戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年07月13日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
りり:それじゃ申さん、朝鮮通信使の旅程の概略の説明をお願いします。
   まずはざっとね。


申維翰:我らはソウルからの出発だ。我が国内をずっと南下して釜山を出港し、
    まずは対馬へ渡る。対馬の東海岸を伝って壱岐へ渡り、筑前領藍島へ渡る。


り:藍島は 六連島 の北西にある島ですね。そこまでくれば、本土がもう目の前だ。

申:藍島から赤間ヶ関を抜けて大坂まで行く。ここまでは船だ。
  そして陸路で大坂から淀・伏見を通り京へ入る。

ツュンベリー:あとは私達と同じ東海道だね。

申:いや、京から大津へ出て、しばらく琵琶湖沿いを進んだ。
  そして山を越えて大垣へ抜け、名古屋へ入る。その先からはオランダ人と同じようだな。


ケンペル:すると、大きく北側へ迂回した道を進んでいったということか?

り:カピタンの参府ではまんま東海道を東進したから、草津から水口を通って
  亀山へ抜けてますけどね。
  中身はどうであれ、朝鮮通信使は丁重にもてなされたので、こういうルートになってます。


レフィスゾーン:迂回することと丁重なもてなしとどういう関係があるんだ?

り:この道は関ヶ原を突っ切るルートで、一部美濃路を通ります。
  読者の方には、東海道新幹線のルートだといえばわかりやすいかな。
  関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利したあと、家康はこの道を通って上洛しています。
  また、その息子で2代将軍となった秀忠も同じ道を通って上洛しているので、
  徳川家にとって吉例の道とされ、その後沿道には将軍の休息所も設けられて、
  以後の将軍が上洛する際に使われ、将軍専用の道とされて、
  参勤交代で国許と江戸を往復する大名たちには通行が許されなかったという、
  特別な道なんです。


ズーフ:我々とは差がつけられていたということか・・・

り:まあ、そうしんみりしないで。
  この後、おいおいわかってくると思いますが、とにかく朝鮮通信使への接待というのは
  異常なほどなんですよ。
  なもんだから、もともと傲慢な朝鮮人がますますつけ上がって・・・


金仁謙:おい、そこの倭人!!

り:(無視)旅程はこんなとこですかね。
  どのぐらいの人数で旅をしたんですか?


ケ:まず小倉までの陸路は100名。
  これには馬丁や大名が護衛に付けてくれた人数が含まれる。
  その先の海路では、水夫が含まれるのでそれほど少ない数にはならない。
  大坂から江戸までの陸路では、荷物も人馬で運ばなければならないので
  馬40頭に人足も同じだけの数がいて、150名にもなることがある。


ツ:オランダ人は商館長と書記官、それに医師の私の3人なんだ。
  あとは役人、通詞、従僕、召使のおよそ200人にも達する相当な数の日本人が随行する。


り:200人という数については、「この人数は疑わしい。通常は60名ほどという」という
  注釈がついてますけどね。レフィさんの時は?


レ:私の時にはオランダ人は私とドクトル・モーニッケの2人だけで、その2人に対して
  保護・監視を目的として61人の日本人が付いた。


り:ふむ、回によって多少の増減はあるだろうけど、やっぱりそのぐらいの人数が
  スタンダードだったんだろうな。


申:余の時は朝鮮側だけで475名。うち109名は大坂で船に留まるがな。


レ:え?

金:私の時は総勢484名だ!

レ:申さん、今「朝鮮側だけで」って言いましたよね?
  すると、金さんの時も朝鮮人だけで484人てこと?
  なんでそんな大人数になるんですか?


申:中心となるのは正使・副使・従事官で、これを三使臣という。
  一行は上房・副房・三房の3つに分けられ、三使臣がそれぞれ、各房の上に立つ。
  そして通事・書記・軍官・船将・小姓・水夫・従僕などがそれぞれの房に所属する。
  もちろん医官もいる。


ケ:それだけでそんな人数になるのか?

り:いや、朝鮮通信使のメンバーには驚くべき職種も含まれてるんです。
  金さんの回の名簿から変わりダネをいくつか拾ってみると、まず画員。


ツ:絵描き?

