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プルーフ・オブ・エグジステンス伽藍洞の鎧のような、この電脳空間。その空の胸甲の内壁にうっすらと結んだ結露の、ひと粒ぶんの曇りに過ぎない僕は、指で触れれば消えてしまう、その程度のプルーフ・オブ・エグジステンス。心象の懐疑と、まだ名づけようもない感情とを、幾重にも折り重なった暗号が守っている。楕円曲線の稜線を音もなく跳ねてゆく鍵、格子の奥にさらに格子を畳み込んだ耐量子の格子暗号。ナノマシンが定着した肺が膨らみ、人工皮膚の下でチタン合金を這わせた鎖骨が、生体と機械の境界を曖昧にするように静かに沈みゆく。この空間の天頂には、不可視の眼が偏在している。全市民の生体データから消費行動、無意識下の夢のログに至るまでを監視し、テラバイト級の瞬きで記録し、社会の恒常性を制御し尽くす偉大なる最上位存在。ああ、神よ、さらなる形而記号学的劣化を。左から右へ、右から左へ。目蓋の裏でそれを数えているうちに、僕はいつも、自分が数えられている側なのだと思い出す。砲撃も爆弾も、魔術の炎も、一つとして地球の上には落ちることのなかった戦争。真空蒸着されたクロム鋼板のような光沢を帯び、数千億個の演算ノードを縫う光ファイバーの神経束が、都市という巨大な脳梁を静かに脈動させ、肉体ではなく認証鍵だけを持ち込む。損耗するのは物質ではなく、注意力と信頼だ。敵味方の区別は確率分布としてしか存在せず、勝敗はアルゴリズムの収束速度で決まる。不治の病だ、感染症だ、抗体なんてない、脳内シナプスを強制的に発火させ、重度の情報的酩酊状態へと人々を叩き落とす。陰謀、都市伝説、計画は机上の空論だか空中の楼閣。神の時間という非線形的な時間軸の中で、因果は歪み、逸れ、再接続される。睡眠時間の増加、精神的安定。眠りは逃避ではなく、避難だった。断片的ではあるが、未加工の感覚が残っている。涙腺へ届く神経電位であり、瞳孔が一・二ミリだけ収縮する、その一瞬の微細な反応。記号はそのつど意味の中身を失って、記号の抜け殻だけがきれいに残り、差延の風に吹かれて少しずつ風化してゆく。誰も、もう、何ひとつ指し示すことができない。時刻はときおり本来あるべき位置からずれ、同じ一分が二度打たれたり、打たれるはずの一秒がまるごと欠落したりする。全党派が呪術資本主義を擁護する、宇宙に風穴を開けようとしている。みせかけのペテン民主主義を粉砕せよ、宇宙領域外の非次元空間を通過する。希望的観測に縋った。あらゆる情報武装を解除し、曝け出した自身の原初的な衝動へと還っていくのを感じていた。二十一世紀が終わりに近づいてきた頃。加速する技術についてゆけなかった国家による秩序は崩壊し、企業による統治の時代が始まるだろう。曝け出した自身に還る。吐き出された二酸化炭素は、エアコンダクトを伝って巨大データセンターへ流れ込み、液浸冷却されたGPUラックの熱交換器を濡らしていく。ビビッドカラーのネオンサインとケーブル、今宵都市ではUFOに、蚊のようなドローンが体当たりしている。玩具のような自爆が、暗い天蓋のあちこちで、音もなく閃光の花を咲かせては、消える。数々の憶測が飛び交ってたが、現在不明瞭ながら真実の一片が浮かび上がってきてる。さあそろそろ、面白いことになってきた。絶対座標パルス波の非収束、ゲルの溶解、風化した電子核、有象無象の浮遊する塵。不適切な取引でもいい、脳内具現化液晶へと高純度の情報を流し込む。推薦システム、信用スコア。顔認証、歩容解析。視線追跡、睡眠データ。購買履歴、脳波ログ。意味は圧縮され、比喩は数値となり、愛はエンゲージメント率へ置換され、祈りは検索履歴へ保存された。