戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年03月27日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
正月の話の続き。

表で厳粛な新年のイベントが行われる一方で、奥では将軍様の御前に金屏風の囲いができ、
奥医師がくじを引いて順番に1人ずつ金屏風の中に入るという遊びが行われていたそうな。

 【さてお屏風のなかでは外から何がとびこんできますやら、坊主あたまを気にしながらも、
  かしこまっておりますと、「御用意はよろしいか、そら、まいりますぞ」との声と
  いっしょに、それでもはじめはお褥(しとね)や御時服のような柔らかなものが
  ほうりこまれますので、さっそく頂戴、頭へかぶってつぎの心がまえをしておりますと、
  ズシーンバタン、そらお机、お文庫、御用たんす、お硯箱やら花瓶やら、お火鉢に、掛軸、
  ひとしきりはつぎからつぎと降るようでございます。「もうよいか、まだか」とおそばから

  中から「まあだ、まだ」と申しあげる者もありますし、二つ三つで「もうけっこうで
  ございます。どうか御免をこうむります」と申しあげる者やとりどりで、公方さまは始終
  御満悦カラカラとお笑いだそうでございます。

  その折の品は全部拝領となりますそうですが、だれもそんなことを最初から考えにいれて
  いるものもなく、その様子のおかしさやなんかで大笑いだということでございます。御時服の
  黒綸子と白綸子をときましたら、はいっていますこといますこと、真綿のお山ができて驚いた
  ことをいまもありありと私はおぼえております。】

今泉みねは結婚してまもなく、夫に連れられて京都へ行った。
そこで御所の破れた障子などを見せられて夫から説教され、【ただ畏れ多く、
徳川全体のものが天子様を思うことの足りなかったのがしみじみとわかりました】と思ったと


むしろ、外国からすれば天皇家が残ったこと自体が歴史の非常識であるんだけど、
お屏風の遊びのエピソードは、徳川の世が遠く過ぎ去った現代人のわたくしからすると
「御城」の奥で行われるにふさわしい贅沢な遊びだと素直に思う。


さて、なんだか呑気な話が続いたけど、奥医師もちゃんと仕事をしていた。
みねによると、【昔の阿蘭陀外科医のおもな仕事は、手術とお膏薬(こうやく)】だったらしい。


毎日熱心に彼のもとに通い、

 【そして私の根気強い教えと彼ら自身のたゆまざる学習により、病気を正しく診断する知識を
  相当に磨いた。そしてまた私の指導のもとに、ヨーロッパで使われているような治療薬を
  用いて、病人を回復させ始めたし、また病気になったときの治療薬について多くを会得
  した。】
 (『江戸参府随行記』高橋文訳/平凡社より)

カピタン(長崎のオランダ商館長)による江戸参府は寛永10年(1633)までは不定期で、
寛永10年から寛政2年(1790)までは年1回、
それ以降は4年に1回という変遷を経ているが、医師も随行しており、ツュンベリーは

 【また我々が到着する前から、通詞をとおして、今年やってくるオランダ医師は、これまでの
  医師より学識豊かであるという評判が立っていた。これまでの医師はおそらく、大半は無知な
  外科医であったのだろう。私がパリやアムステルダムから携帯してきた美しい外科用器具類
  が、すでに私について抱いていた好意的な評価をさらに一層高いものにした。】
  (前掲書より)

とちょっと自慢げに語っているが、実際にツュンベリーに会って色々教えてもらう中で
おそらく甫周らはツュンベリーの知識の確かさを実感したのだろう、

 【(前略)幕府の高い地位にある高貴な患者について相談されたことがあった。しかし私が
  患者の性別、年齢等医師として知っておくべき一般的な必須事項を教えてくれるよう
  要請したさいに、一切が秘密とされて、私はどんな薬も処方することができなかった。】
  (前掲書より)

性別すらわからない患者に一体どんな治療しろって言うんじゃ!!
とツュンベリーの苛立ちが伝わってくる気がしますが、
話を聞くだけでもかなり重篤な様子がうかがわれたので
せめて患者と直接話をさせてほしいと訴えて、どうにか面会は許された。
ところが、患者を見ることも脈をとることもできず、
なんと御簾ごしに次の間から患者を観察するにとどまったんだという。

この患者は将軍の姫君だったらしく、ツュンベリーは戦法を変えて甫周を実際の治療にあたらせ、
自分は甫周を通じて得た知識でもって薬を処方して見事患者を回復させたと語っている。

ツュンベリー以前に入府した外国人医師たちが、
彼の言うように本当にレベルの低い医師だったかはわからない。
ただ、毎年春になるとやって来るカピタン付きの医師のもとには
最新医学を学ぼうとする日本人医師が訪問しただろうと思う。

ちなみに、ツュンベリーより80年ほど前の1691年(元禄4年)、
カピタンと共に入府したE・ケンペルも旅行記を書き遺しているが、
ケンペルと言葉を交わした医師もいるものの、会話の内容は記録されておらず、
むしろ5代将軍・綱吉が西洋医学にも興味を持って色々質問したことが書かれている。

ま、ケンペルやツュンベリーも書いているように、日本人はガイジンを信用せずに
情報の流出を嫌って参府旅行でも厳しく目を光らせていたようなので、
蘭学を許されていない日本人医師にとってガイジン医師は
ちょっと近づきにくい存在ではあったかもしれない。
杉田玄白らが立ち会った腑分け以前に、幕府の御典医たちが解剖人に
あれこれ質問しなかった
のは、見学者が外科以外の医師だったから質問できなかったって
可能性もあるよな、とも思った。

その点、唯一の公認蘭方医である桂川家は、知識の向上を図れる絶好の機会である
カピタン(に付いてくる医師)の入府を誰よりも待っていたかもしれない。
誰に教わったものかははっきりしないけど、桂川家が将軍に処方する膏薬は
年2回自家で製造していたそうで、

 【なんでもその日はさんぴん達も朝から紋付きに襷(たすき)がけ大小をさしてかいがいしい
  いでたちです。大門の前にはちょうど焼芋やの釜の大きなようなのが土竈(どべつつい)に
  かかってしつらえてございまして、それで脂を煮つめるのですが、なんとも言われぬその
  臭いは鼻について(中略)きっと近所合壁の大迷惑だったに違いありませんが、だれとて
  それを口にするはおろか、思ってもならないのです。上様御用の御膏薬に対する不敬に
  なるのですからみんなじっとがまんして慎んでおります。さんぴん達はこのときにとばかり
  鼻をひこつかせて急に反身になると申すもおかしゅうございますが、ふだんはひとが三寸
  さげる頭も今日は五寸さげて通りますから大いばりなのでございます。

  さてどのくらいの時間か煮立てて煮つめたこのお膏薬は、すっかりさまして固まらせたあと
  は、飴細工のように丸め、ビンつけや梳き油のようなものができあがります。御つかい料
  としてとっておきますのはそのうちの千分の一ぐらいのものでございましたでしょうが、
  それは塗り物のちょうど印蘢の大きなもののような中に入れ、総(ふさ)のついた紐が
  かかり、一かさねごとにそれにはいちいち片方には和名と片方には横文字とで名前がついて
  ありましたこともおぼえております。そしておあまりとしての大部分はわけることは
  できましても、売ることなどは絶対にできませんかった。】

といい、みねの手許に膏薬の処方が残っていたようなんだけど、
秘伝の膏薬は【二百年ももっと以前から伝わっているもののようでございます】といい、
【アルマンスという長崎にいた和蘭人】から教わったものらしいとみねは言っているが、
それが本当なら江戸初期頃(平戸にオランダ商館ができたのは慶長14年/1609年)に
伝わった薬を長いこと使い続けていたということになる。
もっとも、みねが口述した時からカウントして200年以上と言っているのであれば
もう80年ほど遅い計算になるけど。
(ここまで、出典の記載のない【】内はすべて『名ごりの夢』より)

17~18世紀以降なんて科学とともに近代医学も飛躍的に発展していった時期で、
鎖国そのものにはわたくしは否定的な見方を持っていないんだけど、
日本医学界の最先端を行くはずの桂川家でさえこれだから、
医学の分野では相当後れを取っていたことがわかる。
まあ、歴代当主の中には甫周のように参府した外国人医師から積極的に知識を吸収して
その溝を埋めようとした人もいただろうけどね。


え~と、奥医師の話は今回で終わりとしますが、少し文字数が余ったので
医学に関する綱吉とケンペルの会話を紹介しましょう。

綱:内科と外科の病気のうちで、何が一番重く危険だと思っているか?
   癌(がん)とか体内の潰瘍にその方はいかに対処しているか?
   支那の医師が数百年行ってきたように、その方もまた長寿の薬を探し求めて
   いるのではないか?あるいは他のヨーロッパの医師がすでにそうした薬を
   発見したのではないか?

ケ:どうすれば人間は高齢になるまで己れの健康を保てるか、という秘法を発見しようと
   われわれ医者は毎日研究しております。


綱:そのためには何が一番良いか?

 ケ:経験が他のものを教えるまでは、最新のものが最上のものであります。

綱:一体どれが最新のものか?

 ケ:一種の酒精で、適度に用いれば、水気を流動的に保ち、そして活力を旺盛にします。

綱:それは何という名か?

ケ:「ザル ヴィラティレ オレオムス ジルヴィ」

綱:一体どこで手に入れることができるのか?誰がそれを発明したのか?

 ケ:オランダで、ジルヴィウス教授でございます。

綱:その方もその薬をつくることができるか?

ケ:はい、できまする。しかし、ここではできませぬ。

綱:バタビアでは手に入るか?

ケ:はい。

そこで将軍は次の船でその見本を送れと要求した。その薬は次の年にそういう名前で
 届けられたが、それは実際には丁子(ちょうじ)を加えて浸出した好ましくない
 アンモニア精に他ならなかった。

 (『江戸参府旅行記』斎藤信訳/平凡社より)

ジルヴィ博士の薬を作れるかと問われた時、そばにいたカピタンは
「できないと言え」と目で合図したそうな。
だから、話の内容と話す人によってはいつでもよりよい情報が得られたという訳ではないらしい。

その点、甫周はツュンベリーとかなり有意義な交流をしたと言えるだろうけど、
それには中川淳庵の語学力が大きな役目を果たしたそうだから、
いつの時代も語学力というのは大切なようです。


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最終更新日  2016年05月14日 00時09分30秒


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