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毎日のように雨。前回にアップした時からほぼ二か月ぶりだろうか・・・雨の中咲いていた紫の薔薇「フェルゼン伯爵」ベルばらシリーズの一つだ。白いオスカル、黄色のアンドレもあるけど、雨で中々きれいに咲いてくれない。残念なことに今年はこのように第九演奏会に参加できなくなった。コロナの影響で致し方ないことで、私は3月頃からもう予想して期待をしてなかった。ただ、この女性指揮者は世界の若手指揮者登竜門で優勝した地元の私の卒業高校の後輩でもあり、興味深く楽しみにしていただけに残念である。来年また本部の方で声掛けする予定みたいだ。ベランダに咲くブーゲンビリアの白い苞がお日様に当たりピンクに染まってきれいな日にスマホで撮影した。さて、私の体調の方は喘息は全く症状なくいい具合で、そばにある市のジムに行きたいのにこれも又コロナのせいで行けない羽目になりずっとお休み。しかし、別のほうがまずくなった。つい最近はヘルペスを数年振りに発症した。左頬の目のそばの皮膚が急に痒くなり我慢できないほどになり、ブツブツが出たのですぐに勘で分かったので、皮膚科に行ったら案の定そうだった。いろんな体の不調からくるストレスだろうと思った。早かったので1週間ほどで治った。おかげで予約していた肺炎の予防注射は先延ばしとなった。その不調の原因は以下の体調のせいだと思う。病が病を呼ぶものだ。私は元々歯が悪いのだが、今回ほど大変なこともなかった。1ヵ月程前に歯茎の骨を削る手術をした。私は下の奥歯がなくなってしまっていて、入れ歯を入れているが、歯茎の凸凹があるため歯医者泣かせで、今回は意を決して歯茎を削って調整することになったわけだ。麻酔してゴリゴリとすごい圧力がかかって骨を削られ歯茎を縫い合わせて1週間後に抜歯した。とにかくすごい痛みでご飯を食べるのが大変だったのは言うまでもない。その後の入れ歯調整もなかなかうまくいかず、入れ歯を入れて噛むなど圧力に耐えられず痛いので、少しの糸切り歯と歯茎で食べている有様。明後日また歯医者で調整だ。きちんと食べられるのはいつの日か・・・そんな苦労をしながら、さらに整形外科通いだ。私は更年期頃から手の指がこわばる現象がずっとあって、時折関節が腫れて痛いことがよくあり、冷たい水仕事は痛くて嫌だったが、ここ何か月かで黙っていても突然ツーンと針を刺したように親指関節が痛むようになった。第一関節の痛みはへバーデン結節といい、私は両手親指と左小指に発症、あとの指は第二関節なのでブシャール結節だ。親指関節の痛い部分はレントゲンでは骨が削れて変形して神経を圧迫してるということだった。私の場合は症状は軽いのだが、なかなかすぐパッと治らないのがこの病気の特徴で一生の付き合いらしい。今のところパラフィン温浴を週に何度かと軟膏の治療だけど、先日私に看護師が症状を聞いていたとき、そばで聞いていた婆さんが話にはまってきて、「自分も同じだ、ほら、私はこうなった!」と自分のひどく曲がった指を見せたので私はとてもショックを受けて「そんな先の物は見たくない」とはっきり言ってしまった。婆さんにすれば、同病相哀れむの仲間意識かもしれないが、そうなりたくないから早めに治療しに来た私にとってはかなり気分悪くて、他の患者に聞こえるような患部の聞き方は病院側にも問題ありと非常に頭にきた。看護師は私に申し訳ないとかなり思ったらしく、次の時は静かに自分の方に呼んで一人ずつ症状を聞くようになった。どうも整形外科はリハビリの年寄りが多いせいで仲間意識でおしゃべりが好きな人が多いようで、私はごめん被りたい。とにかく、この歳でこの婆さんのように老化してたら大変だと思い、本を買ってツボ押しやマッサージも自分で心掛けているし、女性ホルモンの減少が関係しているということで効果があるという大豆を原料にした好評判のエクオールというサプリメントも飲み始めている。水仕事はすべてゴム手袋着用で、米を研ぐのもそう。遺伝もあり、指を使う人に発症が多いとかも言われ、やはり50歳前後から老年の女性がダントツに患者が多いと本にも書かれている。パソコンや針仕事が長かったせいかもしれない・・・とにかく末永く頑張り、自分の体と向き合うしかない。スマホの方は大分慣れてきて、今もSNSに大活躍だ。Twitter、Facebookには写真を撮ってすぐにアップできるので便利。ただ、ブログを書くにはパソコンなので、写真をスマホの小さなSDカードをパソコンに入れて取り込んでアップしないといけない。一応スマホに例のコロナアプリも入れてるものの、はっきり言ってお互いにスマホ持ってる者同士で、尚且つアプリをどっちも入れてないと陽性患者に接触したかどうかはわからないわけで、田舎では年寄りも多くスマホ保有率そのものが低いので意味なしで、アプリに不具合まであるようで全く意味なし。。それにしても、私がスマホ保有してから第九で知り合ってたE子とはその後もかなり親しくなった。TwitterもFacebookもLINEもだ。ただ、この頃彼女に正直あきれてきた。私は不特定多数といろんなジャンルの話をして知識を広めるのが好きなのだけど、彼女は自分の私生活を毎日のように朝から晩まで報告したがり、そのたびに返事するのが苦痛というわけだ。女性はそういうのを好む傾向にあるらしいが、私はそれを好まない質だからだ。彼女は一人っ子だから自分は子供っぽいと自分でよく言い、皆が大人に見えると言う。おまけに彼女は20歳で結婚して、出戻りの娘親子と旦那と暮らしており、犬2匹、猫2匹、亀2匹もいる。私より一つしか歳違わないのに孫娘はもう18歳で、体も丈夫で、行動力もすごい。行動力がすごいのはいいが、あまり深く考えずに思い付きで行動する我儘なとこがあり、最近辟易していた。Twitterのリツイートをするとき、私に個人的なコメントを書いてリツイートしたので注意した。今でもFacebookで私の投稿にコメントを70以上も書きまくることが結構ある。内容は初めは普通だけどどんどんエスカレートして、ついには自分の家の話になり、話がずれてしまい、私の投稿とは関係なくなる。おまけに、彼女はスマホでしか入力しないので入力が早く、スタンプや絵文字だらけで中高生のよう。それがLINEやメッセンジャーやダイレクトメッセージなら二人しか見れないのでいいが、普通は不特定多数、少なくともFacebookなら他の友達も読んでスルーしてるわけだ。彼女に以前ビシッと注意したが、今回もやらかしたのでまたきつく注意。するといつも子供みたいにすぐ謝り、泣きスタンプ入力し、また同じことをする人だ・・・彼女の投稿はいつも飼ってる犬猫亀の動画と写真のみ。関心あるのは動物と家のご飯だけみたい。でも、私のことを大変信頼して尊敬して好きらしいのはよくわかっている。保護猫を飼い猫にするかどうかの相談、亀の散歩、除草機の使い方講習のこと・・・など、私のアドバイスをよく聞いて感謝してくれている。彼女の家は市内でも私のような町中ではなく、ド田舎で回り皆農家でもちろん彼女もそう。かなりの土地持ちで旦那さんが退職後にかなりの畑作りをしているし、芝生のあるドックランもある。だから草刈りが大変だそうで、聞いたら除草機使わないと鎌では3日以上もかかるというかなりの敷地なので驚いたものだ。私の助言で来月は除草機も講習会に行くそうだ。広い自分の土地で朝4時に起きて良く動く人だ。時には大きな声で娘親子と合唱したり、お酒飲んで大きな声で話しても近所迷惑にならないと言うし、猫相手に口笛で「上を向いて歩こう」を吹いたら猫が相槌を打つようになったと喜んでいて、実際動画見てその通り\(◎o◎)/!自分を女ムツゴロウと称して私をその自分の家のサファリパークに招待したいと言う。彼女のような人はまず見たことないが、まあなんとおもしろいというか・・・(◎_◎;)さて、私の方は花にはまり、特に薔薇が好きで以下のごとく、今年もたくさん咲いています。ル・シェル・ブルー(青い空)ターン・ブループリンセス・ドゥ・モナコピエール・ド・ロンサールフラワーカーペットローズ(アンバー)サマースノーザ・ラーク・アセンディング~~~中に蜂がいますエターナル(永遠)
2020.07.11
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今何月何日だっけ?何曜日だっけ?毎日コロナのニュースで明け暮れているうちに時間が過ぎていた。春先に玄関で咲いた君子蘭アロエみたいな多肉植物「十二の巻」から長い茎が伸びて白い花が咲いた。一番左の青いサボテンが私のニックネームの「アズレウス」白い毛のついたサボテンは「老楽」私のサボテン寄せ植えコレクション。名前は分からないけど、白い毛におおわれているサボテン。どんどん伸びていく。弾力があって心地よい撫で具合、猫のしっぽみたいと言われた。パソコンを毎日のように日に何度も見ていた月日が嘘のようになってしまっていた。あれほど縛られるのは嫌だと思っていたスマホなのに、いざ持ってみると、ポンッという音と共にニュースは何よりも早く知ることができ、SNSも写真を撮ってすぐにアップできるせいで手軽に見たり書けたりできるようになった。私の今の生活は、今年の1月にスマホを買ってからSNS投稿がTwitterとFacebook投稿中心になっている。TwitterやFacebookは毎日のように更新している。わずかの呟きで毎日が忙しく過ぎていた。とりわけ、その中でも第九の会で知り合った女友達一人とのやり取りが急に濃厚になっている。今年に入ってコロナのせいで、私も友達も専業主婦なので、外出の機会が買い物と病院以外全くなしの最近で、自然にそうなった。私はやっと風邪が治って、さあジム通い復帰というときにコロナで中止になって、最近は両手指関節の腫れと痛みで整形外科通いと歯を抜いた後の入れ歯治療のせいで病院通いばかり。docomoのスマホ教室も今は中止で見通しがない。毎日マスクでの外出で口紅が全く減らない毎日で、着るものもどうでもよく、掃除も片づけも面倒くさい毎日で退屈で、彼女との会話は刺激かもしれない。でも、私はどちらかと言えば、誰に対してもさっぱりとした関係を好む人間なので、それほど親しくしようとは思っていなかったのだが、彼女が私のことを過大に評価して好きなようで、SNS上でも実際に会っているかのような付き合いになっている。何よりも彼女はスマホしか触らない人間なので、かなりの入力の速さでLINEでのおしゃべりがすごく好きなようで、私もかなりスマホの勉強になった。彼女は私よりも1歳年下なのに、まるでスタンプや絵文字や文章の書き方、感性が若く、中高生のような人なのだ。彼女は20歳で結婚して、旦那さんと娘さんとその孫娘さんと住んでいる。その娘さんは20歳で結婚して出戻ってしまい、孫娘さんはこの春大学生。すごい早婚の親子だ。だから彼女と娘と孫娘は年が近くて三姉妹のようで女学校のように賑やかで、男家系の静かで固い我が家と正反対で私にすればびっくりの連続だ。彼女は動物好きで、犬2匹、猫2匹、亀2匹飼っている。亀は私も4匹飼ってるし、犬も猫も過去に飼育経験があるし、第九で一緒というつながりで友達関係がつながっている。彼女は実は昨年保護した野良猫を今年になってしっかり飼い猫にした。最近思ったのは、猫の世間の呼び名である。野良猫→地域猫→保護猫→飼い猫だということだ。彼女は元々オスのトラ猫を飼っていた。これは野良が産んだ猫で子猫から飼った1歳の猫で彼女はとても大事にかわいがっている。その猫だけ飼っていればよさそうなものだけど、よく遊びに来るオスの4歳くらいの黒野良猫が気に入って飼いたくてたまらなくなったらしい。なぜかというと、どうも先に飼っていたトラ猫の父親らしく、餌を与えているうちに情が移ったらしい。で、私に相談を持ちかけてきていた。旦那にこれ以上飼ったら離婚すると言われたと言い、悲し気に私に訴えてくるのである。私は、先のブログに書いた通り、猫被害に遭ったことがある人なので、すごく考えた。しかも彼女は病院でそのオス猫の去勢までしてしまい、その証拠として右耳に少しのカットまでしている。(俗にさくら耳といい、オスの去勢は右耳、メスの不妊手術は左耳というらしい)そして餌を与え続けて、ベットまで用意して保護したり、出たがる時は外に放して、ネズミを食べたりすることも容認していた。これって、本当は私が一番問題視してきた飼い方なんだよね。もしも彼女がこの黒猫を飼い猫にしなければ、地域猫として世間に認知されて、彼女は保護猫として中途半端な飼い方をして、糞尿被害をまき散らす猫を飼っていることになるわけだ。彼女になんて言えばいいのか・・・なぜかというと、彼女は実に純粋で優しく素直な人なので、私は悩んでしまっていた。が、ある日彼女は家族の同意を得て黒猫を飼い猫にして名前も付けたのには唖然とした。そして、Twitterのやりかたを知らない彼女に私がやり方を教えてあげて投稿できるようになってから彼女はどんどん自分の飼い猫や飼い犬などの動画や写真をアップしていくようになっていった。そこである日、LINEで彼女と会話してるとき言った。「黒猫ちゃんはトラ猫ちゃんと別々にいる。だから人間の愛情があっても黒猫ちゃんは仲間が恋しくて寂しいから外に出る、でもネズミはまずいよ、近所の誤解を招くから外に出さないように、万が一のために首輪もつけたほうがいいかもね」って。先住猫のトラ猫と黒猫を一緒に仲良く飼いなさいと助言した。彼女は素直に私の言うことを聞いて二匹をシャンプーしてきれいにしてから獣医さんに連れて行ったらしい。そして猫エイズの検査をしたら、先住猫のトラ猫は陰性で、黒猫は陽性だったと言い、それをとても落胆して二匹を同居させられないことになったと私にまたLINEで泣いて訴えてくるのだった。結局、二匹のうち先住猫のトラ猫は今まで通りケージと彼女のお布団で、黒猫は玄関で飼うこととなった。他にも二匹の犬(チワワとパピヨン)が別々のケージで、亀も二匹別々のケースで飼っているのだから、彼女の家は愛護センターのような有様。彼女は一人っ子だと言うことなので動物全部が一人っ子みたいで、その可愛がり方も一緒くたではなく一匹ずつ順番に丁寧に愛情を注いでいるのだから、本当に驚き!私はこの歳になれば亀4匹だけでたくさんだ。注ぐ愛情も犬猫亀総勢6匹となれば世話もお金も半端ないのが本音だし、第一体力や精神力も持たないのが普通だと思う。彼女の場合はそれが生き甲斐で元気の源らしいのでそんな人もいるのだなと思う次第だ。3月末に私の使っているパソコンのプロバイダ事業者(あくびネット光)が倒産してしまい、とんでもなく忙しかった。元々3年経って違約金が発生しなくなったら解約してやろうと思っていた気に入らない会社だった。なんとか解約の書類申請までできたが、その後確かめの電話を入れたら全く電話が繋がらないというおかしな状況だった。確かめたところ私が解約手続きするあたりのきわどいところで会社が倒産していたのには驚いた!なんとか今は事業者はドコモ光に変更(プロバイダは別契約)した。そのあと、巷がコロナで騒ぐ中、工事や手続きに時間がかかり、そのあとはコツコツとメルアド変更になったので、いろんなネットサイトの登録情報を変更するのに余念がなかったというわけだ。「ニオイバンマツリ」これは芳香剤になる。ジャスミンのような香りで、階段の所に置いたら今年は結構花をつけてくれた。新しく咲いた花は紫色で、だんだん花色は白色に変化していく。私はずっと健康状態が思わしくなかった。昨年の秋くらいに風邪をひいてそれを治療しながら12月の第九演奏会に無事参加できた。けれど、今年に入ってからもずっと風邪症状が続いていた。元々喘息体質なので、一旦風邪をひくと治りにくく朝夕ひどく咳き込むことが多く、常に胸がムズムズすると言う具合だった。しかも、昨年の暮れで主治医が閉院してしまい、今年から新しい病院に転院することになった。その新しい先生は注射を嫌い漢方が好きな先生で、前の病院の治療には批判的である。コロナが注目され始めていた頃に私が通い始めたので、先生も私の体質を慎重に考えたようで、咳き止めの漢方薬と免疫を高める漢方薬を一杯処方してくれて、毎日大量の粉薬を飲んでいた。しかし、正直点滴に比べると治りが遅く、神経が参る日々だった。今でも体調によっては咳が出ることがよくあるのでコロナ背中合わせで恐れつつ暮らしている。さらに3月、長年患っていた歯が急に痛み、医者に行ったら根が半分に折れているということで、その日のうちに急遽抜歯となった。抜いたらさっぱりすると思いきや、とんでもない、その周りの神経すべてが猛烈に痛み、苦しい日々が続き、ろくに物が食べられずお粥の日々だった。痛みが落ち着いてからも穴が塞がるのに時間がかかり、その後は部分入れ歯の型取りと調整。今もまだ痛さと戦い調整に通っている。昨年は母が大病して病院通いと聴覚障害手続きで大変だったが、今年は又こんな具合で、同じ年でなくてよかったとそれだけは感謝だ。嬉しいニュースとしては、我弟が去る3月に日本アカデミー賞のある部門で最優秀賞を受賞したという快挙があり、テレビで観た。トロフィー片手に集合写真に納まっている弟が信じがたかったが、メールして祝いの言葉を弟に送った。祝賀パーティーの方は今年はコロナのせいでなかったらしい。先日両親宛てにその時の写真同封で手紙が届いたのであった。4月半ばかな?冬眠させてた亀を風呂場でぬるま湯で混浴させました。なかなか気持ちがいいようでした。そして4匹歩かせました。グルグル回って歩きます。この子は30年は生きてます。一番年長のメスのクサガメ。マッタリとくつろぐ「リラッカメ」
2020.05.14
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町内の回覧板に市の保健所から最近このような注意文書があった。糞尿被害に遭った私としては当然と思う。野良猫は野生動物と割り切る、餌を一度でもあげたらもうあなたは飼い主、言い訳は見苦しい。私は猫はかわいいと思っているが飼えないので、心を鬼にして、餌は一粒もあげないことにしている。野良猫の糞尿被害に苦しみ、近所トラブルになり、トラウマになってしまった私としては、保健所の文書に感謝である。野良には野良の世界がある。自然に産まれたなら自然に生きて死ぬのが定め。人間がたかが何匹か保護したとてきりがない。去勢や不妊手術したとて自然界で生きるには残酷だ。それに動物なのだから食べたら糞尿はする仕組みゆえ庭などの被害は絶えない。そこまで考えて、さらに自分の歳や経済状態を考えたら餌やりは安易にできないはずだ。私は2018年、野良猫の糞尿被害でかなりの被害を被り、餌やりの相手に注意したら逆切れされたことがあり、過去のブログに書いた。「餌やりは私だけじゃない、少ししかあげていない、猫糞など何も汚くない、あんたの花の花粉のほうが問題だ!花全部片づけろ」と餌やり住人の夫婦は揃って私を恫喝して、野良猫愛護の末に猫を保護して今は7匹に増えた、非常識、バカ者。。そして、あれから猫除けセンサーを付けた我が家には猫はビビッて来なくなったので効果絶大だ。夫は今年度は当番制の役員で、町内会の回覧物を町内会長から説明を受けて回覧する役目だ。我町内は何十年も野良猫の糞尿害や発情期の夜中や夜明けのうるささに悩まされてきたが、ようやくこういう文書が出たのだ。夫に聞いたら町内の誰かが怒りをぶつけて保健所からこういう文書が出たらしい。私のように辛い思いをした人間がいたのだと思った。これを読んだ向かいに住んでる餌やり夫婦はこのチラシは私の仕業と思うかもしれないが私じゃない。でもよかった!私だけじゃなかった!動物愛護と言うと聞こえはいいが、困ってる人がいる以上、実はかなり身勝手な行為なんだと本当に考えて欲しい。さて、私はかなり久しぶりのブログ更新なのだけど、昨日めでたく誕生日を迎えた。こうなってくると、早く国民年金をもらえる歳になりたいものだ。考えてみると昨年の2019年には母の耳性帯状疱疹は、10月初めに病院から聴力検査の結果での診断書を書いてもらった。↓すぐに市役所の障害支援課に行き、一か月の審査待ちとなる。同時に補聴器屋に行き、発音検査、補聴器試用で補聴器の種類を決め、耳穴の型取り後、補聴器屋から情報提供と見積もりを市役所に出してもらう。↓審査待ちだった通知が11月の初めに福祉事務所からの障害手帳を市役所の障害者支援課で受け取った。(母は2種6級の感音難聴)↓二週間後の11月初めに補聴器交付決定通知書が届き、それを持って補聴器屋に行き、無事補聴器購入。母の補聴器は片耳だけだが、❝ここから選ぶように❞と言われた中から選んで58,074円-52,267円で実質5,807円の負担金だった。選ぶ種類は国で推奨し、補助するものなのであまり高額なものはよしとしないらしい。それでも人により高価なものを買ったとしても多くても負担上限は30,000円で収まるらしい。そんなことで忙しい中、私は母を美容院に連れて行かなくちゃと思った9月13日、思わぬ事故に遭った。いつものように亀の水槽の水を替えたり花に水をやろうとして焦り、水槽(衣装ケースだけど)につまずいて前に大きく倒れた。私は顏他いろんな部分をかばった結果前にのめって転び、左膝をコンクリートに激しくぶつけた。もう一貫の終わり!!人生終わり…と天を仰いだ。私は湿布をしてびっこをひきずりながら母を美容院に連れて行ったあと、ようやく整形外科に行った。母の杖を借りて顔をしかめてびっこでいき、左足が打撲で腫れあがり、医者に触られても痛くて1ミリたりとも曲がらなく絶叫するほど痛かった。CTレントゲンでは皿には異常なしだが、MRIでなくてはわからないと言われたが膝を包帯でグルグル巻きに固定して様子見となり、毎日痛み止めと湿布の日々。布団は敷きっぱなし、ご飯支度や洗濯は立ち仕事なので私はやったが、夫に風呂掃除や買い物や亀の世話や花の水やりもすべてやってもらった。階段は最初はお尻で上り下り、そのうち片足ずつ上り下り。。そうこうしてた一か月後、次第に回復して膝も曲がり、腫れも引いて完治した。万歳だった!!第九の練習が8月末からあったので、かなり休んだが、10月には練習に通えて本番は今年も元気に歌った。そうこうしてるうちに12月暮れになり、東京在住の弟から帰省願いのメールがあった。母も大分回復してきたし、そのつもりで家族連れなら二泊程度にと伝えた。それなのにだ!母は今度は尻餅を激しくついて、とんでもなく痛がり、夜中にうなって騒ぐほど大変になった。今度は母を整形外科に通わせる羽目になった。骨粗しょう症である。血液検査の結果はカルシウムが尿と一緒にかなり出てしまってる数値で、骨密度もかなりカスカスの骨で、転んだら最後寝たきりになると言われた。肩に骨を丈夫にする注射を週に一度12回と、腕に痛み止めの静脈注射とを、今年の三月まで続けることになった。弟にそれを伝え急遽帰省キャンセルを願い出たら、家族連れではなく自分一人だけいいか?と言う。ああ、やっぱりそう来たか!って思ったけど、弟と父と二人でご飯支度するならと言う条件で母は良しとした。そして、年明けの1月17日に弟は帰省した。ところが、これも又、弟の甘さだった。弟は仕事で疲れて休みたいから一週間くらい休むつもりだと言った。しかし、先日免許更新してもうじき92歳になる父の運転で、弟と父と二人で二日に一度買い物に行き、料理や片づけは大変だったらしい。私だって我が息子が今年転職し夜勤などのシフト制なので弟になどかまっていられないのだ。少しだけ料理を手伝ってあげたけど・・・我弟は映画の美術関係で先日数々の賞をもらったと喜んで、社会的には認められている仕事をしているけど、個人的家庭的にはかなり常識のないガキとしか言いようがない人間である。今回は、親の生活を目のあたりにできる「百聞は一見に如かず」のいい機会だと思った。弟の滞在期間は一週間という長いものだった。最後の日の夕方、父と弟の激しい諍いがあった。つまらぬ理由だと私には思われた。年寄りで気ままな生活をしてればよくある食べ物に対する父の態度がみっともなく感じた弟が父を毛嫌いして「さもしい」と言う言葉を使って侮辱した。父は夜も眠れないほど悔しかったらしく、次の日の朝に弟に親子の縁を切るとまで言ったらしい。普段年寄りと暮らしてない弟は一週間の間両親の態度をずっと観察して、失望したらしいのだ。私のように免疫ができてないのと、親と住んでない自由気ままな核家族生活をしてるからわからないのだろう。自分を褒めてもらいたい、認めてもらいたいというところが親子でお互いに同じでぶつかるようになってきたのだ。私は最後の日夜遅くまで弟と酒を飲みながらいろんな話をした。幼い頃からの思い出話から経験談、人生論、いろいろね。姉の私のほうが弟より先に生まれているので私のほうが記憶が多いもの、かなうわけないだろ。弟は「もう限界だ」と言い、父も母に同じことを言ったらしい。我慢の限界ってことらしい。弟は実に24日まで丸一週間滞在した。そして「もう来ない」と言ったはずが、私には「次は夏に家族で来る、多分ホテル泊まりになるだろう」などと言って夫に駅まで送られて帰った。❝実家というものはいつまでも自分が羽を休めに来るところではないのだよ❞と弟に理解させることができた貴重な一週間だった。。さて、私はと言えば、年明け早々スマホを購入した。第九演奏会で写真を撮ったものの相手がスマホで私がデジカメなので写真の送り合いに困ったのが購入のきっかけ。今では、スマホ教室も利用したりでLINEもできるようになって、毎日楽しんでいる。2026年まででガラケイが終わるとなると歳取ってから新しいことを覚えるよりは今のうちって感じ。今はLINEの相手は友達一人と息子と弟くらいだけど、距離感が近くなっていいかもしれない。幼稚な弟が年相応になってくれることを祈っている。
2020.02.17
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最近やっと冷房が欲しい季節になってきた。知らないうちに静かに夏はやってきたようだ。夕方外に出るとねぶた囃子の練習が聴こえるようにもなってきた。私は毎日の生活に追われ、風邪をひいたり、虫刺されで昨日まで大変だった。そうしているうちに毎日出来事は増えていくものだ。書く気持ちはあっても書かずにいるうちに書くことが増えすぎてしまい、ついに又しても長い文章になってしまったなあ。。母の病気療養は未だに続いている。3月に「耳性帯状疱疹」を発病して以来私は今までずっと病院の付き添いとお風呂の介助。ただあいかわらず左目が四六時中見開いたままなので涙が鼻から出てきて困ると言い、人前ではマスクが欠かせないみたいだ。だから髪の毛が一人で洗えない、両耳聴力がほとんどないので医者と話すのは私の役目、夫が車の運転専門で一緒に付き添う感じだ。でも、最近は母はやっと父の運転する車に乗って近くのスーパーになら食事の買い物にも週に一度は行けるようになるほど体力が付いてきた。家の中は特別養護老人ホームみたいな感じかな?7月の半ば、久々に県立病院の耳鼻科と神経内科に行った。耳鼻科の方の薬がちょうど切れた頃にと予約していたのだ。医者はいつも若い医者で、今回の医者も又違う医者だったが、今はパソコン画面診察経過を確認できるので話は簡単に済む。医者は「これ以上はよくならないよ」と単刀直入にまず一言。麻痺の残った母の顔は前回のブログ通りだが、それでも味噌汁はレンゲで飲んで、コップに入った飲み物はストローで飲む要領を得て、顔面マッサージも手で適当に毎日やっているようだ。医者は「もうこれ以上よくならないから薬は今日からもう出さない」と言った。そこで私も前から聞きたかったのではっきり言った。「補聴器を前からつけてやりたいと思っていて、人から聞いたら障害認定を受けると安く作れるそうですね。どうしたらいのですか?」と。そしたら医者は一瞬考えこんで「う~ん、神経内科にも通っていたからね・・結構面倒なんですよ。まず他の病気の治療を受けてないことと聴力測定を最低3回は受けてもらってそれで片耳か両耳かがどれくらいの障害の判定になるか決めてあてはまれば書類を書くことができる」と言う。私は「最低3回ならまず今日やっていただいて、あと1か月に1回の割合で来て検査すればいいわけですか?」と聞いた。そしたら「ああ月一で来れますか?ではまず今日も検査しましょう」ってなって検査の結果は「うん、微妙ですね。でも、このままあと2回検査したら10月にはすぐ書類作れます。では、そういう方向で行きましょう。確かに結構金額的には大きな補助になりますからね」と言われた。ブロ友さんから前回コメントいただいていたので障害認定の話を切り出してよかったとつくづく感謝。そのことを家に帰って父に報告。そして母には風呂の時に「もうそろそろ東京の弟たちが子供が夏休みだから家族で遊びに来たいって私にメール来そうな気がするよ。どうするの?断るにしても私からメールすると、さも私が拒否を操ってるように思われそうで嫌だから父さんから手紙書いてもらってよ」って言った。母としては時間も関係なくゆっくりあちこちの部屋を好きなように使って気楽に休みたいとのことだったから。そうした何日かしたある日、リビングのテーブルの上に1枚の母の直筆の手紙があった。❝あれ?これもしかして母はこの手紙を出すつもりなのかな?❞って思ったので私も目を通した。弟あてに母がどんな帰省断り文章を書くのか興味があったのだ。まずは、弟は今年の3月(ちょうど母が発病して苦しんでいた頃)に自分の3度目の絵の個展を開いたことの成功へのおめでとうのことば、そして4月の弟の一人息子が中学進学(特別支援学級)したことへのおめでとうと制服姿のほめことば、そして自分は目が悪くて痛いのでうまく書けない、何しろ痛い、父さんも歳なので無理はできなくなったし、今度会えるのは正月になることでしょう」って締めくくっていた。私はああ、俳句が趣味の母らしい文章だなと思った。私が「正月だってわからないじゃない」って突っ込むと「いくらなんでもそこまでは今から言えない」と言う。芸術家の弟が傷つかないようにうまく伝えたものだ。もし私が書いたなら単刀直入にまず母の病状の変化を時系列できちんと伝え、それにどんな対処を家族でどの様にしてきたかを伝え、だからとても夏休みにはあなた方を受け入れる余裕がないとはっきり書いてしまうことだろう。そうすると、以前のように弟はまたショックを受けて傷ついて、私が来させまいとしてると勘違いして被害妄想になり又私に悪態をつくことだろう。ただ私の夫の世話にもなってることは自覚はあるだろうから自分がいかに無力な立場かぐらいは今回の母の病気によって少しはわかったことだろう。しかし、普通は耳の悪い両親と電話できないのはわかっているんだから一度くらい私にメールじゃなく電話ぐらいして「今どんな様子なの?」と聞くのが普通の姉弟じゃないのか?って思うけど・・・弟の意地かプライドか、はたまた私への遠慮か怖いのか?・・・実は、私の夫の兄が今月の3日に膀胱ガンで突然亡くなった。ある日の夜突然大阪の夫の姉から電話があって夫に電話を替わったので、ずっと私は気がかりだったところ、先日水ナスの漬物を送ってくれたのでお礼がてら私が今度は義姉に電話して詳しくそのことを聞いた。突然死と言うよりは執筆が趣味の夫の兄は以前からガンと診断されつつも病院を拒むあまり余命1か月になるまでほおっておいて膀胱炎から膀胱ガンになって、いつの間にか胃にまで転移していて手の施しようがないので奥さんが義兄を自宅介護していたそうだ。しかも奥さんは「誰にも自分の病状は絶対に言うな」と口止めされていたそうだし、お悔やみの金品は一切断ると言う遺言だったと言う。そのうち奥さんは介護疲れがひどくなり入院することになり、そこで奥さんは次男に連絡して強情な父親を次男に説得してもらって自分と同じ病院に入院させ、まもなく義兄は亡くなったそうで、今は奥さんは自分の独身の姉妹と同じマンションにいて寂しくはないそうだ。他いろいろ私は夫の姉とその日はたくさん話したが、いつも気さくに自然に話せる関係になっている。しかし、夫の方とは真逆に私は実の弟やその嫁さんと直に電話したことや、向こうからもかかってきたことが今まで一度もない。あの二人は芸能の仕事と障害の一人息子のことで手一杯、三人家族のせいで絆も強く、地方に住む専業主婦の地味な私をバカにして、母の病気について考えたり動いたりしている私や家族たちの大変な姿など想像もつかないのだ。怒るときだけ怒ってね・・・身勝手な奴ら。。。そんな弟の作品がこんな展覧会で入選したってハガキだけはきた。ドローイングって細かい鉛筆画の世界で、弟の作品は7番。弟の個展の中の1枚の絵が入選したらしい。(皮肉にも今年3月の母の発病時に開いた個展だ)いつもは映画の美術を手掛けている弟で、昔はホラー映画作品他数々を手掛けて、最近は「図書館戦争」他今年公開の「キングダム」のアニメ実写版も手掛けヒット、このように仕事が順調で最近は天狗になりすぎている気さえして、どんどん姉弟の格差は開いてきている。。この展覧会の入選のモデルの亀は我が家で飼っている亀4匹の中の1匹でクサガメの「シノブ」君だ。亀の背中に乗っているのはしっぽが長くついているこの世にいないカエル。弟の作品は今までの個展作品全部が自分の家族がテーマで子供の障害から生まれたものだと言っていた。知らない人から見たら幻想的と言い、私はそれを知っているので暗い気持ちになるのだ・・・↓弟の個展の作品は絵本のように小冊子にしてあり、こうして1枚ずつに童話のようなわけのわからない文章が書かれている。そして、弟の嫁は声優でこのドラマ(日曜日のNHK BS3の21時からの放送)の王妃パク妃の役を演じている。これは彼女のTwitterで知った。彼女が女優で芸名で出してるので家族の私にはすぐわかるし、子供の顔も目を隠して出していてすぐ私の甥とわかる。母に話したら「どうしてそういうのを出すのだろう?」と難色ぎみに言うので「多分ファンサービスでしょうけど芸能人が私的なことを出すと家族も見てるのにね」と答えた。弟も嫁もこうだ。芸能人と一般人の壁。親族ならではの苦悩は今後も深まるであろう。ドラマの話になるが、王の前妻である王妃の子を殺して後妻である自分の子を跡取りにしようとしている怖い王妃役。彼女の声は日常と違いドラマの吹き替えの声は低く渋くて、声だけ聴くと彼女とはわからない、なるほどのイメージ作り、口の動きも日本語と韓国語なのに合っている、プロだわ、なるほど。。私は韓国ドラマが好きなので見てみることにしよう。私は亀を飼っていて、その中の一番年老いた(飼って25年、最初から大きかったので30歳以上だろう)クサガメのハルカ(♀)の甲羅の一部が傷ついて中から白い汁が出てきたのが3日ほど前から。!部分のとこだけど、全体に甲羅がボロボロで年輪がなくなって碁石のようにツルツルになっているところもある。わかりにくいが、ここから汁が最初たくさん出て消毒液を付けて乾かして今やっとこうなった。でも毎朝洗ってやると又ちょっと汁が出るので、時間がかかりそう。だから今毎日、こういった治療薬を使っている。イソジンは3滴くらいをこのくらいの量の水で薄めて綿棒で塗って、テラコートリル軟膏を塗って日光浴させている。こちらの亀はミドリガメのシノ(♂)この!部分は前足だけど傷が白くなっている。狭い飼育ケースなので動いてるうちにぶつかってコブになってそれが化膿したせい。以前にも同じようなものが出て何か月か経って膿んできて絞ったら膿が出て日光浴で乾燥し自然治癒した。これも自然治癒すると思う。その他首にもコブがあり、多分中に膿が入っているかもしれないが、時を待つと同じように治ると思っているが。左端の小さいのがクサガメのシノブ(♂)この子は最初の甲羅怪我したハルカと夫婦で、実は先に書いた弟の絵のモデルの亀なのだ。それなのになぜ種類の違うミドリガメのナル(♀)と一緒のケースに入れているか?元々ミドリガメのオスがメスと一緒にさせてた頃頃仲悪くてオスがメスを噛んでケガさせて大変なのでメスを隔離して、結局ケースの数の都合上、種類の違うクサガメの雄とミドリガメの雌が同居するしかなくなったから。しかし、まあ今この状態で種類が違うオスメス同居でも別に喧嘩もなく、特に問題なく一緒にいるからしばらくこうしておこうと思う。さて、我が家の薔薇は春からいろいろな種類が見事に咲いてきれいだった。ネットで購入したものもあり、毎日お手入れに余念がない。一季咲きの物もあり、今は咲き終わったものもあるが、アップしておこう。サマースノー(清楚な白のつる薔薇)ラッキー(見事なピンクの房咲き)フリューヒリングスドゥフト(ピンクとクリームの混じった優しい色)ピエール・ドゥ・ロンサール(咲き始めからどんどん大きくなって真ん中が濃いピンクでまわりがクリーム色できれいで豪華なつる薔薇)ザ・ラーク・アセンディング(アプリコット色のカップ咲きでかわいい)ル・シェル・ブルー(青い空)~ラベンダー色のシュラブローズエターナル(永遠)~紫系の波状房咲き、 バレリーナ~ピンクの一重のつる薔薇 ジャルダン・ドュ・フランス(サーモンピンク)パラディー(赤のつる薔薇)左、 マコン・ルージュ(濃いローズピンク)右ペレニアル・ブルー(外側が紫と中心がピンクのつる薔薇)行燈仕立てにしてますエレガントレディ(クリーム色の周りがピンクの縁取りで昔ながらの薔薇の形!)プリンセス・ドゥ・モナコ(白の縁周りがピンク)ミニ薔薇ポットローズ(ホワイトピーチオベーション)~周りが見事にピーチ色に濃くなっていく寄せ植え
2019.07.29
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この頃の私の生活、いかにも主婦にどっぷりとつかっていると言っていいと思う。社会性が薄い家族中心の生活といったらいいかな?さて、私の母の病状を前回のブログに書いたが、その後は症状が固まってきたと言う感じではある。つまり、これ以上悪くはならないがよくもならないと言う感じだ。週に二回昼にお風呂を沸かして私が母を入れる習慣はずっと続いている。家の中ではこの頃は足腰がしっかりしてきたみたいで湯舟に入れるのは何も問題なく一人で入れるのだが、目が不自由になってしまったので私が髪を洗ってあげなくてはならないのでしょうがない。目をタオルで塞いでもらって私がシャンプーしてあげて、その後で髪を乾かすのも美容師さながらにブローしてあげている。母の病気は「耳性帯状疱疹(ラムゼイ・ハント症候群)」が正式名称の病気であるが、病気の後遺症が残ってしまったことに問題が今出てきているのだ。「異常共同運動」と言って、目を開いたり閉じたるすると口が一緒に動く、口を尖らすと目も一緒に閉じる、食べ物を食べると唾液と同時に涙も出てくると言う症状が起きる。つまりこういう顏になる。↓今は母の左顔面はこのように麻痺している。閉じないほうの目は、寝ている間も閉じず開いたままなので乾いてしまい涙が出なくて目が痛くなり、角膜に傷がつきやすくなりバイ菌が入りやすくなってしまうという具合だ。先日も県立病院に行ってきたが、神経内科では目薬(涙液)を処方されただけで、耳鼻科の神経の飲み薬は7月分まであるので飲み続けてはいるが、本人が言うには「目が痛くてしょうがない」と言う。そこで眼科に再び連れて行った。そこで調べても視力や眼底検査や角膜など異常なしで、ラムゼイ・ハントにしては軽いほうだと言われた。でも痛がるのでと言うと、寝るときに目を隠して寝なさいというわけで、眼帯だと中の隙間で瞼が勝手に開いたままなので、「メパッチ」という目に貼る病後のシールを紹介された。しかし、そのシールはなぜか県立病院の売店にしかないと言われ、あとはなんとネット通販のアマゾンで買えると言うのである。そこで家に帰ってパソコンからアマゾンで注文して今使わせている。使用感を聞くと、母に言わせるとどうやっても痛いんだそうだ。そして昼は結局開いたままの左目は涙が勝手に出てきて鼻水もついでに出ると言う。そこで昼も常に「メパッチ」を小さく切って端に気休めに少し貼っているというわけだ。これがそのシール↓こういう感じの母の今の状態だ。食べるときも物がこぼれやすく、発音もはっきりしなく、耳の病気からいってるせいで聴力はかなり悪いのでいずれ補聴器が必要かと思う。内科にも血圧の薬をもらうためについていってるが、なんたって耳が悪いと自分の声が聞こえないのか私に話しかける母の声はやたら大きくて「あまり大きく話さないで」と小声で言ってもらちが明かずしょうがないなと思う。そして家の中ではスリッパで平気で歩けるのに外出時には必ず私につかまらないとフラフラするという。我が家は父がしっかりしてるせいで、91歳の高齢でも車を運転して母に頼まれた買い物を器用にしてきて、父は自分の食べたいものは自分で料理もする。なんたって獣医と言えども医学の知識のある人間なので関心や努力具合が並みの爺さんとは違うのである。趣味は庭でナス、キュウリ、トマトの苗を買ってきて今年もたくさん栽培し始め、袋掛けたりネットをやったり・・・すごいのなんの!さて、私自身の私生活。私の昨年の野良猫被害の悩みからついに今年になった。野良猫除けセンサーをつけて早1年近くになるが、さすがにパッタリと我が家には野良猫は来なくなったのである。そして、向かいの猫屋敷の恐ろしい夫婦とも顔を合わせることを極力避けることを決意した私は次男にゴミ捨てを昨年のトラブル以来ずっとやってもらっているが、次男は最近は私が忘れているときは「明日のゴミは何?」と聞いてくるほどになり、夜遅くか朝早く起きて捨ててくれるという有難さだ。さらに令和元年の今年は、持ち回りの町内組長は我が家が当番なのだ。主に今年度の町内会費、赤十字費、交通安全災害保険の徴収が仕事で、大抵のお宅は今までは奥様がやってる家庭が多かった。でも、このような近所トラブルを抱えて向かいのお宅から非常なる侮辱人格否定発言までうけてしまった私としては絶対にやりたくない。そこでどうせ退職して暇な夫であるし、昨年からトラブルについてはきちんと説明もして納得してもらっているので世帯主の夫にやってもらうことにして、先日集金が終わったところでまずよかった。夫がもし役員など嫌だと言ったら、私は「それならこの近所トラブルを全部町内会長に暴露して私は町内から脱会し回覧板もいらない、ただゴミ捨て場利用代として町内会費だけは支払いに行く、それでもいいか?!」となかば強制的に圧力を夫にかけたら、争いごとが嫌いな外面の良い夫(ただし私にはやさしいことばはないが)は嫌とは言わなかったので結局やってくれることを承諾してくれ私は感謝している。実は私は今年は数年振りに面倒がる夫を説得して二人で日曜日の午前に側溝の敷板を上げて泥掃除をしたのだ。「まずは自分のところをきれいにしよう。そうでなければ人のことは言えないからね」って。きっと向かいは窓の隙間から見ていたに違いない。私は懸命に草も綺麗に取ったし、毎日せっせと掃き掃除もしている。猫被害のあった玄関前の花壇のレンガもタワシをかけて緑の汚い苔を水洗いして丁寧に落とし、植木も綺麗に剪定した。これほど大切にしている人様の家に分別なく与えた餌を食べた猫がどれだけ汚い糞尿をして迷惑かけたのか思い知って欲しかった。その猫屋敷の向かいの奥さんとは今でもむろん無言のままもちろん顔も合わせない関係だが、彼女は以前は平気で自分の玄関ドアから我が家の方に汚い水をまき散らしていたがキッパリと辞めたのは不思議なくらいだった。そしてその向かいの奥さんは昨年は負け惜しみで「猫のウンチは何も汚くない、あんたの花の花びらも散るし花粉症になったらその一杯並べている花全部どけてくださいます?」とまで言ったのに、なんと自分の家の玄関の片隅に今まで一度も置いたことのない人がニチニチソウの赤とピンクの小さいけどかわいい寄せ植えの鉢が置いてあったのには驚いた。❝あら~いいじゃん❞って正直このヤンキー奥さんが普通の優しさ持ってる部分を見てホッとした。当然この家にも夫が集金に行ったんだわさ。。どう思ったのかしら?さてさて、もうひとつ、我が家の次男の就活騒ぎも至難の日々だった。2月で長年勤め突然やめた非正規雇用の会社だったが、その後順調とはいかず、ハローワークを通したものもグレー、ブラック企業の連続で・・・しかし、今現在一応試用期間中ではあるが正社員の道を歩み始めている。ただ市内ではなく、車で1時間ほどかかる会社で早番や遅番などあるらしい、朝は当然6時半には出勤。かわいそうなので私もちょっと早く起きて簡単におにぎりを作って持たせてやっている。さて、いつまで続くか・・・でも、いろんな経験積んできて確かにしっかりしてきたようだ。見守って応援していきたい。私自身のことは家族の幸せと協力で成り立っているので体さえ丈夫ならなんとかなるさ。今我が家の庭に咲いているツツジを二階の窓から夕方に写した写真。この同じ庭にこれから父が植えたナスやトマトやキュウリが並ぶと言う実にユニークでセンスのない庭だけどね(^_-)-☆
2019.05.29
