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2026年09月23日
イラスト詩「僕の押し入れには宇宙がいる。いや、いた。たぶん、いまも。」
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★つ・ぶ・や・き★(578028)
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カテゴリ未分類
その音は、乾いた木の板を内側から拳で突いたような、
低くて丸い響きだった。
スピーカー越しの爆発音ではなく、すぐ隣の壁が実際に鳴っている。
空気そのものが震え、咽喉の奥で小さな圧力になった。
厳密に言えば、それは点ではなく面で来た。
壁一枚を膜に変えて、部屋の空気全体をわずかに押した。
「な、なんだぁ?」
変な音がした。
天井を突き抜けるような音が、六畳一間の部屋を揺らす。
正確には、天井を突き抜けたわけではない。
天井のすぐ下、北側の壁に埋め込まれた押し入れの内部から、
上へ抜けようとするように響いてきた。
竿縁天井の、細い桟の一本が共鳴して、じ、と鳴いた。
壁際に段ボール箱が無造作に積み上げられた中から、
カップラーメンが一つ、二つと転がり落ちて来た。
醤油味と味噌味。
『冷しカップヌードル ピリ辛キムチ味』とか、
『冷しカップヌードル 鶏塩レモン味』ではない。
トムクンだかヤムクンなんて怖くて食べられない(?)
醤油味の方は蓋が少し浮いていて、
味噌味の方は賞味期限が三か月前に切れていた。
まあでもカップラーメンの賞味期限は切れてからが本番だよな、
むしろそこからどうゴキブリしていくかで生存能力が高まる、
ノーノー、コンドームあたりにある鉄を謳う商品のように、
昂ぶる(?)
引っ越しの段ボールを開けたままにしていた自分の怠惰が、
妙に生々しい証拠として床に転がっている。
転がったカップは畳の縁、縁の麻布に当たって止まり、
乾いた麺の塊が内側でかさりとずれる音がした。
音の方向はすぐに分かった。
林先生の迷言が脳内で炸裂する―――今でしょ?
いや、ふざけている場合じゃない。
音の方向はすぐに特定できた。
部屋の奥、北側の壁に設置された古い押し入れ。
―――そう、押し入れの中だ。
その襖の向こうから、間違いなくあの音は響いてきていた。
押し入れは昭和五十六年築、
四十年を超えるこのアパートの典型的な和室設備で、
上下二段に分かれた収納スペース。在来工法、真壁造り。
柱と柱のあいだに貫を通し、木ずりの上にモルタルを塗った、
あの時代の当たり前の造りだ。
壁の中は空洞が多い。つまり、鳴りやすい。
上段と下段を仕切る板は、ところどころ反り、釘の頭が黒く錆びている。
建具の建付けは狂っていて、
開けるたびに木の悲鳴のような軋みがする。
敷居は擦り減って浅くなり、鴨居との間隔が経年で狂っている。
木は生きているうちも死んでからも動く。
四十年かけて、この家はゆっくりと自分の形を失いつつあった。
下段の方が若干広く、布団や季節物の衣類を収納するのに適している。
上段は天袋と呼ばれ、普段は滅多に開けない。
天袋の襖には、以前の住人が貼ったらしい、
古い紙製の除湿剤がぶら下がっていて、
白い粉が袋の底に溜まっている。
塩化カルシウムが空気中の水分を吸って潮解し、
粒だったものが下でどろりと液状になりかけている。
パッケージには色褪せた文字で『湿気とり』
効いていたのか、効かなくなって久しいのか、判断がつかない。
それにしても、襖は薄いベニヤ板に和紙を貼ったもので、
経年劣化により所々に小さな破れや汚れが目立つ。
破れの縁は茶色く変色し、
まるで古い地図の海岸線のように入り組んでいる。
その海岸線を指でなぞると、
フィヨルドのように奥へ切れ込んだ入り江があり、岬があり、
砂洲のように残った和紙の繊維が橋を架けている。
こうぞ
楮の長い繊維が、破れの縁で毛羽立って、細い根のように垂れ。
破れの一つからは、乾いた糊の匂いがする。
小学校の図工室で使った、あの独特の甘さと粉っぽさ。
正麩糊、小麦のデンプンを炊いた、表具師が使うあれ。
糊は生き物の死骸に似た匂いを、乾いてなお持っている。
糖が分解されかけた、かすかに酸っぱい甘さ。
取っ手は昔ながらの木製の引き手で、
長年の使用で表面が滑らかに磨かれている。指の跡がつくほどに。
その窪みは、誰かの指の形を覚えてしまったかのようだ。
親指の腹、人差し指の側面、爪の先。
何世代もの人間が、ここを引いた。
木材の細胞壁が、無数の指の脂と摩擦で少しずつ潰れ、
飴色に艶を持つに至る。
それは磨いたのではなく、擦り込まれた光だ。
子供の頃は中に籠もると、秘密基地だとばかりに、
テンションがガンガンに上がってたものだが、
大人が入ると色んな気力をチューチュー吸い取られる、
霊感商法で変な壺を買わされた顔になる(?)
不意に、この建物について事前に調べた、
レビューサイトの記憶が蘇る。
『ここら一帯の押し入れは、昔から曰くつきで、変な物が出るとか、
時間が歪むという噂があるらしい』という文章―――を・・。
投稿日は二〇一三年。
投稿者は『通りすがりの大家』というハンドルネーム。
じゃあ大家なのかというと、絶対違う。
エジプトの砂漠で白亜紀の海に生息していたサメの歯の化石みたいに、
評価は星一つ。
コメント欄には『管理会社の対応が遅い』とだけ書いてあった。
そのレビューには、何故か『押し入れの下段に塩を撒くな』
という意味不明な追記があった。
『呪術廻戦』の領域展開ならぬ、
ドラえもんの押し入れ展開かよって。
いいね数はゼロ。返信もゼロ。だが、文章だけが妙に整っていた。
誰かに消される前のメモのように。
句読点の打ち方が几帳面すぎて、逆に不気味だった。
感情の昂ぶりで書き殴った文にはああいう均整は出ない。
まるで、何度も推敲された遺言のようだ。
こういうのを、水溜りボンドあたりが深夜テンションで読み上げるやつだ。
カンタが「ちょっと待って、これマジで良くないやつじゃん」と真顔になり、
トミーが「いや、行こう」と背中を押す、あの回。
あるいはゾゾゾの、オープニングであの不穏なBGMが流れる系の物件。
「事故物件、たぶんここ、やらせじゃないんですよ」
――都市ボーイズがカメラの外から言いそうなやつ。
再生数は伸びるだろう。
もっとも、その頃には俺も、
『行方不明になった投稿者』として、
動画の冒頭で紹介される側かもしれない。
行方不明になって一日、それ家出だよ(?)
ハイウェイを走るような都市伝説、噂話。
またまた。
怖がらせようと思って。
あのさ、さすがにスピリチュアル過ぎるんじゃない?
オカルト板の住人かよ! 詳細キボンヌ!
心機一転、何か新しいことを始めるために、
引っ越してきた初っ端で、これだ。
家賃が相場より安いのも、
こういった噂のせいじゃないかと今になって思う。
敷金礼金ゼロ、更新料なし、ペット可、楽器可。
さらに、南向きではない、独立洗面台なし、風呂はユニットバス、
追い焚きなし、インターホンは壊れている。
よくあるオンボロアパートだ。
それでも、都心まで電車三十分、
最寄り駅から徒歩十二分という立地だけで元は取れている。
そんな条件が揃った物件が、
都心から電車で三十分の場所にあるはずがない。
不動産屋の若い営業マンは「人気物件ですよ」としか言わなかった。
その目は少し泳いでいた。
水泳選手並みに泳いでた、クロールじゃなくバタフライ。
じゃあ、人気物件じゃないんだ、
『名探偵コナン』の『真実はいつも一つ!』が脳内で炸裂する、
あれりゅえ~は腹立つし、多分相当違う、
そもそも本当に人気物件なら人気つける前になくなっている(?)
おそらく嘘はついていない、俺が安いのがいいと言ったからだ。
その筋では、人気物件なのだ。
でも幽霊物件へ案内せよとはもちろん言ってないが、
世界中に残る放棄された軍事施設の廃墟へ連れていかれるわけじゃない、
まずそこからゆっくり落ちてゆく、
ゆるやかに落ちて、ここに着地する(?)
彼は契約書をめくる時、一瞬だけ手を止めた。
第一条、第二条、第三十八条。
指でなぞる場所が、まるで飛ばし読みを許さない試験監督。
特に第三十八条のところで、彼の爪は行間を横に滑り、
それから素早く次の頁へ逃げた。
あとで思えば、逃げるべきはこっちだった。
彼のワイシャツの襟には、
アイロンの当てそこねた小さな三角の皺があって、
それが何故か記憶に残っている。
アイロンの歴史は古く、その原型は江戸時代まで遡り、
当時は電気がないので炭火を使用していたとふと思い出しながら、
さらにその原型を辿れば、炭火が火になり、
火がただの熱い石になり、最終的には原始人がマンモスの皮を、
両手で引っ張っていたんじゃないか、
みたいな馬鹿なことまで考えていた。
ありえないほどヴァカだ(?)
けれど、人は、危機の直前ほど、どうでもいい細部を克明に覚える。
だが、引っ越してきた初日の夜にこれでは、先が思いやられる。
しかし、これは絶対に気のせいなんかじゃない。
音は確実に押し入れの内部から聞こえてくる。
まるで中で誰かが壁を拳で叩いているような、規則的で意図的な音だ。
・・・やっぱり中に、何かいる?
最初に思い浮かんだのは鼠。
『トムとジェリー』のジェリーみたいな可愛い鼠ならいいが、
『ラットマン』みたいなのは勘弁してほしい。
この古いアパートなら、
壁の中や天井裏に巣を作っていても不思議ではない。
実際、台所の床下からは毎晩のようにカリカリという音が聞こえる。
それは鼠の爪が木材を引っ掻く音だと、不動産屋が説明していた。
「古い建物ですから、多少は」と。
多少で済むか、と思ったが、家賃の安さには勝てなかった。
それに、鼠の気配はすでに部屋の別の場所にある。
流し台の下、換気扇の裏、天井の隅。
だが、鼠にしてはあまりにも音が大きすぎる。
体重のある動物でなければ、これほどの振動は生み出せない。
それに、鼠は夜行性だが、こんなに規則正しく壁を叩いたりはしない。
齧歯目の連中は、門歯が一生伸び続けるから、
常に何かを齧って削っていなければならない。
だから彼等の立てる音は齧る音であって、叩く音ではない。
連続的で、乾いていて、意図がない。
今聞こえているのは、その真逆だ。
断続的で、鈍く、そして―――意図がある。
中から再び、壁を叩くような鈍い音が響く。
ドン、ドン、と二回連続で。
まるで何かの信号。
モールス信号にしては単純すぎる。
しかし、完全にランダムでもない。
何かの意図を感じる。
ネズミにしてはアグレッシヴすぎるし、知的すぎる。
しかも、叩く位置が一定だ。下段の襖の中央、取っ手の少し右。
あそこだけ、和紙が他の場所よりわずかに膨らんでいる。
内側から押された痕跡のように。
膨らみの中心には、指の腹くらいの大きさの、色の薄い円。
何度も同じ場所を、内側から、手のひらで押した、
―――そういう痕だ。
ドン!
「あ、また!」
やっぱり何かいる。
今度は一回だけ、さっきよりも大きな音。
押し入れの襖がかすかに震えている。
和紙の表面に、細かい皺が走る。
襖の隙間から、古い埃がふわりと舞い落ちた。
埃は逆光の中をゆっくりと沈み、畳の縁で止まる。
埃のほとんどは人間だ、
―――剥がれ落ちた皮膚、抜けた髪、繊維の屑。
この家に住んだ全員の、細かく砕けた残骸が、
いま俺の頭上でゆっくり沈殿している。
どうしよう・・・。
もし、押し入れを開けて、巨大鼠、野良猫、
あるいは、それ以外の何か。
今の俺には、それに対処する武器がない。
『バイオハザード』みたいにハンドガンがあればいいが、
生憎と俺は一般市民だ。
あるのは鉄パイプだけだ、って嘘は止めろ、
ヤンキー違う、ヤンキー違うから(?)
精神科に勤める友人に言われたことを思い出す。
『お前はいつも準備が足りないんだよ。
何かあった時のために、最低限の対策は考えておけ』
あいつは白衣の胸ポケットに、
いつも二本のボールペンを差していた。一本は黒、一本は赤。
『赤はな、患者の言葉の中の引っかかりに丸をつけるためだよ』
と言っていた。今なら分かる。
俺の人生には、赤で丸をつけるべき引っかかりが、
いくつも見過ごされてきたのだ。
その通りだ。今の俺は丸腰だ。
段ボール箱の中を漁りながら、即席の装備を揃えることにした。
こういう時、頼りになるのは知性ではない。編集力だ。
東海オンエアなら、ここでテロップが入る。
『検証:深夜の押し入れから出てきた"何か"は捕獲できるのか』
虫眼鏡が理論を担当し、しばゆーが体を張り、
てつやが無茶を通す。六人いれば怖くない。
だが俺は一人だ。企画・出演・編集・撮影・そして被害者、全部俺。
ワンオペのYouTuberが一番早く死ぬ。
「え~と・・・・・・」
まず、捕獲用のビニール袋。
引っ越しの際に大量に使用した、
厚手の透明なゴミ袋が何枚か残っている。
四十五リットル用、半透明、防臭・防虫加工付き。
これなら小動物を包んでも息が詰まらない。
本当かどうかは知らない。
袋の表面には、メーカーのロゴと一緒に、
破れにくい二重層構造、と小さな字で書かれている。
指で引っ張ると、確かに伸びる。
伸びるが、果たしてこれが牙や爪に耐えられるかは別問題だ。
高密度ポリエチレンというのは引っ張りには粘るが、
一点に力が集中する引き裂きには脆い。
牙とか爪は、まさにその一点集中の装置だ。
要するにこの袋は、優しく包むためのもので、
暴れるものを閉じ込めるためのものではない。
分かっていて、俺はそれを選んだ。
丸腰の人間は、手近な嘘を武器と呼ぶ。
しかし、これだけでは袋の下に隙間ができてしまい、
小動物なら簡単に逃げられてしまう。
キッチンの流し台の下を探ると、
前の住人が置き忘れたらしい中サイズのゴミ箱を発見。
プラスチック製、淡いブルー、蓋付き。
蓋の裏には『森田』と油性ペンで書いてある。
前の住人の名前だろう。
インクは少し滲んでいて、指で触るとかすかに粉を吹いた。
名前の横には、小さな犬の落書き。耳が片方だけ異様に大きい。
まるで『ポケモン』のイーブイが進化に失敗したような犬だ。
森田という人物が、どんな人間だったのかは分からない。
だが、このゴミ箱を置き忘れていく程度には、
この部屋を雑に扱った人間だ。
耳の大きい方の犬の頭には、吹き出しがついていて、
中に何か書いてあった。掠れて読めない。二文字。
『たす』とも『たぬ』とも読める。多分、気のせいだ。
って、持って帰れやあああああ‼
いやいや、ありがとーございます(?)
プラスチック製で、直径約三〇センチ、高さ四〇センチほど。
内側には乾いた水滴の跡が白く残り、底には小さな砂粒と、
何故か折れた爪楊枝が一本落ちている。
白い跡は水道水のミネラル、炭酸カルシウムの輪だ。
水滴が蒸発した縁にだけ結晶が残る、
いわゆるコーヒーリング効果の親戚。
誰かがここで何かを洗い、乾かし、忘れた。
生活とは、蒸発したあとに残る輪のことかもしれない。
これとビニール袋を組み合わせれば、即席の罠として使える。
すしらーめん、りく、が作りそうな、
ピタゴラスイッチ式の落とし穴を一瞬妄想したが、
あの精度は俺には無理だ。
あれはもう工学だ。俺のは、ただのゴミ箱と袋だ。
蓋を外し、袋を被せ、限界ぎりぎりだが大きなサイズの、
輪ゴムで固定。
輪ゴムは新聞受けに挟まっていた古いものを二重にかけた。
本当はゴムバンドが欲しいが贅沢は言っていられない。
こんなのよくあったな、と思うし、
こんなによくぞ伸びてくれるなとも思う。
しかし劣化して伸びきっている。
だが、今はこれしかない。
武士の情けというやつだ、それは違うか。
天然ゴムは紫外線とオゾンで分子鎖が切れ、弾性を失って、
触るとべたつく。この輪ゴムはもう、
ゴムであることをほとんど諦めていた。
それでも二重にすれば、
諦めた者同士でも多少は仕事をする―――はずだ。
これで飛び出してきた何かを捕獲できる、はず・・。
次に、動物を追い込むための棒状のもの。
段ボール箱の隙間に立てかけてあった突っ張り棒が目に入る。
長さは約一メートル、アルミ製で軽量だが十分な強度がある。
元はカーテンレールとして使っていたもので、
引っ越しの際に外したまま、ここに立てかけていた。
先端には滑り止めのゴムキャップが付いている。
ゴムキャップは経年で白く硬化し、ひび割れている。
俺の人生と一緒(?)
握ると、手のひらに冷たい金属の感触と、微かな振動が伝わる。
アルミの棒は、遠くの音をよく拾う。
指先に伝わる微振動は、
多分、冷蔵庫のコンプレッサーのものだ——そう思い込もうとした。
だが、その周期は、押し入れの中の何かの呼吸と、
不気味なほど合っていた。
これなら安全な距離を保ちながら、何かを誘導できるだろう。
最後に、自分の身を守るための防具。
山道や、川原で蛇を踏んで襲い掛かってくることもある。
いや、ここは大自然の裾ではないのだが(?)
だが、精神科に言っていた誰かさんも言っていたじゃないか、
厚手のパーカーを羽織り、軍手を装着。
ロックウォォォーン・・・!
ここで思い出すべきは、あの男だ。
エガちゃんねる。江頭2:50。
装備なんか関係ない。上半身裸で、猛スピードで、ただ突っ込む。
困っている人がいれば全国どこへでも走り、
カメラの前で全部さらけ出す、あの覚悟。
俺にはあの覚悟がない。
だからパーカーを着ている。フードまで被っている。
エガさんが見たら『情けねぇなァ!』と言うだろう。
すみません、pさんに免じて許してください。
パーカーは裏起毛の黒、軍手は綿製の生成り。
指先には滑り止めの点々が付いている。
パーカーのフードを被れば、多少は顔面を守れる。
減量中にランニングするボクサーは、
パーカーのフードを被りたがる法則。
神経を研ぎ澄ませろ。
軍手の匂いは、新品の綿と、ほんの少しだけ洗剤の残り香。
滑り止めの点々は塩化ビニル。
指の腹で数えると、片手におよそ四十個。
こういう時、人はどうでもいいものを数える。
数えているあいだは、次に何が出てくるかを考えずに済むから。
完璧とは言えないし逆にものものしすぎる気もしないではないが、
さあ、これで最低限の準備は整った。
深呼吸をし、肺に新鮮な空気を送り込むと、心拍数が少し落ち着く。
吸い込んだ空気は、思ったより冷たい。
十月の夜。窓硝子は一枚だけで、サッシの隙間から隙間風が入る。
カーテンはまだ段ボールの中だ。
単板ガラスは断熱をほとんどしない。
外の冷気が、硝子一枚を挟んで、そのまま室内側の空気を冷やす。
窓辺だけ、体感で二度は低い。
十月の夜気が、サッシの気密の切れたところから、
細い舌のように入ってくる。
空気は少し冷たく、黴と埃の匂いが混じっている。
窓は一つしかなく、それが北側に面しているため、
この部屋はいつも薄暗く、少しひんやりとしている。
突っ張り棒を右手に握り、左手でゴミ箱を持つ。準備完了だ。
そして・・・・・・・。
サー・・・・・・。
恐る恐る、押し入れのドアを開ける。
引き戸。木の感触は意外にも温かく、
長年多くの人が触れてきた証拠の滑らかさがある。
指先に伝わる木目の凹凸が、妙に生々しい。
この家に住んだ何世代もの人々の手垢が、
染み込んでいるかのようだ。
引き手の裏側には、古い新聞紙が折り畳まれて挟まっていた。
日付は平成七年。見出しは『阪神・淡路大震災』の文字。
誰かが建付けの調整に使ったのか、それとも単なる詰め物か。
折り目に沿って紙が茶変し、
そこだけ脆く、触れると粉になりかけている。
木材パルプのリグニンが、三十年の酸化で飴色に灼ける。
古い紙が黄ばむのは、時間が紙に触れた証拠だ。
震災の日付が、建具のがたつきを黙らせるために畳み込まれている。
誰かの災厄が、別の誰かの静けさのために使われている。
この家では、そういうことが起きる。
ゆっくりと、音を立てないよう細心の注意を払いながら引き開ける。
襖が五センチほど開いた瞬間、
押し入れの内部から独特の匂いが流れ出てくる。
長年閉じ込められていたような、黴と埃が混じったような、
しかし微かに甘い、どこか懐かしい匂いが鼻腔をくすぐった。
匂いは、脳の中でいちばん古い回路を叩く。
嗅覚だけが視床を経由せず、嗅球からまっすぐ扁桃体と海馬、
感情と記憶の座に配線されている。
だから匂いは、理屈を飛び越えて、いきなり泣かせにくる。
プルースト効果。紅茶に浸したマドレーヌ一切れで、
失われた時が丸ごと戻ってくる、あれだ。
それは、祖母の家の押し入れの匂いだった。
子供の頃、かくれんぼで隠れた時に嗅いだ、
安心と恐怖が入り混じったあの匂い。
祖母の家の押し入れには、古い座布団と、桐の箪笥と、
盆提灯がしまってあった。
夏休みの午後、蝉の声が遠くで聞こえていた。
『となりのトトロ』のサツキとメイが、
押し入れを探検するシーンを思い出す。
押し入れの中は暗く、外の光が襖の隙間から、
細い線になって差し込んでいた。
桐は湿気を吸うと膨らんで隙間を塞ぎ、乾くと縮んで通気する。
だから着物と記憶を守るのに使われてきた。
あの箪笥の匂いは、桐に染みた樟脳と、防虫の匂いと、
絹の匂いが混ざったものだった。
細い光の線の中を、埃が上がったり下がったりしていた。
あれは対流だ。子供の俺は、それを妖精だと思っていた。
しかし、それだけではない。
何か、もっと深いところから湧き上がってくるような、
記憶の底を揺さぶるような匂いでもあった。
それは、雨の日の教室の匂いでもあり、焚き火の煙の匂いでもあり、
初めて好きになった人の髪の匂いでもあった。
複数の記憶が、一つの匂いに圧縮されている。
そんなことは、化学的にはありえない。
単一の芳香分子が、複数の異なる記憶を同時に発火させることは。
だがこの匂いは、それをやってのけた。
まるで、いくつもの過去を一本の糸に撚り合わせたような。
後になって、俺はこの『撚り合わせる』という感覚を、
もっと厄介な形で思い知ることになる。
「!?」
絶句。言葉が咽喉の奥で固まってしまう。
そこで俺が眼にしたものは、想像を遥かに越えた代物だった。
ノーカット、ガチ現実、長回し。
「・・・・・・って、ファッ!? ちょ、おまwww」
こんな感じ。
「お、おい・・・・・・」
そしてこんな感じ。
このシチュエーションでは、俺はどんなリアクションを取るべきなのだろう。
人がいた、しかも寝ていた。
常識的な判断力が完全に停止している。
押し入れの中に。
まるでここは自分のベッドルームだと主張するように。
下段の押し入れは、本来なら布団が二枚は入る広さだ。
だが、その中央に人間の女の子が横になっていた。
頭の下には、丸めた古いタオルケット。
足元には、畳まれた段ボール板。
即席の寝床としては、あまりにも整いすぎている。
段ボール板は、俺が昨日ほどいて畳んだやつだ。
角がきっちり九十度に合わせて折られ、
四辺が定規で測ったように揃っている。
俺が畳んだのは、こんなに綺麗じゃなかった。
誰かが、俺の残骸を、俺よりも丁寧に畳み直した。
それが、この夜のいちばん薄気味悪い部分だったかもしれない。
人がいたことより、整頓されていたことの方が。
ドッキリなら、ここで「はい、どーもー!」と、
はじめしゃちょーが飛び出してくる場面だ。
天井のどこかに小型カメラが仕込んであって、
スタッフが笑いをこらえている、あの構図。
だが、誰も出てこない。ドッキリには必ずオチがある。
これにはオチが見えない。
オチのないドッキリは、ただの事件だ。
・・・・・・何故?
・・・・・・どうして?
・・・・・・ホワイ?
・・・・・・フーワッチャッチャ(?)
・・・・・・ふう。
・・・・・・でも、俺、さっき、引っ越してきたばかりで、
誘拐とか―――してない・・・よなあ(?)
誰か―――記憶操作とかしてないよね(?)
―――あの時、空を見上げてキラッて光ったような気がした、
って、光ってない光ってない、嘘やめて(?)
弾んだゴムを手放したような予想外の展開だが、
現実逃避したくなる気持ちをぐっと抑えて、改めて状況を観察する。
年齢は二十歳前後に見える。
身長は一五〇センチ台前半といったところ。
体重は四十キロ前後だろうか。
細い手足、華奢な肩、しかし全体的に柔らかそうな印象。
黒髪のセミロングで、寝息に合わせて髪が微かに揺れている。
髪は少しうねっていて、毛先が広がっている。
まるで墨を流したような、自然な艶。
髪が、畳の藺草の隙間に落ちている。
黒と薄緑のコントラストが、妙に鮮明だった。
服装は白いブラウスに紺色のスカート、
ブラウスは綿素材で、所々に細かい刺繍が施されている。
小さな花の模様。
刺繍は、よく見ると桜ではなく、どら焼きの形をしていた。
小さな、小さなどら焼き。
二つ並んで、焼き目の部分まで刺繍されている。
焼き目は、明るい茶と濃い茶の二色の糸で、
サテンステッチとフレンチノットを使い分けて刺してある。
ふっくらした皮の陰影が、
たった数ミリの中に立体として表現されていた。
これを刺した人間は、どら焼きを愛していた。
それも、正気の範囲を少しだけ超えて。
伏線だ、と今の俺は言える。あの時の俺は、
ただ変わった刺繍だなとしか思わなかった。
スカートはプリーツ加工で、膝下までの長さ。
まるで学生のような清楚な格好。
しかし、よく見るとブラウスのボタンは一つだけ外れている。
首元が少し開き、鎖骨が見える。
鎖骨の上には、小さなほくろが一つ。
米粒よりも小さく、薄い茶色。
靴は脱いで押し入れの端に綺麗に揃えて置かれている。
黒いローファー、つま先が少し擦れている。
靴下は白のソックス、足首のところで少しだけ折り返されている。
細部は、嘘をつかない。
あるいは細部まで作り込める嘘が、一つだけ存在する。
ヤフー知恵袋の質問にもあるじゃないか、
なんでみんな俺の注文したシーザーサラダをつまむのですか。
シーザーサラダはみんなの共有財産なのですかってさ、
そうしたら回答で、食べられた瞬間にすかさず注文せよ、
戦場なんだ、洗浄はママレモンなんだ、お米にも使える、
居酒屋の暗黒面を恐れるな、お前はシーザー、
カサエル・シーザー、とかいう、
一ミリも信用できない回答者のことを思い出す、
だが、仮にその回答者が正しいとしても、
今ここにある問題はシーザーサラダではなく、
押し入れに寝ている女の子だった。
―――そういうところなんだよ、SONY(?)
「・・・・・・なんで、こんなとこで寝てるんだ?」
でも、ちょっと可愛いかも。
小さな寝息が聞こえる。
表情は穏やかで、まるで赤ちゃんのように無防備。
目蓋は薄く、植物みたいな睫毛の一本一本がはっきりと見える。
頬がほんのり赤く、長い睫毛が影を作っている。
唇は薄いピンク色で、微かに微笑んでいるようにも見える。
唇の端に、小さな笑窪のような窪みがある。
呼吸のたびに、鼻先の産毛が微かに動く。
吐く息は、ほんの少しだけ甘い匂いがした。
どら焼きの皮のような、小麦粉と蜂蜜の匂い。
呼気に糖の匂いが混じるのは、普通じゃない。
ケトン体の甘い匂いとも違う、もっと素朴な、焼き菓子の匂い。
人間の吐く息が、加熱した小麦とハチミツの香りを帯びる代謝経路を、
俺は知らない。医学書のどこにも載っていない。
載っているとしたら、それは医学書じゃない。
「く~」
タヌキかも知れない。
いや、『ポケモン』のタヌキポケモン、ジグザグマかも、
それが段々アナグマやフェレットに、嘆かわしい(以下省略)
―――いや、現実逃避はよせ、サムソン(?)
じっと見つめて、如何とも形容しがたい、
表情を浮かべ続けていたに違いない、
お前の名前サムソンだったか―――(?)
―――女の子、だった。
で、幸せそうに寝息を立てていた。
ドン!
