戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年05月01日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
『一休さん』も20話を越え、問題のシーンが続々・・・
現代アニメならともかく、当時の子供向けアニメで主人公が入水自殺を図るなど
あってよいものだろうか

安国寺で一時面倒を見ていた少年が一休さんの目の前で
母親の乳をねだるシーンでは、一休さんも美人の母上さまの胸をはだけて
頭の中で母上さまの乳をまさぐる妄想を展開していた。
一休さんの設定年齢は一体いくつなんだとワタシは問いたい。


っと、それはともかく、紛れもない日本の中心地、
江戸城本丸御殿までやってきましたので、今回わたくしが読んだ史料の中から


年代順に行ってまずはケンペルさんですが、この方は大変だった。

ケンペルさんの江戸到着は1691年3月13日(←月日も西暦)。
着いたらまず、宗門改め(大目付と作事奉行)と長崎奉行へ報告する。
翌日には宗門改めから丁寧な挨拶があり、献上品の準備が始まる。

カピタン(オランダ商館長)の江戸参府というのは、
一言で言って将軍への「御礼参り」であり、あわせて献上品の贈呈も行われる。
出島から大切に運んできたその贈り物を、江戸に入ってから献上できる形に
綺麗に整えたらしい。
これに数日を費やしている。

さらに、江戸に来たついでに幕府高官にもご挨拶をする必要があり、
彼らのためにも贈り物を色々と準備した。

江戸町奉行(2名)、長崎奉行(3名)、それと平戸候。

して、謁見がかなったのが3月29日。
当初は28日に拝謁がかなうと通告されていたのが、
側用人の牧野備後が兄の喪に服していて29日まで公の席に出られないので、
また1日延びたんだという。


長崎奉行らの配下の護衛を受けてカピタン一行がその後に続いた。
将軍への拝謁ということで、一行は式服として黒い絹の外套を着て、
カピタンは乗物で、ケンペルは馬で宿舎から江戸城へ向かう。

常磐橋を渡り、大名小路を抜けて大手門から入城し、
下乗橋を渡って大手三の門 からさらに奥へ。
その辺りの道の石垣は信じられないほど高かったとケンペルは驚いている。

ここまでの記事では、わたくしは大手三の門からすぐ二の丸方面へ向かったので
ケンペル達が通った正規の登城ルートはこの後、逆順路で紹介することになりますが、
ケンペルはまず「 百人番所 」で時間調整をしたと書いている。
が、その後の記述から考えて、ケンペル達が待たされたのはおそらく
百人番所の先にある「大番所」ではないかと思われる。

ここで待たされたのは1時間にも満たなかったらしいが、
番所の2人の組頭は茶や煙草を出して一行を丁寧にもてなしたという。
2人の宗門改めと川口摂津守も挨拶にやって来た。

そうしているうち、老中や若年寄の幕府高官が番所の前を通って御殿へ入っていく。
彼らが全員揃ったところで、一行が呼ばれて一連のイベントが始まるのだ。

さて、一行が呼ばれて中へ入ると、まず玄関のすぐ右手の控えの部屋に通される。
「虎の間」とも考えられるけど、ケンペルは「虎がいた」と書いていないので、
「遠侍の間」あたりで待たされたのだろう。
ここでたっぷり1時間ほど待つ。
その間に将軍が御座につく。
それから宗門改めと川口摂津守がカピタンを連れて謁見の間に向かう。
と、すぐに「オランダ・カピタン」という大きな声が聞こえてきたらしいので、
すぐそばの大広間でカピタンの謁見が行われたらしい。

それは彼が近づいて敬意を表わす合図で、それに応じて彼は、献上品がきちんと
  並べてある場所と、将軍の高い座所との間で、命じられた通りひざまずき、
  頭を畳にすりつけ手足で這うように進み出て、一言もいわずに全くザリガニと
  同じように再び引き下がった。いろいろと面倒な手数をかけて準備した拝謁の
  一切の儀式は、こういうあっけないものであった。


正式な国交がないとはいえ、カピタンは公使。
大航海時代を経て世界に散らばっていった誇り高いヨーロッパ人が、
文化の全く違う日本の作法にのっとって畳をズリズリと這いまわるのは
屈辱以外の何物でもないと思うけど、カピタンはオランダ東インド会社の看板を背負っている。
この儀式をクリアしなければ、日本を最初に見つけたポルトガル人のように
追い出されてしまうかもしれない。

ケンペルの頃には日本での貿易のうまみはかなり減っていたようなんだけど、
中国人とともに唯一交易を許された利権を手放す気はなかったらしい。

で、拝謁はこうしてあっけなく終わる。
ケンペルによると、昔はカピタン1人だけが出頭して拝謁し、
その2~3日後に法規が読み上げられるのを拝聴して、オランダ国民の名において

「カルケマッタ」 (かしこまった)

と法規を守ることを約束すればそれで長崎に帰れたという。
ところが、ケンペルの訪問の20年前頃からはイベントの様相が変わってきた。
ケンペルの出番はここからです。


カピタンが控えの間に下がると、将軍も退席する。
すると、今度はカピタンを含む3人のオランダ人が奥へ招かれる。
実際にはケンペルはオランダ人じゃないけど、
オランダ商館から来たヨーロッパ人はすべて「オランダ人」としてくくられています。

ケンペル達が御殿のどこまで招き入れられたのかがよくわからないんだけど、
ケンペルが言うにはまずいくつかの部屋を通って15分待たされ、
さらに他の廊下を通って一つの広間で座って待っているよう言われて30分ほど待つ。
そして薄暗い廊下を通って最終目的地へ到達する。
ケンペルは2回目の参府で御殿の中を見て回った時に畳や柱、
ふすまの数を数えておいたそうで、謁見の広間やその後のイベントの部屋の様子を
絵に描いている。