り:それから楽人。一行のパレードの際は、楽人たちが笛やラッパをピープー吹きながら
  行進します。あと、各滞在地でも楽を奏でさせて内輪の宴をしたりしてますね。

ズ:ずいぶんと優雅なもんだな。

り:それから大旗の持ち手や毛槍の持ち手。

ケ:そんなのの専任がいたのか?

り:料理人や屠牛匠。

ツ:牛の屠殺人てことか?我々の一行にも料理人はいたが、全部日本人だぞ。


り:オランダ商館員は日本に住んでましたからね。
  でも朝鮮人の場合は一時的な「お客様」だから、文化の違いもあるし、
  全部が全部朝鮮人料理人が滞在中の料理を作った訳でもないみたいだけど、
  自国の料理人を抱えていた方が何かと都合がよかったんじゃないですか?
  朝鮮人は文句が多いし。


申:文句が多いと言うが、 宴で出された料理でまともに食べられないもの は多かったぞ。

り:それは儀式料理だから。
  文化が違えば調理法とか盛り付け・味付けも異なるのは当然のことなんだから、
  四の五の文句言う前に素直に色々食べてみればよかったのに。


金:そこの倭人、無礼が過ぎるぞ!!

り:(無視)あと 馬上才 。馬で曲芸する人のことです。
  それと馬の獣医。
  金さんの回の名簿にはちょっと見当たらないけど、鷹の飼育係もいるはずなんだけどな。
  回によって鷹のいない時もあったのかな。


ズ:ということは、馬や鷹もいたということか?

り:左様でございます。将軍家への献上品でございまする。
  こーゆーのを引き連れて、しめて500名近く。
  この時点ですでに日本人随行者も含めたカピタン一行の人数をゆうに超えてますが、
  対馬~江戸間はこれに対馬藩の護衛が付きます。
  さらに、道中での案内・接待・護衛のために沿道付近の藩やそれ以外の藩からも
  多くの人が供されたので、日本人随行者も含めると朝鮮通信使の一行や
  接待に駆り出された人の数はとんでもないものになります。


ツ:はあ~・・・・・・(←開いた口がふさがらない)

レ:私もちょっと見てみたかったな。

り:いやあ~、オランダ商館の皆さんは見ない方がいいでしょ。
  平戸時代の皆さんのライバルだったイギリス商館の商館長のリチャード・コックスが
  1617年に大坂で通信使の一行を見ているんですが、
  「皇帝の命でいたるところで王者のように待遇されている」と日記に書いてます。
  コックスが見たのは第2回でまだ初期の頃ですが、
  それでもすでに相当な待遇だったんだから、回を重ねるごとにエスカレートしていった
  過剰なほどの接待を皆さんが直接見たら、これはもうフラストレーション
  溜まりまくりだと思いますよ。


ツ:あっ、なんか、「監獄」の記憶がよみがえってきたな・・・


り:んじゃ、前回船酔いの話が出たので、海での苦労話を
  申さんに披露していただきましょうか。


申:余は釜山から1日で対馬に着いたが、それでも終日船酔いに苦しんでいる者がいた。
  対馬から壱岐に渡る時には海が荒れて、我らはもとより櫓工・倭通詞までことごとく
  船酔いのために嘔吐した。
  起きてはたちまち扶擁しあい、すがりついても立つことはできず、転倒してしまう。
  余は屋中で小臥しようとしたが、四隅の板を見ると板がゆさぶり動いてまさに壊れんばかり。
  立って楼頭にあがり、足をのばして坐って天際の雲霞を望めばやや快かった。


り:対馬海流は対馬をはさんで日本海に流れ込むけど、対馬~壱岐間よりも
  対馬~朝鮮半島間の流れの方が早いみたいですけどね。
  それでも壱岐までもずいぶん荒れたようですね。
  そんな中、甲板に出るなんて危ないじゃないですか。
  申さんは病気持ちだってのに・・・


ツ:病気?なんの?

り:「ちにてんてん」のツラい病気ですよ(笑)。

ツ:あっ、 「ぢ」 かあ~!そりゃ辛かったでしょう。

申:・・・・・

り:それがもとで壱岐ではあんまり人の応対もできなくて船で休んでて、
  ちょうどその頃、運悪く家が壊れるほどの暴風雨が吹いたので、
  荒れ狂う船の中でじっと耐え忍んでたりと実にお気の毒でねえ~。


ケ:お前、なんか楽しそうだな。
  しかし、医師だって同行していたんだろう?