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しばらくぶりのブログだ。私の頭はいろいろな出来事と思考で今までとは違った経験をしたことでグルグルとずっと落ち着かなかったし、今もそうだ。人のブログを読むことも最近は全くと言っていいほどなく、TwitterやFacebookでは時折なにかしらつぶやいていた。私の母が3月に入って大変な病気になった。その病名がわかるまでと治療までの経過が大変で自分の体が自分の体ではなくなっていく感覚さえもしていた。3月1日の午後のことだった。父が不安そうに二階に上がってきて「母さんの帰りが遅い、歯医者に行ったけど電話してみてくれないか?」と言う。父は何年も前から耳が遠く電話は苦手なので私は電話してみた。そしたら病院は出たと言うが、歯医者の先生は母も耳が遠いので本人に手紙を持たせたと言う。その内容まで電話で聞いたところ歯の痛みと本人は言うが、自分の見立てでは三叉神経痛であると思うが、ステロイド系の薬は大変強いので危険なのでこちらでは出さないので専門で診てもらってと言われた。その後、間もなく本人は帰ってきた。が、なんとなく耳が聞こえないような、額が赤いような気がした。手紙を見たらなるほど電話通りのことが書いてあった。その日は金曜日だったので様子見。3月4日(月)になってから母の行きつけの内科へ父が運転して母を連れて行った。そしたら風邪だろうということで風邪薬を5日分もらって血液検査をして様子見だった。母はその間も耳が痛い、ふらつく、とずいぶんと苦痛を訴えていた。3月8日(金)風邪薬が切れたので今度は私が初めて付き添って父の運転で同じ内科へ行った。そこで母の症状が前よりひどくなったので神経専門がいいと言われ紹介状を書いてもらって県立病院の脳神経内科へそのまま行った。そこで頭部CT、採血をしたが、異常はなかった。しかし、母は耳が全く聞こえなくなっていて、声も出にくく水もうまく飲めない、ふらついて歩くこともままならなくなっていたので車椅子で病院中移動の日だった。脳神経内科の医者は三叉神経痛に効く薬はあるが、強すぎる薬で高齢の母には危険なので耳が聞こえないならまずは耳鼻科へ行ってくださいと言った。しかし、あいにくその日は県病の受診時間を過ぎていたので近くの耳鼻科でもいいから早く診てもらうように言われ紹介状を持ってその足ですぐに私の行きつけの耳鼻科で連れて行った。そこの耳鼻科で言われたのがなんと「耳のヘルペス」だろうであった。母の麻痺側の耳の中にかさぶたができていたのだ。おそらく内耳がヘルペスに侵されて湿疹がつぶれたあとだったのだろう。母の左の耳はヘルペスに侵されていたことがやっとわかったのだ。右の耳にも耳垢がたくさんたまっていて取ってもらったが、余計聞こえなくなっていたようだった。しかし、この病院では聴力を測っただけで薬は敢えて出さなかった。県病に又行くことになるであろうから強い薬を自分で処方するにはためらわれたのであろう。又県病への報告紹介状を持たされた。実に一日に三つ病院に行ったのに・・・3月9日(土)母は血圧の薬が切れていたのに気付いて騒ぎ、再び内科へ行ったがここでも経過報告のみでいつもの血圧の薬をもらっただけ。3月11日(月)になり、再び県病へ。まずは脳神経内科へ行ったが、ここで近くの耳鼻科の紹介状を見せるとようやく薬が処方された。母は37キロしかないほどやせ細っている小さい体で87歳なので薬の量を通常よりも抑え気味にウイルスを抑えるステロイド系の薬を7日分と他の薬を3日ごとに3錠、2錠、2錠へと数を減らしていく飲み方で7日分。そして、そのまま同じ県病内の耳鼻科で受診。聴力は両耳ともほとんど聞こえないほど低レベルではあったが鼓膜は異常なしだった。3月18日(月)1週間経って神経内科の薬が切れた頃、先に県病耳鼻科へ行った。そこでは顏に電流を流しての筋肉検査をしたが、グラフ上では麻痺のある左顔面がやはり悪いようだった。この耳性ヘルペスは大変怖い病気で顔面に一生麻痺が残るとのことだった。治すためには発病してから1か月以内に手術という方法があるらしい。神経が変性してしまう前に行わなければならない手術だそうで急がなければ意味がないらしい。しかし、それはかなり危険な手術だと思った。ちょっとでも他の神経を傷つければ障害が残ることは間違いないのだ。脳神経に近い耳の奥の骨の内側を削って神経の圧迫を取り除く手術だそうだが、全身麻酔で4時間ほどの大手術で大学病院でなければできない、母のような高齢者には命にかかわるから危険だと言われ絶対にやめたほうがいいと言われたし、多分向こうも引き受けないだろうと言われた。結局、一か月に一回耳鼻科に来てもらい、半年くらい薬を飲み続けるように言われ、神経のための薬を処方され、顔面マッサージをするように教わり、念のためにと脳のMRI検査を4月初めに予約した。そして今度はそのあとそのまま同じ県病内の神経内科へ。そこで、目薬と前回の薬を3日分今度は1錠に減らしてもらったが、やはり母は高齢だから手術はしないほうがいい、だけど麻痺は残るよと言われた。母は耳が聞こえないのでボオーと目を見開いていた。この病気は顔面麻痺の方の瞼が閉じなくなってしまうため人工涙液の目薬が必須らしい。そして、再び院内の耳鼻科へ戻って予約のMRI検査の注意説明を受けた。そこで聞いたのが母が以前(とは言っても昭和36年)に脳腫瘍の手術を受けたことがあり、その時の金属でホッチキス留めしているのがCTでわかっていたので今のMRIの性能の良い3テスラーの機械では磁気が強すぎて頭が焼けてしまうということらしく従来の1.5テスラーの古い機械で撮ることになった。その間行きつけの内科にも行ったが、物を飲み込みにくい、目が痛い、耳が痛い、ふらつく、寝汗をかく、口の中が痛い、味がわからない・・・母は私につかまってよろよろしながら歩かなければならず、病院では私は通訳のような役目であった。4月2日(火)MRI検査をした。そのあと耳鼻科で診察の結果、異常はなかったのでホッといた。その後院内の耳鼻科へ行き、3か月分薬をまとめてもらった。その二日後の4月4日(木)に今度は神経内科へ行ったが、この日初めて車椅子を使わず支えて歩かせることができたが足取りはおぼつかなく私につかまって歩いていた。目薬を連休明けまでの分とたっぷり出してくれたが、本人が目の痛みを訴える。私は目専門ではないのでと言われ、院内の眼科には行く余裕がなかったので、ついでに母が以前に白内障と緑内障の手術をした眼科へそのまま連れて行った。眼底検査等悪くなかったが、軟膏も乾かないためには必要と言われもらった。しかし、この軟膏のせいで家族騒動が・・・(*_ _)母が勝手に加減しらずにたっぷりつけすぎて目がぼやけて腫れたのだ。ほんの少しだけの意味がわかっていなく、母に2人で注意したら若い頃は大人しかった母が最近は癇癪を起して猛反発で頑固に言い訳をして半泣きする。すると亭主関白だった父は最近は「わ(自分)の言うことを何もきかない」と言って困り果てて私に助けを求めに来ることが多くなった。眼帯のガーゼが黄色まみれで驚いてしまい、ベビー綿棒で少量ならいいかと父にやらせたがやはり腫れるようなのでやめさせた。それなのに父がベビー綿棒がおもしろいのかつけたがり結局私に「腫れてしまった」と不安気に言いに来て「やめなさいって言ったでしょ!」と今度は私が父を怒る羽目に・・ヤレヤレ疲れた・・・"(-""-)"最近・・・私は週に二回は母の為に昼に風呂を沸かして母の背中を流してあげて、髪を洗って乾かしてあげている。母はほとんどの時間、横になったりして休んでるが、ご飯支度と洗濯はしている。父は母が書いた買い物のメモを持ってスーパーへ車で買い出しに行っている。病院へは私の夫が運転して私が付き添い。父は満91歳なのにまだ運転している。昨今の事件を思うと心配だ。実際病気の母を助手席に私が後部座席に座っていた時、雨の日だったが窓の閉め忘れに気を取られすっかりパニックになって運転に集中できなくなって後ろの車からクラクションを鳴らされたときはヒヤッとした。私は後部座席から「危ない!窓なんかいいから運転に集中して!」と父に怒鳴り事なきを得た。それ以来病院には夫の運転と決めた。母は先日米寿を迎えた。左顔面麻痺で左目見開きのまま口も右に曲がって発音もはっきりしなくなって顔が変わってしまった。本人の早めの病気の自覚訴えと周りの判断、そして何よりも本人が病院に素直に連れて行くと言ったら行くと言う姿勢が大事だと思う。母は俳句が趣味のせいで前傾姿勢が多く、本を読んで夢中で目や耳が悪いことに対して私から見れば真剣味がないように思われていた。それを言うと母は父と私に烈火のごとく怒り狂うのである。母にとっては顏よりも大事なのは俳句の世界らしく、それができないのが一番辛いらしい。もっと早く病院に行ってればもっと早く薬を飲んでいれば・・・と思うのであるが、これが母の人生らしい。父の先日の大腸内視鏡検査結果もポリープありと言えども取らなくてよいものだそうでまずます。それにしても夫婦で88、91で健在で家にいるなど幸せな夫婦だ。「これも娘夫婦と同居なればこそ、あんたの歳で夫が生きているなど幸せ者だ」と母に言うと「本当だ」としんみりと言うのである。。
2019.04.27
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世の中、薄毛に悩む男性が多いことと思う。我が家の二人の息子も実はそう。年齢は長男が満33歳、次男が満31歳。実際に薄毛が始まったのは実は20代半ばから。これは長男だが、俗に言うM字禿げで、「あんた剃り入れたでしょ?」って言ったことがあるが、「いや、これだんだん知らないうちに勝手に深くなったんだ、剃ってないよ」と言われ、当時びっくりしたものだった。実はこういう禿げ方もあるのであり、目立たないようにこの子はこの長さを守ってヘアスタイルとしている。何でも床屋には二週間に一度行くと言うくらいマメに行かないとこの長さは保てないのだそうだ。まあ、理知的な禿だし、なんとなく拝みたくなるような風貌なので、眼鏡とマッチしてこれはこれで個性として「まあいっか!」って感じで、本人もこの髪型を維持して満足してるみたいなのでこれはよしとしよう。さて次男がこちら。証拠写真はかわいそうなのでないのだが、実は昨年の夏頃までは真ん中が禿げるいわゆる「河童禿げ」であった。私が思うには、多分自転車で毎日帽子を被って通勤していたために夏場の暑い日は汗をかいて蒸れたのだと思う。おまけに食品関係の職場で帽子を被るとなると頭は常に風通しが悪かったのでないかと思う。これではかわいそうだと思い、私が使用している育毛剤を何年か使用させたがほとんど効果が感じられなかった。そしたら昨年の夏のある日に、思い切って床屋でこのように坊主にしてきたのだ。この状態だと河童は目立たなくなった。しかも、一回坊主にしたらいい髪が生えてくると思ったらしい。が、なんとなく昔の中学生みたいに見え、本人も「ああ、俺は坊主が似合わない」と悲し気な顏してたっけなあ~(*_ _)その後、次男はなんと免許取得以来ペーパードライバーだったのに10年ぶりに急に車を運転するようになり、自転車乗りをやめたので、帽子で頭が蒸れることがなくなった。髪は知らないうちに伸びてきたのだが、「あれあれ??前と違って河童禿げじゃなくなったぞ!」って私は正直頭をひねっていた。我が家の父までも正月に次男の髪を見て「髪の毛生えてきたんじゃないか?」と次男に言うではないか!!確かに!!そこで私は次男に秘策を聞いた。そしたら、なんと単にシャンプーを変えただけと判明した。しかも決して高いシャンプーではないし、ドラッグストアで買える品物だった。さて、では次男のお勧めの効果のあったシャンプーを紹介しよう。以下の写真の物である。「アミノメイソン」という商品でドラッグストアで1,500円くらいのもので決してそんなに高価ではない。なんでも成分が「スーパーアミノ酸配合」が入っているというのがいいそうだ。そこで、逆にダメな商品としては以下の商品。営業妨害みたいで申し訳ないが一応成分として紹介する。 上の写真の「毛髪力」というシャンプーの成分を見ると、写真がボケてしまって申し訳ないが、その他の成分に「ラウレス硫酸」と書いてある。これが非常にだめなんだそうで、大抵のシャンプーにこれが入っているんだそうだ。下の写真は「プレリアップ」のコンディショナーだけど、次男はこのシャンプーの方もその後ずっと使っていたんだそうだが、これにも「ラウレス硫酸」という成分が入っていたのでやめたそうだ。さらにヘアコンディショナーというのは使わないほうが良いそうだ。なんでも頭皮そのものに余計な成分を与えてしまうことになり、増毛のためにはならないらしい。そこで、途中で気付いたので次男は今はシャンプーのみでこのヘアコンディショナーは途中でやめてしまって今は全くすべてのリンス系は使うのをやめ、シャンプーのみ。そしてシャンプー後は必ずドライヤーで乾かすことは必要。さらに、今は育毛養毛剤は一切使用していないとのこと。でも、睡眠は午後10時から午前2時までの間にとることによってホルモンの分泌や疲労回復が高まるそうなのでそれも意識しているらしい。さて、母親の私も年齢的にだんだん髪の毛が細くなり、頭頂部が気になる年頃になってきた。あれほどフサフサとたくさんあった髪の毛がね~でも、何年か前から私なりに意識してたら回復してきた気がする。それはシャンプーをふっくらするタイプのものにしてみるとか、育毛剤でマッサージ、コラーゲンサプリを飲むとか。でも全身運動で全体の血行をよくすることが一番大事な気がしてきたのはジム通いの実感だ。あとはストレスをためないで、きちんと睡眠を取ることが本当に大事だと思っている。
2019.01.08
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あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。さて、今年もまた恒例で昨年の30 日に行きつけの花屋さんで花材を悩んで生けた。今年は我夫が亥年で歳男になるのでめでたいので、実は華やかにしなければと思い、花屋で花を選んだ。一番先に目についたのはオレンジ色の鮮やかなラナンキュラスという薔薇のような花だったのだけど、なんとなく、私の心がその鮮やかさにそぐわなかった。そしたら見て心が落ち着いたのはピンクのシンビジュームだったので気持ちを急遽変えこれを中心にした。そしてそれに合わせるように、決まっていった花たち。ピンクのやさしさを生かすように柔らかな曲線を描きながらも明るさのある黄色のオンシジュウム。後ろに緑の松、オレンジはかわいらしさを添える程度に提灯型をしているサンダーソニア。真ん中に白の清楚なフリージア。そして手前には今まで使ったことのない豪華な緑の白い班入りの大きなアジサイで存在感を。最後に赤い実が正月らしく引き締め役の千両で根元を隠した。かくして私の今年の正月花は、「おしとやかで清楚で落ち着いたやさしさ」がテーマとなったのだった。今年の正月の参拝は珍しく元旦となった。長男が31日の夜遅くに帰省して2日にはもう帰ると言うのでそうなった。仕事が忙しいのでしょうがないが、まあ順調に頑張っているのでそれは安心した。曇っていて、昨年の青空とは全く違っていたが吹雪いていなかっただけまあまあだと言える。おみくじは今年は私は「吉」だった。でも、これくらいがちょうどいいと思った。なぜなら昨年は私だけが「大吉」で大喜びしたのに、ブログに書いたようないろいろなトラブルがあったためにこれほどおみくじがあてにならないとは思わなかったので、むしろ「大凶」が出ることを祈ったくらいだったから・・・そして家族にいろんなお守りも買った。三つも買ったのは夫と父の兼用の車用、長男の車用、次男の車用。そして、他は一つは母に、あとは私に携帯と財布用と。私はこのご時世に未だにまだガラケイだ。それで今回は赤いダルマのお守りにした。実は昨年は猫のかわいいお守りをつけたのだけど、なんとそのせいかどうなのか知らないが、昨年のブログに書いたように野良猫騒動で近所関係最悪の一年だったので、今では猫の写真もグッズも当分見たくないほどの気分アレルギーになってしまった。さて、我が息子たちが珍しく揃ったので家族写真を撮ろうと父が愛用のフィルムカメラで撮ろうとしたらなんか調子が悪いようで、今回久々に私のデジカメで撮った。今年父は91歳になるし、母は88歳になる、我が息子たちも今年34歳、32歳になってしまうのだなあ。今年の正月は長男以外の客人はいなかったのですごく静かな正月で健康に過ごせてよかった。昨年の正月は弟家族が帰省して、母が疲れてしまい、そのせいで思わぬ骨折をしてしまった母はほぼ半年医者通いをしながら苦しんだ日々だったので、こうして健康になってくれてほっとしている。ただ、昨年12月10日頃から弟が単身帰省して3泊していったのには本当にまいった。私は9日に第九演奏会を終えて今年の締めくくりを気持ちよく終えたかったのだが、弟のために滅茶苦茶な気分にされてしまって、しばらく沈んだ気持ちのままだったから。。。「負の連鎖」というタイトルで先日書いたブログ内容だったのだが、その弟が玄関先で靴を履き、帰るときに「次帰るとき3月は自分の絵の個展があるから無理だ、いつがいいか考えておく、メールすればいいか?」と私に言ったのにはあきれた。私は「メールって・・私はもうあんたにはメールはしないよ。」そしたら弟は「じゃ、どうすれば連絡できる?だって耳が悪いから年寄りは聞こえないでしょ。」だそうだ。私は「私の固定電話知ってるでしょ」って言ったら弟は困った顔を一瞬した。いつもは見送りに玄関外に出るのだが、今回は私は出なかった。そして、私はその日のうちに私のガラケイの弟からの電話やメールの着信拒否設定をした。私は弟と両親の間の体のいい「伝書鳩」ではない。そして、弟が自分の友達にいかに私が意地悪な姉かどれだけ自分が不幸かを、私を「関所」のように私の許可をとらなければ帰れないと言って同情をかい、友達が「それほど自分の実家が泊まりづらいなら自分の家に泊めてやるよ」と言ったのを真に受けているバカ者だ。「私の許可など取らなくていいよ」と言っておいた。両親にじかに電話したり、手紙書いたりすればいいだろう。大体、二世帯で一緒に住んでる私に「なんであんたがここに住んでるんだ、ここは自分の実家だ」と言う人だからね。二世帯で住んでいる人がもしいなかったら両親に何かあっても誰も気が付かなくて大変なことになるだろう、だから施設に入るしかなくなってる年寄りが多いわけなのを弟は全く理解していない。私の大学時代の友達は何年も前から長男の嫁として教師をやめてまで旦那さんの実家に同居しているが、今年の年賀状に「義父母は91歳です。私はどこにも行かれません」と書いてあった。これが現実だし、この友達は残念なことに子供ができない人生だったが、本当によく頑張ってきて旦那さんの御両親を家で診てるなんて偉いなあと感心する。それなのに我弟の年賀状は「今年は5月の連休に家族で帰省しますので、よろしくお願いします!」と両親と私宛に全く同じ文面で同じ年賀状をよこしたのである。まったく、なにが「おれは長男だ、○子さんは長男の嫁だ、実家に帰ってきちゃ悪いのかよ」だ!この私は夫と父と家も家具も固定資産税も全部折半でお金の清算もしており、私は実家も嫁ぎ先も同じだし、私の夫には実家などもうない(夫の姉が亡き両親のあとに住んでるが)、弟夫婦は東京に自分の自宅がしっかりある。(それも我が父の援助金をもらって家がある)まあ、こんな弟だ。私の長男は大変最近はしっかりとした大人になってきて、私のこんな愚痴をよく聞いてくれる。この弟(我が息子にとってはオジサン)の絵を見せたら、「この絵見ればわかるわ。大分きてるな。好きにさせときゃいいだろ。」と言った。「俺の知ってるやつにこんな絵を描くやつがいるけど頭がおかしいよ」とまで言った。まあ、そうかもなと私も思った。弟はもはや精神病の入り口にいるのではないだろうか。。我弟は結婚してから余計変わった。夫婦が同じ芸能人同士というのが何より悪い。お互いに仕事の話で馬が合い、誇大妄想癖が激しくなってしまって、おまけに奥さんが自分でも好きな仕事をしたいために、なんでも弟の言うとおりに逆らわないから余計におかしくなる。そして、極めつけはやはり2人の間の自閉症障害のある子どものコンプレックスだ。今年は今までの続きで中学の特別支援学級に進学だ。その先は?と聞くと思った通り高等養護学校進学、その後は国の施設で職業訓練を受けて職を世話してもらうとなるらしい。私の母は自分の息子である弟が優秀であったがために「どうしてああいう子が産まれたの?○○(自閉症の孫)はいつになったら普通の子になるの?」とずっと悲しそうに嘆いていたのだが、私が「障害は病気じゃないんだよ、初めから部品が足りないところがあるんだよ、これは神様の与えた運命なんだよ」と言っていたんだけど、やっと最近わかってきたようだ。そんな弟でもたまにくると父は退屈な静かな生活に大きな花火が上がったようなカルチャーショックを受けるのであろう。私の夫や息子たちは大人しくお酒も飲まないので、父は弟と共に酒飲みなので刺激の強い話が嬉しいのであろうな。いずれにしても弟には帰る場所があり、私には帰る場所がない。だから年老いた両親と適当にうまくやっていくしかないのだ。先日父が電子辞書を新しく購入して、四苦八苦したのか、珍しく私に神妙に聞いてきたので、我夫と二人で「懇切丁寧」に優しく面倒を見てあげたらとても喜んでいたし、私の息子からのお土産だって本当に喜んで話を聞いてお年玉までくれた。だから、要するに一緒に死ぬまで住むって覚悟を決めた人間は、時には気分悪いことがあっても折り合いをつけながら静かに平和を模索して暮らしていくものなのだ。ああ、こういう心境は弟にわかるはずもなかろう。どんなに世界中で絶賛されるほど立派な仕事をしようとも子供をなんとか大人になるまで育て上げ、両親を最後まで見届けることはそう生易しいものではないと思う。いつになったらまともな大人の会話ができる姉弟となれるのかね・・・そうそう、昨年の近所トラブルで私が精神的にまいってしまい、「朝のゴミ捨てで近所の人に会うのが辛い」と次男にこぼしたら、次男が家のゴミ捨てを前日の夜とか当日の朝早くに私の代わりに捨てに行ってくれるようになった。前は自分のこと以外無関心だった次男が、最近は優しく親切になってきてくれて本当にうれしい。それから年に二度程回ってくる町内のゴミ当番の仕事があるのだが、これも今度は夫が初めて私の代わりに隣の旦那から引き継いでやってくれた。そしてさらに今年は我が家に町内の当番(班長)が回ってくるのだが、これも夫にやってもらう約束をしてある。私は❝近所適応障害❞ということにしておくということで、ここまで近所関係が悪化してしまっては、もはや私はもう何も関わらないで❝奥様❞に徹してしまおうと覚悟を決めたのだ。夫を世帯主として、家のことも近所のことも男として表に立ってやってもらおうと思う。津軽弁のよくわからない関西人の夫の方がかえっていい。津軽の男は血の気が多く言葉が汚く女をバカにする傾向が強い、しかし女同士だと陰険でこれも私は嫌いだ。その点男同士のほうが何かと話が早いので、絶対女は陰に隠れて男が前に出たほうがいいと私は判断したのである。昨年にさかのぼるが、年の暮れにケーブルテレビの市民チャンネルで青森第九の会演奏会が何度も放送されたのだが、我が家はケーブルがないので、DVDを毎年ケーブルテレビ局に注文して購入して、ゆっくり鑑賞することにしている。人が何と言おうが、自分の目や耳で確かめて次回に生かすということは大変重要なことだと私は思っている。この心霊写真のような映像はDVD動画再生中のテレビ画面を撮ったものだが、この人数だ。そしてこの場面は「星空に神様がいる」というところをソプラノがきれいに高い声で静かに歌い上げている神秘的な部分なのだ。まあ、このように大勢の中に混じってソプラノで私も歌った。学生のかわいい姿もあり、毎年新鮮だ。心の浄化のために私は絶対に健康である限り毎年歌い続けようと思っている。昨年の暮れに一ついいことがあった。これは某化粧品会社の懸賞が当たったもの。買えば5,000円はする美容液だ。現在使用中だが、本当にしっとりとしていい感じ!神様が「頑張りなさい、女性は美しさと優しさを忘れてはいけないよ」と言ってくださっているにちがいないわ。。
2019.01.05
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今年の締めくくりの第九演奏会は去る12月9日(日)だった。前日練習は夜早めにホールでゲネプロ。当日は前日からの大雪で当然大雪で、夫に送ってもらう車の窓から雪片付けのスノーダンプを押している人たちを何人も見た。当日は朝10時までに行き、男性の一部はホールの舞台作り、その他有志が打ち上げ会場の設置。そして発声練習をしてホールにて会場で出入りの練習、並び確認と全体練習。毎年やって今年で私は5年目になる。一時はパソコンの仕事やお母さんコーラスと掛け持ちだったこともあった。午前にお母さんコーラス、午後はパソコンの仕事、夜は第九の練習、その他のお母さんコーラスの行事もこなしていたのは2~3年程前のこと。あんなに一生懸命で充実して忙しくてもワクワクと楽しんで生きている実感があった日々は今はもう遠い昔に思える。あの生活がずっと続くのかと思っていたが、日々の中で起きる出来事は自分の考えを疑問に変えていき、なにか無理をしている自分が苦しくなって、一つ、また一つと辞めていき、定期的に所属する団体に窮屈を感じて、ついに第九だけ残ってしまった。8月末に募集のハガキが来て、その発会式の日に顔を出し登録して参加費4か月分で2,000円を払えば、8月末から本番の12月の第二日曜日まで通える。練習はどんな合唱団にどんなに長くいても身に付かないような立派な発声法を声楽家の先生からしっかり学べる。普通は30分で2,500円くらいは取られるのがピアノや声楽の個人レッスンなので、第九でしっかり吸収出来ればそれだけ、いやそれ以上の価値はあると思う。個人と言うのは先生と自分だけの場だけど、こういった全体合唱はいろんな人の声を聴くことでどんな声の出し方がいいのか本当によくわかる。一人じゃないから大丈夫、安心と言うのは違う。これが、音が下がってる音痴、ビブラートがきつい、発声が飛ばないでその辺でうるさく聞こえるというのは下手なんだと言うことを今更ながらによくわかるようになった。快適なのは自分はきちんと歌っているのに自分の声も隣の声も聞こえないのが正解なのだと知った。「四畳半の声」はいけないのだと教わった。つまり、「ああ、私の声がしっかり聞こえて気分いい」っていうのは四畳半程度にしか響かない声で、実は自分の周りにだけ聞こえて客席まで響いていない声なんだそうだ。自分の声も隣の声も聞こえないのは一見不安のようだが、これは皆の中に自分の声が溶け込むほどに癖がなくいい声で歌っているということなのだ。今年のマエストロは昨年に引き続き同じ先生なので舞台発音で最初から練習。練習にはマエストロが3回ほど来てくださったが、最初は全体に音程を注意された。かわいそうなくらいに音程が悪いと。。(特にアルトの方は最悪に注意されていたし、テノールも最初はかなり音が下がってる人がいた)それはマエストロの好みもあるようで一つの同じ音程の音でも僅かに幅があって、それをピッチというけどそのピッチを高めに要求するマエストロであり、テンポも確実なインテンポを求める。そのくせ、楽譜どおりではなく伸ばすところはやたらに好みで長すぎるくらいに長く伸ばさせるし、プレスティッシモもやたらに楽譜より早く早口言葉が大好きなマエストロだった。終わって打ち上げの時、ソリストのテノールの方がソプラノの一番のポイントである長く伸ばすところがリハーサルでも本番でも全く高音が下がらず伸びていて感心したと言ってくれた。私はTwitterもやっているのでそのプログラムをアップしたら、❝いいね❞をくれた見知らぬ人がいて、それがなんとそのソリストだった。それでコメントを書いたら返事をくれて同じようにソプラノを褒めてくれ、自分は仕事柄全国を回って第九に出演することも多いけど、市民合唱でこれくらい歌えるソプラノは全国的にもそうないと褒められてとっても嬉しかった。そして、元々青森出身のソリストの方だけど青森に来たついでに青森県立美術館のシャガールの「アレコ」という舞台絵画が4点揃ったのを見てきたそうでそれもアップしていた。私自身も10年ほど前に初めてその4点揃ったのを見た感動したと書いたら、自分はその時見れなかったのが悔しかったので今回は見れてよかったとコメントを下さった。もともと4点揃って一つとなる価値のある作品なのだが、青森県にお金がなくて3点しか買えなくて残りの1点はアメリカから借りてきたものだそうで、写真撮影が自由でラッキーだったそうだ。以下の写真だそうだが、本当にきれいだ。アメリカからお借りした唯一1点の絵というのは一番最後の右側の絵で、太陽が二つある全体に黄色っぽい絵で、これがあるとないとではかなり違って見えるので、ぜひこれも青森県に欲しかったとつくづく残念である。さて、第九の話に戻るが、一つまずかったのはプログラムミスがあったことかな。バリトンソリストの方のプロフィールの出身高校がたまたま私と同じだったので同窓会冊子名簿でさがしてもないのを不審に思い、Facebookで検索したら青森ではなく八戸とわかり、ついでに昨年のもそのままの間違いだったのでそれを本部に伝えた。それから、協賛金を出してくださった方の会社名は出ていたがその肝心の出演する本人の名前が出てなかったのも指摘して伝えた。そしたら、どちらもシールを貼って本番のプログラムを配布となった。でも、私たちが事前にいただいたプログラムは間違ったプログラムのままでそのことの全体説明は全く本部からはなかった。印刷屋のミスならまだしも本部のミスで刷り直しとなると予算がかかるので都合が悪いのであろう。だから説明するとかえって厄介だと判断したのだろうと思う。でも、多分誰も気づかなかったか言われなかったのか、私が指摘してなかったらおそらく間違ったプログラムだったはずだ。。さて、本番でちょっとびっくり場面もあった。それはマエストロは歌のない部分もずっとオケに向かって指揮をしているのだから手は常に動いている。しかし、あるところになってマエストロの指揮が全くストップして動かなかくなり、私は驚きじっと見つめていた。そしたらソリストが歌う部分でマエストロの手がようやく高く上がりホッとした。のちに打ち上げでマエストロからサインをいただいたとき、ちょっと興味をもってこのマエストロにこっそり私は聞いてみた。そしたらニヤッと笑ってうなづかれた。「僕は本番で急に振らなくなるかもしれないよ」ってよく言っていたが、今年で多分最後で当分青森にはこない、二度と来れないかもしれないと言っていたので最後にマエストロは青森を試して意地悪したのだと思った。でも、何事もなく皆さん立派に演奏されていたし、本当にオーケストラの方々も素晴らしいのであった。以上の今年の第九であった。マエストロに「青森を嫌いにならないでまた是非おいでくださいね」と言ったらニコッと微笑んでうなづいて下さった。本当にありがとうございます、愛の鞭で厳しく、でもその中に本当の音楽の素晴しさを教えてくださった方。偉大なるマエストロ(^▽^)/仲良しでリハーサル室にて記念撮影。プログラムにサインをたくさんいただいた。打ち上げでマエストロと昨年撮りそびれたので今年は念願叶った!
2018.12.15
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負の連鎖と言うものを感じた。親と子は性格が似る、それは遺伝子だからしかたない。しかし、それもそうだが、親の生き方が子供に反映すると言えると今回ほど感じたことはない。私の弟が先日から明日まで帰省している。それも妻や子を置いて単身で。それはなぜかと言うと弟に言わせれば❝私のせい❞なのだ。私が弟に送ったパソコンメールが自分を傷つけたと私にくってかかってきた。実は、今年の正月に弟夫婦が帰省して朝早く帰るとき、あまりの騒がしさに床から起きた母が畳で足を滑らせてあばら骨を骨折した。弟家族が東京に帰るときの駅への送りは私の夫がしてやり、その後何度か母の容態を気にして申し訳なかったというメールをパソコンとか携帯で弟から私はもらったので容体を時々伝えていた。あの頃は母は痛さの辛さのあまり、毎日夜中に唸り声をさせて苦しがり私たち家族は大変だった。しかし、どんなに苦しくても母は娘の私を絶対に頼ろうともせずむしろ拒絶した。せっかく髪が洗えないならとドライシャンプーなるものを探して買ってあげ私がシャンプーしてあげてもいいと言っても全く言うことを聞かず何か月も髪も洗うことを母は拒否。(結局それは全く使わずじまいだった)そして昼は唸りながら背もたれのあるリビングの椅子にすわったまま母は目をつぶって唸ってばかりいて一向に動こうともしなかった。そうしてるうちに母のふくらはぎは血が下がって腫れてエコノミー症候群のようになってきた。父が何度も「少し歩いて血行をよくしろ」と言っても母は強情で全く動かず、床に寝ると起きるのが辛いからと椅子にばかり、もう一個椅子を持ってきて足を上げてやったり、夜中に隣に寝ている父が母の足を揉み続けツボ押しをしてさすっていたらしい。90歳の父は獣医師の免許を持つ公務員だったため、医学の知識があるので健康についてかなり研究している。未だに父は運転して買い物してきて、食べるものも2人分の料理を台所で作るので、私は全く手を出す必要がない。夫婦の絆や親のプライドが強すぎてむしろ私は母のために何もしてあげることを許されなかったと言うほうが正しいかもしれない。例え一緒に住んでいても子供に頭を下げて世話になるような両親ではないのだ。母は洗濯や食べたものの洗い物はコルセットを撒いて唸りながらも一人でやり、私に何も頼もうとはしなかったのだからしょうがない。しかし、私はその前の何日か弟家族が帰省して世話をしたために老人の疲れがどっと出てきていたのを母が弟家族が出かけている間に私にこっそりとよく愚痴をこぼして聞いていた。それは弟が晩婚で結婚してから今までずっと続いていた年中行事だったのだ。あまりにも母の様子がひどすぎて身勝手な弟が許せなくなってしまった私は弟宛てにパソコンでメールした。今のままでは母は息子かわいさのために自分を犠牲にして尽くして体を壊すから弟に自重してもらいたく、辛口の厳しいメールをしたのだ。「姉である私でなければあなたに言う人がいない、あなたは言わなければわからないから」と。結構長い文章になってしまったので、これはそのままメール文にしてはまずいと思いワードを立ち上げPDFファイルにして送信した。そしたらその当時は「私なりに理解しました、すみませんでした」であった。それでも半年ほどして母の容態は徐々に良くなり今日になりすっかり元気に。様子見に弟は夏にも単身で帰ってきた。その時は何事もなく和気あいあいと何日か休んで仕事の話を私も一緒に聞いて楽しんで弟は又冬に一人で来ると言って帰って行った。そして今回の帰省となったのだ。それがだ、帰省した日のうちに自分の中学時代の友達たちと飲み会に行き、一晩明けてから弟の態度が私にひどかった。目つきまで軽蔑したような目で不快で威張った態度だった。「なんで、あんなメールよこしたんだ!」と始まった。何を今更?と私は思ったわけだが、「俺はあのメールを読んですごくショックを受けて体が震えて、○子さん(奥さん)にも見せたら彼女もショックを受けて二人で泣いたんだ、母親が骨折したのは俺のせいじゃないだろ!自分で書いた文章読んでみろよ!あんたの文章は感情を理屈に変えただけだ」と言うのだ。私はあきれた。あの程度の文章で?しかもそのまま妻に見せた?PDFにしておいたのは、一人の胸に収めて心で整理してから妻に上手に伝えるのが大人ではないのかと私は弟を信じていたが、そんな分別のある人間ではない激情型の人間であることが改めて今更ながらわかり、弟をもう少し大人だとかいかぶっていたことに私は非常にがっかりした。「あんたがどんなにひどいことを言ったかわかっているのか!俺はもう○子さんを連れてこれないと思った、どうして自分の実家に帰ってきちゃいけないんだ!俺は長男だ、うちの○子さんは長男の嫁だ。あんたは他に嫁に行った人間だ、大体なんであんたがここの家に住んでるんだ!」と言ったのには驚いてショックだった。私は「今更そんなことを言うの?私がこの家に入ったのはあんたが独身で家に戻ってこないと悟ったから親と二世帯で住むことになったのをあんたも聞いてるはずだ」そう言ったら弟は「俺はそんなこと聞いてない!」と平気で嘘を言った。以前は「聞いてるよ、わかってるよ」と言い、親が死んだら仏壇をだれが見るかと話したこともあったが私たちが預かることになるのか?と言ったら「しかたないでしょう?だって一緒にあんたが住んでるんだから」とまで言ったのだ。そんな姉と弟の話に今度は父がはまってきた。そして父は全面的に弟の味方をしたのだ。父は母と毎日二人で食事して私たちと台所が別で食事が別なので、弟が来ると一緒に酒を飲んで弟の仕事の頑張りの話を聞いて嬉しく、弟もいろんな知識のある父から得られるものを期待してくるということだ。それはいいのだが、今回のように私が弟に送信したメール内容は姉と弟二人だけの秘密のつもりで書いたものだった。しかし、弟は平気でそのまま妻に見せ、そのことを自分の友人たちに話して同情をかい、「そんなに小姑の姉が嫌がってるなら自分のところに泊まればいい」と言ってくれたとまで言い、当然私がいないところで父にもそれを話していたのだ。弟は昔から人の機嫌を取るのがうまかった。自分の味方を作る天才だ。自分をかわいそうに演じ、同情をかい、学生時代も親によくお金をせびっていた。弟は昔から勉強も運動もトップで演劇もやり、美術の才能があり、親にとっては自慢の息子だった。どんなに親に反対されても反抗して美術をやりたくて根負けして親は浪人させてお金のかかる私立の大学に入れ、美術の専門学校にも入れ、仕事についたあとも文化庁の派遣のために親にお金をせびってアメリカとイギリスに留学した。だから現在の弟の地位があるのだ。こんなふうにおそらく芸術で大成している人は皆親にお金をたくさん出させて成功している人が多いのではないかと思う。大した金持ちでもない我が家は弟にたくさんのお金をつぎ込んだと言っても過言ではない。その陰で私が何と言われてきたことか。。。「男の子は大学にやらないわけにいかない、男に金がかかるからお前のような女など大学に行かなくてよい、行くなら短大などおしゃれをするだけでくだらないから行くなら国立の4年制の大学に行くならやる、何の取り柄もないやつが大学に行くって言うのが一番困る」とまで言われた。父は完全な男女差別、パワハラ、親のエゴだった。そして母は父の都合の良い言いなりの妻だった。結果私は意地で入った国立大学だったが、自分がやりたいことではなかったので大した就職もできなかった。そうして私の弟は結局夢を叶え、美術芸能関係の仕事をして大成して、その嫁も声優である。つまり、芸能界にどっぷりつかっている今やネット検索すればバッチリ出てくる有名人たちだ。こんな田舎にいて友達にそんな話をすると「すご~~~い!」とミーハー的に目をキラキラさせる人がなんと多いことか。でも、現実は、そんな有名人を家族に持つということは決して気持ちのいいものではないと言うのが本音だ。弟は自分が特別な存在であることにプライドを持ち、私などと言う普通の人間を見下している。弟は私にむかってこう言ったのだ。「俺は芸術家だよ、繊細なんだよ」と言った。私に「俺は人をたくさん使って仕事してるんだよ。うちの○子さん(弟は嫁の名前をさん付けでいつも呼ぶ)だって今はすごいんだよ、立派な仕事して友達だってたくさんいるんだよ」そして続けざまに私に「あんたに友達なんかいるの?あんたなんかろくに仕事もしたことがないくせになんだよ」と言い放った。完全に専業主婦への侮辱をし、姉をバカにした。私は「友達って何?そんなに必要?そんなにたくさんはいらないし、私にも自分に合う人は少ないけどいるわよ。でも人は裏切ることもある、結局信じられるのは最後は自分だけでしょ」と言った。それでもなお、父は自分が金を出して成功して自分をおだててくれる弟のほうが私なんかよりずっと自慢でかわいいので私を弟と一緒に責めて来た。「お前は年寄りをバカにして世話してやるから言うこと聞けみたいな態度に感じる」と父は私に言うのだ。普段一緒に住んでいて似た者同士の性格の父と私はよくぶつかるが、あまりにも自分を被害妄想しすぎだ。むしろ父は私が行ってる病院がいいと聞けば私の後を追いかけて歯医者も内科も皆私と同じところに変えてしまった。自分で名医を探せないで私の真似ばかりして、結果的には満足している。おまけに最近は90にもなってるのでまさかと思ったが私と同じジムに通いたいと言い、私が教えたら結局申し込んで今通っている。ジムの人も「90にもなってジムに来る人は初めてだ」と言ったそうで身体能力は83歳だと言われたと喜んでいたし、腰の調子もいいと喜んでいた。皆私の真似をしたおかげじゃないか!と言いたい。要するに親と一緒に住んでる娘は損する。優秀な弟を持つ姉は損する。多分、私が「巨人の星」の星飛雄馬の姉のような性格だったら漫画になることだろうに、残念でした。。。これは、父に幼少期のトラウマがあるせいなのだ。父の実家は農家で、父の上に長男である兄がいて(25歳の若さで亡くなったが)、父はそのすぐ下の次男で家族に邪魔にされ育った。その後父はサラリーマンになったが、妹が三人もいて上の妹が婿養子をとってしまったため、自分は家を出された。ところが、うちの父はよく酒を飲んで遅くなると実家に泊まりたがる癖があり、そうすると妹が嫌がったと言うのだ。それで、そのときの悔しさが私の弟に自分を重ね合わせ、私に自分の妹を重ね合わせているのだ。私はしかたなく弟に面倒だから「ごめんなさい」と言った。そしたら急に父と弟の機嫌が直った。でも、今回で私の心は完全に冷めた。これからは、親子と言えども姉弟と言えども警戒心をもって接しなくてはいけない、完全に心を開いて仲良くなどできないだろうとしっかりと心に刻んだ。弟は来年の3月に三度目の絵の個展をまた開くらしい。「あんたは画家になりたいのか?」とたずねたら、「描きたい衝動で描いてる、趣味でもないし、儲けたいからでもない」と言った。聞いたら弟の絵は自分の子供(来年中学生になる障害児)が原点と知った。つまり、絵の中に出てくる架空のキャラクターは皆はっきり言って「カタワ」だというのだ。絵の中の魚に二本の足が生えていたり、カエルのしっぽが異常に長くて気持ちが悪いとも言える。それに障害のある自分の息子を重ね合わせ、この世界でそんな仲間たちが手を取り合って生きていくというテーマだそうで。嫁と息子と自分の生き写しの似顔絵まで出てくる。個展を開くたびに障害を持つ会の方も来ていて尋ねられると説明するそうだが、そういった方々の同調を得られて満足しているようだった。でも、弟の描く絵は私ははっきり言って好きではない。弟の話を聞いて余計そう思った。暗い・・・きつい・・・悲しい・・・人にそういう形で自分の子供をさらすことに抵抗がないのか・・・私には理解できない。そして、一生こういった弟家族に気を使わなければならないことに大変な気持ちの負担を感じるのが正直な気持ちだ。以下が弟の昨年の作品の一部だ。すべてモノクロの鉛筆画で大変に緻密な作品だ。こんな細かい絵を飽きもせずに描き上げるエネルギーは尋常ではないと思う。私のような飽きっぽく興味が変わりやすくマイペースな人間には頭がおかしくなりそうだ。息が詰まって苦しくなる絵だ。こういった弟を持った姉の私はどうやってこれから生きて行けばいいのだと悩むことさえある。描ける弟への嫉妬なのか、こうした絵しか現在描くことができない弟への哀れさなのか・・・結局父が生きてる限り我が家は何も変わらない・・・弟は私を妻を呼ぶのと同じように「○子さん」と呼んでいる。先生や親が呼ぶような呼び方で私を呼ぶ、そんな弟をいさめようともしない両親。弟は子供の頃は私を「ねえちゃん」と呼んでいたのに。弟は父を「とうさん」母を「かあさん」姉の私を「○子さん」と呼ぶ。なぜ私を「ねえさん」と呼ばないのか・・・私の実家は家族というより、職場のような雰囲気なのだ。弟と父が知的な話をして、先日までは私もそれに入っていた。母だけは耳の遠いぼんやりした俳句好きなばあさんだ。ずっと若い頃私の実家と私の家族が一緒に入るつもりで父が建てた墓があるけど、私は恐ろしい。あの小さな墓の中に弟の家族と骨壺を並べるのかと考えると・・・自然と「海洋散骨」を検索していた。本当に自然に帰るには骨壺に入ったままではおかしいのではないか・・・
2018.12.12
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いくら飼い猫で首輪をつけていても一旦外に放して徘徊してしまえばただの野良猫と同じ行動をするのである。そこを飼い主は甘く考えてはいないだろうか。私が受けたような被害を被って内心腹を立てて我慢している人がいることを忘れてほしくはない。思うのだが野良猫を家猫にする(特に大人の猫)はトイレの躾が大変だろうなと思うが、ぜひ家の中でウンチをさせる工夫をしてほしい、外に出すなら自分の庭の中にトイレになる場所を確保して躾て欲しい。庭から他に出ないようにしっかり監督して欲しい。我が家の昔飼った猫は野良猫が産んで運んでる最中にたまたま我が家に置いて行った生後2週間くらいのメスの子猫だった。私の母はオシッコは家の水切り籠にさせ、ウンチは庭に砂場を作って自分のトイレと認識させていた。しかし、どうしても家の障子の陰に隠れてウンチをしてうちの猫はよく母に怒られていた。猫の行動は飼い猫も野良猫も排泄は同じだ。又猫だからとつないではいけないということはない。私の母は時々落ち着かない猫を紐で柱につないでいたが、そうすると猫はあきらめて落ち着きを取り戻していたようだった。ただ去勢不妊しているからと安心もいけない。うちの昔の飼い猫(メス猫)は不妊手術していたのにもかかわらず庭に放したときに他の野良猫に襲われてケガをした。そしてそのケガが原因で治療の甲斐もなく神経に異常をきたして畜産獣医である父は我が家の飼い猫を見切りをつけて保健所にやったのであった。我が家の猫はたった6歳で死なせてしまった。いくら泣いたかわからない。猫を飼う皆さん、猫に餌を安易に与える皆さん、私は猫はかわいいと思っています。でも、自由気ままに放しては絶対に迷惑をかけていますし、他の飼い猫にも迷惑をかけています。そしてかわいいからと安易に猫に餌を与えないで欲しいのです。食べれば出ます。つまり、食と排泄はセットです。そしてその後は生殖行為で増えてしまい負の連鎖は永久に続くのです。近所迷惑の元、近所トラブルの元をどうか作らないでください。切なる願い、どうかよろしくお願いします!!
