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福沢諭吉は朝鮮の近代化に力を貸し、時には自分の命を危険にさらしても、朝鮮の近代化を支援しようとしたにもかかわらず、裏切られ続けることになりました。「脱亜論」というのは、支援し続けているにもかかわらず、一向に近代化する気配すらない朝鮮に対する福沢諭吉の諦め、いわば敗北宣言のようなものです。では、福沢諭吉の「脱亜論」の中身に入っていきましょう。①昔に比べて交通の便が非常によくなり、世界中いたるところに白人の力が及んでいる。しかし、これは白人の人格が昔に比べて素晴らしくなったということではない。近代文明の力である。もし、日本が近代化を嫌がって幕府のままでいたなら、白人によって植民地にされていたであろう。しかし、日本人は、日本がなくなってしまっては幕府もくそもないってことで、天皇陛下の権威によって新政府を立て近代化を実現することができた。しかし、不幸なことに日本には、中国と朝鮮という隣国がある。二国とも日本と同じように東アジアに属している。しかし、人種の違いか、教育の違いか分からないが、日本との考え方は余りにも違いすぎる。②近代文明の脅威を知ったにもかかわらず、過去にこだわり続ける中国や朝鮮は、千年前と変わらない。弱ければ侵略されるこの時代に、教育と言えば儒教にこだわっている。しかも儒教道徳は知識だけで行動が伴っていない。道徳?何それおいしいの?ってレベル。現実を見れば彼らの言うことに科学的根拠はなく、国際法は平気で無視する。そればかりか、自分のことは棚に上げ、国際的な場で、「すべてお前が悪い。俺は悪くない」と開き直り、責任を他者に押し付けるだけで、反省などまったくしないから進歩がない。私が思うに、日本の明治維新のように改革の志士が現れて、政治と国民の考え方を根本から変えるような奇跡が起こらない限り、独立を維持することは不可能である。おそらく、数年の内に白人たちによって侵略されていくだろう。③こんな状況の中国・朝鮮は日本の安全保障のためには何の役にも立たない。それだけでなく、白人の目から見れば、日本は中国・朝鮮に近いというだけの理由で、彼らと同じように見られてしまう危険すらある。彼らが独裁国家であれば日本もそう思われ、彼らが平気で国際法を破れば、日本も似たようなことをすると思われてしまう。このことが日本外交の障害になったことも多い。だから、日本は中国・朝鮮が国際常識を身につけ、ともにアジアを発展させていけるなどという幻想は捨てるべきである。むしろ、彼らから離れ、先進国としての歩みを始めなければ生き残れない。彼らに対しては、隣国だからと特別扱いするのではなく、国際法に則って接するべきである。悪人と仲良くする人は、傍から見れば同じ悪人である。私は東アジアの悪友とはもう関わるべきではないと思う。(ここまで「脱亜論」)どうですか、何と130年も前に書かれたものですよ。今も通じるところがありますよね。まあ、逆に言うと彼らは130年前から何も変わっていないということになるのですけどね。 やまとこたろうランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。↓ ↓にほんブログ村
2025.01.30
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『正法眼蔵』原文〕しかあれども、想料すらくは、玄砂おろかに転法輪は説法輪ならんと会取エシュせるか。もししかあらば、なほ雪峰の道ドウにくらし。火焔の三世諸仏のために説法のとき、三世諸仏立地聴法すとはしれりといへども、火焔転法輪のところに、火焔立地聴法すとしらず。火焔転法輪のところに、火焔同転法輪すといはず。三世諸仏の聴法は、諸仏の法なり、他よりかうぶらしむるにあらず。火焔を法と認ずることなかれ、火焔を仏と認ずることなかれ、火焔を火焔と認ずることなかれ。まことに師資の道ドウなほざりなるべからず。将謂赤鬚胡ショウイシャクシュコのみならんや、さらにこれ胡鬚赤コシュシャクなり。〔抄私訳〕「しかあれども、想料すらくは、玄砂おろかに転法輪は説法輪ならんと会取せるか。もししかあらば、なほ雪峰の道にくらし」とある。これは、「転法輪」は「転法輪」であり、「説法」は「説法」であるということである。「転法輪」を「説法」だと玄砂が理解すれば、「雪峰の道にくらし」と言うのである。普通は、「転法輪」と「説法」は違いがない。それなら、どうしてこのように玄砂は理解するのか、気がかりに思われるが、何度も、ただ玄砂と雪峰の言葉を食い違うようにして言おうという意図である。だから、「転法輪」を「説法」と理解したら、「雪峰の道にくらし」と言うのである。本当のところは、決して理が行く所が分からないのではないのである。「火焔の三世諸仏のために説法のとき、三世諸仏立地聴法すとはしれりといへども、火焔転法輪のところに、火焔立地聴法すとしらず。火焔転法輪のところに、火焔同転法輪すといはず。三世諸仏の聴法は、諸仏の法なり、他よりかうぶらしむるにあらず」とある。これは、玄砂の言葉で言わない言葉を取り出して、「しらず」「いはず」などと言うのである。雪峰の言葉の理の通じる所を、この文面にない言葉などを道元禅師が取り出し書き出されているのである。なしと言ってもみなこの言葉はあるのである。確かに「三世諸仏の聴法は、諸仏の法なり、他よりかうぶらしむるにあらず」という意味は明らかになるのである。「火焔を法と認ずることなかれ、火焔を仏と認ずることなかれ、火焔を火焔と認ずることなかれ」とある。確かに、一途に「火焔」とも決められない。今の「火焔」は、「三世諸仏」であるのか、「転法輪」であるのか、「説法」であるのか、いずれとも決め難い道理である。「火焔を火焔と認ずることなかれ」という言葉は、悪くはないが、「火焔を火焔」と誰が認めるのか、はっきりしない。今の「火焔」のすがたは、「仏」でも「法」でも「火焔」でもある時、「火焔」だけに留まらない意なのである。「まことに師資の道なほざりなるべからず。将謂赤鬚胡のみならんや、さらにこれ胡鬚赤なり」とある。雪峰と玄砂の言葉を、裏返し混ぜ合わせて間違えずに言おうという考えであると思われるので、ここでは師弟の言葉をなおざりにしてはならない。「将謂赤鬚胡のみならんや、さらにこれ胡鬚赤なり」と言われるのは、ずっと師弟の言葉は違わず、同じ道理である証拠がはっきりしているのである。ただしばらくものの見方が悪くなるであろう所を示されるのである。〔『正法眼蔵』〕私訳〕そうであるが、想い料れば、玄砂はいい加減に転法輪は説法輪であろうと理解しているのであろうか。(しかあれども、想料すらくは、玄砂おろかに転法輪は説法輪ならんと会取せるか。)もしそうならば、まだ雪峰の言葉がよく分かっていないのである。(もししかあらば、なほ雪峰の道にくらし。)火焔が三世の諸仏のために法を説くとき、三世の諸仏が地に立って法を聴くことは知っていても、火焔が法輪を転ずるところで、火焔が地に立って法を聴くということを知らないのである。(火焔の三世諸仏のために説法のとき、三世諸仏立地聴法すとはしれりといへども、火焔転法輪のところに、火焔立地聴法すとしらず。)火焔が法輪を転ずるところで、火焔が同じく法輪を転ずるとは言わないのである。(火焔転法輪のところに、火焔同転法輪すといはず。)〔この「しらず」「いはず」は参究の語である。玄砂の言わなかったところをずんずん指摘して言われる。火焔と転法輪と異にして同、同にして異なるところをずんずん言われるのである。〕三世の諸仏が法を聴くのは、諸仏の法を聴くのであり、ほかから聴かされるのではないのである。(三世諸仏の聴法は、諸仏の法なり、他よりかうぶらしむるにあらず。)〔自分の説法だから自分が聴くのである。〕火焔を法と認めてはいけないし、火焔を仏と認めてもいけない、火焔を火焔と認めてもいけない。(火焔を法と認ずることなかれ、火焔を仏と認ずることなかれ、火焔を火焔と認ずることなかれ。)〔認めればみな執着になる。〕誠にこの師弟の言葉を、なおざりにしてはならないのである。(まことに師資の道なほざりなるべからず。)赤ひげの西域人だと思ったら、その上に西域人のひげは赤かったのである。(将謂赤鬚胡のみならんや、さらにこれ胡鬚赤なり。)〔師弟の師勝資強のところをこのように言われるのである。〕 合掌ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村ではないのである〕
2025.01.30
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〔『正法眼蔵』原文〕 玄砂の道ドウに、「火焔カエン為イ三世諸仏説法、三世諸仏立地聴リッチチョウ」といふ、これは火焔たとひ「為三世諸仏説法」すとも、いまだ転法輪すといはず、又三世諸仏の法輪を転ずといはず。三世諸仏は立地聴すとも、三世諸仏の法輪、いかでか火焔これを転ずることあらん。為三世諸仏説法する火焔、又転大法輪すやいなや。玄砂もいまだいはず、転法輪はこのときなりと。転法輪なしといはず。〔抄私訳〕「玄砂の道に、「火焔為三世諸仏説法、三世諸仏立地聴」といふ」(以下略)、とある。玄砂は、「火焔」(たった今)の「説法」を「三世諸仏は地に立って聴く」と言っている。確かに、火焔が三世諸仏の為に説法しても、まだ法輪を転じるとは言わない。言わないからといって、この理が欠けているのではないが、ただ、雪峰は雪峰の言葉として動かさず、玄砂は玄砂の言葉を変えずに置くという、しばらくの義である。始めから終わりまで、まったく言葉も考えも矛盾する義ではないのである。「三世諸仏の法輪、いかでか火焔これを転ずることあらん」とは、「三世諸仏の法輪」を「三世諸仏の法輪」として置き、「三世諸仏の法輪」を「火焔」が「転ずる」ということを、しばらく言うまいという意味合いである。つまるところ、「火焔」と「三世諸仏」と「説法」とはそれぞれ別であるように思われ、「火焔裏」で「三世諸仏」が「説法」されるように思われるところを、いずれも別々にすべきものではない道理を、表そうとするほどの意味合いである。「為三世諸仏説法する火焔、又転大法輪すやいなや」とある。今の「三世諸仏の為に説法する火焔、又転大法輪すやいなや」と受けられるのは、「火焔」が「説法」すると玄砂が言われる所を、動かさずないでおいて、「転大法輪」という言葉を雪峰の言葉にいわせておこうという道理の一筋である。また、「火焔」が「又転大法輪」である道理もあるので、「又転大法輪すやいなや」と受けられるのである。落ち着く所はただ同じことである。今の文面だけは、まずこのような考えを見失わないで書かれていると心得るべきである。結局、違わないのである。「玄砂もいまだいはず、転法輪はこのときなりと。転法輪なしといはず」とある。これは前に言ったように、雪峰は「転大法輪」と言い、玄砂は「説法」と言う時に、「転法輪」の言葉を雪峰に持たせ、「説法」の言葉を玄砂に負わせるという義である。そうであるから、たしかに玄砂の「転法輪はこのときなり」とも、また「転法輪なし」とも言わない所をこのように釈されるのである。〔『正法眼蔵』〕私訳〕 玄砂は、「火焔が三世の諸仏のために法を説くと、三世の諸仏は地に立って聴く」と言う。(玄砂の道に、火焔為三世諸仏説法、三世諸仏立地聴といふ、)これは火焔(たった今)がたとえ三世の諸仏(たった今に住む人)のために法(たった今)を説いても、まだ転法輪すると言わず、また三世の諸仏が法輪を転ずるとも言わない。(これは火焔たとひ為三世諸仏説法すとも、いまだ転法輪すといはず、また三世諸仏の法輪を転ずといはず。)三世の諸仏が地に立って聴くといっても、三世の諸仏の法輪を、どうして火焔が転ずることがあろうか。(三世諸仏は立地聴すとも、三世諸仏の法輪、いかでか火焔これを転ずることあらん。)三世の諸仏のために法を説く火焔が、また大法輪を転ずるかどうか。(為三世諸仏説法する火焔、又転大法輪すやいなや。)玄砂もまだ、転法輪はこの時であると言わない。(玄砂もいまだいはず、転法輪はこのときなりと。)また転法輪はないとも言わない。(転法輪なしといはず。) 合掌ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
2025.01.28
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『正法眼蔵』原文〕 雪峰の「在火焔裏、転大法輪」、かならず委悉に参学すべし。玄砂の道ドウに混乱することなかれ。雪峰の道を通ずるは、仏威儀を威儀するなり。火焔の三世諸仏を在裏せしむる、一無尽法界・二無尽法界の周遍のみにあらず。一微塵・二微塵の通達のみにあらず。転大法輪を量として、大小広狹の量に擬することなかれ。転大法輪は、為自為他にあらず、為説為聴にあらず。〔抄私訳〕「雪峰の「在火焔裏、転大法輪」、かならず委悉に参学すべし。玄砂の道ドウに混乱することなかれ」とある。雪峰の「三世の諸仏は火焔(たった今)の中に在って大法輪を転ず」という言葉は不足していて、言うべきことを言い尽くしていない言葉ではないというのである。つまるところ、雪峰の言葉に、残る理がないところを表す意味合いである。だから、彼の言葉を「かならず委悉に参学すべし」と言うのである。「雪峰の道を通ずるは、仏威儀を威儀するなり」とある。雪峰と仏と皮肉骨髄(全身心)が通じる理は、本当に「仏威儀」(たった今の在り様)を威儀する(行ずる)」道理なのである。「火焔の三世諸仏を在裏せしむる」とは、広狹多少の論を超越するのであるから、これは彼と同じものとして言うのではない。だから「大小広狹の量に擬することなかれ」と言うのである。「転大法輪は、為自為他にあらず、為説為聴にあらず」とある。「転大法輪」(たった今の在り様を転じる)のすがたは、自他のためではなく、説も聴に対するものではなく、「転法輪」の独立のすがたである。〔『正法眼蔵』〕私訳〕 雪峰の「三世の諸仏(たった今に住む人)は火焔(たった今)の中で、大法輪(たった今の在り様)を転ずる」ということを、必ず詳しく学ぶべきである。(雪峰の在火焔裏、転大法輪、かならず委悉に参学すべし。)玄砂の「三世の諸仏は説法(たった今を説く)するに、聴法(たった今を聴く)す」という言葉と混同してはならない。(玄砂の道に混乱することなかれ。)雪峰の言葉をわが物とするとは、仏威儀(たった今の在り様)を威儀する(行ずる)ことである(行仏威儀を行じることである)。(雪峰の道を通ずるは、仏威儀を威儀するなり。)火焔(たった今)が三世の諸仏(たった今に住んでいる人)をその中に在らしめるのは、火焔(たった今)は一無限世界(マクロコスモス)、一無限世界に遍く行き渡るだけではない。一微塵(ミクロコスモス)、一微塵に通達するだけでもないのである。(火焔の三世諸仏を在裏せしむる、一無尽法界、二無尽法界の周遍のみにあらず。一微塵二微塵の通達のみにあらず。)ただ仏の法(たった今)を転じることを量りとし、大小広狹の量りにたとえてはならない。(転大法輪を量として、大小広狹の量に擬することなかれ。)仏の法(たった今)を転じることは、自分の為でも他者の為でもなく、説く為でも聴く為でもないのである。(転大法輪は、為自為他にあらず、為説為聴にあらず。) 合掌ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
2025.01.26
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『正法眼蔵』原文〕「転法輪」といひ、「転大法輪」といふ、その別あるか。転法輪は説法にあらず、説法かならずしも為他あらんや。しかあれば、雪峰の道の、道取すべき道を道取しつくさざる道にあらず。〔抄私訳〕「転法輪といひ、転大法輪といふ、その別あるか」とある。これは、「転法輪」「転大法輪」とある。「説法」は玄砂の言葉で、「転大法輪」は雪峰の言葉であるから、「説法輪」と「転大法輪」と言うとあるべきだが、ともに「転法輪」「転大法輪」とあるのは不審である。だから、原本には「転法輪」の傍に「説歟」と付いているのである。説と転は、ずっと違うのではないが、雪峰と玄砂の言葉をしばらく「別ある」と言われるからにはこの言葉は疑問である。「転法輪は説法にあらず、説法かならずしも為他あらんや」とある。雪峰は「転大法輪」と言われ、玄砂は「説法」と示される。しばらく「法輪」を「法輪」として置き、「説法」を「説法」として置くという一応の考えである。だからといって、ずっと違うのではない。これは、間違いなく「説法」は口業クゴウのはたらきであり、上の聖人が下の者に受けさせるものと思うのは、凡夫の妄見(間違った考え)である。「説法」のすがたが、他の為でない道理が明らかである。〔聞書私訳〕/「転法輪といひ、転大法輪といふ、その別あるか」とは、同も別も二つの義があろう。そのわけは、大乗を説くのは「大転法輪」と言うからである。「転法輪」とは、仏の金口より出ることは「法輪」であり、小乗も説く仏法東漸トウゼン(仏法が次第に東方に伝わったこと)ということがあり、仏法がインドより伝わって始まったことは、『四十二章経』(最初の漢訳経典)にある。これは、小乗の経であるが仏法東漸と言い、天台の初心の論議(意義を論じること)である。〔『正法眼蔵』私訳〕〔玄砂は火焔が三世の諸仏のために〕説法(転法輪)すると言い、〔雪峰は三世の諸仏が火焔の中にあって〕大法輪を転ずると言うが、両方の言い分に違いはあるか。(転法輪といひ、転大法輪といふ、その別あるか。)〔自問自答だ。〕転法輪(たった今の在り様を転じる)は説法だけではない、説法は必ずしも他のためにするだけではない。(転法輪は説法にあらず、説法かならずしも為他あらんや。)〔坐禅、礼拝、念仏、喫茶喫飯、あらゆる行住坐臥はみな転法輪(たった今の在り様を転じる)だから、説法だけに限らない。〕そうであるから、「三世の諸仏は火焔の中に在って大法輪を転ず」という雪峰の言葉は、言うべきことを言い尽くしていない言葉ではないのである。(しかあれば、雪峰の道の、道取すべき道を道取しつくさざる道にあらず。) 合掌ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村『第六行仏威儀』第二十六段③〔転法輪(たった今の在り様を転じる)は説法だけではない〕
2025.01.24
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〔『正法眼蔵』原文〕雪峰の道、まさしく転法を道取すれども、転法の処在かならずしも聴法不聴を論ずるにあらず。しかあれば、転法にかならず聴法あるべしときこえず。又、「三世諸仏、為火焔説法」といはず、「三世諸仏、為三世諸仏、転大法輪と」いはず、「火焔為火焔、転大法輪」といはざる宗旨シュウシあるべし。〔抄私訳〕「雪峰の道、まさしく転法を道取すれども、転法の処在かならずしも聴法不聴法を論ずるにあらず。しかあれば、転法にかならず聴法あるべしときこえず。」とある。これは確かに、雪峰の言葉ではただ三世諸仏が火焔の中で説法するとだけ言い、「聴法不聴法を論ずるに」及ばないから、このように言うのである。だからといって、雪峰の言葉に「聴法不聴法」の言葉がないからといって、決して正しくないと言うのではないのである。確かに、三世諸仏の説法のすがたには法を聴く人がまったくないから、「聴法不聴法を論ずるにあらず」と言うのである。先ず「雪峰の道」の一筋はこのように心得ておくべきである。「転法」の道理は、必ずしも法を聴く人がいなければならないと言うのではないのである。「又、三世諸仏、為火焔説法といはず、三世諸仏、為三世諸仏、転大法輪といはず、火焔為火焔、転大法輪といはざる宗旨あるべし。」とある。これは、「いはず、いはず」は例の道元禅師が替わって雪峰の言葉にない所を、「いはず」と述べられるのである。これは雪峰の「三世諸仏は火焔裏に在って大法輪を転ず」という言葉の理の通じる所を重ねて述べられるのである。決して雪峰がこの道理を知らず、この言葉にこの道理が不足しているというのではないのである。少なくとも雪峰の言葉が甚だ深く解脱している道理を受けてこのように言われるのだと心得るべきである。また、決着をつける言葉に「いはざる宗旨あるべし」とある。雪峰にこの道理がなければ、ただ言わず知らずといって収まるところを、「いはざる宗旨あるべし」と言うので、雪峰の言葉にこの道理があるということが知られるのである。〔聞書私訳〕/「行仏」(たった今を行ずる人)は一切の諸仏(思いの中ではなく、たった今に住んでいる人)であり、「三世諸仏」であり、十方諸仏であり、三世でないものはないと、このように説き尽くすのである、とあるので、説き尽くすからには、何も残らないのである。しばらく「いはざる宗旨」とあるけれど、実際は、言い残さない所を、「いはざる宗旨あるべし」と言うのである。〔『正法眼蔵』私訳〕雪峰の言葉は、確かに法を転ずることを言うけれど、法(たった今の在り様)を転ずる処に必ずしも法を聴くことがあるのかないのかを論ずるに及んでいない。(雪峰の道、まさしく転法を道取すれども、転法の処在かならずしも聴法不聴を論ずるにあらず。)だから、法を転ずるところに必ず法を聴くことがあるとは言わないのである。(しかあれば、転法にかならず聴法あるべしときこえず。)また、「三世の諸仏が火焔のために説法する」と言わず、「三世の諸仏が三世の諸仏のために大法輪を転ずる」と言わず、「火焔が火焔のために大法輪を転ずる」と言わない主旨があるのである。(又、三世諸仏、為火焔説法といはず、三世諸仏、為三世諸仏、転大法輪といはず、火焔為火焔、転大法輪といはざる宗旨あるべし。) 合掌ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
2025.01.22
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明治8年日本は朝鮮と日朝修好条規を結び、朝鮮の独立と近代化を日本が支援していくことを以前述べました(詳しくは、26-4.明治外交に学ぶ外交姿勢)。今回はその続きです。①日本と国交を結んだ朝鮮では、一部に、日本の近代化を見て、朝鮮もこうならなければならないと本気で考え、独立と近代化を目指した、いわゆる改革派の人たちが出てきました。金玉均キンギョクキンが有名ですね。ただ、そこは朝鮮ですから、今も昔も親日派は少数派であり、悲惨な死を遂げるか、裏切るという傾向があるのですよ、悲しいことに。②まず、李氏朝鮮王に代わり朝鮮を牛耳った独裁王妃の閔妃ミンピが、西洋列強に対する防衛力を強化する必要を強く感じ、明治15年に日本の支援を得て軍政改革をやったんですね。そうすると、軍隊を新しくするからそれまでいた人たちは失業してしまうわけです。それに目をつけた大院君(閔妃の父)が、自分がトップに立つために、その失業した兵士たちを焚きつけて、クーデターを起こすわけです。その結果、日本公使館は焼き討ち、日本人外交官を殺しまくるというとんでもないことをやってのけました。こんなことをされたら、今も昔も戦争ですよ、普通は。しかし、当時の日本は朝鮮に早く近代化してほしいわけです。だから、仏の心でこれを許します。賠償金は10年がかりで払うことにな、最初の2年分は対応にかかった費用としてもらうのですが、残りの8年分は朝鮮の近代化のために役立ててくれ、ということでもらわなかったのです。それだけじゃなくて、軍艦と大砲まで与えて支援しているのですよ。ところが、助けてもらった閔妃は改革を諦め、清国に近づいていきます。まあ、閔妃にしたら、大院君に勝てさえすれば後は何でもいいといったところですよね。きっと彼らにとって、助けてもらうことは当たり前で、恩を返すという考え方はないのでしょうね。③で、2年後です。金玉均を中心として、やっぱり朝鮮も近代化しなければ駄目だという人たちが現れてクーデターを起こします。すると、閔妃は清国に泣きついてこれを鎮圧してもらうわけです。結果、日本公使館はまたしても焼き討ち、首謀者の金玉均は日本に亡命して、福沢諭吉にかくまってもらうことになります。しかし、「自分が日本にいては、朝鮮の近代化は永遠に望めない」ということで、自ら朝鮮に戻ってしまいます。結果、惨殺されて、死体をソウルにさらされることになってしまいます。④この後、公使館焼き討ちの落とし前として賠償金を支払わせ、裏にいた清国とは天津条約を結ぶことになります。天津条約というのは、今後清国や日本が朝鮮に出兵するときは、事前にお互いに通告しましょう、という約束です。要するに、清国も日本も朝鮮の内紛に巻き込まれて迷惑していたのですよ。北隣には、日清朝が束になっても叶わないであろう強国ロシアが、どんどん南下してきているのに、こんなことやってられないぞということで、緩衝地帯に取り敢えず朝鮮をしておこうということになったわけですね。⑤そんな状況で朝鮮は、日本も清国も頼れない状況になるかもしれない、じゃあどうしようということで、自分たちが強くなろうとは考えずに、今度はロシアに媚を売り始め、東アジアの緊張をさらに高めてしまいます。強い方へ強い方へと媚びていくわけです(事大主義)。他力本願もここまでくると清々しいですよ。後に解説しますが、日清戦争で日本が勝つと日本になびき、ロシアによる三国干渉によりロシアになびき、日露戦争で日本が勝つと、日本にすりよってきますからね。そのくせ、日本のことは馬鹿にし続け、今でも自分たちは世界の中心だと思っていますからね。本当に、歴史を直視せよ!という話ですよ。やまとこたろうランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。↓ ↓にほんブログ村
2025.01.21
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『正法眼蔵』原文〕 玄砂ゲンシャいはく、「火焔の三世諸仏のために説法するに、三世諸仏は立地聴法す」。この道をきゝて、玄砂の道は雪峰の道よりも道得是ドウトクゼなりといふ、かならずしもしかあらざるなり。しるべし、雪峰の道は、玄砂の道と別なり。いはゆる雪峰は、三世諸仏の転大法輪の処在を道取し、玄砂は、三世諸仏の聴法を道取するなり。〔抄私訳〕「玄砂いはく、「火焔の三世諸仏のために説法するに、三世諸仏は立地聴法す」。この道をきゝて、玄砂の道は雪峰の道よりも道得是ドウトクゼなりといふ、かならずしもしかあらざるなり。しるべし、雪峰の道は、玄砂の道と別なり。いはゆる雪峰は、三世諸仏の転大法輪の処在を道取し、玄砂は、三世諸仏の聴法を道取するなり」とある。雪峰は、火焔(たった今)を道場とし三世の諸仏(思いの中ではなく、たった今に住んでいる人)が大法輪(たった今の在り様)を転ずる(変化させる)と言い、玄砂は、火焔の説法を三世の諸仏が聴く衆とする所が、抜群の言葉と思われる。したがって、「玄砂の道は雪峰の道よりも道得是なりといふ」とあるが、この義はそういうことではなく、玄砂の言葉が大いに響く所をこのように言うのである。決して浅深勝劣があるはずがない言葉と心得るべきである。雪峰は、火焔の中で三世諸仏が大法輪を転じるのであり、玄砂は、三世の諸仏が聴くものとして火焔(たった今)が説法する(たった今の在り様を説く)のである。これをしばらく「雪峰の道は、玄砂の道と別なり」と言うのであるが、ただ同じ言葉、同じ意なのである。〔聞書私訳〕/「玄砂院宗一大師いはく、「火焔の三世諸仏のために説法するに、三世諸仏は立地聴法す」とある。/仏の出世に必ずしも説法する所はない。説くものと説かれるものを言わず、常説法を聴聞に替えるのである。〔『正法眼蔵』私訳〕 玄砂は言う、「火焔(たった今)が三世の諸仏(思いの中ではなく、たった今に住んでいる人のために法(たった今の在り様)を説くと、三世の諸仏は地に立って法(たった今の在り様)を聴く」。(玄砂いはく、「火焔の三世諸仏のために説法するに、三世諸仏は立地聴法す」。)この言葉を聞いて、玄砂の言葉は雪峰の言葉よりも勝れていると言う者がいるが、必ずしもそうではない。(この道をききて、玄沙の道は雪峰の道よりも道得是なりといふ、かならずしもしかあらざるなり。)知るべきである、雪峰の言葉は、玄砂の言葉とは別である。(しるべし、雪峰の道は、玄沙の道と別なり。)雪峰は、三世の諸仏が大法輪(たった今の在り様)を転ずる(変化させる)処を言い、玄砂は、三世の諸仏が法(たった今の在り様)を聴くことを言うのである。(いはゆる雪峰は、三世諸仏の転大法輪の処在を道取し、玄沙は、三世諸仏の聴法を道取するなり。) 合掌ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
2025.01.20
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『第六行仏威儀』第二十五段〔たった今(火焔)はたった今に住んでいる人(諸仏)がたった今の在り様を他の状態に変化させる(転大法輪する)道場である〕
2025.01.18
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聞書私訳〕/「転法(法と転じる)・法転(法が転じる)」とは、能所(主客)のない義であり、理として説くのである。〔『正法眼蔵』私訳〕知らなければいけない、諸仏の火焔(たった今)は世間の人が言う火焔ではない。(しるべし、諸仏の火焔は諸類の火焔なるべからず。)また、世間の人が言う火焔はあるかないかとも、注意を払って一つ一つ確かめるべきである。(又、諸類は火焔あるかなきかとも照顧すべし。)三世の諸仏(自分という刷り込みがなくなった人)が火焔(たった今)の中で衆生を教化した方便を、学ぶべきである。(三世諸仏の在火焔裏の化儀、ならふべし。)火焔(たった今)にいる時は、火焔(たった今)と諸仏(自分という刷り込みがなくなった人)は親切であるか、かえって疎遠であるか。(火焔裏に処在する時は、火焔と諸仏と親切なるか、転疎なるか。)〔これ以下も参究の言葉である。〕火焔(たった今)の環境と仏(自分という刷り込みがなくなった人)の身体とは一体であるか、火焔の環境と仏の身体とは別であるか。(依正一如なるか、依報正報あるか。)環境と身体とは一続きか、環境と身体とは隔たっているか。(依正同条なるか、依正同隔なるか。)法輪(真実の在り様)を転ずることは、自己を転じ他者を転ずることである。(転大法輪は転自転機あるべし。)学人が自己の境地を述べるのは法(真実の在り様)を転ずることであり、師が弟子の心境に応じて教えを垂れるのは法が転ずることである。(展事投機なり、転法法転あるべし。)すでに法輪(真実の在り様)を転ずると言うからには、たとえ全大地が尽く火焔(たった今)であっても、火焔を転ずる法輪もあろう、諸仏を転ずる法輪もあろう、法輪を転ずる法輪もあろう、三世を転ずる法輪もあろう。(すでに転法輪といふ、たとひ尽大地これ尽火焔なりとも、転火輪の法輪あるべし、転諸仏の法輪あるべし、転法輪の法輪あるべし、転三世の法輪あるべし。)〔我々のたった今はみな真実の在り様を転ずるのである。だからどこでも真実の在り様が転じられるのであり、これが行仏(たった今を行ずること)なのである。〕 合掌ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
2025.01.16
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①当時の世界で最も民主的な憲法を作った結果、ドイツの憲法学者シュタイン教授などが心配していた通り、日本の政治に大混乱が起きることになりました。その中身について見ていきましょう。当時の状況としては、税収を安定させ、近代化を実現し、西欧列強の侵略から日本を守っていこうとする吏党、今で言う与党と、ある程度お金を持っている国民を支持層とした民党、今で言う野党があってそれらが争っていたわけです。当時の日本というのは、自虐史観(自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価し、自国を貶める歴史観)の人たちに言わせれば、天皇独裁国家ですから、当然警察権力を使って与党が圧勝したはずですよね。では、結果を見てみましょう。②第一回衆議院議員総選挙:明治23年7月施行、投票率93.9%。 吏党(与党)84、民党(野党)171、無所属45、合計300。あれあれ、野党が圧勝していますよ。自由のない独裁国家のはずなのに、不思議ですよね。当時は、政党内閣制(総選挙で勝った政党が内閣を組織する)にまだ移行していませんでしたので、少数与党が内閣を組織するわけですが、予算がまったく通らず、政治が回らないという苦境に陥ります。そこで、困った与党は、第一回帝国議会では、数が倍いる野党の議員に対して、なんとか予算を通すため賄賂を贈るわけですね。後にも先にもこれ以上ない大規模な買収工作を行って、なんとか予算を通します。③続く第二回帝国議会ではどうなったか。シナやロシアの脅威がそこまで迫って来ているのに、野党の議員が軍艦建造費の予算を通さないわけです。予算通して欲しければ、また金よこせというような野党の態度に、海軍大臣がブチ切れます。「日本が近代化して独立国でいられるのは、軍のおかげだろうが。ちっとは俺達に協力しろ。馬鹿野郎!」というようなことを議会で言ってしまったわけです。これが原因で、衆議院は解散となってしまいます。④さあ、やって来ました、第二回総選挙。第一回総選挙で負けたら大変なことになるということを学習した与党は必死になります。また負けたら、予算が通らず、軍艦建造が出来ないということが繰り返されるので、警察権力を使って、大規模な選挙干渉を行います。結果としては、全国で死者25人を出してしまうという流血の惨事になってしまったのです。警察権力を使ってますから、これは与党勝利のはずですよね。では、結果はどうか。第二回総選挙、投票率91.6%。与党124、野党132、無所属44、合計300。あれれ、警察権力まで使ったのに、野党が勝利していますよ。こうなると、また予算が通らず、必要な国防力を持てず、日本が国家存亡の危機に陥ってしまうことになってしまいます。⑤ここで、最後の切り札として、天皇が登場してくることになります。天皇自らが「よし、分かった。そんなに野党がどうしても予算を通さないと言うのだったら、私も皇室予算を全部削るから、そのお金で必要な政策をやってほしい。」と言われ、「私も身を切るから、みなも私欲を捨てて国家・国民のために働いてほしい」ということを自らの姿勢で示されたわけです。これにより、ようやく野党も考え直し、「党利・党略を捨て、日本という国家・国民に必要な予算は通してやろう」ということになったわけです。天皇が命令したわけではありませんが、つまり、天皇に政治権力はないのですが、いざというときには影響力があるというしらす政治システムが機能しており、ありがたいことに、日本存亡の危機を乗り越えることができたわけですね。 やまとこたろうランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。↓ ↓にほんブログ村
2025.01.15
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〔『正法眼蔵』原文〕 しるべし、諸仏の火焔は諸類の火焔なるべからず。又、諸類は火焔あるかなきかとも照顧すべし。「三世諸仏」の「在火焔裏」の化儀ケギ、ならふべし。火焔裏に処在する時は、火焔と諸仏と親切なるか、転疎なるか。依正一如エショウイチニョなるか、依報正報エホウショウホウあるか。依正同条なるか、依正同隔なるか。「転大法輪」は転自転機あるべし。展事投機なり、転法・法転あるべし。すでに転法輪といふ、たとひ尽大地これ尽火焔なりとも、転法輪の法輪あるべし、転三世の法輪あるべし。〔抄私訳〕「しるべし、諸仏の火焔は諸類の火焔なるべからず。又、諸類は火焔あるかなきかとも照顧すべし。「三世諸仏」の「在火焔裏」の化儀、ならふべし」とある。本当に、「諸仏の火焔」と「諸類の火焔」は同じでないことは、明らかである。「諸類は火焔あるかなきかとも照顧すべし」とは、「諸類」は「火焔」があるとも言うことができ、「諸類」を「火焔」と取ることができるから「なきか」とも言うことができるのである。「諸類」に、「諸仏の火焔」は等しくないからである。「火焔裏に処在する時は、火焔と諸仏と親切なるか、転疎なるか。依正一如なるか、依報正報あるか。依正同条なるか、依正同隔なるか。「転大法輪」は転自転機あるべし。展事投機なり、転法・法転あるべし」とある。「火焔」(たった今)と「諸仏」(自分という刷り込みから自由になった人)は親密な義がある。「火焔」はすなわち「諸仏」、「諸仏」はすなわち「火焔」であるから、また「転疎なる」(かえって疎い)道理があるのである。「火焔」は「火焔」であり、「諸仏」は「諸仏」であるから、蔵身・露角・三界は、ただ心の大きな隔たりなどというのと同じ意である。また、「依正一如なるか」の言葉は、以下で「か」「か」と書かれるのは、例のいずれの義もあるということである。「すでに転法輪といふ、たとひ尽大地これ尽火焔なりとも、転火輪の法輪あるべし、転諸仏の法輪あるべし、転法輪の法輪あるべし、転三世の法輪あるべし」とある。これは、「尽大地」「尽火焔」の道理の上で、「転火輪」「転諸仏の法輪」「転三世の法輪あるべし」というのである。この上で、転生死・転迷悟・転衆生等の「法輪」があるのである。 合掌ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
2025.01.14
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〔『正法眼蔵』原文〕 しかあるに、三位の古仏、おなじく三世諸仏を道得するに、かくのごとくの道ドウあり。 しばらく雪峰のいふ「三世諸仏、在火焔裏、転大法輪」という、この道理ならふべし。三世諸仏の転法輪の道場は、かならず火焔裏なるべし。火焔裏かならず仏道場なるべし。経師論師キョウジロンジきくべからず、外道二乗しるべからず。〔抄私訳〕「しかあるに、三位の古仏、おなじく三世諸仏を道得するに、かくのごとくの道あり。」とある。「三位の古仏」とは、上に載せられた「雪峰」「玄砂」「圜悟」を指す。「雪峰」と弟子の「玄砂」はともに青原の流れである。「圜悟」は臨済の門流(一門)である。「しばらく雪峰のいふ「三世諸仏、在火焔裏、転大法輪」といふ、この道理ならふべし。三世諸仏の転法輪の道場は、かならず火焔裏なるべし。火焔裏かならず仏道場なるべし。経師論師きくべからず、外道二乗しるべからず。」とある。「火焔」を「道場」とし、「三世諸仏が転大法輪」すると言えば、「火焔」と「三世諸仏」が機(学人)を立て「法輪を転ずる」と理解し、三つのものを出しているように思われるが、そうではない。つまり、今の「火焔」「三世諸仏」「転大法輪」は、ただ同じものである。まったくこの三つのものは、片時も引き離されることがないからである。だから、「三世諸仏」を「道場」として「火焔」が説法するとも、「転大法輪」を「道場」として「三世諸仏」が説法するとも言うことができ、「火焔裏」だけに限らず、風裏、空裏とも言うことができるのである。そうではあるが、これらは四大五蘊(身心)にそなわるものではない。〔聞書私訳〕「しばらく雪峰のいふ「三世諸仏、在火焔裏、転大法輪」といふ、この道理ならふべし。三世諸仏の転法輪の道場は、かならず火焔裏なるべし。火焔裏かならず仏道場なるべし。経師論師きくべからず、外道二乗しるべからず。」とある。/「火焔裏」と「道場」は、説く者と説かれる所を立てる時は別であるが、今は所在も、説法も、仏も同じである上のことである。霊鷲山リョウジュゼン(仏陀が法華経等を説いた霊山)を仏のおられる処と言うのも、身土不二シンドフニ(身体と環境は一体である)の意なのである。つまり、説く者と説かれる所、聴く者と聴かれる所、住む者と住まれる所はそれぞれ別ではない。そのことを今の三人の言葉で理解すべきである。〔『正法眼蔵』私訳〕だから、この三人の古仏が、同じように三世の諸仏のことを言うのに、このような言葉があるのである。(しかあるに、三位の古仏、おなじく三世諸仏を道得するに、かくのごとくの道あり。)まず、雪峰が言う「三世の諸仏は、火焔の中(たった今)にあって、仏の大法を転じる」という、この道理を学ぶべきである。(しばらく雪峰のいふ三世諸仏、在火焔裏、転大法輪といふ、この道理ならふべし。)三世の諸仏が大法を転じる道場は、必ず火焔の中(たった今)である。(三世諸仏の転法輪の道場は、かならず火焔裏なるべし。)火焔の中(たった今)は必ず仏の道場である。(火焔裏かならず仏道場なるべし。)これは、経典学者や論典学者は聞くことができず、外道(仏道以外の道)や二乗(声聞・縁覚)は知ることができないものである。(経師論師きくべからず、外道二乗しるべからず。) 合掌ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
2025.01.12
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『正法眼蔵』原文〕 いま「三世諸仏」といふは、一切諸仏なり。行仏はすなはち三世諸仏なり。十方諸仏、ともに三世にあらざるなし。仏道は三世をとくに、かくのごとく説尽するなり。いま行仏をたづぬるに、すなはち三世諸仏なり。たとひ知有チウなりといへども、たとひ不知有フチウなりといへども、かならず三世諸仏なる行仏なり。〔抄私訳〕今「三世諸仏」とは、一般には、過去は既に過ぎ、未来は未だ来ておらず、現在は今あると理解する。また、「十方諸仏」とは、東西南北四維上下においてみなそれぞれに成道(成仏得道)を唱えて衆生を教化済度されると理解する。これは横竪オウジュ(空間・時間)の義で、三世(過去・現在・未来)を立てるのは竪(時間)の義、四方・四角は横(空間)の義である。今は、「三世諸仏といふは一切諸仏なり、行仏はすなわち三世諸仏なり。十方諸仏、ともに三世にあらざるなし」と言って、仏の上で三世を立てるのである。東西南北というのも、中央を置いてこそ四方が立つのであるが、これは東方と言う時は全大地・全世界がみな東方で、東方でない時節はないのである。あるいは、西南北四維上下も、みな東方と同じである。東西南北の言葉もそれぞれまったく違いはないのである。なお、「一切諸仏」といっても、それぞれの仏を「一切諸仏」と言うのではない。結局、「三世諸仏」「一切諸仏」「十方諸仏」はみな同体であり、「行仏威儀」(たった今を行ずる在りよう)なのである。一仏の上で「三世諸仏」とも「一切諸仏」とも「十方諸仏」とも言うのである。「たとひ知有チウなりといへども、たとひ不知有フチウなりといへども、かならず三世諸仏なる行仏なり。」とある。「知有」「不知有」ともに「三世諸仏」の上で言い、「行仏」(たった今を行ずること)の上で言うのである。だから、知・不知に関わらないのである。〔聞書私訳〕/この処とは、必ずしも「火焔」でもない。結局、「三世諸仏」が、諸仏に在って「転大法輪」(大法輪を転ず)とも、一心に在ってとも、実相に在って「転大法輪」するとも言うことができるのである。諸仏が成仏する時、「大地と有情が同時に成道する」と言うから、普賢フケン菩薩(優れた智慧で現世のあらゆる場所で人々を救済する賢者)を説く時は「普賢の身相は虚空の如し、真に依りて住せば国土に非ず」と言うのである。/「知有なり」とも「不知有なり」ともと言うのは、前に、「三世諸仏」は「不知有」で、「貍奴白牯」は「却知有」だと言ったが、今は「知有」「不知有」を「三世諸仏」である「行仏」と言うのである。用いられる法が一つであるから、その体もまた一つである。「不知是道」ということもある、知不知に関わらないからである。〔『正法眼蔵』〕私訳〕今、三世の諸仏というのは、一切がみな諸仏であるということである。(いま三世諸仏といふは、一切諸仏なり。)〔我々もおのおのこの諸仏に洩れるものはない。〕行仏(たった今を行ずること)は、その三世の諸仏である。(行仏すなはち三世諸仏なり。)十方の諸仏というのも、みな三世にわたらないものはない。(十方諸仏、ともに三世にあらざるなし。)仏道は三世を説くとき、このように説き尽くすのである。(仏道は三世をとくに、かくのごとく説尽するなり。)今、行仏を尋ねると、言うまでもなく三世の諸仏である。(いま行仏をたづぬるに、すなはち三世諸仏なり。)たとえ三世の諸仏が有ることを知っていても、たとえ三世の諸仏が有ることを知らなくても、みな必ず三世の諸仏である行仏(たった今を行ずること)なのである。(たとひ知有なりといへども、たとひ不知有なりといへども、かならず三世諸仏なる行仏なり。) 合掌ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村『第六行仏威儀』第二十三段② 〔三世の諸仏というのは、一切の諸仏である
2025.01.10
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『正法眼蔵』原文〕 雪峰山セッポウサン真覚シンガク大師ダイシ、示衆云ジシュウニイハク、「三世諸仏、在火焔裏、転大法輪《三世諸仏、火焔裏に在つて大法輪を転ず》」。 玄砂院ゲンシャイン宗一ソウイチ大師云、「火焔為三世諸仏説法、三世諸仏立地聴《火焔の三世諸仏の為に説法するに、三世諸仏は地に立ちて聴く》」。 圜悟エンゴ禅師云、「将謂猴白、更有猴黒、互換投機、神出鬼没《将マサに謂オモへり猴白コウハクと、更に猴黒有り。互換の投機、神出鬼没なり》」。 烈焔亙天仏説法、亙天烈焔法説仏。 《烈焔亙天レツエンコウテンは、仏、法を説くなり、亙天烈焔は、法、仏を説くなり。》 風前剪断葛藤窠、一言勘破維摩詰。《風前に剪断センダンす葛藤窠カットウカ、一言に勘破カンパす維摩詰ユイマキツ。》〔抄私訳〕「雪峰山真覚大師、示衆云、『三世諸仏、在火焔裏、転大法輪』。いま三世諸仏といふは、一切諸仏なり。行仏すなはち三世諸仏なり。十方諸仏、ともに三世にあらざるなし。」とある。これは、十月一日の開炉(炉を使い始めること)の上堂(住職が法堂の法座に上がり説法を行うこと)の時の言葉である、云々。だからゆかりがあるので火焔の言葉をあげられるのである。もし滝の付近で上堂があれば、水の言葉をあげられたであろう。水と火の違いはないのである。〔聞書私訳〕/「雪峰山真覚大師、示衆云、『三世諸仏、在火焔裏、転大法輪』とある。教家で法報応の三身を立てるときに、法身(真理そのものとしての仏)は遍法界(全宇宙)を仏と説けば、その時は依報(環境)正報(身体)を立てず、青黄赤白ショウオウシャクビャク(人間が認識する色彩)とも長短方円(人間が認識する形)とも言わない。これを内証(仏祖によって明らかにされる悟りの境涯)と取る。外融(対機説法)では、釈迦の八種の相(八相成道)を説いて衆生と縁を結び、救済の対象に対して機縁による説法がされる。「三世諸仏」もこれほどに説き、法身には三世もないのである。今の「三世諸仏、在火焔裏、転大法輪」するという仏は能所(行為者・対象物)がなく、誰のために説法すると言わず、所在の処ばかりを言うのである。玄砂が「三世諸仏立地聴法」と言うからには、今は説く者も聴く者も所在の処も仏の教化を被る機縁もそれぞれ別のものではないのである。〔『正法眼蔵』〕私訳〕雪峰山真覚大師は、大衆(修行僧たち)に示して言う、「三世の諸仏は、火焔の中にあって仏の大法を説く」。(雪峰山真覚大師、衆に示して云く、「三世諸仏、火焔裏に在つて大法輪を転ず」。)玄砂院宗一大師は言う、「火焔が三世諸仏の為に説法すると、三世諸仏は地に立って聴く」。(玄沙院宗一大師云く、「火焔三世諸仏の為に説法するに、三世諸仏地に立ちて聴く」。)圜悟禅師は言う、「まさに雪峰は猴白で〔衆生の妄想執着を引ったくる〕大泥棒だと思っていたら、玄砂は猴黒でさらに上手の大泥棒だ。(圜悟禅師云く、「将に謂へり猴白と、更に猴黒有り。)〔師匠の雪峰が諸仏を主とすれば、弟子の玄砂は火焔を主とし、〕あれこれと取り換える働きが神出鬼没である」。(互換の投機、神出鬼没なり」。)烈しい火焔が天に満ちるとは、仏が法を説くことであり、満天が烈しい火焔であるとは、法が仏を説くことなのである。(烈焔亙天は、仏、法を説くなり、亙天烈焔は、法、仏を説くなり。)〔法と仏は一体である。〕火焔の説法で、葛や藤のようなものに絡まれた法執(仏法や真理に対する執着)を断ち切り、 雪峰の一言で維摩が默の一方に片寄っていることを見破った。(風前に剪断す葛藤窠、一言に勘破す維摩詰。) 合掌ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。↓ ↓ にほんブログ村
2025.01.08
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①次に、大日本帝国憲法の中身について見ていきたいと思います。大日本帝国憲法と聞くと、天皇独裁だとか、軍国主義の象徴というふうに思っている人が多いのではないかと思います。しかし、まったくそういうことはなく、当時としては世界で最も民主的と言えるレベルのものが出来上がっていたのです。シュタイン教授をはじめ欧米の憲法学者に、「そんなに権利をばらまいて、本当に大丈夫か。大混乱になるぞ」と口を揃えて心配されるほどに民主的だったのです。伊藤博文たちは憲法を欧米に学びに行き、さらに日本で古事記や日本書紀やその他日本の古い文献を読み、日本の歴史や文化や日本人の心を必死に研究し、それから憲法の作成に取り掛かって、日本は10年かかって独自の憲法を作りあげました。当時は、板垣退助などの自由民権運動派の人たちのような、大衆受けはいいが政治能力がまったくない人たちが、選挙結果次第では政権を取ってしまう可能性があったのですね。だから、誰が総理大臣になっても、何とか政治がまわるような憲法を作らないといけないわけです。現代で言うと、某鳥の人とか空き缶のような人が総理大臣になっても大丈夫なような憲法を目指して作ったわけです。②では、10年もの歳月をかけて必死に研究して作った大日本帝国憲法とはどんな中身だったのでしょうか。GHQのリベラル左派系が1週間のやっつけ仕事で作った日本国憲法とは、真剣さが違うのです。まず、自由権があります。居住移転の自由も保障されていましたし、財産権も保障されていました。また、言論の自由も法律の範囲内で保障されていました。こんなこと独裁国家ではあり得ないでしょ。次に衆議院と貴族院の二院制が採用され、今と同じ衆議院の予算先議権がありました。また、司法権の独立もすでに確立していて、ロシアの皇太子の暗殺未遂事件が起った際に、政府は裁判所に死刑を要求しましたが、裁判所は司法権の独立の立場から、政府の要求を跳ねのけ、無期懲役で刑を確定しています。どうです、民主的でしょ。これらのことを、まだ世界に民主主義という言葉すらなかった時代に日本では実現させていたのです。③次に、よく天皇独裁と言われるので、天皇の規定についても見ていきましょう。一番誤解されているのが、天皇大権です。言葉だけ聞くと、天皇が独裁できてしまいそうなイメージがあるのですが、そんなことはないのです。基本的に天皇が勝手に一人で権力を行使するということはなくて、内閣が天皇の承認を得て権力を行使をするという形態をとっていました。天皇独裁とは大分ちがうでしょ。要は、天皇は最後に判を押す人という役割だったわけです。ちなみに、帝国憲法と並んで制定された皇室典範には、天皇家の自立が規定されており、政府と天皇家はお互いに干渉しないことが規定されているのです。つまり、天皇が実質的な政治権力を独占しないように、配慮されていたということですね。 やまとこたろうランキングに参加しています。よかったらクリックお願いします。↓ ↓にほんブログ村
2025.01.07
