戦国ジジイ・りりのブログ

戦国ジジイ・りりのブログ

2016年08月16日
XML
カテゴリ: 城(東北・関東)
りり:
  さて、前回の1621年に英蘭両国に出された禁令ですが、
  これも色んな話がからんでくるんだよな~。
  壮大すぎて、もうめんどくさくなってきちゃったな~。


申維翰:
  思考を放棄するな。だからお前は馬鹿なんだ。

り:へいへい。
  人身売買とか奴隷なんてものはよその国で行われたことであって、
  日本には無縁だと思ってる現代日本人は多いんじゃないかと思うんですよね。


ツュンベリー:
  そうなのか?なんでだ?


り:皆さんの死後、全世界を巻き込んだ大きな戦いが2つありましてね。
  それを境に、それまでとはずいぶん違った考え方が生まれたんですが、
  欧米人やクリスチャンは自分たちに都合の悪い情報を隠したがってねえ~。
  自分たちが好き勝手なことをさんざんやってきたくせに、他者に責任転嫁したり、
  情報の操作とかいろいろやってるみたいですよ。
  調査捕鯨もイカンとか言っちゃって、お前らがドレスやコルセットに使うためだけに
  さんざん乱獲してきたんだろ!ってカンジですよね。


レフィスゾーン:
  ・・・あの、クジラの話は禁令に含まれてないと思うんですけど・・・


り:ああ、そうでしたっけね。
  まあ、そんな事情も関係してあまり日本人には知られてないみたいなんですけど、
  江戸初期頃までは日本人も自主的に、あるいは身売りなどで
  かなり海外に出ていってたみたいですね。
  人身売買にはイエズス会の宣教師も関わっていたとか・・・


ケンペル:
  ルイス・フロイスによると、太閤は九州攻めで下向した際、
  初めてポルトガル人の宣教師に会って周囲が驚くほど彼らを厚遇していたのに、
  1587年7月24日に豹変して布教を禁じたが(=バテレン追放令)、
  その中に奴隷売買に関する項目もあった。
  ポルトガル人が太閤の不興を買ったひとつの理由だとは言えるだろう。


り:ええと、『完訳フロイス日本史』(松田毅一・川崎桃太訳/中公文庫)によると、

 【予は商用のために当地方に渡来するポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが、
  多数の日本人を購入し、彼らからその祖国、両親、子供、友人を剥奪し、奴隷として
  彼らの諸国へ連行していることも知っている。それらは許すべからざる行為である。
  よって、汝、伴天連は、現在までにインド、その他遠隔の地に売られて行ったすべての
  日本人をふたたび日本に連れ戻すよう取り計らわれよ。もしそれが遠隔の地のゆえに
  不可能であるならば、少なくとも現在ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。
  予はそれに費やした銀子を支払うであろう、と。】


ケ:イエズス会の宣教師はもちろん奴隷売買を知っていた。
  だが売買の主体は商人で、イエズス会では太閤以前から
  それに対する危機感も持っていたとはいう。
  宣教師にしてみれば、あくまで自分達は布教のために来日しているのであって、
  奴隷を扱う商人といっしょくたにされては布教の妨げにもなると考えて、
  1571年には国王セバスティアン1世から日本人貧民の売買禁止の勅令を
  取り付けてもいるが、太閤がコエリョに突きつけた内容を見るに、
  1580年代後半まで売買は続いていたようだな。


り:ふんむ。それで副管区長のコエリョは秀吉の叱責に対して

 【日本人のように名誉をいとも尊ぶ国民にとり、人身売買を行うことは、たとえそれが
  彼らの間であれ、国外に対してであれ、大いなる信用の失墜と言う外なく、寒心に
  堪えざるところであった。だが、この忌むべき行為の濫用は、ここ下(シモ)の九ヶ国に
  おいてのみ弘まったもので、五畿内や坂東地方では見られぬことである。我ら司祭たちは、
  かかる人身売買、および奴隷売買を廃止させようと、どれほど苦労したか知れぬのである。
  だがここにおいてもっとも肝要なのは、外国船が貿易のために来航する港の殿たちが、
  厳にそれを禁止せねばならぬという点である。】(前掲書より)

  と弁明してる訳だな。
  でも結局、九州の大名が人身売買を行ってるんだからそいつらに言ってよ!って
  責任転嫁してますよね。
  それに、コエリョ自身が奴隷売買の契約書に署名している事実もあるっていうんだから、
  なんだかな~。