2018.10.27
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ずっとブログをご無沙汰していたのは気持ちが何とも定まらず落ち着かない日々を過ごしていたから。でも少なくとも今日までは自分自身の内面をみつめながら第九の練習やジム通いで過ごしていた日々だった。私は今日向かいの奥さん(Iさん)から口汚いことばで非常なる人格否定発言を受けた。言葉にならないくらいのショックだった。しかも今度は津軽の気性丸出しの品のない旦那が奥さんに加勢して火が付いた。私でさえもオシッコを何度か少しずつちびったくらい怖かった。正直完全に失禁したらどうしようかとビクビクしてそちらに神経がいったくらいだ。今回は思いもよらないほどの大変な名誉棄損的発言を受けた。もう二度と顔も見たくない、口もききたくない。今日はとてもいいお天気で朝11:00過ぎかな?最近は二日に一度になっている亀の水槽の水替えをしようと玄関にそれらを運んで出た。そこに久々にすごい声の野良猫の発情期のような激しい喧嘩の声が聞こえ気になってきた。そんなとき筋向いのNさん宅の隙間からトラ猫で手足の白い野良猫が一匹追われて走って逃げて行った。でもまだ収まらぬうるさい鳴き声。そしたら今度は黒いやや小さめの黒猫が我が家の玄関の敷地に入ってきて、次男の車の下にもぐってきた。我が家には野良猫除けセンサーを付けているのにまだこうしてくるのか・・・覗いたがもはやいない、なんとすばやいことか・・・そしたらまたうるさい声が続き、今度は黒と茶の混じったサビ猫が出てきた。まだうるさい、どこに隠れているのか、まだいるのか、我が家に向かっているのか・・・気になった私はその辺を散策して道路を見渡し、向かいのアパートの空き地から裏の以前に向かいの奥さんが野良猫に餌をやっていたあたりからずっと遠くを見渡したが猫は一匹も見えなかったので戻ろうとした。その時だ、とりあえず今までの経過のブログを下記に。4/17野良猫被害に苦労の日々(近所トラブルの元) 4/22野良猫被害(続き)・・・ 4/30野良猫被害(その後)・・・ 6/5野良猫退治の果て(やってまった近所トラブル)!・・・6/9隣トラブルその後・・・このような経過を受けて現在は何事もなく(そりゃたまには野良猫は素通りしたり、玄関の敷地には入って花がまだあまり咲いてないときは地面を掘り起こして土をかぶせた後は中を見たら何もなかったということはあった)今現在はこれ以上に咲いているくらい密集してりっぱに花盛りだ。でも決して猫の糞を肥料にしたなどというのではなく、私は土を半分以上も新しいものと取り替えて殺虫剤や肥料をやって育てたのである。さて、先程の続きだが、向かいのIさんは私がそうして近所を少し歩いて見渡していたらいきなりドアを開けて出てきて私に言葉を発した。「何見てるの?」と言う。私「あまりにも野良猫の声がうるさいからどの辺にいるのか気になって見ていただけ」と言うと、Iさん「そんなに気になる?どうして私の家の周り見るのさ、あっち側から見ればいいじゃない」と不快そうに言う。しかし、アパートの敷地の駐車場の普段誰でも歩いたり、車を回したり近所の皆で利用している敷地であるし、この奥さんだって自分の敷地とアパートの間に塀がないのをいいことにその敷地を通路にして自分の狭い敷地に洗濯物を干すのに利用している人だから人に何も言う権利などないはずだ。近所で利用させていただいてはいるが彼女から何も言われる筋合いはない。それからが始まりだが、私が「野良猫に餌をやってる人がいるから増えたのね、あなたもそうだったし・・」って言うと「私ばかりでないし二日に一回くらい少しだけだ、あの辺の人も、この辺の人も、小学生の女の子もやってるよ・・・」私が「でも、少しでもやれば責任が出るでしょ、あなたは言い訳してる」と言うと、Iさんは「だから2匹飼ったじゃな、うち7匹になったんだからもう無理。それ以上はそれで責任取ったんだからいいじゃな、あんたもしつけえな!」と津軽弁ヤンキーことばになって言い張る。「私だけじゃない」ということばが私は一番嫌いである。自分のやったことを正当化するためによく使うことばだ!野良猫に餌をやると言う行為が正しいと正当化している!本当に迷惑をこうむった人間がいるのが事実なんだからそれは絶対言って欲しくない!自分は私に保健所にやるか飼うしかないと言われた末の自分の良心の最善の策を取ったと言うのだろう。この程度の人間にはしかたないと思い私は「いいんじゃないそれで、あなたは立派よ」と一応言った。しかし、今回の2匹の猫たちを飼ったという話を私は隣の旦那から聞いたのは不思議なことであった。(隣の旦那とはその後猫除けペットボトル問題でトラブルになってしまったがね・・)とにかくその2匹の猫がパタッと消えてその後Iさんは私に何の報告もなく挨拶どころか顔も見ようともしなかった。完全に私に恨みを持ってるように感じてはいた。今そのことを言ったら、「いちいちあんたに報告しないといけないわけ?!」と開き直る。これでは隣のペットボトル事件の旦那と同じ言い方だ。日曜日のせいで、そこへドアがまた開いたと思ったら今度は彼女の旦那が出てきた。着ているトレーニングウェアの全体が猫の毛まみれで汚い。そして奥さんの隣に並び、私を内容のない文句で怒鳴りつけた。「何や!別にいいべや!なんだってや!・・・」その後はあまりにも汚い津軽弁で私は嫌悪感を感じて恐ろしくヤクザに怒鳴られているように怖くて勝手にオシッコが少しずつ出て困った・・・そして、旦那が加勢したせいで奥さんは勢いを得たのか今度は私を猛反撃し始めた。まさにヤクザとヤンキーさながらの下品さだった。そのうち図に乗ってきた彼女は「どうしてあんた私ばかり目の敵にするわけ!他の人たちだって餌やってるよ。いい!!この近所の人たちは皆あんたのことをしゃべってるんだよ、あっちこっちであんたの噂広まってるんだよ、あんたはこの辺で皆の嫌われ者なんだよ、大体あんたの息子もあんたも挨拶もしない、挨拶は基本でしょ、どういう教育してるの、あんたの自分勝手なその性格直したら!私は自分のところにウンチされても何も感じない、な~んにも感じない、あんたがこうしてたくさん花並べているのだってさ花びら飛んできたりさ、私が花粉アレルギーだったらこの花全部どけてくださいます?」ときた。私はあきれて❝猫のウンチと花を比べるなんて価値観が全く話にならない、美醜も分からない田舎者❞と腹の中で相手を心底軽蔑した。ウンチをされて嫌じゃないなんてそのほうが異常だ!それを「ウンチなんて何とも思わない」と言い、迷惑受けた人間にむかって「挨拶が基本でしょ」などと言う資格などない!この小さな貸家に7匹の猫を飼っているうちにこの人は常軌を逸した猫屋敷の化け猫になってしまったようだ。そこで、こんな人にまともな反論は意味がないと悟った。私は「そういう考えもあるわね、そういう風に言われればそうですわね、でもウンチされても平気なんていい神経してますね」って言ったら「その言い方なによ!失礼だじゃな!」と又してもド津軽弁で言い返す。私「おおらかな性格だと言ったのよ」でも❝どこが失礼だ、お前のほうが余程失礼なバカ者だ❞と私は腹の中で思った。結局、彼女や彼女の旦那が「そんなに気に入らないなら自分で保健所にしゃべればいい」って言うもんで面倒だから一応それで話は終わりにしてやったが、言い知れない平行線を感じた。最後に私は「一応私はあなたより年上だけど」と言ったら、「同じくらいでしょ、じゃ70代?80代?」と人をバカにするが鯖読みで「そんな年なら私の親みたいじゃない、でもあなたよりはるかに年上よ」と言ったら旦那が「歳の話はいいね(いらないね)」と言い、2人とも家に入って行った。今回は元々彼女が難癖付けてきたところから始まった言い争いだ。考えてみたら私は夫婦に侮辱されただけじゃないか。❝私が皆に嫌われている?よく言うよ、私もお前ら皆が嫌いだから平気だよ、元々最初はお互いに相手の悪口言い合っていたくせに、自分を正当化するために私一人を悪者にした結果結託したくせに、くだらない低俗な輩・・・❞と私は又思った。もちろん私も途中で反撃した。今の家を新築する20年前にもIさん宅は野良猫に餌を与え、我が家の物置に産まれたばかりの子猫4匹を親猫が運んでいてもう少しでその物置を残すために壁で閉じる直前に「子猫そっちにいない?」って言うので探したら4匹の子猫が物置に閉じ込められてしまうところを渡すとき私は彼女に「どうしてこういうことするの!飼う気がないなら保健所にやるか山に捨てに行くしかないでしょう」って言った。そしたら次の日からパタッと野良猫子猫がぱったりいなくなったのだ。今になってそのことを問いただしたら「だからあんたに言われて保健所にやったよ」と言う。私が「あの時あなたは子猫受け取って謝ったでしょ、それならそうと報告すればいいでしょ、その時何も言わなかったじゃない」っ言うと「いちいちあんたさ報告さねばまいねわげ?」(あなたに報告の義務があるのかの津軽弁)これも隣のペットボトル事件の旦那と同じレベルだ。私がこいつらに挨拶をしないのは故意である。こういう社会道徳のない、人にくってかかってくる口汚い人間が大嫌いだからだ。おかしなことに私は小さな声でしゃべっているのに私が近所の人やチラシ配りのおばさんに野良猫の苦情を話した内容をそば耳たてているのか「あんたの声ばかり聞こえる、皆知ってる」と彼女は言う。まるで彼女自身が家の中から私の行動や発言を息をひそめて常に監視している猫のようだ。そして、最初は悪口を言ってたはずの我が家の右隣の旦那と今は和解したし、もう一人のトラブルの旦那とも和解したと言う。いつのまにそうなったんだ!・・・向かいのIさんは我が家の左隣の先生宅とは一緒に似た行動をしていて、昔からずる賢く路上や人の空き地に車を勝手に止めて警察からも注意されたことがある仲のせいで昔からずっと仲良しなので警戒はしてはいた。隣の先生宅と我家は屋根の雪問題や塀などで何年か目にひと悶着あったがきれいに今は解決しているのだがね。でも先生宅は我が家に過去の恨みがあるせいでよく道路でこのIさんとひそひそ話をしているのを見かけていたが、私には聞こえたためしがない。多分お互いに私の悪口を言い合っていたのだろう。そしてうちの近所にチラシ配りのおばさんが良く来るが、これがまたあちこちの奥さんに話しかけ安心させて情報を漏らしているものと今日分かった。チラシ配りではなく情報配りだろうが!!亀の水槽を洗ったり、花に水をやったりよく玄関の外にいる私に声掛けが長すぎてつい口にしてしまった話がまずかったことだった。彼女は無責任な好奇心の情報網だったのだ。今後は彼女が来ない時間に仕事したり、会っても何も話すまいと思う。こうして向かい、左隣、右隣、アパートの空き地のそばのお宅、チラシ配りのおばさんを警戒することとなった。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~実は1ヵ月程前だったろうか?Iさんの隣のNさん宅ともトラブルがあった。これは我が家の次男の車が過って道路ギリギリに置いてあるNさんの鉢をタイヤでさわってしまい花が潰れてしまったということだった。次男はその前日は残業で大分遅く帰ってきて次の日は休みなので朝遅く朝食を取っていた。我が家には車庫に一台、玄関前に一台車を置いている。しかし、この日に限って、母の具合が悪いので病院に連れて行くから車庫の中の車を出したいと父が朝急に言い出して、次男の車と入れ替えなくてはならなくなったのだ。あせっていたせいもあるし、初心者マークで3ヵ月目の次男はハンドル操作がまずかったのだろう。そうなってしまった。あまりにもすごい奥さんの怒鳴り声が聞こえるので玄関外に行ったら父に奥さんが何か話してるが、父も急いでいるし、耳が遠いので何もわからないらしいので私が行った。そこでこの事実を知った。N奥さんが言うには、我が次男は自分が「いくら目を見て花に当たりそうだと注意しても無視した、目を合わせなかった、すぐに謝らなかった」と言う。すぐに次男を私は呼びに行った。次男の性格はおとなしく人の目を見て話すような性格ではないのは母の私は恥ずかしいくらい知っている。それはシャイなのと中学の時に虐めにあってからその後も人とうまく付き合えない人間である。でも、今仕事を頑張ってしているし、車も免許習得以来最近10年ぶりにやっと運転するようになったので私としてはホッとしていたのだが・・・N奥さん理屈をたくさん並べて私の前で次男にものすごく説教した。次男はそういった怒りの本質がよくわかっていないようでポカンとしていたが、私が「大事なお花なのに本当に申し訳ありませんでした。」と何度も頭を下げて平謝りをして、次男は会釈程度しかできないどうしようもない不憫な子である。でも、誠意をもって私は何度も謝っている最中もこの奥さんは母親の私の前でこれ見よがしにしつこく30歳にもなる次男に「あんたの目見たよね、見ようとしなかったよね!・・・」延々と説教したのには驚いた。でも、私の心の奥底には❝こんな風に道路ギリギリに家を建てて塀もなく、その代わりに花を入れた鉢を置くなんて運転手には酷じゃないか、大事なものは奥の方に置くべきじゃ、花の苗そのものは98円くらいのマリーゴールドだけど大きくなって良く咲いていたから悔しかったんだろうな、わからぬでもないがヒステリックすぎだ❞と思った・・・その時は家に帰って母に伝えたら「今の人は核家族で舅姑に仕えたことがないから皆強いんだな」と言った。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~先に述べた猫トラブルのI奥さんにあそこまで言われるとさすがに私は深く傷ついてもう二度と近所付き合いなどしたくはない。もしも我が家の両親が亡くなる日が来ても、一切の新聞広告など出さず、こっそりと家族だけで済ませ、近所からは一切のお悔やみは遠慮したい。夫には今日のIさんから受けた屈辱すべてを話した。そして来年は我が家が隣の旦那から引き継ぐ町内の組長の係について、すべて夫に任せてやってもらう、私は町内のことには一切タッチしないと宣告した。いろんな会があっていろんな人間がいるのは今まで生きてきて私だって十分わかっているつもりだ。しかし、こんな風な直接的な屈辱は耐えられない。こんなところから出ていきたい。。。
2018.10.21
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先日23日の土曜日に高校のクラス会が2年ぶりにあった。正直2年などあっという間でこの間会ったばかりという感覚、もう1年置いてもよいと思ってた。でも、今回はいつものクラス会とは全然違った。他のクラスとの合同クラス会が実現したからだ。これは、元はと言うと私のせいだ。と言うのは、私はFacebookに2012年からアカウントをもって利用していたのだが、今年の1月4日の正月中にFacebookで偶然見た卒業高校東京支部の校歌の歌詞入りのTシャツが妙に気に入ってしまい、反応して深く考えもせず、偶然にもポチしたら「友達申請」になってしまったのだ。そしたら東京支部の副支部長から「さっそく入会ありがとうございます。」ということで友達になり、そのあとは支部サイトでの私と副支部長の会話を見た同じ8回生の男子2名が反応してくれて友達になった。どちらも3年間のうちで我クラス担任の受け持ち経験がある人で、1名は中学校も同じクラスだった男子で懐かしい話ができたし、もう1名は我クラスの幹事と東京の大学時代にもよく会っていたという友達関係と判明。そこで今回の我クラスの担任の喜寿祝の話を教えたら来たがって、幹事の携帯番号を教えたらすっかり有志合同という名目のクラス会になったのであった。そこでこのような人数となった。我クラスは国文系の4組だが、他の文系クラス、私立クラス、就職クラスの生徒も加わった。こちらはいずれ地方新聞に出すことになっているので堂々と顔出しで。。今年は昨年来た人が来なかったり、逆に今年久々に来た人がいたり、こうして他のクラスの人が混じったりで結果的には毎年20名くらいに担任という具合だ。他クラスの人は4名くらいだったので、我クラスとしてだけ考えたら前回よりもちょっと少な目だったかも。下の写真の私と一緒に写ってる人たちは皆元教師。後ろの男子は校長まで務めたり、この中の私の女友達は昨年から同職だった旦那さんと一緒に喫茶店経営している。うちの担任の趣味は俳句だけど、今回その喫茶店経営の彼女は俳句を書いてる人たちの俳句集の中に掲載されている先生の俳句をまとめて手書きで書いたものをコピーしたものを今日のクラス会で皆に配っていた。店のお客さんが抜粋してくれたものらしい。実は、我母も俳句が趣味でその俳句集に掲載されていて、我担任の俳句はよく読んで知っているらしいが、俳句というのは人によっていろいろな見解があるらしく、結構母は母なりに意見を言っていた。おまけに母は私のような理屈っぽい人間は俳句には向かないとよく言ってるが、確かにそうだ。私は母よりも父に考え方や性格が似てるからね。。まあ、とにかく我クラスの人たちは教師になったり、自分で会社を起こしたりという人が多く、私みたいなのと違って皆優秀よ。お店は創作料理が売りのお店だったけど、料理の方は会費が5,000円なので、鍋(アンコウ鍋)中心、おかずもいろいろ出たけど、今一味がしょっぱかった。ただ飲み物はお酒を含め飲み放題ってやつで、今回は男子が多いからそうしたんだろうと思った。デザートのアイスだけはやたら凝っていて飴がかかっていたりして、おいしかった。本来我クラスは文系なので女子が多い。でも今回は他のクラスの男子が来たのでいつもと雰囲気が全く違った。前回はどちらかと言うとしっとりした雰囲気で静かだったけど、今回はかなり賑やかでどんちゃん騒ぎだったので、それなりに刺激的でおもしろかった。担任からもちゃっかり会費をいただき、その代わりと言っては何だが、お祝いに「津軽金山焼」をプレゼントしたのであった。担任の喜寿祝と言っても、1年早く祝ったとのことだ。喜寿と言えば数えで77歳だそうなので満で76歳、誕生日がきてなければ満75歳、しかも一年早くお祝いしたのであれば担任の先生は実際は満74歳か?私たちが満62~63歳なのでほぼ一回り年上の担任なのである。だから私たちが高校生の頃はこの担任は30歳くらいだった。私たちが3年の時に担任が結婚したが、その時にクラスの皆でお祝いの歌を作詞作曲してコーラスしてテープに吹き込んでプレゼントしたという絆の深いクラスというわけである。そして、我クラスは国文トップクラスとしての学校の期待の教育を受けていた。それの反発に卒業試験をボイコットして担任の先生の学校にいる立場を悪くさせてしまった生徒たちでもあったが、なんとかりっぱな成績で受験に合格した生徒が多かったお陰で先生のメンツを保たせてあげれたという逸話が有名なクラスだった。一人一人の近況報告を全員やって、飲み放題であっという間のうるさい一次会は終了してしまった。一次会で担任は列車に乗ってお帰りになった。その後残ったメンバーで2次会、ここは狭いカラオケスナック。ほとんどが男子。(昨年は女子がこの倍はいたはずなのに・・・)これは他のクラスのFacebookの私の友達男子が増えたから。女子は私を入れてたった3名だった。初めは話をそれぞれしていた。私は大学が一緒だった男子と話したが、息子がペット獣医だそうだが東京では開業はしたくても獣医が多すぎて大変らしい。それは獣医だけではやっていけないのが現実で実際はトリマーとかペット喫茶とかを兼ねてるビルみたいな所に人が集まるので商売は難しいんだって。私の父も昔の現役時代は畜産獣医資格を持つ公務員だったので、獣医職でもペット獣医と畜産獣医の違いとかいろいろ話した。彼には孫がいて、「まだ4歳の孫はかわいい、親と違って責任ないからね」などと言った。一方、奥さんの許可をもらって自分は昔から憧れの京都に教師退職後に単身で住んでるそうな。それも年金では大変だから皿洗いのバイトまでしてるんだって。実際彼はクラスでも一番頭が良くて、キザでつかみどころのないところがあったけど、今も人生謳歌してるね。さて、まじめな話に花が咲くけどなんたって他のクラスの男子たちがうるさい。「4組ってやっぱり違うな、話してるとわかるよ頭がいいの、俺らはそれに比べればバカばかり、ガハハ!!」って結構盛り上がり。そこで私も盛り上がりに加担して幹事の男子で歌がうまい2人にカラオケを振る。「西城秀樹の追悼、「傷だらけのローラ」歌って~~~」って。そしたら、「でも、キーが高い・・・」ってビビる2人。そこを押しまくる私。結局一人が歌った。秀樹とは声も歌い方ももちろん違うけどやっぱり私たちの青春時代のスターなので、手拍子で盛り上がり感動したわ。歌い切った彼はゲッソリと今まで見たことない疲れた表情だったけど。私はあべ静江の「水色の手紙」、もう一人の幹事は郷ひろみの「男の子女の子」、他いろいろ・・まあ、結構長居して夜10時半すぎたので解散。で、その後だが、私には今回幹事の一人で小学校から大学まで一緒だった幼馴染の男子の友達がいるんだけど、「まだ早い、11時前に家に帰ると奥さんにもう帰ってきたの!って言われるから付き合えよ」と言われ、2人で知り合いのスナックへ。私たちはお酒が強いので大学時代にはよく最後まで飲む仲間だった。何を隠そう、実はこのスナックは私が辞めたコーラスのメンバーが経営する店で、彼が教師時代に行きつけの店でもあり、偶然に彼に数年ぶりで再会したのもその店ってわけ。「じゃ行くか!」もちろん、久々のツーショットなのでママも驚いてたけど、私たちが子供のころからの幼馴染なのは知ってるので平気。「この人たちは男女越えて高尚な関係だから」ってね。私たちは教育論から始まって、又カラオケ。私はここでは高田みづえの「硝子坂」を歌ったが、これがその日はお酒もかなり飲んだわりには声が良く出た。おかげで「あいかわらずの美声だね、ソプラノ衰えてないよ、又入ってコーラス・・」なんて言われたが・・・私はちらっと、「メールでコーラス仲間のある人がコーラス内の愚痴を私にこぼして発散してくる。ウンザリして断った」と言った。「会を辞めた人間に、今まだ会に残っている人間が自分の会に嫌なことがあったからと言ってうっぷん晴らしに私にいろいろ話すのを聞くのは嫌な気持ちだ、私を利用してるのには腹が立つ」と言った。ママはまだメンバーでもあるので、「ウンウン、あなたが正しいよ」と言ってくれた。まあ、そんなこんなで幼馴染の彼との時間もあっという間で。「俺たち、ずっと同じクラスだったな、よく結婚しなかったな」ってセリフ又彼から聞いたな。「多分深い縁があるんだよ」と私。あれ?朝ドラみたいじゃんか。でもさ、長い時間を共有してるから思い出は語れるし、いろんな知識や考え方を対等に論じられる相手が男女の枠超えてそばに存在してることって素晴しいし楽しいよね。私にとっては何年たっても懐かしい大好きな大事な幼馴染だよ。そう言えば、偶然にも彼も私と同じで今年健康診断で「大腸がん検診」に引っかかり精密検査を受けたと言っていた。この検査は大腸に管を通す内視鏡検査のことだが、私にとっては初めての恐怖の何とも心身とも苦しい検査で、だが、私は全く異常なしで今回はホッとしたのであった。が、彼の方はポリープがみつかったとのことで、今後ガンになる可能性がないとは言えないので、毎年検査を受けるつもりだと話していた。これはもしや長年の彼の習慣病なのかな?彼は校長の立場上今までは仕事の責任上のストレスがひどく、「辞めたらさっぱりした!」と言っていた。しかし、やっと今年の3月で本当の退職人生になったので、気持ちに余裕が生まれたみたいだ。彼はとても声もよく歌がうまくカラオケも好きな人で、スポーツマンでもある。毎日の自主トレも自分なりに家庭でやっているまじめな人、もちろん奥様の皿洗いのお手伝いもね。そんな彼に第九の話をしたら、私がテレビや新聞に出てたのは知ってたらしく奥様にも「こいつ俺の同級生なんだ」って話してたんだって。「じゃ、あんたも一緒に歌わない?最初はドイツ語きついけど慣れたら平気だよ」って言ったら、意外にも興味を示してたので是非共演したいわ。人生語れる酒飲みのボーイフレンドっていいものだからなあ~
2018.06.27
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「エレガントレディ」という名の大輪の薔薇が咲いた。色姿香りとも優雅な私の好きな薔薇のひとつである。イギリスのダイアナ元妃に送られた品種「ダイアナ・プリンセス・オブ・ウェールズ」の別名であるようだ。さて、前回のブログ(6月5日)から4日経ち、隣の旦那の「ペットボトル何回捨てても置いてやるからな!」と捨て台詞を残して醜い顔で怒りまくって帰って行ったその後だが・・・何とだ!その日はペットボトルが置いてあったが、次の日に塀を見たら、なかったのだ!そして、その後もずっと本日もペットボトルは置かれていない。どうやら隣の旦那はペットボトルを置くことを辞めたらしい。\(◎o◎)/!私は、❝こいつは年寄りの頑固さで死ぬまで置き続けるのだろうな、それなら死ぬまでそうすればいいさ❞と思い、私も諦め半分で捨てる労力が無駄だからそのまま見ないようにしようと思っていた。実は、隣の旦那は、私に食って掛かってきていた最中に私の夫が自転車で帰ってきたのだが、夫の前でも私への口論を全く自粛しなかった。まあ、うちの夫も夫で知らんぷりで妻が他の男と口論してるのに黙って家の中に入って行った。これはつまらぬ面倒を嫌う夫の性格上いつものことであり、実は夫への私の不満の元でもあるが・・隣の旦那は、こちらが丁寧に受け答えしているのにもかかわらず、今回私の玄関の外で近所に聞こえるような声でいきなり怒鳴り散らした礼儀知らずだ。普段から気難しく、頭に血が上ると誰彼構わず抑えが効かなくなるところまで亡くなった奥さんと似たもの夫婦なのだと再確認した。又、我が父の話ではあの旦那は酒乱なのを過去に酒場で目撃したこともあったそうで(~_~)・・・では、この旦那が今回あっさりとペットボトルを置くのを辞めた真意は??思うに、誰かに聞いてもらってなだめられたか、あるいは自問自答して恥をかくのはいずれ自分かも?と思い自粛を決めたか、独居老人としての近所への反省も少しくらいはあるのだろうか?・・・私なんか、いっそペットボトルに猫よりも怖そうなライオンの写真でも貼り付けたほうが猫に効果あるんじゃないかと息子に話したら「そのほうがおもしろしろいかも」って笑ってた。あの旦那の理論であるならば、両家の共有の塀であるから、いっそ自分の側の塀から猫の写真をずらりと並べて展示して向こうに見えるようにしてみたらおもしろかろうにと私は想像してたくらいだ。もっともそんな子供じみたことは私はバカじゃないからしないけどね。。( 一一)とにもかくにも、私が「ペットボトル置かないで!!」の張り紙をしなかったら、あの旦那はずっと置くつもりだったのだからこれで決着がついたのですっきりした。でも、なんかもう白けてこの人とは金輪際かかわりたくないわ。。(-_-メ)さて、私は昨日眼科検診に行ってきた。先日の健康診断は「眼底検査」の異常ということで、来週の14日の木曜日の大腸検査の内視鏡検査後でもいいやと思ってはいたが、その前に、月曜日に市のジムの一年更新のための体力測定があり、その時に検査結果を聞かれるので、一つくらいははっきりさせておこうと急遽決めて行ってきた。以前に行ったことのある眼科はあるが、今はお付き合いがもう15年程もご無沙汰しているし、先生も変わったらしいので、今回からは主治医を変えてみようと思い、近くで夫も検査に行ったことのある眼科で女医さんのところに行った。久々のいろんな目の検診をして、写真も何枚か撮った。その結果、左目の血管がだいぶ前に動脈硬化によって切れたあとがあったらしく、写真で確認すると血管が白くなって血が通わなくなっていたところが何か所か見られた。でも、幸いなことに視神経からずれていたために視力に影響がなく今日までこれたということで、経過観察となった。なんでも、市の健康診断の眼底検査と言うのは、毎年交互に片目ずつしか行わないらしく、昨年異常なしだったのは右目だったからで、今年は左目だったから異常と出たので、来年は右目だから多分異常なし、再来年は又異常ありと出るでしょうということだった。でも、当然ながらいつでもなんかあったら来てくださいと言われた。気難しい男の医者と違ってとても明るくサバサバした女医さんで大変気に入った。動脈硬化というのはいわゆる生活習慣病が原因で、高血圧や糖尿病からくるものが多いらしい。今思い出してみると、私の場合は50代の高血圧治療をしたばかりの頃に、左目がズキッと痛みブチっと何かが切れるような激しい痛みが走ったことがあった。その後何事かと鏡を見たら左目の血管が切れて真っ赤になっていた。そんなことが二回ほどあった。その鈍い痛みはしばらく続いたが、一度も医者にも行かず、自然治癒して放置していたのだ。実は、内科と耳鼻科以外の医者はどうも怖くて苦手な私なのであった。さて、我が家は二世帯建ててから早20年、その間に全体の屋根のペンキ塗りは一度は業者に頼んでやってもらったが、今回は前から残していた古い物置の屋根のペンキ塗りだけを我が父と夫の二人で行った。いつもは父一人でやってしまうのだが、さすがに夫に頼んできたので仲良く義理の親子の共同作業。私も久々にロフトから無落雪の方の屋根に上がって2人の作業の記念撮影をした。無落雪の広い屋根から段差のついている物置の屋根がこんな感じで下に見える。お天気もよく、でも暑すぎず、午後の2時から3時頃までの約2時間程の作業で、スムーズに進んで大変よかったと思う。微笑ましい光景だよね。夫は8月で71歳になる、父は満90歳だ。今度この物置のペンキ塗りをするのは3年後だそうで、その時にこうした姿が見れるかどうかはわからないが・・・
2018.06.09
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ブログまた御無沙汰した。すっかり初夏っぽくなってきた気配、青森はとても住みやすい時期のはず・・・それなのに、今日はというか、ずっとブルーな気分でいる。こうなるまでに気持ちよく咲いてきた花たちだったのに・・・鉢植えの鈴蘭、もうそろそろ終わりです。「フリューヒリングスデュフトフト」という名の薔薇~一過性で今しか咲かない我が家で一番最初に咲く薔薇で甘酸っぱいような優しい香りで色も優しい薔薇の下に咲いている白い花は「うつぎ」まずは、例の野良猫問題。あの野良猫退治センサー「番人くん」を付けてからずっと我が家の花壇には猫の糞はなかった。これで安心と嬉しくて花の苗を花壇に揃えて植えたのは5月5日だった。そして、このセンサーの会社「イヌヤ」の方針であるので、感想文800字以上と取り付け写真を1枚付けて、投稿応募した。毎月5名様に抽選で当選すればキャッシュバックで全額返金となるので、私は絶対書こうと買うときから決めていた。果たして800字なんて書けるのか?と思ってが、なんとこれがブログをこうして普段書いている私にとってはお茶の子さいさいであり、1,000字を平気で越えてしまったので、適当に簡潔におさめたというわけだった。そして、1週間ほどしたある日、「イヌヤ」から「当選、採用されました」というメールが来て大喜びした。掲載に当たっては、名前の方はイニシャルか姓のみだが、とにかく税込み15,984円を口座でキャッシュバックを確認した。そして、それから1ヵ月経った6月5日の本日になり、花もようやく少しずつ育ってきたのを毎日確認してきた。朝、花壇をいつも通り見たのだが、私は花のそばの空いている土の異常な乱れ方に不信感を持った。❝これは・・・?まさか・・・❞と思い、素手では何なので、すぐにゴム手袋をはめて、シャベルをもって土の中をかき回した。そしたらなんとデカい猫糞が二つばかりド~ンと出てきてその気持ち悪さと臭さに途端に激しいショックを受けた。せっかく、感想文を書いて、商品をほめまくって締めくくったというのに、どういうことだ!そこで、まあ、しょうがないので、糞を片付けて、花を大事に少し移動して、センサーを花壇の端からその糞をした周辺の中央部の土部分に移動して、超音波ダイヤルも猫という中動物ランクから少しレベルを上げてイノシシとの中間まで上げ、センサーの向きも花壇と駐車場の中間の向きだったのを、今度は花壇の方に全面的に向かせ直した。キャッシュバックしてもらったあとに恐縮だが、購入元に一応相談してみようと思ってメールをしておいた。それはさておき、最近ずっと気になっていたことがあった。それは、隣と我が家の間の塀の上にこの野良猫被害と同時のようにペットボトルがいつも上がっているようになっていたからだ。これはだれが置いたのか?最初わからなかったので、とにかく恰好も悪いので黙って取り除いて中の水を捨ててつぶした。それが3回ほど続くころには、完全に隣の旦那が故意に置いていると想像がついてきた。しかし、私はとにかく黙って自分の屋敷側にそういうものを立てかけられるのが不快なので黙って取り除き同じようにつぶして捨てた。そして、昨日捨てたばかりなのに、今日も又置いてあったのには驚いた。なんで、勝手にここに置くのか!右が隣の旦那の家。左が我が家。その旦那は昨年奥さんが亡くなって以来、最初はしょげかえって静かで寂しそうにしていたが、今年になって一周忌が過ぎ、町内の組長当番に当たったせいもあり、だんだん本来の陰険で神経質な男らしくない性格が出てきた。この世を去り行く隣人に思うこのブログに奥さんが亡くなった時のこの旦那のことが書いてある。それはまず、この野良猫の被害をこの旦那も受けているわけで、春先は私と意気投合したのだが、この人は本当に猫が大嫌いな人(動物全部嫌いな人)で、私とは違う。私は犬も猫も飼ったことがあるのでかわいいと思い大好きだが、糞害に困っているだけだから。その点この旦那は、なんたって、「猫憎し」で猫に雪玉や石でも平気で投げる人で、近所の餌付け旦那とは既に激しい喧嘩済みだもの。それが、こんな風に何回もペットボトルを置かれては気分悪い。最初は、こっそり捨ててきたが、今日は私も久しぶりに猫糞を見たために腹の虫の居所が悪く、こんな張り紙をついにしてしまうほどの嫌気がさして、張り紙のままのペットボトルを置いたままにしてきた。アップにすればこうだ。嫌らしい行為かもしれないが、向こうも黙って置いているのだから、こっちも黙ってこのようにしただけだ。ところがだ、間もなく、我が家の玄関のチャイムが鳴って、隣の旦那がそのペットボトルを持って血相を変えていきなり怒鳴り込んできたのだ。いきなり、「これ書いたの、あんたか!」と私を怒鳴りつけた。私は男の怒鳴り声は我が父のきつい言葉で長年鍛えられているので、平気だ。私「はい、そうですけど」旦那「なんで、こんなことするんだ!」私「なんでって、美観を損ねるから嫌なんです。断りもなしにそんなもの置かないでください。それは猫除けのつもりですか?」旦那「そうだ!」私「そんなもの猫になんか効きませんよ」旦那「効く!あんたか、今までの全部捨てたの?」私「そうよ、全部中の水捨ててつぶして捨てました」そしたら、その旦那怒るわ、怒るわ、「あんたの許可取らないとダメのか!」と怒り狂った。私「そりゃ、うちの方に見えるほうに置いたらこっちも気分悪いでしょ、お宅の方に置けばいいじゃないですか?」旦那「でも、こっち側はうちの部分だ」と言う。つまり、塀は我が両親の時代に隣の旦那の母親が生きていた頃に折半で双方の土地の真ん中に建てた塀だと主張したいのだろう。それはわかっているが、そのあとで、この旦那はそのブロック塀の内側の自分の方にこんなに高い金属の塀を作ったのだ。そして、どうもそのブロック塀の上を猫が渡って、自分の家の方に侵入して糞をしているらしい。それならそれで、一言私にことわって、「困っているからここに置かせてもらっていいか?」と言えば穏便に済むものを・・・私も売られた喧嘩は買う人なので、「そういうこと言うならお宅の奥さんだって、我が家にいちゃもん付けて自分の家を覗いているとか聞き耳立てているとかどうとか、我が家の敷地に侵入してドアたたいてきたこともあって、ずいぶん嫌な思いさせられたんですよ。おかげで、うちは新しくカーテンもブラインドも付け替えたし・・・」そしたら旦那は「うちのやつはもう亡くなった、そんな古い話。それに、だって、それは本当だ。」と言い放つ。私「被害妄想ですよあなたの、自意識過剰、そんなもの・・・」延々。。そして旦那は「何回捨てても置いてやるからな!」と捨て台詞を残して醜い顔で怒りまくって帰って行った。ああ~やってまった!!!(~_~)でも、いいや、これで気分すっきりだぜい。あんなくだらない旦那とは思わなかった、みみっちい男、最低だ、もう相手にしないつもり。とにかく昔からペットボトルが好きな人だね、生きてた頃の奥さんと夫婦そろって1ℓのペットボトルに水を入れて、玄関とかあちこちに置いていて、新築の家も台無しのセンスと思って見てあきれていたくらいだよ。まあ、この根性の猫除けペットボトルが置かれなくなったら、この旦那の健康赤信号と思えばよかろう。もう話もしたくないわ。。"(-""-)"健康の話をすれば、この私もやばいのだ。通っている市のジム利用のためには毎年きちんと健康診断を受けて結果が良くなければ継続できないことになっているので、5月に私も健康診断を受けた。そして、結果が6月初めにきた。なんと、「大腸がん」と「眼底検査」異常で精密検査要請あり、あとは肝機能に少し異常があった。さっそくかかりつけの内科に行き、その健康診断結果をもって見せた。そしたら、さっそく自分の知り合いの内科胃腸科の個人病院に紹介状を書いてくれたので、それを持ってその日のうちに行ってきた。あとはもう検査予約だ。つまり、内視鏡検査だ。大腸を空っぽにして、中に管を通して検査。そのために検査前日から食べるものを制限されて下剤を飲み、当日は朝6時から腸洗浄剤を1ℓくらい飲んで病院に行き、完全に便を出してから検査するらしい。その時静脈麻酔なるものをするらしいが、なにせ、私は手術をしたこともない人間なので、そういう検査でさえも同意書が必要で、サインするとき不安だった。何かあったときのためとかいうが、医者は「たまにですが、検査途中に検査の管が引っかかって腸に穴が開く場合があるんで、その時は緊急手術となります」と言う。とにかく、機械的で、早口で、淡々と義務のように話す医者だった。あとで、血液検査するときに看護師さんからゆっくりもう一度聞いたくらいだ。そして「ウンチおもらしないようにお尻に当てるナプキンも用意しておいてください」と言われ、帰りスーパーで初めて尿漏れパッドの大きいやつを買って準備しておいた。検査日は14日(来週の木曜日)だが、医者は「大安だし。」と言った。なにそれ?冗談好きな医者なのかな?心和らげるためかな?なんて思ったり。その結果さえよければ何も心配ない。眼底検査はもう少し後でいいや、何も自覚症状がないのに。大腸がんに引っかかったのだって、ちょうど軟便で痔気味だったせいもあるかもだし・・実は6月23日には高校のクラス会が2年ぶりにあるのよね。それまでにはしっかり検査して健康な気分で出て、お酒を飲みたいなあ。。
2018.06.05
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また咲いた、今度はピンクの胡蝶蘭!本日、今年度の町内会費を徴収にお隣の旦那さんがいらっしゃった。彼は今年の町内の組長で、前回のブログで近所の旦那さんや奥さんと野良猫被害のことで喧嘩した人物で、私が受けた被害についても話してあるので、事情はよく知っていた。会費を支払うついでに、私は旦那さんにその後の野良猫の話の続きを切り出した。そしたら旦那さんは「ああ、手術して家に入れたっていうことだ。で、メスのほうはもう妊娠してたらしくて全部取って今入院中だそうだ」と言った。私は全く知らなかった。私が向かいの奥さんに「あなたが餌をやったためにこうしてこの2匹の猫は私の家の花壇に迷惑をかけた、あなたは加害者だ、もはやこの2匹はあなたを頼りにここら辺を縄張りにして動かない。この2匹をどうにかして!そして2匹は仲いいから捕獲したらかわいそうだから別々にしないで一緒に飼いなさい。」と言った。そしたら、なんと、その次の日からこの2匹の姿はぱったりと見えなくなったのだ。効果てきめん、多分捕獲はしただろう、旦那さんに相談すると言ってたからその結果飼うことにしたのだと判断してはいた。私は前回のブログで書いた通り、野良猫の撃退センサーを花壇につけていたが、それでも猫の足跡が3日くらいはついていた。これは多分あの2匹がいなくなったことによる他の野良猫の縄ばり変更によるもので、現に他にもいる種類の違う野良猫2匹を確認していた。でも1週間ほどして、もはや今は全く野良猫が来た形跡はなくなったので、私の玄関前を縄張りにするのをあきらめたと思われほっとしていた。その矢先、本日聞いた捕獲されたオスとメスの2匹の猫の話だった。私も昔メス猫を飼ったことがあるが、メス猫の不妊手術は全身麻酔による開腹手術であり、卵巣だけを我が家の場合は取ったことがある。しかし、昔は今ほどペットの時代ではなかったために知識がなく、成熟して発情を繰り返してからの手術だったために我が家のメス猫は他のオスの野良猫に追っかけられて怪我をしてそれが元で死に至ったのである。今回の場合の白メスと白黒オスのカップルはとても仲良くいつも一緒に行動していた。多分このオスはオス同志の闘いに勝って、このメスを獲得し、お互いに大事に思っていたようで、猫のラブなのだろう。しかし、飼うとなると、非情にも妊娠してたために卵巣も子宮も両方全摘出となり、リスクが多いのははメスのほうだ。術後の回復も大変だし、せっかく授かった子供はお腹からなくなってしまったわけだから。でも、考えようによっては産まれてしまってからではもっと大変だったと思う。鉢植えのビオラが冬越しして今これだけ咲いてる。昨年のこぼれ種が側溝の土に落ち、今年こうして二輪仲良く咲いた。この向かいの奥さんは誰にも何も注意されることがなければ、そんなことを全く考えずに餌を与え続け、もしも産気づいていたら家に囲って産ませて、ある程度まで育てたら放し飼いにしてしまうという人で、過去にも実際やっていた。そして、その後も同じことをした。この奥さんは、その時の野良猫のメスは飼う気は当初全くなくて、病院にも連れて行かずにいたうちに物置で子供を産んでしまったからその子供を飼わざる負えなくなってその親子3匹もいる。その後に不妊手術を親子セットでやったらしい。よって、今回2匹入れると全部で合計7匹と相成ったというわけだわ。まあ、今回で懲りたでしょう、たぶんね。。この奥さんは、私には何の詫びもなしで、その後の話もしにも来ない人なくせに、他の近所の親しい方には自分の大変さを話して同情をかっているらしいので、近所の連中もおかしい。まあ、隣の旦那さんは一応良識はあるからいいが、ただ、動物そのものが嫌いのようでそこが私と違うのよね。私が外で4匹の亀の水槽の水を替えているのを今回初めて見たようで、ただ簡単に「大きいね、これも放せば大変だ」と言った。私は正直その言い方が気に入らなく、気分悪かった。亀だって、好きな人は「かわいいね」と言ってしゃがみ込んでのぞき込んでいろいろ聞くのに、こういう人は逆に冷たいと思う。私は「亀は子供が小学校の時から飼っていて、20年以上も飼ってるし、この自分の駐車場で監督しながら散歩させて後は二階のベランダで日光浴させてるだけ、絶対に放さないわよ、野良猫に比べれば人に迷惑はかけないわよ」と言った。生態を知らない人はどんな亀も「カミツキ亀」みたいに狂暴で、飼い主は皆大きくなれば持て余してしまって、こっそり公園にでも捨てに行ってるに違いないと思ってるんだから、これはこれで失礼というものよ。手をかければ、どんな動物でも、かわいいに決まってるわい、それが何もわからない人も私は嫌いだね・・・今回向かいの飼い猫になった2匹だって、私が向かいの奥さんにきつく言ったから安住の家を手に入れることができたんだから、よかったじゃないか!後は、メス猫ちゃんの早い回復を祈り、向かいの奥さんの他の飼い猫たちと仲良く暮らしていくのを祈るばかりと私は思っている。今年は夫と2人でこの写真展を見に行く。夫も猫好きなので前売りのペア券を購入しておいてくれた。ペアだと安いからペアで行く。猫は絵画的、写真的にはとても映える動物で、岩合さんはとても猫の表情をとらえるのがうまい。猫そのものが好きで、飼うことができない私は、こういったものを鑑賞することで満足している。さて、私はFacebookを2012年からやっている。興味本位で作ったものが役立ったのは第九に参加するようになって、そのサイトがFacebook利用してたから。そんな矢先、自分の出身高校同窓会東京支部に反応して「友達になる」をポチしたおかげで、2人の同じ学年の男子生徒に出会えた。特にその中の一人は中学校でも同じクラスだったので、思い出が多い。今その彼は、東京芸大卒業後、打楽器分野で音楽活動に精力的に活動している。私が第九で歌ってると言うとぜひ共演したいねと。でも、以外にも、彼の音楽の原点は中学校の校内合唱コンクールで我クラスが彼の指揮で金賞を取ったという栄誉が自信と欲望につながったと言っていた。Facebookの中のメッセンジャーという個人的な話もでき、過去のクラスの思い出話に花が咲いた。彼は自分の滅茶苦茶だった指揮法が今思うと恥ずかしいと言っていた。とにかく本当に個性的な指揮だったのだ。舞台端から端まで夢中で歩いて腕を振り、完全に自分の世界に皆を引っ張っていく、今でもその時の曲(「汽車にのって」という曲だった)の三部構成が頭に入っていて風呂場で口ずさめるというくらいだそうで、実は私もこの曲を時々思い出して口ずさむときがあったから意気投合した。実は、我クラスは今年6月に2年ぶりに担任の喜寿祝いを兼ねてクラス会があるのだが、彼は3年時はクラスが違ったので、残念がっていた。そんな感じで普段は楽しい知ってる者同士の会話なのだった。しかし、一昨日に気持ち悪いことがあったのだ。「友達になる」をポチッと押せば、Facebookでは「友達リクエスト」として相手に届く。一昨日、私にその「友達リクエスト」に見知らぬ外国男性からリクエストがあって、つい簡単に深く考えずにポチしてしまった。相手は英語で最初書いてきたので参ったなあ~と困っていたら、日本語が相手がわかると知り、ホッとした。しかし、その後やたらと質問攻めに合う。私の歳を聞いてあなたよりも14歳多いと言っても気にしない、結婚していても気にしない。挙句、「自分は兵士です、シリア戦争を知っていますか?私は任務で行っていうる・・・」私は不勉強でわからないと伝え、その後も私は仕事を聞かれたりして、適当に答えた。さすがにきりがなく、昼過ぎてたので「またね」というわけで、あわてて一旦パソコンを閉じて昼ご飯を済ませて、そのあとジムへ。帰ってから再びパソコン見たら「あなたはアパートに住んでいますか?」「そこにいますか?」とメッセージがあった。私が「家族がたくさんいて一軒家にいる」と言うと、「大丈夫、兵士はパソコン交信が難しいので、LINEで交信したい」と。「私はスマホ持ってません、携帯嫌い、束縛嫌いです。」と拒否。そしたら、「私は妻に先立たれて寂しい、あなたと話したい、ID作ってください」と。丁寧に答えなくちゃ悪いかなと思って答えてきたけど、さすがに❝この人おかしい❞と思った。❝私はガラケイだよ、この人のためになんでスマホ買わなきゃならないのか?❞と思った。私は「なぜ私なのですか?あなたには他にもお相手いるでしょう、他の方とどうぞ・・」と書くと、「わかりました、それでは私はこれからもう」って後は途切れた。え~?何しようとしてるの・・・自殺?❝まずい❞と思った私はFacebookのヘルプを調べ、この人のやってることは迷惑行為だと判断した。手っ取り早く彼のニックネームをブロックして、私のタイムラインを見れなくして、メッセンジャーもできなくした。当然「友達」から彼の顔写真も自動的に削除された。メッセンジャーのスレッドも削除した。その後、ネーム検索してみたら全くの別人の顔か、顔なしの同姓同名の人が何人も出てきた。もしかして、外人の写真とかネームを使った日本人のなりすまし詐欺かもしれない。つまり、スマホID乗っ取り詐欺かもしれない。おお怖い!今後は、簡単に友達リクエストには乗らないほうがいいと悟ったのであった。
2018.04.30
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先日近くの合浦公園(がっぽこうえん)に花見に行った。実は私は桜まつりなど、何年も見に行ってなかった。子供たちが小学校の頃は、同じ県内でも色々桜まつりに行ったけど、今はなんか面倒になってきてしまい、道路沿いの桜を見て結構満足していた。夫と二人でデートなんていう気分は今は全くなし。でも、夫は毎年一人で必ずこの近所の公園に行くのだ。何が目的かと言えば、❝たこ焼き❞だ。なんたって、夫は「花より団子」の人だから、私は一緒に歩きたくないのだ。私は桜を純粋に楽しみたい、そしていいショットの写真をたくさん撮りたい、ゆっくりのんびり過ごしたい。夫はたださらっと見ればそのたこ焼き買ってさっさと帰るのがわかってるので、つまらないから一緒に歩きたくない。それに、この近所の公園は海がある公園なので花見に行って風邪をひきそうでそれが怖くてずっと行ってなかった。今まではコーラスをやってたので、5月、6月に大事なイベントを控えていたせいで、喉の調子ばかり気にしていたし、日に焼けるのも極端に気にしていた。でも、皆さんのブログやテレビのニュースで全国各地の桜満開のニュースを見聞きするたびに、なんか、自分が損をして生きてるみたいな気がしてしまい、今年は見たくてしょうがなくなった。そんなある日、小雨の降る中、いつものように夫の運転する車に乗って食事の買い物に行く途中、郵便局に用事があって、その帰りに2人の息子が卒業した中学校の前を久々に通った。そしたら、なんと、学校の庭に何本もの桜が満開に咲いていた。❝ああ、そうだった、学校には桜が植えてあったのだった❞と今更気付いた。都会では入学式に咲く桜が、青森では今頃やっと満開。子供たちは平日で授業中だし、誰も歩いていなく、車中から淡いピンクを懐かしく眺めた。ずっと昔、PTAの役員活動をしていた頃に何度も眺めたことがあっただろうに、不思議なものだ。そんなことがあったせいで、次の日に急に行きたくなったのがこの公園だったというわけであった。幸いお天気が良くて、風は強いが帽子をかぶってデジカメをポシェットに入れ、ジーパン履いて早歩きで行った。行ってみたら、「おお~咲いている」って感じでウキウキ。平日なので混んでなくて出店の人たちは暇そう。わりと年配客が多くて、中には車椅子に乗ったお年寄りを押して一緒に桜見物に来てる人が結構いた。不自由な体になってもそうやって桜まつりに連れて行ってもらえるお年寄りは幸せな方、連れて行ってあげる方は感心な方だなと思った。私は物珍しく、出店の食べ物は目もくれず、飢えたように満開の桜を見まくった。どんなに歩いて戻って、又歩いてを繰り返しても飽きることがなかった。それは一人で歩いているからの自由さだと思った。これがもしも誰かと一緒だったら、相手に気を使って会話したり、食べたり、休んだり、写真を撮り合ったりとなる。決していいショットの写真は思うようには撮れないだろうと思う。最後は自撮りで自分の顔まで撮って遊んだり・・いろんな桜をいろんな角度で撮りながら、松の緑と白樺の白と一緒で何て美しいのだろうと改めて思った。そして、その続きに海がつながっている。何といっても海が久しぶりに見れた。穏やかにきれいな青い色をしていた。厳しい冬は終わって、青森はこれからが一番いい季節なのだ。公園なので動物も多少はいて、猿や鳥類ばかりだが、今回は昨年産まれた孔雀の子供たちが大きくなって親と一緒にえさを食べてる姿がほほえましく感じたのでじっくり眺めてこれも写真を撮った。この合浦公園は大きな池にたくさんの築山があって、その中に水鳥が浮かんでいてかわいらしかった。そのうち、夏になるとここは睡蓮の花がたくさん咲く。そして、藤棚に藤が咲いて、つつじとのコラボが美しくなる。たくさん撮った写真をなんとかいい形にしたいと思い、動画を作ってYouTubeにアップした。久々の動画作り、ちょっと忘れていて、ノート見ながらやっとだったけど。満足した私は結局は家族のために鶏モモ肉の唐揚げをお土産に出店で買って家路に急いだのであった。さて、野良猫対策の超音波センサーを玄関前の花壇に挿して早1週間になる。最初の何日かは猫の足跡がついていたが、土の中には糞はなかった。どうやら動物が嫌な微音が不快らしく、高価なだけに効果ありでよかった。向かいの奥さんとは今のところ顔を合わせる機会がないが、例の野良猫二匹は姿がない。果たして飼うことにしたのだろうか?でもまあ、その代わり、違う猫がこうして縄張りを広げようとしていたわけだから、センサーつけて本当に良かった。今日テレビで、東北に猫島があって、村の皆で野良猫を世話しているところがあるという番組を見た。なんでも、ネズミとかの駆除をしてくれるからと猫は神様ということで皆で大切にしているそうで、猫神社まであって、その神社には猫の置物がたくさん置いてあった。村人たちは皆好きなように野良猫に餌をやって、猫もわんさかいてそれは田舎ののどかな光景だった。しかし、こういうところの生活しか知らなくてこれが当たり前だと思っている人たちが狭い住宅街で暮らしたらどんなに非難を受けるかわからないのだ。生活と感覚は密接なものだと思う。ここの島の猫も人も幸せなのだな、ずっとここで暮らすのならば。。と思ったのだった。
