戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2016年08月11日
XML
カテゴリ: 城(東北・関東)
りり:
  それじゃ、日蘭交流の幕開けに移りますか。
  リーフデ号の漂着から9年後の慶長14年(1609)、平戸にオランダ船が入港、と。
  少し間が空いたけど、満を持しての来日ってカンジですか?


レフィスゾーン:
  ちょっと違うかな。
  我がオランダ艦隊がマライ半島ジョホールに停泊していたところ、近々ポルトガル船が
  マカオから日本に向けて出航するとの情報が入った。そこで艦隊の指揮官は
  ローデ・レーウ号とフリウーン号の2隻にポルトガル船の捕獲を命じたんだが、
  もし不成功の場合にはそのまま日本に向かって通商を開く交渉をさせることにして、
  国王オラニエ公モーリッツの権現様宛の書簡を託した。
  2隻はポルトガル船を発見できず、5月、そのまま長崎港外に到達し、
  次いで平戸港外に投錨した。
  入港の経緯はこんなところなんだ。


申維翰:
  ならば、もし拿捕に成功していたら倭国に渡る時期はもう少し遅れたということか。


ズーフ:
  そういうことになっていたかもしれないな。
  それで、時の平戸藩主・松浦鎮信公はオランダ船の来航を歓迎して、通商許可を
  権現様に斡旋した。両船の商人頭、アブラム・ファン・デン・ブロークとニコラス・ボイクは
  同年7月、駿府で権現様に拝謁して、オランダ国王の書簡と贈物を進呈し、権現様から
  我が国王宛の書簡と通商許可の朱印状を与えられた。
  平戸に帰ったブロークらは、商館を平戸に開くことを決め、ヤックス・スペックスを
  商館長とし、同年9月にバンタンに帰っていった。


り:ヨーロッパ諸国の中でのちにオランダが日本貿易を独占するに至るには
  さまざまなラッキーが重なったことが大きいだろうと思うんですよね。


ツュンベリー:
  運だけじゃないさ。
  多大なる努力のたまものでもある。


り:えげつない努力のね。

ツ:・・・・・・・・・

ケンペル:
  それじゃ、お前の考える「ラッキー」を言ってみろ。


り:ローデ・レーウ号とフリウーン号が首尾よくポルトガル船を仕留めたところで、
  いずれ会社は日本へも触手を伸ばしてはきたんだろうけど、イエアスから朱印状を
  もらえたことは大きかった。
  これは皆さんも認めるところでしょう?


ケ:それはもちろんそうだ。
  幕府は大御所様の時代に決められたことを「祖法」だと言って尊重したからな。


申:その朱印状にはどんなことが書いてあったんだ?

ズ:我々がどこに入港してもよいことを許可したものだが、
  そこには何ら制限は加えられていなかった。
  つまりは誰とでも、我々の自由な意思の通り、強制されずに取引できるというものだ。


り:それから、重要な局面においてよく日本の事情や慣習をわきまえ、
  それに見合った対処ができる人が商館長の立場にあったこと。
  あるいは、そういう元商館長がバタビアで重要な地位にあって適切な対処をしたこと。
  これも大きい要素ですよね~。


レ:日本を熟知していたスペックスはかねてから、日本に来る人物はこの国の慣習に精通し、
  勇敢、謙虚、慎重でなければならないと警告していた。
  平戸時代は出島時代に比べてはるかに自由ではあったけど、競合も激しかったし
  日本国内の情勢が変わっていく時期でもあったから、特に商館長にはそういう資質が
  求められただろうね。


り:平戸の商館長の中でもっとも有名なのはカロンだろうけど、
  彼自身は結構激しい性格の人だったみたいなのに、よく耐えてうまく対処しましたよね。


ズ:カロンの日本の知識なんて大したことないんだぞ。

ケ:それは裏を返せば自分の方がカロンより日本についての知識があるということか?
  たいした自信だな。


金仁謙:「かろん」て誰だ?

