戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年05月04日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
17世紀を生きたオランダ人で、モンタヌスという牧師がいる。

モンタヌスは1689年に『日本誌』という本を出した。
その名の通り、日本に関することをまとめた本らしいが、
モンタヌス自身は日本の地を踏んだことはなかったらしい。
いや、日本どころがアジアにすら来たことがなかったそうなんだけど、
宣教師や来日したオランダ人などから話を聞き、
それを基にたくましい想像力で日本についてのあれこれを書いたんだそうな。

その中には将軍家へ贈り物を献上するシーンを描いた絵もある。
なにせ、アジアにすら来たことがない人が描いたものだから、

ほとんどの人が日本を描いた絵だとは思わないであろう不思議な絵になっている。
わたくしだったら



って言うだろうな。
建物とかのハードについては中国っぽいと言えなくもないけど、
描かれた多くの人達の頭はたぶんちょんまげを描いたと思われるものの、
おでこにも髪があるので、トンスラにしか見えない。
着ている服もゆったりした修道服のような感じなので、頭もトンスラだし、
アジアにやって来たキリスト教修道士たちがわらわらいるようにしか見えないのだ。

ケンペルはこのモンタヌスの絵を目にしていたらしく、
江戸城および拝謁の儀式はモンタヌス風なイメージを持っていたのが
実物を目にして

「全っ然違うじゃん、モンタヌスぅ~!!」



御殿内部についての記述はそれほど多くはない。

将軍の御殿は平屋建てであるが、かなり高い建物で、周囲は大変広々としている。
  たくさんの利用されない廊下や、開けたり閉めたりして、大きくも小さくもできる
  部屋がある。廊下(の戸)を開け放つと、狭い中間の場所を通して、中にある部屋は
  かなり明るくなる。これらの部屋のうち最も重要なものには、一つ一つ名前が付いて
  いる。(中略)

  これらはすべて建築術の非常に厳密な規律に従い、日本的な好みで造られている。
  天井・梁および柱は、杉やクスノキや江尻材で、これには自然に花やその他の模様が
  付いていて、それゆえ、ただ薄く漆をかけただけの部屋が多い。ほかの所では
  漆を濃く塗ったり、あるいは鳥や木の葉を精巧に刻んで金を塗ったりしている。
  引戸や襖や壁にはきれいな絵が描かれ、まだらに金箔が施され、床にはへりの所に
  金色の布で縁どりした、清潔で美しい畳がきちんと敷いてある。


御殿に入って最初にケンペルらが待たされた部屋は

金張りの柱や壁や襖でみごとに飾り立てられ、また襖を閉めた時には、それに続く
  右手の家具部屋の、かなり高い所にある欄間を通してほんのわずか光がさすだけで、
  大変暗かった。


といい、第2幕のイベントが行われる部屋までの廊下には

ケンペルの時にはもう天守はなかったので、天守に関する記述は当然ない。

それから、ケンペルが直接見たものではないけど、聞いた話として面白い事が書かれている。

殿中にはなお地下室があり、その上部の天井は水を入れた平らな広い水盤からできていて、
  将軍は雷が鳴る時には安全のためにその地下室へ行く。なぜなら、その場合には稲光が
  水の中で消されるかもしれないからだという。

まあ地下室はね、武家屋敷・町方を問わず造られたっていうから
江戸城にもあって何の不思議もないんだけど、
天井に水を張った地下室に避雷に行くってホントかよ
真偽のほどはわからないし、ケンペルが誰からこの話を聞いたかわからないけど、
日本人が教えたんだとしたら、よく城内のヒミツを教えてくれたもんだよな~。


さて、前回のような一連の出し物が終わった後、
オランダ人1人1人に日本食の小さな膳が出された。
これはあまり食べなかったらしいが、食べる様子ももちろん
ギャラリーからじっくり観察されていたのだろう。
フォークとナイフは出されなかったので、箸で食べるしかなかったんだけど、
ケンペルらはうまく箸を使えたのだろうか・・・

それが終わると、外套を着てようやくお役御免となる。
幕府高官が登城する前に城内で待機していたんだから相当早く宿舎を出たハズだけど、
御殿でのイベントが終わったのは午後の3時をまわっていた。
が、まだ宿舎には戻れない。
この後、老中や若年寄などの重臣たちに挨拶回りをせねばならんのだ。


で、29年飛びまして朝鮮通信使に随行した申維翰(しんいかん/シンユハン)。
申維翰もケンペルもツュンベリーも、そこそこ日本の歴史について触れている。
まあ、申維翰はお隣の国の人だから、国許で日本の歴史について学んだものだろうけど、
当時の朝鮮人儒者がどのように日本の歴史を解釈していたのか、
本人の言から一部引用して紹介しましょう。

関白(将軍のこと;ジジイ註)の先系は、天皇から出ている。唐の867年に、
  皇子貞純は源氏の賜姓を受けた。源氏の摂政は貞純から始まるが、源頼朝にいたって、
  ますます大となる。かれはよく天皇を斥逐して専横をほしいままにし、大将軍の
  位に居りながら一国の威福を得るようになった。その由来するところ、すでに久しい
  のである。(中略)

  万暦年間(1586年)に、平賊秀吉が奴隷から身を起こして源(織田)信長に代わり、
  王となった。世伝では、秀吉は中華人で、日本に流入したという。そのひととなりは、
  木こりをする下僕である。信長が関白となったとき、その容貌の奇なるを見て
  宮中に引き入れ、近きにはべらせて寵愛し、事に用いた。よって秀吉は、信長を弑し、
  みずから立って関白とかいう博陸候(関白の唐名)となり、諸酋を虐滅して
  州島を統合した。