2018.04.28
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野良猫被害の今日のブログを読む人は一つ前のブログを読んで欲しいと思う。その後の経過であるからだ。遡ると、4月17日に向かいのI奥さんとWオヤジに餌付け禁止願いをした。しかし、前回のブログでその日のうちに撒いた粉洗剤とか唐辛子など全く効果なく、19日には再び猫の足跡がたくさんあって、ゴロゴロと糞がたっぷりあった。そして私はシャベルで土を掘り起こし、それを片付けているうちに猛烈に腹が立ってきた。大きな声で「ああ臭い、もう嫌!我慢できない!」向かいには奥さんが外に出ていたのを承知で。私は彼女に直接はっきり言った。「ほら、何をやっても無駄!いくらでも糞が出てくる。あなたは加害者だ。わかってるの?私のこの花壇の土は猫は自分のトイレだと決めてるのよ、皆あなたのせいよ!どうしてくれるの!あなたこの2匹(黒白オスと白メス)を飼いなさい。」って。そしたらこの奥さんは「でも・・・」と言いかけ何を言うのかコイツと思ったら「他で飼ってる飼い猫かもしれないじゃない」だって。私はあきれたが、奥さんは「旦那に聞いてみる」って言ってさっさと家に入って逃げたのだった。私は糞を片付けた後、お部屋の消臭剤をたっぷり振り撒いた。しかしだ、他の飼い猫だと思うなら飼い主に悪いから勝手に餌をあげないのが礼儀だ。そして、飼い猫なら首輪もつけずに放し飼いする飼い主も悪いだろうに・・・次の日の20日になって、その二匹の白のブルーの目のメス猫と、黒白のオス猫の二匹は姿が見えなくなり、我が家の花壇には猫の跡形がなく、ホッと胸をなでおろすとともに、あの二匹を向かいの奥さんはどうしたのだろうか?と疑問に思っていた。しかしその日、うちに帰省していた長男が外で亀の水槽の水換えをしているときに、こんな猫が近づいてきた。そう、このトラ猫こそが先日二匹を見たほかにも見た他の野良猫の一匹だ。この猫以外にも全体に真っ黒な大きなオス猫がいて、我が家周辺をうろついている。向かいの奥さんが餌やりしていた場所にこれら4匹がタムロしていて、トイレの場所はそれぞれの猫が縄張りとして確保していたのだろう。それを向かいの奥さんが二匹をどこかにやったか飼ったかで姿がなくなった途端にこのトラ猫がこの二匹の縄張りをぶんどったということだ。そんなとき先日ネット注文しておいた「番人くん」という野良猫撃退グッズがついに届いたのだ。後ろの蓋がきつくてうまく開かずに困り会社にメールで尋ねて、ついでに設置の仕方を聞いた。そして、蓋に単三電池を2個入れて、左の感度の調整ねじと右の周波数の調整ねじを合わせて設置。左ボタンの感度の調整は超音波最大範囲に設定の6~7mにして、右ボタンの周波数はH(大型動物、イノシシ)M(中型動物、猫、犬)L(小型動物、ねずみ)なので今回は猫なのでMボタンに設定した。真ん中の白いところがそばに近づくと青く光り、かすかにピーと音がする。動物にとっては不快な音らしくそれで居心地の悪さを感じて糞もできなく結局は来なくなるということらしい。何といっても、レビューが最高で、全く効果ない人は全額返品システムもある。値段は、送料や代引き手数料なしで税込みで15,984円だった。 向かいの家はこのように物置が車庫替わりになっていて、シャッターがないので、野良猫はここにきてよく日向ぼっこして、ここに車があるときは車の下に隠れている。今の建築法ではおそらく建蔽率違反だと思われるような建物だ。そして、裏の勝手口では奥さんが餌付けしていたということだったから猫が来るのは当然。ましてや自分の家では既に5匹飼っているのだ。この5匹の猫のうちの1匹は昨年までは野良猫でこの奥さんがその時も餌付けして真冬に家に入れて飼い猫にした。(その時も多少の糞害があったが特定できていなかった)その猫は実は妊娠していて家の中で出産してしまい、産まれた子猫を見たらかわいそうになり保健所へ持っていけなくなって、二匹の子供も飼い、他の子猫は結婚してる娘さんの方にあげたとか・・・実はこの向かいの家は貸家で敷地面積はこの辺では最低と言うほど狭い。私はこの土地に50年も住んでいるのでいろんな経緯を知っているが、土地の持ち主が他の人に売って、それを買った人がマイホームを建てたものの子供が3人もいるので転勤と共に他の人に貸すことになった。この奥さんの前に借りた人は3年程住んで狭いからとマイホームを建ててここを出て行った。その後に別な家族が住んだが、これも狭いからとマイホームを建てることになり出て行った。その後に入ったのがこの奥さん宅だが、3年くらい経ったらどうせ又出ていくだろうと思っていたら、なんと子供たちは成長して結婚して出て行って夫婦二人になる今日まで、もはや20年以上も住んでいる。(私よりは10歳くらいは若いと思うが・・・)果たして賃貸契約はどうなのか?と思っているのだが、もしかしてこの家を買ったのだろうかと思うほど好き放題に改築し、猫も飼い放題にしている。実は、この向かいの奥さんには20年前にも相当な被害を我が家は被っているのだ。というのは、20年前に我が家は二世帯住宅を建てたのだが、その時に理由があって新しめだった物置を残して古い家を壊した。その時も向かいの奥さんは家に飼い猫がいて、野良猫にも餌をあげていて、そこの家の子供たちも家族ぐるみで世話して楽しんでいた。それがある日我が家に向かいの奥さんがきて、「お宅に子猫まぎれていませんか?何匹か足りないんだけど・・・」って言う。そこで、我が家はその壊すはずの物置を探したら、父が産まれてまだ1週間ぐらいのフラフラした子猫を4匹くらい手に持って「こんなにいた!」と持ってきた。それを向かいの奥さんに渡すとき私は「こんなことしないでください。もうじきこの物置だけを残して家を全部壊すところだったんですよ!飼ってるわけじゃない野良猫は山に捨てるか、保健所にやるしかないでしょう!」ってかなりきつく言った。そしたら、「すみませんでした」とこれで終わり。そして、子猫はどうしたものかいなくなっていた。その後も野良猫の世話を好きな奥さんは子猫をいっぱい走らせていたことがあった。こういう人だから私は腹が立つのだ!!だから、私は何年間もこの奥さんと口を利かずにずっと過ごしてきていたのだ。。それなのに、まただ!!!バカな奴の相手など飽きた。隣の旦那さんも相当野良猫被害で頭にきているので、我が家との間の塀を高くしたり、ペットボトル置いたり、網やったり、・・・お金をかなりかけたと嘆いて、ついに先日その餌付けしたオヤジやこの奥さんと喧嘩したということなのだった。飼ったことがない人にはわからないだろうな。自分ちの猫をいくら大事に囲って育てても野良猫は猫がいる家に来たがるものだ。我が家でも昔メス猫を飼っていたが、他の家のオスの去勢してない猫にどれだけ被害を被ったことか!お陰で我が家のかわいい三毛猫ちゃんは怪我が元で、たった6歳であの世行きとなったのよ。。とにかく、そういうわけでトラ猫を見かけたものの、この「番人くん」を取り付けたのが20日で、21日は足跡がなかった。ところが、本日22日に花壇を見たら又しても猫の足跡と不自然な土の盛り上がりを発見!さっそくシャベルで掘り起こすと、なんか小さなものがあったが、前に残ってた糞なのか少しだけトラ猫がしたのかわからない。そこで、少しだけ周波数を高くしておいて、様子見だ。もう一匹のボスの黒猫も警戒しなくてはならない。。さて、気分を変えて、長男の誕生日は4月21日で、ちょうど実家で親子皆そろっての誕生日祝いができた。男の33歳は女と違って厄歳ではないけど、来月から新しい職場に転職して、そのために今までは必要なかったから敢えて取ってなかった自動車運転免許も取ったしと、交通安全や転職祝いなど兼ねてのプレゼントを私は久々に長男にした。こんな感じのプレスで、黒ヒスイ・ハイパーシーン・ヘマタイト・水晶でできている。私が石が好きなものでブレス愛好家なのでお店と相談してこれをプレゼントした。本日はフィギュアスケート選手の金メダル二連覇祝いの祝賀パレードが仙台市であるので大騒ぎの様子がテレビで報道されていた。そんな中、17日に帰省した長男は本日羽生君のように手を振って仙台市へと帰っていった。父(90歳)、母(87歳)、長男(33歳)見送りで大慌てで出てきた両親と孫の別れの写真。1月にあばら骨を骨折したとは思えないくらい回復して母も孫と一緒でニコニコだ。クサガメ(♀ハルカ、♂シノブ)ミドリガメ(♀ナル、♂シノ)長男が亀好きでその後を私が毎日世話しているが、帰省すると長男はいつも世話して帰っていく。自分のペットが元気でいるのが安心のようである。ペットでも迷惑かけないことが第一。このような亀は近所に迷惑をかけることはほぼないので、それだけは安心だ。
2018.04.22
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野良猫が最近我が家の周辺に増えていることに気付いたのは今年の雪解けの3月頃だ。かすかに土が見え始めた頃の雪国の人間の喜びはひとしおで春の訪れを嬉しく思うものだ。そんな時に、その土部分にもろに見えた猫糞は私に非常なるショックを感じさせた。しかたないので、糞を取り除いて雪をかぶせての繰り返しだった。我が家の玄関前は今雪が溶け、このようになっている。やっと昨年の宿根草の葉がやっと出てきて、木の緑が萌出る時期だ。私は最近非常に悩みがある。この白い粉部分はありの殺虫剤で、後ろにはこんな猫忌避剤が置いてある。5日くらいは効いただろうか、ところが雨が降ったら再び土が荒らされてこのように猫の足跡がついていた。もちろん中を掘り起こしたらスーパーの小袋が結構半分以上になるくらい糞があった。これは、朝、夕方少なくとも一日二回、多い時は一日に三回、だんだん量が増えてきた。ああ、これではいけないと思い、悩んでいた。そんなある日、私はすぐ近所のwさんのおじさんが窓から口笛を吹いて猫を呼び、猫に餌付けをしているのを目撃したので、これは言わなければと思い、自分の玄関の花壇の写真を撮って話に行った。最初不在だったので、しかたなく、ついでだからといつもは見られないお宅の後ろを見てびっくりした。 ↑ここは我が家のお向かいのIさんのお宅の裏側で普段は見られないところだが、このビックリマークのところにキャットフードと水と二つ置いてあったのだ。(写真はその日のうちに餌付けはやめてもらったので取り払ってあるが)ついでに、このお隣のお宅も昼不在なので、ここも猫たちの場所らしい。このように近所にこの子らがいた。 ↑この子は警戒心が強くてほとんど我が家の方には姿を見せないが、餌をもらって食べているらしい。 ↑ そして、少し前にはこの子の写真を撮った。この子はブルーの目がとても美しいメス猫でお向かいのIさんによくなついて私もよく見かけ、美人猫だと驚いたが、メスのせいか少し警戒心が強い。でも、私が触っても平気で撫でられていた。↑この子はさっきの陰に隠れていた子でオス猫だが、青い目の彼女と友達のようでよく二匹は一緒に行動していて、この子が一番頻繁に我が家にまで侵入してくる猫で一番人懐こくてちゃっかりしている。うちの亀の散歩も興味深々で黙って見ていた。こんなかわいい猫たちに何が問題だろうと本当は悲しいのだが、この子たちはこの頃自分のトイレを我が家の花壇に決めてしまったらしいのがショックなのだ!なんたって、我が家の花壇は玄関にあって、唯一の楽しみは春になったらここにたくさんの花を寄せ植えすることなのに・・・これではいくら糞を片付けてもきりがなく、荒らされて花を植えたところで弱い苗は踏みつぶされて猫の糞だらけは永遠に続くに違いない。そこで、餌付けをもっともたくさんしているお向かいのIさんのお宅に訪問。先日この猫たちの話をしたので、きちんと話しようと思った。私が使っている猫忌避剤がこういうのだといい、780円くらいで二個しか入ってなくて、臭いは正露丸のきつい感じで、成分は木酢とニンニクらしいと伝え、「これを花壇に規定量置いても最初の5日くらいはよかったけど、全く効果はなかったの」「お宅で餌付けしてますよね」と言ったら「はい」と言ったので、「猫は大好きでかわいいけど、我が家の花壇はお宅が見てご存知のようにこうなの、お願いですから餌付けはやめてください、そうでなければ私は町内会長さんに話して回覧板回してもらおうと思ってるの」と言ったら本当に素直に何度も「はい、わかりました、やめます」と低姿勢であったので拍子抜けして、本当かな?と思ったくらいだった。そのあと、ああ一応町内会長の電話番号聞かなくちゃと思い、今度はお隣の昨年奥様が亡くなって独り暮らしのYさん宅に行った。Yさんは今年は町内の組長に当たっているからだ。で、猫の話を切り出した途端、「俺は、あのWのオヤジとその猫のことでこの間大ゲンカしたんだ!」と言い出し、話が長くなると思ったか、「中に入って」と言われ、玄関のコンクリート部分で立ち話をし始めた。「あのWのオヤジは、元々カラスに餌付けして、その餌に猫が一緒にたかってきたのが始まりなんだ。家でも猫被害が大きくて頭にきてたから猫に雪玉ぶつけたんだ!そうしたらあのオヤジ❝なにすんだ、お前、動物虐待だ!❞って怒りやがった。❝何が動物虐待だ。それほどかわいくて好きなら自分で家で飼えばいいだろ、ただ餌ばかりやって無責任だ❞って言ってやった、そしたら向かいのIの奥さんまでが一緒になってつっかかってきやがった・・・」と延々。。。私が「向かいのIさんの奥さんの所にさっき私行って来たら餌付けは辞めるって言ってましたよ。彼女も自分で餌付けしているのに自分のトマト作るための小さなブロック囲いの土部分の猫糞に悩まされていて、❝困った❞って言うんだけど、自業自得ですよね、矛盾してるよね。でも彼女は自分で餌付けしてるから仕方ないけど、私たちは何も餌付けしてないのに被害被るのは納得いかないよね」ってなって、意気投合。このY旦那さんは保健所にも問い合わせたそうで、なんでも近所で解決して欲しいとか、捕獲して持ち込めばいいとか言われたそうで、とりあえず、私は町会長さんの電話番号だけは聞いてお話は終わった。さて、午後になり、例のもう一人のその餌付けのWのオヤジのところに私は行った。ピンポンしたらやっと出てきたが、奥さんは外出中でオヤジは耳が遠いのか最初は全く呆けてるのかと思うほど話が進まなかったが、このオヤジは昔この町内の個人クリーニング屋で私もよく制服出したんですよって話から始めたら「ああ、そりゃどうも」ってニコニコで和やかに。で、「実は私の家の前こういう花壇があるんですけど」ってデジカメの玄関前の花壇の写真を見せ、「ここに毎年お花を植えてるんですけど、猫の糞がひどくて困ってるんです、お宅で餌やってますよね」って言ったら「うんやってるよ、だって、かわいいきゃ~(かわいいだろう)でも今やってないよ、これであんたで二人目だな、しゃべりにきたの、あそこのオヤジから(Yさん)からはどなられたもの」って言う。私も「猫は私も大好き、かわいいよねえ~私も昔飼ってたからわかるのよ」って言った。そしたらオヤジは「餌はこのIさんの奥さんがいっぱいやってるんだ」って言う。そこへ、オヤジの奥様が帰宅してご挨拶。「これから猫の発情期来れば大変だよ~去勢すればいいのに」って言うんで「Iさんの奥さんはもう5匹飼ってるんだって、元々二匹飼ってたのに、後で他に野良猫のメスを家に入れたらお腹に子供入ってたのに気づかなくて産んだのでその子猫まで飼ったんだって。そのあと不妊手術したら5万円もかかったんだって。もうこれ以上飼えないって言ってたわ」って言ったら「へ~~!!」ってその不妊手術の金額の高さに驚いていたくらいなのでこの年寄り夫婦は飼う気などさらさらないのだった。だからYの旦那さんに文句言われるのだが・・・私は「ほら、お宅だって玄関の前に木が植えてあるでしょう、ここに糞されたら嫌でしょう?この辺は近所が近いからお互い気を付けましょう、よろしくお願いしますね」って丁重に挨拶して気持ちよく終わった。まあ、こんな感じで言うことは言ったしと思い、今朝を迎えたら又しても同じように糞害。向かいのIさんの奥さんに「ほら、又こうなのよ」って嘆いて見せたら「何かいい方法ないのかな?もう餌付けはしてないけど」って言う。私は昨晩ネットでたくさん調べまくった結果を知らせて、「こんな猫の忌避剤なんて何も効かないのよ。お金が無駄なだけなの。猫はここがトイレと決めれば絶対にそこにし続けるんだって。」って言ったあと、「まあ、しいて言えばネズミ捕りみたいな捕獲の金属の籠が売ってるらしいの、それで自分で捕まえて保健所に持っていけば殺処分してくれるんだって」って淡々と話した。そしたらIさんの奥さんは「ええ~かわいそうだ~」って悲しそうな顔をする。そしてYさんの旦那さんが猫虐待した時Wのオヤジに同情して「あれはひどすぎる、猫にもの投げるなんて」って言った。私は「そうだね、ひどいね、それは私は絶対しない、かわいそうだよね」そこへ、例の仲良しの二匹(黒白と白)が寝そべりに又お向かいの車のそばにきて私の家の方にも向かって体をこすりつけてくる。「ほら、この子たちはあなたのところがいいのよ、奥さん飼えばいいのに、飼ってちょうだい~」って言ったら、奥さんの顔に迷いが感じられた。今5匹いるからとか言ってるが、あと2~3匹増えたっていいじゃん、好きなんだものって私は思う。私も私の母も夫も猫は好きなんだけど、昔飼った時の悲しい思い出が蘇る。実際いくら二世帯で人の家よりも一見家が大きくても一階に年寄りが住んで、二階に私たちが住むという生活では猫など飼うのは到底無理だ。❝飼うなら早く決断して!向かいの奥様!❞と祈るばかりだ。<(_ _)>万が一あの仲良しの二匹がくっついちゃったら子供ができちゃうからその前に家にさっさと入れて不妊手術して飼ってちょうだい!でも、この奥様は不妊手術だけすればいいと思ってる気配が・・・それはいけないよ、もっと残酷だ、自然界ではいじめられるよ。「やはりあんたが餌やった以上は責任もって飼いなさい!」と私は言いたい。そして、私は、なおもしつこくネット検索していい方法はないものかと考え続けている。そして検索したらこういうものを撒くといいと書いてあったので、今日スーパーで買って実行。粉洗剤ってどうなのかな?って思ったけど猫忌避剤の正露丸と違って素晴らしくいいフローラルな香り。そして、唐辛子は肉球に刺激あるそうで猫が寄らないとか・・・アップにすればこうだが、ニンニクは猫が嫌いなもので有名らしい。さらに検索したら通販でこういうものに出くわした。値段はなんと税込みで15,984円もする。でも、猫が嫌うセンサーでレビューもかなり良いのでイライラしてる私は注文してしまったわ。使用してだめなら返品もきくらしいし。向かいのI奥さんがこの子らを飼うかどうかわからないので、完全にシャットアウトできるといったらこれが最良だということなので、一応我身を守るための出費はしかたない。でも、なんか気に入らないわ (-_-;)「かわいいからと言って情けをかけて少しだけとやる一粒の餌」がどれほどの人間関係を壊す元になるかと言うことをよく考えてほしい。悪いけど向かいのお宅は貸家の小さな家で今でも5匹の猫を飼うという、かなり無理なことをしている人だ。もっと田舎の広々したところに引っ越して思う存分多頭飼いすればいいのにと思う。岩合光昭さんの「世界ねこ歩き」と言う番組が私は大好きでよく見るんだけど、その点、外国はいいなあ~広々とした土地に野良猫が悠々と歩いて皆から可愛がられて、文句を言う人もいない。そういうところに住めば気楽だ。ああ、そういえば、私昔牧場に住んでいて犬を何匹も放し飼いで世話したことあったのを思い出しちゃった。もちろん迷い犬の世話もしてその子供も飼ってさ・・・今は本当に昔の古い懐かしい思い出だな。。とりあえず糞害から解放されて早くきれいな花をたくさん植えたいわ。。。
2018.04.17
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録画しておいた遠藤周作(原作) マーティン・スコセッシ(監督)の「沈黙ーサイレンスー」という映画を見た。あらすじ日本に布教に行き消息不明となった師フェレイラ神父からの最後の手紙で酷い宗教弾圧を知った若き神父ロドリゴとガルペは、棄教したと噂される彼の救済と布教のため、マカオで出会った切支丹(日本人信徒)キチジローと共に日本に密入国する。辿り着いたトモギ村では切支丹のイチゾウとモキチら信徒に匿われ、教義に対する意識の違いに戸惑いつつも司祭の務めを果たし、周囲の村にも切支丹が多く存在し赤貧に喘ぎ弾圧に怯える現実を知る。やがて村は奉行井上筑後守により陥落、モキチはロドリゴに自作の小さな十字架を託し、イチゾウと共に水刑に散る。2人は分れて逃亡するも、ロドリゴは壊滅した五島でキチジローに密告され奉行所内の牢小屋で囚われの身となる。神父殺害は逆効果だと知る井上奉行は、ロドリゴに通辞をつけ軟禁、彼の目前でガルペや切支丹らを殺害し棄教を迫る。キチジローは再々現れては告悔と裏切りを繰り返す。井上奉行の差し金で再会したフェレイラは、穴吊りの拷問により棄教し、日本名を名乗り神を否定する書物を執筆、この国では神の概念が異なり教義は誤認され、信徒は歪んだ教義を信じお前のために死んでいると説得される。絶望したロドリゴは穴吊りを望むが、奉行側は背教信徒を拷問、フェレイラに信徒の命か棄教かと迫られ、私を踏めと言う神の声を聞き棄教。彼はフェレイラと共にキリスト教の禁制品の監視役に就き、与えられた日本名と日本人の家族と共に余生を過ごすが、召使となったキチジローの告悔を密かに聞く事も。キチジローが禁制品所持の咎で捕えられ監視は一層厳しくなるが、ロドリゴは棄教を貫き仏教徒として生涯を終え荼毘に伏される。だがその手には妻が密かにモキチの十字架を握らせた。自分達を守るために苦しむ信者達を見てロドリゴは苦悩する。「なぜ神は我々にこんなにも苦しい試練を与えながら、沈黙したままなのか―?」フェレイラ神父の最後の方のシーンでの言葉が印象的だった。「15年この国で布教したが、我々の宗教はこの国には根付かない。この国は沼地で苗を植えても根を植えても腐るのだ」とロドリゴを説得する。そして、「葉を広げた時もあったではないか」と怒り言うロドリゴに、フェレイラ神父はさらに「日本人が信じたのは歪んだ福音だ、我々の神など信じてはいない」と言う。そして、さらに神を❝大日❞と教え、「❝大日❞とは、❝神の御子(サン/son)❞のこと。❝大日❞とは何か教えようか!あれが神の独り子❝太陽❞だ」「聖書ではイエスは3日目に蘇る。だが、日本では❝神の太陽❞は日々昇る。彼らは自然の内にしか神を見出せない。人間を超えるものはないのだ。キリスト教の概念は持てない。」ロドリゴは泣きながら反論して「この国の殉教者は皆信仰に燃えていて無のために死んだのではない」と言う。フェレイラ神父は「彼らはキリストの神のために死んだのではない、お前のために死んだのだ」と言い、「❝山河は新む❞という、意味は ❝山河の形は変われども、人の本性は変わらぬ❞ だ。 とても賢い考えだ。我々は人の本性を日本で見出した、それが神を見つけることだ」と諭した。そして「司祭はキリストにならうと言う、キリストがここにいたら…彼らを救うために棄教したはずだ」と言い、彼の肩を抱き、「今まで誰もしなかった最も辛い愛の行為をするのだ」と呟き、キリストのレリーフを彼の前に置く。ゆっくりレリーフに歩み寄るロドリゴにすべての音が消え、神の声が聞こえる。「それでよい。踏みなさい。私は人々の痛みを分かつためにこの世に生まれ、十字架を背負ったのだ…お前の命は私と共にある…踏みなさい…」ロドリゴはレリーフを足に乗せ、地べたに突っ伏して肩を震わせる。それぞれの信徒から安堵の息が漏れ聞こえ、一番鶏が時を作り、蝉が鳴き始める。先日あるコンサートを聴きに行った。会場は市内では一番大きなホールだが、さすがに第九が前身の「青森ベートーベンスコラーズ」という混声合唱団とソリストと管弦楽団コラボの演奏会は大入り満員で大成功だった。今年の演目は「バッハのヨハネ受難曲」2年に一度の演奏会で、私の知人が何人かいるので大分前から聴きに行こうと思っていた。手元に前売り券はなくもらう予定もないので最初から当日券1,000円を購入して一人で座った。第九の練習指導をしてくださってる指揮者や先生方も出演だったので、興味深く聴けた演奏会だった。前記の映画を見たのはこの演奏会の後だったが、逆だったならもっと興味深く聴けたかもと思った。宗教と言っても、私自身は特に信仰してはいなく、家が浄土真宗なのでそれでそのまま仏事を行えばよい、正月は神棚に手を合わせ、初詣は大仏様に手を合わせと滅茶滅茶だが、映画の感想と自分の生きてきた今までの経験から考えてみると、人が生きている以上絶対なものはなく、神様というものは人が作り出したものの中に真実として見えてくるものであり、人の心の中にあるものと私は考えている。この演奏会についての記事が夕刊に出ていた。書いたのは私が昨年の3月まで所属して今は辞めてしまったおかあさんコーラスのメンバーであり、私に時々このおかあさんコーラスへの愚痴メールをよこす人物だ。それにしてもよくこれほど丁寧な長い感想文を書いたものだと感心した。なぜ、今回初めて彼女はこんな記事を書きたくなったのだろうか?勇気のある彼女の行動にきっとおかあさんコーラスの仲間たちはびっくりすることだろうな。先日の私への彼女からのメールは、いつものように団体への不満で、私にそれを話せば楽になるようであった。しかし、私としてはよく考えると筋が違うように思う。彼女は辞めた私か、会の中にはたった一人だけに愚痴ることで気が楽になるんだそうだ。でも、それは私にすれば一時しのぎでしかないように思う。「そんなに気に入らないなら辞めたら、お金も無駄よ、」と私はいつも彼女に言ってあげる。で、今回は自分が辞めないのは「ずっと歌っていたいから」「他の同レベルのコーラスの人間関係も同じだろう」等と最近あらためて気付いたんだそうだ。それはかかりつけ医に不満があっても、どの医者も似たもんだろうと、あきらめているのと同じ思いだそうだ。そんなわけで彼女は辞めれないで苦しんでいるわけだが、今年は一応しかたなく入会して3年目にして初めて役員を引き受けたそうだ。彼女は辞めた私と中にいるたった一人のメンバーにのみ愚痴を聞いてもらい元気になってがんばりをつないでいるんだそうで、いざとなったら休会して様子をみてからまで辞めないつもりらしい。私にすれば、なんてすごい神経だろうとも思うが・・・まだ入会して3年では本当の会の苦楽が分かり切っていないと思う。私などは二つのおかあさんコーラスを経験して辞めたり入ったりと、合わせて通算20年近くいろんな思いをしてきているのだから、彼女はまだまだ序の口だ。彼女の考えていることは間違っていないし、私も同感することはたくさんあるので、メールでも共感文を書くことが多いが、やはりこの団体の過去の歴史を知らないためにあまりにも露骨にストレートに真実を言いすぎてしまい、相手の感情を傷つけすぎてしまうところがある。単なるクレーマーと受け取られて大変に損をしていると思う。でも、それこそ、人の性格はそう簡単に変わるものじゃないというのでこれが彼女の悲しい性というやつだ。私みたいな人間に話して楽になるのかな?なんて思うが・・・それをわかっているので、彼女を気の毒に思い、又彼女は若い頃から離婚して独り身で私のように家族に愚痴ることができないかわいそうな人、私よりも10歳ほども年上であるので一応人生の先輩であるからプライドを傷つけてはいけないとか思うので邪険にはできないのである。ゆっくりレリーフに歩み寄るロドリゴにすべての音が消え、神の声が聞こえる。人が本当に深く考えて悩む果てに、答えはやはり自分自身が出すものだ。そのときに神の声はおのずと聞こえるに違いない。自分の体の奥深くにある魂が必ず我慢しきれなくなって自然に神の声が聞こえるようになる。そうすれば、自由になり、解放されて、魂が喜ぶと体も健康になる。私は信仰は特にしてないが、自分でそう悟るようになった。私の神の声は私が自分で作り出す。。
2018.04.06
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3月になり青森の雪はさすがに溶けてきて、冷たい風が吹くが、いよいよ春の気配がしてきた。道路に雪がなくなって次男が自転車で通勤できるようになってきた。なんか最近寂しいと感じる私である。2年程前から次々と嫌になった(NPOの仕事、おかあさんコーラスの趣味)をやめてしまって、今非常に解放感はあるにはある。でも、「幸せか?」と問われれば「はい」とは言えない自分がいるのはなぜだろう。私はいつも何かを探している人間らしい。いつもどこにいても ❝ここは自分にふさわしい場所か?❞ って思う。そして、いつのまにか ❝私はこの場所にふさわしい人間か?❞ と思う。上の二つの文章は一見似ている文章だが、意味が違う。上の文章は、自分を主観的に考えて自分が居場所を選ぶ発想。下の文章は、自分を客観的に見て一般的に自分はどう見られているのかを考えた発想。❝ここは自分にふさわしい場所か?❞という発想を持てば、気が楽になる。こんなところ自分にはふさわしくない、もっと自分には自分に合った居場所があって、こんな人達と自分とはレベルが合わないんだから無理する必要はないと思えるのだ。でも❝私はこの場所にふさわしい人間か?❞という発想の場合は、非常に自己否定につながり落ち込むことにもなりかねない。自分という人間は他の人間とは相容れない協調性の乏しい部分があるのかもしれないと感じ、孤独感を必ず感じるからである。つまり、その場所に何年もいて満足している人間たちが世の中にはたくさんいるからだ。満足までいかないまでも、我慢できるだけでもすごいこと。ところが、私は我慢ができないと感じるまでに時間がかかっていることに自分でも気付かずにいるらしい。そして、いつの間にか自然に自分の体は精神的に追い詰められ、最後は肉体に変調をきたすようになっていったのも気付かずにいた。2016/1/172018/02/26なんと、このように以前にブログに書いたときのガングリオンはここまで自然完治した!私の場合は、ガングリオンという腫瘍が手首にできて自然完治するまで3年近くかかった。多分ストレスで体液の循環が悪くなって神経の磨り減るような気分が多かったせいだろう。あれほど何度も整形外科に穿刺に行って中の液体を抜きに行っても中々治らず、手術も嫌だし、しまいには痛さに嫌気がさして自然放置した。医者からも問題のない良性腫瘍と言われたので放置しただけだが・・・ガングリオンは原因不明の腫瘍と言われているが、嫌なところを全部やめてしまったら自然治癒したのだから無関係とは言えない気もする。何かをずっと思いつめた時の私は、非常に神経が研ぎ澄まされて、相手の考えていることが全部見えてくるようになるほど相手を信用できなくなる。そうしているうちに最後は相手が私という人間を気難しくて何を考えているのか理解できないと思うらしい。でも、私から言わせれば、相手が鈍感なのか、ずる賢いかのどちらかだという決定判断になる。要するに、神経繊細な人間はいろいろな物事の裏が見えてしまい苦労するというものだ。思うに、「呑気、鷹揚、楽天的、鈍感、あるいはズルい」と私が思う人間ほどそういった悩みはないようだ。しかし、こんな私が必ずしもマイナス評価ではないのだ。むしろ普段は非常に皆の尊敬や信頼を集めてしまい、人から相談や頼まれごとをされることが多い。でもそれが、他人が思う私への評価と自分自身の実力の差が大きかった場合は、自分へのプレッシャーが自分で思う以上に自分を苦しめてしまうことになるものだということに気が付く。そして、こういった愚かさを自分で知るのはずっと後になってからなのだ。それが心身の不調になってあらわれるということだ。それなのに、何度も同じことを繰り返してしまう自分がいる。私は人生の上でなんて要領の悪い人間なんだと思い、情けなく思うこともある。なぜなら、人から何か頼まれたとき、できることなら役に立ちたい、やる以上はきちんと最後までやりたい。そこまではいいが、その上にやった以上はそれなりの評価が欲しいというバカな欲が出てしまう。これが俗にいう❝どこかで見返りを求めている❞ということで、最大の自分を苦しめる原点かもしれないと最近思っている。だから、最初からできそうにないことはことわる、引き受けても「ここまで、これ以上だと・・・」という線引きを最初から相手と交渉して決めておく、これが大事だ。評価は人それぞれと割り切って、自己満足を大事に考えたほうが自分が満たされるに違いないだろうと思う。さて、私の母が今年の正月に畳で足を滑らせてあばら骨を骨折した。自宅療養していたが、ずいぶん苦しそうだった母だが、内科で痛み止めの薬をもらったり、最近はさすがに自然治癒に向かってきたようで、趣味の俳句も再開し始めたようでホッとしている我々家族である。そして、下記のよくテレビやネットで宣伝されている商品を定期購入して飲むようになった。骨密度を高めるというMBP配合で、牛乳でいうと4本分の量が入っているということで、私もお試しで取り寄せて味も確かめて母に勧めたものである。元々、骨というのは「破骨細胞」と「骨芽細胞」とで3年サイクルで生まれ変わるものだそうである。①破骨細胞がぴったりと骨にくっつき、酸や酵素を出して、骨からカルシウムを溶かし出す。②骨芽細胞がコラーゲンを作り出し、「のり」の役割をするたんぱく質を塗っていく。③小腸で吸収されたカルシウムは血液を通って骨まで届き、「のり」に付着して、新しい骨を作る。女性は歳をとり閉経するとますますエストロゲン(女性ホルモン)の減少によって、破骨細胞のブレーキ役がなくなってしまい、骨芽細胞の働きが間に合わなくなり、骨量が減るそうだ。女性は50歳を過ぎると危険なのだ。MBPというのは、骨を作る「骨芽細胞」を増やし、逆に骨を壊す「破骨細胞」の働きを抑えてくれる。わかりやすく言えば、骨からカルシウムが溶け出すのを防ぐとともに、骨にカルシウムがつくのを手助けしてくれるわけだ。いくらカルシウムを摂っても骨を作る力が弱っていてはカルシウムは骨にならない。MBPは骨の細胞に働きかけて骨を元気にしてくれるうれしいたんぱく質だそうだ。私の母の年代(80代後半~)の人は牛乳が苦手で飲めないので、これを続けていくと決めたようで、よかったと思う。さて、私のほうは、サボりながらも最低週に1回~2回はなんとかジムに通っている。少しだけど、1年前よりは筋力がついてきたし、慣れてきた。なかにはお喋りなおばさん連中のフィットネスルームの井戸端会議にうんざりと困ってしまうこともあるけどね。玄関の中では、このように君子蘭が満開だ!でも、このように暖かいので満開に咲ける花、外に出したら萎れてしまう。環境によって変化するのは人も植物も同じ。自分に合った環境を求めて彷徨う「迷える私」の旅はまだまだ続くな・・・
2018.03.21
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きれいな胡蝶蘭が窓辺に咲く季節になった。前回のブログで私の母が正月早々骨折した話を書いたが、あれから1ヵ月が過ぎた。骨折といってもどの程度なのか私には不思議でならない。まず、正月4日に朝早く弟家族が新幹線の予約を取ってるというので、朝6時台という早い時間に朝早くからバタバタとしていて、おまけに夫が彼らを駅まで送っていくよう頼まれていて、5泊していたのでスーツケースや段ボールの宅配手配を頼まれたりとやたら賑やかで落ち着かなかった。そこで、まだ寝ていたもうじき87歳の母がうるささに寝ぼけ眼で起き上がり、時計を見ようと立ち上がったときに事は起こったらしい。なんと畳ですべって転んであばら骨を強く打ったという。父は救急車ということも口に出したらしいが、弟家族の新幹線送り時間ぎりぎりなのと重なって、母は騒がないでくれと言ったので、弟たちがいなくなってから整形外科にいったというわけだ。結果はまあ、あばら骨骨折と言われたらしいが、なんたって腕や足と違いギブスで固定するわけにいかず、ただ湿布貼薬と塗り薬だけで痛み止めの薬も注射もなしで帰ってきた。父が隣で寝てるので毎晩湿布薬を貼ってやってたが、ところが、その日の夜からずっと母の痛みは極限で夜中に声が大きく唸る声が二階まで聞こえるさまで気にかかる。さすがの父も自分まで眠れない、体が参るというさま。そのくせ母は日中は食事用の椅子に腰かけて、膝に布団をかけてウトウトとまどろんで、ずっと一日中静か、そして時折激しく痛さでうなる。父はツボの勉強の成果も試したいらしく、夜中にむくんだ母の足をマッサージしてあげてると言っていた。椅子にばかりすわって、足をいつも下に下げてばかりが悪いのではないか、エコノミー症候群になるから横になれ、足を上に上げろと言っても母は言うことを聞かない。父の話では、母は「こんなに苦しいなら死んだほうがましだ」とも言ったとか。もうじき90歳の父は普段からかなりの健康オタクである。よくテレビで放送されている健康番組を録画してノートにまとめて、辞書などでいろんな化学物質とかツボ、栄養学など研究してノートにまとめては何度も読み返して勉強している。父は、元々が畜産獣医師の免許を持っていた公務員だったので、それは研究熱心で専門知識も多いので理学的な考え方をするのでいろんな方法を試そうという好奇心も多い。ところが、母は全く違ったタイプで文学的なことが好きで、保守的に自分を守ろうとし、環境をわずかでも替えるのを非常に嫌がり、その抵抗ぶりは頑固一徹、最近は父も辟易している。母は、どんなに痛かろうが、顔をしかめながらでも米をとぎ、ご飯支度をして、洗濯をして、買い物にも必ず父と一緒に行く。私が手伝おうとしても私のやり方が気に入らない、自分でやるからいいと言って嫌がるので手も出せない。例えば、野菜を頼まれて買ってきてあげても、私の行くスーパーの野菜の質が気に入らないと言う。私の母は、今まではわりと夫に従順で優しい側面ばかり見せてくることが多かったが、だんだん耳も遠くなり、最近は鬱的で、言うことを聞かないことが多くなってきた。人間の本当の性格は年取ると出てくるものなのだと悟った。東京に帰った弟に携帯メールで母の経過を少し教えたら、私には❝心配とお願い(両親の面倒をみること、今後も遊びに来させてほしい)❞、そして両親にも❝心配と謝罪❞の手紙をよこした。私はその弟の手紙を読み、❝自分たちが遊びに来る場所を奪わないでくれ❞ということを一番に言いたいように感じた。これはそろそろ弟にガツンと私しか言う人はいないと感じた。そこで私は弟にパソコンメールで見やすいようにワードでA4で4枚くらいの手紙を書き、PDF保存して送信した。内容は、たった一人の姉である私以外は絶対に書くことはないだろうというきついものだった。要は、「あなた(弟)は子供っぽい、私が毎日二世帯同居しているから一番親が年老いていってる姿を見て知っている、あなたはいわば浦島太郎と同じだ。あなた方家族が5泊もして毎日酒盛りしているとき、母が食べる食事内容があなた方と違うのを知っているのか、買い物が大変だと知っているのか、あなた方が来るときに母は一切の俳句の趣味を中断してあなた方を寝せるために部屋を移動して掃除し布団を出して干して準備している、その間は母は俳句の提出期限がせまっても勉強が一切できない、それなのにあなたの嫁さんは自分の芸能界の仕事を持ってきてしょっちゅう合間にやっている。そして、あなたの発達障害の子のことも母は認めていない、親のしつけが悪いからだと言っている。いっそスキー場でも連れていって他の広いところに泊まってはどうなのか・・・長男の嫁は夫の家に行ったらそこの料理を作るのも仕事、できないのであれば自分の実家で休めばよい。・・」そして、私は過去に自分が夫の実家に子供連れで遊びに行ったときの待遇を書いた。「私たち家族はそれぞれがそれぞれの荷物を持ち、実家にスーツケースを送って5泊などしたことはない。私たちはせいぜい2泊、行けば立派なお膳を取り寄せてくれるが、あちらの父は台所に一切入らない人で、母も料理は面倒のようなので2泊がせいぜい、帰りは車を運転できる人がいないし、タクシーは近すぎるからと呼んでももらえず、しっかり駅まで荷物を持って歩き、後は観光を兼ねてホテル1泊だった。・・・」まあ、弟がなぜこんなに結婚してから実家に来たがるようになったのかわかってはいるし、父もそこは嫌がってはいない。弟と弟の嫁は芸能界にいて、とても華やかで賑やかで落ち着かない忙しい環境に慣れているし、二人の間の子供もそんな環境で目立ち大事にされることに慣れてしまっている。子供は自閉症だが、一人っ子なので正常な子供の発達ぶりを弟夫婦は知らない、たった一人の子に精一杯の愛情を両親で注ぐことと躾けをすることの区別がつかないでいる。こういう長男である私の弟が県外にいるので、姉の私たち家族は私の両親と二世帯でもアパート暮らしのように一階と二階で別行動で必要以外の干渉もさけ、食事も別にしてきた。つまり、父は母とでは知力、体力、趣味など合わない(父が元気で母が弱い)生活でひっそり老人二人暮らしなわけだ。そこへ、たまに弟家族が来て、酒を飲む相手はできるわ、知的な話はできるわ、孫は見れるわ、料理は弟と父と男二人で台所占領、嫁は片づけ専門、とくれば母の不満は心の奥深くたまっていった模様だが、母の性格上人に文句や命令など言えず、あとで私によく愚痴っていた。それをわかって欲しくて私は長々と手紙を弟に書いたわけだ。後日、弟から「自分なりに理解した、両親をよろしく頼む、何かあったら仕事は全部キャンセルして来る」とメールあり。なんでも今撮ってる映画は中国と日本を行き来している大作とかで自分のキャパを超えているとのこと。しょうがないから「心配しないで頑張ってください」とメールして今までになる。まあ、母の具合は急にはよくならないだろうな。風呂どころか髪も洗えない母に髪を洗ってやろうかと介護用のコーナーからドライシャンプーなるものを買ってはみたが、案の定母は「今はいい、もう少し体が良くなってから」と拒否された。だから一緒に住んでいても私は母に何もしてあげられることはないのだ。父という配偶者の方が我儘を言いやすいのだろう。夫婦そろっていて、どちらかが元気ならば例え子供が同居しようとも老老介護を親は望むものらしい。子供の前では自分の老いた姿を見せたくないとか、子供に説教されたくないとか、世話になりたくないというのは、やはり最後の親の子に対するプライドであろうか・・・「ねえ、あれやってお願い、ありがとう、すまないね」って素直に頼める親にならなければなと私ならば思うが・・・私はそんな母を見ながら、女は年取ると本当に骨が弱くなるのを実感して、カルシウムを意識して食べ、そしてそれを生かすためには運動が何より大事と知って、例の市の施設のジム通いを益々頑張ろうと思っている。最近Facebookでいいことがあった。ブログよりも手軽なTwitterもやっていたが、本名丸出しのFacebookにはずっと抵抗はあった。けど、第九の会でアカウントを取ったのがきっかけで4年程前から利用。でもあんまり興味を持てずにいた。ところが、ある日自分の出身高校の名前が目に入り東京支部同窓会というものになぜかポチッとして、友達になるになってしまった。そしたらさっそくその幹事の方からチャットあり、私も自分と同じ同期の方がいないかと聞いて数日。「8回生の○○です。」というのを見たという男性がいて思わず同窓会名簿で私を探したそうな。そして、「同じ8回生の○○です。」というわけで、友達になり、私の方のクラス会の写真をアップしたら、向こうも自分のクラスの同窓会の写真をアップしてくれた。そして、「私のクラスの担任が自分の2年の時に担任だったので懐かしい。そしてそういうやつが結構いる、隣のクラスの担任が亡くなったので一緒のクラス会を東京でやっている。それから私のクラスの幹事の男子が自分と仲良かったので連絡先教えてほしい、一緒の合同のクラス会やれたらいいと思う」って、盛り上がる。さて、我がクラスの今年の同窓会、もしかしたら3クラス合同で盛大になる可能性が出てきたのである。我がクラスの担任は今年で喜寿なのでいいお祝になるだろうし、もう一人先生が来たら3クラスの生徒たちだったメンバーが大喜びすることだと思うなあ。Facebookってこういう使い方ができるのかという発見をしたのである。こうなると実名でなくてはならないわけだな~ただし、公開設定は一般公開、友達のみ、自分のみとかきちんと記事アップするたびに確認しなくてはいけないけどね。
2018.02.05
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2018 初詣は2日に恒例の青龍寺の昭和大仏を拝みに行った。午後昼食を食べた後に夫と私と長男とで行った。次男は風邪気味のせいもあるが、最近神仏を拝むことに興味がなくなったとか何か悟りを開いたような自論を述べて今年も参加しなかった。まずは本堂に寄りお賽銭を払ったあとでおみくじを引いた。「大吉」!なんと久しぶりなことか!以前ある神社で私は「凶」をたった一回だが引いたことがあり、そのときあまりの驚きと気味悪さで別な神社にはしごして再びおみくじを引いたら「末吉」かなんかが出てホッとしたことがあるが、うちの夫は今だにそのことを蒸し返して私をバカにするので腹立たしい。今回は長男も夫も小だか中だか末だかわからないが吉だったそうなので、私だけがめでたく大吉なので非常にいい気分だった。それでも夫は「大吉」はこれから落ちるだけだと皮肉を言った。負け惜しみか意地悪さか・・・おみくじについてきた金色の物は七福神で、私は布袋様だった。私はここ数年前からおみくじは枝に結ばず家に持ち帰りしっかり読んで財布に入れて教訓にしている。↓さてお守りを何個か買った。これは交通安全のお守りだが、家の車用にと思ったが、長男が欲しがったのであげた。只今免許取得勉強中で、やっと仮免がとれたところなので、今後も頑張ってきちんと免許を取得して事故のないように祈りを込めて。高校卒業時に途中まで通って県外に行ったので続きはそっちでやりなさいと言ったのだが、無駄にしてしまった長男は今回は転職のためにいよいよ免許を真面目に取得する気になったようだ。以前親が途中まで出してやった教習所の授業料を無駄にしてくれたので、今度は全部自分のお金でやれと前から言い聞かせているので頑張っているようだ。そのほうが必死になって取れるだろうと思う。↓こちらは父母に。左の銀色の水琴鈴は本当にきれいな涼しい音のする鈴で普通のうるさい鈴とは全く違ういい音色で、私もこのタイプの鈴を長年財布につけて愛用しているが皆によく「いい音ね」とほめられいい気分だ。右のお守りは自分に降りかかった難を代わりに引き受けて守ってくれるように願いがこめられたお守りだそうだ。↓左の金色の鈴は上の写真の銀色の鈴と同じいい音色のものだが、形が巾着で金運用で私が使う。右ののぞき招き猫のお守りは携帯(私はガラケイ)につけるストラップにする。↓写真がうまく取れずボケちゃったけど、実は、この猫の小判のところに「のぞき窓」があって、そこから猫が見えるのだ。宝船に乗った金運と開運の二匹の猫が片目をつぶって見るとよく見える。写真にはこの程度しか映らないのが残念!↓本堂を抜けて歩くと五重塔が見える。↓ずっとこんな感じの林に囲まれている。その林の真ん中に舗装された道路を歩いて山の方へと坂道を歩いて登っていく。青龍寺というくらいなので竜の口から水を汲んで口や手を洗いお清めを。↓ここは煩悩を消すための除夜の鐘。昔子供たちが小学生の頃はつかせた。しっかりお金をとるんですけど。↓これはボケ観音。おじいさんとおばあさんの二人が向かい合っている。観音様と二人が持っているものは何だろうとそばに行ってよく見たら蓮の花のつぼみだった。ここにもお賽銭箱があった。↓この滝が流れている場所にかわいいお地蔵様が三体ある。これは水子供養の場所。風車(かざぐるま)が滝のそばに何本か挿してあることもある。お地蔵様に手を合わせている人も何人かいた。↓水の中にはお金がたくさん投げられて入っていた。そうして、どんどん坂を上り、ついに「昭和大仏」なる大日如来像が見えた。今までお正月にこんなにきれいな青空の大仏様を私は見たことがないので本当に驚いた。やや塗りがはげた青銅色が光り輝き実に美しい。↓↑この手前にある座ってるお地蔵様にもお金が置いてある。皆さんお金をどこにでも置くことで自分が浄化されると思っているらしい。本当にいい天気。きれいな大仏様。↓背が低い私は息子と並ぶとこうなってしまう。↓本当にいい姿の仏様なので、反対の角度からも写真を撮った。↓仏様と神社のお参りの仕方を調べてみた。神社の鈴は邪気を祓うという意味がある。鈴は古くから神霊を招く道具として使われていて、その音は神秘的なものとされていた。一方、仏様の賽銭箱の上に下がってる鰐口(わにぐち)というのが神社の鈴に当たるが、これから参拝することを仏様に告げる合図として使うものである。この写真はネット引用のもので、実際の今回のお寺の本堂のものは撮影しなかったが、ここ最近は皆が振るので大変だと思ったのか上に紐をたくしあげて鳴らせないようにしている。でもドラの音のようなものだ。また神社のお賽銭の意味は神様に日頃の感謝の気持ちを伝えるためにさしあげるもので、一方仏様のお賽銭はそういった意味ではなく、自分の欲を捨てるというもので❝お布施❞という。お布施は仏教の中では自分の欲を捨てるという大切な修行の一つである。神社では鈴を鳴らした後、柏手(手を二回叩く)を打つ。一般的に二礼二拍手一礼と言い、明治になってから作られた儀式。柏手を打つ意味はいくつかあるが、その中に神様に気付いてもらうという意味がある。なので、手をちょっとずらしてふくらみをもたせ、音が大きくなるように打つのである。一方、お寺では手を叩かない。お寺では指を伸ばし、手の平をピタリと合わせて一礼する。この、手を合わせることを合掌(がっしょう)という。手を合わせることで仏と一体になることを表すのである。普段何気なくやっているお参りも、その意味を考えながら参拝すると、向き合い方が変わってきて面白いものだ。さて、お賽銭の額はいくらがいいのか?というのを調べると、以前参拝したときの願い事がかなったことに対するお礼なので金額には決まりはなく、一番大切なのは神様や仏様への感謝の気持ちだそうだ。そこで語呂合わせで多くの人は縁起の良い金額を決めているようだ。5円玉=ご縁がありますように10円(5円玉2枚)=重ね重ねご縁がありますように20円(5円玉4枚)=良いご縁がありますように25円(5円玉5枚)=二重にご縁がありますように40円(5円玉8枚)=末広がりにご縁がありますように50円(5円玉10枚)=五重のご縁がありますように55円(5円玉11枚)=いつでもご縁がありますように105円(5円玉21枚)=十分にご縁がありますように125円(5円玉25枚)=十二分にご縁がありますように485円(5円玉97枚)=四方八方からご縁がありますようにほかにも21円や31円など、割り切れない数字のお賽銭は、夫婦円満や恋愛継続のお願いをするときに良いと言われている。又1万円は「万円」をひっくり返して、「円万=円満」ということで万事円満に収まると考えられている。これを見ると、まあよく考えてあるなあと感心した。一番ケチって5円でいいわけであるが、私の財布には5円玉が1枚しか入っていなかったので、今回は105円(100円玉1枚+5円玉1枚)のお賽銭を投じた。ある日突然・・・家の中でも思わぬ事故が起きることがあるものだ・・・本日の朝7時に弟家族が東京に帰って行った。新幹線の切符が取れなくて早朝になってしまい、89歳の父の運転では危ないと判断して私の夫が運転して初めて送っていくことになっていた。その出発の前に86歳の母が見送りだけでもしようとまだ寝ていたのに、あせって起き上がって時計を見ようとしたら畳で足を滑らせて転んでしまい、背中を物凄く打ってしまったらしい。「痛い、痛い・・・」と言いながら顔をしかめる母の背中をさすりながら、❝こんなに骨だらけになって痩せてしまって・・・❞とかわいそうになった。弟は新幹線の時間があるので急いでいて、私に「何かあったら連絡して」と言い、心残りで心配そうにしながら我夫に駅まで送られて家族とともに帰って行った。その後、父に整形外科に連れて行ってもらった母はなんと「左後ろあばら骨」の打撲による骨折で全治1ヵ月と診断されて帰ってきた。幸いにも入院しなくてすみ、胸全体にぐるりとコルセットを巻いて大丈夫な顔をしていたので安心した。夜になって、弟に携帯メールをした。母の容態を告げ、母は前から骨粗鬆症だということ、もう歳なので人が遊びに家に来ること事態が正直負担のようなので伝えておくと。そしたら弟から返信があり、本当に心配して連絡を待っていた、大事にいたらずよかった、くれぐれも大事にと伝えて。今回は朝早い出発で迷惑をかけた、これからは迷惑をかけないようにするからできればまた伺いすることをお許しください・・・最後に私へも丁重によろしくだった。晩婚の末の弟家族の帰省。私が二世帯で両親と一緒に住んでるからと弟はずっと甘えていた。19年前にこの家を建てたときは弟は独身だったので一緒に住むことを決意した私たち家族だが、親子の衝突や干渉をさけたくて二階にも台所を作り食事は全く別にしてきた。それでも両親二人も高齢でも快適な生活を送ってきた。しかし、10年前の突然の弟の結婚。弟は独身時代はほとんど家に帰ってこなかったのに、子供が生まれてから家に頻繁に来たがるようになり、嫁さんも自分の実家が複雑なために我が家にばかり来たがるようになった。しかし、今年87歳と90歳になる両親の元に弟が障害があって落ち着きのない10歳の子供と妻を連れて毎年、年に2回必ず4~5泊ペースで帰省するのは行き過ぎではないだろうか?他では聞いたことがない。友達に話すと「あなたの家が余程居心地がいいのでしょう」と言うのだが・・・人間の命は永遠ではない。だからこそなるべく親子の最後の思い出をたくさん作って残したいと弟は思うのだろう。でも一緒に暮らしている姉の私は両親が如何に少しずつ老いてきているかを知っているので親にいらない苦労をかけさせたくない。晩婚というのはこういうものかもしれない。私も自分の息子たちが晩婚だったら母と同じ思いをするのだろうか?息子は私の弟と同じ思いをするのだろうか・・・