論理的思考能力を有する高度適応性仮想人格、いや、知性体による誘発的な記録復元に、方法をシフトチェンジしたい。近未来を彷彿とさせてる、意味不明な言葉の羅列、現実離れの超常現象。失った世界の記憶が、何回も僕を締め付けてゆく、真夜中は現実臨界点。液体と気体とが見分けを失う、あの一点の、温度と、圧力。足裏の電磁石を強めて身体を屈めると、背中のブースターから青白い火を噴き出す。反作用が背骨を蹴り、身体は、ネオンの地平から、ふわりと、しかし確かに、剥がれる。加速中、視界は遅延補正され、周囲の景色がわずかに歪んで見える。その光は神経接続端子を通じて脳幹へと送り込まれ、現実の代替としての電脳空間を再構成する。そこでは、空気の温度すら演算によって決定され、呼吸は単なる生理現象ではなく、同期信号として記録される。月の海地域に突如として、放射能隔離シェルターに類似する構造を持つ、巨大な施設が出現する。ゴミカスミソカスしみったれしかいない、ユートピアじゃ生きる甲斐がない。さあそろそろ、異次元の穴が見つかって、天国とか地獄へと続く階段でも見つけたい。そして今、その兆候が現れ始めている。観測装置が捉えた微細な歪み、説明不能なデータの欠落、そして何より、人々の間に広がる説明しがたい期待。この偽りの世界に風穴を開けるためだけに、青白い炎を引いて漆黒の虚空へと飛翔した。
2026年07月26日

flying in the sky動かない景色だけ、遠いほど霞んでいくのを、些細なる罰と感じ、無意識の霧の上に頼りなく浮かぶ、整理されない記憶の乱雑な塊が言う。あらゆるポーズを見せうる、デッサンのモデルが、媚びてくるように見えた、届かない、空の話を。口腔暗く光る翼のない舌からの、伝達の目的に従う透明な言葉。(そもそも挑戦を拒む綱渡り、)募る影は碧落を反転させる、その疾走は硝子をへだてて雨となる。昨日の鳥は何処まで飛べたか、視力届くかぎりの、すりガラス越しのモナリザ、殴りたくなる向日葵。くすんだ空の先は見えないまま、遠ざかる君の現在地。残酷な、優婉な、衛星。急角度の水平線が、僕等の前に立ちはだかっても。空へ空へ上るよ、僕等は高みへと、後ろを向かない、立ち止まらない、モーションは大きい程いい。囲壁のなかに自己を守護する、空へ突入する、動乱する窓、ねえ、この夏空を駆け抜けてく僕等は、拳を握り締めたままの、流れ星。思い出もセピアに変わる日が来るよ、校舎から合唱が聞こえる、衝突する! 転覆する!モジュラーシンセサイザーの、回路のままでいたいよ、フラッシュバック、蝉の声、猥褻な写真帳が閉じられ、いつか見たきみとの共同幻想、街並み溶かして背伸びする、催し事に喪だ、ビー玉がいくつも乱れ合って、打ち合っていたいよ、いま、物好きな陽炎を掴まえたら、呑気者だ、横着者だ、極度の亀裂を憂鬱な福音が満たしにかかる、それは存在の耐えがたい軽さのなかにない、やがて、空からカスタネットみたいに、月が落ちて来た。(それをポケットの中に入れた、)アラベスクには触れなかったんだ、色褪せた作り物は帰れよ、そして暗い暗い部屋で膝でも抱えていろよ、火がついたように街が光ったら、蒼ざめた陰惨な実弾の破裂を装飾のように思う。ただ一個の透明な観照体となって、何も思い出さず、何も考えず、ただ自然の魅惑そのままを映像として映しとどめ、恍惚そのものに化して空を旅してみたい。一生が、過ぎてゆきそうだ、真珠のように美しいはずの、静かな水面の変拍子、瞳のなかで女神達が舞踏っている。届かない、空の話を。深く息を吸って、もっと深く深く息を吸って、遠く過ぎていく街を見下ろしていく、このちっちゃな脳味噌ぐらいでいいじゃないか、海月みたいで、羽根みたいでさ、透明な透明な都市の花束だ、グランドピアノの影のなかで、街はみんな音を鳴らしたがっているように見える、感情と夢想の世界はしばしば波乱に富んだ外観だ、静的抑圧や階級的絶望なんかいらない、だってそれは自己欺瞞に陥る、現実的な行為も、弁証法的な理解もさ、灼くような手秤だ、物語よりはぐれた表紙のごとき世界だ。
