戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年05月13日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
前回はうっかり間違えて申維翰の登城を先に紹介してしまいましたが、
ケンペルは2年続けて江戸へ参府しているので、
時系列的にはケンペルの2回目の登城の方が先でした。
すみませぬ・・・

まあ、 1回目の時 と似たようなもんですが、
ついでなのでケンペルの2回目の登城についても書いておきます。


2回目の江戸入りは1692年3月31日(←月日も西暦)。
着いたら早速長崎奉行や宗門改めなど幕府要人から歓迎のあいさつを受ける。

江戸詰めと在勤とを交代で行っていた。

そして登城までの数日間をまた将軍や要人への贈り物の準備に費やす。
贈り物自体は長崎から運んできたものだけど、江戸で献上にふさわしいナリに整えるのは
すべて江戸の専門家の手によるもので、彼らへの礼金はかなりかかったらしい。
この準備は長崎奉行や旅を引率してきた付添検使、通詞など
カピタンの参府の責任者たちの立会いの下に行われた。

して、4月21日に登城。
登城の2日前から強い雨が降り続いていたが、拝謁は雨天中止って訳にはいかない。
ので、朝8時頃馬に乗って宿舎を出発。
この時も大手から入り、本丸の手前の大番所で待機。
雨はまだ降り続いていたらしく、靴や靴下が濡れてしまったので

その横を幕閣たちが通り過ぎていき、御殿の準備が整って呼ばれたのが10:30。
拝謁の儀式に臨んだのは前年と同じくカピタン1人で、それが12:30。
かなり待たされたよな。

そしてまた、ギャラリーにとってお楽しみの第2幕が始まる。
カピタンが大広間から戻ってきたあとで長崎奉行の山岡十兵衛に連れられて奥へ進む。

(前略)献上品が並べてあった左手の広間の所を回って、畳2、3枚だけ高くなっている
  将軍の座所のある部屋の傍を通り過ぎ、上の方に金張りの縁飾りがついた別の立派な
  廊下を通って、拝謁が行われる広間のすぐ近くにある長い次の間に入った。

というルートだとケンペルは書いていて、まず最初に通り過ぎたのが
カピタンが拝謁した大広間だろうと思うんだけど、
入側をぐるっと回り込んでいく場合、どうやっても大広間は右手になる。
ので、ケンペルの言う「左手」とは一致しないんだけど、
「将軍の座所」はまんず大広間の御上段を指すんだろうと思う。

ただ、フツーに考えれば献上品は大広間内に陳列されたんだろうと思うものの、
大広間からちょっと外れたところに「御時服置場」というのがあって、
これの用途がよくわからないけど時服(将軍家と大名家の間で贈答される季節の衣服)を
置く場だったのなら陳列スペースと考えてもよさそうだし、
御時服置場に献上品を陳列していたのなら通路から「左手」にあたる。

一行が通った廊下に「松が描かれていた」とか「竹の絵があった」とか
ケンペルが書いていてくれたら、第2のイベントの舞台ももう少し絞りやすいんだけど、
少なくとも大広間より奥へ進んでいったとは言えるだろう。

で、一旦「長い次の間」に入ったものの、ここまでで相当一行を待たせていることに
自覚があったのか、

われわれが坐りきりで長時間待っていて疲れるといけないので、他の廊下にさがらせ、
  そこで気楽に時を過ごすことができるようにしてくれ、しまいには近くにある庭が
  見えるように戸をあけてくれた。


『よみがえる江戸城』(平井聖監修/NHK出版)には本丸御殿をCGで再現した
DVDが附属していて、ケンペルらはどこまで御殿内を進んだのだろうかと考えながら
あらためてDVDを観たけど、やっぱり黒書院か白書院のどちらかじゃないかと思う。
どちらもすぐ近くに庭があるので、ケンペルの記述だけでは判然としないけど、
黒書院より白書院の方が広くて大勢のギャラリーを収容するのに都合がいいし、
粋なはからいをしてもらった休憩所に見合うような場所もある。
総合的に考えると白書院のセンが濃厚なのかな。

しばらく待っているとお呼びがかかって、第2イベントの始まり~。
今度も取り次ぎ役は側用人の牧野備後で、

彼は将軍の名において、よくぞ来られたと挨拶をし、それから、正座しなさい、
  外套を脱ぎなさい、と言い、我々の氏名や年齢を言わせ、立ちなさい、そこらを
  歩いてみなさい、向きを変えなさい、舞ってみなさい、、などと命令し、特に私には
  歌え、と言った。我々は互いにお辞儀をしたり、叱り合ったり、怒ったり、客に何かを
  勧めたり、いろいろの会話をやらされた。それから我々2人を親友とか、親子とかいう
  ことにし、互いに別れを惜しんだり、訪ねてきたり、互いに出会う2人の友人の仕草を
  したりした。また、1人の男が妻と別れる場面を演じたり、子供を甘やかしたり、
  腕に抱いたりする真似をした。


ケンペル1回目の参府は第59代カピタンのフォン・ビューテンヘム氏に従ったが、
その次の第60代カピタンのコルネリウス・アウトホルン氏は
「真面目で敏感な性格」のフォン・ビューテンヘム氏とは対象的な性格だったらしく、

2度目の参府の時はバタビア総督の弟のコルネリウス・アウトホルン氏に従ったが、
  彼は博識で世故にたけ数ヵ国語に通じており、その生来の愛想の良さによって、
  疑念を抱いている日本人にうまく取り入っていたので、それによって会社の利益を
  非常にあげた。


と評しているので、あるいはオランダ東インド会社座による一連の演目には
カピタン自らが参加していた可能性もありそうだけど、
次から次へと出される「お題」がギャラリーの関心の高さを物語っている。

皆さんが国の代表として言葉の通じない辺境の外国に行って、
異性の役をやらされたり子供の役をやらされたり、
歌えだの踊れだのガイジンから命令されたらどう感じます?

楽しんで与えられた役にいそしむ人はそういないんじゃないかと思うので、
ケンペルたちもよく辛抱したな~と感心するものの、
ケンペルは前年の参府で免疫ができていたかもしれない
ちなみに、アウトホルン氏もこの時が2度目の参府になる。

して、小芝居のほか、質疑応答も行われた。

「その方はどんな職業についているのか?
その方はこれまでに重病を治したことがあるか?」


「捕虜と同じような状態にある長崎では治したことはありませんが、
日本以外の所ではあります」


「家はどんなか?習慣は違っているのか?」

「はい」

「その方どもの所では葬儀はどのように致すのか?」

「遺体を墓場へ運んでいく日で、それ以外の日には葬儀は行いません」

「その方どもの皇子(国王か?)の地位はいかなるものか?
バタビアにいる総督は皇子より身分が低く、その下に立っているのか、
それとも彼1人で国を治めているのか?」
「その方どもはポルトガル人が持っていたような聖像を持ってはいないのか?」


「持っておりません」

「オランダやヨーロッパの他の国々にも雷が鳴ったり、地震で揺れたりするのか?
落雷が家を焼き、人々を殺すことがあるのか?」

ケンペルは一問一答形式で書いてはいないので、
ケンペルがどのように答えたのかわからない部分もあるけど、
多岐にわたる内容の質問を受けたらしい。

それからケンペルに沢山の膏薬の名を挙げさせ、またダンスをさせた。
カピタンは家族構成なども聞かれた。

堅苦しい儀式の第1幕とは違って、第2幕では綱吉の興味のおもむくままに
質問タイムや小芝居タイムが交互に繰り広げられ、

  我々は帽子を脱ぎ、鬘(かつら)をとったり、また言葉を交わしながら、
  15分ばかりあちこち歩き回らねばならなかった。


記録というのは実に重要なもので、ここからケンペルがヅラを使っていたことが
わかる訳ですが、もちろん現代のような薄毛の人用のヅラではなく、
バッハやモーツァルトの肖像画に見られるオサレなヅラの方です。
しかも、御殿内でもヅラの上に帽子をかぶってたってことだよな。

ま、オサレなヅラとは言っても、くるくる巻き毛の下の自毛は
短くするか剃っていたそうなので、当時の衣裳にツルッパゲや坊主刈りを組み合わせたのを
想像すると笑いが込み上げてくる。

ケンペルの肖像画は残っていないのか、ウィキペディアには想像図だけが載っていて
想像図ではなかなかの悪人ヅラをしている。
ツュンベリーの方は『江戸参府随行記』に肖像画も載っており、
それによるとモーツァルトタイプのヅラをかぶっている。
この回の第2幕の様子はケンペルが絵に描いて残していて、
オランダ人の面々はみなもしゃもしゃのルイ14世タイプのヅラをかぶっているように見える。
ただし、髪の長さは肩ぐらいまでだけど。

ケンペルによると、御台ちゃまもこの場で見物していたらしい。
役職にもよるけど、大奥の女性たちは好き勝手な外出はできなかった。
その代わりに各種イベントが1年を通じて行われており、
四季の花々や自然を楽しむための屋外でのイベントもあった。
が、吹上の庭など大奥以外の屋外でイベントが行われる場合は幔幕を張り、
出入口をきっちり管理して男性役人との接触を避けていたぐらいなので、
御台ちゃまが表向に来るということが最初は信じられなかったし、
ゆえにケンペルの初めての登城のところでも書いたように、
儀式の後の第2幕は大奥で行われたんじゃないかとも一時は考えた。

もちろん、御台ちゃまは御簾の奥にいた訳だけど、
ケンペルは何度も御台ちゃまの方を見ていたらしく、
「美しい将軍の御台所」と書いている。
が、御簾ごしにそんなに見えるもんだろうか・・・

さて、イベントが段々盛り上がってくると、遠巻きに見てるだけじゃ物足りなくなったのか、

 それで私は御簾の所からもう少し近くに行かされ、鬘をもう一度とり、飛んだり跳ねたり、
  一緒にダンスしたり、歩き回ったりした。(中略)さらに、我々は夫が妻に対して
  どういう風にするのかを、わかりやすくやってみせねばならなかったが、その際
  不意に接吻してみせたので、婦人たちの所で少なからず笑いが起った。それから、
  我々はまたしても飛び回ったり、最後には身分の低い人が高い人に対する、また王に対する
  ヨーロッパ人の敬意の表し方をやって見せねばならなかった。私は歌をうたうことを
  求められ、いろいろの歌のうちから二つを歌い終わると、みなからそれ相応の喝采を受けた。
  それから我々は外套を脱ぎ、次々と将軍に近づいて、ヨーロッパの王の前でするように、
  てきぱきと別れの挨拶をした。そうすると、みなの顔に楽しげな満足な様子が浮かんだので、
  我々はそれを見届けてから、退出の許可を得た。


第2幕の上演時間は3時間半。
退出できた時はもう16時だった。
前年と違って、御殿で軽食を出されたとは書いてないので昼飯ヌキだよな。

城を出てそのまま牧野備後の屋敷に行くと、「大層結構なもてなし」を受けたそうな。
おそらく、役者たちが張り切ってキスのサービスまでしてギャラリーの要請に応えたので、
見終えた満足感を反映した接待だったのだろう。
もちろん、牧野備後が個人的に満足したところで興業の成功とはいえない。
綱吉の上機嫌を見て、それにふさわしい接待を備後守が用意したのだと思われる。


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最終更新日  2016年05月13日 23時56分16秒


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