レ:フランソワ・カロン。平戸のオランダ商館最後の商館長となった男ですよ。

り:あの厳しい時期、日本と日本語に精通しているカロンがいなかったら、
  オランダ人だって追放されてたかもしれないんですよ?
  ズーフさんも長く日本に滞在して、数々の苦難を切り抜けてきたから
  「我こそ日本通の第一人者」という自負があるのかもしれないですけど、
  わざわざ回想録でまでカロンをけなすことないじゃないですか。


ツ:へえ、自分の回想録でもそんなこと書いてるんだ。
  それはオドロキだな。


り:もうライバル意識むきだしですよ。
  私に言わせれば、カロンとズーフさんは結構似た者同士だと思いますけどね。


ズ:りり・・・お前は私の味方ではなかったのか?(と、ジジイの手を握って見つめる)

り:あっ・・・

ツ:うわっ、出た、禁じ手の色仕掛け!
  さすが、百戦錬磨のカピタンだな。


レ:人聞きの悪いこと言わないでください。
  商館長がみなテクニシャンという訳じゃないんですから。


ケ:ドゥーフ君は日本女性に子を産ませたって言ってたしな。
  女性の扱いもうまいようだな。


レ:1年交代だったお2人の頃と違って、私やドゥーフ殿の頃には任期が延びてましたからね。
  ドゥーフ殿の先代の時の商館付医師も日本女性との間に子を儲けましたし、
  ドゥーフ殿の次代の商館長あての遊女屋からの請求書も残っているくらいだから、
  何もドゥーフ殿だけが女遊びをしていたって訳でもないし・・・


金:そういう君も、結構ケッコーだったんじゃないのか?

レ:え!
  い、いや私は・・・ゴニョゴニョ・・・


り:え~っと、ちょっと脱線しましたが、話を戻しましょうか。オホホ。
  平戸時代の32年を知らずして長崎は語れませんからね。
  大きな事件とからめながら、オランダ人が最後の勝者になるまでと、
  栄光の勝利者がみじめに出島に押し込められるあたりを、簡単にね。


ツ:色仕掛けで凶暴性がやわらいだらしい。

ケ:牙を抜かれたライオンのようだな。

レ:そうですかね・・・相変わらず言葉にトゲがありますけど。

り:オランダ人のラッキーのひとつはイエアスから直接朱印状をもらえたこと。
  このタイミングは実に良かった。


1603 家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開く。

1605 家康隠居。秀忠に将軍職を譲る。

1609 平戸にオランダ商館を置く。

1611 会社が社宅と倉庫を新築。

1612 幕府が京都の教会を破却し、宣教師の国外追放を命じる。
   会社が大坂(京・堺との取引を兼ねる)と江戸(駿府との取引を兼ねる)に出張所を置き、
   各1人ずつ配置する。

1613 禁教令。
   イギリス船が平戸に来航し、平戸に商館を設ける。


1614 大坂冬の陣。高山右近らキリシタンを国外追放。

1615 大坂夏の陣。武家諸法度、禁中並公家諸法度を制定。

1616 家康死去。秀忠によりキリシタン禁令が出される。
   ポルトガルは長崎に、イギリスとオランダは平戸に寄港地を限定される。

り:オランダ人が来航した時、イエアスはすでに隠居はしていたけど、
  大御所として変わらぬ存在感を保ち続けていた。
  もう少し来日が遅れていたらイエアスは死んでたし、
  イエアスが生きてはいても朱印状の交付者が秀忠だったら、
  「つぶし」が効きにくかったかもしれない。
  それに、オラニエ公の書簡を持っていったのも正解だった。
  今回勉強する中で、江戸幕府の存続中に会社が解散していたことを知って
  私は仰天したんですけどね。
  「じゃあ、会社の解散以降、日本はいったい誰と貿易をしていたんだ!?」ってね。


レ:そう、会社は国家から特許を与えられていたとはいえ、正式な国交ではなかった。
  でも我がオラニエ公からの書簡に対して通商の許可を与えた訳だから、
  幕府の認識では会社=オランダ国だったんだろうね。
  ただ、それゆえにバタビアの総督の言葉が相手にされなくて困ったこともあったけど。
  総督は国王の臣下でしかないからね。


り:ふ~ん。
  秀吉の時代からすでに禁教の嵐は吹き荒れていたけど、
  そういう中でキリシタンであるオランダ人も順調に勢力を伸ばしていったんですね。


ケ:当初は布教が禁じられていただけで、キリスト教そのものが禁止された訳ではなかった。
  貿易に従事するポルトガル人はまだ国内に残っていたぞ。


り:そういう善良な商人まで追い落としにかかる訳だ。
  平戸時代の歴史はドキドキハラハラで面白いんですけど、
  同時にオランダ人のえげつなさも浮き彫りになりますよね。


ツ:お前、「えげつない」を連呼するけど、当時の情勢からしたら必然なんだよ。
  どこもやっていたことなんだし、競争って言い換えてくれないかな。


り:だって、イギリスが日本貿易に参入して以降の会社の「競争」相手は
  先住民のスペイン・ポルトガル、新参者のイギリス。
  まあここまではわかるとして、当時朱印船で海外に乗り出していた日本人貿易者、
  古くから関係の深い中国人、さらには自国の自由市民までも排除して
  会社がすべてを独占しようとしてたんだから、これを欲深と呼ばずして何と言う
  日本がわずかにでもつながろうとした中国人の排除を目論むなんて、
  図々しいにもほどがあるってもんでしょ。


ツ:だからそれが競争ってもんなんだってば・・・


ケ:早くも新しい牙が生えてきたみたいだな。

レ:しかも、前より鋭くなってませんか?


ズ:自由市民の排除というのはあくまで商館長ナイエンローデの個人的な考えで、
  会社の方針という訳ではないぞ。


り:そおおですかねえ~。

申:話の流れがさっぱり見えんのだが。

り:あっ、ごめんなさい。
  オランダ商館にからむ出来事というのは実に壮大で、各人の思惑はもちろんのこと、
  いくつものファクターが複雑に絡み合うので面白くもあり難しくもあるんですけど、
  各項目については後半の方で見ていくとして、ザビエルの来日(1549年)以来
  長らく日本に根を下ろしていたポルトガル人は、オランダ人が割り込んできた頃には
  だいぶ落ち目になって不遇の時代を迎えていたようですね。


ズ:それは奴らの浅はかな思慮と行為によるものだろう。
  多くの著者は、1600年にオランダ船がはじめて日本に漂着した時に、
  オランダ人のために、キリスト教迫害とスペイン人、ポルトガル人の追放が始まったという
  誤りを犯している。
  オランダはこの時、スペイン・ポルトガル両国と戦っており、戦争中の慣習どおり、
  スペインがオランダを真っ黒に塗りつぶしていたことは事実で、ポルトガルも同様だった。
  そこで1609年、オランダ人が貿易のためにはじめて2艘の船で到着したとき、
  自国の利益のために、上記のスペイン人の話を確認したのは当然だろう。
  しかし迫害の基礎はすでに築かれていたのだ。

  有名なオンノ・ズウィール・ファン・ハーレンはその小著『ファン・ハーレン日本論-
  日本キリシタンとオランダ』の中で、「この迫害を招いたのは1人のイギリス人であって、
  オランダ人ではないということになろう」と我が国を弁護している。

ケ:・・・・・・・

ツ:・・・・・・・

り:皆さん言葉を飲み込んでらっしゃるのでわたくしが代わりに言わせていただきますが、
  それは詭弁てもんでしょ。


ズ:なにを言う!どこが詭弁なのだ。

り:ハーレンさんとズーフさんはウィリアム・アダムス(←イギリス人)1人に
  罪を着せようとしてるみたいだけど、アダムスはイギリス人とはいえ、
  そもそもオランダの会社の船に乗ってきてるんですよ。
  それを言うなら、ここにいるケンペルさん(←ドイツ人)もツンさん(←スウェーデン人)も
  オランダ商館の人間じゃなくなっちゃうじゃないですか。


ズ:それとは別の話だ。

り:じゃあ、100万歩譲って、リーフデ号漂着以降しばしの迫害は
  イギリス人のせいだとしましょ。
  もっとも、秀吉の時代にすでにバテレン追放令が出されているので
  アダムスのせいとも言えないんだけど。
  それでも、その後のポルトガル人追い落としについてはズーフさんもはっきり
  「悪事」と認めてますよね。


申:ほお、どういう悪事なのだ?

ズ:カピタン・モールと呼ばれるポルトガル人の日本商館長は、日本で生まれたカトリックの
  熱心な信者だった。カピタン・モールは、密かにローマ・カトリックを信じる、
  日本の大官と陰謀を企てた。彼がポルトガル国王に送った書簡には、
  誓いを立てた仲間の名前が記されていた。
  この書簡は、喜望峰付近で拿捕されたポルトガル船から押収され、オランダ人により
  日本の当局に提出された。そこで日本人ははじめて警戒した。
  誓いを立てた仲間は、もし長崎奉行の強力な支持を得ていたなら、
  助かったかもしれなかった。
  この書簡の真偽が疑われていた頃、カピタン・モールからマカオの長官に宛てた別の書簡が、
  日本人自身により発見された。この発見により、彼らはさきの書簡を本物と納得した。
  ポルトガル人とともに、この陰謀に加わった日本の大官は、国外に追放され、
  ポルトガル船でマカオに向かった。
  ・・・これが我々により行われた悪事であるが、スペインに我々は宣戦を布告しており、
  ポルトガルも当時はスペインに属していたので、戦時の権利として完全に正当とされよう。
  我々はポルトガル人の友人であり、同盟者である日本人にたいして、
  ポルトガル人の奸計に注意するよう警告しただけなのだから。


り:現代はグローバルとか言われてるけど、すでにこの時代にヨーロッパでの争いが
  アジアにまで持ち込まれて、日本でも代理戦争のようなものが行われてたってことですね。
  迷惑な話だぜ、まったく


レ:まあまあ。
  世界の勢力図がまさに塗り替えられようとしていた時期だったんだからさ。

  平戸では本館・長屋・倉庫のみならず、製材所・火薬庫・ロープ製作所・牧場なども
  合わせて建設され、1618年にほぼ完成した。本館には講堂・貯蔵庫・台所などがあった。
  我々は誰の監督も受けずに積み降ろしするなど、非常に大きな自由を享受していた。
  ポルトガル人の場合、船が到着するやいなや厳封されて将軍の買い物係が参府して
  相手の言い値で生糸が配分されるまでの数ヵ月の間は、何も出来なかったんだ。
  当時、イギリスとオランダの商館はどちらも関税は免除、貿易地は無制限で
  治外法権まで認められていた。


ツ:オランダ人はかつて、日本人人夫が間違いを犯した場合、罰したり打ったりする自由まで
  持っていたんだよ。


り:新参者がずいぶんと調子よく権利を獲得していったみたいだけど、
  その数年後には早くも新参者同士の間でも利権争いが勃発したようですね。


ケ:まあな・・・
  大御所様が死去したその年(1616年)、バタビアの総督クーンは
  モルッカ諸島を往来する英船を敵と認めて処分する旨を宣言した。
  これ以後、英蘭の衝突が烈しくなった。
  翌年8月以降はイギリス船の日本入港が途絶え、さらに翌年にはオランダが
  イギリス船アッテンダンス号を捕獲して、同号を日本に伴って入港した。
  イギリス商館長のリチャード・コックスは総督をイギリス王の敵とみなす旨を宣言し、
  江戸入りして幕府にオランダの不法を訴えるが取り上げられなかった。

り:なんで無視されたんだろ?