り:さすが医者。食いつくなあ

申:うるさい!
  医官もいるにはいるが、余はもう長くアレを患っていたので仕方ないのだ。


ツ:長崎に寄ってくれれば、最新のオランダ医学で治してあげたのに~。
  つっても申さんの来日当時、私はまだ日本に来ていなかったけど。

申:壱岐から藍島まで行けば九州はもうすぐだが、我らは九州へは上陸しないのだ。


り:藍島からはほんのひとまたぎで九州だけど、その先の旅程を考えれば
  わざわざ下船して九州北部を横断する必要なんかないですもんね。


申:長崎のことは余も聞いている。
  中国商船が停泊する港で、その名勝は百物繁華とともに国中でもっとも有名である。
  ぜひとも見たいと思ったものだが、路程から外れているので寄れないのが遺憾であった。


り:申維翰(しんいかん)さんが遺憾・・・ぷぷぷ・・・


申:日本語読みするな。我が名はシンユハンだ。

レ:申さんが我々の居留地を見たらびっくりすると思いますよ。
  オランダ人にとってあそこは監獄だから。


り:オランダ商館員は出島のことを「海の牢獄」と呼んでいたそうですね。

レ:監獄は出島だけじゃないけどね。どこでも日本国内、我々の行く所は牢獄だ。


申:藍島に着いた時、早暁からの暴風雨がいよいよ激しくなって接岸できなかった。
  船中に留まっていた櫓人や格卒たちは死ぬかと恐れ天を呼び泣き喚いた。
  迎える岸辺でも対馬州の奉行などがそれぞれ倭人数百を率いて救済にあたろうとしたが、
  海岸は荒れ狂い手も足も出ずに、岸でも船でもなすすべがなかった。
  とつぜん、風威がやや衰えたとき、1人の各卒が海に飛び込み、
  波間に浮かぶ碇綱をつかんで岸に泳ぎついたので、諸倭はこれを挽いて
  船をつなぐことができた。また壮士ではあるまいか。


ズ:風が強いなら、当然海も荒れていただろう?
  そういう中に飛び込むとは・・・


ツ:日本人は勇敢だからな。

り:私も、この話を読んで仰天しましたけどね。
  ライフジャケットも何もないこの時代、荒れ狂う海に単身飛び込むなんて
  ちょっと信じられなかったけど、金さんの回でもそんな話があるので、
  海の男は強靭な身体と精神を持ってたみたいですね。


ツ:へえ、そうなの?
  金さん、ちょっとその話を聞かせてくれませんか~?


金:壱岐勝本でのことだ。
  夕刻になると風雨が一層激しくなり、船をつないだともづなが切れて
  沖へ流されそうになったが、肥前の奉行と裁判が身も軽やかに自ら海中へ飛び込み、
  他の綱でかろうじて繋ぎ止めどうにか事なきを得た。


ケ:ホントにすごいな。
  彼らにはそれが当たり前のことなのだろうか。


金:海での苦労話なら沢山あるぞ。
  まず釜山を出港すると早速海が荒れて船酔い者が続出し、上船の舵棒が折れ、
  副船も2度も舵が折れて大変だった。


り:まるでその後の行程を予言するかのような悪すぎる船出・・・
  ぷぷぷ・・・


金:(無視)対馬から壱岐勝本への海路も荒れて船房の揺れがまたひどく、
  体は左に右にと転がり回り、帆柱はきしんでばりばりと音を立てるのでびっくり仰天。
  すっかり肝を潰す。
  船中の人々はことごとく嘔吐に苦しみ、閻魔王国の十王殿とは板子一枚を隔てるのみ。
  正使の船は三里も行かないうちに一抱えもある古木の舵棒が風濤に折られてしまい、
  船が傾いて波間に浮きつ沈みつ荒れ狂う波濤が四方に立ちはだかり、
  舵楼にいる者の衣服はびしょ濡れとなった。

  ・・・正使は桃紅の帯をもって国書を背に縛り付け船上に待機され、
  国書と運命を共にする御覚悟。大邱(テグ)通引の白太竜が上衣をお脱ぎ下されと
  泣きながら頼むが、正使が言われるには「人の生死が着衣一枚に左右されると思うか」と
  ついに最後まで脱がれなかったとか。その気力は見上げたもの。
  丁度その時、副船が傍らを通り過ぎ、正使の船に乗った者が副船に乗る同僚を見つけ、
  手を上げて永訣の挨拶をする。その光景むごくも哀れ。哀れを極めたのは崔鳳齢で、
  自分の兄の危急を副船から目撃し、気を失って倒れ込み、なかなか覚醒しなかった由。
  無惨この上ないこと。上陸した後も死人同様だったという。


