戦国ジジイ・りりのブログ

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2016年07月23日
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カテゴリ: 城(東北・関東)
りり:
  え~と、最初は皆さんが参府の途中で見たあれこれなどについて
  お聞きしようと思ってたんですが、その前にオランダ商館について
  少し知っていた方が理解しやすいかなと思ったので、東インド会社や商館の概略を
  聞かせていただこうかと思います。
  たぶん、多くの日本人は商館のことをほとんど知らないと思うんですよ。


ツュンベリー:
  えっ・・・知らない?
  だって、オランダ商館は江戸幕府と長い歴史をともにしてきたのに?


り:現に、私も知識ゼロだったもん

ケンペル:じゃあ、お前の知識とやらをちょっと語ってみろ。

り:江戸期に入って徳川幕府はキリスト教を禁止し、出島でのみ外国との関係を持って
  ここに鎖国が完成した。


ズーフ:うむ・・・それで?

り:そんだけ。

レフィスゾーン:え!?

ツ:なんだそれ!知識なんて言えないじゃないか!!

り:だから、知識ゼロだって言ったでしょ。
  歴史に興味のない人の知識もこんなとこじゃないかなあ~。


申維翰:どこにもオランダ人が出てこぬではないか。

り:ん~、まあ、時代劇なんかでは「蘭学」とか「蘭方医」なんて言葉が出てくるから、
  よく考えればオランダ人を指すのはわかるんですけど、
  「外国」がどこを指すのか興味もなかったから、オランダ人がどーのこーのとか
  別に考えもしなかったしなあ。


金仁謙:勉強しないとこういうくだらない人間が出来上がるの見本のようだな。


り:だって私は長いこと世界史派だったんだもん。
  日本史に興味を持ち始めたのはほんの数年前のことで・・・


レ:もしかして、学校でも我々のことを教えないのか?

り:あ、それはね、私が使っていた教科書には結構ちゃんと書いてありました。

 【幕府は、貿易の奨励のためにキリスト教を黙認してきた。しかし、イギリス人・オランダ人
  が、ポルトガル人・イスパニア人には領土的野心があると中傷したことなどから、
  しだいにキリシタンの圧迫をはじめた。1612(慶長17)年、京都の教会を破却し、
  宣教師の国外追放を命じ、翌年、それを全国におよぼした。さらに、1614(慶長19)年
  には、高山右近ら信徒300余人を国外に追放した。朱印船の海外渡航も、禁教の強化に
  ともなって減少していった。

  家康の没後、禁教はさらに徹底したものになり、1616(元和2)年には、ヨーロッパ船の
  来航を平戸・長崎に制限し、1624(寛永元)年には、イスパニア人の来航を禁じた。
  さらに、1633(寛永10)年、奉書船以外の海外渡航を禁じ、海外在住者の帰国を
  制限した。翌々年には、日本船の海外渡航、海外在住者の帰国を全面的に禁止した。一方、
  1634(寛永11)年には、長崎港内に出島を築き、ポルトガル人をここに移した。

  こうした中で、1637(寛永14)年、領主の苛酷な年貢取り立てに苦しんだ九州の島原・
  天草地方の農民が一揆をおこした。この一揆の参加者は3万5千人にもおよんだが、
  その中にはキリシタンが多かったので、幕府は不逞なキリスト教徒の一揆であると宣伝し、
  諸大名に出兵を命じて、これを鎮圧した(島原の乱)。
  幕府は、乱の背後にポルトガルの布教活動があるとして、1639(寛永16)年には、
  ポルトガル船の来航を禁じた。1641(寛永18)年には、平戸のオランダ商館を長崎の
  出島に移し、オランダと清の商人に限り、長崎での貿易を許した。

  このような、幕府の管理と統制のもとにオランダ・清だけに貿易を許し、他の諸国との交渉を
  閉ざした状態を、のちに鎖国と呼ぶようになった。鎖国は、幕藩体制を維持・強化するために
  幕府のとった政策であった。しかし、このため、国民の海外渡航の道は閉ざされ、世界の進展
  から取り残されることになった。海外事情については、わずかに「オランダ風説書」に
  よって、幕府が知るだけとなった。】
  (「高等学校 日本史」清水書院より)


ケ:ずいぶん、ざっくりな歴史だな。

レ:初期の頃は変動が大きかったから、
  重要項目だけを羅列するとこんな感じになっちゃうんですかね~。


申:清は出ても、我々を出さないのはなぜだ!
  侮辱もはなはだしい!!