ツ:これが国内で起きたことであれば幕府の役人を派遣するが、
  今回は外洋で起きたことであって、将軍は外洋や外国の王じゃないからってことさ。


り:なるほど。
  それでなくてもオランダ人もポルトガル人もそれぞれがお互いの悪口を言いふらして
  ウザかったのに、その上外国で起こった外国人同士の争いにまで介入してたら
  大変だもんな。


ケ:次の年の1619年には、1617年にオランダが捕獲していたイギリス船スワン号を
  率いて平戸に入港した。スワン号の乗組員はひそかに船を脱出してイギリス商館に
  助けを求め、碇泊中のオランダ船7隻の水夫600名余がイギリス商館を襲撃すること
  1日3回に及んだという。
  平戸候はイギリス商館を護衛し、英蘭の調停を行うが、陸上でのみの誓約と解釈した
  オランダ人によるイギリス船砲撃・乗組員の拘留などは続き、再度コックスは江戸で
  幕府に陳情するが、幕府の回答は平戸藩主の裁定に任せるというのみだった。


り:オランダ船が7隻も平戸にいたんですか。それは壮観だったろうなあ。
  でも当時のヨーロッパでは、東アジアに来ようなんてのはまともな人間の
  考えることじゃないって思われてたみたいだし、実際当時の水夫を描いた絵なんか見ると
  うらぶれたやくざ者みたいな男たちってカンジで、そういう肉食人種が闊歩して
  小競り合いなんか起こしたら平戸の町は大混乱だっただろうなあ。


ケ:しかし、さすがにこれでは両国の利益にならないという判断のもと、ヨーロッパの
  本国において1619年7月に英蘭防禦同盟条約が結ばれた。
  これには双方ともこれまでの出来事を水に流し、一致協力して自由に商業を営み、
  香料の買い入れ値段を協定で決めるなどの項目が含まれていたが、
  両国の艦隊を平戸に集結させ、航海中マカオから平戸に向かうポルトガル船に出会ったら
  これを拿捕し、日本に向かう中国船は自由に航行させてよいがマニラを往復する中国船は
  拿捕し、スペイン人に対しては可能な限り損害を与えよという内容もあった。
  バタビアに防禦同盟の報が届いたのは翌1620年7月だった。


ツ:当時、マカオにはポルトガル人が、マニラにはスペイン人がいたからな。


り:つまり、東南アジアから日本へのルートの制海権を英蘭両国で握ろうとした訳ですね。
  勝者が2人いる状況なんていつまでも続くハズがないのに・・・


レ:それでも、当面はスペイン・ポルトガルから覇権を奪うことが重要だったからね。
  りりの理論からすれば、外国の領海を勝手に分配するなって言うだろうけど、

り:よくわかってるじゃないですか。

レ:将軍だってオランダ人が海上でポルトガル人と出会った時、彼らを拿捕しても
  差し支えないと言っていたんだから。


り:でも分捕り品は平戸に運んで、自分達の積荷としてしゃあしゃあと日本で
  売りさばいてた訳でしょ。
  立派な海賊行為じゃないですか。
  なんでも、持ち込む商品の大半はポルトガル船への海賊行為でゲットされたものだったので、
  その質や量については安定性を欠いていたとか・・・
  それでも元手はかかってないから、おいしい商売ですよね。


ズ:まあ当時は白糸の品質の良し悪しに関わらず、値段は日本に一方的に決められていたから、
  順当な貿易で積荷を得るよりは純利益は大きかっただろうがな。
  捕らえた中国人を日本に連れてくれば、拿捕の事実を幕府に
  訴えられるのではないかという恐れから、ある場合には彼らを小島に置き去りにしたことも
  あったと聞く。


申:ずいぶんとひどい話ではないか。

ズ:しかし露骨な海賊行為は平戸の藩主たちさえ不快にさせたと見え、スペックスは手紙の中で、
  遠回しに、平戸藩主の留守中、奉行たちから妨害や中傷を蒙り、
  少なからず当惑し不安を感じた、とも述べている。


り:ヤコベさんも苦労したなあ。

金:ヤコベって誰だ?