  このとき源家康だけは、城に拠って服しなかった。家康はすなわち、いにしえの関白
  源義定の11代目の世孫にして、関東に拠り、八州の衆を撫有した。(中略)家康は
  秀頼を立て、久しからずしてこれを撃断した。ついに平(豊臣)氏一族を誅し、
  源家の旧物をことごとく復した。けだしまた人傑である。

  子孫を伝えて家光、家綱、家宣、家継にいたる、家継は、夭折して嗣子がない。吉宗は、
  家宣の女婿であり、はじめ紀伊州の太守となってその統を承け、宗室の至親となる。
  国俗として、婚娶に、従父兄弟を択ばないゆえである。


ツッコミどころ満載の歴史解釈ですが、時の将軍は8代・吉宗。

一行が江戸に着いたのは享保4年(1719)9月27日。
実は 「(29)」 を書いたあとでもうひとつ、
朝鮮通信使に随行した文士の旅行記を読んだのですが(金仁謙/『日東壮遊歌』)、
朝鮮人は出島に滞在するオランダ商館員よりももっと日本慣れしていないので、
読む側としてもある意味新鮮な内容となってます。

まあその、「(29)」で申維翰が尊大だと書いたけど、
申維翰も金仁謙も朝鮮人で儒家。
金仁謙は日本人のことを何度も「犬のような倭人」と書いていて
(原文では「犬」と「のような」の間に「の陰茎」という言葉が入るらしい)、
相手が日本となるとしゃにむに勝ちに来る現代のスポーツの日韓戦を思い出して頂ければ
この2人がどういう論調で旅行記を書いているのかイメージしやすいと思いますが、
それでも日本の良さを認めざるを得ないような記述もある。
本人としては、劣っているはずの日本の良さなど認めたくはなかったでしょうが、
それでも認める文章を書いてるということはよっぽどだったのだろうと思う。

で、面白いのは江戸に近づくほどその繁栄ぶりに驚いていることで、
途中で通過する大都市・京や大坂、名古屋などの繁栄にも驚嘆しているんだけど、
最終目的地の江戸はそれらの大都市をもしのぐほどだと言っていて、
申維翰は江戸は京・大坂の3倍賑わっていると書いている。

初期の朝鮮通信使の江戸での宿所は馬喰町の本誓寺だったが、
それが焼失したため申維翰の頃の宿所は浅草の東本願寺となっていた。

何度も書いているように、朝鮮通信使は国の正式な使者。
ゆえに国書を奉じて江戸までやって来ており、
宿所ではまず大事な国書を「正庁」に南向きに安置した。

翌28日には日本側の接待役の主宰で宴が催される。
やや遅れて老中もやって来た。
そして、今後のスケジュールが言い渡され、
夜遅くなって登城時の式次第とゆーか留意点のようなものが
日本側でようやくまとめられたものの、翌朝に届けられたそれは
日本語で書かれた上におそらく崩し字であったために解読できず、
日本語を漢文に翻訳する係で対馬からずっと同行してきた雨森東(雨森誠清/芳州)が
病で伏せっているので漢文に翻訳できる者がいないという。

朝鮮通信使は正使・副使・従事官の3名を「三使臣」といって、これが一行のトップ。
申維翰は三使臣ではなく、「製述官」という役どころで、
一般には「書記官」という風に説明されるが、本人に言わせると

近ごろ倭人の文字の癖はますます盛艶となり、学士大人と呼びながら群をなして慕い、
  詩を乞い文を求める者は街に満ち門を塞ぐのである。だから、彼らの言語に応接し、
  我が国の文華を宣揚するのが、必ず製述官の責任とされるのである。

というお役目でもあるらしい。
通訳は他にいるので、レベルの低い倭人に漢文の書や詩文を与えてやる職務のうちで
もっとも高い地位にあるといったところだろうけど、
吉宗の時代に入って典礼儀式なども改訂があったらしく、
従って登城における注意点や一連の流れがわからないまま
儀式に臨む訳にはいかないと朝鮮側でゴネる事態となったが、
申維翰らが出動してどうにか翻訳し、予定通り儀式に臨むところにまでこぎつけた。

朝鮮通信使は新将軍の就任時などの節目に来日し、
タテマエは両国の融和・親睦を深めるというものだったが、
朝鮮人はとにかく上から目線で日本人をさげすんでいるし、
日本側では通信使を「朝貢使」ばりに将軍権威の高揚に利用するという面もあったらしい。

つまりはお互いに内心では

「日本に行ってやる」
「日本に来させる」


というような意識もあったようで、そこに国家の威信やプライド、
儒学的差別意識などの色々な要素が絡んで時には外交摩擦へも発展し、
江戸への道中でも「態度が無礼だ」「礼にかなってない」と言って文書や贈り物をつき返すなど
大小さまざまなトラブルがあった。

で、申維翰の回では登城の直前までそういうトラブルが起こっていたらしい。
まあ、朝鮮側にしてみれば、どうやって儀式を進めればいいかもわからないなんて
困ったどころの話じゃないだろうとは思うものの、そこまでの旅程で
いちいち細かいことに難癖を付けたり、日本を小馬鹿にする記述が続いているので
個人的にはあまり同情する気持ちが起こらなかったというのがホンネ。


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最終更新日  2016年05月05日 13時51分37秒


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