ただ、ケンペルの絵からでは具体的な最終目的地はわからない。
総合的に考えて、表の白書院か黒書院あたりかともいう気がするけど、
大奥の可能性も捨てきれない。
というのも、ケンペルが描いた絵には小石を敷き詰めた小さな坪庭が部屋の外にあるのだ。

ケンペルの絵の見取り図と小さな坪庭に該当する部屋は表にはない。
坪庭を手掛かりとするなら大奥の方がそれらしい構成の部屋があるにはあるけど、
さすがに大奥までは連れ込まないだろう。
なぜというに、ケンペルの絵には高官はもとより、
入側には幕臣たちがずらっと座っているのだ。
いくらイベントとはいえ、これだけの男どもを大奥へ入れるとは考えにくい。
それに、わたくしが持っている本丸御殿図は幕末のものなので
綱吉当時の御殿とは構造が違っている可能性がある。

ということで、やっぱり白書院か黒書院あたりが妥当かと思われますが、
わたくしが大奥まで視野に入れたのにはワケがある。
奥の部屋まで招き入れられたカピタン一行を見物した中には、
男性役人だけではなく御台ちゃまをはじめとする大奥の女性達もいたと
ケンペルは言っているのだ。
そしてここからが、ギャラリーにとってお楽しみの第2幕。

まずはカピタンが総督の名においてあらためて
これまで日本での自由な貿易が許されたことに対する礼を述べる。
御簾の奥には将軍・綱吉がいる。
でももちろん言葉は通じないし、下々の者が将軍と直接言葉を交わすことは許されないので
まず通詞が通訳し、それを側用人の牧野備後が将軍に伝える。
綱吉からのお言葉は逆の手順でオランダ人に伝えられ、ようやく会話が成立する。

見世物の初めは、ケンペルに言わせると「馬鹿げた」会話から始まる。
オランダ人1人1人に名前と年を聞いて、名前を紙に書かせたあとで

「オランダはバタビアからどれほど離れているか」
「長崎からバタビアまではどのくらいあるのか」
「バタビア総督とオランダの王とはいずれが権力を持っているのか」


とカピタンに尋ね、ケンペルには 「(24)」 のような質問が浴びせられた。

フツー、御簾の内というのは外からは見えない。
この時も綱吉が自ら言葉を発したのでそこに将軍がいることがわかったぐらいだと
ケンペルは言っているものの、そのくせ、

われわれの前方、畳で四畳ばかり離れた、同じように御簾の後ろには、将軍一族の
  姫たちや、その他大奥の女性たちが招かれて集っていた。この御簾の合せ目やすき間には
  紙を挿し込んであり、楽々とのぞけるように、彼女たちは時々そこを開いた。私はこういう
  紙を30個以上も数えた。だから、それと同じくらいの人々のいることが想像される。


とも言っている。
綱吉ははじめ、御簾から奥まったところに座っていた。
が、ケンペルらの応対に手ごたえを感じたのか興が乗ってきたようで、
御簾にかなり近い所にまで座を改めていた。

ケンペルの時代にはまだカピタンの江戸参府は1年に1回だった。
参府のスケジュールはしっかり決まっているので、毎年カピタンの表敬訪問があり、
しかも綱吉の将軍就任は延宝8年(1680)だからもう10回以上
こうしたオランダ人を見てきているはずなのに、
この時は思わず身を乗り出すほど心はずむものだったらしい。

江戸にはカピタン一行のほか、唐人(朝鮮人)もやって来た。
ただし、朝鮮通信使はおもに新将軍の就任祝いなどが目的で、
ほかに琉球の朝貢使もやって来たがこれも江戸期を通じてそれほど回数は多くない。
ちなみに、中国人も交易だけは許されてはいたが、彼等には江戸参府は許されていなかった。

まあ、鎖国だ~鎖国だ~という割には、
実のところ江戸より西の江戸時代人は結構ガイジンを目にする機会はあった訳で、
それなりに目は慣れていただろうと思うのに、それでもケンペル達は出島を一歩出れば
頭のてっぺんからつま先まで熟視され、日本人は実に好奇心の強い民族だと言っている。

将軍といえど例外ではなく、オランダ人の礼装を脱がせ、
作法通りに平伏していると顔が見えないからと上体を起こして座るよう命じ、
続いて色々な動作をするよう指示を出した。
指令のあまりの多さに、もうそのすべては覚えていないとケンペルは言っているものの、
覚えているのは

われわれはある時は立ち上がってあちこちと歩かねばならなかったし、それから踊ったり、
  跳ねたり、酔払いの真似をしたり、つかえつかえ日本語を話したり、絵を描き、
  オランダ語やドイツ語を読んだり、うたったり、外套を着たり脱いだり等々で、私は
  その時ドイツの恋の歌をうたった。しかし、わが長官の威信が傷つけられてはならないと、
  高官たちが気付いたので、カピタンは跳ねたりしないで済んだ。しかも彼は真面目で
  敏感な性格でもあったから、そういうことをやったところで、全くうまくは行かなかった
  であろう。もちろん先方には少しの悪意もないのだが、絶えず不当な要求に応じながら、
  二時間にわたり、こういうようにして見物されたのである。


要するに、第59代カピタンのフォン・ビューテンヘム氏が
彼自身の性格およびその立場上、日本人の望む珍獣になりきれなかったので、
医師のケンペルや書記官らが奮闘してギャラリーの要求に応えたらしい。
ケンペルが 鷹司教平の娘を垣間見た のは、この奮闘中の出来事です。


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最終更新日  2016年05月02日 21時42分58秒


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