ズーフ:
  ヴァリニャーノやオルガンティノはコエリョの挑発的な身の処し方が追放令を招いたと
  非難しているから、まあ仕方がないだろう。
  ・・・ポルトガル人の弁護など決してしたくはないのだが、1596年に日本に赴任した
  司教のペドロ・マルティンスは奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると
  キリシタンの代表者らに通達したというから、イエズス会としてはそれなりに
  善処したのだろう。


り:日本人の人身売買については真っ向から否定している人もいて、
  仮にそれなりの数が奴隷として外国に売られていったとしても、
  当時の航海諸技術では売却先が遠方であればあるほど生命の危険にさらされる訳で、
  途中で死んでしまったら海に捨てられただろうし、実際人身売買でどれほどの日本人が
  海外に流出したのかは算出不可能でしょう。
  それでも、人身売買をヌキにしても相当な数の日本人が海外に進出していたのは
  事実なようですね。


申:どういう理由で国外まで出ていったのだ?

り:申さんや金さんは秀吉の話なんか聞きたくないでしょうが、秀吉の頃もまだ倭寇はいた。
  倭寇と区別するために秀吉は朱印状・・・つまり身元証明書であり渡航許可証を与えて
  朱印船貿易を開始したとされます。

  明ではいわゆる海禁政策を用いて自国民の出入国の管理をしていたけど、
  のちに一部解禁された。
  それでも、相変わらず日本人は規制の対象になっていた。
  ポルトガルの日本への主な輸入品は中国産の生糸で、これはのちにオランダ商館に
  引き継がれますが、日本人は正面から中国の生糸の輸入はできなかったので、
  解禁によって中国人が海外進出した先に日本人が出向いて、
  そこで生糸を買い付けるようになった。
  「出会い貿易」ってやつですね。

  朱印船貿易家は、「出会い」の場にも駐在員を置くようになった。
  こうしてできたのが、東南アジア各地にある「日本人町」で、その分布は
  のちにオランダ東インド会社がテリトリーとした海域とかなりの割合で重複する。
  結構広い範囲にまたがるので、あらためて日本人町の分布図を見てみると
  オドロキですけどね。


申:ふん、商売のためか。

り:それだけじゃないッス。
  東南アジアには、傭兵として活躍する日本人もいたそうです。
  もっとも有名なのが山田長政ですけど、あるいは傭兵の中にも奴隷として
  売買された人もいたかもしれない。
  でも、戦国末期のうち続く戦いの中で、国内にはプータローになった武士もいたし、
  秀吉から家康の時代にかけての大きな戦いで行き場を失った日本人もいて、
  そういう武士がみずから新天地を求めて海外に渡ったケースもあったかもしれない。


ツ:スペインがルソンを征服したのは1571年だが、
  すでにいくばくかの日本人も在住していた。
  また、タイオワン(台湾)に拠点を置いた日本人もおり、フィリピンに進出した
  スペインとしばしば激しい戦闘が行われたらしい。
  甲冑を着込み武器を携えた彼らは、スペインの大砲に破れて多くの死者を出したりもしたが、
  そうした戦闘を通じて向かう所敵なしと自信を持っていたスペイン側の恐怖と驚愕も
  増していき、現地の太守からフェリペ2世に対して守備兵をもっと増やしてくれだとか、
  フィリピン人と日本人を決して混同するべきではなく、十分な兵力をもって
  この地の日本人を掃討しなければ、到底安全に経営していけるものではないと訴えている。


り:それはどちらかというと、倭寇の人間だったかもしれませんね。

ツ:かもしれないな。
  だが、精巧な武具とともに屈強な日本人兵士が海外で活躍していたことは事実だ。
  日本人兵士に悩まされたスペインでは、保累を築いたり色々と日本人対策を講じたらしいよ。


レ:よっぽど怖かったんでしょうねえ。

ツ:マニラのスペイン人の間で中国を攻める話が持ち上がった時には発想の転換で
  日本人傭兵を大量に雇う案が出て、具体的な方法まで煮つめられたらしい。
  実戦を通して、日本人兵士の実力がそれだけ認められてたってことだろうね。


り:アルマダの戦いで無敵艦隊がイギリスに敗れるのは1588年でまだ先のことだから
  ルソンを攻略した頃にはまだスペインは強さを誇っていた時期だったろうに、
  わざわざ日本人傭兵を雇おうとしたんですか?


