになって揚げものなどしていらっしゃいました。
  神田<考平>さん、宇都宮<三郎>さん、柳河<春三>さん方もぶきっちょな手つきで
  お給仕やく、気が利かなくって罰金をとられたり、いつもの意趣返しとかなんとかワアッ
  ワアッと大笑いでした。福沢<諭吉>さんもいらっしゃったかもしれません。】
  (<>内はジジイ註)

いくらいい医者といっても、甫周が受け入れなければこんな色々な人間が
自宅にまで押し掛けてくることもなかっただろう。

「一事が万事」というのは世間で色んな人を見たわたくしの持論ですが、
こういうエピソードから類推するに、甫周は裏表のない、
かといって真面目一本やりの人間でもなく、
そういう人柄が幅広い身分の人から愛され、信頼されたのだろうと思う。


『名ごりの夢』の解説文によると、若くして異例の高い地位に召され
将軍から愛された甫周は時に同僚からの嫉妬を買ったという。
まあそれもそうだろうという面はあるものの、甫周を含めた奥医師は
年がら年中病気の治療をする訳でもないので、多くは歌や俳諧のお相手をしたり、
内々の宴にはべるなど将軍のプライベート空間にあってごく親しく仕えた。

正月の年始登城の様子を『徳川盛世録』(平凡社)に沿って見てみると、
まず将軍は元日、表の白書院にて越前家や老中などの賀儀を受け、宴を賜い、時服を与える。
その後、表で最も格の高い大広間に移動して、譜代や外様の大名や交代寄合、高家など
多くの家臣たちから賀儀を受けて宴を賜う。
この中に法印・法眼の医師もおり、時服が与えられる。
さらに白書院に移動して小姓組、絵師、碁坊主などの賀儀を受ける。

翌2日はまず白書院で御三家の嫡子の賀儀を受け、ついで大広間で諸大名の賀儀を受け、
白書院で代官・医師・神道者・連歌師や総検校からの賀儀を受ける。

3日目も白書院や大広間で無官の大名や町年寄などから賀儀を受ける。
6日には寛永寺を除く諸寺諸山の僧侶・社人・山伏等が登城する。
(寛永寺がこの日登城しない理由は 「上野第二編(21)」 参照)

元日がやはりもっとも厳粛で、日を追うごとに客の格が落ちていくようだけど、
各人が着る装束ももちろん決まっていて、元日と2日の法印・法眼の衣裳は直綴(じきとつ)。
早朝に支度をする父の姿は幼いみねに芝居のような美しさを思わせた。

 【父から聞いたところによりますと、登城してみんなそろって年賀を申しあげますと、将軍は
  ただ一言、「めでとう」とおっしゃるきり、その折に御台様の召されたお袴が黒のように
  見受けられ、どういうことかと思われたが、緋も染めて染めてほんとに染めぬくと黒いように
  なるものだそうで、やっぱり緋のお袴だったなどと父が申したこともおぼえています。
  それからみなは一様に紅白の切り餅をおしいただき、懐紙に包んでひきさがるのですが、
  それを”おてがちん”というていましたのですとか。】
  (ここまで、出典の記載のない【】内はすべて『名ごりの夢』より)

元日には確かに御台ちゃまは緋袴を着る。
でも御台ちゃまが表に出てくるハズはないから、これは大奥での出来事で、
奥仕えの奥医師などからの内輪の祝いなんじゃないかと思う。

正月の話はもう一つあるのですが、文字数の関係で本日はここまで。


にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2016年05月01日 22時14分17秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: