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2025.02.26
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27−4.台湾統治に見る日本の植民地支配27−4.台湾統治に見る日本の植民地支配27−4.台湾統治に見る日本の植民地支配
2025.02.25
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『第七一顆明珠』第三段a 原文〔自分の生死去来ではないから仏の生死去来である〕『第七一顆明珠』第三段a 原文〔自分の生死去来ではないから仏の生死去来である〕
2025.02.24
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『第七一顆明珠』第二段a 正法眼蔵私訳〔すべての世界は一個の光り輝く宝珠である〕
2025.02.22
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『第七一顆明珠』第一段⑤正法眼蔵原文私訳〔出家するまでは魚釣りを生業とする人であった〕
2025.02.20
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三国干渉 〜朝鮮独立の後戻り〜
2025.02.19
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『第七一顆明珠』一段③正法眼蔵原文私訳〔ア痛ッ!一体何ものがこのように痛むのか〕
2025.02.18
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『第七 一顆明珠』第一段①正法眼蔵原文・私訳〔浮世の危うさを悟り、仏道の貴さを知った〕
2025.02.16
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『第六行仏威儀』最終回 第三十二段① 正法眼蔵原文私訳〔葛や藤に絡まれたような煩悩妄想を火焔の説法で断ち切ってしまうと、満天だけがある〕
2025.02.14
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27-2. 下関条約 〜朝鮮独立とあっさり終わった親日政権〜
2025.02.12
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『第六行仏威儀』第三十一段①〔法(たった今)が仏(たった今に住む人)を説く〕
2025.02.12
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『第六行仏威儀』第三十段②〔『正法眼蔵』私訳〕〔まさに思えり猿白しと、さらにあり猿の黒き〕
2025.02.10
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『第六行仏威儀』第三十段①〔雪峰が衆生の煩悩妄想を奪う大泥棒の白い猿のようなものだと思ったら、もっと上手の大泥棒の黒い猿のような玄砂が出てきたわい〕
2025.02.08
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『第六行仏威儀』第二十九段③〔火焔(たった今)の丸出しで、鉄の樹に法華(たった今の華)の花が爛漫と開いて世界に香る〕
2025.02.06
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27-1.日清戦争
2025.02.05
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『第六行仏威儀』第二十九段②〔三世の諸仏は火焔の説法を地に立って聴くから諸仏なのである〕
2025.02.04
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〔『正法眼蔵』原文〕 釈迦牟尼仏シャカムニブツのいはく、若説此経ニャクセツシキョウ 則為見我ソクイケンガ 為一人説イイチニンセツ 是則為難ゼソクイナン《若し此の経を説かんは、則ち我を見ると為ナす。 一人の為に説くは、是れ則ち難しと為す》しかあれば、能ノウ説法は見ケン釈迦牟尼仏なり、「則為見我」は釈迦牟尼なるがゆゑに。又いはく、於我滅後オガメツゴ 聴受此経チョウジュシキョウ 問其義趣モンゴギシュ 是則為難ゼソクイナン《我が滅後に於て、此の経を聴受し、其の義趣を問ふは、是れ則ち難しと為す》〔抄私訳〕「釈迦牟尼仏のいはく、若し此の経を説かんは、則ち我を見ると為す(以下略)」とある。「若説此経」とは『法華経』を指すのである。「則為見我」の「我」は釈迦牟尼仏である。釈迦が説く経を衆生が転読(経の数行だけの略読の)すれば、罪がが滅し善が生じ、すみやかに悟りの境地に至ることができると心得るので、「則為見我」とあるのである。「見我」の言葉も見るものと見られるものの義ではない。「此経」と「我」と「見」とまったく別とすべき道理がないから、「則為見我」と心得るのである。「為一人説、是則為難」とは、「則為見我」と心得ないと言われるので、「為難」である。今の親切な理に任せて心得る時は「難し」としないのである。つまり、説くのも釈迦、「見我」も釈迦の道理である。「又いはく、「我が滅後に於て、此の経を聴受し、其の義趣を問ふは、是れ則ち難しと為す(以下略)」とある。「於我」の「我」は釈迦である。「我滅後」に一人いて、「聴受此経、問其義趣」するなら、みなこれは「我」のようであると言う。この道理が、「是則為難」と言われるのである。仏(たった今に住む人)のほかにこの甚だ深く微妙で難解難入の理を説き、説き明かすものはいないのを、今「問其義趣」し「聴受此経」するのはすでにこの『法華経』と等しいから「難し」と説かれるのである。〔聞書私訳〕/三人の言葉を疑うわけではわけではないが、仏説に一致しなければ仕方ない。そのために、経に「若し此の経を説かんは、則ち我を見ると為す、一人の為に説くは、是れ則ち難しと為す」と説き、「我が滅後に於て、此の経を聴受し、其の義趣を問ふは、是れ則ち難しと為す」とも説くのである。「聴受者もおなじくこれ難しと為すなり、勝劣あるにあらず」と言うのである。/この「是れ則ち難しと為す」は有り難いことだと、褒めているのだと心得るべきである。/「此の経を聴受し、其の義趣を問ふは、是れ則ち難しと為す。しるべし、聴受者もおなじくこれ為難なり(以下略)」と言う時に、「一人の為に説く」のを「難し」と説くのは、「一人の為に説く」ということは、『法華経』の義ではないから「これ為難なり」と言うのである。また、「若説」は「我を見る」であるから「一人の為」とも言えない。「聴受」者と「其の義趣を問ふ」者に差別がないから、また「是れ則ち難しと為す」と言われるのである。〔『正法眼蔵』私訳〕釈迦牟尼仏は言う、「もしこの経(自己の真の在り様)を説けば、すなわち我を見るのである。一人の為に説く(自己が自己の法を転じる)ことは、難しいのである」。(釈迦牟尼仏のいはく、「若し此の経を説かんは、則ち我を見ると為す。 一人の為に説くは、是れ則ち難しと為す」。)〔これは説く者の尊を言われる。説く自己と説かれる経と一体になり自己の真実を説くのだから、一番難しいのである。〕そうであるから、よく法(たった今)を説くことは釈迦牟尼仏を見ることである(説く人がそのままそのまま仏である)、すなわち我を見るのは釈迦牟尼であるからである。(しかあれば、能説法は見釈迦牟尼仏なり、則為見我は釈迦牟尼なるがゆゑに。)また言う、「我が滅後に、この経を聴き、その根本の義を問うことは、難しいのである」。(又いはく、「我が滅後に於て、此の経を聴受し、其の義趣を問ふは、是れ則ち難しと為す」。)〔これは聴く者の尊を言われる。経を聞いてその経の義趣を問うということは、問う者自身がすでに法華(たった今の華)になり切っている時だから、よほどの大力量である。〕 合掌ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。 ↓ ↓ にほんブログ村のである〕
2025.02.02
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