戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2016年05月08日
XML
カテゴリ: 城(東北・関東)
申維翰が江戸城へ正式登城したのが享保4年(1719)10月1日。

江戸城へ向かう朝鮮の面々は正装に身を包み、国書を奉じて宿舎を出発した。
朝鮮通信使の一行は、カピタンの江戸参府とはずいぶん趣きを異にしており、
音曲を奏でる楽士も随行していた。
登城の際にもそれら楽人の奏でる弦楽をまといながら、ゆるゆると一行は進む。

ウィキペディアによると

 【通信使の江戸城への入城については、幕府は江戸城裏門からの入城しか許さなかったと
  言う説と、大手門から入城できたという説がある】

ということなんだけど、申維翰の記述を簡単にまとめると

第一城門を入ると錦繍の衣を着た男女が多数見物しており、
  第二城門を入るとまるで宮殿のような執政・太守・諸貴人の屋敷が連なり、
  第三城門を入るとそこが宮城で、軍官以下は下馬し剣を外して歩いて入る。
  その奥の門では堂上訳官が輿から下りて歩き、その奥の門では使臣が輿を下りた。
  対馬太守などが迎えに出て、それに従って奥の門を入ると首訳は国書を両手に捧げて入る。
  門内には丁字形の一高閣があり、板梯を登ると上に閣道が通じ、これを玄関という。

となっていて、確かにどこから入ったのか判然としない。
大手以外から入ったとしても、身分に応じて途中で下馬・下乗するのは当然のことだし。


もう1人、金仁謙の書いた『日東壮遊歌』(平凡社)を読んだと前回書きましたが、
じゃあ金さんはどう書いてるかとゆーと、この方は登城していない。
高官というほどの役どころではなかったにせよ、身分が低くて登城できなかった訳じゃない。
どころか、三使臣がせっかくだから一緒に行こうよ~と再三勧めたにも関わらず、

国書を奉じて行かれる使臣方は致し方なく行かれもしましょうが、
  一介の文士である私としては、行事を見るために行き
  犬の陰茎のような倭人に拝礼するのは苦痛です。
  どうあっても行けません。


とガンとして固辞しやがった。

「こんの、ボケがあぁぁぁ~~~!!
江戸に行って江戸城を見ずして何とする!
海を渡ってはるばる江戸までなにしに来たんじゃ!!」


とゲシゲシ蹴りを入れてやりたいところですが、
わたくしがバカバカしいと思うのは、金仁謙は気取って登城しなかったにも関わらず、
登城した同僚から詳しく城内の様子を聞いて、しかもそれを細かく書き留めていることで、


  55の正門、4つの橋、城門3つを次々と通過し、関白(将軍)の宮殿(江戸城)に
  到着。第一の門がある橋の上に下馬の札があり、上官らは馬から下りる。旗指物・軍楽も
  ここで留まり、煙管を持つことも禁じられる。第二・第三の門で駕籠の者も下り、
  第四・第五の門で使臣方も輿を下りられる。出迎えに従い中に入ると、通路には薄縁が
  敷かれ、第六・第七の門より先は畳敷きの廊下である。


だそうで、やっぱり詳しいルートはわからない。

ただ、日本側では通信使一行にかなり気を遣っており、
国書を奉じた正式な国使な訳だから、素直に考えれば大手門から入ったんだろうと思う。



まずは控えの間に入ったらしい。
その後、大目付がやって来て儀式の開始を告げ、首訳が国書を奉じて進み、
三使臣が次に従う。

一つの正庁にいたって卓上に国書を安置した。これすなわち関白の坐殿である。

日本へ来るガイジンはそれなりに日本の政治形態も把握している。
ツュンベリーなどは天皇を宗教上の皇帝といい、将軍を世俗的皇帝と言ったりもする。
申維翰も朝廷と幕府の二重体制を知った上で、江戸城を「宮城」といい、
御殿に入ることを「入内」などと表現している。
まあこれは朝鮮の社会構造や文化の質から単にこういう表現になってるだけかもしれないけど、
日本人からするとちょっと紛らわしい部分もあるので、
いちおう申し添えておきます。

で、御殿に入って場所を移動しているので、玄関付近の待合室から
御殿内で最も格の高い大広間へ移動したってことだと思うけど、
ケンペルの時と違うのは、三使臣以外の申維翰らの随行者も一緒に大広間へ移動していること。
すでに大広間には幕府高官や大名たちがそろっており、
大広間に入ると使臣は東に座り、世話役である対馬藩主はその向かいに座った。

それから首訳が国書を対馬藩主に渡し、対馬藩主から老中へ渡し、
老中から将軍・吉宗へ渡される。
申維翰の回は吉宗の就任祝いのための来日であり、
国書だけでなく贈り物も持参してきていた。
御殿内に置ける贈り物は(おそらく)廊下へ陳列された。
贈り物の一つである鞍付きの馬は中には入れられないので、庭先に立たせて披露された。

朝鮮側から日本側へ渡された中で最も大事なものは当然朝鮮王からの国書で、
これを吉宗に献じると儀式の最も重要な場面が終わる。
ので、国書を献じたあとはさしあたって三使臣も首訳もすることがなかったと
廊下の辺りから遠巻きに見ていた申維翰は書いているが、
もちろんこれだけで終わるわけではなく、

使臣が入り、関白を拝して出た。ふたたび入り、酒礼を行って出た。これより諸上官が
  順次に入る。


「入る」といっても別に仕切られていた訳ではないだろうから、
吉宗の着座する大広間御上段に近づいて拝礼を行ったということだろう。
諸上官以下の随行員はその身分に従って、遠い場所からそれぞれ将軍を拝する。
申維翰も「はしらの外」から拝したというから、入側から拝礼したってことかな。

余は拝礼のとき関白を望見したが、頭には一角烏帽を戴き、身には淡い青袍を着、
  座ぶとんを重ねた上に坐っていた。床、椅などの諸物はない。余と相去ること
  三、四間をへだたるにすぎないが、その坐所が奥深く、左右には珠簾や彩帷を設けて
  いるうえに、殿内の見通しがよくないため、そのひととなりを詳見することは
  できなかった。しかし、およそのところ、精悍にして痩勁、坐貌は秀でて高く、
  顔色は白いがやや黄味があり、豊碩(豊かな顔つき)には欠けているようだ。

吉宗といえば武芸を奨励し、自身も狩りを好んだともいうから
がっしりした体格なのかな~というイメージだけど、
申維翰から見た吉宗は比較的やせ形だったらしい。
で、「一角烏帽」と「淡い青袍」ですが、

また聞けば、関白が戴くところの烏帽はすなわち執政の着帽と等しく、またその
  淡色の青袍はすなわち木綿衣という。倭冠はほんらい君臣の別ないものであり、
  平素においては倹を尚びこのんで木綿衣を服するが、しかし、正庁に坐して隣国の使臣を
  引接する聘礼の盛事にいたるまで、どうして等しくするのだろうか。しかもまた
  粗末な服や冠を用いてみずから賓にその栄意をなす者、その人が詭異を好んで行いながら、
  もって俗をただしうるのだろうか。


だそうな。

申維翰にしろ金仁謙にしろ、儒教の国だけに朝鮮人は「礼」にはうるさく、
前回の最後でも書いたように、朝鮮通信使の来日時には礼にからむトラブルが少なくない。
読んでる方としてもウザいと思ってしまうんだけど、ことこれに関しては
(申維翰が聞いた話が正しいのだとしたら)申維翰の言の方が正しいと思う。
何も国使を迎える儀礼の席でまで木綿の袍なんか着ることはなかろうに。


最も重要な儀式が終わると、老中から宴のお誘いがある。
将軍はこれに列席せず、御三家が将軍に代わって一行をもてなした。
ただ、尾張継友は病のために欠席。
申維翰も宴に参加し、紀伊と水戸の藩主を見ているが

(紀伊)宗直は年わずかに弱冠、(水戸)宗堯は年わずかに十四、五、
  みな乳臭い児である。

と言っているので2人とも相当若かったらしい。
ま、この2人だけで通信使をもてなした訳でもなく、幕閣もいるので問題はない。

斑衣に袴を曳く者数十百人、一時に饌をすすめる。饌品は前と同じである。ただ高く
  盛りあげた果物をならべ、金銀彩花が燦々として林を成すが、食うにたるものはない。
  干しあわびを糸の如く細く切り、それを膠で貼り合わせ、高く円く盛り合わせて
  唐帽状にしたのがある。見たところ驚き笑わざるをえない。

  使臣は、酒を酌むこと三盃して、起ちあがる。執政四人が行閣の内まで揖して送り、
  館伴と両長老は轎に乗る処まで揖して送る。諸官もつぎつぎと、あるいは轎に乗り、
  あるいは馬に乗って出る。そして再び軍儀、鼓吹を列べて帰る。日暮に館に着いた。


申維翰も金仁謙も何度も「食うに足るものはない」という言い方をしているので、
単に日本食が朝鮮人の口に合わなかったのか、
バカにして食べる気も起こらなかったのか、
それとも本当に見かけばかりで食べられるようなものがなかったのかは不明。

ただ、これは幕府主催の正式な饗応の場であり、
細く切った干しアワビをうず高く積んだようなものが出ていたのなら、
少なくともこの宴においては「 三献の儀 」のような儀式料理が並んでいて、
ホントにまともに食べられる料理はなかったのかもしれない。

その後で対馬藩主と「両長老」・・・まあ、この人たちは全行程における
責任者みたいなもんで、その人たちが宿舎にやってきて、
一連の儀式が無事に終わったことを祝ったという。

11日になって、吉宗からの回書が届けられた。
これをもって朝鮮通信使は帰国の途につく。

琉球からの使節については勉強不足で把握しておりませぬが、
まあ大体似たような感じでしょう。
一国の正式な使者だから、ケンペルのようにあれこれやらされることはない。
面白味がないっちゃ~ないんだけど、朝鮮通信使はしょっちゅう来るものではなかったので
沿道でも沢山の民衆が見物した。
江戸城内でもやはり見物の衆がおったらしく、

宮中宴享のとき、左右の庁壁に垂簾があり、観ると、その隙間から窺う者は必ずこれ
  関白の宮女(大奥の女性たち)である。聞くと、関白もまたその中にあるという。


つまり、オランダ人のようにしいて何かをさせるということはなかったけど、
御簾の中から将軍と奥の女性たちが見物していたのは同じで、
礼節を重んじる申維翰が当然これを快く思うハズもなく、

規模かくの如く、人を用いることかくの如く、儀度またかくの如くである。

と述べている。



にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2016年05月08日 23時50分31秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: