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大東亜共栄圏については、まだ輪郭くらいしか分かっていませんが、朝鮮出兵についてこの本にかなり詳しい説明がありました。
豊臣秀吉の朝鮮侵略、いわゆる「唐入り」の理由については諸説がある。
第一は秀吉は日明勘合貿易の復活を要求したという説だ。
朝鮮を通じて明の国に紹介させ、室町時代の勘合(符)の制を復活して、官船商舶の往来を開かそうとしたものだろうという。
第二は秀吉の功名心による海外征服説だ。
自分の名を唐・天竺まで広めたかったというのだ。
「予の願いは他に無く、只、佳名を三国(日本・明・朝鮮)に顕すのみ」と朝鮮王国に書いた文章がその論拠になっている。
第三は秀吉の領土拡張説である。
これは天正二十年五月首都漢城(ソウル)陥落した時、秀吉が明・朝鮮を含めた征服地国割り方針を出した事を論拠としている。
第四は秀吉の専制的な性格にその理由を求める説だ。
日本国内における土一揆以来の農民の力をはぐらかそうとする封建領土の望みと、ポルトガルの商業資本に対抗しようとする日本の豪商の要求の上に乗って、秀吉自身が専制化し、その鉾先を近隣諸国に向けたというのだ。
どの説にも相応の論拠があり、もっとものように聞こえる。
秀吉がこのような考え方を持つに至った時期は、一番古い記録が天正十三年からあるという。天正十四年には対馬の宗議調に、朝鮮王国を日本の内裏へ参洛させるように命じている。つまりは日本への服属させようというのだ。
ここには、秀吉の事実に対する大きな誤認がある。秀吉は朝鮮が対馬に服属しているものと信じていたのだ。事実は全く逆で、朝鮮側では対馬が朝鮮の属島だと思っていた。
これらの説では、なんとなく納得がいきません。
戦国も末期とはいえ、まだ国内が非常に不安定な時期に、わざわざ未知の世界に出兵を考えるでしょうか?
私には、秀吉がどうしても朝鮮に出兵しなければならない事情が有ったとしか思えないのです。
秀吉は、成り上がり者でした。
信長や家康は、もともと確乎とした地盤の上に成り立っておりました。
そして、その地盤の上ではじめて信長はカリスマ性で、家康は指導力で勢力を伸ばしてきたように思います。
しかし、何も地盤のない秀吉は利で各武将を引きつけたように見受けられます。
当時の武将達は、それぞれ強大な軍事力を誇り独立していました。それらの武将達を率いるために秀吉は、過分の報償を与え続けたようです。対する家康の家臣に対する報償は微々たるものでした。それは、性格によるものではなく、もともとの地盤に起因しているのだと私は考えます。
秀吉は、過分の報償を与え続ける必要があった。
そして自分が天下をとった時、戦争がなくなり、報償を与え続ける事ができなくなったとき、彼はその目を日本以外に向けるしかなかったのではないでしょうか。
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