レ:上着を脱ぐ脱がないのところがよくわからないのだが・・・

り:えっと、註釈によると「上衣を脱いで海に投げ込むことによって波を鎮めようという
  一種の水神信仰」ということらしいです。
  でもこの場合、上着を神に奉納するというよりは、正使が帯で背に縛り付けた
  国書のことを指すと思われますね。

  古い時代、船で大陸へ渡った沢山の日本人がいるんですが、
海上で暴風雨にあった時に仏舎利を海に奉納した エピソードなんかがあります。
  当然、価値があるものほど霊験があるもので、朝鮮通信使の場合は国書に勝る貴重品はない。
  なんたって、国王の親書ですからね。
  だから、その貴重なる国書を神に奉納して海を鎮めてくださいと
  部下が泣いて正使に頼んだということだと思いますが、
  今回の使節団の総責任者でもある正使はついに脱がなかった、と・・・


レ:へええ~。
  仲間の船が今にも難破しそうなのに、どうにもできずにただ見ているだけなんて
  辛かっただろうな。
  まして、自分の兄弟がその船に乗っているともなれば・・・


金:壱岐勝本から藍島へ向かう時には、我等の船の舵が根元だけ残して折れた。
  曳船がやって来ないので号砲などを放ってみたが、ついに一隻も現れなかった。
  副船は岩にぶつかり船底より水が入りはじめ、副使をはじめ乗員はかろうじて
  倭船に乗り移った。
  この事故は曳船が来なかったためであるとして追及をしたが、倭人はなかなか
  認めようとしない。

  その後、この件について私を訪ねてきた倭人を懸命になだめすかして聞いてみると、
  初めは隠していたが、ついに折れて語ってくれた。
  「曳船を出さなかったのは対馬の裁判が前もって知らせなかったためである。
  護行の船主は腰斬の刑となり、太守は江戸へ赴き、第三の奉行はこの地に居て
  死罪となるか流罪となるか太守の処分を待っているところだ。
  結局のところ心労の果て、自決するよりない」とのことであった。

ツ:ひえ~、護衛の不手際で死者が出るのかあ~。
  ところで、「前もって知らせなかった」って誰に?


り:対馬の護衛団は国内では最初から最後まで通信使にぴったり寄り添いますが、
  各領内を通る時には、それぞれの藩が領内での先導・護衛を務めます。
  ひとつの領内を出る時には、次の藩の護衛にバトンタッチして
  通信使一行を案内していくんです。
  壱岐は筑前領だから、筑前への連絡がうまくいってなかったってことでしょう。


金:・・・対馬人の悪行の数々、日増しにその度合いを高め、昨日も今日も賄賂があり
  二人の者が金を持ち去ったが、その額はかり知れず。数万両はあったという。
  そのくせ後になってこのことが知れ渡ったら死を免れぬ者多いといって
  繰り返し口外しないよう頼み込む。
  陰険極まりない対馬の奴らが間にあって勝手に振舞い、すべての事を隠してしまうから、
  何一つ明るみに出なかったが、この話によりその片鱗を垣間見た思いだ。

ズ:・・・?
  いきなり賄賂の話になったが・・・


り:この件について、実際のところ対馬と筑前のどちらに落ち度があったのかはわかりませんが、
  筑前領内でのトラブルは筑前の責任。
  朝鮮通信使への抜かりない万全の対応は幕府から各藩へ厳命されていることなので、
  註釈では筑前の不手際を知られないように筑前から対馬へ賄賂が贈られたのだろうと
  しています。
  朝鮮人は対馬人をいつも悪く言うので、金さんの言うことだけを聞いてたら
  いかにも対馬人が腹黒みたいに思えてくるけど、武士は相身互い。
  全行程に責任を持つ対馬藩と、領国内での責任を持つ各藩としては、
  なるべく事を穏便に運びたいという思いもあって当然だと思いますけどね~。
  それが、賄賂とかの形になるのも仕方のないことでしょう。