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〔聞書私訳〕/近頃の禅僧が盛んに修行僧に示す言葉では、今問法に来たその人自身(主人)が、「却知有」(却って有ることを知る)に当たる、法を問い法を学ぶからである。お伴の若い僧こそ「不知有」(有ることを知らず)であるので「三世諸仏」と言うのだなどと言うが、これは信じ難いことである。「大地全収のまなこ」があって、「眼耳鼻舌身意、光明功徳の熾然なるゆゑに」こそ、「不知有を保任せる三世諸仏あり」と許されるのである。すべて不学・不知であれというのではないのである。〔『正法眼蔵』私訳〕さらに、収束したり放散しない光明がある、僧堂・仏殿・庫裡・三門、それぞれが光明そのものである。(さらに收放にあらざる光明あり、僧堂仏殿廚庫山門なり。)〔万物はそれぞれ自己の光明を放っている。白菊は白く光明を放ち、紅葉は赤く光明を放つ。人もやはり光明を放っているのだ。〕さらに言えば、行仏(たった今を行ずる身心)には、十方に通達する眼があり、大地を全て収める眼がある。(さらに十方通のまなこあり、大地全收のまなこあり。)心の前(記憶の過去)があり、心の後(観念の未来)があるというが、みな”たった今”あるだけである。(心のまへあり、心のうしろあり。)〔過去を悔やんだり、未来を心配したりするのも、たった今そういう思いが浮かんだだけである。〕このように眼耳鼻舌身意の光明の功徳が盛んであるから、たった今以外のどんなものも有ることを知らない(不知有)という境地を保っている三世の諸仏があり、たった今以外のものも却って有ることを知っている(却知有)などど言う狸や白牛の輩もいる。(かくのごとくの眼耳鼻舌身意、光明功徳の熾然なるゆゑに、不知有を保任せる三世諸仏あり、却知有を投機せる貍奴白牯あり。)このつかまえどころがあり、この眼があるのは、法(たった今)が行仏(たった今を行ずる身心)を説き、法が行仏を許すからである。(この巴鼻あり、この眼睛あるは、法の行仏をとき、法の行仏をゆるすなり。) 合掌ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
2025.01.06
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〔『正法眼蔵』原文〕さらに十方通のまなこあり、大地全收のまなこあり。心のまへあり、心のうしろあり。かくのごとくの眼耳鼻舌身意、光明功徳の熾然シネンなるゆゑに、不知有を保任せる三世諸仏あり、却知有を投機せる貍奴白牯リヌビャッコあり。この巴鼻ハビあり、この眼睛ガンゼイあるは、法の行仏をとき、法の行仏をゆるすなり。〔抄私訳〕「さらに十方通のまなこあり、大地全收のまなこあり。心のまへあり、心のうしろあり。」とある。「十方通のまなこ」とは、沙門の一隻眼のことである。「大地全收のまなこ」と言うのと同じことである。「心」の「前後」に、迷ってはならない、「心」を「前後」と言うのである。「かくのごとくの眼耳鼻舌身意、光明功徳の熾然なるゆゑに、不知有を保任せる三世諸仏あり、却知有を投機せる貍奴白牯あり。」とある。「かくのごとくの眼耳鼻舌身意」とは、前に言った「眼耳鼻舌身意」等のことである。「光明功徳の熾然」とは、この「光明」の功徳の盛りに無辺際に照るという意味合いである。十万億土からはるかに照らすという「光明」ではない。尽「十方」が「光明」であるから、まったく照らされる物がないのである。尽界が光明である道理を、照らすと使うのである。「三世諸仏」は「不知有」と言い、「貍奴白牯」は「却知有」と言う。大変常軌を逸した言葉と一旦は思われるが、真実を言う時は、仏と「貍奴白牯」は、決して違わないから、今の知不知は、決して日頃の考え方で理解してはならない。知不知に関わらない道理なのである。「三世諸仏」を知不知と言い、「貍奴白牯」を知不知と言うのである。あれとこれは別物ではないのである。「この巴鼻あり、この眼睛あるは、法の行仏をとき、法の行仏をゆるすなり。」とある。この「眼睛」「巴鼻」は、ともに解脱の調度品であるから、道理は「法の行仏をとき、法の行仏をゆるすなり」とあるのである。仏が法を説き、法が仏を説くという道理である。ここでは、「法の行仏をとき、法の行仏をゆるすなり」と言って、ひたすら法で説き、許すと言われる一筋がある。ただ、この両様の姿はただ一つの道理である。ある時は仏が法を説くと言われ、ある時は法が仏を説くとも言い、また仏が仏を説く、仏が仏に説かれるとも、無尽の道理がこの下にあるのである。一法を究め尽くせば、このような道理が現れるから、言葉に拘らないのである。 合掌ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村 第六行仏威儀』第二十二段④〔心の前あり、心の後ろあり〕
2025.01.04
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明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。 〔『正法眼蔵』原文〕一条鉄か、両頭動か。一条鉄は長短にあらず、両頭動は自他にあらず。この展事投機のちから、功夫クフウをうるに、威掩万法イエンマンボウ《威、万法を掩ふ》なり、眼高一世ゲンコウイッセ《眼、一世に高し》なり。收放をさへざる光明あり、僧堂・仏殿・廚庫チュウク・山門。さらに收放にあらざる光明あり、僧堂・仏殿・廚庫・三門なり。〔抄私訳〕「一条鉄か、両頭動か。一条鉄は長短にあらず両頭動は自他にあらず。」(中略)とある。「一条鉄」も「両頭動」も「長短にあらず」、「両頭動は自他にあらず」と、「一」の語も「両」の語も「長短」「自他」に関わらず、皆「行仏」の上の「一条」「両頭」「長短」「自他」である。「威掩万法」とは、「万法」に掩オオわれるというのである。これは「行仏威儀」に掩われているのである。結局、「行仏威儀」の道理の外にない意味合いである。「眼高一世」とは、尽十方界は沙門の一隻眼であり、眼の外に何もないところをしばらく「高」と言うのである。「収放」の言葉は、「光明」について出てきたのである。仏を置いて、この上に「光明」を「放つ」時があり、また「収める」時があるように思いがちであるが、今の「光明」はそういうことではない。雲門の言葉に、「いかなるか光明」とあった時、雲門が大衆に替わって《傍注:代に改めるのはいけない》、「僧堂・仏殿・廚庫・山門」と言われた。その言葉を今引き出されたのである。結局、今の「光明」は、一般に思っている照らすものと照らされるもののことではない。日月珠光等の光の類ではない。「僧堂・仏殿・廚庫・山門」の当体を指して「光明」と言うのである。この道理こそ「収放をさへざる光明」とも言われ、「収放にあらざる光明あり」とも言われるのである。「光明」が究め尽くす道理はこのようである。「光万象を呑み光何処に帰る」などという祖師の言葉が、いかにも符合するのである。〔聞書私訳〕/「威掩万法なり」と言う、これは三界を一心に「威掩」する《ことごとくおく》というほどのことである。「一条鉄」「両頭動」の「展事投機」を「威掩万法」と取る。「眼高一世」とは尽十方界の眼の意である。/「收放をさへざる光明あり、僧堂・仏殿・廚庫・山門」と言えば、今の「不知有」「却知有」も、「僧堂・仏殿」に心得を合わせるべきである。ごちゃまぜにして、「三世諸仏」も「貍奴白牯」も同じと言えないことは、すぐにこの下の言葉に、「この眼睛あるは、法の行仏をとき、法の行仏をゆるすなり」とあるので、これを受けて心得るべきである。〔『正法眼蔵』私訳〕この行仏は、一条の鉄か、両頭が動くのか〔、と参究するのだ〕。(一条鉄か、両頭動か。)一条の鉄といっても、長短を超えており行仏でずっと貫くことである、両頭が動くといっても、自他があるわけではない。(一条鉄は長短にあらず両頭動は自他にあらず。)この師家と学人が、行仏に力を尽くすと、行仏の威儀が万法を掩い、三界を一目で見透すのである。(この展事投機のちから、功夫をうるに、威、万法を掩ふなり、眼、一世に高しなり。)収束と放散を妨げない光明がある、僧堂・仏殿・廚庫・三門みなそれぞれの光明を放っている。(收放をさへざる光明あり、僧堂仏殿廚庫三門。) 合掌ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村
2025.01.02
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