彼女が寝返りを打つと、足が壁を蹴って、大きな音がした。
スカートが少し捲れ、白い悩ましい太腿が露わになる。
太腿の内側には、小さな古い傷。擦り傷の跡。
子供の頃、自転車で転んだような、そんな形。
慌てて目を逸らすが、その映像は網膜に焼き付いてしまった。
一瞬、脳内でヒカキンが再生された。
ブンブンハローYouTube、と。
あの人が口ひとつで打ち出すビートボックスのバスドラム、
あのドッ、という圧に、質感が近い。
違う、これは効果音じゃない。
編集で足されたドンのテロップでもない。生音だ。
強い印象は視神経のずっと奥、扁桃体で焼き付けられる。
フラッシュバルブ記憶、それが見てはいけないものであるほど、
消えにくくなるという不都合な仕様。
目を逸らしても遅い。
網膜の残像が消えても、記憶の側が拾ってしまっている。
夢か現実か、これは誰かの悪戯なのか、
それとも自分がおかしくなったのか、
どうすればこの状況から脱出できるのか・・・・・・。
「どうすればいいんだ? 俺は・・・・・・」
考えた末・・・・・・、
そうだ、見なかったことにしよう。
人は大きな精神的ショックを受けると、
通常では考えられない行動を取ることがある。
心理学の教科書で読んだ記憶がある。
エリクソンの発達段階説だとか、フロイトの防衛機制だとか、
そんな堅苦しい名前は忘れたが、
要するに現実から目を逸らすのだ。
否認、抑圧、そして今まさに俺がやろうとしている、
いちばん原始的なやつ―――回避。
教科書はこれを未成熟な防衛機制と呼ぶ。
悪かったな、未成熟で。
押し入れに見知らぬ女の子が寝ている状況で、
成熟した対処法を用意してある人間がいたら、
そいつの方がよほど問題だ。
なんだったらその心理学の教科書を執筆した人間に、
同じ目に遭わせてやりたい。
『PSYCHO-PASS』のシビュラシステムに判定させたいくらいだ。
何ということはない、八つ当たりであり、現実逃避だ。
俺は大学の教養課程で心理学概論を取った。
単位は取ったが、内容はほとんど覚えていない。
覚えているのは、教授が、人間は都合の悪い情報を無意識に排除する、
と言ったことだけ。今の俺は、その見本のような状態だ。
俺は、今見た光景を忘れるために押し入れのドアを閉めようとする。
―――そうだ、きっと、俺は疲れている。
今日は朝から荷解きをして、本棚を組み立てて、
カーテンレールを取り付けて、電球を交換した。
もうへとへとなんだ。
もう限界なんだよ、俺のアキレス腱が(?)
アキレス腱関係あったっけ?
梱包材のプチプチを踏む音、ドライバーでネジを回す感触、
新品の電球の白い光。それら全部が、遠い昔の出来事のように感じる。
この埃、俺の二十代代の夢と希望だ(?)
あの白々しさが、いま思えば、
非日常への切り替えスイッチだったのかもしれない。
あの光の下で、俺の一日は静かに現実から剥がれ始めていた。
だがそうは問屋が卸さない。
スッ、と閉めようとしたらガッと掴まえられた。
突然、細い手が襖の隙間から伸びてきて、戸を掴んだのだ。
指は白く、爪は短く整えられている。
手のひらには、少しだけ汗の感触があった。
爪の根元には、小さな白い半月。
右手の人差し指の腹には、ペン胼胝のような硬い部分。
ペン胼胝は、長時間、同じ姿勢で何かを書き続けた人間にできる。
もしくは、長時間、同じ姿勢で何かを織り続けた人間にも。
指の関節の内側に、糸で擦れたような薄い筋がある。
ペンにしては、位置が少し違う。
間違いない、さっきまで寝ていたはずの彼女は、実は起きていたのだ。
いや、もしかすると俺が襖を開けた瞬間から起きていて、
たぬき寝入りをしていたのかもしれない。
心臓が胸から飛び出しそうになる。
アドレナリンが血管を駆け巡り、全身が戦闘態勢に入る。
瞳孔が開き、視界が少し広くなる。
聴覚が研ぎ澄まされ、自分の心臓の音がやけに大きく聞こえる。
鼓膜の奥で、血液の流れる音まで聞こえる。
それでも俺は頑なに襖を閉めようとする。
心臓が出るほどビックリしながらそれでも閉めようとする、頑なに。
開けようとする、懸命に。あと、頑なに。
閉めようと―――する・・あと、頑なに。
彼女は必死に開けようとする、こいつも、頑なに。
引かぬ、媚びぬ、省みぬ! 帝王に逃走はないのだー!
だぁぁぁ!! なんてお約束な展開。
あと、頑な頑ないれすぎなんだよ。
って、馬鹿か、不毛すぎんだろ、
何だってこんな馬鹿なやりとりを繰り返さなくちゃいけないんだ。
押して駄目なら引いてみなって言葉を思い出し、
―――すっ、と離した(?)
ずこおおっ、と普通に転がり出てきた女の子。
畳の上で一回転して、最終的に俺の足元で仰向けに倒れる。
スカートが完全にびろんと、
少年漫画特有の悪戯な風のように捲れ上がり、白い下着が見える。
柄は水色のストライプ。
ストライプの幅は均一ではなく、
ところどころかすれたように細い。
ウエストのゴムは少しだけ緩んでいて、
左側に小さなリボンがついている。
慌てて眼を逸らす。
そして、仰け反った姿勢から、よいしょよいしょと、姿勢を正して、
あ、そこ正座してくれますか、あ、はい、
背筋をぴんと伸ばし、両手を膝の上に置く。
まるで茶道の作法のような、完璧な正座。
爪先は揃えられ、踵は少し浮いている。
背筋は一本の線のようにまっすぐで、
首の角度も完璧に調整されている。
膝の上に置かれた手は、指先まで意識が通っている。
手のひらは上向き、指は自然に揃えられ、
親指だけが少し内側に曲がっている。
まるで能楽の型のような、様式美。
重心が仙骨の真上に落ちて、
そこから頭頂までが一本の見えない軸で貫かれている。
武道でも茶でも能でも、型とは要するに、
力を最小にして姿勢を保つ最適解のことだ。
何百年もの試行錯誤で削り出された、身体の数学。
―――そして将棋の対局の姿勢(?)
「やはりここは―――乙姫タイムの時間です。
私は男性がスカートを好きだというのを忘れていました、
アンゴルモア(?)」
この子、変な子かもしれないと思いながら、
付き合うのは心の何処かにある、やましさのせいだろうか、
あと、アンゴルモア(?)
いや、そうじゃない。これは好奇心だ。
ただ、男性がスカートを好きなのは、
スケベ心で生足が見たいというものと、女の子らしい格好、
つまり可愛い格好をしていてほしいという、その二つだと思うのだが。
そして、さっき見てしまった水色のストライプは、
おそらく前者のカテゴリーに属するものだった。
いや、後者かもしれない。
どちらにせよ、俺は今、非常に複雑な感情を抱いている。
その感情は、罪悪感と好奇心と、
ほんの少しの優越感が、撹拌機にかけられたように混ざっている。
しかも、そのどれもが本物で、どれもが偽物のような、奇妙な二重性。
光の粒が、波でもあり粒でもある、みたいな。
観測するまで、どっちとも言えない。
俺のこの感情も、名前をつけようとした瞬間に、
別の何かに崩れてしまう種類のものだった。
だから俺は、それをそのまま重ね合わせのまま、
そっとしておくことにした。
「ここで、ひとつ、クエスチョンですッ!」
彼女はそんなことを言い出した。
俺だって言いたい、ここで、ひとつ、エスケープですッ!(?)
「コーヒーはミルクと砂糖?」
どうも時間がかかるから、コーヒーでも飲んでいてという意味だと解釈。
いらないよ、わかりました、ブラックですね、わかりましたと言って、
小さな店の食べ放題のときに限って注文遅れることがあり、
そのときにバイトの子がやって来て、お叱りを受けて、
わかりました、という気のない返事によく似ている。
状況が飲み込めないまま、彼女は勝手知ったる顔で、
台所というか流し台とコンロが一体になった簡素な調理スペースで、
俺のアパートの所有物であるインスタントコーヒーを使って、
手慣れた様子でコーヒーを準備し始めた。
インスタントコーヒーは、引っ越し祝いにもらった瓶入りのもの。
誰って、友達はそんなのくれない、
男の誕生日プレゼントはTENGAだし、いや使いますけどね、
親だよ、親。
『香り高い一杯を』というキャッチコピーが書いてある。
現実逃避推奨ということだろう、
その気持ちは痛いほどよく分かった(?)
瓶の蓋は湿気を恐れた俺が固く締めたので、
彼女は一度、コノヤロいいながら台所の角にぶつけて開けた。
蓋の内側には、乾いたコーヒーの粉が薄くこびりついている。
電気ケトルでお湯を沸かし、マグカップを二つ用意し、
スプーンでコーヒー粉末を適量すくう。
さらさらさらさら。
マグカップの一つは白、一つは青。
白い方は俺が普段使っているもので、
青い方は引き出しの奥にしまってあるもの、
いや来客用であり、恋人用のものだ。
イマジナリーフレンド仕様ね(?)
彼女はその青い方を選んだ。
ちなみに青いマグカップの底には、小さな欠けがある。
引っ越しの時にぶつけたものだ。
彼女はその欠けを、指でそっとなぞった。
その一連の動作に無駄がない。まるでこの部屋の住人のように自然だ。
湯を注ぐ時、彼女はケトルを高く持ち上げ、本当に高く持ち上げ、
漫画やアニメ、一部の店がガチで危ないのにやる、驚きの技法のもと、
細い糸のようにお湯を落とした。
パフォーマンスが味に変わることはない、インスタグラム仕様だ。
コーヒーの粉が蒸気で膨らみ、小さな泡が立つ。
その匂いが、部屋の黴と埃の匂いを、一瞬だけ追い出した。
まあいうほど、部屋の黴と埃の匂いもしないし、
なんだったらさっき鼠がとかいっていたけど、
そんなに音しないんだけどね(?)
インスタントコーヒーの顆粒は、
抽出液を凍らせて真空で氷を昇華させるフリーズドライで作られる。
ネイティブに言う場合( ´Д`)=3 フゥ
フリュウズドレェイと発音する。
世界英語ネイティブ選手権日本代表とどろき支部の実力とは、
まあ、このようなものである(?)
―――おっと、脱線した、だから熱い湯に触れた瞬間、
閉じ込められていた揮発性の香気成分が一気に立ち上る。
彼女が湯を高い位置から細く落としたのは、
粉全体に均一に湯を当て、泡を立てて余分な炭酸ガスを抜くためだ。
ハンドドリップの初手。インスタントにその作法は要らない。
要らないのに、やる。だって、多分、格好いいから。
お上品だから。なんていうか、パリピだから(?)
この子のする全ての動作には、必要以上の丁寧さという、
同じ指紋が押されていた。
「では、ちょっと乙姫タイムしたいと思います。
これはストーカーじゃないんです」
逆説的にそれは、ストーカー行為があったことを認めているのだが、
乙姫タイムというのは、
恋愛の特殊性や非日常性を表現しているのかもしれない。
あるいは、単なる現実逃避の隠語か。
どちらにせよ、彼女がこの部屋に不法侵入したことに変わりはない。
刑法第百三十条、住居侵入罪。
法定刑は三年以下の懲役または十万円以下の罰金。
『逆転裁判』の成歩堂龍一なら、
「異議あり! この女子は不法侵入ではありません!」
と叫ぶかもしれない。
そんな条文が、頭の隅で勝手に再生される。
だが、その条文を唱える自分の声は、やけに小さく、遠く聞こえた。
『正当な理由がないのに、人の住居に侵入した者』
と、条文はそう言う。だが、正当な理由とは何だろう。
ここでホリエモンなら即座に言うだろう。
それ、法律の話をしても意味ないですよ、
前提が違うんだから、とでも言うだろうか。
堀江貴文は、時間を何より重んじる人だ。
刑務所に入って、時間の値段を誰よりも知った人だ。
その人が、時間そのものを操るこの女に会ったら、
何を言うんだろう。『これは―――アリだな』くらい言いそうで怖い、
そして俺はモハメド・アリと寒いことを言う(?)
俺は、自分の家の中で、何の法律も及ばない小さな治外法権と、
コーヒーを挟んで向かい合っていた。
もしかすると、この押し入れは単なる収納スペースではなく、
異世界との境界なのか、
『千と千尋の神隠し』のトンネルみたいに。
あるいは彼女の存在そのものが物理法則を歪ませる何かなのか・・・・・・。
いや、そんなはずはない。きっと現実的な説明があるはずだ。
何事も、話をきちんと聞いてから判断しても遅くない。
そう自分に言い聞かせながら、とりあえず彼女の話に付き合うことにした。
「うん、ストーカーじゃない、乙姫タイムなんだ」
俺はとりあえず彼女の言葉を肯定する。
この状況で論理的な会話を期待するのは無理があるかもしれない。
肯定することで、自分の中で何かが妥協され、別の何かが許されていく。
その感覚は、とても危うく、しかし奇妙に心地よかった。
一度うなずくと、次のうなずきは軽くなる。
認知的不協和が、じわじわと、都合よく解消されていく。
これを受け入れている自分に合わせて、
これは受け入れてよいものだという前提の方が書き換わっていく。
人が少しずつおかしくなる時、大抵、本人はとても納得している。
フリュウズドレェイ(←まだ言ってる)
「その―――十八禁的発言は?」
彼女は突然、何かすごいことを言おうとするような、
目力のある表情を見せた。
さらに眉を顰め、口元に小さな笑みを浮かべる。
怪談師のパフォーマンスでよく見られるが、
心臓悪い人もたまにそんな表情をするので、
救心のCMを思い出してしまう(?)
「俺はNHKじゃないから大丈夫だよ―――」
何故NHKが出てきたのか自分でも分からないが、
とりあえずそう答える。
NHKといえば、受信料の集金の人が来た時のことを思い出す。
『学生さんですか?』と聞かれた。
『社会人です』と答えたら、
『では、受信契約をお願いします』と言われた。
結局、その日は契約しなかった。
テレビもネットもしていなかったからだ。
だが、今思えば、契約しておけばよかったかもしれない、
テレビでNHKしか見ない俺はむしろそのまわしものだし(?)
いや、関係ない。
あの集金人は、黒い革のバッグから、
小さなタブレット端末を取り出し、住所と名前を確認した。
画面の反射が、彼の眼鏡に映っていた。
あの時の、なんとも言えない気まずさ。今の状況も、それに似ている。
理不尽な要求を、断りきれない空気。
あの集金人の眼鏡には、俺の玄関のドアと、その奥の暗い廊下が、
魚眼レンズのように歪んで映っていた。
今なら思う。あの歪みの中に、もう、
この押し入れの気配が写り込んでいたんじゃないか、と。
契約すべきだったのは、たぶんNHKじゃない。
もっと別の、名前のない何かとの、受信契約だった。
さっき言っていたじゃないか、何だって、思い出せないのか、
お前の記憶力も大したこともないもんだな、アンゴルモア(?)
「ちなみに、Hな女の子は?」
「―――ノーコメント」
突然の直球質問に面食らう。
頬が少し赤くなるのを感じる。
耳の先が熱くなる。血流が皮膚のすぐ下を流れていく感覚。
顔が赤くなるのは、交感神経が顔面の血管を意に反して、
拡張させるからで、これは人間だけが極端に発達させた反応らしい。
猿の尻については何も知らない。
ダーウィンは赤面を最も人間的で、最も特異な表情と呼んだ。
だから進化論みたいなのを作るんだな、極端な物言いが好き、
非常にダーウィン的(?)
嘘をつけない場所。耳の先が熱いということは、
俺は今、この子に対して、何一つ隠せていないということだ。
「好きってことですね」
「―――ノーコメント」
「アヘ顔ダブルピースは?」
「正直あんまり好きじゃない」
「・・・・・・なるほどなるほど」
彼女は何かを納得したように頷き、
俺の反応を情報収集しているようだった。
まるで心理カウンセラーが、
クライアントの言葉の裏にある本音を探るように。
しかし、彼女の質問はあまりにも直接的で、
まるでアンケート調査のようでもあった。
『あなたの性的嗜好を教えてください』という、
市場調査のためのアンケート。
そんなものがこの世にあるかどうかは知らないが、
彼女の態度はまさにそれだった。
しかも、彼女はメモを取らない。すべてを頭の中に記憶している。
その記憶力が、少し怖い。
まるで、俺の反応パターンを学習しているかのようだ。
質問の順序が、明らかに設計されていた。
まず直球で反応の基準線を取り、
次に極端な選択肢で振れ幅を測る。心理測定の常道だ。
彼女は俺という一人の人間を、
いくつかの座標に落とし込もうとしていた。
まあ、大した話など一つもしていないのだが(?)
「それであのすみません、どら焼きありますよね?」
突然の質問に驚く。
確かに、引っ越しの際にコンビニで買った、
どら焼きが冷蔵庫に入っている。
山崎製パンの『ふんわりどら焼き』だ。
粒あん入り、三個入りで、二九八円。
賞味期限は明日まで。
たまたま甘いものが欲しくなって購入しただけだったのだが、
何故彼女がそれを知っているのか。
何かの精神操作を受けていたのだろうか。
それとも、彼女は事前に俺の行動を観察していたのか。
あるいは、単なる偶然か。
しかし、偶然にしてはタイミングが良すぎる。
冷蔵庫の中の配置まで、彼女は知っているようだった。
手を伸ばす前に、すでに視線がどら焼きの位置を捉えている。
冷蔵庫のドアを開ける前に、彼女は一度、俺の顔を見た。
その目は、まるで『ある』と確信している目だった。
確信、という言葉では足りない。
彼女の目は、『もう見た』目だった。
未来をすでに一度通過してきた者が、
答え合わせをするために振り返る―――そういう目。
この時はまだ、その意味が分からなかった。
図書館で、俺の名前の書かれた本を見つけるまでは。
彼女はにっこりと笑い、
勝手に冷蔵庫を開けてどら焼きの在庫確認を始めた。
泥棒というにはスマートだ。
冷蔵庫の中は、彼女が開けた瞬間に冷気が流れ出し、
彼女の髪を微かに揺らした。
その行動があまりにも自然で、
まるで同棲しているカップルのような親しみやすさを感じさせる。
なこなこチャンネルか、ヴァンゆんか、
というくらいのできあがった二人感。
『同棲一週間のルーティン』みたいな動画が撮れそうな距離。
問題は、俺達が付き合ってもいないし、
彼女が何者かも分からないという点だけだ。
それ以外は完璧なカップルYouTuberだった。
それ以外が全部おかしいとも言う。
その光景が、全く違和感なく見えてしまうのが、逆に恐ろしかった。
冷蔵庫の扉の内側には、卵が二個、牛乳パックが半分、
納豆が三パック、そして何故か小さな瓶に入った梅干しが一つ。
彼女はその梅干しの瓶を一瞥し、ほんの少しだけ首を傾げた。
まるで、知っているはずのないものを見つけたように。
冷気が流れ出す、庫内の冷たい空気は密度が高いから、
扉を開けると重力に従って足元へ滝のように落ちる。
その見えない滝が、彼女の毛先だけを、ほんの一瞬、持ち上げた。
梅干しは、俺が入れた覚えのないものだった。
あとで思い出そうとしても、いつ買ったのか、
誰にもらったのか、どうしても像を結ばない。
彼女が首を傾げたのは、多分、それが、
この部屋にあってはいけないものだったからだ。
俺の記憶に穴を空けて、後から誰かが差し込んだ栞のような、梅干し。
*
「それで乙姫タイムって、何なんだよ・・・・・・」
あれから三日。
そう、三日。確実に三日。
カレンダーに印をつけて数えているから間違いない。
カレンダーは壁に掛けた百均のもの。
日付の欄には、赤いボールペンで小さな丸が三つ。
昨日、一昨日、そして今日。
赤い丸は、日を追うごとにわずかに大きくなっていた。
人は、慣れないうちほど、丁寧に、小さく印をつける。
慣れてくると、大きく、雑になる。
俺のカレンダーの丸は、この非日常に俺が慣れていく速度を、
正確に記録していた。
三日目の丸は、もう、ためらいなく大きかった。
あの押し入れ事件の後、彼女は俺の部屋に仮住まいしている。
この仮住まいという表現も彼女が使ったもので、
まるで旅館にでも滞在しているような気軽さだ。
そして何故か俺より家賃の仕組みに詳しく、
管理会社の田中さんとも仲良くなっている。
田中さんは五十代の男性で、いつも作業着を着ている。
「乙姫さんには頭が上がりませんよ」と田中さんは言った。
何故頭が上がらないのかは知らない。
顔見知りなのか何なのかは分からないが、
「あ、例の乙姫さんですね」と言われる始末。
俺が契約したばかりなのに、何故か彼女の方が先住民扱いされている。
田中さんは、週に一度、共用部の掃除に来る。
ほうきとちりとりを持ち、必ず決まった順番で階段を掃く。
彼は乙姫を見ると、いつも決まって「今日はどら焼きですか」と聞く。
乙姫は「今日はどら焼きです」と答える。
そのやりとりは、もはや儀式のようだった。
田中さんの箒の掃き方には、癖があった。
踊り場でいったん止まり、階段を上から下へ、
右、左、右、と三回で一段を払う。判で押したように同じ。
人は、意味の分からないことに囲まれると、
自分の手順にしがみつく。俺のカレンダーの丸と同じだ。
田中さんの『今日はどら焼きですか』も、
たぶん、正気を保つための呪文だったのだと思う。
この建物の全員が、それぞれの小さな儀式で、崩れそうな日常を支えていた。
大家に至っては、契約書にこういうことがあると記載されていると言われた。
契約書は確かに分厚かった。
しかし、俺は重要なところしか読んでいなかった。
『第何条かに書いてありますよ』と大家は言った。
何条かは教えてくれなかった。
まったく聞いていなかったし、読んでいなかった。
あと、不法侵入なめるなよ、法治国家なめるなよ、
クマなめるなよ、とちょっと言いたかった(?)
契約書は今、押し入れの上段にしまってある。
クマ、違った、鈴が鳴って、違った催涙スプレーもっと違った、
まあなんだ、彼女が来てから、一度も開いていない。
開く気も起きない。開けば、あの営業マンが指を止めた第三十八条に、
何が書いてあるのか分かる。分かってしまう。
人は、答えが怖い時、問いごと箱にしまう。
契約書は天袋の暗がりで、除湿剤の潮解した液と、
震災の日付の新聞と、一緒に静かに湿気を吸っている。
読まれなかった条文は、読まれないことで、
かろうじて力を失っていた。
そんなこんなで、仮住まいのどら焼きガール。
ここで一句。押し入れに、謎の美少女、草生える(字余り)
偏った食事、どら焼きが主食。
朝はどら焼き、昼はどら焼き、夜はどら焼き。
時々、俺が作った味噌汁を飲む。
「味噌汁は飲み物です」と彼女は言う。
カレーは飲み物みたいなノリで言うな!
「飲み物じゃない」と俺は言う。
「では、スープです」と彼女は言う。
「スープでもない」と俺は言う。
「では、何ですか」と彼女は言う。
「味噌汁だ」と俺は言う。
「なるほど」と彼女は言う。
そして、またどら焼きを食べる。
味噌汁の具は、豆腐とわかめと、時々ネギ。
彼女は豆腐だけを先に食べ、わかめを後回しにする。
その食べ方には、何か確固たる信念があるように見える。
「わかめは、海の記憶だから、最後にとっておくんです」
と一度だけ言った。冗談だと思って笑った。
乾燥わかめが湯で戻ると、細胞が水を吸って何倍にも膨らみ、
鮮やかな緑を取り戻す。あれは死んだ海藻が、
湯の中で一瞬だけ生き返る現象だ。
彼女はそれを、椀の底で、じっと見ていることがあった。
海側の担当が、椀一杯の海を名残惜しそうに見ている、
なんてことを、この時の俺はまだ知らない。
彼女は相変わらず、寝る時は押し入れを選ぶ由緒正しい居候。
まるで青いロボット猫のように、
押し入れが定位置で、夜になるとタヌ寝モードに入る。
(ただ押し入れの位置は上ではなく、下だが、)
下段の押し入れには、彼女専用の布団が敷かれている。
俺が使わなくなった古い敷き布団と、百均で買った小さな枕。
それだけが、彼女の部屋だった。
敷き布団のカバーは、もともと灰色だったが、
今は少しだけ薄い桜色に染まっている。
彼女の体温か、それとも何か別の要因か。
枕の横には、小さな文庫本が一冊。タイトルは読めない。
表紙が逆さまになっている。
灰色の繊維が桜色に転じる化学変化を、俺は説明できない。
染料は外から与えなければ色は生まれないのが、
地上の化学の建前だ。だが、この布団は、内側から色を得ていた。
まるで、繊維の一本一本が、彼女の眠りの何かを吸って、
ゆっくり花になろうとしているみたいに。
文庫本の背表紙を、一度だけそっと起こして見た。
タイトルの文字は、見た瞬間は読めるのに、目を離すと忘れる。
それだけは、はっきりしていた。
『図書館の魔女』か『本と鍵の季節』か、
はたまた『ビブリア古書堂の事件手帖』だろうか。
そしてルーティンも確立されていた。
俺がコンビニからどら焼きを買って帰ると、
玄関のドアを開ける音だけで察知し、
「わひゃー!」という奇声と共に襖から飛び出してくる。
完全に『キェェェェェ!!』って猿叫キタコレ!
薩摩藩士かお前は!
その飛び出し方は、まるでカタパルトから放たれた石のように勢いがある。
畳に着地する時、小さなトンという音がする。
その瞬間の彼女の表情は、
子供がクリスマスプレゼントを見つけた時のような、
純粋な喜びに満ちていた。
目はキラキラと輝き、口元は大きく緩み、頬はほんのり赤く染まっている。
番犬代わりになるのかもしれない。
もちろん番犬のはずだ、タヌキではない。
何故かそう自分に言い聞かせる必要があった(?)
彼女の飛び出すタイミングは、ドアノブを回す音ではなく、
鍵を差し込む音でもなく、俺の足音が玄関の三和土に触れた瞬間だった。
まるで足音の周波数を聞き分けているかのようだ。
たたき
三和土、石灰と土と苦汁を叩き締めた、あの硬い土間だ。
そこに靴底が触れると、コンクリートとは違う、詰まった低い音がする。
彼女はその音の質を聞き分けていた。
人には、足音に指紋のような個性がある。
歩幅、重心の移り方、踵から爪先への抜け方。
彼女は、世界中の足音の中から、俺の一つだけを、
暗い押し入れの中で待ち構えていた。番犬だ。もちろん番犬だ。
「そろそろ正体、教えてくれてもよくないか?」
彼女は畳の上で正座し、
湯呑みを両手で包み込むようにして持っていた。
湯呑みは、俺が百均で買ったもの。
白地に青い波模様が描かれている。
彼女はそれを、まるで宝物のように大切に扱う。
その姿勢は茶道の心得がある人のそれで、背筋が美しく伸びている。
湯呑みの底には、小さな傷がある。
食洗機で洗った時にできたものだ。
彼女はその傷を、親指の腹でそっと隠すように持つ。
湯呑みの青い波模様は、いわゆる青海波、
同心円を重ねて波を表す平安の昔から続く文様だ。
無限に連なる波は、平穏と永続を願う吉祥の意匠。
彼女はいつも、その波の一つに親指を添えて持つ。
海側の担当が、百円の湯呑みに描かれた海を、掌で温めている。
傷を隠すように持つのは、たぶん、優しさとは別の何かだ。
欠けたものを、欠けたまま抱える手つき。
「それを言葉にしてしまったら、
私は普通の女の子になってしまう気がして―――」
キャンディーズか!
『普通の女の子に戻りたい!』って俺も古いな(?)
彼女の声には、どこか切ない響きがあった。
まるで魔法が解けることを恐れているかのような・・・・・・。
その声は、少しだけ震えていた。
湯呑みを持つ指先も、微かに震えている。
しかし、表情は穏やかで、微笑みを絶やさない。
その微笑みは、能面のように完璧で、
しかし能面のように、どこか悲しげだった。
能面は、それ自体は無表情に彫られている。
悲しみも喜びも、面には刻まれていない。
見る者が、面をわずかに俯かせる曇り、上向ける照り、
―――その角度の中に、勝手に感情を読み取る。
彼女の微笑みも、そうだった。完璧に中立で、だからこそ、
こちらの心の状態を全部映してしまう。
俺が悲しいと、彼女は悲しく見えた。
俺が彼女を失うことを恐れ始めていたから、彼女の微笑みは、
そのぶんだけ、別れの色を帯びていた。
「いや、事情はよく分からないんだけど、
普通どころか大事件だって、これ、不法侵入だし、
不法占拠だからね、管理会社や大家はともかく」
最低自分の身の回りで、不法侵入や不法占拠は成立しないだろうし、
何より俺がそういうことを成立させな―――い・・。
じゃあ、何で言うのかって言ったら、
その代価として、きちんと説明して欲しいという意味だ。
つまり、黙認する代わりに、情報をくれということ。
俺は別に、彼女を警察に突き出すつもりはない。
しかし、何も知らないまま一緒に住むのは、
いくらなんでもリスクが高すぎる。
リスク、という言葉が、妙に安っぽく響く。
本当のリスクは、彼女を失うことなのかもしれない。
そんな考えが、頭の隅をよぎる。
リスクとは本来、サイコロを転がすを語源に持つ、
確率と損失の掛け算のことだ。
金融マンが端末に向かって計算する、あの冷たい数字。
だが、俺が今、天秤に載せているものには、
確率も損失額も定義できなかった。
この子がいなくなる世界の損失を、円で見積もれる人間がいたら、
そいつの心は、どこかが壊れている。
俺は、計算できないものを、計算できるふりで語ろうとしていた。
それがいちばん、安っぽかった。
チープといえば、もっと安っぽいJ-ポップ(?)
「でも、近いよ。
もう少しで、おでこビームを放つ条件が揃うから」
ピッコロさんかよ! 魔貫光殺砲でも撃つんか!
「何ビームだって?」
彼女の額を見ると、確かに微かに光っているような気がする。
錯覚かもしれないが、小さな星のような光点が点滅しているように見えた。
その光は、蛍の光のように儚く、
しかし、確実にそこに存在していた。
その光は、よく見ると、小さな小さな文字の集合体のようにも見えた。
読めない。だが、意味だけが伝わってくる。
まだ、だめ、もうすぐ。
蛍の光は、ルシフェリンという物質がルシフェラーゼという酵素で酸化される、
生物発光、バイオルミネッセンス。
熱をほとんど出さない、ほぼ百パーセントが光になる、
生き物の作る最も効率的な光だ。
深海の魚も、これで闇の底に文字を書く。
彼女の額の光も、熱がなかった。
近づけた手のひらは、少しも温かくならなかった。
冷たい光で、皮膚の下から、彼女は何かを綴っていた。
カウントダウンのように。もうすぐ。何が、もうすぐなのか。
*
謎はいくつもある。
冷蔵庫を開けると、謎の食品ラベル。
リュウジのバズレシピの商品名みたいな、
あの中毒性のあるネーミングセンスが、うちの冷蔵庫を侵食していた。
『至高の』『悪魔的』『虚無』
―――あの語彙が、うちの冷蔵庫の中に宿っている。
【乙姫漬け(賞味期限:最後の月曜)】
透明なタッパーに入った淡いピンク色の漬物のようなもの。
野菜なのか果物なのか判別がつかない。
形状は大根のようでもあり、リンゴのようでもある。
匂いは、梅干しとマンゴーを混ぜたような、甘酸っぱい香り。
タッパーの蓋には、小さな水滴がついている。
内側から湧き上がる水分。まるで、漬物が呼吸しているかのようだ。
漬物が水を出すのは、浸透圧のせいだ。
細胞の外の塩分濃度が高いと、細胞は自分の中の水を、
濃い方へ濃い方へと差し出してしまう。だから漬物は、しんなりする。
だが、このタッパーは逆だった。
水滴は蓋の内側、つまり中身より高い位置に、湧いていた。
水が、重力に逆らって、上に向かって滲み出ている。
浸透圧では説明がつかない。最後の月曜という賞味期限も。
カレンダーのどこにも、そんな曜日はない。
【メロン味の約束】
ってなんだそのエロゲのタイトルみたいなやつ、
と思った人は心が穢れているので滝行してくださ~い(?)