2018.01.05
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新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。松トルコキキョウ(白3本)薔薇(黄2本)千両(赤1本)ドラセナゴットセフィアナ(緑斑点葉3本)昨年の30日に恒例で行きつけの花屋さんに正月花を買いに行った。いつも正月前は花屋の中は混雑して、花の種類も数もあふれているし、待たなければ順番がこないのに、今回はいつもと違い正月花の数も足りなく華やかさがなく拍子抜けした。お店の人も「今年はいつも入ってくる南洋のお花が入ってこないしお値段も高い」と。お天気が良くて目が慣れずに店内を見渡して一番先に目についたのが初めは薔薇と勘違いしたトルコキキョウの白だった。そしてそこへ真っ赤で大きな豪華な千両、お決まりの松、あとは悩んだ結果の色合いでこんな感じに決まり、まあなんとかシンプルながらも正月らしく生けられてホッとした。二階の窓から見た家の前の駐車場は朝早い時刻はこんな感じ。昨年の11月に夫の車を廃棄処分してから駐車場はこんな風に広々となってしまった。今我が家では夫と父の共有の車が一台車庫の中にある。この日の朝はまだ我が家では誰も車に乗っていない。でも、白い雪の上には、すでに誰か知らない他人が早朝に車を回した車のタイヤの跡がついていた。雪は白いのでそうした証拠がきちんと残るのだ。どうしてもこの近所は道路が狭いので我が家のように駐車場が空いてると利用されてしまう。30日の日の昼過ぎに弟家族が東京から今回は新幹線の切符が取れなかったと言い、初めて飛行機で帰省。そして、夜遅くに我が家の長男が仙台から高速バスで帰省。東京から青森まで飛行機で1時間しかかからないが、時間のロスは多いし、お金はかかるし、ゆっくりした気分が味わえないからかえって新幹線が好きだと弟は言っていた。一方長男の仙台から青森への高速バスは5時間もかかる。でも長男もバスならゆっくり眠れるしお金がかからないから新幹線は嫌いだそうだ。雪ダルマ今時珍しいかな?東京に住む人間にとっては雪が珍しいようで、来るたびにこうして、まだ少な目の雪をかき集めては雪ダルマを作る。晩婚の弟はまだ小学生の息子のためにこうして毎回必ず作るのだ。頭には植木鉢の帽子、目は釣り竿のキャップ、鼻はスーパーボール、眉毛と口は木の枝、手はガーデニング用の支柱、そして自分の手袋をはめさせて。鼻の高い雪ダルマなので外国のスノーマンを意識したんだって。手前にある板みたいな四角い雪の塊は石碑のつもりで甥っ子がなんか書いたらしい。弟撮影で親子と私の記念撮影パチリ!昨年を振り返ると本当にあっという間だった。本当は1年を振り返ってというタイトルで締めくくりのブログを書きたかったのにこうして客人が来るために、気持ちも時間も縛られて、もう新年の夜中だ。甥っ子にお年玉をあげたら、「おばさん、ありがとう」と大喜び。そして、今回初めて思いもかけないことに、我が家の同居の次男が自分の従弟にあたるこの子にお年玉をあげた。シャイな次男は人としゃべるのが嫌いなので挨拶だけして一旦は部屋に戻ってしまったが、もう少しお話ししようと私が誘いに行ったら風邪気味で気分悪いからと言い、千円札を二枚私によこして「これあげて」と言ったので私がお年玉袋に入れて次男のかわりに甥っ子にあげた。そしたら甥っ子は再び大喜びで、なんと嬉しさのあまり、自分の荷物の中から私たち全員に「これあげる」と言い、1個ずつ飴を配ったのには大笑い。特別支援学級に通う子なので、突飛なことばや態度が多いが元気で明るく育っているようでまずは一安心だ。でも、弟の嫁さんが私を「お姉さん」と呼ぶと甥っ子は「どうしてお姉さん?おばさんでしょ?」と言い、皆「これは説明が難しいよな」と笑った。そして更に甥っ子は弟と両親を指して「あ、昔の○○家」と言った。そこで私が「おばさんも昔の○○家だよ」と言ったら、甥っ子は首をかしげた。そしたら弟が私のことを「この人はパパのお姉さんなんだよ」と甥っ子に説明した。そしたら甥っ子は不思議そうに「どうして?」と聞く。私は弟に「あんたが私をお姉さんって呼ばないで名前で呼ぶからおかしくなるんだよ、嫁さんのように私をお姉さんと呼べ!」と言ったら弟は「あっそうか~」だって。ムム、年齢的に見ても甥っ子はうちの子たちと20歳も違うので理解は普通でもしにくいよな~(⌒▽⌒)アハハ!さて、元旦らしく年賀状が届いた。その中の1枚に辞めたコーラスの仲間のTさんからもあった。私はその人とは結構懇意にしていたが、何も言わずに辞めて年賀状もその人にも仲間にも一切出さなかった。Tさんの年賀状には「いつでも待っていますヨ お元気にしておりますか?」とかわいい犬たちがコーラスしている画像が印刷してあった。懐かしさとほろ苦さを感じたが、私の中ではもう過去である。今はジム通い、時期になると第九に励んでること、女性同志は難しいねとコメントを書いてその人には今晩追加で書いたので明日出すつもりだ。一方昨年暮れにはこの会に不満を持ちながらも辞めれずに私にパソコンメールをよこした人がいる。その人は私に好意を持っていて自分の不満を聞いてもらいたいときメールをよこしたくなるようだ。彼女の言うことは最もで私も同じ考え方なのだが、ただ彼女の言い方がきついので会の中で反発を買っているようで彼女はクレーマー的に思われて煙たがられていたのも事実だ。でも、私は彼女のことを同志感覚として理解している。本質的な部分をきちんと見抜いておかしなことを指摘して皆で考えて方向性を是正していくことはとても大事だと思う。私は彼女に助言した。❝この会のメンバーたちは「情け深い」と言えば聞こえがいいけど、本質的に冷静で知的な判断能力がない人が多すぎるし、それに同調しない人が冷たい人間だというふうに思われるような雰囲気が多すぎます。その上、指揮者も代表も浪花節的な要素が強いですから、理屈よりも感情を重んじすぎるところは私には合わないと感じたから私は辞めたんですよ。よく考えたほうがいいですよ。ストレスは体に毒ですよ(*^。^*)❞ と。そしたら彼女から返信が来て、❝私が思ってる通りのことを書いていただいて嬉しいです。第九の指揮者の先生のお話しもその通りで音楽には音楽の規則があるわけで、○○先生(コーラスの指揮者)も勉強しているはずなのに最近は安易な方向に、お母さんならぬお婆さんたちに合わせているように思っています。今気持ちがポジティブになっていくのを感じます・・・ありがとう❞ だった。要は、彼女は辞めたいと言いながら、まだどこかでこの会に未練があるのだ。年齢的にも70歳近くにもなれば無理もなかろう。未練はあるが、不満は彼女の性格上たまってくる。おまけに彼女は表現がストレートで人の気分を害する言い方をするので誤解される事が多い。そこで彼女は愚痴を聞いてくれる人が欲しいが、メンバーの中に彼女の理解者がいない。だから辞めた私なら安心して聞いてもらえそうだと思ってるみたいだ。しかし、彼女が決定的に私と違う点は、彼女はまだ会への任務というものを果たしていない。なぜなら彼女は会に入ってたった3年程だし、役員も逃げてやろうとしていない。しかし、会のことを本当に知るには役員になって会の中身や人間関係を知らなければ無理だ。そうした義務を果たして初めて説得力のある意見を人に言えるし、相手も真剣に聞くというものだ。まあ、私の場合はこの会に入会退会、再びまた入会退会とトータルで20年近くいて役員も何度もやって、それでもダメ、自分には合わない人間が多すぎると見切りをつけたので辞めたのだから彼女もトコトン苦しんでみるが好いと思う。一時の愚痴を、辞めた私という人間に話して自分の気は収まるかもしれないが、私の耳になんだかんだと今更内部のゴタゴタと彼女の不満を入れてなんになろう。私はカウンセラー扱いされてるのだろうかね・・・さて、年末にN響第九コンサートをテレビで見たが、例の発音をチェックしてよく聴いてみた。そしたら明らかにドイツ語発音は口語体ではなく文語体であった。指揮者は外国人の年配の男性だったし、歌ってる合唱団も素人の集まりではなかった。どっちにしてもお客様の立場に立って客観的に見る聴くことはとても大事だと思う。私はそういうわけで今まで出演してきた第九のコンサートのDVDを取材にきているテレビ局に注文して購入してコレクションしている。同じ曲であればこその指揮者の指導の仕方とか、メンバーの構成で違う音楽の違いを研究するのが楽しいと思うのである。
2018.01.02
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先日の12月10日に第九演奏会が無事終了!毎年汗をかいて必死で歌い、「ブラボー!」の最後の掛け声を聞くと、“今年もやったぜ!”とホッとして肩の荷が下り、たまらない充実感を感じたのだった。地方の新聞にこんな記事が載った。私は毎年ソプラノで、昨年同様今年も男性パートの境目で歌った。↓指揮者の先生はとても厳しいけど、とても素晴らしい音楽性のある「末廣誠」先生である。私が初めて第九演奏会に右も左もわからぬ状態で出たのは2014年で、その年には青森市の他に五所川原市での演奏会にも参加し、今年で4年目(出演回数は5回目)になるが、その私にとっての最初の先生がこの末廣先生だった。この先生は一期一会の先生と言われている伝説の有名な名指揮者なので、まさか再び青森市に来ていただけるとは夢にも思わなかったので正直びっくり、そして楽しみにしていた。24日にはむつ市でも演奏会があるので、そちらでも指揮するらしい。(私は遠いのでむつ市には不参加だけど)その先生が今年実際の私たちの練習を指導してくださった最初の日は11月4日だった。最初に言われたのはドイツ語の発音についてだった。「ベートーベンは古い時代の古典の音楽だからドイツ語発音は今風の口語体ではなく、文語体にするべきだから、全部直しなさい」とまず言われ、我々合唱団はもちろん、普段の指導の先生も大ショックだった。だって、「今年はより今風のドイツ語発音をめざす」と言って、口語体に力を一層入れて、普段の指導の先生が張り切っていたのだもの・・・以前末廣先生に指導していただいたときの2014は文語体発音だったのを記憶してはいたが、2015、2016とも指揮者が1年毎に変わり、いずれも口語体発音で歌ったせいもある。特に昨年の指揮者はIT関連の仕事で大成している人のせいか、非常に今風の人なので完全に今年と正反対。因みに文語体発音とは、例えば「兄弟」の言葉を「ブリュウデル」と発音する。一方口語体発音は「ブリュウダー」と発音する。つまり楽譜全部の発音をそのように直すということなのだ。それでも、私は2014に出てるので大して違和感がなかったし、得意の巻き舌がバンバン使えるのでかえって好きでよかった。その後の指導では、「はっきり言う、皆さんは音程が悪すぎます」と。ソプラノはそんなに注意されずに済んだが、アルトはピッチが下がってしまって、「まるでオカルト映画みたいですね」と。ピッチというのは、同じ音程でもわずかな幅があり、どちらかというとオーケストラの指揮者は高めのピッチを希望することが多いと声楽家の先生は言っていた。テノールには誰なのか一人完全に音痴な(音程が全体に届いていない)人がいて皆気が付いていて耳障りだったが、案の定、気付いたと思われ、末廣先生は歌ってる中を練り歩いて一人ずつの音程を確かめていた。普段の練習では、個人名指し注意は原則ないので、多分本人には自覚がないものと思われるが、たった一人でもそういう人がいると大変気になるものである。「音程は音楽の基本的な基本です。ピアノのキーをたたいて、自分でその音を出して歌ってみて、音程が合っていればピアノの音と自分の音がきれいに共鳴して響きます。」そう言い、自ら自分でピアノをたたいてその音を歌い、音程の正しさを示してくれた。そして、「まあ、あと2週間しかないから今更もう音程を直すのは無理でしょう。せめて歓喜の顔で歌って下さい。」と。「では、第九の曲はどんな意味を持っている曲ですか?」とさらに問われた。皆それぞれ、「希望、友愛、平和、人類皆兄弟・・・」などと口々に言ったものの、末廣先生は納得した顔をなぜかしてくださらなかった。皆言葉がなくて困ってしまった。先生は「あとはないの?」そして、「歌っている皆さんのいるところが天上の楽園でなくてはいけない、そして、観客に向かって“歌っている私たちのいるこちらにいらっしゃい、この楽園(エリージウム)は本当に素晴らしいところだよ、人類は皆兄弟(ブリュウデル)になるんだよ”と訴えなければいけない。そのためには皆笑顔で歌わなければいけない」と。男性の顔が皆怖いとしきりに何度も冗談めかして言い、最後は女性たちに見られたら少しは笑顔になるだろうからと女性たちが前に出て男性たちを見つめたら、ちょこっとだけ柔らかく、でも怖い・・・津軽の男にはまず無理だよ・・・とにかく、すべてが「ああなるほど!」と目から鱗であった。そして「ベートーベンの第九は元々器楽中心に作られた楽曲で第4楽章で合唱を後で付けたものであるから、ベートーベンは人間が歌うような楽譜として書いていないのです。ですから、皆さんは長く伸ばすところを絶対に息継ぎしてはいけないのです。でも、それでは死ぬので息継ぎは皆一斉に同じところでブレスしないように、それぞれずらしてカンニングブレスしてください」と。とにもかくにも前日のゲネプロ(舞台の通し稽古)を終え、当日朝からのリハーサル、そして午後2時からの本番となり、夢中で、指揮者の手を見つめ歌ったのであった。しかし、前列の女性ひとりが男性パートしか歌わないところで口を動かしていたのには驚いて、目を疑った。普段話してる人なので彼女に聞いたら「どこ歌ってるかわからなかった」んだって。そして、打ち上げが夕方始まって、末廣先生にサインしていただいた。前回来青していただいたときは私が初めてで遠慮してしまい、サインを今回初めていただけた。↓そして、宴もたけなわ、下の写真のような風景が。この女性はオーケストラの団長さん、男性が末廣先生。この会話が最高だったなあ~因みに絶対に他県の方には意味不明と思うので通訳すると、女性「先生、早く津軽弁おぼえてね。でも、青森っていいところでしょう?先生のおっしゃるようにうまくできないから弾くふり、歌うふりしなくちゃいけないわ~」末廣先生いわく「青森の人たちは猫をかぶっているよ。夏にあんなにねぶたで人が変わったように飲んで騒ぐくせに、普段は無口だもの」だそうだ。宴会は立食でいつもの練習会場のテーブルを自分たちでセッティングして行い、かわいらしいオードブルとお酒やジュースがたくさん(ちなみに会費は2,000円)御馳走の写真を撮るのを忘れたけど、サンドイッチ、鶏の手羽先、杏仁豆腐、カルパッチョ、お寿司、果物・・・途中でいろんな方々と話した。若い男の子が二人来たが、年齢は19歳と21歳で地元の大学生で、普段の声楽指導の男性の先生が教えている大学の学生さん。その先生が「第九で歌ったら試験なしに無条件で単位をあげる」ということで参加したそうで、昨年からこの先生のおかげで随分と男女とも若返ってきたので、いいことである。私「食べ物が目当てでここへ来たでしょ?いっぱい食べていいよ。自炊でしょ?どこ出身?」男子学生「はい、自炊っす。神奈川県です。卒業したら帰ります。」私「お話相手がこんなおばさん相手で悪いけど」って言ったら、男子学生「そんなことないっす、結構いけてます」だって。私たちおばさん「あら~~~~~~~ 全部食べていいよ、手羽先全部持っていきなさい」って言ったら、しっかりと紙皿に手羽先をこんもり乗せて行ったのであった。第九のメンバーには小学生の男の子が一人いて最年少だということと、普段いろいろと学習面やら行動面で問題があるけど、とてもクラシックが好きで第九の練習日には早く宿題を済ませて楽しみに来るという男の子がいた。今年は青森第九35周年だからなのか、いろんな放送局が取材に来ていたが、先日夜の報道番組で第九の練習風景や本番を交え、その子の普段の姿やお母さんのお話しなど放送されたのを見た。何も知らなかったので、落ち着きのない子だなと思っていたが、なるほどなあと思った。彼は来年から中学生なので、今度は女性のアルトパートを卒業して、いよいよ男性のパートを歌うつもりらしかった。他に車いすの女の子もいたり、とにかく、年齢も、経験もバラバラの人間たちが心ひとつにして一曲にかける4ヵ月は本当にすごいエネルギーの結集だと思う次第だ。末廣先生いわく、「第九を歌ったあとは、喧嘩などをしてはいけないのだ、なぜなら友愛の歌なのだから」
2017.12.14
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こんなに降ってしまった!ついに青森に冬到来だ!先日の11月16日の初雪↓その後、深々と降り続けていたが、今朝になってこうなってびっくり↓雪片付け用のスコップやらスノーダンプをまだ物置から出してなくてあわててしまった。さすがに私も早起きして次男の弁当を作り、いつもは自転車通いの次男も長靴を履いて歩いて会社に行った。こんなふうに玄関前の花壇の花も鉢植えの花が全部雪をかぶってしまった。お隣の境目の葉牡丹はここにある↓実はこの写真は、この葉牡丹の下の方が雪の重みで折れてしまったのでもぎとったあとで撮った写真である。で、そのもぎとった葉牡丹は下の写真のように花瓶に生けた。↓じきに水の中で根が出て再生できる。それを来年は鉢植えにしようと思う。そうすれば、仮に隣の葉牡丹を切り取ってしまっても自分の手元に残るというものだ。我が家には「山友花(さんゆうか)」という花があるけど、20年近くなり何度も植え替えているうちに大きく育った。でも、根が張りすぎて水分不足が多くなってきた。水を一日に1回では足りなくて乾くことが多かった。これは昨年の映像↓実に見事な枝っぷりだったが、冬に家に取り込むときはもう大変で、置き場所は二階の一番暖かいいい部屋を占領していた。しかし、今年になって半分枯れてしまった。これぐらい大きくなるとこの鉢のサイズでは水やりを一日に二回やらなくてはいけないのだが一回さぼったらなんか知らないうちに半分枯れていた。そこで、根を整理して枯れた部分を切り落として植え替えたらこのくらいにコンパクトになってしまった。↓そこで切り取って捨てることになった枝が出たが、それを水にずっと生けていたら、こんな風に次第に根が出てきた。これはいずれ、土に植え替えて新しい鉢を作り増やすつもりだ。↓雪国では、冬になると、外に植物を置くと全部寒さのために死んでしまうので、我が家の家の中はだんだんと植物が外から中へと取り込まれていき、植物園になっていく。これは二階廊下のロフト付近↓二階曲がり階段↓他の廊下部分にもまだたくさんある。それでも、多年草とかは木などで冬囲いすると、外においても冬越しできる。先日まで天気が良かったので、呑気にかまえていて、先ほどの写真のようにバラなどの鉢がたくさん外に雪をかぶって放置状態だ。今週の半ば頃には再び暖気が来るという予報を頼りに一気に鉢物全部を木で囲うなど片付けなくてはならないというわけだ。 さて、我が家の中古のボロ車は本日ついに廃車のために夫が運転して車屋へ持って行った。原因はクラッチ不具合で修理に5万円もかかるということで悩んだ末だ。そこで二世帯同居している我が父に相談したら、夫の車を廃車にして自分の車を共有しようとなりそう決まった。廃車負担金は7,000円だそうだが、毎月支払ってきた任意の自動車保険も払わないで済むようになる。でも、車は二人共有なので使うときはお互いに気を使うがしかたあるまい。元々同居している私の父親が今乗っている車を新車で購入するときに遡るが、いずれ自分が高齢になって免許更新しなくなったら我が夫に譲ってもいいようにと思い、高齢者にオートマの車は危険だし、夫も父もマニュアル免許なので兼用できるからとマニュアル車購入したのだった。そして、数年が流れ、わが夫が長年乗ってきた昔の車が廃車の時を迎えた。しかし父はまだ元気で運転していたので、即譲ってもらうにはお互い使用上不便と感じ、3年くらい持てばいいやということで夫は中古車を購入した、それが今廃車になった車だ。我が父は現在89歳ではあるが、非常にアクティブな人間で、知力・気力・体力満々すぎるために、釣り、買い物、病院通いなど気が向けばいつでも乗っていくタイプでそんじょそこらの弱々しい年寄とはわけが違う。昨年だったかに免許更新したばかりで、しっかりした運転技術があり、優良運転者だ。車検は来年だそうだが、さすがに免許の更新は今後はもうしないと先日も明言した。最近の老人の車運転事故のトラブルをテレビなどで見聞きするたびに不安が出てきたし、実際更新も疲れてきたらしい。我が夫の中古の短い間の付き合いの車は、初めて乗った車体の高い車なので見晴らしはいいが、乗り口が高くて乗りにくく、佐川急便みたいな荷物専用の車だった。新車の車と違い、最初から妙な匂いがして、私がよくカー専用の消臭剤を買ってきて、消臭に1年くらいかかったものだ。でも、あと車検まで1年半残っていた。でも購入したときも1年半の車検期間があって得だったので、トントンだった。そんなものかもな・・・これからは我が父と我が夫が声を掛け合い、譲り合いながら同じ車を共有することになる。窮屈だが年金暮らし、しょうがない・・・父が免許を返納するまであと2年程だが、果たしてその後はどうなるか・・・とにもかくにも愛用の車が姿を消すというのはどんなボロ車でも寂しいものだ。「さよなら、今までありがとうね」と短い間の愛車に感謝。
2017.11.20
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何と久しぶりのブログ更新か!パソコンが故障して寂しく不便だった日々、いろんなことを考えた。この絵は最近マウスで描いたペイント画で「コスモス」久々で感が鈍り、なかなかうまく描けなかったが、やっとこんなものを描く気にまで心が落ち着いてきたというところかな。ブログも書こうと思えばいくらでもニュースがあったのだが、いかんせん、私のパソコンが故障中につき、ずっと書けなかった。今年の3月でお母さんコーラスを辞めたあと、まるで待ってましたとばかりに4月に入りパソコンの調子が悪くなり、購入した店でリカバリー修理で、おかげで今まで使っていたマイクロソフトの写真や動画のソフトのサポート終了でインストール不可能になり、他のソフトを使う羽目になり四苦八苦。しかし、8月初めになり、又調子がおかしくなった。起動が遅い、シャットダウンができなくなって、仕方なく強制終了かけると再起動が始まっていつまでもシャットダウンできない。又しても店に持ち込み、システムの不具合ということで自己修復コマンドで一旦直った。しかし、8月半ば、ついに又同じ現象が起き、画面に警告文字、ブラウザもおかしくなって、びっくりしたことにはタブが上に勝手にたくさん並んでYouTubeの音楽がめちゃめちゃに流れてしまったり・・・又してもリカバリーで修復できたかにみえた。しかし、又しても1週間後の8月末に同じ現象が起きた。おまけにCD-ROMも読み込まなくなった。また店に相談したら、ついに長野県の製造工場に送られることになったのである。因みに私のパソコンはLenovoという中国製のメーカーで、中に入ってる特有ソフトがからみWindowの基盤内で誤作動を起こしてるものとみられたのだ。購入して3年だが、リカバリーしてHDDと光学ドライブの交換で4~5万はかかるところを、幸いにも延長保証をつけていたおかげで期限ぎりぎりで無償で修理できた。修理完成して私の手元に届いたのは実に約1ヵ月半後の10月1日だった。今はやっと調子が良くなってこうしてブログを書く気になったというわけだ。もっとも自分のパソコンがない間は夫のパソコンでTwitterとインターネット閲覧や通販はやっていたが・・それにしても毎日パソコンに依存してきた人間にとっては、パソコンがない生活は手足をもがれたような気分で、メールがたまってるのが鬱気分だった。今はホッとしている。ここ2年程は特にパソコンの仕事やコーラスの役員の仕事でかなりパソコンを酷使していたのだからしょうがなかったかもなあ。そんなこんなしているうちに、8月末からいよいよ今年の青森市の第九演奏会の練習が始まり、毎週水曜日の夜7時から9時までの練習に励んでいる私である。演奏会は以下の通りで12月10日である。その8月の発会式の日のもようが地方新聞に載り、しっかりと自分が映ってるのだった。しかし、この第九の会で思わぬ困ったことがある。第九のメンバーの中に以下のような雑誌をくれた人がいたのだ。これは、「実践倫理宏正会」というところのものだ。雑誌をくれた女性は昨年から第九に出演しているが、昨年は彼女に余裕がなかったせいなのか、全く何も私に特別なアプローチはなく、少しおしゃべりする程度だった。しかし、今年になって毎年来ていたメンバーが出演しなくなり、話し相手もなくいたら休み時間に住所と名前と電話番号を書いて欲しいと言われた。何かあったときの連絡程度の気持ちで書き、私も彼女から書いてもらったが、“住所まで?”とは思った。ある日行きつけのスーパーで私に声をかけてきた彼女は「私、こういうことやってるの、読んでみて」とこの雑誌をくれた。“宗教?”と思ったけど、愛想でいただき、適当に読んでその辺に置いていた。その後、聴きたかったコンサートのチケットを知人からいただいてあるからあげると言われ、私が行きつけのジムのそばの停留所で待ち合わせたが、遅刻してきた彼女はバッグからチケットの他にこの雑誌を再びくれた。そして今度は「1ヵ月会費は200円なの、読むだけの人も多いからぜひ賛同して会員になって!」とやや強引に言ったのには驚いた。私はこういう雑誌や勧誘はいつもお断りしているし、面倒だから嫌いだ。難色を示し、ごまかして雑誌はただで押し付けられて帰ってきた。雑誌の中身は道徳的な教えや体験談が多いが、全国的な大きな組織で彼女はそれにすっかりマインドコントロールされてるものと感じ、不快な気分だった。自分のパソコンが修理中だったので、夫のパソコンでその会のことを調べた。調べたらこんな文章を発見した↓倫理研究所の分派であり、神道徳光教から派生した「ひとのみち教団」(後のパーフェクトリバティー教団)に起源をもつ新興宗教団体のひとつ。ただし、会自身は、拝む神も教義もなく宗教団体ではなく、社会教育団体であるとしている。実践倫理宏正会は日本各地に「朝起会」を行うための「朝起会場」を持っており、1978年時点で会が認可した会場が360あった。その後約1000か所に増えた。個々の朝起会場は人数・会費納入額・勧誘運動の成果(「倍加運動」)などによって格付けされている。朝起会は「生活実践の訓練の場」であり、午前5時から「朝の誓」の唱和・会長の著書を読む「御本読み」・会員が体験談を語る「演談」・講師(責任者)のよるまとめなどが行われる。男性よりも時間の都合をつけやすい女性の参加者が多い。朝の誓いは今日一日 三つの恩を忘れず 喜んで進んではたらきます今日一日 人の悪をいわず、己の善を語りません今日一日 気付いたことは 身がるに直ぐに行います今日一日 腹を立てず 不足の思いをいたしません今日一日 三つの無駄を排し 新しく大地に生き貫きますの5箇条である。松野純孝は「ひとのみち教団」の「朝詣り」が倫理研究所の「朝起会」を通じて実践倫理宏正会の「朝起会」に影響した可能性を指摘した。毎年1月1日に「元朝式」が行われる。家族関係については、「目上、目下のけじめ」をつけること、主婦は「主人に反抗してはならず」夫が無理な要求をしたときもまず妻が反省すべきであること、親は子を自然のままにおき「捨て育て」をすべきなどが教えられる。こんな風なことが書いてあったが、入会した人の苦しんだ体験談などを読むと、最初は本代だけだが、多額の寄付を要求されたり、高い本を買わされたり、早起き会の他にも各家庭で持ち回りで話し会をやるとか、講演会に誘い、そのとき住所や名前を書くともう入会したのも同じで家に来てしつこく勧誘するとか、辞めたいというと「大変なことが起きる」とおどすとか、第一家族関係における教えが、今の時代に何を時代錯誤な男尊女卑な思想か!なんて子供を粗末にしている思想なことだろうか!自分の倫理の会の活動を第一に考えるのが最優先ということらしく、成長した子供を鑑賞しすぎるのはよくないと思うが、小さな子供に対してもこの会はそれでよしとしているらしく、それではネグレクトではないのか!さらに裏では政治家がからんでいるらしく、なんでも亀井静香なども講演にきているらしかった。保守的、右翼的で、種類は違うけどなんか森友学園の変な思想を思い出してしまった。でも、彼女はただ自分のやってることは正しいという信念しかないのは明らかそうだし、パソコンの知識など全くない人なので自分を客観的に見る機会もないわけだ。この倫理を正しいと信じ、生き甲斐にしていて、自分の勧誘ノルマを果たすことが会への信仰心と思い込んでいる、いわゆるカルトにはまったマインドコントロール人間なのだろう。彼女が言うには、毎日夫には「あなたのおかげで私は生きています。ありがとうございます。」と唱えるとだんだんその気になってくるのだそうで、毎日自分は実践していると言っていた。しかし、そんなことはこんな会で強制されることでもなく、常識のある人間なら心の中で誰でも少しくらいはお互いに信頼感謝していて行動しているはずだろうに、集団でことばにして唱和するなど気持ち悪くて空々しいので私は大嫌いだ。まあ、それぞれの思想信条は自由なわけなので責めるべきでもないが、少なくとも私は歌を真面目に歌いに第九の会に来ているので、他のことに煩わせられるのはごめんこうむりたい。だから私はここで何か彼女に意思表示が必要と感じた。そこで、コンサートはお陰様で聴けたのでお礼のことばと勧誘のお断りをやんわりと携帯メールをした。「先日の○さんがお勧めの会に勧誘の件ですが、私は賛同しかねますのでお断り致します。今後は第九の中でよろしくお願いいたします。」と。そしたら「なにもいいのです。よろしくお願いいたします。」と彼女から返信があった。しかし、それなのに次の週の第九で「倫理を学ぶっていいものよ」と彼女は言い、「女性の集い」なるものが11月にあるからぜひ来てと写真にあるようなチラシを無理やりくれ、私を熱心に誘った。私はそれに対して「倫理は自分で考えるものよ」と冗談交じりに答えたら彼女はただ微笑んでいた。そして、第九の帰りにここ2~3回続けて息子の車で送ってあげると言い、私と同じ第九の知り合いも一緒に乗せて送ってくれていた。(家までではなく近所のコンビニまで)そこで、“彼女は諦めてはいない、このままではまずいな”と私は思った。私は彼女にもっときつく言わなければと携帯メールを再びした。「大変恐縮ですが、倫理の会のことは、ネットで調べ済みの上、私は以前お断りしたので今後一切のお誘いは遠慮致したく何卒よろしくお願い致します。」と。そしたら、彼女からの返信は「わかりました。」のたったそれだけだった。正直彼女は怒ってるのでは?と思ったが、何と思われようといいと私は断固開き直ることに決めた。だから先週の第九はわざと遅れて行って、彼女の隣で歌わないようにこっそり後ろにいたが、意外にも彼女の方から休み時間ににこやかに声がけしてきて、帰りも又送ってあげると言ってきた。でも、私は「いや、バスで帰るから」とさっさと逃げるように断り一人で帰った。人の車で毎週送ってもらうのは体は楽だけど、こういう人には関わりたくないのでバスで帰りたかった。しかし気楽なはずなのに、どうしてこんな面倒な感情を味わわなければならないのかとため息が出るような重苦しさを感じたのであった。さて、明日も第九だが、今回の練習会場はいつもと違って遠い。でもバスで帰りたい。夜の街並みを見ながら、一人無言で物思いにふけってバスに乗るのも結構私は好きなのだ。さて、お隣との境目の葉牡丹!昨年から見たらこんなに大きく枝分かれして「踊り葉牡丹」となった。成長して秋になってきれいな紫色が中心に表れてきた。春にはきれいな黄色の花を見事に豪華に咲かせたが、夏場には蝶々が卵を産んだせいで青虫が大量に発生して葉っぱを食べて穴だらけにしたり、アブラムシがついて黒くすすけた色になったりしたので、薬を撒いたり、切り戻したり、やっとここまで成長したのだ。」そして葉牡丹の隣にはようやく赤い菊の花が今年も咲いてきた。秋だね~今日は朝ごみ捨てに行ったら吐く息が白かった。第九が終わるまで風邪などひけない。マスク、首にタオルが有効、加湿を守り本番に備えて気を付けてという声楽家の先生のことばを常に心がけている。ジム通いは今のところ週1回しか行けてないが、無理せずに続けたい。
2017.10.25
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今までずっと団体に属してきた私だが、今は自由気ままな生活をしている。昨年の3月でパソコンのNPOの仕事を辞めて、今年の3月ではおかあさんコーラスを辞めた。そして、今は週に2回ほどの市の施設のジム通い。さて、今日も午後1時半過ぎから3時40分頃まで行ってきた。施設入口はこんな感じ。↓エレベーターで3Fに上がって受付するとここになって、ロッカーにバッグなどを入れて、血圧計で血圧や心拍測定。↓受付に会員証と一回200円の使用回数券を出す。(2,000円で購入すると11枚綴りなので1枚得)すると、カルテを渡される。この施設は、ウォーキングとかマットだけ利用する「のびのびコース」ときちんと体力測定を受けてメニューを組んで利用する「総合指導コース」というのがあるが、私は後者で、これが私の目下のメニュー。まだ5回くらいしか利用してないが、こういうふうに決められたメニューを行い、自分で行ったものにチェックを入れる。↓運動前にまず血圧と心拍数を図って記入。まずは①のウォーミングアップで体を温めるのだが、エアロバイクかウォーキングだが、まずは大抵はエアロバイクで15分。ここにレベル1(50W)と書いてあるが、5分やったらレベルは心拍数をみて、自分で適当にボタン押して3くらいに負荷を上げたりしているし、回転数も50Wではものたりないので70~80くらいに設定しながらこいでいる。そのあとは、②の筋力トレーニング。①から⑧までのマシーンを使う。①と②は腕とか大胸筋のトレーニング。③はウエストしぼり。④は背筋トレーニング⑤、⑥、⑦、⑧は腿のトレーニングだが、太もも、ふくらはぎ、内腿、外腿のそれぞれのマシーンだ。今のところはそれぞれ15回ずつ、書いてある負荷の板の枚数にしたがって、①~⑧の運動を2セットやる。そのあとはマット部屋に移動して、ショルダープレス(タオルを肩幅に持って肩より上に上下させる肩の運動)、クランチ(寝て行ういわゆる腹筋運動)、ヒップリフト(寝てお尻を持ち上げる肛門引き締め運動)そして③の有酸素運動はエアロバイクかウォーキングなのだが、最初にエアロバイクをやったら後はウォーキングと決まっている。これを100m/分で20分で行う。点滅する赤いランプがその分速なのでそのランプを追いかけると同じ速さを維持できるが、これは結構持久力や体力いるので疲れる。終わったら脈拍を図って記入。そして運動全部終えたところで再び血圧や心拍数を図って記入。それを受け付けに出して終了というわけだ。でも、まだ1ヵ月にしかならないが、体が次第に慣れてきているのを感じる。疲れ具合や汗の出具合がひどくなくなって体力を取り戻している実感とか、引き締まってきてる感覚はある。いずれ運動士の作るメニューがだんだんきつくなっていくはずだ。しかし、トレーニングのなせる技は必ず何か月後かに素晴らしい効果が出るものと私はひそかに闘志を燃やしているのだ。長い道のりも一歩から・・・コーラスもパソコンも、かつては洋裁や編み物もやったが、体で覚えたことは必ず体が覚えているものだそうだ。この施設の運動も過去に何回か通っているので私の中にマシーントレーニングやウォーキングのコツなどの感覚が身についている。絶対大丈夫だと信じている。コーラスのほうは実は7月からNHK学園に申し込んでみたが、私以外の生徒が一人も希望者なく、中止となった。コーラスというのはある程度歌える人は、結局は合唱連盟に属している団体に所属して歌っている人が多く、その中でもランクやジャンルがある。それ以外の本当の初歩の人間がこうしたところに応募するというのが現実らしい。教えるはずだった講師の先生は「スクールコーラス」をやりたかったらしく、いわゆる「落葉松」や「大切なもの」などという中高生が歌う歌ではあるが、結構高度なジャンルである。案の定、そういうものに関心を示す人は市内にはいなかった。ほとんどお年寄りが童謡や唱歌を歌うコーラスだけが需要があるようだった。8月の末になれば毎年の第九の会の発足式が始まり、4ヵ月くらいの練習をして12月の本番になる。今年も出演以来のハガキがもう来ているので、出るつもりでいるし、今年は35周年ということなので盛大だと思う。今はとにかく筋力トレーニング。それは歌にも生きるはず。来年はオラトリオを歌う混声コーラスに所属するのが夢。。夫の実家は大阪。今年も名物の「水ナス」の漬物が届いた。食べ方にもいろいろあるのね。。↓ここでやっぱり我が家の花紹介!サマースノーパラディー芳純ジャルダンデュフランスインパチェンスとラミュウムカメレオンアジサイ(淡いピンク)紫のガクアジサイ上の紫のガクアジサイが折れたので挿し木したら、なぜかピンク色になったナスタチウム(種で毎年更新しているので色とりどりで豪華)
2017.07.22
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日本列島梅雨入りして結構蒸し暑いニュースが流れている中、こちら北国青森は寒い。まだ長袖で、上に何かを羽織らなければいられない。今日は朝から雨模様で、そのせいか肩こりがひどく、電動のU字型の温熱付き肩揉みマッサージ機で耐えていたが、YouTubeで肩こりに効く整体法が出てたのでそれを見て実行。肩甲骨はがしで肩こりや肩甲骨の痛みやしびれを一発解消!その他、私はよく指がむくんだり、朝目覚めの頃に手がこわばったり、痛かったりしてして指が伸びないで痛いことがよくある。それも気になり、調べてみた。そしてその原因や改善法の動画もあったので、それを見て一生懸命実行してみた。指のむくみの原因と解消法!痛みやかゆみがある場合は?私の5月の健康診断の結果は6月の半ばごろ郵送されてきて、全部正常だったのに以前からたった一つ心配だった悪玉コレステロール値が異常で高い結果で要治療となっていた。私は26日に市の施設でジム通いのための体力測定をする予定だが、その前にかかりつけの医者の許可が必要なので、健康診断の結果の書類を持って行ってきた。医者が言うには、「あれ?2年前と同じだな。前に薬を出さなかったか?」と。しかし、医者はあの時は「食事を気を付けて運動することが大事だ。」と言い、たくさんのコレステロールを下げるための食事メニューとか注意点を書いたプリント物を持たせてよこしたのだった。ところがそれを言ったら「いや、これは体質だからどうしようもないんだよ。何しても無駄。運動してもそう変わらないよ、やりたいならやってもいいけど。」と言う。私はジムで運動するにあたっての保健所から郵送されてきたプリント物を見せた。それには以下の内容がすべて「いいえ」でなければここでの運動はできない条件となっている。結構厳しい条件である。↓最近6ヵ月以内に心臓発作、脳卒中を起こしたことがある。急性の肝機能障害または慢性のウイルス性肝炎の活動期である。糖尿病があり、過去に低血糖発作を起こしたことがある、網膜症、空腹時血糖が200mm/dl以上、腎症などの合併している。最高血圧が180mmHg以上、最低血圧が110mmHg以上である。脳血管疾患やアルツハイマー病などで認知症である。何らかの心臓病(狭心症、心筋梗塞、弁膜症、心筋症)がある。急性期の整形外科的疼痛、および神経症状がある。骨粗しょう症で、かつ、圧迫骨折の既往がある。自力歩行ができない。胸部が発作的に痛んだり、重苦しくなることがある。普通でない息切れを感じることがある。運動中や後に、気を失いそうになったり、動悸が止まらなないことがある。以前の私は10,11の症状があり、心電図異常があって、結果高血圧症とわかり、運動できなかった。あれは48歳くらいの頃だった。今は血圧は治療しているので安定しているが、今度はコレステロールの心配だった。今回は結果としてコレステロールを下げる薬を処方され、血圧の薬とともにずっと飲まなければならなくなった。医者から血管の模型で説明されて、「あなたの血管の血流は今75パーセントくらいになっているから、ほおっておくとどんどん血管が狭くなって心筋梗塞とか脳出血となるんだよ」と。。やれやれ・・・・とにかく、初めてなので軽めの薬で様子見ながら、一応体力テストは受けることはできる。一日の食事内容、生活習慣、減量目的の数字など記入項目もたくさんあった。だから体力測定検査の日は保健師の生活指導や栄養士の栄養指導もあるので3時間近くかかるらしい。それをクリアーして初めてその人に合わせたメニューを健康運動指導士が作ってくれて、機械の使い方の指導を受けて初めて運動できるというわけなのだ。かつてここを利用して運動した頃は若くてピチピチしてたので楽しかったが、今度は大変かも・・でも、うまくいけば筋力トレーニングをすることによって肩こりなどにはよいような気がするし、無理せず気長に続けたいなあ。雨の中の我が家の鉢植えのバラの撮影。これは「サマースノー」白い蔓バラなのに、なぜか今年は花びらにピンクが混じっていたのが咲いてなんか不思議だった。これは「エレガントレディ」クリーム色にピンクが混じってきれいな大輪。元は、「プリンセスダイアナ」という名前だったバラだったらしい。これは「アイスバーグ」白の清楚なバラこれは「ジャルダンデュフランス」サーモンピンクのバラがやっと雨の中一輪咲き始め・・・これは「バレリーナ」風が吹いていて写真がぶれてしまったが、唯一一重の蔓バラでピンクの丈夫な花で毎年元気に良く咲いてくれる。
2017.06.22
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今週月曜日、熟女三人の久々の食事会が終わった。いいお天気の日で我が家に「うつぎ」の白い花がたくさん咲いていた。このお友達とは市のセンターでの着付け教室で10年程前に知り合って今まで繋がってきた人たちだ。土曜日にKさんから電話があって、「月曜に食事三人でどう?」と。もう一人のNさんに連絡したらいなかったので留守電入れたら連絡がきて、日曜の昼過ぎに行けると今までになくスムーズに決まった。私は自分の出演するコーラスのチケットを彼女らに郵送すると、二人とも必ず電話で連絡が来て観に来てくれ、来れないときもお礼にお菓子を届けてくれて話す機会をつないできた。でも、3人同時に会うのははっきり言って数年ぶりなのだ。Kさんは、理容院の奥様で夫婦で経営してるので月曜日しか休みが取れないのが大きな理由だったけど今回はKさんから急に電話で食事の誘いがあったことで決まった。一方Nさんのほうは、最近リュウマチの悪化で月曜日が通院日とあって、今回は奇跡の三人の再会だった。この人たちとこうして未だに縁が続いていることに感謝する。着付けで知り合った頃、月1回程度のランチ会をやってはいたが、私のほうが月曜日に合わせるのが窮屈になったので一旦は会わなくなっていた。でも、そのあと数年の間に私はパソコンを習い、やがてそのスタッフをやるようになり、その途中で昔やっていたコーラスも再開するようになって、チケットを彼女らに送るようになった。しかし、私は昨年の3月にパソコンのNPOの仕事を辞めて、今年の3月にはコーラスを辞めた。どうしてこうなったのか・・・今ではこれは最初から仕組まれていたような運命だったのだと思っている。しかし、コーラスを辞めたことについてはKさんは特に残念がった。彼女は学生時代にブラスバンド部でクラリネットをやっていたり、現在も三味線を習っているという音楽好きな人。一方のNさんは昔学生時代にコーラス部にいて、第九にも一度出演したことがあったという、これも音楽好き。でも、これらのことを不思議な事に私がチケットを送るようになって初めて知ったのだから縁は最初からあったのだと思う。なんといっても私たち三人の共通点は裏表のない正直な人間であり、人に対する思いやりに溢れているのだ。食事はあるホテルの和室のランチで午前11時半からだった。だから今回の再会は私の複雑怪奇なコーラス引退劇の話で盛り上がった。食事の内容は健康食で麦飯、とろろ、天ぷら、豆腐、野菜・・・などのわりとあっさりした懐石っぽい感じで、デザートの果物の寒天寄せ、コーヒー。というか、食べながら話すのって結構難しい。二人はコーラスを辞めた理由を聞きたがるわけだから話す私が食べる時間がないわけで、食べるとしゃべる内容が途切れるし、忘れるし。でも「それで?それで?」って聞かれると私もどんどん話したくなってしまい、いつしか二人は完食、私一人だけがほとんど食べてなくて急いで食べ終えながら話しまくるという何を食べたのかという感じで。。私の話を聞いて、Kさんは「あなたはなんでもできるから多分皆うらやましかったんだよ、それはつまり・・ねたみ・・」と言った。かつては洋裁でドレス作り、パソコンを習得してからはその技術をフル活用。庶務の役員に適任とされて、切符の手配やら司会やらまで代表は人をこき使うのがうまい。ピアニストの結婚式の時の電報も前日の夜に代表から電話で「忘れていたから打ってくれない?」と言われ、私が電話局に電話してネット検索しながらギリギリで間に合わせた。昨年の演奏会のプログラムのデザインも絵を描いていいだけデザインさせてから会から予算がないと言われ、「それでは私は退くから印刷屋にデザインしてもらえばいいでしょう」と言うと、「印刷屋のデザインはありきたりでつまらない、あなたのデザインを使いたいからお願い」と言われて「それならお金をいただきます」と交渉しなければならないほどのずるさ、その他いろいろ・・・私はいつでも自分のできることはできるだけ誠意を持ってやってきた。しかし私自身は時間とお金をかけて努力してきたことばかり。だが、“いろんなことができる→尊敬→うらやましい→ねたみ→いじめ”へとなるようだ。我コーラスの代表はメンバー皆の勢力を自分の元に集めるのを確実にするために自分を最大にかわいそうに演出して応援団を作るのが最高にうまい度胸の良さ、目立ちたがりが天下一品。代表はまず、総会の日の前日に愛犬が亡くなったと同じ愛犬家の同情を集め、代表を降りると言い、結局は皆に止められて続けることになり確固たる権力を得た。指揮者も女の合唱団で男一人であるのと彼の性格も元気で明るく屈託なく常識ないところが代表とマッチしてるお陰で、やとわれ指揮者の彼はいつしかここを自分の支配できる合唱団と勘違いしてきてるようになっていった。私は元々この会には出戻りである。かつて私が入った頃は、指揮者は自分中心になって代表他の我コーラスメンバーの3名を入れた別なアンサンブルグループも作っていた。そのことは会の和を乱す元になり傷ついたメンバーがいて辞めた経緯がある。私もその辞めたメンバーと仲が良かったので共に辞めたかったが若かったのですぐにはできず、我慢してたが10年ほど前に一度この会を辞めた。再度入会したのは歌を又歌いたくなった私に別なメンバーの長年の熱心な誘いに負けてしまったから。練習が終わった後は代表は毎週指揮者や取り巻きの連中とランチで噂話を続けていて、次の代表になろうとしてるきつい性格の私の大嫌いなやつといつもつるんでいる。本当のところ私は代表が屈託がないのか、ずるいのかわからない。私と個人的に話しても嫌な気持を味わったことはなかったのだが、どういうわけか、彼女のずぼらな間抜けな常識はずれな言動には納得いかず、この人と私の思考回路は合わないと思うようになり、それに合わせられる人にも腹が立つようになっていったのだ。しかも、コーラスというものはメンバーがパートがきちんとそろわなくてはいけない。そろっていなければ隣のパートを助けなくてはいけない。昨年の東北大会は仙台に行ったが、メンバー不足で歌は助けなくてはいけなくて大変だったし、新幹線で旅費はかかったし。それなのに、「東北大会旅費補助費」という名目の会の予算があったが、東北大会に参加しない人にまで一律にお金を渡したのだ。メンバー皆も異議なく、行かない人も嬉しそうにお金を受け取ったのだ。「こういうふうに皆に一律に分配するっていう考えは共産主義だと思うんだけど」と私が言うと、Kさんも「そうだ!」とうなづいた。実は代表は日教組の人の集まりの合唱団の指揮者もやっていて、教祖様扱いとのことなので“なるほど”であった。何かの行事があるたびに打ち上げの宴会があり、行かなければ仲間はずれになるから行くし、自分でもそのときは楽しいが、二次会にはメンバーの中に元代表のスナックのママがいるお陰でいつも手をこまねいている。もちろんその彼女もランチ組で今の代表を批判しながらここに院政をしいている。しかも彼女の店の客がそのまま我コーラスに広告を出してくれるスポンサーなのでたちが悪い。こんな問題のある団体がどこにそうあるだろうか!私はそれでもずっと歌が好きで我慢して自分の居場所をつくろうと頑張ってきたのであった。 以前のブログにコーラスを辞めた理由を書いたが、結局は、“ここにこのままいたら自分は大事な自分のエネルギーを吸い取られてしまう”と思った。コーラスのメンバーのほとんどは孤立したくないために心にもなく人に従ったり嘘をついたりして群れている、だから平気で人を裏切ったり陰口を言う。虚勢を張った生き方は自分を疲れさせ、結局はボロボロに自分を追いつめるだけだと私は思った。自分のいる場所はもっと別にある、いや必ずみつけてみせる。KさんもNさんも私の話に賛同してくれて、私が話すたびに「それってなんなの~おかしいわ~!」「女の世界は難しい、嫌だね、よかったじゃん辞めて!」って言ってくれた。彼女らは二人とも娘さん二人を持ち、私のように男の子を持っていないせいか、孫ももうすでにいる。Nさんは今年の3月に二番目の孫が産まれたと言い、孫がかわいいというのをしみじみ感じるようになったと言っていた。しかし、正直私には孫のかわいさはわからない。私の母に聞くと、娘の産んだ孫は手をかけやすいけど、息子の孫は嫁が産んだ孫だから遠慮して手を出しにくいという。しかも私の弟の子は自閉症という発達障害があるので全く普通の子と成長が異なる。そんな話を彼女らにしたら、発達障害に対しての知識は皆無の彼女らは自閉症をダウン症と勘違いしているようだった。私の場合は従弟にもそういう人がいたり、自分の子供たちも一時構音障害で発音指導を受けに書き方の時間などに特別支援学級に通ったことがある。当時は「ことばの教室親の会」に入って、その子供たちの親との交流があり、親の会の役員をして県大会にも参加したことがあったり、テレビ出演もしたことがあった。今は全くうちの子はそういったものは治ってしまって問題ないが、そういったことに触れて理解できた期間は大変貴重だったと今は思っている。甥っ子の手紙は5年生でもひらがなだらけで、ことばは助詞がなくて、時計もろくに読めなくて、この先が心配である。そんなことも全部含めていろんなことを経験して、いろんな人と出逢って付き合うことは、いろんな考えを知り、そうすると当然自分は傷つくこともたくさんある、でもその分自分は必ずどこかで成長しているはずだ、そう信じてめげずに新たな挑戦をしたいといつも思っている。何ヵ月か前に長年使ってきたパナソニックのCDラジカセが壊れたので気になっていたが、なんか無償に欲しくなってしまい、機能性もよく、レビューの評判がいいのが気に入り、新たなソニー製品をアマゾンで購入した。購入時から1週間後に16,478円だったのが15,968円に値下げになっていたのは悔しかったけど。今の製品はSDカードを入れられてテープやCDやラジオから録音ができるのはびっくりした。全く新しい製品がこんなに進化してるのを私は知らなかったのだ。もちろん、マイクも挿せるし、ヘッドフォンも挿せるし、リモコンもついている。 私は久々に昔の古いCDを聴いてみた。リチャードクレーダーマンのピアノ曲「渚のアデリーヌ」など・・・それから段ボールを探して、昔のうちの息子たちの幼少時代のピアノの発表会の時の録音テープをみつけたのでかけてみた。でも、コンサート会場で録音できるものを当時持ってなかったので家で本番近くに必死に練習して録音しておいたものだった。次男の曲の中で6年生のときので「スクエアダンス」が気に入った。あんまり器用でなかったので上手とは言えずリズムが時々狂いながらも、初めてペダルを使って演奏できていて楽しかった。なんども繰り返し弾いていて、最後に私との会話が入っていたので「あれ~!」と聞き入った。私「・・・○○ちゃん、また発表会出たいですか?」次男「・・・いや~だ」私「どうして?うまかったよ~」次男「・・・」私「じゃお金あげたら出る?」次男「う~ん」私「いくらだったら出る?」次男「1万円~」であった。しかし、次男の演奏会はこれが最後であった、いい記念となった。なんといっても次男の子供の時の声がちょっと声変わり気味で可愛くて懐かしかった。ちょうど次男が帰ってきたので自分の6年生の時の演奏を聴かせ「これお前が弾いたんだよ~お前上手だったよ~聴いてごらん」て聴かせたら面白そうに満足げだった。ついでにその後長男の5年生になる前の春休みの演奏会の練習が入っていた。曲は「トルコ行進曲」これはリズムもよく軽やかで和音もきちんとしていてさすがに器用だなと思った。昔から絵を描いても、粘土細工やブロックやプラモデルなどとにかく手先器用な子であったものなあ。そこでいい気になって1年生の時の初めての長男の練習曲「ほらあの山に」を聴いたら、なんか間違いが多くて最後に私の長男を叱る恐ろしい声がたっぷり入っていて鬼母だった。長男は一言も口答えもせず、感心だった、お母さんきつかったね (*´Д`*)ごめん。。つまり、人それぞれ皆違うってことは確かであるとよくわかった。子どもに教わることのほうが本当はずっと多いんだね。そこが子供が大きくなっていなくなって母親の役目終わると女は少女に戻るのかも?孫と子供は絶対違うと思うけどな。わからないけど孫は可愛いいかもしれないが、多分本当に切ないほど愛おしいのはいくつになっても絶対子供のほうに違いない気が私はしている。
2017.06.15
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今日はいい天気。耳鼻科通いと、食料や雑貨買い出しに出かけた。耳鼻科は血圧の薬を内科でもらうのと同じようにアレルギーの薬をもらうために何年間も通い続けている。私の場合は花粉症ではなく、埃・ダニアレルギーだ。年がら年中アレルギー症状が起きる体質なので薬を切らすことができない。私がアレルギーであると気づくまで結構時間がかかった。てっきり花粉症と思っていたのだが、季節に関係なく体調がおかしいのである日かかりつけの内科に相談した。そこでアレルギーテストをした。(いろんなアレルギーの抗体検査のため注射して調べる)アレルギーと一口に言ってもかなりの数に及ぶ。私は30代の頃からか、掃除をして埃が鼻の中に入るだけでくしゃみ、鼻水、鼻づまりがひどく、目や体中の皮膚が痒くなる体質であったのだ。ほおっておくと微熱、だるさ、やる気もうせるなどとなっていく。悩んだ末に何年かは内科でアレルギー薬を処方してもらっていたが、そのうち、さらに年齢が上がってきたら鼻が喉の奥に下がってからむ症状がひどくなったこともあり、ついに耳鼻科に行くことなった。外科的に薬の噴霧治療も行うようになったらすごく調子がよくなってそれ以来耳鼻科には長いことお世話になっている。耳鼻科の後は薬局へ。月曜日は薬局がシニアサービスデーで10パーセントOFFなので、スーパーに行く前に冷凍食品(次男の弁当のため)やお菓子や洗剤類などの日用雑貨の洗剤などの買い物をすることにしている。そのあとで生協へと向かった。今朝も朝の報道番組でしつこいくらいにアナサキスという魚介類に寄生する虫の話ばかりだ。刺身も寿司もやばいと言う。アナサキスがついたままタタキにしたらアナサキスのタタキになると聞いたもんだから気持ち悪くてしょうがなかった。なんでも業者によってはそのアナサキス発見の識別をするために20万もする機械を導入したところもあるとか。。私はそんなわけでスーパーの新鮮な魚を見るのも嫌な気分、ましてや刺身などいつもと違って見向きもしなかった。買ったのは養殖のさけの切り身と、アジの干物。後は肉類と野菜。果物や野菜売り場のそばで入口付近にロボットの「ペッパーくん」がいた。 最近スーパーで見かけたが、今日もいた。スーパーでこのロボット購入したのかな?ロボットは「いらっしゃいませ」を繰り返して、時々誰かが近づくと「僕とお話しませんか?」と独り言を言っている。先日、物珍しさで私がそばに行ってじっとロボットの目を見たら「僕とお話しませんか?」と言われた。黙ってたら勝手に生協の保険かなんかの映像が流れて説明を始めたが、私が黙っていたら「もうお話辞めます」と言った。でも、今回、小さな3~4歳くらいの男の子がそばに寄って行った。私はおもしろいので様子を見ていた。そしたら、やはりロボットは「僕とお話しませんか?」と言う。そこへ、生協の店員がそばに寄って助け舟。「何かゲームやろうか?」と画面をいじり、ゲームが出た。そしたら犬の写真が2枚映り、ロボットが「どちらが吠えますか?」と質問した。その犬は片方がかわいいチワワ犬、もう片方が怖い土佐犬で横綱のような化粧まわしをつけている。私には土佐犬がものすごく怖い声で吠えそうに見えた。男の子はところがチワワのほうを指して画面をタッチした。ロボットはしばらく反応しない。“わ~、これもしかして土佐犬正解かも?どうするロボット・・”と思っていたら・・・今度はロボットは再び同じ質問をしてカウントダウンを始めた。「5、4、3、2、1!」男の子は首を傾げて笑い困った顔をしたが、めげずに再びチワワをタッチ。そこでロボットは「はい、正解です。あなたは二択の天才です。」と言ったもんだ。そりゃあもう、男の子はにっこにっこうまくプログラミングされてると私は感心した。これが「不正解です。残念でした。」なんて言ったら子供は泣くわ。。。でも、よく考えてみたら、どっちも犬なんだからどっちも吠えるわけでどっちを選んでも正解なんだと思う。まあ、弱い奴ほどよく吠えるというので、チワワのほうが多分吠えるかもという風に考えるとこの子はすごい!とにかく楽しかった。まあ、私にもこれぐらいの孫がいてもおかしくないんだなとふと心に思った。かわいいな~・・・なんて。さて、お隣の奥さんが3月に亡くなってもはや2カ月過ぎた。お隣の一人暮らしになった旦那さんは最近はリズムができてきたかのようにきちんとしてる気がする。先日も草をとったり、玄関をきれいにして、お花を並べたり、男性としてはまめで感心している。そのお隣と我が家(左のほう)の境目にこんな葉ボタンがあり、ついに黄色の花が咲いた。 見る限りでは我が家に近いほうに葉ボタンが寄ってる感じであるが、昨年の春に発見した時はお隣寄りに生えていた。我が家の鉢植えの葉ボタンの種がこぼれたらしく、ある日突然ここに生えてきて、成長を見守っていた。だんだん成長していって、秋にはきれいな赤紫色の姿の美しい葉ボタンとなり、いつしか雪降る冬に。そして猛吹雪の寒い中もこの葉ボタンはしっかり生きて立っていた。しかし、棒で支えもしてないのによく折れないものだと不思議に思って根元を見たら、地面の所に小さな釘が刺さっていてここに丈夫な細い紐がしっかりと葉ボタンと結ばれていた。これは、お隣の旦那さんがやったと気づいた。奥さんは昨年はもう既に介護を受けていたからやれるはずもないし。我が家ではお隣の葉ボタンだと思いほおっておいたのだが、お隣はもしかして我が家のものだと思っていて、でも見かねて支えをしてくれたのかも?お隣の旦那さんは優しい人だと思い、ますます驚いて感心した。なんかお隣と我が家の架け橋のような葉ボタンで、不思議な気がするのでどちらのものでもいいから大事に成長を見守っていきたいと思う。でも果たして葉ボタンてどれくらい成長するものなのかな~おもしろいな~塀と同じくらいの高さになったりして・・・さて、ついでに我が家の寄せ植え紹介。今ピンクの花が咲いてるイチゴ。そのうち赤いかわいい実をつける。食べても味が薄いので、毎年食べないで香りを楽しんで姿を鑑賞している。 まだ満開とまでいかないものばかりだが、これから華やかになるのを期待してまた豪華になったら写真撮ろうっと。
2017.05.22
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昨日私は2年ぶりに健康診断に行った。ここは私の自宅から歩いてほんの5分ほどの所にある「健康増進センター」という。 ↓ いつもは血圧の薬をもらいに通院してる関係上、主治医の個人病院で検査をしてきたのだが、今年は絶対この市のセンターに行こうと決めていた。というのは、短命県日本一という汚名返上の意味もあり、青森県は最近検査担当医療機関への圧力が強くなってきてるということで、今年の春先にも主治医から早く検査しないと上から圧力かかってうるさいからやるようにとしつこく言われていた。しかし、3月などという時期は寒いし、厚着をしてるので着るものを脱ぐのが面倒とか、運動不足で体重が増えてる感じだし、コレステロールが高くなってそう。だから結果が悪く出るのが嫌で逃げていた。それになんといっても大嫌いな胃がん検診を避けていた。そこで、市の広報を見ていて、今年の4月以降ならば私が婦人科検診が偶数年に当たる受診できる対象であること、そして乳がん検診が無料なので、ついでにここで一般全部受けようと思い立ったというわけだ。元々、夫がこのセンターで毎年検診を受けてるが、個人病院では眼底検査まではしてくれないのでそう決めた。内容は今回私の場合は国保なので、午前の部は特定健康診査(40歳以上の市内の国保加入者対象で無料)、肺がん検診(無料)、胃がん検診(500円)、大腸がん検診(無料)となる。骨粗しょう症検診については(40、45、50、55、60、65、70歳の女性)になっており、今回は私は対象年齢ではないのでなかった。そして、午後は、婦人科検診で、子宮頸がん検診(20歳以上の偶数年齢の女性で500円で、今年は私は対象だ)、乳がん検診(40~59歳までは1,000円で、60歳以上は無料でいずれも偶数年齢の女性でこれも今年は私は対象だ)かくして、午前は一般検診、午後は婦人科検診となった。朝8:30から受付なので間に合うように行ったら既にもう私の前には20人くらい並んでいて、番号はそれなのに71番だったので、早い人は7:00過ぎから並んでいたに違いない。予約するときに考えてみれば春の連休明け最初の検診日のせいで混むのは当然だったなあ。受付済ませてお金払ってロッカーで検査着に着替えして問診から始まる。そこで午後の婦人科検診のための問診も兼ねてたので記入してなかったために身長と体重を聞かれた。私は実はここ2年ほど全く体重を測っていなかった。なぜかというと、我が家の体重計は電池式で電池が切れていてその電池の個数が多いので入れるのがめんどくさく、その後の使い方も忘れてしまったからだ。この体重計は脂肪率も測れるもので、20年近く前にダイエットに凝っていたころ買ったものだった。とにかく、2年前を思い出しその数字を言って記入してもらった。早速検尿、そして後に問題の身長と体重測定。個人病院では昔ながらの身長測定と風呂屋の体重計みたいなので洋服着たまま測って500g引くというパターンだが、さすがにここは身長と体重を一度に測れる機械だ。結果はなんと私の予想数字とほぼ同じで身長が0.2センチ多く、体重が0.2キロ多かっただけ。私は自分で鏡に映った姿を見たり、ズボンなどをはいた感覚、お肉をつまんだ感覚で自分の体重の変化がわかるのだが、感覚どおりだった。しかし、ここ何年かで身長が1センチは減っている。結婚した時と同じになった。結婚してから1.5センチ伸びたのに(なぜか伸びた、夫に育ててもらったのか・・)、また戻った。体重は結婚当時よりも4キロ増えた。(運動不足の賜物だ、夫は食いすぎというが私は自覚ないし、腹の出てる夫に言われたくない)昔は傘をさして風が吹いたらメリーポピンズみたいに上に飛んでいきそうになるほど痩せていたの。。まあ、後は混んでない順番に誘導されて心電図、肺がん検診、内科診断、胃がん検診へと。この胃がん検診が問題だった。この頃になると朝に何も口にしていない私は喉が渇いてしょうがなく、そこでバリウムが出た。私が今まで検査した個人病院ではバリウムは発泡剤入りに調合されていてしかも下剤まで最初から皆入っていて、下剤の量もそこで指定して先に飲んでいた。しかし、ここは先に発泡剤の粉を飲み、バリウムを大きなコップ一杯飲んだ。喉が渇いていてヨーグルトのようにおいしかった。それから中のレントゲン。ここの機械での動きにも戸惑った。だって、私の個人病院は機械が縦に立ったままの状態でいきなり横にして姿勢を替えてグルグル回される。さらにそこでもまたコップ1杯のバリウムをたらふく飲まされていた。まるで遊園地のアトラクション遊具のような派手な回転にしがみつかないと落とされそう。それに比べれば、ここは中でバリウムを又飲むこともなく、しがみつくほど大きな動きはない。その代わり、細かく何度も姿勢を微妙に変える指示を出されるのが理解できずに質問をしつこくするという恥ずかしい私であった。さて、無事終わり、下剤の錠剤を受け取って、「え?今飲むんですか?」とこれも勝手が違ったので聞いてしまったが、そこでも普通でいいか、多めがいいかと言われ、普通でいいと言いながらやや便秘気味の私は一応普通の2錠飲んで、後は予備をもらって家で飲むことにした。そのあとは、ついでだからと午後の予定だったけど乳がん検診のマンモグラフィー。これは動作は簡単だけど、機械でオッパイを挟むので超痛い。今日風呂で体を見たら赤く型が残っていた。昔は触診もあったのだが、今はなくなったが、あれは本当に嫌だった。婦人科の医者とはいえ、中年の男の医者がベットにあおむけに寝た患者の胸を一人ひとりにかなり長い時間かけてグリグリとさわりまくるのだ。そのときの医者の血走った目がどうも納得いかず今も忘れられない。だから乳がん検診がそれが嫌で行きたくなかったので避けていた。なんかもっとクールな顔であるはずなのに、異常な感じを受けたが、どうも医者によるらしい。。時間をかけてさわりまくったところで患者も嫌だし、患部の見分けに触診が意味がないので機械だけになったんだろうと思う。さてそのあとは、血液検査。でも今回私は肝炎ウイルス検査はしなかった。ただ単純に血を余計とられるのが嫌だったからだけど、今考えると大したことじゃなかったから今度はやろう。最後は眼底検査だった。久しぶりに目の検査だ。コンタクトをやってた頃の40代後半まではよくトラブルを起こして眼科通いをしたものだが、この歳になるまで眼科にはその後実は行っていない。老眼はあるけど、人に比べると近眼のせいでそれほど困らないし、老眼鏡は安いものを買って使う程度で間に合っているし、パソコンの仕事を辞めてからは酷使具合が大分減ったと思う。ただ、右目は黒点が視界に少し見える。(いわゆる飛蚊症)暗闇のなかで緑の点を見つめて数分検査、最後にピカッと視界が見えなくなる衝撃で終わった。あっけなかった。一旦家に帰って食事をして、午後に再び今度は子宮がん検診のためだけに戻った。これは上はそのまま、下は持参したスカートに履き替えて、あとは順番待ちでさっさと進んだ。まあ、出産経験のある女性なら慣れっこなので、楽な気持ちだった。かくして家に戻り、あとはバリウム排出に専念。鈍い私のお腹は反応が遅く、5時間たっても何も出なくて予備にもらった下剤をまた2錠飲む。その後は水分やらお菓子やら食べまくる・・・でやっと(^▽^)/でも、それで終わりではなかった・・・(*´Д`*)実は夜中の1:30過ぎまでお腹は痛み猛烈なバリウム攻撃が・・・落ち着いて眠れたのは大分あとで寝不足で疲れたのであった。さて、本日は軽快。(o^―^o)ニコこの検査の後の結果は約1カ月後とのことだが、私はそのあと実は次の計画がある。検査結果が問題なければ、その結果を持って今度は2,000円支払って体力測定を受けて、今度はこの施設の隣にある市のフィットネスクラブ「元気プラザ」に通うつもり。 ↓ ←正面玄関 中のトレーニングルーム ↓ こんな感じの施設で、私は実は今まで過去に利用したことがある。一度目は30代の若い頃で大分通い結果もスリムながら筋肉が程よくついて素晴らしい結果が出た。二度目は40代後半だったがなんと心電図異常で運動途中に具合が悪くなり運動資格だめの判定で断念となり、今の個人病院で調べたら「高血圧症」と判明し、その後治療し始めた。三度目は治療の成果あり血圧安定してきて順調で、運動もしっかり続いていい状態だった。しかし、なんとある日家でストレッチをしていたら机の角に脚の甲を思いきりぶつけてしまい、痛くて運動できなくなり、ここに運動に通えなくなり、休んでいるうちにめんどくさくなって断念し、今日までこことはすっかりご無沙汰していたというわけだ。が、今度こそ頑張るつもり!これほどの機械のあるルームを個人スケジュールを組んでもらって1回200円で使えるなんて、市の施設ならではと思う。自分に負荷をかけなくては向上なしだ!私の中の血液中の悪玉コレステロールは2年前には危険域と言われていたが、女性の場合特に多い症状らしい。運動すること、食事は野菜をたくさん食べなさいということだった。まずは健康作りの「元気プラザ」である。!(^^)!
2017.05.21
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雨模様の鈴蘭が我が家にも鉢植えに咲いてさわやかになってきた。嵐のような気持ちで過ぎてしまった3月だった。私がコーラスを辞めることを決意するまでの顛末・・・おかしなことに、いつもなら絶対に電話の勧誘に乗らない私なのにプロバイダを替える契約をしてしまい、私は情報登録変更に追われながら忙しく神経質に過ごしていた日々の中、3月の末はコーラスの総会の日だった。ことの発端はその総会の1週間ほど前に代表がとんでもないメール文を私によこしたこと。私は庶務の役員で、総会の書類つくりや当日の司会をすることになっていた。なんと代表は「今年で代表を降りたい、総会まで秘密にして」というのであった。理由はもう12年もやってきたから、降りてそろそろだれかにバトンタッチしたいというのだ。私はこの代表にはホトホト手を焼いていたので、降りたいなら降りればいいと思い、代わりに誰が代表を引き受けるのか、その揉めることを予想して時間をとる覚悟をしてそれなりの司会の段取りを伝えて当日を迎えた。総会日、まるで何かのお祝いの会であるかのようにやたらとお菓子の差し入れが多く、一人ずつに渡るお菓子が紙ナプキンの上に山積みだった。手作りのお菓子などもあり、異常なほどで、テーブルが狭くなり、書類を置く場所がないくらいだった。( Д ) ゚ ゚私は“ここの人たちは一体総会を何のためと思ってるんだろう?大事な会議の場にこのお菓子は何なの?食べる時間も気分でもない。田舎臭い、子供っぽい”と思いお菓子を見ると気分が悪くなるくらいだったが我慢してテーブルの数を増やさせた。さっそく一応はお決まりの段取りで前年度の行事と反省と出欠状況、今年度の行事予定、それから前年度の決算報告と今年度の予算報告、監査報告。そしてやっと役員改選となった。しかし、ここで代表からの代表を降りたいという話。しかし、不思議な事に団員の顔に驚きの表情がなかった。皆はもしかして知ってるのでないかと思った。おまけに代表は、この総会の前日に15年飼っていた自分の愛犬が亡くなり、すっかりペットロスで落ち込んでるという話になった。私は、仕方ないので、まず決められる役員から決めようと思い、代表以外の役員選出をすることにした。まず、衣装係の衣装預かりの部屋代として年間費用を会から払ってはどうかという提案をした。会の在庫の衣装はかなりの枚数で一部屋占領しているが、それが個人の家の部屋では申し訳ないではないかと皆に言ったのだが、衣装係本人は遠慮するし、皆は最初すぐ賛成ではなかったが、結局は年間3,000円を衣装係に払うことになった。こういうことを今まで何も考えてはこなかったこの人たちの神経が知れない。そのあと、係をしばらくやってない人に振ったが、「私は体が悪い」「私は歳だ」とか逃げる人が続いた。私は「皆誰でもどこか体は悪いものだ、3,500円ずつ払って皆で作っている会だから皆にやってもらいたい!」と言っても下を向いてだんまり。代表はそんなときも何も言わない。。なんなんだ!ヽ(*`3´)ノ新年会などのイベントの時はおしゃれして大酒飲んで騒いで楽しそうにしてるくせに・・・私は呆れた、こんな人たちと一緒に歌いたくない。庶務は二年目も推薦を受けて私が引き受けたが、相棒となった新しい庶務はパソコンどころか携帯も持ってない人になり、私はうんざりした。他の役員も適当に決まり、最後は代表が決まらず、皆で今の代表を拝み倒すように機嫌を取ったら、彼女は「う~~~~~~ん・・・」と長らく沈黙し、「夫に言われたの。どうせ簡単には辞めさせてくれないだろって。お前今度引き受けるときは体が悪いとか以外は簡単に辞めるなって。もう辞めるって言いません。」と言い、結局引き受けた。つまり、これは実は彼女の作戦、シナリオであったとバカでもわかる。おまけに自分のことを「私はガラスのハートなの」と言った。彼女を嫌いな私の仲良しが小声で「フン、耐熱ガラス。。」と言った( ̄m ̄〃)私は帰り際の次週までに今年度の資料(名簿、改正した会則、連絡網)を作ってくると代表に約束。早速家に帰って作成後、彼女に連絡したが、返事はなかった。携帯にもパソコンにも連絡したのに1週間待っても全くなんの連絡もなかった。私はメールで彼女に庶務の仕事に対しても衣装係同様もう少し会からの手当てを考えてほしいと書いたが、返事なし。そのことが何か気に障ったかと気に病んだりもしたが、当然の要求だと思っている。大体、ここの会の人たちはなんでもかんでもできる人がやればいい、それもできればただで、やってほしいという考えだ。何も返事もよこさない礼儀知らずなどもういい!と思い、私は「もう会辞めます」と代表にメールした。これほど何度もメールしてるのに見てないわけがない、見ても返事よこさないなら、こちらから電話代使ってまで連絡する必要もない。この会にいて、あの身勝手な人たちと歌うのも嫌になった。だが、それでも何も連絡がないのは異常だと思った。私は“ここを辞めよう!”としっかり決めた。そこで、相棒の新庶務の人にパソコンで手紙を書いて封筒に入れた。いくらなんでもいったん引き受けた今年度の役員をやらないで彼女に押し付けるのは申し訳ないわけだから、それはもう丁寧に謝罪と説明の文章を書いた。内容は辞めるに至った簡単な理由(今回メールに返事がなかったことをきっかけとしたが、別にもあると)と彼女への事務引継ぎ。そして会の預かり資料を入れて、借り物の衣装小物を入れて宅配で送った。彼女はまじめだが口下手でメールもできないので敢えて電話はしなかった。だけど、私からの荷物を受け取ったはずの彼女からもなんの連絡もなかった。そして、やはりもちろん代表からも何も連絡がなかった。そうして練習日になり、私は辞めたわけだし行かなかった。当然代表も私の退会メールを読んでも返事をよこさないくらい私に立腹でもしてるのかと思い連絡しなかった。そしたらその日の午後に同じ団員の気心の知れたN子からメールがあった。練習のその日まで、私が退会したことを代表が知らず大騒ぎだったという。私のメールを見ていなかったらしい。でも、私は見てもどうせチラ見で、返事めんどくさいからしなかっただけじゃないかと思う。( ̄ε ̄#)新庶務の無口な人が私のことを「メールを送ったのに返事がなかったって手紙に書いてた」とそこばかり言ったために皆の反応がすごかったらしい。おまけに代表のペットロスということばに反応して、皆は代表に同情していたという。メールを見なかった事は、誰にもある事で、そんな事でやめる方がおかしいと、わりと常識あると思われている人が言った時は驚いたとN子は書いていた。代表に遠まわしに、パソコンメーをあまり誰にでも知らせない方がいいと言ったら、なんで今そう言う話しをすると食ってかかって来た人がいたそうだ。そして「誰もパソコンなんかやらない、非常識な」と約2名が言い、N子と大喧嘩となったという。そこで、元代表に止められたらしいが、N子は「ここの人たちは考え方が少しおかしい。何事もレベルが違う。代表は私が悪かったを繰り返し、そういう彼女に同情する人とだんまりをしている人が半々だった。いつもいつも、こんな終わり方をすると思った。」とメールをよこしてくれた。“パソコンなんか誰もやらない”って、よく言うよ。やらない人がここは多いだけでしょ!何かあればパソコンできる人にって頼むくせに・・・フン(`・ω・´)その次の週の前年度と今年度の役員の引き継ぎが例年どおり、どこかのホテルで昼食かねてやったらしく、そのときの模様を別な仲がよかった団員が教えてくれた。代表は私からのメールのコピーをその食事の場で皆に見せて、自分への同情をかっていたという。私に対する文章はただひたすら私にへりくだった書き方で、私が彼女に書いた文章は率直で理論的なものなので、人から見たら私が彼女を攻めた悪い人に見えるのだろう。しかし、そういうことを平気でやって、人気取りをする代表は人間として最低だ。メールといえども立派な一対一の秘密文書であり、私の許可なく勝手に見せるなどもってのほか。そういう人は代表の資格などないし、そういう人を支持するバカな人たちと一緒の仲間でいて歌いたいとは思わない。代表は私がよく仕事ができるから安心して任せてきた、私が悪かったとメールにも書いていた。頭の回転の速いあなたのような人が代表をやればいいのにとも。いいえ、代表、あなたのような人のほうが皆が楽しくいられるのですよ。( ̄ε ̄#)私はこの会にかつて8年いたが、指揮者と今の代表を含め一部の人間の言動に我慢ならず、表向きは体が悪いということで辞めた。でも、残った団員の中で私のことを慕っていたT子の辞めていた6年もの期間の電話やお茶のみなどの熱心な誘いに負けて入り直した。当時パソコンの仕事仲間との関係とのバランスをとりたかったせいもあった。しかし、そのT子は以前書いたが認知症で既に退会した。いつから認知症になっていたのか、私に電話くれるときはいつも楽しそうだった彼女だったが、よく彼女は「皆はおかしい」と言っていたが、確かにここの皆はおかしいと今は私も思う。私は一度は悪あがきも考えて、辞めたといえども誤解だけは解きたいと思い、辞めた理由は家庭に事情ができたというふうに訂正してほしいと代表にメールした。しかし、そんなことはバカバカしいと思い直した。そして、以下の文章を最後に代表にメールした。↓❝私はいろいろ考えましたが、わかる人にはわかる、わからない人にはわからなくてもいいと思いました。弁解はすればするほど醜くかえって誤解されることでしょう。あなたは皆の支持を得ているのですから、又この話をぶり返したところで益々私のほうが不利になるに決まっていますので、訂正の言葉は無駄ですから結構です。ただ、私が「メールが来なかったことだけに腹を立てて辞めたバカな人」と思う人の方が余程私は浅はかだと思っていますのでそれだけはお伝えしておきます。❞時は残酷だ、ここのコーラスは歌のテクニックは身につけてきたようだが長い年月の間に大事な何かを失ってしまった。人に対する心からのやさしさがなくなった。うわべだけの、自分さえ今さえ良ければいいという考えが何よりも恐ろしい。これは本当は自分にも噓をついていることになるのに・・・辞めても笑って会えるなんて妄想だ。ここの会は昔と変わった。でも、実は変わったのは私のほうかもしれないな。私は前よりも本質が見えるようになってきたような気がする。これからまた歩む、より新しい本質に向かってね・・・
2017.05.17
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今日は母の日。例年通り今年も県外に住む長男からプレゼントが届いた。なんか京風のレトルトのお魚の切り身らしい。相変わらず感心だ。先日の連休には青森が寒いせいか風邪をひいて病院に行ったりしたが、それでも家で休めたのか仙台へ少しは元気になって帰っていった。今年の正月、長男に入学式以来に久々にきちんとしたスーツを買ってあげたので喜んで、「ありがとう、大切に着るよ」と言っていた。先日は夫の生命保険のポイントがたまってたので安ものだろうけどカタログギフトから選ばせて腕時計をプレゼントした。普段家にいない分何もしてやれないから来たときはゆっくり休んでおいしいもの食べさせて帰してやりたいといつも思う。そして長男はお祖母ちゃん(私の母)と私の肩を揉んでくれた。昔からそういった心使いがさりげなくできる子だ。さて、私の私生活は3月頃から目まぐるしかった。まず、一番目はコーラスを辞めたこと。本来は母の日は毎年「春のフェスティバル」というおかあさんコーラスの行事の日だが、今年からは私にはなくなってしまった・・・そのわけは後に書くことにして・・・二番目は思わぬ電話の勧誘に今回は相手の口のうまさにいつになく乗ってしまい、以前から不満だったパソコンのプロバイダを替えてしまった。しかし、当然プロバイダを替えるということは、アドレスを替えることである。そうなると各サイトの情報登録を替えなくてはならない。替えておかないと、今までのアドレスで使用したいろんな特典(ポイントなど)が使えなくなったり、いろんなサイトの管理もできなくなる。なので、私は前のアドレスを解約する前に1カ月の猶予期間を設け、情報変更にいとまがなかった。しかしだ!プロバイダを替えて1カ月くらいしたらなんとパソコンの調子が悪くなってしまった。立ち上がりがものすごく遅くなり、画面が急に青くなり再起動の要請ばかり出て、パソコンが使用できなくなった。得意先の店に相談したらHDDではなく、システムの不具合だというが、チェックだけなら3,000円で済むが、手間と時間がかかるし、それで調子が100パーセント良くなるとは限らないと言われた。そこでリカバリーであればバックアップさえきちんとあればそっちのほうがいいと言われ、10,000円かかっても私はそちらを選んだ。データもシステムもバックアップを取ってあったので安心していた。そして修理が混んでいて長引いたが、取りに行ったら、なんと以前使っていたマイクロソフトのWindowsエッセンシャルズが1月でサービス終了となり、今まで使ってきた写真ソフトのフォトギャラリーと動画ソフトのムービーメーカーの再インストールができなくなったと言われ、ものすごくショックだった。現在使ってる人はサポートは切れても使用は可能なそうだが、もうあとのまつりだった。「どうすりゃいいんだ~」ってわけで、とりあえず、写真の編集はフォトギャラリーは使えない。グーグルのピカサも使用していたが、これもグーグルの方針が変わり、グーグルは一つのアカウントで統一管理でセキュリティ管理が徹底されている。写真は「グーグルフォト」というソフトでクラウドになるので、自分で設定をきちんとしないといけなくなった。でも、まあ、これは使える。後は私のパソコンがlenovoというメーカーなので、その中の「フォト」で編集OK。さて、問題は動画ソフト。マイクロソフトのムービーメーカーをタダで使ってきたが、店の人に聞いても、プロバイダやNTTの人に聞いてもフリーソフトはいろいろな問題のあるものがくっついてダウンロードする可能性が強く危険だという。そこで、勧められた「Nero 2017」という動画ソフトを購入した。しかし、CD-ROMしか入ってなく、全く説明書はなく、ネットを調べても出てこない。NTTサポートの人もソフトに関することに対しては質問はだめで、結局私は試行錯誤に挑戦!お店の人がムービーメーカーに似てるから使ってるとわかるよと言っていたから、あちこちパチパチクリックしまわし、めちゃめちゃにいじくりまわして、なんとか作ってみた。作成方法は自分でノートにまとめた。なんの動画を作ったらいいか困ったので、3月初めにコーラスのピアノの先生の結婚祝いを会でやったときに録音した曲を使い、イラストや写真をダウンロードしてやってみた。↑これはエクスプレス編集で、今までにムービーメーカーと使い方が似ている。↑これは拡張編集で、本来は凝ったものができる編集で、背景の上に動画を何個か載せてそれをいろいろな形で動くようにできるらしいが、今回は初めてなので写真を背景に載せてみただけ。パソコンを修理に出そうかと迷っていたころ、昨年辞めたNPOのパソコンの会の理事長から思わぬメールがきた。今年はシニア情報生活アドバイザーという資格の3年ぶりの更新年なのだが、昨年辞めてしまった私に更新を個人でするか、それとも又会に入りなおして団体で更新するかというものだった。それにしても私のメールアドレスが新しくなってから二人くらいにしか教えてないのに、理事長は資格元のメディア開発協会から聞いたのだろうか?返事をするにもメールができないほどパソコンがだめになり、携帯のSMSでメールして個人更新することを理事長に伝えた。それで昔を思い出して久々に昔のスタッフ仲間の友達だった人に電話をしたが、彼女は「あなたはスタッフ辞めたのに何のために資格更新するの?」と言った。それを聞いて、私はなんか嫌な気分だった。そういうことを言うなら、当時から資格がなくてもスタッフをやってた人はいるし、おまけに今から3年前の資格更新の時なんか資格のないそのスタッフたちが講習会の話を聞きたいために資格者講習会には図々しくも出席したということはなんなんだ。そういうことを許すこの会の体制が私はまず嫌だったのだ。この彼女は今でもスタッフをやっているし、いつも言うことが私よりも年下なのに上から目線だ。9人兄弟の末っ子なせいか年上の兄弟に物言いつける癖がつている。自分の旦那さんのことを私と性格が似てるとか勝手に言い、私を何度も子ども扱いしてきた。ましてや娘さんに重度障害があり、年老いた親の会の中では完全に彼女の役員としての力がそういった組織の上でも絶大らしい。彼女は最後に「あなたも息子さんのことで大変なことがたくさんあったでしょうけど、私にもたくさん別な大変さがある。でも言ってもどうせわかってもらえないから言わない。あなたと私は住む世界が所詮違う」と言った。そうかもしれないが、私は少なくとも理解しよう、理解してもらおうと相手に対して誠意を持って接してきたつもりだ。でも、彼女は「どうせ・・・」という言葉を使い、役員もそちらのほう中心でパソコンの役員はうまく逃げていた。彼女は私などには絶対に弱みを見せない、言わない人だった。いつも彼女が大人のような顔をして私をなだめたり励ましたりばかりで私はいつも自分をふがいなく情けなく感じていた。私が彼女の知らないパソコンの勉強をし知識をたくさん持ったとしても、私の前述の劣等感は消えなかった。“どうしてあなたは強いの?あなたの泣いた顔が見てみたい”と私は心の奥底で彼女に対して思っていた。それでも一緒にスタッフをした頃はいろいろと楽しい時もあったのに、すっかり冷めてしまったのだなと思った。「あなたはつれないね。まあいろいろあってだめだと思ったから私は辞めたんだからしょうがないね。長くなったから」と私から電話を切った。結局辞めたところに未練を持ってもだめなのだ。もう話さない・・・もう会わない・・・この縞々の多肉植物から長く伸びて、ほら今はこんな白い花が咲いてるよ。植物は毎年律儀に成長する。でも、かまってあげないと確実に元気がなくなってしまう。さて、コーラスを辞めたのも急に思い立ったわけではない。それは次回に続く・・・
2017.05.14
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先日の夜8時過ぎ、我が家の付近にけたたましくサイレンが鳴った。火事でもないような気になる音に不安を覚え、窓から様子を伺うと道路が照明で真赤に明るい。何事かとカーテンを少し開けて外を見たらお隣に救急車が止まった。慌ただしそうな雰囲気の中、救急隊員が出入りして40分以上経ちようやく救急車は再びサイレンを鳴らしていなくなった。何事かわからずに翌々日を迎えたが、同居している私の母から新聞でお隣の奥さんの死亡広告を知らされ、自分はもう歳で行けないから私に代わりに通夜に行って欲しいと頼んできた。私は驚きつつも、彼女のお悔やみの席に顔を出すのがとても嫌だった。それには理由があり、我が家とお隣の複雑な関係があったから私にはわだかまりがあって行く気になれなかった。お隣はずっとご夫婦二人だけで長年住んでいた。その奥さんは一昨年の6月に大腿骨の骨折でその後ずっとリハビリのようで、時々介護の方が来ていた。それも偶然知ったのであって隣とは話をしたことが何年もない。だがある日、我が家の軒下のちょっとした修理が必要で、お隣から梯子をかけないとできないと大工さんに言われ、お隣の車を動かしていただこうと、夫と二人で頼みに行ったとき、隣の旦那さんが教えてくれた。奥さんは骨折で運転不可能だし、旦那さんは免許返上してしまったので車のキーを貸してくれて夫が車を移動したおかげで修理できたのでとても感謝している。なぜ我が家とその隣といつしか何年も会話なしになってしまったのか・・・それにはとても深い長い歴史がある。そもそも我が家が今の土地を購入新築したのは私がまだ小学生の頃で昭和42年頃だった。当時、私の母はお隣のお婆ちゃんと仲が良かった。もっとも当時は隣人どおしが助け合い励まし合って生きていた古い時代であった。何年かしてお隣にお嫁さんが来た。(それが今の亡くなった奥さん)嫁姑確執がすごかったが、いつしかお婆ちゃんは亡くなり、今度はその嫁(今回亡くなった奥さん)は私の母に愛想良く接し始めたが、気を使うタイプの人だといつも感じていた。そして「私は姑で苦労したから娘二人共嫁に出して、私はパパ(旦那さん)と二人で将来ずっと暮らすんだ」と母によく言っていたそうだ。一方いつしか我が家が古くなり、我夫と我父と折半で二世帯同居の家を新築することになった。夫は僻地勤務の仕事柄ずっと長い年月単身赴任、おかげで私は子育ては親に助けられながらも、本当に自分の親と住む辛さも味わった。そして我二世帯新居完成!隣の奥さんは我家を羨ましがって、自分も夫が退職したら夫婦二人で住む家を新築すると張り切っていた。そしてついに3年後くらいにお隣が新築完成。でもそれからどういうわけか、我が家に対して奥さんの態度が徐々におかしくなっていった。私の母がそれを親しい人に話したら、ハハ~ンという顔で「お宅の家その人の家より立派でしょう?」と言われたそうだ。〝ああ~やはりそうか〟と我が家は思った。それは仕方ない。お隣は夫婦二人の老後の家だし、こちらは当時まだ私の子供たちが小学生と中学生の状態の二世帯で家の面積が大きい分お金がかかっているわけだもの。しかし、そこから今度はイジイジとお隣の奥さんの嫌がらせが始まったのだ。我が家のリビングの窓は恰好のいい丸い形の出窓(ボウウインドウと言うらしい)で、そこに下が丸くカーブがかかってカットされ外が少し見えるようになっているレースのカーテンだった。ハイカラな窓とハイカラなカーテンにずっと前から憧れていて、建築屋さんも勧めてそうしたのだ。そして私の父は私の子供達が朝学校に通う時、窓越しにカーテンをめくって外を見て孫の姿を確認するのをよく楽しみにしていた。そこを隣の奥さんがチラチラこっちを見て毎日嫌な顔で見始めた。そして、「人の家を覗き見してる」といちゃもんを付けてきた。そしてついに目隠しにお隣の奥さんは我家との境目に高さのあるホームセンターで売っている木のフェンスを突然建てた。当然我が家は前より暗くなったが相手の土地なのでこちらは何も言わなかった。また、私の母はリビングキッチンの冷蔵庫によく背もたれして休む習慣があった。そこはちょうど勝手口のドアですりガラスで外は見えないので安心していた。ところが、ある日隣の奥さんは母に嫌がらせを言った。「奥さん、私の家の話そこに立って立ち聞きしてるんでしょ。私お宅の勝手口のドアたたいて注意したの知ってる?」と偉そうに自分より年上の私の母に説教したそうだ。実は我が家の勝手ドアは、あろうことか、お隣の玄関ドアと真向いなのだ。お隣は道路側に玄関をつけずに我が家に向かうように玄関を作ったバカな設計をした。向こうの土地が狭いとか、電信柱を移せないとか、駐車場をとるスペースの都合上しょうがないとかあるかもしれないが、お隣よりも我が家が先に建てたのにその言い分はおかしいではないか!でも、我母は温厚な人なのでバカな奥さんに謝ったらしいが、私と父は当時頭から火が出るくらい腹が立ったものである。結果として、そんなにうるさいならいっそレースのカーテンを下が見えないノーマルなものに替えよう、そして勝手口ドアにブラインドを付けようと我が家は家族会議して決めた。建築屋は「相手が我儘なのにそんなお金かける必要ないですよ」と言ったけれど、あのうるさい奥さんを黙らせるには金など惜しくないと思ったのでそうしたのだった。そうしたらお隣の奥さんはさすがにそこまでお金をかけてまで自分の言い分を聞いてくれたと思ったのか都合が悪くなったらしく、今度は遠慮気味な態度で変によそよそしくなって、最後は町内の本当の用事以外一切話をしなくなり、今日に至ってるというわけだ。最初「あんな人の通夜なんて!」と憤慨した私だが、時間をおいてよく考えてみて、亡くなった奥さんよりも残された旦那さんのことを思った。あの時快く車のキーを貸してくれて、はずしていたバッテリーを付けてくれ「どうぞいつでも好きなように車を動かしてください」と言って下さった。ここ1年以上も奥さんの介護で大変であったろうから、旦那さんに礼を尽くしたくなったのだ。そこで夫と二人で通夜に行った。意外にも、にこやかな奥さんの若い笑顔の遺影は素晴らしく豪華な花々に彩られて、たくさんの弔問客でいっぱいだった。遺影は7~8年も前の若い頃の物だそうだが、旦那さんやご親戚の関係なのか、とにかく弔電も知事や県議会委員などが多く、花輪の数も多く、正直言って主婦の葬式にしては立派なのでとても驚いた。もっと驚いたのは最後にお坊さんがお話をされたのだが、「亡くなった奥さんは昨年の8月に先立たれた娘さんの元に逝かれて、これからお会いになれることでしょう。」という言葉。何も知らなかった、県外に嫁いでいた上の娘さんが昨年亡くなっていたなんて・・・と言うことは、奥さんが大怪我をして体が不自由になってしまった翌年に追い打ちをかけるように娘さんが亡くなったということか・・・私は胸の中にため息が漏れた。〝どんなにか辛かったことだろう〟と。娘さんがどういう理由で亡くなったのかはわからないが、娘や孫に会えないままに怪我で動くこともままならず。。一度だけ見たことがあるが、旦那さんが奥さんを連れて道路を歩かせてリハビリしていた。奥さんは痩せて小さくなって髪の毛も真っ白になり、支えている旦那さんが奥さんの息子かと間違うほどだった。お隣もかつては奥さんと旦那さんとお婆ちゃんと娘さん二人と5人家族だったのに、今お隣の家の中にこれから住むのは旦那さん一人になってしまった。お寂しい、心細いことだろう。ことばはかわせなかったが、私はお通夜で最後に奥さんの旦那さんのお顔を見て目をみつめてそんな心を伝えた。通夜を終え夫と帰ろうと席を立った時、不思議なことが起こった。葬式用のバッグの左片方の持ち手の付け根が突然ぽろっと外れてブランとなった。昔買った古い物だから前から少しずつ弱っていたのかもしれないが、この奥さんのお通夜で取れるなんて・・・妙に変な因縁を感じた私だった。家に帰ってボンドで修復して見かけは直ったように見えるが、又はずれるかも・・・なんか奥さんの魂が私の所に来たような気がする。香典返しについてきた「お礼の言葉」に通夜に出席していた娘さんの文章が書かれていた。お母さんへの感謝の気持ちだった。文面の中に〝・・・厳しかったけど、母は周囲や家族に心の限りを尽くす優しさに溢れた人、なにか楽しみを見つけたらいいのにと言っても空いてる時間は家族のために働いて家族の笑顔を見るのが母の元気の源で、穏やかに続く日常が何よりの幸せだったのでしょう・・・〟昔、うちの子供たちがまだ小さい頃、お隣に子供を連れて回覧板を持って行くと「ちょっと待って、おばちゃんいいものあげる」ってなにか必ずお菓子をくれた。そのことが心温かく思い出され、本当は心は優しい面のある人・・と思った。私は思った。家族も大切だけど他人とのいろんな関わりもある、バランスがとれなくなってしまったとき、人は天使から悪魔に変わるのかもしれない。人間が生きていくということはそうした学びなのだと思った。奥さんはその学びを終えたのかもしれないとふと思った。次の日に下の娘さんがお葬式のお花を持って我が家に挨拶に訪れた。大人になった娘さんと話したのは初めてだった。下の娘さんは県外にいて結婚してると奥さんから聞いていたが、本人は自分は独身、母は私が結婚してないことを恥じてたから嘘をついてたらしいと言い、明るく笑った。そして、今後は一人になったお父さんを気遣い〝これからは私も父に時々連絡しなくちゃ、これからよろしくお願いします〟と。亡くなった奥さんは、普段見る限り、正直とても神経質で気性が激しく見栄っ張りな人だったが、こういう娘さんを残したことは素晴らしかったと思う。50年近い我が家とお隣との歴史は一幕閉じた。しかし実に人生とは思うようにならず、はかないものだ・・・あの世は一体どこにあって、どんなとこなのだろうか・・と私は時々想像する。。
2017.03.12
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感動の一日だった!仲間との祝いの席!我コーラスのピアニストさんの内輪の御祝い。いつもよりも30分以上も早く来て、それぞれが協力し合って手作りの御祝い。テーブルセッティング、コーヒーを沸かして、紙皿やレースの敷き紙をおいてケーキや手作りのお菓子などをそれぞれにセットしていく・・・そして、私の役目は司会進行係。大袈裟な気持ちは持たずに皆が楽しく私達らしいざっくばらんな語らいの雰囲気で、でもどこかで厳かさは残すというのを理想に、暖かく場を作り上げられたら・・・ただそういう想いでいた。一応ことばは順番通りに考えてはきていたが、そんなことはいくらでも適当に雰囲気で変えられると思って臨んだ。そうこうして準備ができて皆が席に一旦着いた頃、私は皆に作ってきたプリントを配布した。そして、代表が披露宴の写真を撮ってきたからと皆に自分のスマホを回そうとしたので、私が事前に代表から3枚ほどいただいた写真を元にレイアウトしてプリントしてきたものを回覧した。以下がこれ↓皆で興味津々でそれはもう盛り上がる。ドレスがどうの、旦那さんがどうの・・・そんな中、いつもの時間に指揮者とピアニストさんが到着。いきなりのいつもと違う雰囲気に二人共戸惑いで照れた様子。嬉しいことに暖かく春の陽気に包まれた晴れやかな日だ。まぶしくてカーテンを閉めて赤っぽいライトの灯りがたくさんになったら、なんかホテルの一室のような雰囲気になって、不思議と気持ちが変に高ぶる私達。「先生、今日は練習やる気ないから辞めようよ」「もう練習終わったよ」(嘘)などと皆でタメ口。先生も「辞めるか(^▽^)/」って言いながら指揮台を出して「せっかくだからやるか」と言い、皆も前のケーキ類を目の当たりにして「つば飛ばさない程度にね~」って3曲ほど歌った。私はこの度の司会進行係としての役目を抱えていたけれど、出だしに「・・・・始めます」って言う言葉さえ終われば後は流れに任せてすべてアドリブで進行。一番楽しかったのはピアニストさんへの質問攻め。A子「先生、プロポーズの言葉は何ですか?」先生「しょっちゅう会うたびに言われていたんで何がプロポーズなんだかわからないんです。私の方からも言いました〝私のことを朝起こしてください〟って」皆「わ~~~~~」B子「お互いに何て呼んでらっしゃるんですか?」先生「相手が英語の先生なので本名の下を取って〝リオ〟、私のことは○○ってそのままです」皆「きゃ~~~~~~」私は上品に「初めて作ったお料理は何ですか?」先生「引っ越ししたときに引っ越しそばです」続けざまに先生にトークをお願いしたら、田舎の一軒家に住んでるためにとにかくカメムシが出て大変で、二人で退治とか、自分は片付け摩で、お相手は片っ端から散らかすので忙しいとか。二人共仕事を持っていてお互いの職場の中間地点に家があるために朝は旦那さんは3:50分には出勤してしまうので、知らない間にいなくなってしまってるとか・・・でも、普段はそれぞれがしたいことを自分の部屋でゆっくりやって、必要な時は仲良くマッタリと熟年夫婦のような生活ぶりのようだった。それからすぐコーヒーで皆で乾杯して、あとは自由に歓談。「あなたのカップ素敵ね」と言われた下のカップ。私「こんな時はこういうのがいいわよね。でも、コーヒーは単独の方がいい感じ、紅茶ならサキイカやピーナッツに合うわよ。コーヒーはハチミツを入れるとお通じにいいわよ」と言い始めたもんだから、「それ言うと興ざめじゃん~~(^▽^;)」って言われたり。 そして、さらに熟女トークは続く。「でも、今の人はいいわね。前撮りできるから当日写真で忙しい思いしなくていいからゆっくりできるんでしょ。私達の時は・・・・」と延々。。「それにしても、この二人お見合い結婚の割にはお似合いだわね。顔の雰囲気も体型も似てるわ」「あと10年早くめぐり逢ってればもっと若い写真撮れたのにね」「でも、今だからよかったのよ、これが期が熟した縁っていうものなのよ」「それにしても〝リオ〟〝○○〟だって、私なんか一回も名前呼ばれたことないわよ。」「私だって、〝おい、ちょっと〟から〝かあさん〟今なんか〝ばあさん〟だよ~」延々・・・・・ピアニストさんは今の彼とめぐり逢ったお見合いの日の時から、ずっと前から知ってる人のような感覚があって、なにもかもが好きになったそうで、・・・そして、彼の方も過去に辛い思い出があったらしいけれどこの度の出会いで〝なんてかわいい人なんだろう、こんな人が本当に自分のところにきてくれるんだろうか、なんて幸せ〟と語っていたらしい。この出会いのためにこの人たちは神様に今まで待たされていたのだろうな。そんな幸せを込めたメロディーを先生は私達の前で独奏してくださった。本当の先生の演奏も録音はしたのだけれど、オバさんたちのことなので、演奏途中でバッグをガサガサしたり、財布の鈴の音をチャリンチャリンさせたりして雑音になってしまったので今回はピアニストさんが演奏したのと同じ曲をYouTubeから演奏曲と同じものをアップします。「めぐり逢い」アンドレ・ギャニオン 作曲カナダの作曲家、ピアノ 奏者。 近年、世界的にブームになったヒーリング音楽の分野において名を馳せ、代表作 に『めぐり逢い』などがある。また親日家としても知られる。あるサイトにこんなことが書いてあった↓曲想について 人はみな、生きている間に、いろいろな人とめぐり逢う。その出会いは、そのときには「果たして本当にめぐり逢えてよかったのだろうか、めぐり逢わなければこんなに心が苦しくならなくてすんだのかも知れない。」と思うこともあるだろう。 でも、時が経てば、そんな思いも全て感謝の気持ちにかわる。 人はみんな、めぐり逢って「無意味」だったということはない、必ずなにか自分へのメッセージであるはずだ。 私はいつしか人との「めぐり逢い」をそんなふうに思うようになった。 この曲を弾く時には、いつもそんな「めぐり逢えた」人々に対して、『ありがとう』という「感謝の気持ち」をこめて、弾いています。「彼方の光」村松 宗継 作曲村松 崇継は日本の作曲家、ピアニストである。静岡県浜松市出身。国立音楽大学作曲学科卒業。Story music tellers所属。日本作編曲家協会理事。当時長年貢献してこられた我団のピアニストさんが長年患って悩まされてきたご病気(リュウマチと聞く)のためにピアニストを辞めて、とても困っていたところへ、その前のピアニストさんの紹介で今のピアニストさんが来た。今までのピアニストさんは私と同じぐらいの世代だったが、今のこのピアニストさんは私の娘のような年齢で30代半ばだった。まじめで心優しく控え目ながら、ピアノにかける情熱は人一倍で努力家で芯が強い。お酒も強くて乱れることもなく明るく物静かにおしゃべりが続く人だ。こんな人が一生独りでいいの?こんな人がこのまま若さを私達おばさんコーラスの伴奏で朽ちてしまっていいの?そんなことが気になってしまっていた私。ある日指揮者の先生にお話したらこのお話がまとまった。本当にすごい「めぐり逢い」幸せに関われた私はとても幸せ。そうそう、披露宴の前日の夜遅く我代表があせって私に電話してきたことを思い出す。「会から出すと決めたのに電報打つのを忘れてた、あなたにお願いしてもいい?」と。私は電報など恥ずかしながら打ったことなく、困ったけれど、電話帳で調べた115番にかけて、あとはネットで種類を検索して、パソコン画面を見ながら台紙や文章を決めた。一輪の真っ赤なプリザーブドフラワー付きの電報。「ご結婚を祝し、末永く幸多かれと祈ります。 ○○○○コーラス一同」と。私たちからは皆でお金を出し合って先生ご希望の圧力鍋をプレゼントした。お料理も得意だということで何よりだわ。こんなふうな内輪の手作りの御祝いの会、心がこもって本当にいいものだなと今回つくづく感じた。ピアニストさんには心からお幸せにと願う。
2017.03.02
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一昨日になる。私は一つ歳が増えた。だからと言って急に何か変わるわけではないのだが、年々気になるのが誕生日ではある。電気の検針やら、買い物やら、宅配の人が来たりとかで何となく落ち着かなかった。書こうと思えば書けるブログなのに、テレビのニュースが気になる毎日。毎日のように北朝鮮の金正男暗殺のニュースが流れるので落ち着くはずがない。一昨日の2月16日は私の誕生日ではあるが、かの有名な北朝鮮の故金正日の誕生日でもあるので複雑な気分でいた。数年前に私が正日と誕生日が同じだと知ったのはテレビで「万歳(まんせい)」と国あげて喜びの祭典が行われていた時だ。何で、私の誕生日に金正日のお祝いなんだ?って思ったのでそれを知ってびっくりした。私は韓国ドラマが好きなので、よく歴史ものも見ているが、日本ももちろんそうだが、後継ぎ争いによる親族の殺し合いは昔からあった。しかし、今の時代になってもある北朝鮮の粛清というのは本当に恐ろしいと感じる。 父親の正日が生きている頃から心配していたことがついに起こったのである。正日は生前から後継者選びを悩んでいたらしいが、息子三人の性格や考え方を考慮して今の政権になったわけだろうが、世界にとっても一番悪いやつが北朝鮮のトップに立ったとしか思えない。正男は、朝鮮から出て中国の保護下で暮らしていて世襲制度を批判、それを担いで今の北朝鮮体制を潰そうとする勢力に利用されつつあったようだ。一方正恩は、自分の身を守るためには手段を選ばず、どんなに殺さないでくれと懇願しても異母兄の正男を無視し暗殺した。金正恩の恐ろしき計画的制裁。彼が叔父の張成沢氏を粛清したことは見せしめであったのに、張成沢氏から金銭的援助まで受けてきた正男は警備が甘かったのだろうか・・・正男の骨は北朝鮮に返されるとの話だが、彼の骨の扱いや戸籍の扱いはどうなるのか、そして彼の妻や子供たちも暗殺されるのだろうか・・・ 実に暗い気分である。一方日本の方は、築地豊洲市場問題がある。はたして石原元都知事は一体どこまでどす黒いことをしていたのだろうか?朝のニュース番組でコメンテーターをしている息子の良純は他のコメンテーターの中では立場が明らかに違う感じがする。「石原慎太郎さんはサッカーで言うと、フォワードのような人。ディフェンスのことを考えなかった」とコメントし、結局「しょうがない」の一言で締めくくった。「石原慎太郎さんはそういう役回りの人」として、「知事で有る前に作家だからしょうがない」と、石原良純は言い切った。この身内びいき、なれ合いの姿には私は不快である。他のコメンテーターも言いたいことを息子の良純がいては言いにくかろうに。親子でも一個人、家族でも身びいきするつもりはないとは言うものの、現実は違うんではないのかな。私は少なくとも石原慎太郎の話を論じる時は良純にはコメンテーターに入って欲しくない。まあ、なんだかんだ言ってもこの問題の当時の最高責任者は石原慎太郎氏で有ることには変わりはないので最終責任は彼にあるに決まっている。絶対に真実を明らかにし、罪があるなら潔く認め裁判でもなんでも受けて欲しい。その後どうなるかが又問題。その上東京オリンピックなど今更お金なかろうに、どうするんだろうか・・来年の平昌オリンピック(ピョンチャンオリンピック)は、2018年に大韓民国江原道平昌で開催 予定の第23回冬季オリンピックである。 韓国の冬季オリンピックも政治がおかしいので全然盛り上がりどころか反発者が多いらしいね。そんな世界情勢の中で迎えた今年の私の誕生日。私はTwitterもやってるが、誕生日当日に私のサイトの画面は私を真っ先に祝福してくれていた。画面いっぱいにこのように色とりどりの風船が飛び交い動いて上に上がっていくのだ。風船がある程度のぼってしまうと消えるが、再び「お誕生日おめでとうございます」というボタンをクリックするとこんな風に又風船が何個も上がっていき、私はそれを見たさに一日に何回も風船を見にTwitterをログインして見とれていた。私は最近楽天プロフイールを退会したけど、今は静かで平和。雑音のない自分のブログの世界で、数限られた知り合いのブロ友と交信してるだけである。ただ、管理画面を開くとき、こうしてブログを書いている今、楽プロに入会してた時はニックネームのそばに自分が気に入っていたプロフィール写真が掲載されていたのに、今はただのモノトーンの人影だ。全く味もそっけもない。まるで戸籍を抹殺された気分だ。Twitterみたいに温かく風船🎈🎈🎈🎈🎈・・・たくさん飛ばせ!と言いたい。今我家の窓辺には例年通り胡蝶蘭とオンシジュウムが色とりどりに咲き始めている。そして、やはり食べたいし、なくては寂しいし、というわけでショートケーキを買ってきた。そして夕食を食べ終わってお風呂に入った。「Happybirthday○○ちゃん、Happybirthday○○ちゃん、Happybirthday dear○○ちゃん、Happybirthday to you」って自分で自分を「万歳(まんせい)」だね。片付いた台所の上で、夜の9時半過ぎにケーキを丸く囲んで皿に乗せた。私はチョコレート味のケーキが好きじゃないので、皆白っぽい。「白ばっかりだ~」って私が笑い、誕生日だと言うと、ケーキ屋さんは「かえって上品ですよ、おめでとうございます」と言って下さって、ロウソク2本をサービスしてくれた。そこで、1本だけを立ててマッチで火をつけた。(60+1歳なので+の方の1本のロウソクだけで代用)で誰もいないのは寂しいので次男を部屋から呼び出した。「見て、見て~!」って。そして電気消して、はい!ロウソクの火を吹き消して終わりました。夫は私の誕生日などに関心がないので無視して、遅い時間ではあったが、私は次男と二人で紅茶でケーキを1個ずつ食べたのだった。 来週25日はいよいよ我コーラスのピアニストさんの結婚式だ。残念ながら私達団員たちは出席できないけれど、その代わりに会の皆でピアニストさんの結婚祝い会を3月1日の練習日を利用して行うことになった。プレゼントも用意して、コーヒーとケーキで乾杯、指揮者の先生のお祝いの言葉、ピアニストさんにはピアノの独奏をお願いしてある。そして、なんとその日の司会を私が頼まれた。内輪だからどんちゃん騒ぎで適当にやるのかと思ったら、私が庶務係だからなのか代表に命令されてしまった。ああ、ちっともリラックスできないわ~どんな雰囲気の会にしたらいいのか、まだ頭は空っぽ。楽しく? でも感動的に?・・・ああ~~~得意じゃないのに~、人前でしゃべるのってさ~とにかくいい思い出をピアニストの先生に残してあげられればいいのよね。
2017.02.18
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去る1月28日に恒例の我コーラス団の新年会があった。直ぐブログを書こうと思っていたのに、なぜ遅くなったかと言えば、新年会の景品を二次会に忘れてきてしまい、それを次回に練習日に届けてもらったのが2月1日だったから、それまで写真を撮れなかったので。そこで直ぐブログを書けばいいものを、なんか他の用事で書く予定がずれてしまって今日になってしまった。まず、私ははっきり言って今年は新年会が面倒で行きたくなかった。そこで夜5:30開始時間ぎりぎりに到着し、席を決めるくじ引きをして席に着いた。その前に気分が沈んでいた理由があるのだが、まずは新年会の模様を・・・あるホテルの3階会場でこんな風に頼みもしなかったらしいが看板が貼られていて一同\(◎o◎)/!ホテルの好意だからとせっかくなので、この前で皆で記念写真を撮ったのだが、その写真が今一なので敢えて載せない。なぜかというと、人数が多いので一列目だけに椅子を置いて座らせ、後の二列は適当に間から顔を出して撮影。その一列目に座るの指揮者、ピアニスト、カメラを持ってきた人、他は3人ほどで、その中にはいつも最前列に座りたがるオババがいる。(実は前団長で今もスナックのママである権力者)結果、できてきた写真は最前列だけの人がきれいに大きく撮れて、後の後列はどうでもいいような夜の暖色系のホテルのライトにぼかされて、全員もったりと不細工に・・・写真代は皆から徴収した会費4,000円の中からカメラを持ってきた彼女に気持ち差し上げたので、敢えて個人負担はないからどうでもいいが。。。おまけにここのホテルは持ち込み自由なので、お酒やらジュースやらは団員達の寄付でこんな風に毎回並ぶ。ちなみに昨年は珍しくも昼にやったのでお酒抜きのランチだったから、いたってシンプルだった。でも、本来は我々は毎回こうして夜にどんちゃん騒ぎが恒例だ。ここに並んでるのは座った席の番号がついて置いてあった折り紙細工とプレゼント。折り紙細工は飛行機と紙風船と籠。まず後ろの木でできたクラフトは私のは「滑り台」のようだった。(皆それぞれ違う形で透明なセロファンの袋に入っていた)一番手前のはビーズの手作り指輪で、これも皆それぞれ違うもので、すぐ後ろの△の形の折り紙細工が籠型になっていて、その中に入っているという凝りよう。そして、真ん中のピンクのウサギはキラキラとした金色のビーズの首飾りを付けていて吊るせるように頭の上にもビーズの輪が付いていた。実はこのウサギはゲームの景品で獲得した物。ゲームというのは、折り紙細工の指にはめるカバーをつけてピンポン玉をつかんで走って早く到着したほうが勝ちというもの。場所が狭いので二人ずつでしか競争できないのと、相手が遅かったし、私の指さばきが器用なのと、足が速かったので私の勝ち。こういうものは絶対勝つと思った方が勝つ。負けた方は編みぐるみの小さなウサギさんだったけど、それも結構手が込んで良くできていたみたい。我が家に帰って飾った「滑り台」の場所は壁にあるこんなタナの上に。そして指輪はアップにするとこんな感じで、私のはブルートパーズ風って感じかな~皆の指には赤や紫やいろんなカラーの偽のカラフルビーズ指輪が煌めいて華やかだった。因みに指揮者は男の先生だけど、「先生は?」って言ったらしっかり皆に合わせて似合わない偽の宝石がキラリ。ピアニストさんは、来月結婚式なのだが、「ねえ先生、婚約指輪もらった?」って聞いたら「はい、もらいました、今日持ってきました」って言うのでビックリ!そして先生は後ろ向いてバッグからさっと本物の宝石指輪を出して披露してくれた。✨と輝く真ん中に小さなダイヤモンド指輪。エタニティぽい感じでアームにもダイヤが。可憐でかわいい先生にぴったりだった。さっそく左手薬指に本物を着けていただいて、右手薬指にはこの偽物ビーズの指輪を。そしたら先生は右手を見て「こっちの方が大きい、本物みたい」だと言い、皆で大笑い。先生は指がものすごく細くてきれいなのでサイズは左手薬指が6号だそうで・・私くらいの歳になるとそんな太さは夢のよう・・・若い時の高価なリングは箱の中に眠っていて、出して眺めて溜息が出る始末。そして、〝この指輪もうできない・・・〟〝サイズ直して着けるにしても他のリングと重ねづけしないとチャチでいかん・・・〟〝ああ、あの当時は丁度よく似合っていたのに・・・〟〝いっそ将来のために娘のいない私は、もらうかもらわないかわからない息子の嫁にあげるためにサイズ直さない方がいいのか・・〟〝いや、もし嫁にあげて別れたりでもしたら返してもらわねば・・・〟などと縁起でもないくだらないことを考えてしまう私なのであった。それから、会費の他にプレゼント交換したいから何かそれぞれ持ってくるようにっていうことだったのだが、集まった景品をうまく組み合わせて席番号の袋の中身がこれだった。これは入浴剤とお風呂の枕。私の家は二世帯なので、大体年寄りが先に入ってから私は最後だ。年寄りのエキスが出た風呂にばかり入っている。よし!この入浴セットは絶対私が昼間に一人で一番風呂に入るときまで取っておいて、じっくり入ろう!実は不思議な事に、最初私が出した景品がそのまま自分に当たってしまった。こんなこともあるのかと思ってビックリしたが、幹事に言ったら、同じ人がやはりいて、その人と交換したのだった。ちなみに私が出した景品は備長炭入りの靴下とルーム香水だったけど。そして、コースターも入っていた。これは津軽伝統工芸品の「裂き織」というやつで、布地を細かく裂いて太目の糸にして機織り機で織った布地で、バッグとかになると結構いいお値段がするらしい。右側にあるのは、シルバーと黄色の反射テープ。年寄りは夜遅くなると危ないから手や足に巻いて歩けということなんである。そして、この布のエコバッグ。きちんとリボンまでついて結べるようになっている。バッグに忍ばせれば、急な荷物に対応できるというもの。これもせっせと誰かが大量に製作したらしい。まず、感心、感心、の一言に尽きる。そしてコーラス団体の新年会らしく、歌詞カードも全部手書きを印刷したものだった。「冬の星座」と「おお牧場はみどり」後はアルトのオババが好きな「血液型人間学」披露。四つの血液型のあらゆるバージョン(恋愛、おしゃれ、仕事、金銭感覚・・・)の違いを延々と。結果、わが団は圧倒的にO型が多く、次はB型、ほんの少なくA型、たった一人しかAB型はいないことが分かった。この血液型人間学、一時すごくはやったけど、最近は“ふん、あいつと同じ型なんて一緒にされたくないわ”などと思う。つまり、環境や教養などでも人それぞれ言動思考に緻密さが違うのが当たり前なのだから不愉快な気分でもあった。今度は血液型ではなく、星座とかでやってくれれば、面白いのではないかと思うけどな~最後は1本締めで終了したのはまだ8時だった。さて、そのあと二次会に例のオババのスナックへ行ったのだが、「来い、来い」と言ったくせに行ってみたら先客が多すぎて座るところがない。「あんまりだ」という数人と組んでその中の知り合いのスナックへ。私には初めての店で新鮮。客もママも上品、静か、自由、最高~私は久々にカラオケを歌ったが、この店のマイクはいい感じ。声が柔らかくきれいに聞こえるじゃん~友達が「○○の柔らかい声聞いてホッとしたわ~」って。ソプラノの私はあべ静江の「水色の手紙」それからカウンターの男性客で裕次郎みたいな美声の人がいたので、お願いしてデュエットで「別れても好きな人」を歌った。でも、夜の10時半頃、同じソプラノパートの仲いい人と話してた時、彼女の携帯が鳴った。見たらさっき出てきたうちのコーラスのスナックのママ。「先生も○○ちゃんも待ってるから来て」と、間おいて三回ほど続けざまに。私は「今の時間になって三次会に来いと言うの?虫がいいわ。旦那と今布団に入って寝てると言え」と彼女に言った。でも、いつもグズグズの彼女「私ひとりじゃ嫌~一緒に行こうよ~」と私を誘う。「じゃただにしろって」と私が言うとまたメールして「ただでいいって」と返事来たという。そこで、私も「仕方ない、ただなら行ってやる」ってことで、でもタクシー代がもったいないので、歩くことに。しかし、夜の冬道凍って滑りそうでお互いに支えあいながら、「ここどこ?」の連発で歩く。途中景品の袋のさっきのスナックに忘れてきたと気づいた私。でも、店に残ってる仲間に頼んでなんとかそのオババスナックに着いてただ酒飲んで一件落着であった。昨年の新年会の二次会でこのオババスナックでピアニストさんのお見合い話を提案し、あっという間に1年順調に交際したらもはや元旦に籍を入れて来月結婚式だそうだ。この結婚披露宴にメンバーも何人か出れるということだったのが、やはり両家の都合でダメになったということで、指揮者と代表とこのママとは出るらしいが、私も出たかったが出れなくなって実は非常にがっかりだった。どうせなら10年前ぶりに又着物を着たいと思い、美容院に話したらじゃあ髪の毛伸ばさなくちゃとか、着付けの予約しておいたり、かんざしの検索してみたり・・・でも全部パー~~ああ、“もう私は死ぬまであの着物を二度と着れないのね”ってわけで、落ち込んで何もやる気が起きなくなっていた。私の好きなカラオケは、高橋真梨子の「別れの朝」ロスインディオス&シルビアの「別れても好きな人」五輪真弓の「恋人よ」テレサ・テンの「つぐない」由紀さおりの「手紙」・・・ああ~なぜか全部別れの歌ばかりなんだよね。。。ちなみにピアニストさんへは祝電を会から打って、他に披露宴終わって落ち着いた頃の3月に練習時間早く切り上げて簡単にケーキとコーヒーでお祝いして、プレゼントをお渡しすることに先日決まったのであった。心のこもった手作りのささやかなお祝いはうちのコーラスの得意とするところだと思うわ。是非、幸せになっていただきたい。ああ・・先生の花嫁姿見たかったな・・・
2017.02.05
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最近購入したシンビジウム二鉢。白い方は、行きつけの花屋さんで1,500円。正月花を買いに行ったとき発見。根元の株が四つもついていて花も豪華で一目見て気に入ったが、家に帰ってから考えて電話して次の日に取りに行ったが、超満足でいい買い物した。そして、ピンクの方は977円。下記の掃除機のヘッドを買いに行ったとき、偶然目に留まってしまって植物愛好家の私はまたしても吸い寄せられてしまった。株がはそれほど大きくないけど安いので即目に留まり、会計済ませたのに戻って、ほぼ偶然の衝動買いだったがこれも満足でいい買い物。胡蝶蘭とオンシジュウムとカトレアなら出窓にずらっと並べて今最中咲いたり、蕾を付けているが、私にはシンビジュウムだけがなかった。なぜかと言うと、葉っぱが場所を取るから、それと、うちの両親が一鉢持ってるが、なぜかへたくそで毎年花を咲かせれないから難しいのかと思い込んでいたからだ。でも、いつか私が買って咲かせてやろうと思っていた。カトレアや胡蝶蘭を毎年たくさん咲かせられるようになった私ならきっと大丈夫な気がするよ因みに今はこのオンシジュウムトゥインクルが咲いてバニラの香りがしている。白とピンクと黄色があるがこれは白。実は掃除機の肝心のヘッド部分が壊れてメチャメチャに破壊して、買うしかなくなってしまった。元々、次男が県外に一人暮らししたときに買ってあげたものだが、家に戻って来たのでしばらく在庫になっていた。でも、家にあった高い掃除機がついに壊れたのをきっかけに、この在庫の次男の掃除機を使い始めた。そして数年になるが、なにせ安物なうえに手荒く使ったせいで、少しずつ壊れてセロテープでくっつけて使っていた。まともに買うのは出費が大きいので、すご~く嫌だった。そんな時、夫がヘッドだけ売ってるはずだと言うので、ネットで検索した。3,780円で見つけたけど、送料を入れると4,000円超える。そこで、日立のメーカーに電話してみたら価格がほぼ4,000円と知り、結局は行きつけのホームセンター(サンデー)へ注文後正月明けに取りに行った。価格は3,780円だった。色は同じじゃないけど、きちんとヘッドは無事はまり十分使えるのでラッキーだった。
2017.01.09
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私は楽プロを辞めた! 急に私のプロフィールが消えてさがしてもないという状態になってるはずだ。私は一昨日楽プロを辞めた。私は楽プロに少しずつ疑問を持ち始めていた。私が楽天ブログを始めたのはそもそも7年前になるが、その頃は楽プロではなく足跡機能があった。それは外部からの訪問者が来た証拠として、ニックネームが表示されてアクセス数がわかるようになっていて、それを見て訪問してくれた相手を訪問する仕組みだった。お互いのブログに訪問し合い、そこのコメント欄にコメントを交わし合って親交を深めていった。とてものんびりした非常に中味のある友達関係を築けて幸せだった。しかし、だんだん困ることが起きてきた。それはその足跡に見慣れぬニックネームの人も訪問してきて、クリックすると金儲け誘導のサイトやエロサイト誘導サイトだった。だからそのニックネームをクリックしないようにした。でも、そういうやつらはニックネームを替えて又訪問を繰り返すの繰り返しで、他のユーザーたちも楽天側に苦情を訴え、楽天の方もどうしようもなくなって、ついに足跡機能を停止することにした。そして、代わりに楽天プロフィールというものを作るという方針になった。しかし、これも最初は戸惑い、使い方がわからず困ったが、慣れてきたら便利に思えてきた。フォローやフォロワーがどんどん増えて、ナイスやコメントが増えていったし、ブログ更新時には写真を載せるとそれを目印に相手を訪問しやすくなった。しかし、それは実は面倒なものになっていった。私は自分のプロフィールにパソコンの資格のことを書いていた。それは主婦になって初めて苦労して取った資格だったのでブログにも書いたことがある。しかし、2年程前だったか、そのことに「聞いたことがないですけど~」と目が黒▼の絵文字を付けて見知らぬユーザーがコメントしてきた。私はきちんとURLを教えてその資格について書いてるページを紹介して返事コメントしたのだが、相手は「見当たらないです~URLが長くて貼り付けられません~」とかで又嘲笑の▼絵文字を付けてきた。さすがに私も腹が立ち、相手にコメントを返したが、相手もそれに逆らうコメントをしてきた。私はしばらくじっと様子を見ていたが、そいつはどんどん私のコメント欄に汚い言葉を並べていった。さすがに「もうやめてください、私血圧があがります」とコメントしたら「あら、そういうお歳なの?」と又嘲笑▼絵文字。これ以上関わったら自分が壊れると思った私はコメントをやめたら相手のコメントは止まった。そして私はそいつをブロックして、相手からの書き込みをできなくした。そして何事もなかったかのように楽プロのデザインやプロフィール文をリニューアルした。 しかし、この楽プロの悪いところは、相手が残した汚い嫌なコメントを消すことができないという所だ。 ブログであれば自分のコメント欄に書き込みされたものは、管理人の私が相手の書き込みも削除できるからいいが、プロフについては、書き込みした本人しか削除できないのだ。これはまったくもっておかしなシステムだと思う。だから、その嫌なコメントが消えていくまでひたすら上書きするように自分でプロフ欄を更新していくほかないわけで、時間がかかり、とても嫌な思いをしばらく引きずった。しかも、そいつのブログを一度訪問してみたら、自分のブログに私のニックネームをしっかり出して、コメントやりとりのことについてもすっかり自分を正当化して私を批判していたし、それに同情コメントする輩が又いて、不愉快さが一層募った。しかし、こんなつまらない程度の低い人間に関わったら自分の程度も下がると思った私は今後一切かかわるつもりはない。又、楽プロユーザーの中にはブログコメントを閉じてる人もいて、こちらとしてはその人に何か書き込みしたい場合はプロフにコメントするしかなかった。まあ、プラツブにすれば1対1で他のユーザーに見られない会話はできるのだが、へたすると気付くのが遅れたり、全く気付かず何か月も経ってしまうと言う危険性もあるので私はあまり利用していなかったし、そこまでしなくてもとも思っていた。だから、私が相手のプロフにコメントしたら、相手は私のプロフにコメント返しするという具合だった。それにブログと違って、そこにコメントの返事をそのまま「○○さんへ」と書いてもこっちが気付かないことが多いとも思うからしょうがなかった。プロフは流れが速いので、コメントの返事を見損なえば見ないで終わる。又、相手のブログについての他のユーザーの感想コメントもすぐ見えるので気になって読んでしまうが、そんな時、自分の正直な意見が他のユーザーとは全く違う意見だったときは気になる。そこで、自分のプロフにさりげなく一般論として意見を書いてみても、誰からも反応がなかったりしたことも。そうすると、皆さんはお利口で、私は浮いてるのだろうかといらない気を病むことになることに気付いた。そういった付和雷同的な世間一般の風潮のコメントかわしは、私には似合わない。 私に言わせれば、楽プロは人の神経を一喜一憂させるという精神的に不愉快にさせる要素が多い。 私はTwitterもやっているが、この楽天プロフィールはかなりその真似をしてるつもりのようには感じる。しかし、全く違う。なぜかと言うと、Twitterは全世界につながってるものであり、ブログと直結してるわけではない。しかし、楽天プロフィール会員は楽天ブログ会員しかなれないものである。その証拠に楽プロを退会した今は自分のプロフィール写真もプロフィール紹介文も消されたし、楽プロ会員のタイムラインを覗くことはできるが、もちろんコメントもナイスもできないので全く入っていけない。入っていくためには再び楽プロ会員に登録してログインしなくてはならないのだ。Twitterは他のユーザーからのコメントが直接外部からは見えないので気にならないし、もちろん他に楽プロで言えばプラツブのようなダイレクトメッセージというのがあって個人的に内緒の会話もできるし、クールな大人対応のものである。 私のイメージとしては、楽天ブログのコメント欄が玄関訪問としたら、楽天プロフィールのコメント欄は窓からの覗き見か勝手口訪問という感じがする。 私はもういいやと思った! そこで私は「お気に入り登録」という機能がまだ残っていることに気付いた。楽プロ会員でなくても、お気に入りのユーザーのブログを「お気に入り登録」すればよい。 そうすれば、その人がブログを更新すればその「お気に入り登録」の欄を確認すれば訪問できて、コメントをブログ内でかわすことができるのだから。私はスマホ派ではないのでラインのような簡単にスピード早くは苦手なので、ゆっくり昔のようにじっくりした分析したブログスタイルを気が向いたときに好きなように自由に書くスタイルを貫いていきたい。昨年忙しさのためと、楽プロでのつぶやきがお手軽なせいもあり、ブログをさぼってきて、半年ぶりにやっと書いたブログの何年ぶりかのお気に入り登録ユーザーの訪問に私はすごく嬉しく感じたものだ。それが私のブログの原点だから、アクセス数なんかどうでもいいのだ。これからはマイペースで書きたい時に書きたいことを書いていく。そのブログのコメント欄に堂々とコメントしてくださる方と真の友情をはぐくみたいと思っている。
2017.01.08
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2017あけましておめでとうございます!今年も正月花を大晦日に生けた。梅(白)松グロリオサ(赤)バラ(黄色)水仙(白)スイートピー(ピンク、ラベンダー)千両(赤い実)ドラセナゴットセフィアナ(緑に黄色の斑点模様)~今回は珍しく発見した白梅を中心に生けた。本当はピンクのガーベラを使って白いフリージアを使って・・・って考えていたんだけど、この白梅が私の目にとても新鮮に見えた。松以外の枝ものがとても新鮮に感じられた。南の方には信じられないだろうが、なんたって、この雪国では4月にならないと咲く姿が見られないのだから。青森っていう所は、梅も木瓜も椿も桃もつつじもほとんど一緒に咲いて、遅れて桜が咲くという所なのだ。季節感も色気も何もない。そして今回の苦労はオアシス(花を生けるスポンジ)を使用してるもので、剣山ではないので、この太い枝ものを生ける時苦労した。元々私は娘時代に池坊の華道を習ったので、どうしても和風感覚が残っている。でも、時代の変化とともにオアシスを使うアレンジメント花を子供のPTA活動で昔習って以来、これが手軽でいいなと思い毎年そうしている。水仙の花は葉っぱの部分がバラバラになってしまうので、華道でもそうだが、枝ものを添え木にして葉っぱを束ねてワイヤーとかセロテープとかで巻いてオアシスに挿す。松や梅などの枝ものがかなり挿し口を細く削ってから挿さないとオアシスは穴だらけになって挿し元がグラグラする。私も何度も考え挿し直してたら結構穴だらけになってしまい、残ったオアシスをちぎって穴を埋めたりしてごまかして、葉っぱで隠している。。。ついに新年迎えたね。今賑やかにテレビで音楽が流れている。青森県出身のピコ太郎が司会している。あれよあれよと言う間に有名人になったピコ太郎。彼のおかげで、青森県民がとてもユニークであることが証明された。そして、このブログに貼り付けた津軽弁の動画もすごく笑える。過去に我夫が津軽弁を知らないために損をしたことがある。我夫は大の医者嫌い。でも、ある日やむなく歯医者に行かなければならなくなった。夫は混んでいる病院が大嫌いな人間。そこで、青森の道をさまよい、ある日ポコッとみつかった歯医者に衝動的に入ったそうなのだ。そしたら、とても空いていて超ラッキーと思ったら、ド津軽弁で何言ってるのかわからないうちに歯を抜かれ、ブリッジをすることになったそうだ。「私のしゃべってるこどば、何年も聞いできてでもわがねがったのが?」と私は言った。↓通訳・・・「私の言ってることばを何年も聞いてきていてもわからなかったのか?」夫は「わからん」と言った。私は「へば、最初から標準語しゃべる病院さ行げばいいべ」と言った。↓通訳・・・「じゃあ、最初から標準語を言う病院に行けばいいでしょ」夫は「いや、やっぱり空いてるとこがいい」と言ったのであった。それにしても私には大阪のことばがわかるのに、なぜ夫には津軽弁がわからんのか?(でもさらに他県人にとって難解なのは、青森県は縦半分にして、青森含め西方面が津軽弁、野辺地を境にして東と下北方面が南部弁となる。青森県でも津軽と南部はことばもアクセントも又違うし、お互いに違和感を感じている。同じ青森県でも、昔は津軽と南部はかなり仲悪かったし、はっきり言って津軽から南部へ転校したときは私は津軽弁をバカにされた、又南部から津軽に来た人は南部弁をバカにされることになってることは今も有名である。夫は大阪人だけど、独身時代にずっと南部で仕事してきて、津軽人の私と結婚したために全部混じってしまったことばを使っている。以前、夫の実家の大阪のタクシーに乗って運転手に夫が行先を告げたら、夫は大阪人なのに大阪人から「あんたさん、ずいぶんなまってまんなあ」と言われた、( ̄∇ ̄;)ハッハッハでも、夫は基本的には大阪のアクセントは死ぬまで抜けないし、今でも日本の標準語は関西弁だと言い張っているからまあ強情である。そんなわけで、先日、我団体のコーラス演奏会の中で津軽弁の歌の動画もアップしたけど、絶対に他県の人間に100%真似できない言語であるという自信がある。では、下記の動画を見てください。通訳付きなので津軽弁がわかって結構笑えますよ~
2017.01.01
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久々のブログ、かれこれ半年ぶりと言ったところだ。楽天ブログが新しい形式になってから初めてのアップだ。去る10月14日の私達あかしやコーラスの演奏会が終わってからも、12月は第九演奏会が11日にあったので、それが終わってから動画作りに励んだ。そして、やっと4ステージぶんができて、YouTubeにアップしてさっぱりした。いや~苦労した~~でもうれしい(*'▽')さらに今度は、この4つの動画全部をブログに貼り付けようと思って、1つずつコピー貼り付けを繰り返して下書き保存していったわけだ。が、以前の画面と違って、動画を貼り付ける時先に貼り付けた動画を移動しようにもエンターキーを押しても全くカーソルが動かないと言う事態が・・・そうこうしてるうちに、なんかコツがあってやっと移動できた。しかしだ!今度は間違って入れた動画を消そうにも前なら簡単にデリートで消えたのに、消えない。動画を選択するとき、選択部分が青い色に変わってからバックスペースでやっと消えた。(`艸´;)いや~~~この新しい画面には勝手が違って四苦八苦したぜい(~_~メ)前の方が良かったと思うのは私だけか(-"-)それでは、本題に入ろう!第一部まずはオープニング曲の「あかしやのうた」これは、私達のために前指揮者の野坂徹夫氏(今は画家が本職)が作詞作曲してくれて演奏会のたびに歌ってる大事な曲だ。全員の記念写真を入れてみた。(私は後列ど真ん中~)そして第一部は、皆様ご存知の「宮崎駿のアニメソングメドレー」で老人介護施設へボランティアで歌った曲集でもあった。歌は楽しいのだが、なかなかこれでリズム感が難しい曲集で苦戦し、ピアノのテクニックも難度が高いらしいが我団のピアニストのテクニックは素晴らしい。第二部「石川啄木短歌集」だが、第一部とがらりと変わって自然のゆったりとしたところから始まるが、本人が病になっていく様へと変わっていく啄木の望郷の歌。我団の指揮者がお気に入りの曲集だが、我々は皆この曲集は年齢が高くなってきてるせいもあり、病院の長廊下などという歌詞が出てくるので嫌がって本当は歌いたくないとごねたものである。調べると啄木は借金まみれとか、女遊びが激しかったとか出てるし・・第三部「野口雨情の唱歌メドレー」だが、お馴染みの曲ばかりで思わず口ずさみ、子供の頃に遊んだ景色などが浮かんでくる。この曲集のおもしろいところは曲の初めと終わりがダブってるところで、ゲームのようである。この曲集も老人介護施設で歌って、皆さんが口ずさんでくれた。ただ、コーラスではパートで歌う部分がひねってあるので、覚えてる歌程気を付けないと間違うのでこれも大変だった。第四部「高木恭造の方言詩集 まるめろ」だが、本当は全部で8曲で構成され一つの物語となっている。その中の今回は4曲を抜粋した。この曲集も前文に書いた「あかしやのうた」同様に、青森県人の野坂徹夫氏が私達合唱団のために、同じ青森県人の高木恭造の詩に曲をつけてくださった。「冬の月」と「野火」は春のフェスティバル(青森市で5月開催)、東北大会(仙台市名取開催で6月)、全国大会(青森市で8月開催)、郷土の音楽コンサート(青森市で9月開催)、この度の定期演奏会(青森市で10月開催)と何度も歌っているし、過去二回我団では歌ってるので再々演という歌い込んだ曲である。写真の衣装はこの曲のために昔から着てる衣装だが、全国大会の時はこれに赤い縮緬の首飾りをつけた。私は自分の衣装は自分で縫ったのを着ている。(私は前列の太鼓の人の隣だよ^^)今回私はプログラム係としてレイアウト担当だったのでイラストも文章もすべてパソコンで描いて印刷屋にかけた。(すったもんだあって大変だった・・・)まるめろの絵や桔梗の絵は本当はこんなカラーで描いたけど、印刷は白黒なので予測が難しかった。実は最初イラストを校正後に見て、指摘したものよりもずっと濃い仕上がりになっていて私はびっくりしてがっかりした。第一は、印刷屋がプロとして客である私達にゲラ刷りと本印刷の印刷機の違いの説明をしなかったのが原因。ゲラ刷りの印刷機は黒一色のインクでできていて、本印刷機のインクはパソコンのように多色であるということだった。つまり、せっかくゲラ刷りを見て、ただ単に全体に一段色を明るくしてと言って校正しても、そのお蔭で、ある色が飛んでうまく出なくなってしまい、結果として感じが変わってしまうことがあるので要注意だ。イラストに使った色の中でも印刷機がその時々で拾う色と拾わない色があるからだということでプロでも予測がかなり難しいらしく、許容範囲だから許してほしいと言われたが、私は絶対気に入らなかった。さらに私は影の部分がずれていたのを指摘した。そしたら家のパソコンはWindowsであり、それで作ったデータを印刷屋のパソコン機種であるMacに入れると、互換が働き、データのデザインが多少なりとも必ず崩れてしまうと言うことをその時初めて聞いた。プロとしてその知識がありながらデザインがずれていたことに不注意で気づかなかったことを印刷屋は認め、そこで初めて刷り直しにこぎつけた。実に1時間半くらいの私の粘りだった。でも、私の要望をキチンと真摯に受け止めてやり直してくれて仕上がりはほぼ満足で感謝している。しいて言えば、プログラムの予算がもっとあれば、紙面をもっととれて、各パートメンバーの名前や団員募集も入れられたのだが、広告を入れるスペースがないので仕方なかった。広告がどれくらい集まるかで紙面の予算に影響するので、当然デザインも影響受けると言うわけだった。では、歌詞をまず紹介し、その後に難しい津軽弁を翻訳しよう。ただ、高木恭造の生まれ育った時代は私の両親よりも上の世代かと思うので、私が子供の頃に親の実家に遊びに行ったときに聞いたことがある津軽弁でしか解釈できない。とにかく、この高木の詩はルビが多く、カタカナと漢字と平仮名とめちゃめちゃに入り乱れて、昔の漢字は多いし、当然縦書きであるし、パソコンで入力するにはどれだけ苦労したことか・・・高木恭造による方言詩集「まるめろ」冬の月 嬶(カガ)ごと殴(ブタラ)いで戸外(オモデ)サ出ハれば まんどろだお月様だ 吹雪(フ)イだ後(アド)の吹溜(ヤブ)こいで 何処(ド)サ行ぐどもなぐ俺(ワ)ア出ハて来たンだ -ドしたてあたらネ憎(ニグ)ぐなるのだべナ 憎(ニグ)がるのア愛(メゴ)がるより本気ネなるもンだネ そして今まだ愛(メゴ)いど思ふのアドしたごとだバ あゝ みんな吹雪(フギ)と同(オンナ)しせエ 過ぎでしまれば まんどろだお月様だネ ↓標準語への翻訳 妻を殴ってしまい、家の外に出たら、 丸くて大きなきれいなお月様だ。 吹雪の後の吹き溜まりの雪の中を歩いて 何処へ行くともなく俺は出て来たんだ -どうしてあんなに憎くなるんだろうな 憎くなるのは愛するよりも本気になるものなんだよ そしてまた愛してると思うのはどういうことなんだろう ああ みんな吹雪と同じだ 過ぎてしまえば 丸くて大きなきれいなお月様なんだよ野火(ノビ) 雪(ユギ)ア解(ケ)だばりのトド松の林のかげの草原(カガワラ)サ 子供達(ワラハンドド)ア火(シ)コツケだな、枯れ草コアぱち〱て燃え拡(フル)がれば 子供達(ワラハンドド)も火(シ)コど一緒ネなて 跳返(ハネケ)たりてんぷコうたりしてだネ。 ↓標準語への翻訳 雪が解けたばかりのトド松の林の草原に 子供達が火をつけたな、枯れ草がパチパチって燃え広がれば 子供達も火と一緒になって 跳ね蹴ったり、手振り鉦(手振りがね)打ったりしてたよ。※笛と太鼓と手振り鉦(ジャガラギ・テビラガネともいう)が揃ってねぶた囃子となる。笛 と共に女性や子供たちも多い。ねじり鉢巻に揃いの半纏でシャン、シャンと粋な囃子で 練り歩く。 YouTubeに動画あります→ https://www.youtube.com/watch?v=CUHuPCcuVio母親(オガチャ) 急ネ乳のみてぐなて家(エ)サ馳(ハ)けでもどたら母親(オガチャ)薄暗(ウスグレ) い流元(ミジャ)で 白い体コバ洗てだオン。がッぷらど乳房(ツツ)サかぶりづですなぴたら 妙ネ(エパダ)ネ塩辛エ味(アツ)コアしたネ。 (塩湯で体バ洗てだンだベヨン)。 それがら間もなく母親(オガチャ)死ンでまたオン。 俺(ワイ)サ塩辛(ショッペ)い乳のまへだ母親(オガチャ) ↓標準語への翻訳 急に乳飲みたくなって家に急いで戻ったら、母親が薄暗い台所で 白い体を洗ってたよ。思い切り乳房にかぶりついて吸ったら 妙に塩辛い味がしたよ。 (塩湯で体を洗ってたんだろうな)。 それから間もなく母親は死んでしまったんだ。 俺に塩辛い乳飲ませてくれた母親まるめろーふぢァ死ぬ時(ドギ)の夢ー 枯草の中の細い路(ケド)コ行たキア、泥濘(ガチャメギ)サまるめろア 落(オヅ)でだオン。 死ンだ従兄(イドゴ)アそこで握飯(ニギリママ)バ食てだオン。 まるめろバ拾(フラ)ウどもても如何(ナンボ)しても拾(フラ)えネンだもの・・・・・・ ああ故郷(クニ)モいま雪(ユギ)ア降てるべなあ。 ↓標準語への翻訳 枯草の中の細い路を歩いて行ったら、ぬかるみにまるめろが 落ちていたよ。 死んだ従兄がそこで握飯を食べてたんだよ。 まるめろを拾おうと思ってもどうしても拾えないんだもの・・・・・・ ああ故郷もいま雪が降ってるんだろうなあ。
2016.12.20
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先日長男といろんな話を電話でした。そのきっかけは去る6月18日の父の日のプレゼントから始まった。毎年恒例の長男からの贈り物は父の日の前日に届いた。中味は 今年はこのように「豚肉の味噌煮込み」だった。冷凍してあり、どのように食べたらいいのか悩んでいたら中にレシピが入っていたことに気付き、それを参考に料理してみた。 一回目は定番の野菜炒め キャベツとピーマンを入れて焼き豚の味噌だれで炒めたものだが、まあ普通の野菜炒めよりも汁が多くて甘目な感じだったかな? そして、二回目は焼き豚丼 どんぶりの中にまずご飯を入れて、その上にキャベツの千切りをたっぷり乗せる。それからその上に焼き豚をあたためたのを乗せて、こねぎを細かく刻んで乗せ、ゆで卵を添える。後は焼き豚の袋の中の味噌だれをたっぷりかけで出来上がり!これは結構おいしくて評判が良かった。両親にもラーメンの上にでも乗せて食べるようにと切り分けた状態の焼き豚をおすそ分けした。 さて、この後は亀の話だが、うちの長男の置き土産の亀4匹が今年の冬眠から目覚めて外の光を浴びるようになったのは4月の初めだったと思う。長男が家を出て県外に行ってしまったのは18歳の時だが、その時から毎朝亀の水を替えて日光に当てて、餌やって、たまに歩かせるのが私の仕事になってしまったというわけだ。先日楽プロにも書いたが飼ってる亀4匹のうちの1匹のクサガメのメス(名前はハルカ)の左前脚が動かなくなって心配していた。その時の光景はこんな感じ真ん中がそのハルカだが、曲がってる脚がぶらぶらと全くこの日は動いていなかった。散歩は4匹で先頭にいるのがハルカだが、背中の骨が変形してへこんでいる。これは多頭飼いをしてる場合に狭い場所で日光浴させてるので、どうしても一番大きいハルカは他の亀たちに乗られて下敷きになってしまうために日光が当たる度合いが少ないせいもある。でも、うちの亀たちはミドリガメ二匹も背中がこうなので、やはり北国は日光不足かなとも思う。唯一クサガメのオス(シノブ)だけは一番小さいので背骨が真っ直ぐだ。我が家は今こんな風に今ようやくバラや寄せ植えの花たちが咲いてきれいになってきた。亀4匹をこうして歩かせるのは、なかなか目が離せないものだ。亀と言うのは初めは大人しくじっとしてるが、環境を把握すると急に勢いづいてパタパタと勝手に速足になるのだ。それも4匹が全く別々に歩くので後を追っかけて道路から戻したり、車の下にいかないように・・・脚が動かないと心配したハルカでさえも結構目を離せないのだった。でも、長男にそのことを話したら心配して、それはきっと「くる病」だろうと言い、日光浴は4匹一緒の箱でなく、二匹ずつにしてあげて日光が全員にまんべんなく当たるようにしてくれと頼まれた。それで、昨日から二匹ずつにして二階のベランダに置いたのだが、今日の朝再びハルカを歩かせたら、何としっかり4本脚で歩いていた三日前にぶらぶらしてた脚が今日は大地を踏みしめて力強く踏ん張ってしっかり歩いていた。心配したときはハルカの動かない脚を持って「ほら一、二、一、二、脚動かすんだよ」って伸ばして動かして何度もさすってあげた。本当に今日は感激!「よかったね~ハルちゃん」って言ってしまった。うちの夫は「歩けないんじゃなくて、きっとサボってたんだろう」って言った。そうか、年とった分いらない労力を使わずに目的を達成する方法を体で覚えたのかも・・・それは人間にも言えるので、亀も賢いのかな?我が家のベランダの亀置き場 左下がクサガメのメス(ハルカ)とオス(シノブ)右下がミドリガメのメス(ナル)最上階がミドリガメのオス(シノ)何で、ミドリガメ夫婦が別居してるかというと ほら、こんな風にミドリガメのメス(ナル)の左前脚が腫れてるでしょう。これは同じオスの(シノ)にかじられたからなのだ。繁殖行動したいオスが逃げ回るメスをかじるからだ。手だったり、お尻だったり、爪がなくなったり・・・ひどいときは血が流れてびっくりする。幸い、亀の再生力は早いので、自然に治るのも早いが。でも、一応隔離した方がメスにとっては安心だろうと怪我の回復のため当分別居させることにした。一方、クサガメの方は大人しい気質なので、そういう派手な怪我はないのでずっと同居させてるが、亀の場合はオスがメスよりも体が小さいので、大体はオスがメスの背中に乗って日光浴しちゃうので、メスは損をしてしまうので、気を付けてあげよう。亀が我が家に来てからもはや22年目、その中でもハルカは初めから大きいのを飼ったので推定年齢は30歳は絶対超えてると思われるし、あと20年は生きるとも聞いている。うちの長男は昔からやんちゃだったけど動物好きでやさしい子だった。その長男が9歳の時に飼った亀を私がこうして面倒見てるので、そのことに感謝しているらしい。最初は面倒だな~と思った亀の世話もだんだん亀への愛着に変わってきたように思う。この子たちがいなくなったらやはり寂しいだろうな、特にこの最年長のハルカが元気でいてくれるのが何よりも嬉しい。先程長男に亀が元気になったことを書いて、写真を添付してパソコンメールした。最近経理部門に部署が移動になったと言ってた長男。9歳だった亀好きの少年は今も家に帰ってくると亀の世話をする。31歳になっても亀の世話をしてる長男の丸めた背中は9歳の面影が感じられる。私が送った亀の写真を見て、ホッとして元気に又仕事頑張って欲しい。。
2016.06.23
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6月12日(日)第39回おかあさんコーラス東北支部大会全国大会に我団体の出場が決定した。ほらこの通り、団長が受け取った全国大会推薦状をカメラでパチリ 朝早くから新幹線で仙台に行き、そこから仙台空港アクセス線で杜せきのした駅で降りた。土日のフリー切符なので在来線は窓口で人数分を代表がまとめて人数分購入。杜せきのした駅からつながってる通路を歩いて行くとイオンモールがあった。「わ~さすが仙台は便利だ、駅と買い物できるお店が通路でつながってる~、その点青森駅も新青森駅もだめだ~」とか「仙台は若者が多いなあ、青森は年寄りばかりだ~」とか、いかにも田舎者の発言だ。そのイオンモールの「島村楽器」を予約してたので、そこで11:00~12:00まで練習。中にはドラムなどの楽器があったせいで予想してたとおり狭い部屋だったけど、1時間1,620円は安いし、指揮者とピアニスト入れても19名なのでなんとかしっかり入ることができた。困ったのはピアノがシンセサイザーなので、音がきついのと鍵盤の数が足りなくて、伴奏の方は適当にやった感じだった。でも、私達の今回の曲は郷土の歌で、拍子木や太鼓が入るせいで、いつものコーラスと違うのでその点は我慢できたかもしれない。とにかく、練習も無事終わって、その後はいよいよ名取市文化会館へ歩いて移動。その道案内をしてくれたのは仙台在住の我メンバーの一人の息子さんだ。そのメンバーは息子さん家族の所に一泊していくらしく、息子さんもとても活発で人当たりのいい親切な方で、道案内をしてくれて、文化会館では団体写真も撮ってくれた。 「こんな立派な会館で歌えるなんて最高!」って、皆嬉しくなった。まずは受付してプログラム受け取って、お弁当受け取って、お昼ご飯を食べ、その後は着替え。結構暑い日だったので、着替えをしたら涼しくてさっぱりした。私達の今回の衣装は簡単な和風柄の綿素材の上着と黒の七分丈のパンツなので軽快なのだ。残念ながら今回は衣装の写真はないけど、次回には衣装も披露したいと思う。さて、しばらくして私達のリハーサル時間がやってきて、15分間の割り当てられた時間のリハーサル。その練習室がものすごく音が響いて気分が良くて、その前の練習の島村楽器はスタジオなので音を押さえた作りだったのでギャップを感じたのであった。しかし、本番のホールは又どの程度響くのかこれは一発勝負でわからない。とにかく、リハーサル後はまもなく本番になって、いよいよ舞台の上に。今回は事情があって欠席者が多かったせいで17名で、三部合唱なのにメゾソプラノが4名しかいない有様で苦肉の策で私ともう一人がソプラノパートとメゾパートを掛け持ちで歌うことになっていて、今回は前列で歌うことになり、勝手が違ったのだが、もう開き直りで心を集中して注意されてたことを思い出しながら皆懸命に心を合わせ、私たちなりには満足して十分精いっぱい歌った。声も良く響く良い会場に満足したし、二曲無事に終わり拍手を受けて、舞台の袖に下がり、廊下を歩きながら皆自己満足で指揮者も満足で「よかった、気分良かった~」と皆ニコニコだった。ホッとして、あとは着替えして、他の団体の演奏をじっくり鑑賞。しかし、どこも皆うまいわ・・・しかも、女声コーラスならではのパフォーマンスはいつものことだ。例えば歌だけでなく振付があったり、衣装が二曲目に早変わりしたり、目で楽しませてくれる部分がたくさんあったし、能とか狂言の衣装や歌が入った団体もあった。その中でシンプルな歌だけで勝負の団体は歌が本当にうまかった。声がきれい、発声がいいからだし、若い人が多いと思った。だんだん、年とってきてる我団体も昔は若かったのに、こればかりはしょうがないが、もう少し発声を何とかしたいものだといつも思う。特に女声コーラスは、ソプラノはもともと発声がよくなければいけないので意識が高いが、アルトが美しい団体はしっかりと全体にきれいなのだと思う。さすがに東北大会はレベルが高くてひどいアラはまずないのに感心した。とにかく、いつのまにか閉会式を迎えた。今回は最後までいたのは結果に期待があったからなのだが、まさにこの閉会式を最後まで見たのは14年ぶりだ。審査員の長々とした漫才のようなお話で笑わせて時間を長引かせていたが、早く結果が知りたくて本当にうずうずだった。今回は東北6県で46団体の出場だったが、その中から全国大会には5団体が推薦されることになっていて、さらに全国大会開催県が一枠増えるので、結果として6団体が推薦されることになっていた。上位は12位までと言うことだった。その推薦された6団体は、宮城県から1団体、福島県から1団体、秋田県から1団体、青森県から3団体だった。この青森県の3団体の中に我団体が入ったわけだが、実は正直あまりうれしくない部分があった。それは、青森県の中でいつも選ばれる上手な団体が二つあって、どうやってもかなわない上手な団体なのだが、一度全国大会に出ると3年は出れないと言う規定があるらしく、今回は一団体は出れないので、同じ指揮者が急遽新しい名前の団体名で同じメンバーを含めた団体を作って出場し、見事な演奏でしっかり選ばれたのだった。我団体は一番最後に呼ばれた団体で、つまり全国大会開催県のお情け枠の一団体となるわけだ。それでもあまりにも下手であれば、基準に達しない成績とみなされ、今年はお情枠はありませんとなって、5団体のままだったはずなので、一応推薦されてもいいとみなされたと言う意味で喜ぶべきなのかな・・でも、我団体の仲間は「やっぱりな~、ああ、同じ青森県のあの指揮者の団体さ、同じ青森県なのに急遽新しく団体作って出場してくるなんてショックだよね・・・」ってなんかすっきりしない憤りを感じたのだった。それでも、皆一応全国大会への切符を手にしただけでメンツは保たれたので、良しとした。帰りに文化会館の前で最後まで残っていたメンバーで夕暮れ時になったが、記念写真を撮った。 その後は、又歩いて杜せきのした駅に行き、列車に乗って仙台まで行って、仙台でやっと自由行動。お土産買ってるうちにもう7時半を回ってしまい、急いで夕食の場所さがし。先に食べてるメンバーに携帯で連絡とって、仙台駅の中の牛タンの店に入ったが、混んでいて、お店の人の待遇が悪くて頭に来てしまった。生ビールを飲んでるうちに注文した牛タンが早く来ないかなと待っててもなかなか来ないので催促したら、「あんたたちは後から頼んだんだから遅くなってもしょうがないのよ。」「今焼いてるんだから待ってて!」って。一人のメンバーはお酒お飲まないから牛タン定食を頼んだけどそれも又遅くて、やっと来たと思ったら、牛タンが黒く焦げて焼きすぎで、味も塩辛すぎだと言った。二人で1・5人前の牛タンがやっときたのはもう8時半過ぎていて、それを食べても当然お腹は満たされないのだが、あまりにも腹が立ったし、何か頼んでも遅すぎて、新幹線の時間が気になるしで、「もう店出よう!」と仲間と言い合い、レジに行って、「一人ずつ別々に会計してくれます?」と言ったら「お会計は一緒に払って下さい」って、本当に上から目線だったし、たったあれだけしか食べなくても結構値段高いのに腹立たしかった。「殿様商売だよね、だまってても駅の構内の牛タン屋は売れるからいい気になってる!」って私達は不満たらたら。頭に来たんで、駅のコンビニみたいな店で缶ビールとおつまみ買って、新幹線の中で憂さ晴らしすることにした。新幹線に乗るまでちょっと時間があったので駅の外で風に当たっても牛タンの臭いが夜空に漂って複雑な気分だった。新幹線に乗って、あとは適当に話ししながら私はチビチビと・・・後ろの席には指揮者含め日本酒好きが三人いて他の客の手前、遠慮がちに賑やかだったが・・・でも新幹線は早い、12時前には新青森駅に着き、迎えに来てくれた夫の車でやっと夜中に家に着いたのだった。 今年の大会のお土産のキューピーのドレッシングはゴマのドレッシング。昨年の黒コショウドレッシングはまずかったので今も残ってて捨てるつもり。今回のはシャブシャブにでも使えるかな?キューピーと朝日新聞がこのおかあさんコーラスのスポンサーなのだ。さて、8月27日、28日の二日間にわたって、青森市のリンクステーションでいよいよ全国大会だ。14年前の若い頃、我団体は30名以上もメンバーがいて、その時に初めて全国大会に出場したのは東京の文化会館だった。あの緊張と嬉しさに比べたら、今はなんか気が抜けているが、なんたって地元でホームグラウンドなので、地元の合唱連盟の仲間たちやお友達が見に来てくれるという応援の強みはありそうだ。全国大会はメンバーは欠席しないはずだし、もう少しエネルギッシュな演奏ができることだろう。ただ歌うだけじゃだめだ、振付した方がいいという意見もあったが・・歌がそのせいでおかしくなる心配もあるし、さて、どういうふうに全国大会に修整するのか、今回の審査員の講評が後日郵送されてくるそうだが、待ち遠しいところだ。。
2016.06.13
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懐かしい高校のクラス会が終わってもう1週間が経った。このブログにも写真をアップしていろいろと嬉しいコメントも頂いた。その写真もアルバムに大事に貼り、今度はいつ会えるのかとか、せっかく初めて再会した人も何人もいたのに、何も話をしなかった人がたくさんいたことが何とも心残りでなんか変な罪悪感を感じた。しかし、昨日又幹事から手紙が届いた。“あれ?写真も送ってもらったのにどうしたのだろう?”不思議に思いながら定型とは言いながらも大き目の封筒の封を開けた。そしたら、追伸と称して、担任の先生から皆さんへメッセージが届いたというお報せだった。その中身は感動的だった。ここにその担任の文章を公開しようと思う。↓~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~車窓に、一人ひとりの顔を思い出しながら帰ってきました。それなりに還暦の表情が垣間見えました。でも、それ以上に笑顔がみんな美しかった。六月の花嫁を歌ってくれたあの笑顔だ。また、みんなから楽しい思い出を たくさん、たくさんいただきました。ありがとう。追伸気味に、俳句のことを一つ。 中退の生徒はいづこ卒業歌 多聞天(先生の俳名)『卒業式も進行し、今、最後の歌・蛍の光を歌っている。その生徒たちの顔を次々と見つめていく。ふと、その順番に空白を感じた。そうだ、途中でやめていったあの子だ。音信が途絶えたが今頃どうしているのかな。元気でいてくれればいいがな。また、卒業歌が耳に入って来た。』という景でした。最後に、これからのこと。以前のように体は動かなくなります。でも、無理をしないで、体を動かしましょう(自戒の念をこめて)。気持ちの上では、一人にならないで、みんな一人にしないでやってください。また、みんなに会えるのを楽しみに生きていきます。 ○○○○(先生の名前は先生の万年筆の直筆)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~こんな文章を読んだら心が温かく、ほろりとなった。「卒業」は春の季語だそうで、実は私の母も俳句が趣味なので、先生は先日も母のことも気にかけてくれた。 俳句は短い文の中にいろんな思いが凝縮されている奥の深いものらしいのは、私の母がずっと昔から勉強してる姿を見てきて、私も何となくわかっているが、先生が詠んだこの卒業をテーマにした俳句は素晴らしい評価を受けたのだと先日先生が誇らしげに話しておられた。私達もなんてすてきな師弟愛を今の今まで育ててきているのだろうか。先生にとっては人生初の担任の私達生徒だったし、問題を起こしていろいろ苦労かけた。先生が「六月の花嫁」を歌ってくれた私達のあの笑顔というのは、前回のブログに書いたが、先生が6月に結婚式を挙げた時、ジューンブライド流行りに沸き立った私達がクラス全員で歌って先生にプレゼントしたお祝いの歌のことなのだ。高校生の私達の顔が先生には今回の笑顔にダブって見えたのだろうなあ。担任の先生は今も大切にその時に私達が歌ってプレゼントしたテープを「私の宝物」だといって大切にしてるようだ。その歌の歌詞もメロディーも私の体の中に未だに入りこんで残っている。 六月の晴れたこの日に若い二人の愛がかなって今ここに青空の元で結ばれるのさ歌を歌おう、手を握り、愛を信じながら高く高く手を伸ばし、あの夢に届くまで 確かこんな歌詞だった。若き日の純粋でかわいい歌詞だわ。二番があったのかどうか忘れたが、男女とも仲良く歌った。あの当時流行のフォークソング調で作詞作曲した男子生徒がギターで伴奏を付けていた。こんないい生徒達いないよなあ~先生にとっては私達は本当にかわいい生徒なんだと思う。次回は先生の喜寿のお祝いにやろうかと言う話だそうだが、喜寿と言えば77歳だ。先生は今72歳くらいだから、あと5年先?私達も65歳になるんだな・・・でも、もう少し前にやろうと言いだすかもしれないな。皆が健康で、先生も健康でいること、又会えることは人生で素晴らしいことだ。あの世に旅立ったクラスメートが男女一人ずつ、それも40代の若さで・・・この担任の先生はその自分の教え子の自宅にお悔やみに行ったと聞いている。教え子が自分よりも早く旅立つのは子供を失うように悲しいものだと思う。先生はどんな気持ちで手を合わせて家族とお話したのだろうか・・亡くなった人には二度と会えない。この亡くなった二人は私と同じ国立大学だった。特に、男子の彼とは飲み仲間で、大学入りたての頃私に初めてお酒を勧めてくれたのは彼だった。 初めて飲んだお酒は「バイオレットフィズ」 きれいな紫色の甘いお酒でかわいい赤いサクランボが入っていたな~お酒にこんなきれいな色したロマンチックなものあったのかって、家で日本酒しか飲まない父を見て育った私には新鮮だったものだ。幼馴染の彼とも同じ飲み仲間だったので、「○○君に会いたかったよね」って以前お互いに話したものだった。現在介護職についてる幹事の男子とは、これから私の親のことで相談したり、世話になるかもと頼んでおいた。皆いい人ばかり。そう、担任の先生の言う通り、「気持ちの上では、一人にならないで、みんな一人にしないでやってください。」って。クラスメート、心の中で一人ひとりに思いやりと絆を感じて、悩んだときは相談できるような関係を作って、それを励みに生きていきたいものだな・・・
2016.06.10
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先日の土曜日、高校のクラス会があった。 「皆さん、いつものお薬飲んできましたか?私も自分が60歳になるなんて思ってもみませんでした・・・」という私の幼馴染の彼が幹事として挨拶したところから始まった。受付で渡された高校の卒業写真をスキャナーしてあり、旧姓と現姓を書き込んだネームプレートを首から下げさせられ、苦笑。かれこれ4年ぶりかな?私は前列の左から二番目。前回は9月の初めで人数もさほど多くなく、こじんまりとした和やかな会だった。今年の年賀状に幹事の男性から今年はいよいよ還暦祝いでなんと6月4日(土)と決まっていた。近くなって申し込みが来て、私も申し込み、その後参加者名簿が再びハガキで来た。我クラスはもともと総勢50名だが、文系クラスなせいで、もともと男子は18名しかいないが、その中で出席者は男子が4名、女子が16名、担任の男性教諭1名で21名の出席となった。そして、今まで一度も来たことがない人が3名の女子で、これは楽しみだった。元々、我高校は公立の進学新設校で、私達の学年は8回生で、私達の学年が3年の時に創立10周年を迎えたという出来立ての期待された高校だった。市内でトップの高校を追いかける学校として、大学進学率を上げるために学校が一丸となって生徒を叩き上げていた時代の生徒であった。一学年が10クラスあり、元々理数科はあったが、2年生になった時、普通科の内の1クラスのみが就職クラス、残り8クラスのうち、国立文系、私立文系、理系と分けて、その中でもさらにトップクラスというのを選抜して作った。私の所属するクラスはその国立文系のトップクラスで、学校全体から注目されたクラスだった。あの当時は、一期、二期という大学受験だったが、我クラスは国立大学合格者はクラスの半分くらいはいたと思う。そんなクラスに来た担任が私達よりも12歳程しか違わない某有名私立大卒の独身の若くて元気な小柄な男性教諭だった。彼は私達のお兄さんのような近しい存在だった。そんな担任が私達が3年の時だったか、結婚した。 当時、フォークソング全盛時代で、丁度その当時ギターがはやっていて、男子はよく肩に付きそうな長さのロングストレートヘアをしていた。その中でも音楽の得意な男子が一人いて、その甲高い声で作詞作曲して担任のために結婚のお祝いソングをクラスでコーラスしてプレゼントすることが決まった。担任にばれないように皆で放課後練習した。 出来上がった曲に、さらに先生の新婚旅行シーンまで想像してシミュレーションして、まるで漫才のように奥様役と先生役で会話を作りテープに吹き込んで担任にプレゼントした。それはもう、担任が感動したことは言うまでもなかった。そして、その後40代にクラス会の時にそのテープを担任が持ってきて皆に聞かせてくれた時は、あまりにも若々しくきれいなかわいい声だったので、「これ、俺たちの声?!」って皆で感動し、作詞作曲した男子は感動してタオルで涙を拭いていたのを覚えている。 そんな作詞作曲の痩せてた彼は、今回は白髪のふくよかなおじいちゃんになっていて、今は学校の校長先生を退職して孫の相手をしてると話した。皆が一人ずつ自己紹介していく中で、女子はやり手が多いと思った。元々我クラスは女子が優秀だったのだが、ある仕事をした後で社会人になってから専門学校に入り資格を取り20年プログラマーをやった後、どういうわけか、今度は占いの勉強をして今は新宿で占い師と言う独身の女性。バツ二独身で、今は鹿児島で海外援助NGOの理事長やってる女子だったり、これもバツイチ独身で事業を起こして音楽関係の仕事してたり、独身で喫茶店経営してたり、息子が優秀で東大出て弁護士やってたり・・・後は、小中学校の教諭退職して、これから何をしようかと迷ってた人いたり・・・男子も校長先生退職後再任用だったり、介護の仕事してたり、でも独身で母親の介護で仕事もままならずとかの人とかだった。私などは主婦で、たいして自慢できるほどのことはないのだが、先日までNPOパソコンの仕事をした話を少ししたが、今は時代も変わったから辞めたとごまかして、今はおかあさんコーラスをやってる話をしたが、それぞれ皆自己紹介が本当に様々で面白かった。さて、担任はこのクラス会に御呼ばれしたとき、嬉しくて、忘れちゃいけないと思い家じゅうのカレンダーに全部丸印をつけたのだとか。そしたら、奥さんに「あんた全部のカレンダーに○つけるの辞めて頂戴」ってあきれられたそうな・・ しかし、そんな担任を困らした大事件が過去に実は我クラスにはあるのだ。それは3年生の卒業試験をクラスの半分以上がサボったと言うものだ。何を隠そう、私もその一人だった。今回誰かが言った。「あの時さ、卒業試験なんか出なくてもいいんだよ、家で受験勉強してる方がいいもの、卒業試験なんかに出る奴は裏切り者なんだよ」って脅迫めいた話が飛び交ったそうな・・私には脅迫はなかったんだけど、私自身があの時は追いつめられていて、卒業試験なんていう生ぬるい勉強をする余裕がなかったので、サボることは当然と勝手に思っていた。そして、結果、うちの若き担任は上司からものすごく怒られて、学校で大変な立場になったと聞いた。なんたって、無断欠席で卒業試験サボったのだから、私には担任から家の母に電話がかかってきて、「風邪でしょう?欠席届を出して追試を受けるように」と言う伝達だった。難しい受験勉強と簡単な卒業試験を天秤にかけてまで罪の意識がないほど私達は大学に受かることしか考えてなかったのだ。皆一応追試で卒業試験は合格し、本当の大学入試も皆うまい具合に合格者が我クラスは多かったので、担任のメンツを保てたのは幸いだった。こんなどうしようもない、我儘で出来の良いかわいい私達なので、担任の先生は私達というクラスの生徒たちは、長年の教師生活でも特別な存在なので、一生忘れられない絆であると言うことなのだ。 さて、お決まりの写真撮影を始めた頃、又してもアクシデント何と、幹事の男子のデジカメのバッテリーが壊れて映せないこと判明。「誰か、デジカメ持ってない?~」って叫んだところで誰も持ってきてない。これでは、何の記念も残らない、まずいじゃん~私はとっさに夫に電話してみると提案し、夫に家からデジカメを持ってきてもらい、彼のと私のSDカードを取り換えて、私のカメラで撮影してめでたし、めでたし!!やれやれ、参ったなあ~でもよかった、我夫に感謝だぜ~風邪気味だった私は食事はあまり喉を通らず、焼酎の水割りがのど越し良くて、飲んでいた。実は私にはこのクラスメートの男子の中に小学校から大学までずっと同じクラスだった男子がいて、彼が先生になった後も、偶然コーラスの二次会で行ったスナックがうちのコーラスのメンバーが経営するところなのでよく一緒になったり、最近はコーラスのメンバーの一人が彼の学校のPTAの役員だったりと何かと縁は尽きない。今回も、彼の親御さんが亡くなった経緯から、私の家の話もしたり、パソコンのNPOの愚痴聞いてもらったり。小学校の校長だった彼は小学校の女の先生方の人間関係なども良く把握してるので、いかに女性が本音と建前が違うか、ずるいかよくわかると言った。私は「私はそういう女とは違うよ」と言い、彼も私の悩みだった部分に同情してくれて話が盛り上がった。皆に「私達幼馴染なんだ~、ずっと仲いいよね~前世から何か縁があるんじゃないかと思う」と私が言うと、彼は「良く結婚しなかったよな、前世夫婦かもしれないじゃん」と言った。そんな私達を見て、担任も「今も仲いいじゃん」と笑って早々に帰って行った。あっという間に一次会は終わってしまい、二次会へ大抵行って、そこでもその幼馴染の彼と「昭和枯れすすき」とか「ガッチャマン」とか「AKBの365にち」とか、歌いまくり、盛り上がった。彼は声もいいし、歌もうまいのでコーラスを勧めたが、ウォーキングと晩酌が趣味で夜は出たくないとか。そのうち大学の同窓会もやろうと誘われた。弘前、仙台、東京、鹿児島と様々なところから来てる独身女子らは一部ホテルへ、幼馴染の彼と女子3名とでしつこくも私のコーラスのメンバー経営のスナックへ三次会。話は尽きず、なんと夜中の二時半になって、名残惜しくもそれぞれのタクシーでさようなら。今度会うのはいつだろかでも、幼馴染の彼とはまだ会う機会は結構あることだろう。男女でありながら、こんな友人は珍しいと思う。実に気さくで気を使うことなく本音語れる彼と、もう一人の幹事の彼もいい人でこれから彼の仕事が介護なので世話になることがきっとあるような気がする。同級生の温かさ、こんな歳になっても会える幸せさ、有難いことだと思った。
2016.06.07
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長男が帰省している間の3日の日に早く届いてしまった母の日のプレゼント。中を開いて皆で食べた。贈答品のサクランボの母の日用ってこんな風にラッピングしてあるんだという感じで一つ一つがかわいくてきれいで甘さがあって本当にいとおしく大事に食べた。昨年コーラスの東北大会で山形に行ったとき食べたサクランボの味を思い出し、懐かしかった。 赤いカーネーションておかあさんの心を刺激するもので、我が家にはこうした造花のカーネーションが何本かセロファンに包まれたまま飾ってある。 さて、実は母の日は今年も恒例のおかあさんコーラスの春のフェスティバルだった。下のピンクのカーネーションは打ち上げ会場の駅前の料理屋の粋なプレゼントだ! お友達からは前日にチケットのお礼にとお菓子を戴いた。可愛いカーネーション柄の小さな箱に入っていて、たった300円のチケットだけど切手を貼って封筒に入れて私のパソコン画入りの手作り便せんに招待のことばを書き添えて送ったのが嬉しかったようで、彼女の心遣いには本当にいつも感激してしまう。 中は青森県の名物洋菓子「いのち」 今年の曲は津軽の高木恭造作詞、野坂轍夫の作曲の我コーラス団体のために作っていただいた津軽弁の歌。私がこのコーラスに入る前からの曲だそうで今回で3度目の演奏の懐かしい曲だ。その中の二曲を歌ったのだが、一曲目の「冬の月」という曲は聴きようによっては妻をたたいてしまって後悔してるという光景があり、一見DVの歌とも取れて、今の時代では複雑な唄である。途中に入るソロのセリフとパートのセリフの掛け合いが見せ所である。しかし、これを子供を叱った時の親の心理に置き換えてみて考えたらちょっと納得いくので、私はそのようにイメージして歌うことにしている。又「野火」の方は明るく楽しい子供達のやんちゃなイメージが浮かぶ。まあ、枯草に火をつけるなど今の時代なら火事になるからやめなさいというところだろうが、そこは古い時代の田舎の光景と思えばいいのだろう。この歌は和太鼓と拍子木が入り、アルトソロとソプラノソロの歌が入り、掛け声の賑やかな演出になっているが、リズムが見せ所だ。 【冬の月】カガごと(奥さんを)ぶったらいで(叩いて)おもでさ(戸外に)出はれば(出たら)まんどろだお月様だ(青白いような丸くて大きなお月様だ)ふいだあどのやぶこいで(吹雪の後の吹き溜まりをかき分けて歩いて)どさ、えぐどもなく、わあ、ではて来たんだ(どこへ行くともなく私は出て来たんだ)セリフ1・・・「どしたてあたらね、にぐぐなるもんだべば」(どうしてあんなに憎くなるんだろうな)セリフ2・・・「にぐがるのは、めごがるより本気になるもんだね」(憎くなるのはかわいいと思うよりも本気になるものだよ)そして今、まだめごいど思うのは、どうしたごとだば(そして今まだかわいいと思うのはどういうわけなんだろう)ああ、みんなふぎどおんなしせえ(ああ、みんな吹雪と同じなんだな)過ぎでしまればまんどろだお月様だね(過ぎてしまえば、青白いような丸くて大きなお月様だね) 【野火】ゆぎゃ、けだばりのトド松の林のかげのかがわらさ、わらはんどどあ、しこつけだな(雪が消えたばかりのトド松の林のかげの草原に子供たちが火をつけたな)枯草こ、パチパチて燃えふるがれば、わらはどんどあ、しこどいしょねなて、はねけったり、てんぶこうったりしてだね(枯草がパチパチって燃え広がれば、子供達も火と一緒になって跳ね返ったり手をたたいたり?してたよ) 津軽弁の勉強にどうぞ! http://www2d.biglobe.ne.jp/~oga/tsugaru/ben.htmlそれなのに合同合唱で歌った歌がこの曲でギャップが激しすぎ。「NIGRA SAM」というタイトルのラテン語曲だけどスペインの曲。今回中学生女子が賛助出演してくれたけど、こんな感じで若い少年合唱団が歌うときれいだわ。おばさんたちが歌うのは結構きつかったわ。。私、明日青森市に来る「ウイーン少年合唱団」のコンサートに行くんだけどこんな感じかなと楽しみ!! その日はアンコールには選ばれなかったけど、裏話だとアンコール団体に指名されても最初から辞退した団体が一位、二位ともだそうで、選ばれたのは三位で、私達は四位とか。。打ち上げの時審査員の講評を聞いたが、今回私達の団体にチャンスがあると言われているだけに厳しいものだった。でも、辞退した二団体は今年は規約上(一度全国大会に行くとむこう三年は行けないことになってる)行けないし、地元開催県には枠が一つ多いという特典があり、今年は青森県なのでチャンスではある。14年前に一度全国大会(東京だった)に行ったけど、「ひまわり賞」というものをいただいたことのない我団体。だんだん厳しくなってるので、今年は全国大会にすすめるだけで久々に喜べるというものだ。今日も練習があったけど、指揮者は男の先生なのでどうしても女声特有の指導が上手くないので、メンバーの中で声楽に詳しい人にいろんなボイストレーニングをしてもらって初心にかえって大変ためになった。しかし、今回は欠場のメンバーがいろんな事情で多い。それでなくても21名で多いとは言えないのに、娘さんのお産とか、親の介護とか、体調不良とかで出れない人が多く、東北大会に行くメンバーは17名しかいなくなった。そこで、苦肉の策でメゾの人をアルトに動かしたり、私はソプラノだが今回も途中からメゾソプラノを助けて又ソプラノに戻って歌うという小細工に利用されている。聴いてる人から見たらわからないだろうが、歌う方は結構きついのだよ。。今日もそういう箇所を急に増やして又しても神経を使うことになり溜息だ。 さて、我が家の亀を見たことがない方に紹介です!最近はまだ寒い日が多く(今日も暖房をしていました)、なかなかベランダに出して日光浴させられず、こんな感じで家の二階の廊下に置いてます。左の水槽がクサガメの二匹。小さいのがオスの「シノブ」君で、大きい方がメスの「ハルカ」ちゃん。この子たちは長男が9歳の時に自分のこづかいで勝手に買ってきたものです。とても仲良しでもう22年くらい飼ってます。メスは買ってきたときからこの大きさだったのでかなりの年齢であると思われます。でも一昨年まで卵を産んでました。もう無理そうかな・・・オスはその気満々でメスの前で首を横にゆらゆら振ったり、メスを噛んだりして求愛します。そんなオスがとても健気でかわいらしいですけど、メスはのんびりかまえています。。そして、右の水槽がミドリガメ(ミシシッピアカミミガメ)の二匹。 小さいのがオスの「シノ」君、大きいのがメスの「ナル」ちゃん。これはクサガメよりも1年遅れくらいで子供達を弘前の花見に連れて行ったときに弘前公園でねだられて買ったものでした。この二匹は手の平に乗っても小さくてかわいいサイズの亀でした。でも、やはり20年ほど経ってこんなに大きくなってしまったのでした。とにかく、クサガメよりも食欲旺盛(メスが)、性欲(オスが)も旺盛。時々オスがストーカーみたいにメスを追っかけまわすので、メスは噛まれてひどい傷になることが多い、だから様子を見て特に冬眠期は別居させてメスの健康を守ってます。ミドリガメの求愛はオスがメスの顔の前で両手の長い爪をプルプル小刻みに震わすことです。メスは逃げまくって大変で、卵は夏になると何度も産み、壊れてしまう・・・この亀たちの世話を普段は県外で働いている長男が帰省すると水替えをしてくれます。なんたって、彼が飼い主で、異常な亀好きは3歳の頃からでしたから・・・ ハルカ(左の♀)とシノブ(右の♂)シノ(左の♂)とナル(右の♀) 4日間ほどいた長男だが、今職場に悩みを抱えているらしく、いつもはたらふく食べる白米を今回はあまり食べなかったので、心配している。私も亀も頑張ってるから頑張れよ!母の日、父の日、敬老の日といつも心遣いありがとう!
2016.05.09
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ついに我が家の電子レンジが壊れた。1996年製のものでちょうど20年目で動かなくなった。これは我が家を新築する2年前に買ったばかりでその頃はまだ子供が小学生だったので、それはもう大活躍だった。温め以外の使い方を知らなかった当時の私はこれに付いてきた料理本を見ながら子供のためにクッキー、ロールケーキやスポンジケーキにも挑戦した。何もわからない私が、バニラエッセンスの香りに酔いしれて、電動の攪拌機で生クリームを泡立てたり、そのために計りもボウルもヘラもいろいろ購入したのだった。茶わん蒸し、グラタン、冷凍食品の温め・・・ それがだ、だんだん電源が上手く入らなくなって、コードを抜かして挿し直しては使える事にホッとして、だましだまし使ってきた。だんだん電源の接触が悪くなって、ついに動かなくなったのはここ3日くらい前の夜。さすがに焦った。なんたって、これにたよっておかずを温めてきたから。それに毎朝の次男のお弁当のおかずは前の日の残りと冷凍食品がほとんど。特にたこ焼きはこれでチンして入れるということが多かった。そこで壊れた日に、次男に「新しい電子レンジを買うからお前も半分お金出して」って言ったら「うん」ということで買うつもりでいた。そして次の日の朝の次男の冷凍たこ焼きはしかたなく油で揚げて入れた。これはこれでカリッとして朝つまみ食いしたらすごくおいしかった。しかし、その後、ふと頭にひらめいた。 “あ!、昔この次男に買ってやったやつが家に在庫ある“って! というのは、我が家の次男は過去に県外の専門学校に行ったのだが、その時自炊するというのでいろんな電化製品を向こうのホームセンターで買ってやったのだ。ところが、いろんなことがあって、本人は中退をすることになって家に戻ってきた。そういうわけで不要な電化製品として、空いていた二階の和室を倉庫代わりにしてそれをしまったままにしていて忘れていたのだった。 これだ!前の電子レンジよりは性能は落ちるけど、生活するのには困らない。しばらくこれで行こう!ああよかった!さて、私は今年になってパソコンのNPOの仕事を3月末で辞めたわけだが、不思議なことがあった。これは「ガングリオン」という腫瘍で、今年の1月17日の状態。以前のブログに書いたので大きさの変化などがわかってもらえるが、こんなに大きかった。http://plaza.rakuten.co.jp/seresutaito/diary/201601170000/ 2015年11月9日、ガングリオンの穿刺に行き、中の液体を抜いたが、それ以来病院には全く行ってない。行ってもすぐに大きくなるのでほおっておいたら一体どうなるのかテストしてみたのだった。そしたら、ほらそれがだ、今現在の4月14日で下の写真のような状態にまで自然消滅したのだ。 つまり、嫌なところと縁を切ったら私の中から悪魔が抜けたということだ。「病は気から」と言うが、私の場合は心の病がこうして体にしっかり反映することが証明された。 昨日はおかあさんコーラスの練習日だった。今わが団体は、5月の市内の春のフェスティバルと6月の宮城県で開催される東北大会で歌う二曲の猛練習中。この東北大会はおかあさんコーラス連盟に入ってる団体なら毎年自由参加なのだが、県内で5団体参加の場合は3団体が全国大会に選ばれる。今年は我が県では4団体参加なので、2団体しか全国大会に選ばれないのだが、今年の全国大会の開催地がわが地元の青森県なので開催県の枠が一つ増えて3団体が全国大会に選ばれることになっている。わが団体の今年の歌は津軽の「高木恭造」作詞と「野坂徹夫」作曲による「まるめろ」でその中の「冬の月」という曲と「野火」という曲だ。この曲は12年前にも定期演奏会で演奏したことがあり、津軽情緒が豊かなセリフの掛け合いや、太鼓や拍子木、ソロなどが入って他の団体にない個性が演出できるものと思うので、14年前に東京の全国大会に行って以来なかなか全国大会に行けずにいた我々の勝負処だ。地元の青森で全国大会が開催されてしかも津軽弁の曲で取れたら・・・っていう夢があるのである。しかし、昨日も拍子木のリズムが狂ったり、パートのセリフの掛け合いのずれがあったり、なかなかスパッと決まらず苦笑しながら皆エネルギッシュに頑張っているところだ。そんな昨日、以前ブログにも書いたことがあるメンバーの中の認知症のTさんと廊下ですれ違い、びっくりして心臓が止まるかと思った。「○○ちゃん」と声をかけても彼女は視線をまっすぐに無表情でトイレに入っていき、皆に教えたらびっくりしていた。彼女は2年ほど前に認知症が分かった頃でも、旦那さんの送り迎えで早退しながらずっとおかしな様子で通ってたのだが、だんだん椅子だけ並べに来てすぐ帰るので会費を3,500円のところを1,000円のみいただいていた。でも、昨年の暮れあたりから来なくなり、今年になって入院したとのことで、会費はいただかなくなり、退会扱いとなっていた。ただコーラスの衣装を寄付で買い取るとがだいたいの恒例で、会の貸し出しのネックレスやイヤリングなども返していただくことになっていた。そのために昨日彼女が来たのだとわかった。彼女は「5,000円頂戴!」と言ったと代表が言った。彼女の衣装は結構古いので買い取り額がそれで妥当かどうかは不明だが、あまりにもしっかりと金額を言った彼女にメンバー皆ほのぼのとして笑った。認知症とわかるまで、彼女に翻弄された日々(失禁、暴言・・・)があったが、私が過去にわけあってコーラスをやめてた6年間の間、彼女は私によく電話をくれ、演奏会のチケットをくれ、食事やお茶をしたものだった。そして彼女のやや強引な勧誘により私は今こうしてコーラスに復帰しているわけだ。しかし、復帰して知った彼女の異常。神経質で我の強かったが、あの健康で明るかった彼女はいつのまにかどこかで壊れていたことに誰も気づいていなかったのだった。彼女の旦那さんの話によると食品はいつも同じ物を買ってきてしまうとか。でも、おしゃれやお金に関しては今でもきちんとしてるのだそうだ。彼女は昨日身だしなみがいつもになくきちんとしていた。昔の彼女のようだった。旦那さんが「あれは俺が買ってやったんだ」と言ったという。男の人が女の人の洋服をそろえてあげるのは結構大変なはず。多分「こいつに似合いそうなものを適当に選んでやってくれ」とお店の女性に旦那さんが頼んだのだろうかな・・・とにもかくにも彼女のコーラス人生は終わった。彼女はよく言っていた。「私はいろいろ大変な時コーラスやってて本当によかったと思ってる」と。そのことばが今の私にも当てはまる。パソコンをやめても空虚でなく、家で揉め事があっても歌を歌ってるときはすべて忘れて没頭できる。拍子木のリズム、私はやる係ではないが、家の塗り箸を拍子木にみたててやってみた。なかなか大変。。たった一人でやるリズムが狂ったら演奏がおかしくなる。一人一人が心を合わせて一つの曲を究極の作品に仕上げる・・これはパソコンの仕事とは比べ物にならない。やはりいいな、コーラスって。。 最近咲いてる我が家の胡蝶蘭たち
2016.04.14
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4月に入り、退会した私はもう仕事のメールを見る必要はなくなった。前回のブログで、スタッフミーティングの様子で主に講座ドタキャンのことを書いたと思う。でも、辞めるとは書かなかった。むしろ解散するのを見届けてやるためにはいなければと思った。しかし私は、実は自分の中で納得できてない部分をひきずりながら無理をしていた。私の頭の中と行動は常に矛盾していたのだ。 実は私の中では実は12月か3月で辞めるだろう、辞めなければという漠然としながら着々と実行させようという計画があった。先日のスタッフミーティングへの出席もその計画の一部だった。あの会議で私は理事長の人間性を確かめたかった。ブログを書いた後の心の変化で何日か後、理事長になんとA4で6枚を超えてしまうほどの今までのいろんな思いを綴ったWord文書を添付したメールで退会の意思表示を突然告げた。その内容は過去の出来事へのいろんな不満がしっかり理屈つけて書いたものだ。彼という人は言わなければ気づかない人で、言ってもそのままとって直情的になって怒る結果になる、しかしそれに対してうまい具合に折れてみせて又彼に別な形で思いを伝えたり、彼を持ち上げたりすると急に素直になって、自分の繊細さのなさを反省したりする人だ。しかしまあ、私も最後だし、この際言いたいことは筋道立てて言ってやれと思って書いたので当初は彼はきっと気分を害したことだろう。それですぐ彼は退会届の様式をメールで送ってきたのでそれでいったんは彼に提出した。しかし、そのあとに思いもよらない嫌な事件がまたしても起きたのだ。我が団体では女性ではベテランメイン講師が一人しかいない。その彼女がメインの講座のサブに今回私は三つ入っていた。これは健康上の理由で彼女がメインを今年度で降りるというので私は思い出にしたかったからだ。実はこのメインの彼女は彼女のなんかわからない理由で他の男性メイン講師と違ってネットに自分のテキストをアップしないで、印刷物を手渡ししてきた。会えない時は我が家まで来て持ってきたこともあるのに驚いたこともある。理由を聞いてもごまかしていたが、言葉の端々からネットにあげることは自分の苦労して作成したものを人に簡単にダウンロードされることに対する抵抗であるようなニュアンスを感じていた。それで、私は理事長と副理事長(二人ともメイン講師)に今回こそ聞こうと「テキストは会のものなのか、個人のものなのか」と聞いた。しかし彼らはあえて何も答えなかった。それは副の彼は市販のテキストをスキャナーして作成してるから都合が悪いからだと思うし、そのバランス上、きちんと説明付けできないために私の質問に答えられなかったのだ。私は、個人の著作権はあるが、メイン講師の時給はサブより高いし印刷代も会から出てるならアップして会のスタッフがいつでも目を通しておくようにするのが本当だと思っていた。そこで私は今回思い切ってわざとスタッフ掲示板に「1年くらい出てない講座なのでアップして欲しい」とメールした。でも彼女からの返事なし。そこで彼女の個人チャットに添付依頼メールした。でもまたいくら待っても彼女の返事なし。私は切れてしまった。そこで講座三つとも都合によりキャンセルと個人チャットメールした。ついでに一緒のサブNにも報告メール。しかしだ、そのあとの夜Nから掲示板にメールありで、なんとメイン講師の彼女がパソコンを開けないほど体調悪化で代わりに自分がメインをやることになった、代わりのサブがいないので苦労してHに頼んだという。そのことをのちに理事長にNは腹立たし気に告げ、理事長は私に対してそれを皮肉めいて非難して最後の私への言葉にした。私はここですごく腹が立った。でも一応は理事長に謝罪をし、最後の最後まで無念、情けないとメールした。要はメインの彼女は私のメールを見てなかった、代わりのメインのNにしか話してなく、Nもそのことを私に知らせないくせに、急にキャンセルした私を恨んだのだ。でもNがそれほどまでに腹が立ったのは私にははっきり別の理由があるのがわかっていた。それは私の代わりのサブのHとNは犬猿の仲で有名だったからだ。元々メインの彼女とHが仲良かったのをNは嫉妬していた。(HのほうがNより先輩)でもHが嫌がってなかなか引き受けなかったメインをNがメインの彼女から手ほどき受けてやりはじめるようになったらNの態度が大きくなり、メインの彼女もNを大事にするようになった。そこで今度はHが嫉妬して、NとHの仲は最悪となった。そんな中私のキャンセルにより、誰も急には引き受けてがなく、NはしかたなくHにサブを頼むしかなかった、それが最大のNの屈辱だったというわけだ。そして、その講座以外の講座の仕事もあったので、そのとき一緒のHに聞いたら、メインの彼女は「心の病」で相当重いと聞いた。要するにもはや長年のパソコン講師や事務の仕事とこうした女同士の確執の仲裁、それに加えて家事は完ぺき主義で人には言わずに胸にため込むタイプらしかった。彼女は結構おしゃべりで明るく親切で私も尊敬してきた人なのだが、なんか肝心な思いを人に伝えるのがストレートでないように受け取れて、かえって誤解を招く元になってるのを彼女からはいつも感じていたが、それで納得した。理事長とこのメインの彼女は親子ほど歳が違うので理事長も彼女のことを煙がっていたようで、彼女もあきらめて、私が理事になったことでその代わりを託したようであった。しかしまあ、理事を引き受けてから私もどういうわけかいろんな事件に遭遇し、思うようにならずどんどん心にしこりができてこのままでは自分が壊れる、鬱になると予感し始めた。そこで、今回このようなわざと確かめるようなことをした。 理事長にはこのことは再びきちんとメールした。・・・女の根性を見破るのは余程神経が繊細でなければ男性では無理です、私みたいにこんなことをズバズバ言う女はそういません、女は皆本音を隠して生きていますので、気分害されましたら申し訳ございません、○○さん(理事長)は本当にまじめで、まっすぐな心根の方で、頭が良くて、リーダーシップのある方、○○さん(副理事長)ともいいコンビです、ただ二人とも若い独身男性なので私達のような熟女のめんどくささは理解が大変であろうと思います、私はここの会でたくさんのことを勉強させていただきました、いいことも悪いことも皆勉強であったと思っています。私はここにおいて、自分にできることは変えたいということでした。もっとお役に立てればよかったのですが力不足で本当に申し訳ございませんでした、・・・あらためまして○○様(理事長)今まで本当にありがとうございました。理事長からは3日後くらいに返信あった。・・・最後までいろいろ教えていただきありがとうございます。気分を害するといったことはご心配なさらず。これまでズバズバ色々アドバイスいただいたものの私の力不足にてそれらを十分に生かすことができずかえって負担を強いたこと、申し訳ございませんでした。・・・正直組織として統制が今後も満足に取れそうにないので、まあNPOは来年度までで区切りになりそうな気もしております・・・これまでのご活動に感謝致します、どうもありがとございました。どうもお疲れさまでした。15歳以上も年下の男性上司二人に熟女たちと他1名の熟男スタッフ、熟女同志のバトル、本当に疲れながらも終結だ。 最後の31日の日に私と同期の友達スタッフから電話があった。なんどもにおわせながらもいままで続けてきた私を今度は周到に退会を最後まで言わずに突然彼女に退会届を出してから携帯メールで告げ、その後詳しくパソコンメールした。(退会届は結局あとで印鑑の関係上一部手書きで日付も訂正したけれど)彼女とは8年近い付き合いで本当に懇意に言いたい放題だった。でもあとで気が付いたが本当は私が一番苦手だったのは実は彼女だった。なんでも見透かされてるようで彼女のほうが一つ下なのに、彼女は重度の知的障害の娘さんを抱えてるせいか、メンタルが強すぎて、私は子供扱いされていた。なにかというと「それが大人の対応っていうものでしょ」「あなたのことはよくわかってるよ、ズバズバ何でも言って強そうだけど、本当は誰よりも純粋で寂しがりや、ほおっておけない人、かわいい人」「あなたのアイディアには本当にいつも感心するよ、私の夫によく似てる」などなど・・・私は彼女に言った。「あなたの弱いところが一度見たかった」「どうしてそんなに強いのよ」彼女「私は弱いよ、ほんとに弱いよ~、他で弱いとこ見せてるもん」 私「あなたは他のスタッフと同じ種類の人間のようね。」「ここはもう楽しくない!私は楽しくないと続かないの」彼女「要はあなたは楽しいかどうかで決めるの?」私「そうよ、楽しくなきゃ続かないよ、それが私の基準」「それで今後あなたは残るの?ねえ今年はもう市の仕事引き受けないほうがいいんじゃない?」彼女「私はあなたと違うから残るよ、適当にやるよ、もう辞めるあなたに関係ないでしょ」私「そりゃそうだけど・・・(ふん!嫌な奴!!)そんな~~~~ここ解散したよ~とか、○○さん(メインの女性)の具合よくなったよう~とかぐらい教えてくれてもいいじゃないの~~~」彼女「ハッハッハ~~~、わかったよ~~」で二人で大笑いした。本当は会って話すつもりだったが、これだけ話したらもう気が済んだ。所詮彼女と私は住む世界が最初から違うとわかっていた。私はこの会ではなんか違和感をずっと覚えていた。私一人だけ情緒的で人が気付かないことに敏感に気付いてしまって人知れず苦しんでることを感じていた。深く考えない人たちばかりがこの会でうまくやっていけるような気もする。元々理系タイプではない私は芸術の方があってるからしょうがないのだね・・私は確かにこの会では唯一異質な存在であった気がする。私がいなくなれば普通のパソコンの会らしく割り切った関係性で進むことだろう。それにしてもたくさん同世代の人がいた中で彼女と知り合っても多分私は彼女を友達にする勇気はなかったと思う。彼女が怖かった、これは本当。何が怖いって心を見透かされほど嫌なことはない。と同時に今まで気が付かなかった自分に気づかされたのは彼女のおかげ。私はツンデレの三毛猫のような人間だったみたいと気づいた・・・それにしてもこんな厳しい友達はごめんだな・・・でも、誘われたら一回くらい食事するかな?私からは多分誘う勇気はないみたい・・・ごめん・・
2016.04.01
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いつの間にか明日から3月。先日は久々にスタッフミーティングに出た。 ミーティングの議題は既に私が理事長宛に個人メールして提案したものを理事長が熟慮した結果で、役員メールで役員に意見を提案。しかし、そこでも他の役員の意見はなく、私と理事長だけのメール交換のようになってしまった。他の役員は意見はないのか、どうでもいいのか、傍観してるだけか・・・とにかく、私が提案したのは先日のようなドタキャン対応だ。つまり、当日急に講座自体が中止になった場合にメイン講師とサブ講師に支払われる交通費対応。そして、今後そういうことがないように市のセンターとの今後の中止予防対策交渉提案。緊急時の連絡網作成をして、SMSによる連絡をし合うべき。会員向け通信の作成法について、日程表に合わせた年に5回の発行は多すぎるし、取材型だけでは負担だから、シリーズ物も入れたりして工夫し、日程表とは分離して中身を充実させて発行回数を減らし年に3~4回でいいのではないかと提案。 以上の三つを私はメールで提案した。というか、こんなこと10年も続いてきたNPO団体が今更論議することか!って思う。これが又不思議なことに講座自体が中止になったことは今までなかったそうで、よりによって、それが、この口うるさい私に降りかかったというのは偶然とはいえ、あまりにもよくできた話である。神様が私に改善するように仕向けたとしか言えない。お互いの個人電話交換も今の今までオープンにしないで、連絡網がないのに急に何か起きても連絡手段がないだろうに、あきれた話だ。お互いに内緒で電話番号を聞き合っているのだろうなと推測してるが、そんなのは関係のない話だ。私は「こんな会は見たことがない」とまで理事長にメールした。通信に関しては、私がここのサブをやる前はまだここで主催してる教室の生徒だったが、通信なんて一回ももらったことはないのに、理事長はNPOとしては必至だと言う。今の理事長は10年の間に3人目になってるが、私が生徒だった頃は通信は停止状態だったらしい。それが、私がサブに入った3年半程前くらいから急に又作ろうという空気になって、なぜか新人スタッフになりたての私がその復帰最初の号の通信を作り、その後当番制になって続いている。おまけにその頃新年会もやろうと言いだし、先輩は私達新人スタッフ二人に若いから幹事をやってくれと言った。本来ならば、久しぶりに入った新人を歓迎して歓迎会をしてくれるのはそっちの方だろうに・・・と思った。皆の意向で、昼に食べておしゃべりするだけのまじめな新年会。でも、その時幹事の私と同じ新人の友達スタッフはお金の計算をしたり、会のスタッフたちの記念写真をホテルの方に頼んで撮ってもらい、あとで皆に差し上げた。その5年前の写真を先日久々に眺めて「ああ若かったな、ウブだったな、私・・・」と。。私はここの会にいて今年で8年目になるが、後にも先にも新年会はこれが初めてで後はやってない。今思えば、当時私達のことを“新しい若いサブが3名入ってきて、これからこの会は活性化しそうだ”という希望を他のスタッフたちが見たのかもしれない。この会は今年度で10年を終える。一応この日の話し合いは私の提案を全部理事長が一人で考えたかのような雰囲気の話しぶりとなり、理事会で検討したとか言ってもいたが、実際はメールでの私と理事長だけのやり取りで、あとの役員が何も言わないだけなので、私の手の平の上でのコントロールのような話。では、私が言わなければ何も変わらなかったと言うことなのか。。私は「○○さん(私のこと)、今月どうして休んだの?」と他のスタッフに聞かれた。私は苦笑いして、「年金手続き、今年でやっと還暦。あとは保険手続きとか・・・」と言い、さらに「来月は大丈夫出れるの?」と聞かれ、「はい・・」と苦笑いで即答の私。でも、部屋を出て廊下に出て私は、「そのドタキャン中止講座は私の時だったの。又こんなことがあるかと思ったら出る気になれなかった・・・」と言った。そうしたらオババスタッフたちは、「あら~そんなこと、そんなの私達なんかしょっちゅうよ」だと。私は「それはここの主催の教室の方の話でしょ。でも私の言ってるのはセンターとの共催の講座の突然の中止の話よ」と。でも、一笑に付されて終わった。どうも、ここの人たちは真剣味に欠ける。又、長年メイン講師を務めてた女性スタッフの一人が今年度終わりである3月にメインを下りると先日メールで宣言していた。別に会を辞めるわけではないにしても、彼女は主に初歩から高度なWordと初歩Excelを受け持ってきたので、その代わりを急に誰かがメイン講師を務まるわけではない。でも、そのわりに意外にも特に心配の様子が会全体に感じられなかった。今年もおそらく市の依頼の仕事はあるだろうと思ってるらしいので、他のメイン講師3名ほどで講座数減らすとか、新しい講座に見えるように講座名を変えてみようとか・・・で対応して何とかなるということらしい。私が先輩方に「皆さんは何年もサブやって教室のほうでも教えてらっしゃるんだからメインやれるでしょう?」と言うと、逆に私に「若いんだから絵を描く講座でもやればいい」と言う。しかし、私にはそういう気力も実力も時間もない。大体「パソコン画の講座」というのは、遊び心のあるわりにはマウステクニックのいる講座である。それを知らずに“ああ楽しそう、簡単そう”の発想で来ると案外マウス操作で苦しんで難しく、とんでもないことになり、挙句の果てに作品ができなくてイライラしてしまった受講生がいたのは、私が生徒だったときの経験でよくわかっている。だから受講者の実力ややる気が把握できてないのにかなりの賭けだと思う。そして、テキスト作りが最高に大変なのは言うまでもない。講師料も安いのでかなりのボランティア精神がなくては覚悟がいる。そして最後に言えるのは、どんな会でも新陳代謝のない会はだめだと思う。私は新しい若い後輩のサブがたくさん増えて、先輩に気を使わなくてもいいようになり、先輩方が皆メインになり、それをお手本にする日を楽しみにしていたのだが・・・WindowsもXP全盛期のパソコン時代から今や10にまで発展し、スマホやタブレットまでという高い普及率になってしまった。来る受講生は60代中心だが、へたすると20代から一番の最高齢で91歳の人も来たこともあった。しかし、必ずしも年齢では推し量れないのがスキルである。直ぐのみこめる人、いくら教えても何度も聞く人、指先が思うように動かず進まない人・・・そんな中で、受講生の人数だけでなく、以前来た事がある人はこちらで名簿チェックし、スキル具合がまずい人やお年寄りが多いときには配慮してサブの人数を増やして対応しているのが現状だ。それなのに、当日の朝になって突然の受講生の数多いドタキャンは、はっきり言って受講生から徴収する受講料に対してサブの手当ての計算をすると我NPO団体は赤字になる。それを今まできちんと共催の市側と話し合って来なかった我団体の上の責任というものだ。こんなことを深刻に考えて議論してもこないで、スタッフたちは自分のスキルを磨くことに一番興味深々で、どんな受講生が来るのかだけしか関心がないなんて私には理解できない。“こんな体制のままで、気持ちの整理がつかないままで皆の前に出たらイライラが相手に伝わる。だから冷却期間を置くために休んだんだ”とそこまでも言えるような雰囲気の連中ではないしな・・・まあ、一応上の二人は私の意見を真摯に受け止め、今年度はきちんと体制を整えようと思ってるらしいので良しとしよう。「来年は解散も視野に入れて」という理事長のことばは今までにないことばであったので覚悟を感じたことは確かだ。こうなったら私もNPOというものがどういうふうに解散への道を歩むのか、私自身も一応頑張って様子を見て、運命を共にしてみようと思った。運命を共にしていくことで得られる何か繋がりというか、新しい発見というか、やりたいことがみつかれば自分の糧になることがあるかもしれない。こうしてみると、実に私って我ながら本当に好奇心が強い懲りないやつだなと思ってしまう・・・
2016.02.29
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