り:教科書は効率よく歴史を紹介するために項目ごとに分けて記述したりしているので、
  朝鮮通信使については別のところで少し紹介されてます。
  ただ、対外関係については思っていたよりも紙面を割いてる一方で、
  これじゃ全体像がつかみにくい。
  それに、今では「鎖国」についても解釈が変わってきているようなので、
  そのあたりも踏まえながらざっくりとした教科書の文章の陰に隠れている
  もっと生々しい実態について、色々皆さんにお話をうかがいたいと思います。
  突っ込んだ話についてはもっと後の方でするとして、まずは入門編てカンジで。
  じゃ、なれそめですが、


1568 ネーデルラントの貴族・オラニエ公ウィレム1世(オレンジ公ウィリアム)が
   スペインに反旗を翻す。(「八十年戦争」、または「オランダ独立戦争」の始まり)

1579 ネーデルラント北部7州がユトレヒトにて、対スペインの軍事同盟を結ぶ協定に調印。
   (ユトレヒト同盟)

1596 フランスとイングランドが北部7州を国家として事実上認める条約(グリニッジ条約)
   を締結し、ネーデルラント連邦共和国が成立。

1598 6月24日(西暦)、リーフデ号を含むオランダ東インド会社の艦隊が
   ロッテルダムを出港。


   9月、関ヶ原の戦い。

1602 オランダ東インド会社設立。

1604 家康が松前藩にアイヌとの交易独占を認める。

1609 薩摩藩が家康の許可を得て琉球に侵攻、なかば領土内におさめる。
   対馬藩を介し、朝鮮との交易が再開される。
   7月、13隻のオランダ艦隊のうち、ローデ・レーウ号とフリフーン号が平戸に投錨。
   平戸藩主松浦鎮信のあっせんにより両船の商人頭アブラハム・ファン・デン・ブロークと
   ニコラス・ボイクが駿府で家康に拝謁し、朱印状を与えられる。
   オランダ東インド会社が平戸に商館を置き、ヤックス・スペックスが初代商館長となる。

1648 ヴェストファーレン(ウェストファリア)条約で、スペインが
   ネーデルラント連邦共和国の独立を正式に承認。(八十年戦争の終結)

り:日本史の教科書を真面目に勉強したところで、すでにこの時点で
  教科書的知識はもろくも崩れ去るよな~。
  ええと、リーフデ号よりも早くに来日したオランダ人もいたようで、
  1585年(天正13)7月31日サンタ・クルス号に乗って長崎にやって来た
  ディルク・ヘリッツゾーンが、日本を訪問した蘭人第一号のようですが。


ズ:ただ「来た」というだけではどうということもないだろう。
  我がオランダと日本との関係は、リーフデ号以降の歴史に始まるのだから。


り:オランダ船リーフデ号が関ヶ原の半年前に漂着したってのは有名だけど、
  その時点でまだオランダは正式に独立してなかった訳ですね。
  つか、ネーデルラント連邦共和国(←オランダの正式名称)の成立年自体も
  はっきりしてないみたいだし。
  いちおう1596年ということになってはいるみたいですが。
  それより、オランダ東インド会社(以下「会社」と表記)の成立が
  リーフデ号の日本到着以後ってどゆこと?