小さなゼリー状の物体が密閉容器に入っている。
光に透かすと虹色に輝き、まるで宝石のような美しさだった。
振ると、中で小さな粒子が舞う。
まるで雪の結晶が、ガラスの中で踊っているようだ。
その粒子は、振るのをやめると、ゆっくりと元の位置に戻る。
まるで、記憶が重力に従っているかのようだ。
ゼリーは、ゼラチンや寒天やカラギーナンといった長い分子が網の目を作り、
その中に水を抱き込んだゲル、液体でも固体でもない、コロイドの一種だ。
光に透かすと虹色に見えるのは、
内部に規則正しく並んだ微細な構造が、
シャボン玉の膜のように光を干渉させているから。
だが、振った粒子が元の位置に戻るのは、物理ではない。
拡散した粒子は、普通、二度と元の配置には戻らない。
エントロピーは増える一方だからだ。時間を巻き戻さない限り。
―――この容器の中では、時間が、巻き戻っていた。少しだけ。
【牛乳の形をした記憶】
一見普通の牛乳パックだが、中身は乳白色の液体ではなく、
光る粒子が浮遊している不思議な飲み物。
振ると粒子がキラキラと舞い踊る。
パックの表面には、小さな文字で
「思い出は、いつもそこにある」と書いてある。
黙れ、と言いたくなる五秒前。広末涼子の歌にもあった、
ずっと前から、黙リェ、言いたかった、(?)
パックの底には、賞味期限の代わりに、いつでも、と書かれている。
製造者の名前はない。住所もない。電話番号もない。
そもそも牛乳が白いのは、微細な脂肪球とタンパク質が、
あらゆる波長の光を等しく散乱させるから。
チンダル現象、あるいはミー散乱と呼ばれるやつだ。
色のない粒子が集まると、白くなる。
この記憶のパックの中身は、その白の代わりに、
粒の一つひとつが自分で光っていた。散乱ではなく、発光。
受け取った光を跳ね返すのではなく、内側から差し出す光。
俺は思う。思い出とは、たぶん、そういうものだ。
過ぎた光を反射しているのではなく、思い出す側が、
今、もう一度、灯している。
これらはすべて彼女の手によるものだった。
彼女がいつ、どこで、どのようにして作ったのかはまったく不明だった。
冷蔵庫の奥には、彼女専用の小さな棚があり、
そこには他にも様々な瓶や容器が並んでいた。
"雨の日の約束"
"風の記憶"
"星のかけら"
それらはすべて、彼女がこの部屋に来てから作ったものらしい。
しかし、材料はどこにも見当たらなかった。
彼女は、何もないところから、それらを作り出しているのだ。
彼女が作る時、部屋の空気が少しだけ変わる。
匂いが変わり、温度が変わり、光の屈折率が変わる。
まるで、別の世界の法則が、一瞬だけこの部屋に漏れ出しているかのようだ。
光の屈折率が変わる、というのは、空気の密度が変わるということだ。
陽炎が景色を歪ませるのと同じ原理で、彼女が作るあいだ、
部屋の奥の柱が、水中のもののように、わずかに揺らいで見えた。
何もないところから物質は生まれない、質量保存の法則。
地上で最も破られない約束のひとつ。
彼女はそれを、台所の隅で、鼻歌まじりに破っていた。
無から有を作るのに必要なエネルギーは、莫大なはずだ。
その代償を、彼女はどこかで、たぶん自分の何かで、
静かに払っていた。
乙姫漬けを恐る恐る口にしてみた時の驚きは忘れられない。
甘くてしょっぱい、これまで食べたことのない複雑で奥深い味がした。
まるで過去の甘い記憶と、
未来への塩辛い不安が同時に舌の上で踊っているような、
時間そのものを味わっているような錯覚に陥った。
最初は甘く、次に酸味が広がり、最後にほのかな苦味が残る。
まるで人生そのものを凝縮したような味だった。
その苦味は、コーヒーでも、ビールでも、ゴーヤでもない。
もっと個人的な、しかし普遍的な苦味。
誰もが一度は味わったことのある、しかし言葉にできない苦味。
人間の舌が感じられる基本の味は、甘・塩・酸・苦・旨の五つしかない。
あとは全部、鼻で嗅ぐ風味と、記憶が勝手に足す意味だ。
だから、この漬物の中で踊っていた過去や未来は、
舌が拾ったのではなく、海馬が翻訳したものだ。
乳酸発酵が生む酸味、アミノ酸が生む旨味、
それらは化学が説明できる。
だが、もう二度と戻らない夏休みの最後の日の味を、
どの受容体が受け取ったのかは、誰にも分からない。
分からないまま、俺の目の奥は、確かに熱くなった。
ただ、どうしてそのようなものを商品開発のコンセプトにし、
パッケージングしようと思ったのかはつゆとも知らない(?)
メロン味の約束は、口に含んだ瞬間、
心臓の奥が甘酸っぱく締め付けられた。
そして何か大切な約束を思い出すような、
胸の奥がキュンとする感覚に包まれる。
具体的に何の約束かは思い出せないのだが、
確実に忘れていた何かがあったのだと確信できた。
それは、子供の頃に交わした約束。
誰かと、どこかで、何かを。
しかし、その相手も、場所も、内容も、
霧のように霞んで、思い出せない。
ただ、温かい感情だけが、胸の奥に残った。
その温かさは、日向の匂いがした。小学校の校庭の、砂の匂い。
誰かの笑い声。遠くで鳴るチャイム。
すべてが一瞬で、しかし鮮明に。
日向の匂いの正体は、太陽の紫外線が布や土の有機物を分解して生まれる、
ごく微量の揮発性物質だという説がある。
つまり、あの匂いは陽に灼かれた時間そのものの匂いだ。
校庭の砂が踏み固められ、水を撒かれ、また乾く、
その繰り返しの中に、子供だった俺のすべての午後が埋まっている。
約束の相手の顔は、霧の向こうだった。
だが、約束を交わした時の陽の角度だけは、何故かはっきりしていた。
誰かと、西陽の中で、指切りをした。
小指の、あの、痛いくらいの力の記憶だけが。
牛乳の形をした記憶を飲んだ時は、さらに衝撃的だった。
咽喉を通った瞬間、忘れていた幼い頃の記憶が、
鮮明にフラッシュバックしたのだ。
母親の温かい手のひらの感触、夏祭りの提灯の温かい光、
初めて自転車に乗れた時の興奮。
母親の手のひらには、小さな傷があった。
料理で切った傷。
夏祭りの提灯には、小さな文字で『安全祈願』と書いてあった。
自転車は、青いフレームのものだった。
補助輪を外した時、少しだけ怖かった。
そういった断片的だが強烈に鮮やかな記憶が、
映画のスクリーンに映し出されるように脳裏に蘇った。
総じて、味は説明不能のインパクトがあった。
科学的な分析は不可能だが、感情的にはとても豊かな体験だった。
それもまた、何故か涙が出そうになるほど懐かしく、
温かい気持ちになれた。
涙は結局、出なかった。だが、咽喉の奥が熱くなり、
鼻の奥がつんとした。それは、悲しみではなく、感謝に近い感情だった。
記憶は、思い出すたびに、少しずつ書き換わる。
神経科学ではこれを再固定化と呼ぶ。
―――思い出した瞬間、その記憶はいったん柔らかくほどけ、
今の感情で上書きされてから、また固め直される。
だから、大切な記憶ほど、思い出すたびに、少しずつ、
今の自分の色に染まっていく。
彼女の作った記憶を飲んだ時、俺の中の母の手のひらの傷は、
たぶん、実際より深く、実際より温かくなった。
彼女は、俺の過去を、優しい方へ、そっと改竄していた。
それは罪だろうか。だとしたら、いちばん優しい罪だ。
頭の中に検証してみたというYouTubeのタイトルが浮かぶ。
リュウジのバズレシピなら料理の匂いを説明してくれそうなのに、
食べ物の側から人間へ侵食してきている。
「これも乙姫タイムの一部?」
彼女は神秘的な微笑みを浮かべながら答えた。
「それは前夜祭―――時間のタペストリーを織り始める準備・・」
厨二病設定乙! 左手が疼くのか!
でも彼女の言葉は常に詩的で、具体的な説明にはならない。
しかし、何故かその抽象的な表現が心に響く。
俺の現実認識が少しずつ破れ始めているのを自覚していた。
常識的な判断力が徐々に麻痺し、彼女の不思議な世界観に引き込まれている。
タペストリー。今なら、あれが比喩ではなかったと分かる。
たていと
機織りでは、まず縦にぴんと張った糸、経糸を用意する。
ぬきいと ひ
それが時間の骨組みだ。そこへ、横糸、緯糸を、杼という小舟に乗せて、
右から左へ、左から右へと通していく。
一段ごとに、少しずつ、絵が立ち上がる。
彼女の作る記憶の食べ物は、たぶん、これから織る布に通す、
色とりどりの緯糸だった。前夜祭とは、糸を染めていた期間のことだ。
俺の過去から色を借りて。
一緒にご飯食べ、駄弁り、
夜には押し入れから聞こえる彼女の悩ましい寝息が、
俺の日常の一部になっていた。
その度に、小さな罪悪感と、それ以上の興奮が入り混じった、
複雑で奇妙な感情に支配された。
罪悪感と興奮が入り混じった、複雑で奇妙な平穏がそこにはあった。
その平穏は、嵐の前の静けさではなく、嵐の中の静けさだった。
外では常識が吹き荒れている。
だが、この部屋の中だけは、何故か穏やかだった。
台風の目だ、と思った。半径わずか数十キロの、風の消えた静かな円。
その壁のすぐ外では、毎秒数十メートルの常識が渦を巻いて吹き荒れている。
だが、目の中は青空すら覗く。
この部屋は、俺の人生に空いた、そういう円だった。
そして台風の目は、動く。留まってはくれない。
いつか必ず、目の壁が、こちらへ来る。
俺はそれを、うっすらと知りながら、
静けさの中でどら焼きの袋を開けていた。
*
そこから済し崩し的に、二週間が経過する。
歯磨きする乙姫を見た。
クリアクリーンだ。
歯ブラシは俺の予備をしゃこしゃこ使っている。
毛先が少し開いているので、
もうちょっといるようなら買ってこようと思う。
彼女は鏡を見ずに磨く。目を閉じて、何かを考えながら磨く。
磨きながら、時々、口を動かして何か数えている。
奥歯の本数か、あるいは、この部屋で過ごせる残りの日数か。
洗口液はどら焼きを食べたあとに用いる道具らしく、
使用頻度が高いが、虫歯は可哀想だ。
それから、コンビニについてくる乙姫もいた。
後ろを振り返ると、浮遊霊がいた。
背後霊キタコレ! 守護霊にしては距離が近い!
彼女は店の前で一度立ち止まる。自動ドアが開くのを、じっと待つ。
まるで、ドアが開く瞬間に特別な意味があるかのように。
「最初に作られた自動ドアは開き戸だったらしいぞ」
「うん・・・・・・」
「アホ毛見えるぞ、あと、頭にポッキーついてるぞ」
「うん・・・・・・」
赤外線センサーが人を感知して扉が滑る、あの○.数秒。
彼女はそこで、いつも小さく息を吸う。
境界を越える者の作法、とでも言うように。
海と陸、押し入れと部屋、店の外と中。
彼女にとって、境目はすべて、
竜宮城の門と同じ重さを持っていたのかもしれない。
洗濯物を勝手に畳む乙姫もいた。
タオルは必ず三つ折り。シャツは袖から畳む。
靴下は左右を重ねて、くるりと丸める。
その畳み方は、どこかで誰かに習ったかのようだ。
三つ折りのタオルは、縁がミリ単位で揃っている。
布を扱う手つきが、洗濯物のそれではなかった。反物を畳む手だ。
織り上がった布を、傷めないように、目に沿って畳む。
機織りをする者の手。
伏線は、いつも、いちばん生活的な場所に隠れていた。
「ケニアでは洗濯物の上にシートをかぶせる、
最も多いのが水だ。何らかの理由で、上の階から水が落ちてくる。
そしたら洗濯物が濡れる。
なのでシートで覆って濡れないようにする。
水が落ちてきたら、とりあえず喧嘩が勃発。
でも、喧嘩したって落ちてくる水が止まることもないから、
仕方なくナイロンのシートで覆う」
「わかる、どら焼き一個くれたら許す(?)」
「でもシートをかぶせたら、
服の中に何日も水が残っていたような匂いがする。
風が強かったら干している洗濯物などに埃が付くし、
外で煙が焚かれていたら煙の匂いも付く」
「わかる、どら焼き一個くれたら許す(?)」
、、、、、、、、、、、、、、
だからというわけじゃないけど、
どら焼き新商品に興奮する乙姫。
新商品の名前は『黒糖どら焼き』。
こくとうどらやき、こくとうどらぐーん、くろびかりどらぐーん、
って普通に読めや(?)
彼女はパッケージを三回読み、成分表示を二回確認し、
最後に「これは文明です」と呟いた。
―――ああ、俺は、
文明開化の音がする~♪
って、歌いたい、どら焼きだよ~♪
、、、、、、、、、
こほんこほんこほん(?)
成分表示の黒糖(沖縄県産)の部分を、指で二度なぞった。
黒糖は、サトウキビの搾り汁を煮詰めただけの、精製されていない糖、
ミネラルと、島の陽射しと、潮風が、そのまま結晶に閉じ込められている。
彼女が文明と呼んだのは、多分、甘さのことではない。
人が、遠い島の太陽を、菓子の中に運んでこられるようになった、
その途方もない距離のことだ。
それから押し入れでSwitchやる乙姫もいた。
Switchの画面の光が、押し入れの内側を青く照らす。
彼女はイヤホンをつけていない。
ゲーム音が、襖の隙間から漏れてくる。
液晶が青く見えるのは、
バックライトの白色LEDが青色の光を強く含むからだ。
その冷たい青が、飴色の古材と和紙を照らすと、押し入れの中だけ、
深海のような色になった。海側の担当が、深海の色をした箱の中で、
地上のゲーム機を握っている。その絵面の、静かなちぐはぐさ。
押し入れゲーム実況、というジャンルがもしあれば、彼女は開拓者だ。
撮れ高しかない。ただし本人は撮っていないし、視聴者も俺一人だし、
収益化もされていない。
スーパーで野菜を見る乙姫もいた。
「何見てるんだ?」
「ナスです」
「見りゃわかる」
当たり前体操~♪
、、、、、、、、、
こほんこほんこほん(?)
「違います。ナスであることを頑張ってる」
「何言ってるんだ、このタヌキは」
通りすがりのお婆さんがこっちを見てきたので、そう言った。
「この子、昨日はキュウリになりたかったかもしれない」
彼女はナスを手に取り、へたの部分をそっと撫でた。
まるで、動物の頭を撫でるように。
ナスの皮は、艶やかで、紫色の光を反射していた。
ナスの皮のあの深い紫は、ナスニンというアントシアニン色素の色だ。
植物が紫外線から身を守るために纏う、生きた日傘。
彼女の指の下で、その紫は、照明の光を油膜のように滑らせた。
ナスであることを頑張ってるって何だ、笑い飛ばそうとして、
しかし、できなかった。彼女自身が、多分毎朝、乙姫であることを、
頑張っていたからだ。何かであり続けるのは、思うより、力がいる。
ポストを確認する乙姫もいた。
毎日郵便受けを見る。
「何か来るのか?」
「運命が」
「チラシしか入ってないぞ」
「運命も最初はチラシなんです」
郵便受けの中には、スーパーの特売チラシ、不動産の広告、
そしてなぜか乙姫様へと書かれた白い封筒が一通。
差出人不明。切手は貼られていない。彼女はその封筒を、
チラシの間にそっと挟んで持ち帰った。
切手がない、ということは、郵便局を通っていない、ということだ。
誰かが直接、この郵便受けに、手で入れた。
深夜の廊下を、足音もなく。
いやどうだろう、常識が通じないなら、
最初から入っていたみたいにそこに収まっていたのかも知れない。
封筒の紙は、俺の知っているどの紙より白かった。
蛍光増白剤の白ではなく、まだ何も書かれていない未来のような白。
彼女はそれを開けなかった。
開けずに、日常のチラシの中に隠すように挟んだ。
運命は、開封を、いつも少しだけ先延ばしにできる。
できるうちは。
困ったことに勝手に部屋の模様替えする乙姫もいた。
会社から帰宅すると、本棚が全部逆向きになっていた。
「何した!?」
「タイトルを隠しました」
「何で!?」
「本が内容で評価される社会を作りたいので」
意識高い系か! スタバでMacBook広げてろ!
けど、中田敦彦なら泣いて喜ぶ思想だ。
『そう!本を読め! 中身で語れ!』と言うかな、言わないかな。
ただ、あの人は本の中身を十分で要約してくれる人でもあるので、
そもそも背表紙を隠す前に、みんな読んだ気になっている。
それが現代だ。
背表紙には、確かにタイトルが見えない。
だが、ページの小口には、彼女が鉛筆で小さな文字を書き込んでいた。
これは物語、これは詩、これは嘘、と。
小口とは本を閉じた時の、紙の断面のことだ。
そこに鉛筆で、たった数文字。分類のようで、分類ではない。
これは嘘と書かれた背表紙を抜くと、それは統計学の教科書だった。
彼女の分類は、ジャンルではなく、多分、俺という人間へのメッセージだった。
物語と詩と嘘。俺の人生を構成している、三種類の糸。
あと、困ったことにWi-Fiに文句を言う乙姫もいた。
「今日の電波、機嫌悪いですね」
「電波に機嫌はない」
「あります」
そこは『あると思います!』だろ天津木村か!
「ない」
「さっきから一言も喋りません」
ルーターのランプは、確かにいつもより暗い。
青ではなく、緑がかった青。彼女はルーターの前に座り込み、
アンテナをそっと触った。すると、ランプが一瞬だけ明るくなった。
二.四ギガヘルツ帯の電波は、水の分子を振動させる周波数に近い、
だから電子レンジと干渉するし、湿気の多い日は届きが悪くなる。
理屈はある。理屈はあるが、
彼女がアンテナに触れた瞬間にランプが明るくなった理屈は、ない。
電磁波は、人の手の温度では動かない。
動かないはずのものが、彼女の指先には、時々、応じた。
まるで、機械の方が、彼女に敬語を使っているみたいに。
洗濯物との会話もする。
休日には、ベランダでぺちゃくちゃ喋っていることがある。
光合成をしているのかも知れない(?)
それで、俺が声をかけに行くこともある。
「今日はタオルが元気ですね」
「どう見てもタオルだろ」
「洗濯物にも人生があります」
物干し竿には、シャツ、タオル、靴下、そして彼女のスカート。
風が吹くと、スカートだけが異様に大きく膨らんだ。
まるで、中に誰かがいるかのように。
ベルヌーイの定理で言えば、風速の速い側の圧力が下がり、
布は風下へ膨らむ。ただの流体力学だ。
だが、他の洗濯物が同じ風になびいている中で、彼女のスカートだけが、
風向きとは無関係に、まるで内側から空気を抱いたように膨らむのは、
定理の外だった。一瞬、その中に、脚のような影が見えた気がして、
俺は瞬きをした。瞬きのあとには、ただ、しぼんでいく布があった。
冷蔵庫を勝手に占領する乙姫には抗議したい。
冷蔵庫を開ける。
『昨日の期待』『半熟の哲学』『木曜日の予感』
と書かれたタッパーが増えている。
「これ何」
「副菜です」
「何も説明になってない」
昨日の期待は、開けるとただの卵焼きだった。
だが、味は驚くほど複雑で、甘くて、少しだけ苦かった。
半熟の哲学は、半熟卵。黄身がとろりと流れ、その色は夕焼けのようだった。
木曜日の予感は、なぜかカレーだった。
木曜日にカレーを食べる理由は、彼女は教えてくれなかった。
卵の黄身が半熟でとろけるのは、六十五度から七十度のあいだ、
タンパク質が固まりきる手前で火を止めるからだ。
温度が一度違えば、哲学は台無しになる。
リュウジなら、『はい、ここ火止めて! 余熱! 余熱でいくから!」
と叫ぶポイントだ。台詞に起こすと、
ちょっとオカマっぽい感じになる(?)
あの人の温泉卵レシピは神がかっている。
でも彼女は、レシピも温度計も見ずに、それをやる。
バズレシピの、さらに上位互換。
バグレシピだ、そして韻を踏んで恥ずかしい中学生の出来上がりだ。
彼女はその一度を、体温計もなしに、指を鍋肌に近づけるだけで、
正確に当てた。木曜のカレーは、海上自衛隊の習慣が有名だが、
あれは曜日感覚を失いがちな艦上で、金曜を知るための錨だったという。
長い航海の中で、人は曜日という陸の記憶にしがみつく。
彼女もまた、押し入れという小さな艦の中で、
木曜を、カレーで数えていたのかもしれない。
深夜にコンビニに行くと、そろそろとついていく。
コンビニに行くと言っていないのに、コンビニですねと言った。
そして、新作どら焼きを発見した。
新作どら焼きを見つけた瞬間の彼女の顔は、
仲里依紗の爆発的なリアクション動画を思わせるほど分かりやすく変化した。
目が開き、口が少し開き、肩が上がる。
本人は無表情のつもりなのに、全身が新商品と叫んでいる。
「うわ‼」
「どうした」
「文明です」
「どら焼きだよ」
「だから文明です」
これはヤバイ、ギガヤバイ、げろげろヤバイ、ギカンスヤバイ、
エターナルフォースブリザードヤバイ(?)
やばい、目がマジだ、本気と書いてそう読ませる。
真顔。彼女はどら焼きを両手で持ち、まるで聖杯でも扱うように、
そっと棚から取った。
ヒカルが高級腕時計を手に取る時の、
あの、うわ、これはヤバい、の表情に近い。
語彙力低下現象。
ただし対象は税込百四十八円のどら焼きだ。
彼女の中では、これが最高級品なのだ。
価値の基準が、この世の相場と接続していない。
じゅるり、でも、食欲とはちゃんと接続してる。
レジの店員は、そんな彼女を見て、
少しだけ微笑んだ。店員の名札には留学生を思わせる名前があった。
彼はどら焼きを聖杯のように掲げるこの小柄な客に、もう慣れていた。
深夜のコンビニの蛍光灯は、演色性の低い、平たい光だ。
誰の顔も、少しだけ青白く、少しだけ疲れて見える。
その光の下で、どら焼きを両手で捧げ持つ彼女だけが、
何故か、色を持っていた。
あと、押し入れの中からゲーム実況がすることもある。
夜、押し入れから声がしてきた。
「いや今の当たり判定おかしい!」
ガラッ、普通にSwitchやってる。
「何やってるんだ」
「乙姫タイムの研修」
画面には、見知らぬゲームのタイトル。
主人公は、何故かどら焼きを集める旅に出ていた。
彼女はコントローラーを握り、親指を素早く動かす。
その指捌きは、とても初心者とは思えない。
『当たり判定(ヒットボックス)』―――キャラクターの、
ポカンとした見た目とは別に、内部で計算される、
目に見えない衝突の輪郭のことだ。
見えている姿と、実際に当たる範囲は、いつもズレている。
彼女がそれに文句を言う姿を見て、俺は妙に納得した。
彼女こそ、見た目と当たり判定が、いちばんズレている存在だったから。
可愛い女の子の輪郭の内側に、
まったく別の、大きな何かの判定が入っていた。
ニュースを見る乙姫もいた。
「悲しい事件ですね」
「そうだな」
「でも今日の夕焼けは綺麗です」
「脈絡がない」
「だから世界は続いてしまうんです」
テレビの画面には、事故のニュース。
彼女はリモコンで音量を下げ、窓の外を見た。
夕焼けは、確かに綺麗だった。オレンジと紫と、少しだけ赤。
彼女の横顔も、同じ色に染まっていた。
夕焼けが赤いのは、低い角度で射す太陽光が、
分厚い大気の層を長く通るあいだに、
波長の短い青い光が散らされて散らされて、
最後に波長の長い赤だけが残って届くからだ。
レイリー散乱、それは悲しみと同じ理屈かもしれない、と思った。
青い部分が全部散っていって、
最後に、赤くて長いものだけが、地平線に残る。
だから世界は続いてしまう。
彼女の言い方には、続くことを喜ぶ響きと、
続いてしまうことを悼む響きが、同じ量だけ入っていた。
あと、俺の履歴書の残りで勝手に履歴書を書く乙姫もいる。
机の上に履歴書。
『氏名:乙姫』『職歴:竜宮城』
『資格:耳を澄ますこと』『志望動機:どら焼き』
面接官が『お祈り申し上げます』の、
確定演出キタコレ!
学歴欄には、海の底と書いてあった。
きっと読んだ人はトリトンって言う。
住所はどこでもとある。面接官の頭はどこでもドアを考える。
電話番号は聞こえる声、なるほど、心霊関係へ希望する(?)
しかし資格の耳を澄ますことなんて、冗談の欄のはずだが、
そこだけ筆圧が強かった。竜宮城で、乙姫は何をしていたのか。
浦島太郎の昔話は、彼女がもてなす側だったと伝える。
もてなすとは、相手の望みに、先回りして気づくことだ。
足音を聞き分け、冷蔵庫の中身を見ずに知り、
俺の性癖をアンケートで測る、全部、耳を澄ますことの、
地上での応用だった。竜宮城の実務経験は、
この六畳一間で、静かに活かされていた。
突然近所のおばちゃんと仲良くなる乙姫もいた。
俺もまだ顔を覚えられていないのに、
近所のおばちゃんから、
「乙姫ちゃん、今日はどら焼きの日?」と話しかけられる。
俺だけ事情を知らない。おばちゃんは、乙姫に飴玉をくれた。
乙姫はそれを、その場で口に入れた。飴玉の色は、何故か青色だった。
青い飴玉、合成着色料の青一号か。彼女が口に入れた瞬間、
目を細めて、遠くを見た。青は、自然界の食べ物にはめったにない色だ。
空と、海だけが、青い。
おばちゃんがどこで青い飴を手に入れたのかは知らない。
だが、乙姫がそれをまるで故郷の欠片みたいに、
大切に舐めていたのは、確かだった。
海の色を口の中で溶かすと波の音が聞こえるのかも知れない。
*
そして二週間経った深夜零時を回った頃、彼女から突然の提案があった。
「深夜一時に近所の図書館へ行きましょう」
「図書館って、夜は閉まってるだろ」
開いてます、あなたのローソン、じゃないんだから!
ちょっと古いかな、いや、大昔だよ、石器時代だよ、
ティラノサウルスが海で泳いでいるよ(?)
「大丈夫。今夜は特別な夜だから」
彼女の確信に満ちた表情に押し切られ、俺達は深夜の街を歩いた。
外は少し冷えて、息が白くなった。
街灯の光が、路面に小さな円を描いている。
遠くで犬の鳴き声が聞こえる。
街灯の下を歩く彼女のシルエットは幻想的で、
まるで夢の中の出来事のような非現実感があった。
彼女の足音は、まるで猫のように静かだった。
アスファルトの継ぎ目、落ち葉、小さな石。
彼女はそれらを避けずに歩く。足音はしない。
だが、歩くたびに、彼女の影だけが少し遅れてついてくる。
まるで、影が彼女を追いかけているかのようだ。
街灯はナトリウムランプのオレンジで、そのせいで路面の落ち葉も、
彼女の頬も、同じ琥珀色に見えた。
ナトリウムの光は波長がほぼ単一だから、
その下では世界がほとんど色を失い、明暗だけの版画になる。
その版画の中で、彼女の影だけが、コンマ数秒遅れた。
光より遅い影というものは、この宇宙には存在しない。
影は光と同時に生まれる。
彼女の影は、別の時刻から、彼女を追いかけていた。
俺は、それに気づかないふりをして、隣を歩いた。
息が白いのは、呼気の水蒸気が冷たい夜気で凝結するからだ。
彼女の息も、白かった。
少なくとも、その夜は彼女はまだ息をする側にいた。
図書館に到着すると、確かに入口のドアが開いていた。
普段は確実に施錠されているはずなのに、
まるで俺達を待っていたかのようだ。
ドアの取っ手には、小さな花の飾りが付いていた。
その花は、造花ではなく、生花だった。白い小さな花。名前は知らない。
だが、匂いは知っていた。彼女の髪から時々するあの匂い。
梔子だ、とあとで調べた。夜に強く香る、白い花。
受粉を蛾に頼る花は、闇の中で目立つよう白く、
遠くまで届くよう強く香る、夜のための進化した匂い。
彼女の髪から、時々していたのは、これだった。
昼の花ではなく、夜に開く花の匂い。
彼女がどちら側の住人なのかを、匂いはずっと前から告げていた。
館内は薄暗く、非常灯だけが淡い光を放っている。
足音が静寂の中に響く。本の匂いが、鼻腔をくすぐる。
古い紙と、インクと、埃の匂い。
図書館の空気は、外よりも少しだけ温かい。
書架の間を抜けると、空気が動き、埃が舞う。
その埃は、非常灯の光を受けて、金色に輝いた。
古い本のあの匂いは、紙のリグニンやセルロースが、
何十年もかけてゆっくり分解される時に出る、揮発性有機化合物の匂い。
バニラに似たリグニンの甘さ、アーモンドに似た成分、
干し草のような草いきれ。つまり、図書館の匂いとは、
無数の本が、極めて緩やかに朽ちていく匂いだ。
知識は朽ちながら甘く香る。
彼女は迷いなく古文書コーナーへ向かった。
そこで俺が発見したのは、信じがたい光景だった。
『乙姫タイムについての研究資料』というのがあった。
著者の名前は―――俺。
背表紙には、確かに俺の名前が印刷されている。
しかし、俺はこんな本を書いた覚えはない。
岡田斗司夫が『いいですか、これはね、"因果の入れ子構造"なんですよ』
とニコ生で長尺の解説を始めそうな案件だ。
考察勢が三時間の動画を上げるやつ。だが解説されたところで、
目の前の現実は変わらない。俺の名前の背表紙は、今、確かにここにある。
ページを開くと、そこには俺の筆跡で、
びっしりと文字が書き込まれていた。
『乙姫タイムとは、時間の流れを操作する技術である』
『その第一段階は、押し入れの内部に異空間を形成することから始まる』
『第二段階は、乙姫と呼ばれる存在を召喚することである』
『第三段階は―――』
そこで文字は途切れていた。
ページの端には、小さな挿絵があった。押し入れの断面図。
上段と下段。下段には、小さな人型。
上段には、小さな星。矢印が、下から上へ向かっている。
紙は和綴じで、四つ目綴じ、右端に四つの穴を開け、糸で綴じる、
いちばん基本の製本だ。だが、糸が新しかった。麻の糸に、まだ張りがある。
表紙は古び、中身は俺の筆跡、綴じ糸だけが真新しい。
過去に書かれ、たった今、綴じられた本。
挿絵の矢印は、下段の人型から、上段の星へと向かっていた。
乙姫(下段・海)から、織姫(上段・星)へと訳の分からないことが書いてある。
移動の設計図。第三段階の続きが空白だったのは、
まだ、俺がそれを書いていないからだ。
「これから書くことが、今ここにある」
「・・・・・・書いた覚えない」
「書いたこれからが―――今ここにあるってだけ」
なんだその因果逆転論理。
でも、何処かですんなりと納得してしまってる自分がいる。
「それ、時間の因果おかしくない?」
「いいえ。愛とは非ユークリッド幾何学よ」
「返答が哲学寄りになってきてない?」
文系なのか理系なのかはっきりしろ!
ここでもし、ひろゆきがワイングラス片手に横に座っていたら、
鼻で笑って言うだろう。
素敵な鼻だ、ワインを注ぎ込んでみたくなる、
それは鼻フック症候群と呼ばれる病だ(?)
『それってあなたの感想ですよね』
『なんかそういうデータあるんですか』と。
だが、この女には効かない。
だって、データそのものを、彼女が書いているのだから。
論破の前提、事実は一つだが、この部屋では成立しない。
ひろゆきがフランスにいるのも、なんとなく分かる気がした。
あの人も、届くのに時間がかかる遠い場所から、
こっちに言葉を投げてくる側の人間だ。
彼女の理論は常に論理を超越していた。
しかし、何故かその場では納得してしまう自分がいる。
まるで彼女の存在そのものが、
常識的な思考回路をバイパスする何かを持っているかのようだ
それは、まるで魔法のようであり、
しかし、科学のようでもあり、
あるいは、ただの狂気なのかもしれない。
どちらにせよ、俺は彼女から目を離せなくなっていた。
彼女の瞳の中に、小さな図書館が映っている。
書架、机、椅子、そして、俺。
俺はそこに座っている。彼女の隣に。いや、彼女の向かいに。
その映像は、一瞬で消えた。
非ユークリッド幾何学、というのは、
伊達や酔狂で持ち出した言葉じゃなかったのだと思う。
二千年のあいだ、人類は平行線は交わらない、を疑わなかった。
だが、球の面の上では、平行に引いたはずの二本の線が、極で必ず交わる。
前提が違えば、当たり前が崩れる。
因果もそうだ。俺達の平らな時間では、原因が先で結果が後だ。
だが、彼女の住む曲がった時間では、その二本は、どこかで交わる。
結果が、原因を、追い越して現れる。
彼女の瞳の中の図書館で、俺は彼女の向かいに座っていた。
今この現実では隣にいるのに。瞳の中は、別の分岐だった。
彼女がまだ、誰の隣にもいなかった頃の。
翌朝、彼女からの突然の告白があった。
いつものように正座で向き合う形で、彼女は静かに口を開いた。
「乙姫タイムって、
恋に落ちた相手の世界に適応するためのチューニング期間なの」
なんだそのギャルゲーの裏設定とか思った、
その瞬間、彼女の瞳の中に俺の日常風景が歪んで映り込んでいるのが見えた。
しかし、その映像は時々ピクセル化し、
色彩がデジタル処理されたように変化する。
まるで現実がリアルタイムで画像処理されているかのような視覚効果だった。
微細なエフェクトが、日常と非日常の境界を曖昧にしていく。
彼女の瞳の中の俺の部屋は、時々、全く知らない部屋に変わった。
壁の色が変わり、家具の配置が変わり、窓の外の風景が変わる。
しかし、次の瞬間には、元の部屋に戻っている。
まるで、チャンネルが勝手に切り替わるテレビのように。
彼女の瞳は、時に深海のように暗く、時に空のように透明だった。
その変化は、瞬きの間に起こる。瞬きをするたびに、
彼女は少しだけ別人のように思える。
チューニング、それは受信機を、
電波の周波数にぴったり合わせる操作のことだ。
少しでもズレれば、雑音しか入らない。彼女は、俺という一つの局に、
自分の全部を合わせようとしていた。
瞳の中で部屋がピクセル化し、別の部屋に切り替わるのは、
まだ選局が完了していなかったからだ。
彼女の中で、無数の起こりえた俺の部屋がザッピングされ、
その中から、この現実の一つが選ばれていく途中だった。
深海のように暗い瞳と、空のように透明な瞳。
海側の担当が、これから星側へ異動する、その二つの職場が、
瞬きのたびに、彼女の目の中で入れ替わっていた。
「・・・・・・つまり俺が基準になってるってこと?」
「ええ。あなたが曖昧と誤解で生きている人だから、
私もそうなっていくの」
メンヘラ特有の同調圧力やめてー(?)
でも、彼女の指摘は痛いほど的確だった。
確かに俺は物事をはっきりさせることを避け、
曖昧な状態を保つことで安心する傾向がある。
例えば、友人に誘われても、行けたら行くとしか答えない。
例えば、好きな人がいても、好きかもしれないとしか思わない。
例えば、仕事で失敗しても、まあ、いいかとしか言わない。
そんな生き方を、彼女は見抜いていた。
行けたら行くと言いながら、結局行かないことが多い。
好きかもしれないと思いながら、結局告白しない。
まあ、いいかと言いながら、結局後悔する。
そんな自分を、彼女はまるで鏡のように映し出していた。
曖昧を、俺はずっと弱さだと思っていた。決められない、逃げの姿勢だと。
だが、彼女はそれを、まるで貴重な性質のように扱った。
量子の世界では、観測するまで、状態は決まっていないのが本来の姿だという。
決めることは、可能性を殺すことでもある。
好きかもしれないの中には、まだ、あらゆる好きが生きている。
彼女は、その未決定の広がりに、住み着いた。
断定する人間の、閉じた一本道には、彼女の居場所はなかったのだろう。
俺の優柔不断が、彼女を招き入れた。
人生で初めて、自分の煮え切らなさが、誰かに肯定された夜だった。
「それって・・・・・・ただのバグじゃない・・・・・・?」
「ううん。これは縁のウイルス感染型。
つまり、恋は共鳴ウイルス」
「科学で説明してるように見せかけて、語感だけで乗り切ってない?」
「そう。語感こそ、愛の重力波」
彼女の瞳は、真剣そのものだった。
冗談で言っているのではなく、本気でそう信じているのだと確信できた。
そして、彼女の肌に微かに複雑な模様が、
浮かび上がったり消えたりしているのが見えた。
まるで細胞レベルで変容しているかのような、生物学的変化の兆候。
その模様は、まるで曼荼羅のように複雑で、
見ていると吸い込まれそうになる。
しかし、瞬時に消えてしまう。
それは刺青でもなく、血管の模様でもない、
全く新しい種類の生理現象のようだった。
その模様は、時々、文字のように見えた。
読めない文字。だが、意味だけが伝わってくる。
ふざけた語感遊びのようで、俺は、ぞっとした。
重力波は、二〇一五年に初めて捉えられた、時空そのものの震えだ。
遠い宇宙で、二つの巨大な天体が、螺旋を描きながら近づき、
ついに一つに融合する、その瞬間、時空が鐘のように鳴り、
その震えが、十億年以上かけて、地球に届く。
片方の天体が、もう片方に落ちていくのを、止められる者はいない。
彼女の肌の曼荼羅は、多分、その螺旋の図だった。
二つのものが、一つになる直前の、回転する紋様。
共鳴とは、片方が揺れると、もう片方も同じ振動数で揺れ始めること。
ブランコを押すタイミングが合うと、勝手に高くなる、あれだ。
俺は知らないうちに、彼女と同じ振動数で、揺れ始めていた。
押した覚えもないのに。
その夜、また押し入れから音がした。
ドン。
しかし、今回の音は今までとは質が違っていた。
より深く、より響く音。
まるで何かの儀式が完了したことを告げる鐘の音のような、
神聖さを帯びた音だった。
その音は、部屋全体を震わせ、
空気を振動させ、俺の骨の髄まで響いた。
音は、一回だけだった。だが、その余韻は、何分も続いた。
まるで、音が部屋の中に残って、ゆっくりと消えていくかのようだった。
寺の梵鐘が、撞いたあとに長く尾を引くのは、
青銅の中で複数の周波数がうなり合い、ゆっくり減衰していくからだ。
あれを余韻と呼ぶ。だが、この夜の音の余韻は、減衰しなかった。
何分経っても、同じ強さで、部屋の空気に留まり続けた。
エネルギーは、放っておけば必ず散る。
散らない音は、外から、絶えず注ぎ足されているということだ。
押し入れの奥の、俺の知らない場所から。
チューニングの、最後のひと押しの音。
二つの振動数が、完全に、一致した音。
「くー・・・・・・チューニング終了です・・・・・・」
乙姫タイム、完了―――のような気がした。
そんな確信が俺の中に生まれた。
理由は説明できないが、何かの節目を迎えたのだと直感的に理解できた。
そして、翌朝に目覚めると彼女はいなかった。
押し入れには、やけに丁寧な正座の跡と、
『次は織姫タイムが来ます』の付箋が残されていた。
付箋は、百均で売っているような、
小さな花の形をしたものだった。
文字は、丁寧な筆圧で書かれている。
まるで、習字の手本のように美しい文字だった。
正座の跡は、畳にうっすらと残っていた。彼女の膝の形。爪先の形。
そして、何故か、小さな丸い跡。どら焼きを置いた跡のようにも見えた。
畳に残る跡は、藺草が体重で潰れて、光の反射する向きが変わるからできる。
時間が経てば、藺草は少しずつ起き上がり、跡は消える。
彼女の膝の跡は、いつまでも消えなかった。
何日経っても、そこだけ、光の向きが違った。
丸い跡は、どら焼き一個分。彼女は最後の朝、
そこにどら焼きを一つ置いて、正座して、何かを待っていたのだと思う。
迎えを。あるいは、辞令を。海側から、星側への。
(みじかびの きゃぷりきとれば すぎちょびれ
すぎかきすらの はっぱふみふみ、、、)
―――変な言葉を思い出す。
それは、どこかで聞いたことのあるような、
しかし、全く意味の分からない言葉だった。
まるで、呪文のように、頭の中をぐるぐると回る。
その言葉は、彼女の声で再生された。
低くもなく、高くもなく、ただ静かな声。
その声は、頭の中のどこか奥の、
使われていない引き出しから響いてくるようだった。
意味のない言葉が、意味のある言葉より深く残ることがある。
音だけが、記憶の奥の、使われていない部屋に直接しまわれる。
この呪文めいた一節を、俺は彼女から教わった覚えがない。
なのに、彼女の声で、はっきり再生される。
教わっていない記憶が、そこにある。
これから書くことが、今ここにある―――それは、あの本と、同じだ。
彼女は、去り際に、俺の記憶の引き出しの奥に、
まだ交わしていないはずの言葉を、そっと入れていった。
彼女の丁寧な字で書かれたメッセージ。
乙姫タイムの次は織姫タイム?
一体どんな意味があるのか、まったく想像がつかない。
それらしいことが、夜中の図書館の俺の本にも書かれてあった。
枕元には、彼女の髪の毛が数本落ちていた。
黒くて艶やかで、微かに甘い香りがする。
その香りは、どら焼きの匂いと、
何か花のような匂いが混じったものだった。
その花は、もう、梔子だと分かっていた。夜に香る、白い花。
それは確実に彼女がここにいた証拠だった。
こういうのを一度見てしまうと、YouTubeの概要欄みたいに、
記憶の下の方にずっと残る。
しかも消せない。運営に問い合わせても復旧しない。
そして、不思議な光を放つ小さな石が一つ、布団の隅に転がっていた。
手のひらサイズの楕円形で、表面は滑らかで、内部から淡い光を放っている。
触ると温かく、微かに振動している。まるで、生き物のように。
何一つとして分からなかった。
産み落としたのですと言われても、
あーそうなんだと言ってしまうぐらいには、
彼女の不思議の国のアリスちゃんぶりをちゃんと理解していたつもりだ。
手のひらサイズの楕円形で、不思議な光を放っている。
蛍光塗料のような人工的な光ではなく、
内部から湧き上がってくるような自然な輝き。
触ると温かく、微かに振動しているような感覚があった。
その石は、時々、小さく脈打つ。まるで、心臓のように。
そして、脈打つたびに、部屋の空気が少しだけ変わる。
匂いが変わり、温度が変わり、音の響き方が変わる。
卵だ、と思った。誰が何と言おうと。
表面の滑らかさは、鉱物の結晶面ではなく、有機的な曲面だった。
淡い光を放ち、体温ほどに温かく、脈のような振動がある。
蛍光塗料は紫外線を当てなければ光らない。
だがこの石は、暗闇で、自力で光った。
中で何かが、ゆっくりと、育っていた。
脈打つたびに部屋の音の響き方が変わるのは、
多分、その内側の何かが、少しずつ、外の世界の物理法則を、
自分に合うように書き換えているからだ。
かぐや姫が竹の中で育ったように。桃太郎が桃の中にいたように。
世界中の物語が知っている、
あの、容れ物の中で育つ来訪者の、始まりの一個。
とはいえ、何一つとして理解できなかった。
彼女が何者だったのか、何故現れたのか、何故去ったのか、
すべてが謎のままだっ―――た・・。
そして最後に気づいた事実。
彼女が滞在中、俺は毎日のようにどら焼きを買い込んでストックしていた。
彼女が喜ぶ顔が見たくて、
冷蔵庫には常に十個以上のどら焼きが保管されていた。
どら焼きは、すべて山崎製パンの『ふんわりどら焼き』。
彼女のお気に入りだった。
「これが一番おいしい」と彼女は言っていた。
「他のどら焼きは、何かが足りない」とも。
『愛』だよ『愛』! ヒューヒューだよ!
って馬鹿か、
でも、何が足りないのかは、教えてくれなかった。
今なら、少し分かる気がする。足りなかったのは、多分、味じゃない。
俺が、俺の足で、俺の給料で、彼女のために買って帰る、
その、どうしようもなく地上的な手間だ。
無から記憶の食べ物を生み出せる存在が、いちばん美味しいと感じたのは、
有限の人間が、有限の小銭を握って、
コンビニまで歩いて買ってくる、二九八円の菓子だった。
魔法で出せないものが、一つだけあった。
誰かが自分のために費やした、取り返しのつかない時間。
それだけは、無から作れない。
しかし、彼女は一つ残らず持って行ってしまった。
完全にゼロ。それは明らかに泥棒行為である。
それだけは間違いなく確実な事実だった。
けれど、空っぽになったどら焼きの袋を手に取った時、
不思議な感情が湧き上がった。
青いロボット猫のアニメで、
のび太が毎日喧嘩ばかりしているドラえもんのことを、
本当はどう思っていたのか。
表面的には文句を言いながらも、
心の奥では深い愛情と感謝を感じていたのではないか。
そんなことが、ちょっとだけ分かるような気がした。
のび太は、ドラえもんがいなくなった時、
きっとこんな気持ちだったのだろう。
寂しさと、感謝と、そして、どこかでまた会えるという確信。
そんな複雑な感情が、胸の奥に渦巻いていた。
彼女がいない部屋は、以前よりもずっと静かで、ずっと寂しかった。
静けさに、種類ができていた。
彼女が来る前の静けさは、まだ何も始まっていない静けさだった。
彼女が去った後の静けさは、もう終わってしまった静けさだった。
同じ無音でも、片方には未来が、片方には過去が詰まっている。
空っぽのどら焼きの袋は、内側にわずかに油の匂いを残していた。
存在の、匂いだけの抜け殻。
俺はそれを、何故か捨てられなかった。
しかし同時に、二週間だけ体験した不思議な日常が、
俺の中に確実に何かを残していった。
それが何なのかは、まだ言葉にできない。
でも確実に、俺の世界は彼女と出会う前とは違っている。
窓の外を見ると、普通の日常風景が広がっている。
しかし、その風景の中に時々、彼女が言っていた、
『時間のタペストリー』の糸が見えるような気がするのだ。
その糸は、時々、キラリと光る。
まるで、彼女がどこかで、
俺を見ているかのように。
その糸は、空気中に浮かぶ細い光の線。瞬きすると消える。
目を凝らすと見える。それは、どこかへ向かって伸びている。
彼女がいる場所へ。目を凝らすと見え、瞬きすると消える、
―――それは、視野の周辺でだけ捉えられる種類の光だ。
中心視ではなく、網膜の端の、桿体細胞が拾う、暗がりの光。
星を見る時と同じ。暗い星は、まっすぐ見ると消え、
少し目を逸らすと現れる。
彼女は、もう、そういう見方でしか捉えられない場所にいた。
まっすぐ見てはいけない星。糸は俺の部屋の窓から、北の空へ、
まっすぐ伸びていた。織姫星のある方角へ。
そして、さらにあれから一週間。
俺の日常は、少しずつ変化していた。
歯磨きをする時、何故か彼女のことを思い出す。
コンビニに行く時、ついどら焼きを手に取る。
QuizKnockかよ、と思った。
伊沢がホワイトボードの前で「はい、この問題!」とやる、あのテンション。
東大王のスタジオみたいに、
俺の背後で早押しボタンがピコンと鳴った気がした。
ちなみに俺の学力もとい人生経験では、この状況、
二択でも当てられる気がしない。
洗濯物を干す時、彼女が言っていた
「洗濯物にも人生があります」という言葉を思い出す。
押し入れを開ける時、
彼女がいた空間を、無意識に探している自分がいる。
そして、夜になると、
時々、押し入れから微かな音が聞こえる。
ドン、という、あの音が。
幻聴かも知れないし、本当に鼠かも知れない。
しかし、襖を開けても、そこには誰もいない。
ただ、彼女の残した、あの不思議な石が、
淡く光っているだけだ。
その石は、以前よりも少しだけ明るく光っている。
まるで、何かを待っているかのように。
光が強くなるということは、中の何かが育っている、ということだ。
俺は毎晩、その石の隣に、どら焼きを一つ、置くようになった。
理由は自分でも分からない。供物のような、餌のような。
翌朝、どら焼きは、いつも減っていなかった。
減っていないのに、袋の中の空気だけが、
ほんの少し、甘くなっていた。
「乙姫って何なんだ?」
誰もいない部屋で、俺は呟く。
もちろん、答えはない。
しかし、あの石は、まるで答えを知っているかのように、
微かに振動している。
そして、俺は思う。
きっと、また会える。
次は、織姫タイムに。
その時、彼女は、どんな顔をしているのだろう。
どんな言葉を、俺に投げかけるのだろう。
そして、俺は、彼女に何を伝えるのだろう。
それは、まだ分からない。
しかし、どら焼きを買って帰る時、俺の足取りは、少しだけ軽い。
まるで、彼女が隣を歩いているかのように。
行けたら行くとしか言えなかった俺が、初めて、
必ず行くと言いたい場所ができた。
行き先も、日付も、何も分からないのに。
曖昧を愛した女が、俺に一つだけ断定を教えていった。
皮肉な奴だ。
そして俺は完全に初期装備の勇者(Lv.1)に戻る、
ひのきのぼうとおなべのふたさながら、
厚手のパーカーを羽織り、軍手を装着し、
ゴミ箱と突っ張り棒を持った俺へ。
まるで『ワンピース』のゾロが使う棒術みたいに、
これで戦えと?
―――そして、押し入れの奥には、
まだ見ぬ織姫が静かに眠っているのかもしれない。
その日を、待つように。
*
とか、とか、とか、
思っていたんですよ、
押し入れ開けるまでは(?)
畳が一枚浮いてる。
浮いた畳の下からは、古い新聞紙と、何故か小さな貝殻が一枚。
貝殻は、海の匂いがした。巻貝だった。
耳に当てると、海の音がすると子供の頃に教わる、あれ。
実際に聞こえているのは、周囲の雑音が貝の内部で共鳴して増幅された、
ただの環境音―――というのが、科学の言い分だ。
だが、この貝から聞こえたのは、環境音じゃなかった。
誰かが、遠くでどら焼きの包みを、開けている音だった。
そこに乙姫が座って、隣に余所余所しそうにしてる見知らぬ男がいる。
その男を指さしてあれが彦星なのと言う。
のっしのっしと真っ暗闇の中を歩く、しかしなんか変な気分だ。
おそらくここは宇宙空間だ。なのに、無重力ではない。
酸素があるみたいだし、何で声が響くのかさっぱり分からない。
俺が、いや誰だよと言う。乙姫が彦星だけどと言う。
じゃあ、織姫はって聞くと、私と言う。
え? 昨日から―――とか
彦星は、俺より少し年上に見えた。
背が高く、痩せていて、黒いシャツに黒いズボン。
足元は裸足。彼は終始、無言だった。
ただ、時々、天井を見上げ、何かを数えているようだった。
その唇は、微かに動いていた。
数字を数えているのか、それとも、呪文を唱えているのか。
彦星、わし座のアルタイルのことだ。
夏の夜空で、こと座のベガ(織女)と、天の川を挟んで向かい合う一等星。
二つの星の実際の距離は、およそ十五光年。
光の速さで飛んでも、十五年かかる。
年に一度会う、なんて牧歌的な話じゃない。
恋文を一通送るのに片道十五年、返事にもう十五年。
黒山羊と白山羊さんを経由するなら食べてしまうので、もっとかかる(?)
彼が天井を見上げて数えていたのは、多分、その光年の桁だった。
無言だったのは、言葉が届くのに、
あまりに時間がかかる場所から来た者の、癖なのかもしれない。
裸足なのは、天の川を素足で渡ってきたからだろうか。
「じゃあ、結婚というか、付き合ってるのか」
「しないよ。仕事だから。織姫っていうだけ(?)」
ビジネス織姫キタコレ!
「意味わからないんだけど―――」
「そしてもうすぐ、かぐや姫になる」
「なるほどね」
なるほどね、さっぱり意味がわからないことはよく分かった。
乙姫、織姫、かぐや姫、全部別だ、
だけど、彼女はそれになるらしい、
なるほどね、さっぱり意味がわからない。
ピカチュウがリザードンになり、最終的にカビゴンになる、
つまりそういうことだ、よく分からないことがよく分かった(?)
というか、別の次元とかいうのはわかるが、
なんでここは宇宙空間なんだ。
押し入れの奥は、確かに宇宙空間だった。
暗闇の中に、小さな星が無数に浮かんでいる。
いや、星ではない。光の粒。その粒は、ゆっくりと動いている。
まるで、生きているかのように。マリンスノーだ、と直感した。
深海で、上層から絶えず降り注ぐ、生き物の死骸や排泄物の、
白い有機物の雪。深海生物は、その永遠に降る雪を食べて生きている。
押し入れの奥の宇宙に浮かぶ光の粒は、星のようでもあり、
その海の雪のようでもあった。海と宇宙は暗くて深くて圧倒的で、
そして自力で光る小さなものたちが漂っている、という一点で、
驚くほど似ている。乙姫の職場と、織姫の職場は、地続きだったのだ。
深海の底と、宇宙の果ては、押し入れ一つ分しか離れていなかった。
でもそれは理屈だ、説明ではない。
お前は一体そもそも何なんだ。
聞くべきことは絶対沢山ある。
「それで何しに来たんだよ?」
「どら焼き食べに来た」
俺の家はどら焼き屋じゃないぞ(?)
ドラえもんが来たら、ちょっと考えるが。
「二人でか?」
百歩譲って、どら焼きを出すにしても、なんで見ず知らずの男女、
つまり二人に、どら焼きをご馳走しなければならないのか。
「彼はいまからまた別の空間へ行き、三蔵法師になる」
ああ、なるほどなるほど、全然わからないことがわかった。
そういう仕組みなんだな、って、どういう仕組みだ(?)
三蔵法師、すなわち玄奘。七世紀、たった一人で国禁を犯し、
灼熱のタクラマカン砂漠と、氷の天山山脈を越えて、
天竺まで経典を取りに行った、実在の僧だ。
往復およそ二万五千キロ、十七年の旅。
ドラマで放送される西遊記に十七年の月日は感じないし、
ましてや、そもそも人間ではない奴で構成されているが(?)
ちなみに、その記録『大唐西域記』は、
のちに『西遊記』の種になった。
彦星が次に三蔵になるというなら、彼は星の担当を終えて、
今度はシルクロードを西へ経典を求めて歩くらしい。
星から、砂漠へ。天の川を渡る者は地上の砂の川も渡れる。
担当が変わるだけなのだろう。
裸足で蠍とか蛇、熱い砂をどう処理していくつもりなのだろう、
しかしそれは三蔵法師に任せたい、興味がない、そういうことだ(?)
「乙姫って何なんだ?」
「海側の担当」
「担当?」
「織姫は星担当」
「かぐや姫は?」
「月面管理課」
担当という言葉が、妙に官僚的で、妙に現実的だった。
海側、星、月面。それぞれに担当がいて、それぞれに管轄があって、
それぞれに予算と人員が割り当てられている。
そんな光景が、何故か頭に浮かんだ。
月面管理課なんて冗談みたいな部署名だが、月には本当に海がある。
月面の、黒っぽく平らな低地を、天文学では海と呼ぶ、
静かの海、晴れの海、危難の海。
かつて人類は、あの黒い部分を本物の海だと信じて、名前をつけた。
水は一滴もないのに。かぐや姫が管理するのは、その、水のない海だ。
表面はレゴリスという、太陽風に晒され続けた細かい砂で覆われ、
地球にいつも同じ面だけを向けている。
月は、いつも、こちらを見ている。裏側を見せない。
まるで、こちらに何かを隠している女のように。
そしていきなり、腕を引き寄せて言った。
「私がいなくて淋しかったでしょ?」
「な、何言ってやがんだ、このタヌキは」
淋しかった、と思う。
でも、こういうわけのわからない世界線を知って、
ちょっと後悔している。
だって、淋しいというのがいかにも不適当だからだ。
そういうのはもっと地に足つけた感情だ。
仲の良かった女の子が転校していって淋しい。
それは分かる。
けれど、乙姫が織姫になったわけのわからない女の子に、
淋しいというのはもう何かおかしい。
淋しい、という言葉は、もっと普通の別れに使うべきだ。
例えば、引っ越し。例えば、恋人との別れ。
彼女の場合は、どれにも当てはまらない。
彼女は去ったのではない。移動したのだ、場所を。
あるいは、次元を、担当を。
淋しいという漢字は、木が二つ並んで、
その下に水が流れる形だという説がある。
林に雨。要するに、地上の湿った木のある場所の感情だ。
だが、彼女がいるのは水のない月の海であり、
光年で測る星の間であり雪の降る深海の底だ。
地上の湿度を前提にした淋しいという言葉は、そこには届かない。
俺は、彼女にふさわしい別れの言葉を、
まだ人類が発明していないことに気づいた。
だから、黙って、腕を引かれるままにした。
名前のない感情には、名前のない態度で応えるしかない。
「かぐや姫になったら、三十年ほどおやすみがもらえる」
仕組みは一切わからないが、そういうものらしい。
「日本中のどら焼きを食べ歩くのだー」
あー、こいつ、駄目だ、何を考えているのかよく分からない。
彼女は、そう言って笑った。
その笑顔は、ようやく見せた年相応の無邪気な笑顔だった。
だが、その笑顔の奥には、三十年という時間の重さが、確かにあった。
竹取物語のかぐや姫は、月へ帰る時羽衣を着せられ、
地上の記憶も情もすべて消える。
天の羽衣を着た者は、もう何も哀しまなくなる。
世界中に似た話がある。スコットランドのセルキーは、
脱いだアザラシの毛皮を隠されて人間の妻になり、
毛皮を見つけた瞬間に迷わず海へ帰る。羽衣も、毛皮も、
本来の姿に戻る装置だ。だが、この子は違った。
三十年の休暇に、記憶を消して月で眠るのではなく、
地上に降りて、どら焼きを食べ歩くと言う。
羽衣を着ずに、覚えたまま、休むと言う。
忘れることが休息であるはずの存在が、覚えていることを選んだ。
その選択の重さが、年相応の無邪気な笑顔の、いちばん奥に沈んでいた。
目に見えない無数のワームホールが、
時空を歪めて宇宙を広げているとする新理論をふと思い出す。
あるいは、ビッグバンは宇宙の始まりではなく、
ブラックホールの内部から誕生したとする新説を。
三十年ぶんの、どら焼きの数だけ、
彼女は、俺を覚えているつもりなのだ。
「愛はどら焼きと共に‼」
それだと、どら焼きと結婚するみたいだなと思いながら、
振り返って戻ろうとした、地上へ、
あるいは原初の昔よりどら焼きのおわすところへ。
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最終更新日 2026年09月23日 18時57分40秒
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