2026年07月26日

夜は顔の部屋夜は顔の部屋、目鼻口のパーツが動きだす、眉も、耳も。仮想妄想の深海で浮遊、本当のわたしは、グロテスクな深海魚かも知れない。黒いケープレットのついた夜の衣裳が、魚の領巾のようにゆらめき、ああ、プログラムは焼き尽き始めている。精神を病ませることが、宗教的な完成だ、わたしは胎内に宇宙を飼っている。よろめく裸足の踵に、腐葉土のぬかるみを感じながら、缶コーヒーを飲みながら考える。この部屋にはさっきから、真っ黒焦げの人がいる。理知的な綺羅によって飾られた唇で言う、ごきげんよう、お元気ですか?懺悔の部屋だ。後悔の部屋だ。黒の喪章だ。潺湲の音が自由に聴き出される、紫白の光芒のなかで。誰かが言った。予期しない不快な感覚を顔面に覚えたみたいな、身の毛がよだった表情をしながら、湿った天使の羽根と、因果や罪悪が天秤にかけられるとしたら、どちらの方が重いと思う、と。サイシュウセンソウ ハジメマシタ。サイシュウセンソウ ハジメマシタ。あの夕方、飛び込みがあった。賑やかなダイヴィング・プールではただ、水の膜を破る短い藍色の音が繰り返される。でもそれは鉄道だった、模型の上ではない。赤茶けた線路の上を、車輪が影をからませ疾走した。昔住んでた通りを、そのまま西へ進んだところにある地点で、適当にこしらえたプロセスを鵜呑みにしながら、産卵を終へた蜉蝣の羽根を滲ませたような、ノウハウが溢れすぎて、自殺だ、葬式だ、手段がよりどりみどりで、ディストーションのかかったギターみたいだって、思ったんだ。かの昔は、若きウェルテルの悩みを読んで、人間失格を読んで、追体験しようとした人もいたらしい。積極的に変革、進歩させようとも思わない。改善しようと思わない。寿命を全うすることを、緩慢なる自殺とか、消極的自殺と言うのだと、友達が教えてくれた。煤煙だ。積極的なのはいうまでもないが、ありとあらゆる見方を、ポジとネガで語るロックな物の見方に、頭が悪くて痺れた。ああ、肺炎だ。寺や神社にお祓いに行けばいいよね、それから心療内科へ行けばいい。自殺幇助をするつもりもないし、突如殺人衝動に駆られるわけでもない。死にたいのも自由だけど生きたいのも自由だ、生きるためだけにものすごくお金がかかっている、そのせめて半分ぐらいは返してから、そうすればいいと思うし、何となく死んでしまう人と、何となく生きている人もいて、ギリギリの危ういサーカスみたいにうまい形で、絶対に死ねないような人もいて、絶対に生きたいを繰り返す人もいる、また一人同期が辞めて、使わなくなってしまったLINEグループ。別に珍しいことじゃない、別に何かがそれで変わるわけじゃない。試験用紙の破棄と、試験管ベイビーの雪崩は似ている、無条件降伏の下で輸入されてきた枠組みの中で句読点の存在しない世界とその距離感を。傘は雨に出会って雨傘になる、太陽に出会うと日傘になる。鉛筆から心臓が出てきて、消しゴムから腸が出てくる。コンパスから内臓が出てきて、気持ち悪くなった。朝にだって昼にだって夜にだって理不尽に苛まれ、泥水をすすってる。クリープ。蛆虫。人は誰しも小便と大便の排出口の間から生まれてくる。後ろ向きのロマンティシズムに溺れた、川べりの煤けた廃車の中に、親子連れが暗い顔をしてよく座っている。それがどうもわたしにしか見えないことに気がついたのは、友達にそれがまったく見えていなかったからだ。「ねえ、実は悩みがあって―――」「・・・・・・」「親が、こんなことで―――」「・・・・・・」「実は彼氏も、こんな具合で―――」「・・・・・・」「聞いてる?」