2012年12月19日
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カテゴリ: 萩市周辺観光情報
旧益田家物見矢倉(きゅうますだけものみやぐら)


 武器を収納する倉を矢倉といい、天井が高く見張り台も兼ねたものは物見矢倉と呼ばれました。北の総門からの人の出入りを見張る隠密対策としての機能があり、平安古の総門には児玉家、中の総門には大野毛利家の隅矢倉があります。(大野毛利家の隅矢倉は、萩博物館の建物として復元されました)


 益田氏は藤原北家の流れで、永久2年(1114)に藤原定通(国兼)が石見の国司として下向、石見国上府(浜田市)の御神本に土着し御神本国兼と改める。建久年間(1190~1199)兼高のときに西石見の益田荘に移り益田氏を称した。この頃の益田氏は、石見益田を本拠とする国人領主で、戦国末期には周防の大内氏に属し、各地を転戦して領地を拡大。大内氏滅亡後、毛利氏に髄属、引き続き益田を領していたが、関ヶ原の役後は石見境にあたる長門の国須佐に入部。周防・長門2ヵ国に減封された毛利家の藩政の樹立や家臣団の編成に功績が多く、江戸中期の当主・元道は本拠地の須佐に郷校「育英館」を構築し教育振興に功があった。幕末、当職・当役となった右衛門介親施は禁門の変後、福原、国司両家老とともに徳山に幽閉され切腹を命じられた。関ヶ原に敗れた後、益田元祥の下に家康が使いを出し、石見銀山があったことから、石見の領地をそのままにすることを条件に徳川家の家臣になることを勧めた。しかし、元祥はこれを固く断り、これを聞いた輝元は大いに感激し、以後、永代家老として益田氏を優遇したという。


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最終更新日  2012年12月19日 18時02分44秒
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