ツ:強いと言っても本国から遠く離れたアジアでのことだし、スペインは手を広げすぎて
  戦力をそう多くはアジアへ回せなかったんだよ。
  まあ、結局傭兵の話は実現しなかったらしいけど。

り:だから、よそ様の土地なんか狙わないで自分ちでのんびりオレンジでも
  食ってりゃよかったのに・・・
  ところで武器の話が出ましたけど、当時の日本は世界有数の鉄砲保有国だったそうですね。
  日本への鉄砲伝来の時期は諸説あるものの、1540年代前半というのが大半のようですが。


ズ:日本には高度な技術を持つ刀鍛冶がいたからな。
  それで、わずかな期間で国内での量産化に成功したという。
  権現様が天下を取った頃の全世界での日本の鉄砲は5割を占めたというぞ。


り:そんなの教科書で習った覚えない・・・

金仁謙:
  国史を学ばぬ愚か者だから、授業中寝ていたのではないか?


り:まあ確かに、教科書の肖像画に落書きなんかしてましたけど・・・
  あれ?落書きは世界史の教科書の方だな。


ツ:どれ?
  へえ、これがお前の使ってた教科書か。ずいぶんと絵が豊富だな。
  色々と線が引いてあったり文字の書き込みもあって、だいぶ使った感があるな。
  それにひきかえ、こっちの日本史の教科書は綺麗なままだな~。

レ:使用感が全然違いますよね。

申:やっぱり勉強していなかったのではないか。
  王安石(宋の政治家)の絵に変な色眼鏡なぞ描き込みしおって・・・


り:うるさいな~、もう。
  今やってるんだからいいでしょ
  学生の頃なんてメじゃないくらい、勉強してますよ。
  それで、秀忠の代で軍需品の輸出が禁止されたのは、高度な武具産出国であった
  日本の武具を提供することで自国へのマイナスの影響が出ることを恐れたためですか?


ズ:どうかな・・・
  スペックスがバタビアの総督に送った書状によると、オランダの要塞、船、
  東インドでの戦争に必要な軍需品を十分に供給できるなら、我々にとって
  ほとんど障害にならないと言っている。
  ただし、今後もし鉄や銅も軍需品と見なされればその輸出も禁止されるかもしれないから、
  それについては十分に考慮する必要があるとも述べている。

  日本人の海外移送禁止については、ポルトガル人の主張によって設けられた項目だが、
  ポルトガル人への好意によったものではなく、日本人を外国での戦争の危険に
  さらしたくないための命令だとスペックスは解釈している。
  スペックス自身はこうした事態をかねてから予測し、日本人を輸送する際には
  将軍の正式な許可を得るようにした方がよいと以前から総督に勧告していたらしいな。


り:てことは、オランダ人も日本人を海外へ送り出してた訳だ。
  永積洋子氏は、

 【この命令書は、将軍の領土、領海内での無法な暴力を一切認めず、ポルトガル人の
  主張といえども、それが正当なものであるならば承認し、将軍の権威を外国人にもはっきり
  認めさせようとしたものだといえよう。日本に来航するヨーロッパ諸国民の中で、
  オランダ人の優位はまだこの時期には確立していず、スペックスの目から見れば、幕府は
  ポルトガル人、スペイン人に好意を寄せている時代である。そして、日本近海での
  オランダ人の海賊行為が、日本商人の損得にかかわることはいうまでもない。
  このような過渡期であればこそ、将軍秀忠はポルトガル人の主張の是非を判断しかね、
  問題のフレガット船船長に対して閣老や平戸藩主が尋問する時、次の間に潜んで聞くほどの
  熱意を示したものであろう。】(『平戸オランダ商館日記』より)

  と解説してます。
  秀吉もイエアスも決してキリシタンに好意を持っていた訳ではなかったのに、
  貿易を重視した結果、セットでくっついてきたキリスト教をやむなく黙認したと
  言われますが、そのうえ同じキリスト教徒であるオランダ人とイギリス人まで受け入れたのは
  ポルトガルやスペインの対抗馬にする目論みがあったという解釈もありますね。