ズ:私は日本に長く滞在したので、日本人の性向もよく心得ているが、
  日本人は「内々に」とかが大好きな民族だからな。


り:別に賄賂をヨシとする訳じゃないですが、何でもかんでも事を荒立てて
  処罰者を出せばいいってもんでもない。
  とはいえ、時にはそれに味をしめて賄賂をせがむ悪い対馬人もいたかもしれませんけどね。


金:釜山で生まれて初めて見た対馬人はつるつるの頭に素足のまま。
  人品まるでなく、いかにも汚らしかった。
  壱岐勝本では金銀などあらゆるものを倭の通詞に渡し肥前の者にやってくれと頼み
  部屋に戻ったが、朝鮮人がくれたと言い対馬の奴がすべて持ち去ってしまったと聞いた。
  対馬人はそういう奴らなのだ。


り:まあまあ、壱岐は豊かで自給自足も可能だったようだけど、
  対馬は全島の9割が山岳地帯で土地もやせてるそうだし、
  対朝鮮で色々と大変な訳だから対馬なりの事情はあったんでしょうよ。


金:ふん。
  まあ、折れて流された舵棒は筑前州に流れ着いたとのことで、筑前太守の使者が
  壊れた部分の長さや形を描いて送り届けてきてくれたがな。
  倭人の我々への応接、ここに極まるといえよう。


申:荒れていない海でも危険はあるぞ。
  対馬までの海には水宗という危険地帯がある。別に岡嶺があるのではなく、
  大洋中の波濤が束立するところ、おのずから界隈をなし険しいのをもって
  かく名付けたのである。幸い、行きは気付かないうちに無事に過ぎたがな。


金:対馬の鰐浦は屏風のような険しい岩が蔚山から伸びてきていて、
  50里を横に塞ぎ海底に隠れているという。船一隻が通り抜けるだけの場所が一ヶ所
  開いているが、わずかでも水路を間違えば瞬時に船は破壊されるという。
  そこで倭人らが2隻の船を両側に並べ、船の通り道をつくり、その間を進めという。
  我ら6隻は用心に用心を重ね順々に渡っていくが、荒々しい波が雪山のように襲いかかると
  船は耐えきれず航路を誤りそうである。危険と恐ろしさは比べるものがない。
  ようやくにこの難所を切り抜けた時は安堵の吐息を洩らした。


申:たった1日の渡海といっても、決して安全という訳ではない。
  鰐浦は巨石が海の中に屹立してサメの牙・虎の歯のようで船が転覆することもある。
  実際、第5回(1643年)の時には、渡海した訳官がそこで溺死した。

  私が製述官になったのは、正使公があやまって私の名を知り、指名してきたからだ。
  私は母が老い、家が貧しく、さらに才鈍くして怯弱なため重責に応えられないと
  断ったのだが、とりあってもらえなかった。

  製述官の職務は煩雑で責任は大きく、かつ、使臣の幕下にありながら
  万里波濤を越えて訳舌の輩とともに出入りし周旋するのは苦海であらざるはなく、
  人はみな畏れて鉾矢に当たるのを避けるがごとくこれを避ける。
  余の乗っていた駅馬は、釜山で余の乗船するのを待って帰るようにした。
  馬卒は「どうか無事で帰られますよう。そのとき、またこの馬で迎えに来ます」と
  泣いてたもとを濡らした。人情ここにいたる。
  骨肉至親のものには岸上でこれを見せるべきでないと思った。


金:釜山から出港する時、桟橋に行くと水夫の父母や妻子もそこここに集まっては
  夫や息子を取り囲み、袖にすがり手を握り慟哭して別れを告げる様は
  むごたらしく哀れで、とても見ていられなかったものだ。
  なにせ、こういう危険な旅だからな。


ツ:ちょっとちょっと!
  対馬や壱岐周辺の海が確かに危険だということはわかったけど、
  たった1日の渡海でしょ?
  私らなんか、大陸のはじからはじまで来てるんですよ。
  お2人には悪いけど、ちょっと朝鮮人ひよわじゃないですか?


り:ツンさんのおっしゃる通り。
  朝鮮人はプライドだけは富士山よりも高いけど、ちょっと船が揺れたりすると
  ワーワーきゃーきゃー泣きわめいて、ヘタレもいいとこですよ


申:見てきたようなことを言うな
  では、オランダ人の苦労話とやらを聞かせてもらおうか。




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最終更新日  2016年07月13日 23時03分56秒


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