2006年11月17日
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因果応報という言葉は、ある人に取っては馴染みがないかも知れません。それは、すべての物事には、原因があるから結果があるという考え方です。

この因果応報という考え方は正しいのでしょうか? 多くの宗教がこの考え方であらゆることを説明しようとします。

もちろん、聖書の中にも出てきます。その代表的なものがヨブ記です。ヨブ記は、聖書の真中辺りにありますが、正しい人がなぜ苦しむのか?を論じているように思われます。

義人ヨブに、ある日、とてつもない苦しみと不幸が襲い掛かりました。財産は奪われ、子供たちは死に、自分の体も瀕死の状態になりました。

その時、ヨブを慰めに来た友人はヨブを責め始めました。「あなたに罪があるから、このような不幸が次々に起こるのではないか? 悔い改めなさい。」と。

しかし、後に神様は、この友人たちを叱りつけ、これらがいつわりであると宣言されました。しかし、どこが間違っていたのでしょうか?

それは、この世にあっては、正しい人が誤解され、不幸に会うこともあり、正しくない人が賞賛され、反映することは一時的にはあるからです。

しかし、長い目で見るならば、必ず正しい生き方をした人はその生き方にふさわしく賞賛され、反映がありますし、その反対に、正しくない生き方をした人は必ずそれにふさわしい結末があります。

つまり、因果応報、原因結果という考え方が間違っているのではなく、これを短いスパンで当てはめて、人に対して善悪を言うことが間違っているのです。



有名な小説家である三浦綾子さんは、「神様でさえも、その人を簡単に裁かれないのに、まして、私たちは人を裁けないのです。」と言いました。

少なくても、因果応報は、その人の一生というスパンを見て評価されなくてはいけません。それは、自分に対しても同じです。

今不幸があるのは、過去に犯したあの罪のゆえではないか? 先祖の呪いやたたりではないか? 親の罪のゆえではないか? その考えは捨て去って下さい。

人は、自分がうまく行っていると、自分の業績や日頃の行いがいいからだと誇りやすいものです。しかし、そこで高ぶるならば、いざ不幸がやって来たら、「私の何がいけなかったのかな?」と自責の念が湧いてきます。

多くの宗教はこれで成り立っています。悩みを持って相談して来る人に、「あなたの行いがよくない。」とか、「先祖ののろいです。」とか、「運命です、あきらめなさい。」とか言います。そして、「それを変えたいならば、たくさん拝みなさい、修行をしなさい、お布施をしなさい、」等々の言葉で、その宗教に縛り付けます。

しかし、そこには答えはありません。なぜならば、人は平等に、いいこともあれば悪いこともあります。それを、たった一時期の不幸を持って因果応報を押し付けられても、次によいことが起これば、その宗教のお陰ですとなったり、自分の行いを誇るようになります。

どうぞ、私たちは、不幸が起こった時には少し立ち止まって考える時間を持つことは大切です。しかしそれは、何かが悪かったと言って自分を責めるのではなく、悔い改めたり、反省したり、祈ったりしながら神様を求める時となりますように。そして、最終的には神様に感謝をささげて行きましょう。

そして、私たちが順調に行っている時には、感謝しつつも、舞い上がらないで、謙遜に祈り、神の導きを求め、神に従って行きたいものです。そして、当然、感謝の祈りをささげて行きましょう。

ですから、間違った因果応報、つまり、今の状態に当てはめてしまう考え方は人を不幸と恐怖と宗教に縛り付けることになりますが、正しい因果応報、つまり、その人の一生というスパンでそれを見て行き、しかし、いつも謙遜にへりくだる生き方は、その人を祝福し、幸福にさせます。

どうぞ、因果応報は間違っていませんが、人の善悪は、少なくても、その人の一生というスパンより小さい物差しで見てはいけません。そうじゃないと、神様が正しくない!と言われる考え方を持ってしまうことになります。

そして、ヨハネの福音書に書かれている、『真理はあなたがたを自由にする。』という言葉通りにあなたを自由にします。


God bless you!





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最終更新日  2006年11月17日 07時34分56秒
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