レ:対抗馬かはわからないけど、リーフデ号のウィリアム・アダムスやヤン・ヨーステンを
  そばで見てきた家康公だからこその判断だったとは言えるかもしれないね。


り:それを引き継いだ秀忠は、ま~大変だったろうなとつくづく思いますけど、
  見方を変えればひとつの出来事に対する判断材料が増えたとも言える訳ですね。


レ:そういう面はあるだろうね。
  我々が海外事情を幕府に報告する「風説書」は1641年から義務づけられたものだけど、
  そういう情報は中国人や他の「口」からも仕入れていて、幕府は常に他の情報と比較しながら
  情報の信ぴょう性や我々の誠意を判断していたよ。


り:日本の「鎖国」はオランダ人にハメられて引きこもりになったものだと言う人がいますけど、

ズ:それはとんでもない誤解だ!
  我々が出島に移って日本との関係が安定期に入るまで、いや入ってからも
  幕府は常にしたたかだったよ。




ツ:?
  商館日記は読んでないって前に言ってなかった?


り:あ、何年か分は手に入れました。
  わたくしも色々と忙しいので、まだすべてを読破してはいませんが。
  じゃなくて、4ヵ国ものヨーロッパ人が国内でぐちゃぐちゃやってたから、
  日本人も対ヨーロッパ人について次第に鍛えられていったんですね。
  にしても、貿易相手を入れ替えるつもりなら、英蘭を受け入れた時点で
  ポルトガル・スペインをばっさり切っちゃえば秀忠も次の間で盗み聞きするハメにも
  ならずに済んだろうに・・・


レ:いや、我々やイギリス人は中国に拠点を持っていなかったからね。
  ポルトガル人の強みは、マカオに拠点を持っていたことだ。

り:日本人が欲しがっていた中国の生糸を輸入するために、ポルトガルを切る訳には
  いかなかったってところですか。
  その弱みを補うために、英蘭は海賊行為を繰り返す訳ですね。
  ところで、禁令の最後の長崎商人の船の宣教師って何ですか?


ケ:それは、「平山常陳(じょうちん)事件」といわれるものだ。

  1620年(元和6年)7月、マニラから日本に向かっていた平山常陳の朱印船が
  我がオランダとイギリスの船隊に拿捕され、平戸に入港した。
  朱印船にはポルトガル人とスペイン人も乗っていた。
  積荷は我々が押収したが、相手が朱印船だったため平山常陳が訴え出て問題となった。

り:英蘭防禦協定の後だから、両国が日本の周辺海域でバリバリ海賊してた頃のことですね。
  威勢よく拿捕したはいいけど、相手が悪かったな。


ケ:我々は朱印船が日本ですでに禁止されていた宣教師の渡航の告発に協力したので、
  これは海賊行為ではなく正当なものだと反論し、長崎奉行らによって取り調べが
  行われることになった。 
  平山常陳自身もマニラ在住のキリシタンだったが、宣教師も確かに2人乗っていたんだ。


り:どうせ「たまたま」でしょ?
  マニラから出た船だからおい、あいつ捕まえちゃえ~って拿捕してみたら朱印船だった。
  でも都合よく宣教師も乗ってたからいい言い訳になったってとこじゃないんですか?


ケ:む・・・

レ:確かに当時の朱印船は和船ではなく中国のジャンク船を使ったりしたようだから、
  「マニラを往復する中国船」という防禦協定の定めに該当すると勘違いして
  拿捕した可能性はあるね。
  日本船の拿捕は厳禁されていたから、総司令官だったロバート・アダムスも
  処置に迷ったっていうし。
  でも船底に隠れていた宣教師を発見して、これを正当な行為とする決断をしたと
  いわれているよ。


ツ:まあ、日本人の役に立つことにはなったんだしさ、結果オーライってことで。

り:調子いいなあ、もう
  それで?


ケ:そこからの攻防は大変だった。
  長崎奉行の長谷川権六は、潜伏していた宣教師のことを知っていた。
  それなのに、権六はしらを切った。
  宣教師らは自分たちは商人だと言い張り、権六は
  「ほら、商人だと言ってるじゃないか。ウソだというなら証拠を出してみろ。
  証拠がないなら、こんな無法を犯すお前らとの貿易はもう終わりだな」
  と我々を脅す始末だった。
  しかし、我々だって負けている訳にはいかない。
  そこで、身の潔白を証明するために奴らが宣教師である証拠探しに奔走した。


り:身の潔白ったって、好き勝手な海賊行為のツケが回ってきただけじゃないですか。

レ:お前はどうも噛みついてくるね。
  そんなにオランダ人が嫌いなのか?


り:嫌いだったらこんな座談会開かないですよ。

ズ:だったら少し大人しくしていなさい。

り:ぶ              っ・・・・・

金:あっ、コイツ、屁こきやがった!!

り:こいてないですよ!
  近くにいればわかるでしょーが!!


ツ:人前でも平気で屁をこくのは日本人の悪いクセだね。

り:こいてないってば!!

レ:あるフランスの作家は韻文でこの禁忌をこう表現しているよ。

 「屁を洩らすことなかれ、
  風を逃さず、中にて抑え
  穴閉め、尻をばひたと寄せ合い、
  こらえてぐっと締めつける、
  たとえ切なさ昂まりて
  産婦の苦しみ凌ぐとも。
  悪臭芬々(ふんぷん)、忌むべき屁をば、
  食卓などで放てば満座の男も女も
  口を極めて汝は全く
  仏国一の下司と言うは必定。」

ツ:エラスムスはこうも言ってるな。

  「屁をこらえるのは健康によくない、それを密かに出してしまうのは正しい行為である。
  若者達に尻をぐっと締めて屁をこらえよと説く者がいる。ところがそれは違う。
  礼節を守ろうとして病を得るのはよくない。もし部屋の外に出ることが可能ならば
  人から離れた所で放出するべきである。それが不可能ならば古くからの教えに従い、
  咳をして音を隠すべきであろう。」

  私は医師だから、そりゃ我慢が健康によくないのはわかってるよ。
  でもせめて、エラスムスの言うように咳で音を隠さなくちゃ。


り:こいてないって言ってるのに・・・
  人の話、聞きゃしねえ


ズ:何の話をしてるんだ、まったく・・・

ケ:宣教師は我々によって拷問にかけられた。
  それはイギリス商館長のリチャード・コックスが目をそむけるほどの
  苛酷な拷問だったと聞く。
  さらに、奴らを知る証人たちを見つけ出してきたので、ついに自白を得るに至った。
  そして2年後の1622年8月、平山常陳と2人の宣教師は火あぶりにされ、
  日本人の乗組員12名も斬首の刑に処せられた。

り:なるほど。
  両者の意見が真っ向から対立して落着するまでに時間がかかったから、
  秀忠みずから盗み聞きしてどちらの言い分が正しいのか見極めようとした訳ですね。


ズ:この事件を機に、流れは大きく変わり始めた。
  スペックスが自分たちより優遇されていると感じていたポルトガル人は信頼を失い、
  事件が解決した翌年に商館長になったナイエンローデが参府した際は
  素早く拝謁が叶い帰路についたというのに、ポルトガル人にはなかなか拝謁の許可が
  下りなかったそうだ。


り:へえ、ポルトガル人も参府してたんだ。

ツ:イギリス人だってしていたよ。
  その時、 コックスが朝鮮通信使を見た んだろ?


※今回の主な参考文献
『平戸オランダ商館日記 近世外交の確立』(永積洋子/講談社学術文庫)
『完訳フロイス日本史』(ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳/中公文庫)
『西班牙古文書を通じて見たる日本と比律賓』(奈良静馬/大日本雄弁会講談社)
『オランダ風説書 「鎖国」日本に語られた「世界」』(松方冬子/中公新書)
『トイレの文化史』(ロジェ=アンリ・ゲラン著、大矢タカヤス訳/筑摩書房) 




にほんブログ村





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2016年08月16日 23時35分01秒


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

りりじい

りりじい

カレンダー

コメント新着

王島将春@ Re:浅草&寛永寺法要編(8) 東国の成熟(01/08) はじめまして。福井市在住の王島将春(お…
よー子@ 墓参り2014(2) 慈眼寺~芥川龍之介と小林平八郎の墓(08/02) 前略 初めてお便りします。 質問ですが、…
伊藤友己@ Re:上野第三編(12) 寛永寺105/清水観音堂~越智松平の灯篭(06/20) 越智松平家が気になって詳しく拝見しまし…

サイド自由欄

よみがえる江戸城 [ 平井聖 ] 価格:2916円(税込、送料無料)






PVアクセスランキング にほんブログ村

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: