戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年04月20日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
そのまま進行方向へ進むと、右手にこの門が現れる↓。


東山御物展・江戸城・北桔橋門


東山御物展・江戸城・北桔橋門4


北桔橋門(きたはねばしもん)といい、大門六門のひとつ。
今回は行かなかったけど、これを出ると北の丸。
太田江戸城ではここが大手だったとされる。

かつてはその名の通りのはね橋だったようで、
皇居東御苑と皇居を結ぶ橋も「西桔橋」という名を残している。
ツュンベリーは第1回めの参府の際、

 我々はかなりの時間、町中を運ばれて将軍の住まいの一角に着いた。そこは水を湛えた
  濠と石壁に囲まれ、はね橋で分割されていた。


と書き留めているが、カピタン一行の定宿から登城する場合、
このあたりは通らないと思うし、この後の記述から考えても
上の記述の時点ではまだ内郭に入っておらず、
しかもその後大手門から登城したような記述になっているので
ツュンベリーの頃には北桔橋や西桔橋以外にもはね橋があったものと思われる。

現在では写真の通り、小さな高麗門が残るのみだけどかつては外枡形で、
留守居与力・同心が警備を担当したそうな。

ちなみに、この門の屋根にはなぜか菊がある↓。


東山御物展・江戸城・北桔橋門3


近代に入ってから修復でもあったのかな。

さて、北桔橋門にくるりと背を向けて進行方向を左に変えると、これがある↓。


東山御物展・江戸城・天守台


ようやっと天守台に到着です。
さすがにデカい。
ま、 日本一のデカさを誇る三原城の天守台 よりは小さいけど、
実際にはミワラには天守は置かれなかったということになってるしね。


降りかけるところまでを動画に撮りました。
最初はカメラを縦にして撮ってたのを、後先考えず途中でカメラを横にしたため、
ちゃんとした動画ソフトを持たないわたくしには
まともに観られる形に編集できませんでした
ので、動画を途中で分割せざるを得なかったのですが、
おヒマな方は2本続けてどうぞ。

それと、フツーの観光客にとっては天守台は見どころのひとつなので
人も沢山いたし、天守台の上にあるベンチにも多くの観光客が憩ってまして、
人をなるべく入れないようにした結果、ロクな動画になってませんので、
こちらもあわせて御了承ください。






では、江戸城天守について簡単に紹介していきますか。

小田原攻めの後、イエアスが関東に転封になって
後北条時代の江戸城を家臣が一団となって整備していったあたりは
本シリーズの最初の方で史料をもとに少し書いてますが、
イエアスはすぐには天守は建てなかった。

まだその頃は秀吉も健在で、大坂城天守より大きなものを建てる訳にもいかず、
さりとて大坂城天守より小ぶりなものを建てるとしたら、
いつまでも「豊臣の家臣」を抜け出せない・・・
だから、当面江戸城に天守を建てなかった、という風にもいわれる。

イエアスの真意はわからないものの、
徳川江戸城に天守がお目見えしたのが慶長12年(1607)。
天守台は黒田長政、天守は伊達政宗らをそれぞれ助役とし、
秀吉の大坂城天守を上回る日本最大の巨大な天守が出来上がった。

イエアスの天守については正確なところはあまりわかっていないようで、
ゆえに諸説ある訳ですが、一般的には五層の白い天守で
位置も現在のような本丸域の北西の隅っちょではなく、中央部付近にあったとされる。
塔のスタイルは層塔型という説もあれば、望楼型という説もある。

イエアスの天守ができた頃は本丸御殿などの改築もあわせて行われており、
人様の金と労力を使って為政者にふさわしい立派な近世城郭へとリニューアルした。


ついで2代将軍となった秀忠は、元和8年(1622)に父・イエアスの天守を解体し
翌年に新しい天守を建てた。
この時の助役は天守台・天守とも浅野長晟(ながあきら:浅野長政の子)ら。

秀忠の天守についても諸説あるが、一般的には現在の天守台の位置に移動し、
高さも面積もイエアスの天守を上回る規模を誇り、五層の層塔型天守といわれる。

イエアスの天守ができてからわずか15年であらたな天守を作った理由については、
本丸の拡張工事もあわせて行われており、御殿が広がったから場所を移したとか、
イエアスの天守ができた当時は日本一の天守だったのが、
その後江戸城天守を上回る規模の名古屋城の天守ができて
ナンバーワンの座から転落しまったからリベンジを図ったとか言われる。

まあ、確かに本家の天守が分家の天守に負けてるようじゃしょーもないしな。
地味な秀忠にしては思い切った決断だけど、ともかくこれで
再び江戸城天守がナンバーワンに返り咲いた。
それと、この際に秀忠の天守のそば、もしくは内部に東照宮が置かれたという。


しかし、江戸城天守の歴史はまだ続く。
秀忠の跡を継いだ3代・家光は寛永14年(1637)に父・秀忠の天守を取り壊し、
翌年また天守を建てた。
この時も広島の浅野長晟らを助役としたそうな。

イエアスから家光まで、15年おきにそれぞれ自分の天守を作っていた訳で、
なに無駄遣いしちゃってんだってカンジですが、
家光の天守の規模は秀忠の天守と同じでスタイルもほとんど秀忠時代のと同じらしいので、
完全な新築ではなく解体して修復したと考えられている。