レ:ヤックス・スペックスの愛称ですよ。
  1度、我々の船が長崎付近でマカオのフレガット船(小型帆船)を追跡した時があって、
  それを見た日本人の間に我々がフレガット船を長崎まで追跡してきて砲撃したという
  噂が流れてね。そこで長崎奉行はその時長崎にいたエルベルト・ワウテルセンに向かって

  「なにぐずぐずしてんだ。急いで船に行ってあれを止めてこい!!」

  と厳しく命令したので、ワウテルセンは船に乗り込み、将軍の領内でポルトガル人を
  攻撃してはならず、誰にも損害を与えてはならないことを伝えたので、ヤコベや商館員は
  フレガット船をそのまま航行させたということがあったそうですよ。
  バタビアの総督などは日本を直接知らないから、可能であれば日本に碇泊中のポルトガル船の
  錨を外してしまえなんて過激な命令も当時あったようでね。
  初期の頃は日本を軽く見る人物もいたことは確かでしょうね。
  ただ、ちょうど将軍の権威も高まってきていた時期でもあったから、日本に長く滞在して
  日本をよく知る商館長はそういうバタビアの意識を変えさせようと、
  日本の事情を伝える書簡を送ったりもしているけどね。


ズ:それで1621(元和7)年9月、平戸のオランダ商館、イギリス商館長に
  将軍からの命令が伝達された。

 ・将軍の許可状なしに、日本人を(雇傭にせよ、人身売買にせよ)オランダ船、イギリス船、
  ジャンク船で送り出すことを禁止する。
 ・短剣、短銃、その他の武器、軍需品の輸出を禁止する。
 ・オランダ人、イギリス人は、日本近海で略奪してはならない。
 ・長崎では、外国からの大船も、その他の船も、大御所様の時に定められたとおり、
  少しも変更することなく、取引を行うこと。
 ・海上でオランダ人、イギリス人の略奪を受けた長崎商人の船には、調査の結果宣教師が
  2人おり、押収されたのはそのためであるといわれている。宣教師がいたかどうかを、
  厳しく調査させ、報告させること。

  スペックスが聞いたところでは、フレガット船の船長は将軍の主要な閣老の前に呼び出され、
  尋問を受け、その論議を将軍みずから別の部屋に隠れて聞いていたそうだ。
  そこには平戸藩主と二人の主要な秘書も呼ばれた。彼等は口頭で尋ねられ、平戸藩主は
  みずからの領地・資格が傷つくほど、我々のために好意的に弁じたという。

り:う~ん、皆さんが参府した際、 恒例の法規の読み聞かせ がありましたけど、
  なんでああいう項目を毎年再確認させるのか初めはわからなかったんですよね~。
  でも、こういう歴史があったから中国船や琉球船などの日本と交易をする船の保護を
  オランダ人に徹底させる必要があったってことなんですね。
  日本の庇護のもとで交易する外国船は、それぞれ安全を保障されてたって訳だ。
  人身売買などの項目については次回にしましょうかね。



※今回の主な参考文献
『平戸オランダ商館日記 近世外交の確立』(永積洋子/講談社学術文庫)
『長崎のオランダ商館 世界のなかの鎖国日本』(山脇梯二郎/中公新書)
『日本回想録』(ドゥーフ著、永積洋子訳/雄松堂出版 新異国叢書第三輯10)
『日欧通交史』(幸田成友/岩波書店)


にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2016年11月26日 18時06分39秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: