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まず、先日(=2017-11-14付け)の記事の幾つかの要点を復習したいと思います:・異質な者同士の間に「壁」を設定することは重要ですが、一方で、その「壁」を通り抜ける力のある「心」も重要です。この考え方や関連したテーマの考察を以下では「心壁論(こころ(ある)かべろん)」と呼ぶことにします。・逆に十分に異質な者同士の間に適切な「壁」を設定しないと、当事者の手に負えない複雑度の爆発が発生し、当事者同士の間の認識解像度が著しく低下することによって通常の人間らしい社会が破綻してしまうような状況に追い込まれてしまいます。これは政治的な問題、あるいは語学力の問題として誤解されがちですが、問題の本質は状況全体の論理構造にあり、一種の数学の問題として理解されるべき事象です。・以前から感じていることの一つですが、古くから伝わる物語や、芸術作品等、様々な文化遺産は実は、現代数学で用いられるような定式化の技術がなかった人たちが、直観的に感じ取っていた何らかの数学的な原理を表現し、記述するために創作したものではないしょうか。例えば、「バベルの塔」の物語では、まさに異なる民族や言語圏の人たちの間に本来存在する「壁」を無理に廃止し、一つの「組織」に纏めようとしても、複雑度の爆発によってその組織が必然的に空中分解し、バラバラになる状況が描かれています。・「バベルの塔」の物語に対応する現代数学の原理と言えば、「ラッセルのパラドックス」が頭に浮かびます。ラッセルという数学者は実際、様々な場面において人と人の間に本来存在する様々な種類の「壁」=「プライバシー」を取っ払うことに対して強い拘りを持っていたようです。・一方、私の研究(=宇宙際タイヒミューラー理論=「IUTeich」)では、特定の対象(=「フロベニウス的」な対象)が通り抜けることができない「壁」を設定することも重要ですが、その「壁」を通り抜ける力のある「心」(=「エタール的」な対象)を活用することによって非自明な帰結=定理を証明することができることも重要なポイントです。この、定理を証明するという、言ってみれば、とてもめでたい「ハッピーエンド」がIUTeichにおいて実現できることは、(「空中分解・離散」や「矛盾」のような)悲しい結末が描かれるバベルの塔の物語やラッセルのパラドックスと決定的に違います。実際、IUTeichは、「壁」と「心」を適切に設定し活用することによってラッセルのパラドックスに出てくるような矛盾的な状況を、矛盾を生じることなく「シミュレート」=「仮想的に実現」しているという見方ができます。言い換えれば、IUTeichは、「壁」と「心」を適切に設定し活用することによって、バベルの塔の物語やラッセルのパラドックスで描かれている状況に対して、これまでになかった種類の「成功例」を抽象的な数学的な理論の中で初めて実現しているという見方もできます。・先日(=2017-11-14付け)の記事の最後辺りでは「Cドライブ・Dドライブ」に関する話が出てきます。一見すると、「心壁論」とは直接関係のない話のようにも見えるかもしれませんが、OSが収容されるCドライブと、データの保管用のDドライブの間にあるものはまさに一種の「壁」であり、パソコン全体の動作に必要なCドライブとDドライブの間のデータのやりとりが適切な形で行なわれる仕組みはまさに(「心壁論」における)「心」に対応するものと見ることができます。・以前(=2017-05-06付け)の記事との関連性について少し解説してみますと、その記事では不適切な評価基準・「物差し」によって様々な社会的な損失や貧困が、不必要かつ大量に生じてしまっている社会的状況について論じましたが、このような不適切な評価基準・「物差し」は、(上記の「バベルの塔」・「心壁論」関連の「用語」で言うと) まさに心ならずも発生してしまった 複雑度の爆発を何とか抑制し、簡明 な「線型的」な秩序を確立するため の(不適切かつ極めて非建設的な!) 措置として講じられることが、一つのありがちなパターンの社会的力学として、人類社会では古代から定着しています。今回の記事では、上で復習した「心壁論」の延長線上にある、幾つかの補足的な観察や具体的な事例について考えてみたいと思います。先日(=2017-11-14付け)の記事では、米国や英語に関連した「心壁論」も展開していますが、だいぶ前(=2017-01-04付け)の記事で言及した水村美苗さんの「私小説」でも、米国の社会についてまさにバベルの塔のように、「複雑度の爆発」によって様々な深刻な不具合が発生している状況が描かれています。後、この水村美苗さんの「私小説」の関連でもう一つ思ったことですが、水村さんは子供(=12歳)のときから(親の事情により)米国にずっと在住していて英語に関しては(一般の日本人等と比較して)語学力の問題が全くなかったわけですが、それにも拘わらず、 (*) 言いたいことが山のようにあって、 しかも、それを何としても日本語で表現 しないと気が済まないということについては非常に強烈な熱意に燃えていた方のようです。水村さんは様々なことについては私とはだいぶ違うタイプの方だとは思いますが、少なくともこの点(=つまり、(*))については私の気持ちや精神状態とかなり重なるところがあることは実に興味深いように思いました。この点では、非常に格調の高いイギリス英語で文学活動を行なうことに対する拘りが目立つ、最近話題の日系英国人作家カズオ・イシグロ氏と比較すると、かなり根源的な人間性の違いを感じます。イシグロ氏は私と同じ5歳のときに初めて英語圏で暮らすようになったわけですが、私の場合、(一般の日本人等と比較して)語学力の問題がなくても、米国の学校での科目としての英語や米英文学の授業がいつもとても苦手で、自分にとっては「天敵」のような存在として認識していました。(ただし、誤解がないように書いておきますと、サボっていたわけではなく、いつも頑張ってよい成績をとっていました。)別の言い方をすると、自分の子供のときの様々な経験を思い出すと、(お互い、置かれていた状況が違っていたかもしれませんし、安易な比較をしてしまうと、様々な問題点を指摘されそうですが)イシグロ氏のように英文学に対して憧れの念を抱きながら育つという精神状態・精神構造に対しては非常に強い違和感を覚えますし、全く理解できません。私の感覚では 英語を通して記述される世界には、「色眼鏡」 のように、英語圏の文化や世界観を反映した、 著しく濁っていて有害な「歪み(ゆがみ)」が常に掛かっていて、子供の頃も今も、その歪みから解放される=その歪みと自分との間に分厚い壁(=この場合、「国境」)を確保することに対する強い意欲・「飢え」を抱えて生きてきました。子供の頃から認識していた、無数の具体例から一つ分かりやすいのを挙げてみますと、例えば、日本人の日常生活では当たり前な風景である「海苔ご飯を箸で食べる」ということを英語で表現するとなると、「海苔」を「シーウィード=つまり、海の雑草」、「箸」を「チョップスティック=ものをつついたり刺したりするための木の棒のようなイメージ」というふうに表現するしかなくて、全体としては「未開人どもが、木の棒を使って、そこいらへんの海に浮かんでいた雑草のようなゴミをライスとともに、未開人っぽい原始的な仕草でもくもく食べている」といったようなイメージに必然的になってしまいます。これは単なる一例に過ぎませんが、全体的な傾向としては、日本・日本語では大変な品格があったり、溢れる愛情や親しみの対象だったりする事物が、英語で表現した途端に、「どうしようもない原始的な未開人どもが、やはり原始的な未開人どもらしく、世にも頓珍漢で荒唐無稽なことをやっているぜ」というような印象を与える表現に化けてしまいます。過敏と言われるかもしれませんが、私は子供のときから英語のこのような空気に対しては非常に強烈なアレルギー体質で、自分たちがどれだけ根源的にコケにされているか全く自覚できずに英語や英語的な空気を浴びせられることに対して憧れのような感情を抱くタイプの日本人の精神構造が全く理解できません。少し話しが変わりますが、自分の学生(=修士課程や博士課程の大学院生)が英語で論文を書くときの指導の様子や方針について言及したいと思います。そのような指導をするときの「定番の話題」として、定冠詞・不定冠詞が付くか付かないか、単数形にするか複数形にするか等、英文を作文する際の「お馴染み」のテーマがありますが、私がいつも強調するのは、英語の語学的な技術的な側面等、 無数の非論理的な慣例や不具合・「歪み」 を抱えた自然言語に過ぎない 「英語」を忘れて、 数学的な内容の 論理構造や 「組合せ論的整理術」 (=議論や解説を細かく分割してその部分 部分を最適な順番に並び替えたりすること)に集中することの本質的な重要性です。つまり、このような作業の指導をする際のありがちなパターンですが、複雑な議論を上手く表現できなくて可笑しな意味不明な文章を書いたとき、学生は自分の語学力が不十分であることに原因があると訴えて、悲鳴を上げたりしますけれども、意外に思われるかもしれませんが、意味が通じる論理的な議論を書く上での本当の勝負どころは、語学力にあるのではなく、むしろ、英語を完全に忘れた精神状態で、表現しようとしている論理構造を適切に分析して分割し、議論の論理構造が追いやすい順番に並べて最適な仕組みで整理することにあるのです。その(英語とは本質的に無関係な!)作業さえきちんとできていれば、(数学の場合)数学記号や、比較的簡単な、決まったパターンの英語の表現を使うだけで、立派な文章を作文することが十分に可能なのです。しかも、論理構造が透明な、理路整然とした議論さえ書けていれば、偶に定冠詞・不定冠詞、あるいは単数形・複数形のミスがあったりしても、英語圏の読者から見てもそれほど理解の障害にはならないのです。先日(=2017-11-14付け)の記事の最後辺りで展開した「Cドライブ・Dドライブ」の観点で説明すると、学生だけでなく、多くの日本人は 英語を勢いよく自分の脳の「Cドライブ」に 詰め込むことこそが「幸せへの究極的な近道」 と誤解しがちですが、私の無数の経験から言わせてもらいますと、 英語を自分の脳の「Cドライブ」に詰め込む ことは実際にはむしろ、大変に危険であり、 むしろ「不幸への暴走特急」にしかなりません。つまり、 脳の「Cドライブ」に最優先で搭載すべきOS はむしろ、ことの論理構造を見極め、その論理 構造を上手く分割したり整理したりするための 「組合せ論的整理術」を効率よく実行する仕様 のOSなんです。 上述のような英文添削の文脈ですと、いつも思い出すことですが、英語に出てくるような定冠詞・不定冠詞は、日本では「欧米文化を代表するような事象」として見做されがちですが、古代や東欧まで視野を広げてみますと、・ラテン語には定冠詞も不定冠詞もない、・古代ギリシャ語には不定冠詞がない、・(現代)ロシア語には定冠詞も不定冠詞もない等、多くの日本人の感覚とだいぶ違う実態が浮かび上がってきます。また、ラテン語の場合、標準的な語順は日本語と同じ「SOV型」(=主語 (Subject) - 目的語 (Object) - 動詞(Verb))となっていて、日本語の感覚からすると強い違和感のある英語の「SVO型語順」と違います。子供の頃(=10歳前後)の私には、このような文法的特徴を持ったラテン語やギリシャ語はとても魅力的に映り、 十分に古い時代まで遡りさえすれば、英語の ような現代のヨーロッパの言語が日本語と 繋がっている世界を発掘できるかもしれないといったような感覚から、15~16歳の頃(=プリンストン大学の学部1年生の頃)までラテン語とギリシャ語の他に、印欧語族の中でも最も古い言語の一つであるサンスクリット語をかなり熱心に勉強しました。なお、この定冠詞・不定冠詞の話題をするときにいつも思い出すもう一つの重要な側面は、 一神教・多神教との関係です。この側面は私の研究IUTeichの中でも重要な役割を果たす数学的な概念である 基点や宇宙、あるいは、より初等的な数学でよく出てくる概念である 座標系というものとも密接な関係にあります。その関係を一言で説明することはなかなか難しいのですが、現代の一神教の欧米の文化では、 「たった一つの神しか存在しない」ことになっているのに対応するように、 「たった一つの、がっちり決まった物事 の考え方=座標系=基点=`心の基軸’」の下で思考する文化が徹底されています。このような全体的な文化的な状況は、定冠詞・不定冠詞が付くかどうかの基準となる、 言語空間で許容されている表現 のイメージの、一つのがっちり 決まった「座標系」と符合します。一方、日本のように「多神教」(=神道の「八百万の神」)系の文化的環境ですと、そのように 許容される表現のイメージ全体に一つ の固定された「座標系」を敷き、表現 のイメージ全体を通して 同一の「座標系」=「視点」 =「声」=「神」=「心の基軸」 しか認めないという姿勢を徹底する ことにはどうしても強い違和感を覚えるため、定冠詞・不定冠詞が付くかどうかの判断基準となるものが見当たらず、付くかどうかさっぱり分からない、判断のしようがない、という精神状態からいつまで経っても抜け出せないでいることになってしまいます。子供の頃(=5歳~10歳=初めて米国に渡って間もない頃)の私は、上記のような「難しい言葉」では上手く表現できなくても、上記のような状況を子供なりに、「空気的」に、直観的に完全に理解していましたし、「一神教の人間ではない」、つまり学校等でよく耳にした、より素朴な表現で言うと、「お前は神を信じるのか、信じないのか」というような形で問い詰められたりして遭遇した苦しい社会的な状況もあって、言語だけでなく、 古代ギリシャやローマの (「日本と同じ」)多神教に大変強い関心を持っていました。実際には、ヨーロッパでは、古代ギリシャやローマだけでなく、ケルト民族やドイツ民族、更にはロシア民族には、キリスト教が普及する前に長らく続いた多神教の伝統があったのです。一つの決まった「心の基軸」と言えば、戦後日本の場合、様々な分野における 「対米(あるいは場合によっては対欧米) 従属の文化」という(私に言わせれば)日本のみならず、米国あるいは欧米を含めた人類全体にとって非常に残念な文化的傾向・「心の基軸」があります。またその対米従属の文化と切っても切れない関係にあるのが、在日米軍基地の問題です。在日米軍基地は本当は日本国民(特に沖縄県民)のみならず、選挙期間中のトランプ氏の様々な発言や、どんなに厳しい批判を向けられても犯罪行為(=当事者による一種の「悲鳴」ともとれる)が後を絶たない在日米軍基地の関係者の実態からも窺えるように、米国側にとっても大変に頭の痛い負担となっています。在日米軍基地の存在そのものについては、将来的には、技術の進歩や様々な工夫によって更なる整理・縮小を(一国民として)期待したいという漠然とした思いはあるものの、日本を取り巻く厳しい軍事的な状況や、自分はそもそも軍事の専門家ではないことを考えると、強い主張等は特にありません。私の場合、子供の頃から問題にしたいと強く感じているのは、むしろ在日米軍基地関連の問題を含めた「対米従属の文化」全般、あるいは別を言い方をすれば、 「日本人の心の中の米軍基地」とも言える、残念な精神構造・「心の基軸」です。この文脈でいつも思い出すものの一つは、1990年頃の日米貿易摩擦の時代に、(ソニーの会長だった)盛田昭夫氏と政治家の石原慎太郎氏によって共同執筆された「ノーと言える日本」という本です。当時プリンストン大学の大学院生だった私がこの本をどこで購入したかは覚えていませんが、何とか購入して興味深く読み、自分も「ノー」と言うべきときには 「ノーと言える人間」になりたいなと強く思ったことを覚えています。ここのところの(=2017-10-19付けおよび2017-11-14付け)記事では、数学とは何か、あるいは数学と芸術等との関係について様々な考察を述べていますが、上記のような文脈で見ると、 数学=人類の認識の仕組みの論理構造 の解明はまさに、「ノー」と言うべき ときに断固たる「ノー」を突き付ける ための、一種の究極的な技術・手段であるように思います。残念ながら、今日の日本の文化では、 (過去あるいは現在の)欧米の数学界 のエリートに対して、憧れの念を極める =諸手を挙げて究極的な「イエス」を 発信することこそが「数学」であるかのような解説がなされることが多いような印象がありますが、私が強調したいのは、むしろ そのようなエリートのような相手に対して は、「ノー」と言うべきときに断固たる 「ノー」を、数学を通して突き付けること こそが、数学の本来の精神であり、数学が 果たすべき役割であるということです。また何度も繰り返しますが、様々な形態の「対欧米従属の文化」や「心の中の米軍基地」に対して、謙虚な姿勢で論理構造の解明・研究を遂行することによって「ノー」を突き付けることは、「拳を振り上げる」=「盾を突く」ような好戦的な姿勢として誤解されることもありますが、本当はそのようにすることは 長期的には、日本のみならず、欧米を 含めた人類全体にとって最も健全で 建設的な道になると、(様々な経験を踏まえて)強く感じています。最後に、ここのところ報道等でよく話題に上る北朝鮮の核兵器の問題ですが、このような報道を見るといつも(改めて!)痛感しますが、 人類にとって最も究極的な「武器」は やはり核兵器や化学・生物兵器等では なく、物事や仕組みの本質的な論理構造 を研究し、明らかにすること、つまり、 一種の広い意味での「数学」ではないでしょうか。私は軍事の専門家でも、朝鮮半島情勢の専門家でもありませんが、北朝鮮の核兵器の問題を見ても、一見すると「核兵器」が問題の本質のように見えても、本当は「核兵器」も、今我々が生きている時代の様々な「非本質的な技術的な要因」によって偶々浮上した一種の「小道具」に過ぎず、「小国」の北朝鮮が世界の大国を手玉に取る「外交術大国」としての地位を固めることができたのは、「偶々浮上した小道具」の「核兵器」を利用する場面があっても、本質的には(核兵器そのものとは全くの別物である!) 世界の大国の権力構造を支えている 論理構造を正確に解明し、その盲点を 突く技術が非常に高度に発達していることにこそ、主たる要因があるのではないでしょうか。
2017.11.21
先日(=2017-10-19付け)の記事の最後辺りの「友好的な姿勢を保ちつつ、一定の距離を置く」という話ですが、そのような考え方の背後にある様々な考察についてもう少し詳しく解説してみたいと思います。私は旅行や国際交流がとても苦手で、何十年にもわたり、基本的には自宅や研究室に閉じこもって数学の研究に打ち込む生活を送ってきた人間ですが、 何で旅行や国際交流が苦手か?と、様々な場面で交流のある方からときどき聞かれます。先日、ネットで偶々目に留まった、(日本語ができる外国の方と思われる方による)「つぶやき(ツイート)」 『どうも日本の人は「自分がアジア人で ある」ことがピンとこないらしいのね。 不思議』に、私が感じている非常に本質的な問題性が集約されているように思います。私の場合、アメリカに在住していた頃、世界中のいろいろな国の方=欧米露中韓印等々、と交流がありましたが、双方がどんなに流暢な英語を喋ることができてかつ、いわゆる「悪意・差別意識」がなくても、お互い住んでいる 「精神世界」が違いすぎて、私としては、無理のない範囲内における友好的な関係を築くこと自体は結構だとしても、最終的には、 「国境・国籍を放棄する =その人を自分と同じ国の人に思う」あるいは、別のもう少し具体的な言い方をすると、 「その人を(自分から見て)‘外国人 =異邦人’と呼ぶ(=として扱う) 権利・権限を放棄する」ことだけはどうしても承服できず、それだけは少なくとも自分としては、 「どうしても譲れない一線」であるように非常に強く感じました。上記のツイートの外国人のように、多くの欧米人は、日中韓、あるいは場合によっては南アジアや東南アジアの人まで一緒くたにして「みんなどうせ同じアジア人だ!同じ有色人種だ!」というような思考回路で考えたがるところがあって、私の場合、そういう空気はどうしても生理的に受け付けられない=非常に強烈なアレルギー反応を起こしてしまいます。また、関連した現象ですが、私の場合、アメリカの高校や大学で(直接的な意味で)よく経験しましたし、(インド人等の知り合いを通して)第三者としても目撃したことがありますが、 「ザ東洋人男性」(=例えば 「チン」という名前の)というような形で、別々の個人を別々の個人として認識できずに、「同一の生命体」としてしか認識できない欧米人が意外と多いです。つまり、もっと具体的にいうと、例えば、高校では同じ寮の中に、韓国系やタイ系の人がいたりしましたが、私たちが別々の個人であり、同一人物ではないということを何度説明しても間違えられたり、大学ではよく知らない人からまるで親しい知り合いかのように(誤認されて)話しかけられたりしました。少し話が変わりますが、よく旅行や国際交流に対して積極的な姿勢をとりがちな方を観察していると、自分との対比で、双方の活動(あるいは生き方全般にも言えるかもしれませんが)の一つの基本的な違いとして、次のようなことが挙げられるように感じることがあります: そのような方は人類の様々な既存の文化を 堪能し、満喫する(あるいは仕事等では、 整理し、演出する)ことを目的とした活動をされている(ように、少なくとも私には見受けられる)のに対して、私はむしろ 既存の文化の流れを(「邪魔」、「障害物」 として認識し)なるべく自らの個人的な世界 から排除し、自力で新しい文化の流れを自ら の手で創作することに対して非常に強い拘りを持っている人間です。この人間性の違いはそのまま、「旅行」や「国際交流」、「新しい生活環境を体験する」ことに対する、双方の(それぞれ、肯定的な、否定的な)捉え方に反映されているようにも感じます。再び 何で旅行や国際交流が苦手か?という質問の話に戻りますが、一言で説明するのはなかなか難しいですが、先ほどの人間性の違いによって、そのような活動の 「費用対効果」(=「コスパ」)は、私の場合、非常に悪い(=苦しいこと、強い不快感を覚えることが多すぎる割りに、プラス面・見込める収穫等が貧弱すぎる)というのは、一つの「端的な」説明の仕方だと思います。例えば、多くの旅行好きな方から見ても、恐らく北朝鮮や、中東の戦闘地域は、「費用対効果」が悪すぎるのではないでしょうか。あるいは、多くの外国人(特に例えば、欧米の数学者!)から見て、日本に旅行することの「コスパ」が悪すぎて殆どしないのではないでしょうか。一方、旅行好きの多くの方が旅行をする際に体験する(好感を伴う、よい意味での)刺激よりも 遥かに凄い(=壮絶な!)景色の世界を、 私は自分の心の中で旅している(=例え、物理的な意味ではずっと同じ場所に留まっていても)ように、子供の頃から強く感じています。更にもう少し分析を進めさせていただきますと、私の場合、旅行や国際的な状況が非常に苦手である基本的な理由の一つでもあり、またこれまでの様々な経験(=上記の「別々の個人を識別できない」という話もその最たる一例ということになりますが)を経て感じたことですが、お互いに語学力の問題が全くなく、かつ悪意(=差別意識等)が全くなくても、 異国の人間を取り巻く状況や精神世界は 単純な「データ」・「抽象的な論理体系」 として扱うという立場で考えても、複雑 度の「爆発」が圧倒的すぎて 人類の脳の処理能力 を遥かに超過してしまっているため、相手 のことを、 極めて低い解像度 でしか認識・理解することができません。一方、相手に対する 「認識解像度」が著しく低下してしまう(=つまり、画質の粗悪なパソコン画像のように)と、相手の「人間性」や「個性」が全く見えなくなってしまい、 人間らしい社会生活が本質的に成り立たなくなってしまいます。つまり、言い換えると、ずっと長い間、様々な極めて残念な経験を経て感じたことですが、実質的な異邦人同士の交流の問題性・不具合等の本質は、(多くの米国人が主張したがる=誤解しているように)政治的な問題ではなく、また(多くの日本人が主張したがる=誤解しているように)語学力(=例えば、「英語力・英会話能力」)の問題でもなく、圧倒的な、爆発的な複雑度を擁する「データ」・「抽象的な論理体系」に対する 人類の脳の処理能力の限界にあるように強く感じます。別の言い方をすれば、本質的には 一種の数学の問題であるように思います。(因みに、「(多くの米国人が主張したがるように)政治的な問題ではなく、一種の数学の問題である」と書きましたが、このような文脈ですと、19世紀に米国のどこかの地方政府が「円周率(’π’)は3である」という趣旨の法律を制定しようとしたという有名な話を連想させられます。)更にもう一つ、このような文脈でよく連想させられるのは、旧約聖書等に出てくる バベルの塔の物語です。バベルの塔と言えば、最近、日本でもオランダの画家ブリューゲルの作品「バベルの塔」の展覧会が開かれたりして話題になっています。百科事典等で引くと、「バベルの塔」の物語は次のように要約されたりします: 「この物語は,民族と言語の多様性を説明する と同時に、神と等しくなろうとする人間の罪 を描いている。」誤解がないように書いておきますと、私は別にキリスト教等、特定の宗教の教徒ではありません。しかし、昔から強く受けている印象の一つですが、 多くの芸術作品や文学にしても、古代から 伝わる神話や物語にしても、人間が直観的 なレベルにおいて実質的に感じ取った 一種の数学的な原理 を(現代数学で用いられるような定式化の 技術がなかったために)何とか後世に伝達 できるように表現し、記述するための手段 として創り出されたものが多いのではない でしょうか。つまり、そのような様々な文化遺産は、 一種の「数学的な予想」の宝庫として捉えることが出来るのではないしょうか。例えば、「バベルの塔」の場合ですと、 全ての民族・言語の間の「壁」を取っ払い、 一つの「塔」の中で「一本化」しようとして も、それは本質的に数学的に不可能であり (=つまり、「神」はそれを絶対に許容し ない)、どんなに努力して回避しようとして も民族・言語の多様性は必然的に発生する ものであるという、一種の「数学的原理」(=つまり、上で述べた「認識解像度」、「圧倒的な、爆発的な複雑度に対する処理能力の限界」に対応)を、古代人が表現しようとしていたのではないかと推測されます。この「バベルの塔」がある意味、予想しようとしている=記述を試みている数学的原理に対応するものを現代数学の中に求めようとすると、「ラッセルのパラドックス」、つまり、 「自分自身を元として含むような集合、例え ば、全ての集合をその元として含むような 集合、は存在し得ない=即ち存在し得ると 仮定すると矛盾が生じる」で有名な、20世紀初頭の数学者ラッセルを思い出します。ラッセルと言えば、有名な著書「結婚論」で「裸を非とするタブー」を疑問視する(この点では、1960年代に流行したいわゆる「ヒッピー」の運動に通じるものがあるようですが)等、人と人の間にある様々な「壁」(=言い換えれば、「プライバシー」(!))を究極的な形で取っ払うことに対する強い拘り、趣向があったようです。一方、私の研究(=宇宙際タイヒミューラー理論=IUTeich)では、「Θリンク」等、別々の舞台=「宇宙」の間に、通常扱う数学的な対象たち(=「フロベニウス的」な対象たちと呼ぶ)が「向こう側」に通り抜けることができない 「壁」を設定することが理論の重要なポイントであり、一種の出発点とも言えます。一方、壁を設定することが重要であっても、その 壁の向こう側に通用する= 通り抜けることができる特別な対象たち(=「エタール的」な対象たちと呼ぶ)を扱うことも、理論の展開、特に最終的な定理を示す上においては必要不可欠です。このIUTeichの枠組の根幹を形作っている数学的な状況は、「バベルの塔」やラッセルのパラドックスだけでなく、私の旅行や国際的な状況に対する消極的な姿勢や、米国での様々な経験に対する考え方とも密接に関係しているように思います。簡単に言ってしまいますと、私がこれまで経験してきた多くの場面では、 国や民族、言語等の間に本来存在する「壁」 =「プライバシー」が破綻しすぎていたため、 そのようなものの間の 「壁」に飢えている 体質の生き物として育ってしまいました。私の場合、米国や英語に対する壁にも飢えているわけです(=別の言い方をすれば、私にとっては、 米国や英語こそ、一種の巨大な「バベルの塔」ということになる)が、米国では、まさに自分から見て「異人」と感じる人たちに対する「壁」に飢えている人が非常に多いように思います。(もちろん、自分から見ての「異人」の定義は人それぞれですが。)まさにそのように「壁」に飢えている人たちが非常に多い(=圧倒的な多数派に迫る勢い?)からこそ、トランプ氏のような大統領がついに誕生したのではないでしょうか。また、先般のフランスの大統領選挙の際の右翼政党の集会で用いられた「我々は我々の国にいる」というスローガンを見ても、移民の多いフランス等、西ヨーロッパの国々の社会においても、類似の現象=「壁への飢え」が如何に「猛威を振るっている」かが窺えます。(因みに、誤解がないように書いておきますと、これら外国の政治家、政治運動については、私は批判するつもりも、賛同するつもりもなく、単に現象の分析を行なっているだけです。)ただし、2017-10-19付けの記事の最後辺りにも書かせていただいた通り、(IUTeichの「フロベニウス的・エタール的」もそうですが!)「壁」=「距離」=「プライバシー」の設定も本質的に重要ですが、その壁の向こう側(にいる人たち)にも通用するもの= 長期的な、安定的な平和を大切にする、 全体的に友好的で開かれた姿勢、あるいは別の(より「日本的な」)言い方をすれば、 「お互い様」、「お世話様」といったような 視点を忘れない、(壁を通り抜ける力のある) 豊かな感情移入力に支えられた博愛と敬意の 下で運用される壁を目指す姿勢も本質的に重要であることを見失ってはいけません。最後に、もう一つの重要なポイントですが、成人して、人間としての様々な基本的な感覚や行動パターンが完全に固まって=確定してから、上述のような(=「壁」の破綻から生じるような)厳しい状況に遭遇するのと、未成年としてそのような状況に遭遇するのとでは、決定的な違いがあるということです。上の「認識解像度」の話のように、IT関連の現象との類似で説明を試みると、パソコンの動作を本質的に狂わせる危険性のある悪質なウィルスが、 (多くのウィンドーズパソコンでは 「ただのデータ」の保管用に用意され ている)Dドライブに、まさに「ただの、とある抽象的なデータ」として取り込まれる(=「成人として遭遇」に対応)のと、 (多くのウィンドーズパソコンでは オペレーティングシステム(OS)が 収容されている)Cドライブに取り込まれる(=「未成年として遭遇」に対応)のが全然違うのと似たような現象であるように思います。つまり、どんなに悪質で強烈な破壊力のあるウィルスであろうと、「ただのデータ」としてDドライブに取り込まれても、パソコンにとっては「痛くも痒くもない」、あくまでも「ただの、とある抽象的なデータ」に過ぎないわけですが、Cドライブに取り込まれて「やりたい放題」な状況でOSに直接作用し得るような事態が発生すると、パソコンの動作は非常に不安定な状態に陥ったり、場合によっては、パソコンそのものが簡単に、呆気なく破壊されてしまいます。旅行等に対する私の拒絶反応のある側面も、まさにこの「Cドライブ・Dドライブ」の類似を通して理解することが可能であるように思います。
2017.11.14
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