戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年06月02日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
出島のオランダ商館にいたヨーロッパ人の中でも、
歴史ファンを中心に広く世間にその名を知られているのは、
ケンペル、ツュンベリー、そしてシーボルトの3人だろう。

これは17世紀、18世紀、19世紀の各時代において
それぞれが詳細な日本の記録を遺しているからで、
中でもシーボルトは鳴滝塾で蘭学を教えたり、いわゆる「シーボルト事件」で
教科書にも載っているので、歴史に関心がなくても、
なんだか知らないけど名前だけは知ってる、という日本人は多かろう。

ドイツ人のフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトは、

表記されることもあるけど、ここでは「シーボルト」で通します。
参考文献は『江戸参府紀行』(斎藤信訳/平凡社東洋文庫)です。

んで、シーボルトさんはオランダ商館付の医師として来日し、
カピタンと共に1826年5月1日に江戸城に登城した。

ズーフと同じく朝の6時に宿を出て、大手門から入って例によって百人番所で待機。
ここで出された茶はたいへん悪いものだったと言っており、
ズーフがカピタンの名誉をかけて断じて動かなかった緋毛氈のかかったベンチのある
奥の部屋の設備はすべて「堂々とした感じを与えはしなかった」と言っている。

沢山の彫刻が施された仏教様式を思わせる門を通って御殿に入ると、
まず控えの間に通される。

そこでは立っていても歩いていても腰かけていても構わなかった。


みんなお行儀よく座っていたのでちょっとこの文章は疑問があるけど、
「ここで座って待っていなさい」と事細かに指示されなかったのをいいことに、
彼はあるいはウロウロと歩き回ったりしたのかもしれない。

ここで待っている間、さっそく見物人がやって来て、
扇子や紙にオランダ語でサインしてほしいと頼む者もいた。

すでにツュンベリーの以前からオランダ人にサインしてもらうのも定着していたので、
ズーフもおそらくなにがしかを書いてやったかもしれない。

ただ、カピタンには予行演習があったからな。
シーボルトの時にも習礼はあったようで、

ここでまた奉行と外人接待係がわれわれを訪ねてきて、謁見式の次第を次のやり方で
  説明した。使節は「拝礼を練習するために」謁見の広間に行くことを求められた。彼は
  侍臣に導かれて進み、われわれも数歩はなれて黙って彼について行くことを許された。
  (中略)すべての木造部には精巧な彫刻がしてあり金張りになっている。ひとつの
  閉め切られた部屋が見え、その左には机の上と、白い檜、いわゆる日の木で作った担架に
  似た進物台の上に献上品がうまくきちんと並べてあった。ここで使節は二度・三度と
  拝礼する。そのうえ日本流にひざまずいて深く頭を下げ、拝礼と拝礼の間にはその都度
  起き上がるのである。


拝礼と拝礼の間は起き上がるって、なんだか五体投地みたいだな。
イスラムの拝礼じゃないんだから・・・って笑ったものの、
「立ち上がる」って書いてる訳じゃないから、まあ座ったまま上体を起こしたって意味だろう。
面白いのはその次で、

第三回目の拝礼を終えると目立つほどの色の白い美少年がふたり、畳を敷いた階段を
  三段目まで降りて来た。それは将軍のふたりの子であった。今や使節はなおしばらくの間
  立ち止まっていて四方から見物されねばならなかった。


時の将軍は11代・家斉(いえなり)。
家斉といえば50人を越す子だくさんで有名な方ですが、
26人いる男子の中で誰が見物にやってきたのかは不明。
少なくとも世嗣でないのだけは確かで、ゆえにウワサを聞きつけて大奥から表まで
見物にやって来たのだろう。
大奥からはるばるやって来た美少年へのサービスのため、
習礼が終わっても控えの間に戻れなかったカピタンの姿が少々哀れを誘う

して、いよいよ本番。

奉行ならびに数名の侍臣が使節を案内し、ふたりの上席番所衆と通詞が随行し、そして
  われわれは静々とついて行った。    使節とそのふたりの随員にとってはたいへん
  名誉であった    。


これを素直に読むと、シーボルトも拝謁の行われる大広間までついて行ったように思えるけど、
カピタン1人が連れられていって医師や書記などの随行員はフツー控えの間で待機しているので、
ちょっと考えにくいんだよなあ・・・
その後の文章も、シーボルトが自分の目で見たものを書いているのかイマイチ判然としない。
ま、ともかく

広間のふたつ目の角のところでふたりの上席番所衆はあとに残り、通詞は三つ目の角まで
  従った。そこで使節は一瞬立ち止まると、大名や他の高官達はじろじろと彼を眺めた。
  それからすぐに低いシーという声が聞こえた。最も高い地位の人が近づいて来られる
  合図であった。みなはめいめい決まっている席につこうと急いだ。


他の人の記述を読むと、カピタンの拝謁は大広間が一分の隙もなく整ってから
大広間に向かっていくという感じだったんだけど、
シーボルトの記述からはあまりそういう雰囲気はうかがえない。

それでまた「オランダ・カピタン!」と声がかかって拝謁と相成る訳ですが、
シーボルトは

使節はここでひざまずき低く頭を下げていたので、前方の金張りの木彫を見ただけで、
  将軍の影さえ目に入らなかった。


と見てきたようなことを書いている。
ホントに大広間までついていったのかな・・・
わたくし的には、これは後でカピタンから聞いた話を書いただけじゃないかと思うんだけど。
仮にシーボルトが大広間の外から見ていたとしても、
カピタンと同じように平伏していなければならなかったハズだから、
悠長に見物していられるはずはなかったと思うのだ。