「あ、ごめん、何も聞いていなかった」ひどいよって彼女が泣いている途中で犬が来て、電信柱と間違えて彼女の足に、おしっこをひっかけていったので、わたしは滅茶苦茶笑ってしまった。彼女も一緒に笑った。アメーバーのような原始生物まで琥珀色の液体で染めた、そんな笑い方だった。わたしの家でシャワーを浴びて服を貸して、一緒にお酒を飲んでごはんを食べて、それから音信不通だ。そういえば、あのとき貸した五万円、そろそろ返してくれると嬉しいな。嫌なことがあると、不幸だと、他人を傷つけていいって考えてしまうような人がいる、それを悪く言うつもりはない、石灰殻の工場裏だ、ただ、そういうことはずっと、繰り返すんだよ、電気仕掛けの分娩だ、悪性の腫瘍なんだよ、病気なんだよって、彼女に教えてやれなかった、ただ一緒に笑っていた。『完全自殺マニュアル』は絶版だから、やっぱり手に入れられなかったけど、誕生日に君に贈りたかった。すでに干上がってもう語られぬ係累達。死にたかったから、人を傷つけるのはそれより弱いことだって、そう思った友達の、生きるよすがになれなかったことを、少し疲れた老犬のような目をしながら思った。踏切を通過する、真っ暗な回送列車の音が聞こえる。どうせなら五十万とか、もう一桁大きく出ればよかった。きっと傷つける前に、それはちょっと時間がかかるとか、無理かもと言えたかも知れないから。暗い雑踏。不平不満だらけの人波。五万だって大金だ。でも五万ごときで、自殺の資金になるのだろうか。それともわたしの知らない町で、彼女は人生をやり直しているのだろうか。お金は人類にとって最大の毒薬だっていうけど、最大の問題点は脳にスイッチがかかるそれで、それが人類のアキレス腱なんだろう。もしかしたらアキレス腱のために、毒薬を水のように飲むかも知れない、そんなことが契機になった。お金を沢山持っていれば、五万を貸す前の関係が出来上がらないし、五万どころか、もっとたくさんのお金を、あげれるのかも知れない。そう思ったから会社を興した、年商数億の経営者になった、生きている動物達に生きていることを見せにいく、動物園だ。不夜城の裏面に磔にされた暗黒な心を抱きながら、キリギリスのような夜の唱歌隊を、懐しい逃亡者の国土にし、一夜をあかすその日暮らしのようなものが、いまでは、たくさんの従業員と家族同然に過ごす、かけがえのないものになった。けれどわたしの心の中にはいつも、あの友達がいた。灰が死霊に変わりはじめ、一角がたちまち灼熱して、死神の鎌が咽喉元に触れたかも。クレープの巻紙少しずつ千切るみたいに、そこから先は記憶が無いんだ。ごきげんよう、お元気ですか?どうしようもない日々の傷口から溢れ出した、灰色の夢、凡庸な街の隅で天を仰いで唾を吐いても、架空の船の架空の航路、この手紙を書き遺して終わらせたいんだ、明日が来る前に。サイトウコウ シマシタ。サイトウコウ シマシタ。何だか色んなことが嫌になったのだろうか、高い高い屋上で立っている夢を見た。首ねっこを掴んだもう一人のわたしが押さえつける、顔面からフェンスの金網に叩きつける。繁華街の暫定の更地に闇が仮置きされたみたいだ、鮮明な空間の壁絨、息が出来るのも当たり前のことではない、ぐっすり眠れたら御の字、もしかしたら人殺しのプロ―モーションビデオかと考えたけど、空が近くなる、この場所も長くない、永遠のお伽噺。簡単に始まり、簡単に終わる。簡単に喜び、簡単に傷つく。謝ってばかり。誤ってばかり。まわりには何もなくて電灯が光って、わたしは手に持っていた梯子で無理矢理降りてみた。そしたら真っ逆さまに落っこちて、遺伝子を刻むように重ね合わせてた、暗夜に沈没する艦の間断なき戦い、いつか観た映画のように、すべてを終わらせて、時間だけが過ぎてゆく終末だ。おそらくは最期の瓦解となる、二つの道を告げる目玉がとれかけた友達がいる。「ねえ、淋しいんだ、一緒にいようよ」それから腕のもげかけた友達に言う。「五万円、返してくれたら、いいよ」内臓の腐った友達がいる。「どうしてそんなことを言うの?」それから舌の奥に沢山の虫を抱えた友達に言う。「わたしはずっとあなたといたいから」人は記憶され続ける限り、死なない、そんな小さなことを、宇宙の摂理のように、季節の前触れのように、あなたに教えたかった、ちゃんと教えたかった。死にたいと殺してやるの境目に、救済のパスワードはあるのだろうか、救済のパスポートはあるのだろうか。二十一世紀は、失望のうちに訪れた。二十世紀はどうだったんだろう、十九世紀はどうだったんだろう、この光さえも虚無に感じた、青白いわたしの愛情。まぼろしをもう信じないまま、起動するスクリーンセーバー。わたしは彼女とのやりとりを思い出しながら、幽霊だらけの部屋で溜息をつく。明日も仕事だ。どちらが本当のわたしかいまは思い出せないんだ。寸断される風景は傾斜する。寸断される風景は陥没する。「ねえ、実は悩みがあって―――」「・・・・・・」「親が、こんなことで―――」「・・・・・・」「実は彼氏も、こんな具合で―――」「・・・・・・」「聞いてる?」「あ、ごめん、何も聞いていなかった」
2026年07月26日

夜の海波打ち際を歩きながら、深く深く沈んでゆく。人生が辛いならフィクションにすればいい、眉の顰め方に魅力を増す、軽薄すぎるくらいのラブソングが似合う。こいねがう色文。大福帳の眺め。ああ、凡庸なことを言っているにすぎないように思える、天気の悪い日は肉体が死を思う、めいめいが勝手に物事を考えている干渉や共振のなかで。いくつもの麻酔、道標のロープはもう燃え尽きた。最近、呼吸器がいかれていくような感覚が、とても愛しく思える、ストーリーは展開を急がないが、遠近法からキュビズムを求めない、街行く人はこんな鳥がいることなんて知らない、天竺へ、ローマへ行く人もいない。疲れた虫が、もの倦い花弁の中を游ぎながら、魯鈍無情の鴉の声すら喜ばしくなる。ひとつまみの胡麻粒のようなナスカの地上絵は、母親の不在、生活苦、失敗した心中の恥で、一撃で稀有な歴史家にしてしまう。いつの間に、私はこんなに弱くなったのだろう。排せよ、栄光、(かがよふ、)拝せよ、劣等。(ちりぼふ、)心を明け渡したら、突風にこの身を支えきれない。重大な欠損理由は不況。映った鏡には、ひびの入った自分が見える。部屋に残った缶ビール、干した下着がうなだれても、等身大はイブの肋骨。一匹の蜘蛛に、微笑みかけるしかない。ベッドの上から生活をよこぎってゆく蜘蛛は、きっと神様の使いなんかではなくて、昔の、そのまた昔の、私の正体を知っている、証言台のその人かも知れない。魑魅魍魎、否、蛇に似て水中に棲む怪物。波の中は殉教者でうようよしている。ああ、この生など無意味に等しい。雲の隙間、光、琺瑯の野外の空に、フリスクほどの連帯、ありとあらゆる果実が実っている銀河、鉄塔はさみしく空を区切り、猫の額ほどの未知の部屋へと案内する、蝶番のはずれた境界を越える夜、照らす月が泣いていても、声にならないのはあなたと同じ。顔に刺さってるダーツ、呪戒の装飾、この蔦には刺がある、それでも握り締めなければ、強く握り締めなければ、上へと上がれない。花の自動車なんかない、浮世絵のようにのっぺりとする毎日だ。ありったけのガラス器に、一匹ずつ小さな蛇を飼う。柄杓でも、砂糖菓子でも、洗面器でも、燐寸でも。輪郭も遠近もなくして、すべてがレンズのように思えるまで。声も言葉もない日々で、盲目を信じることを宗教と呼び、その強い磁場へと導くことを、空耳のような哲学と呼ぶ。