ただ、規模・形は同じでも、外観は秀忠の天守とは違う。
家光の天守は黒の銅板を外壁に貼った豪勢なものだった。
岡山城のところで天守の外壁について少し書いてます が、
たった15年で巨大な天守を建て替えるなんて浪費もいいとこ、ってのは
わたくしのような下々の考えることで、秀忠の天守が漆喰の白壁だったのなら
寛永後期にはせっかくの白化粧も無残な状態となっていたかもしれない。

『鹿鳴館秘蔵写真帖』を見ると、全てではないものの、
白漆喰の建造物は結構あちらこちら漆喰が剥がれ落ちているものがあって、
剥落した面積が大きいものはかなりボロっちく見えるし、
面積はわずかでも竹を組んだ骨組の「小舞」(こまい)がむき出しになっている
建物なんかもある。

あちこち旅する中で、古建築であれ現代家屋であれ
人が住まなくなって手入れされなくなった建物の荒れ方を色々見たりもしたけど、
さすがに頑丈な城郭建築はわずかな年数では本体は簡単には揺らがない。
ただ、漆喰の外壁は本体ほど頑丈じゃないから、
どうしても定期的なメンテナンスが必要になる。

家光が 日光の東照宮をごっそり派手に建て替えた 件と同じように、
江戸城天守の建て替えについても家光が秀忠を嫌っていたからだと
解釈する向きもあるようだけど、ハゲてボロっちくなった漆喰の外壁を
耐久性に優れる銅板張にチェンジしたということであれば、
家光が父を嫌っていた理由としてはちと成り立たなくなる。

まあ、家光の真意はわからないけど、ともかく壁も瓦も銅で固め、
屋根には名古屋城と同じ金のシャチを上げたので豪勢な姿にはなった。

ただ、家光の天守を描いた絵は存在するものの、数は少ないようで、
わたくしが知る2枚の絵はそれぞれ外観が少し異なっている。

国立歴史民族博物館所蔵の「江戸図屏風」に描かれた家光の天守は、
すべての層の外壁は真っ黒。
つまり全層銅板張の天守なんだけど、江戸東京博物館蔵の「武州州学十二景図巻」に
描かれた家光の天守は全体的に白っぽい。

江戸博所蔵の絵の方は 『大江戸と洛中』展 で買った図録に掲載されているもので、
図録の解説には

 【櫓や御殿の屋根を遥かに凌ぐさまで天守が描かれていることから、デフォルメされて
  いることは間違いないが、実景を見た上での描写であると考えてよい。この点は他の
  絵画資料と比べてとりわけ重要である。壁面は初層(あるいは五層目もか)の壁面に
  黒色が塗られるが、全体に白色で表現されていることから、総塗籠と考えられる。】

とある。
一般に語られる家光の天守の大きな特徴は銅板張で、
「武州州学十二景図巻」でも初層はまぎれもなく黒い。
五層目がビミョ~なのは黒っぽい部分が高欄に見えなくもないからなんだけど、
家光の天守が銅板を使ったことに違いはないものの、
使った割合によってだいぶ外観が変わってくることになる。


さて、家光の子・家綱。
家光は4代将軍となった家綱に大いなる遺産を遺した。
それが知恵伊豆・松平信綱をはじめとする優秀で忠義者の重臣たちで、
家綱の代にはあらたな天守は建てられなかったが、信綱指揮のもと、
承応2年(1653)に本多忠義らを助役として天守の修復をしている。

ところがその4年後、本ブログでもおなじみの 明暦の大火 が起こる(明暦3年:1657)。
これの第2陣の火で天守は焼け落ちた。
なんでも、2階の窓が「うっかり」で開いていたそうで、
そこから火が入ったとかなんとか・・・

大火のあと、天守を再建するつもりで大火の翌年にまず天守台を修復した。
これは加賀の前田綱紀によるもの。
が、上屋が天守台の上に載ることはなかった。

なにしろ、明暦の大火は江戸市中のかなりの部分を焼き尽くした未曾有の大火災。
江戸に参府したカピタン一行の一員が描いたと考えられている大火直後の絵は
「一面焼け野原」というにふさわしい惨状を表現している。
市中再建のためにやるべきことは山ほどあるし、カネだってかかる。
天守再建については、再建賛成派が多かったといわれるものの、
ここでまたもや保科正之が見事な提言をする。

「この平和な世の中で、天守はもう必要ないんだよ。
天守再建にカネを使うより、市中にあふれている
おびただしいほどの被災者の救済にあてるべきだろう?」


このもっともすぎる提言にみなが賛同し、万治3年(1660)に
正式に天守の廃止が決定した。

そののち、正徳2年(1712)に新井白石が中心となって天守の再建計画が進められる。
が、この計画は御破算になったので、明暦の大火以降江戸城には天守台だけが残り、
二度と天守が千代田の城にそびえることはなかった。

ので、『暴れん坊将軍』でマツケン扮する美しい吉宗将軍が
しょっちゅうジイと天守でのんびりくつろいでましたが、
吉宗の時には江戸城に天守は存在しなかった訳ですね。
いや、将軍様は超セレブだから、のんびりしたい時には
幕府専用機で姫路城(←ロケ地)まで行って憩ってたのかもしれないな


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最終更新日  2016年04月20日 23時24分29秒


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