して、儀式を終えてカピタンが控えの間に戻ってくると、
関係者から拝謁が無事に終わったことの祝辞をもらった。

ここでまた多数の大名や高官が姿を見せていて、その中には10-11歳ぐらいの
  たいへん礼儀正しい少年で将軍の世子のいちばん下の弟もみえ、2,3のオランダ語を
  紙に書いてくれと使節に頼まれたので、書記はただちに書いて差し上げた。見物されるのも
  これが最後としばらく我慢してから、使節は随行者と共に退出することが許された。
  儀式は終わった。エンゲルベルト・ケンプファーが述べたように、透き通って見える
  竹の簾の後ろにかくれた将軍の前で踊ったり歌ったりするオランダ人の個人的な演技が
  時の移る間に廃止されたことは、やはりわれわれの幸福というべきだった。

・・・とまあ、

「じろじろと見物されるのは閉口したけど、
ケンペルん時みたいに色々やらされなくてよかった~」


と言っている。

5月4日には再び登城して、 例の法規の確認 の儀式があった。
この時にもまたカピタンは習礼をしたようで、本番の儀式の

その間、われわれだけが残っていることは不名誉と考え、拝謁のため使節に随行することが
  許されるよう坊主に頼んだ。この願いは奉行や高官らの打合せののちに許されたが、
  使節が将軍の前でお辞儀をしている間、われわれは広間の入口で立ち止まっていなければ
  ならないという点では、相変わらず名誉とはいえなかった。


と興味深いことを書いている。
ふむ、少なくとも再登城の時には大広間までくっついていったことは間違いなさそうだけど、
立ったままで待っていたということは、将軍からは見えない位置にいたってことだろうな。
「残っていることは不名誉」って、シーボルトもはいつくばってお辞儀をしたかったのだろうか。  



さて、最後のガイジンはオランダ人のヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーン。
この方は第164代カピタンで、レフィスゾーンの後に2人のカピタンが続くので
最後のカピタンではないけれど、江戸参府をしたのはレフィスゾーンが最後。
その最後の参府(1850年)でレフィスゾーンが語る内容
(『江戸参府日記』片桐一男訳/雄松堂出版)を簡単に紹介しますと、
御殿に入るまでの段取りはこれまでと同じ。
御殿に入って案内された控えの間は

高く、珍しい、描かれた天井と障壁、彫刻、金メッキの銅で飾られた柱と障壁などを
  感嘆するのに、われわれの眼は十分ではなかった。

と言っている。
人によって御殿の評価が全然違うのがなかなか笑えるところですが、
レフィスゾーンの眼はしごくノーマル。

して、レフィスゾーンも習礼のために別室へ連れていかれたが、
その移動の最中には数えきれないほどの人が彼らを見ようとしていたという。
習礼を終えて控えの間に戻ると、

そこで、いろいろの領主、特に肥後、加賀、仙台、久留米の領主に、そして薩摩の世子、
  人々がそういっているように、将軍の親戚にまでも尋ねられた。それらの人たちは、
  われわれを感嘆し、さわってみたり、かつ私の懐中時計をみせてもらい、もっとも
  鄭寧で、われわれに対して親切であった。

持ち物や身につけているものなどを、せがまれて日本人に見せてやることは
ケンペルの昔から同じだけど、ここでは「おさわり」まで追加されている。

ガイジン達の書き遺したものを読むと、それなりに各自の個性もうかがえるもので、
『江戸参府日記』を読む限りでは、レフィスゾーンは比較的鷹揚な育ちの良さを
感じさせるな~というのがわたくしの印象。
で、ここでは「おさわり」までされながらもそれで気分を害したというようなことは
書いていない。

大藩の藩主たちが物見高くオランダ人を取り囲んでいたというのが興味深いですが、
レフィスゾーンが登城した1850年4月26日は旧暦の3月15日。
つまり、大名の定例登城の日だったらしい。
これはちょっとオドロキだったな。

そして、12代将軍・家慶に拝謁。
レフィスゾーンがいた場所からは結構距離があり、また周囲が暗めだったので
家慶の姿を全く見分けることができなかったと言っている。

4月29日(←西暦)には再登城して、お約束の法規の確認をした。
この時も習礼があったと言っている。

レフィスゾーンはザリガニの儀式のことを、「私にとって大層屈辱的であった」と言っている。
同じ時期の世界情勢を考えれば、これはごく当然の感想だと思うんだよね。
カピタンの記録は、わたくしはズーフとレフィスゾーンのしか読んでいないので
他の歴代カピタンがどう思ったのか、どう書いてるのかは知らないけど、
割合からすれば屈辱だと考える人の方が多かったんじゃないだろうか。

出島でも参府の道中でもオランダ人はかなり窮屈な生活を強いられていた。
その上に、ザリガニの儀式。
ウィキペディアによると、

 【オランダ人の初の拝礼は慶長14年(1609年)の使節ニコラース・ポイクによる
  駿府での徳川家康との謁見であった。】

だそうな。
その後、様々な変遷はあったけど、1850年のレフィスゾーンの参府まで241年。
カピタンはじめ、オランダ商館員の数えきれないほどの様々な感情と忍耐の上に
日蘭貿易は成り立っていた。
その最も象徴的なものが、江戸城での拝謁の儀式とも言えるんじゃないかと
わたくしは思う。



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最終更新日  2016年06月02日 23時54分12秒


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