レ:オランダは自然風土に恵まれない環境の国だった。
  資源も少なく、国土も狭く、洪水もたびたび起こったので、
  生計を海に求めるようになった。

り:都知事選真っ最中の現在、「東京都だけでオランダのGDPを上回る」と
  しょっちゅうTVで言ってますもんね。
  自国だけの経済力はもともとその位のレベルだったってことだろうな。


ツ:「とうきょうと」って何さ?

り:う~ん、「武蔵半国の経済規模がオランダ一国のそれを上回る」ってカンジ?

レ:当時、スペインは新大陸を発見し、ポルトガルはアフリカ南端回りのインド航路を
  開いて、世界の海を制覇していた。
  その頃、東方商品に対するヨーロッパの支払いは銀か毛織物という手段しかなかったが、
  暑い国に毛織物は必要ないので、とにかく銀が必要とされた。
  新大陸貿易と東方貿易という世界商業の二大分野が銀で結ばれ、その接点に位置していた
  アントワープが国際的な中継・金融市場として栄えた。

り:アントワープは南部の都市で、現在ではベルギーの所属ですね。
  金じゃなくて銀が決裁手段だったんだ?


ケ:東インドの住民には、金よりも銀のほうが喜ばれていたのさ。

レ:オランダでは13世紀末頃から漁業に従事し、ニシン漁で発展するようになっていった。
  ポルトガル人が香辛料など東方の品を持ち帰るようになると、リスボンなどで買い入れて
  北欧へ運ぶことも始め、のち東インドの商品はオランダ人の取り扱う主要商品と
  なっていった。
  まあ、中継貿易だね。

  一方、神聖ローマ皇帝カール5世が退位すると、ハプスブルク領が
  オーストリア・ハプスブルク家とスペイン・ハプスブルク家に分割されて、
  ネーデルラントはスペインの支配下に入った。
  その頃のネーデルラントではプロテスタントのルター派が広まっていて、
  弾圧も厳しかったが、そうした苦難を経てネーデルラント諸州に同胞の意識も
  芽生えていった。
  そしてカール5世(=スペイン王カルロス1世)は1555年にネーデルラント17州を
  息子フェリペ2世に譲り、翌年にはフェリペ2世がスペイン王となる。

り:おお、フェリペ2世!スペイン絶頂期の象徴!!

ツ:フェリペ2世は知ってるのか。

り:まあ、彼は有名だから一般常識ですけどね。
  アメリカやフィリピンを領有し、ポルトガル王も兼ねて「太陽の没することなき大帝国」
  を作り上げた人でしょ。


レ:フェリペ2世の代になった頃、フランスからカルヴァン派が多く移住してきた。

り:カルヴァン派もプロテスタントですね。

レ:オランダではゴイセンというけどね。
  そしてまた弾圧が強まり、独立運動へとつながっていく。


り:ふ~む、それでグリニッジ条約でフランスとイギリスの後押しを受けて
  いちおう国家のナリを整えるようになったってことですか。
  それにしても、グリニッジ条約のわずか2年後に極東へ向けた艦隊を出すなんて
  すごいじゃないですか!


ズ:それにはもちろんそれなりの下地ができていた。
  15~16世紀には毛織物が世界の主要な貿易品で、特に新大陸との取引には
  欠かせないものだった。毛織物の主要な産地であるフランドル地方が戦乱に巻き込まれて
  職人たちがオランダのライデンへ大量に移住してきたので、オランダでは原料から
  仕上げまでの全工程をこなす独立工業と、イギリスで生産された白地製品を加工する
  加工工業が発展し、新大陸へ輸出するようになり、新大陸の銀が直接オランダへ
  流入するようになった。
  東方貿易に銀が必要だったとさきほど話が出ただろう?

り:だけど、スペインの栄光にも少しずつ翳りが見え始めたとはいえ、
  そうそう簡単に長期の航海に出られる訳でもないでしょう?


ズ:東インドからの輸入品の中でもっとも重要だったのは香辛料で、調味料としてだけではなく、
  媚薬・強壮剤・防腐剤などとしても活用されて、その利益は莫大なものだった。
  会社の原型ができる頃、ポルトガルの胡椒取引はポルトガル王の直轄で、
  価格も指定されていたので、中継貿易では大きな利益は得られなかった。
  当時、ただでさえヨーロッパでの需要に供給が追い付いていなかったのに、
  胡椒の運送路にあたる東地中海の政情が不安定で、これが供給不足に拍車をかけた。
  我が国はそこにチャンスを見込んだのだ。

り:利にさといと言われるオランダ人らしいエピソードとも言えるかもしれないけど、
  イギリスも同じ頃世界に羽ばたくんだから、スペインやポルトガルがいかにウハウハの
  ボロ儲けをして、周辺国がそれを妬ましく眺めてたのか想像もつくってもんだよな。


ズ:長期の東インドへの航海についてのノウハウは、ポルトガルは秘密にしていた。
  だが、メルカトル(ヘルハルト・クレメール)が図法を考案したり、
  大司教ヤン・ハイヘン・ファン・リンスホーテンがインドへ航海した際の見聞録を
  公開したりしたので、知識や技術の面でも準備が整っていった。

り:「メルカトル図法」のメルカトルさんですか!
  彼、オランダ人だったんだ。


ズ:それでも、最初はポルトガルと出くわさない航路を開拓しようと苦労したらしい。
  当時、シベリアの北海岸はオビ河の河口から東南へ屈曲していると考えられていたので、
  ユーラシア大陸の北回りのコースを採った方が喜望峰を経由するコースよりも
  はるかに近道であると考えられていた。
  それで、果敢に北回りの航路の開拓にいそしんだんだが、ある船はノバヤ・ゼムリヤ島
  西海岸で氷に閉ざされて1年以上同地で越冬し、翌年9月にかろうじて
  スカンジナビア半島の北岸・コアに着くなどといった状況で、
  結局北回りのチャレンジはすべて失敗に終わった。

  その一方で、ポルトガル人と同じ南回りのコースで東インドへの航海を目指す動きがあり、
  1595年4月にオランダから出港した4隻の船隊が、14ヵ月かかって
  ジャワ島西部のバンタム王国の首都・バンタムに着いた。
  これが東インドへの自力航海の第1号だ。
  出港当時240人いた乗組員は、帰国時には87人になっていた。


り:喜望峰付近の航行は危険が多く、また熱帯地方を通過するために病人が続出したとか
  言いますもんね~。
  なにもそんな苦労してまで、よそ様の土地を狙わなくてもいいのに・・・
  ヨーロッパ人は本当に強欲ですたい

ズ:(無視)最初の航海が成功すると、オランダでは航海熱が高まり、
  各地に小規模の会社が設立されて乱立の様相を呈した。これらを「先駆会社」という。
  しかし、当時は帆船だったので季節風を利用することが多い関係上、
  東インドでの買い付けでも本国での売却でも各社の船が重なって、競合の弊害が現れてきた。
  さらに、オランダに対抗して1600年にイギリスで東インド会社が設立されたので、
  我が国でも様々な困難を経て多くの先駆会社を合併させることとなり、
  1602年3月20日、「諸会社の特許すなわち合併」の議がオランダ連邦議会で可決され、
  会社に特許が認可された。
  これが「オランダ東インド会社」だ。


り:長い話だったなあ~(笑)。
  つまり、1600年のリーフデ号は先駆会社の派遣した船だったってことですか。

レ:そういうことだね。
  特許の中身は、会社の船だけがオランダから東インドへ航行できること、つまり貿易の独占。
  それから外国の国家と条約を結び、軍隊を置き、要塞を設け、貨幣を鋳造し、
  地方長官や司令官を任命できるというものだった。
  特許だから期限があるんだが、その期間は21年間で、21年ごとに更新されることに
  なっていた。が、実際は会社の設立から解散までずっと継続された。


り:ふ~ん、会社と一口に言っても、国家の運営する会社のようなもんだったのか。





 とウィキペディア。


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最終更新日  2016年07月23日 23時58分24秒


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