晦冥の夜のこの暗黒無比の潮のながれが、三千世界へと、悪寒の予兆や圧迫感に伴う形象、その心理的作用となる。見世物小屋の背戸口で。(君の「思考」には大きな誤解が含まれている)見世物小屋の開かずの扉で。(君の「人間」には大きな誤解が含まれている)ああ、もうそろそろ口を閉じて、華やかな人生の場面に追憶するのはやめて。失くした夢を見ては、こんなに脆くなったと憤慨し、自嘲する、理智的な節制と伸長、まるでワルツが終わったように。夜深きをゆく鳥の鋭声。咲き急ぎ散り急ぐ花は不幸だ。(蛹の中身が蝶ではなく「液体」だと思えている)さし抱く闇は不幸だ。(夜の星の顔に浮かんだ「液体」だと思えている)星空がちょっと、ひんやり感じるのは、ずっと後がいい。いちまいの布を両端より持ちあげて、香水に触れた指からにおいたつ記憶のアルペジオ、てのひらにすくいてはこぼす砂は花びらのように光り、膚寒き天変の朝に割る卵。音よりも音の置かれぬ空間に、影の淡くうつりぬ学校の中庭の、名前の知らない一本の木が見えて来る。砂漠を見る夢に、オアシスはいらない、旅人の咽喉の乾きは強くなる、忘れかけていた痛みが、結び目と思えても、ときめきのように思えていたことも、いまは思い出せるが、馬鹿、恥知らず、それを巻いていたはずの芯が、声や叫びのようなものを辿らない。ふくれ上がった腕に包帯した腕は、解体の喜びに酔い痴れている混沌。線路をたどるとき、どこからか川の音がきこえる気がする。内部からの把握とまったく無縁に、外的・客観的に把握し、塔のような場所から俯瞰していよう。隠蔽する、旅愁する、永遠する、刹那する。ペンギンのかき氷器が置いてある、また少しズレた次元の、ロシアのように寒い冬の街。排せよ、栄光、(ふりつむ、)拝せよ、劣等。(したぎゆ、)ざわり、音はひそかに、波打ち際に打ち消されて、心の中の心象風景に思えて来る。ゆめがまし、言い訳ばかりうまくなった。生殖力の消滅だ、真っ青な仮面だ。いたづかはしい、悲しみは永久に消えることはなく、まっ二つに割られた身体を引いてゆく、小さな無数の蟻達のような秩序が。(ふりはへ、ふりはへて、)涙もきっと枯れない。季節は永遠に巡りつづける、あの日への扉は二度と開かれぬまま、この舞台装置は、もしかしたら回転面の集合体かも知れない、その場しのぎに、何回も、ドアをノックする、ああこれは、創世記かも知れない、てのひらから世界を何度もやり直す、通俗的な何物かが満ちていることを呪いながら、笑いながら、おどけながら、漏電だ、電球が切れた、呪文や催眠術のように繰り返す。「あなたはもういない。」非力さが、臆病さが表に出てしまいそうになる。青い空、揺れる飛行機雲、君の頬伝う涙。青い青空と骨組みだけのスケートリンク、登場人物は皆匿名、そんな関係を少しだけ思いだす終電車、どうしてこんな世界に生まれたのだろう、神の名前について考えていた。どうして生きられると思ったのだろう、夜が箱庭を冒した。「あなたはもういない。」折れ曲がる光のために誰も彼も、桜並木の終わりのようなものを意識しただろうか。始まりも終わりもしらぬ芝居のように、ただ空を漕いでいるブランコのような人でありたい。繰り返されて何処かへ流れても、変わらずに波音は響き続けるだろう、星は遠く誰も知らない夜空を、つれづれのうちに流れ、またいつか再び、瞳に映るすべてのものを愛せるかと、問い掛けるだろう。
2026年07月26日

青春いつかの手紙を燃やしてしまった、譲れないものを作らないように。論理的じゃないし本能でもないのです、野暮ったい才能が五月蠅い言葉の中には。汗という、Crazy Diamondは止まらない。更生不可能なMotivationで、紛い物にKick&Awayブザービーター、体育館じゃ、どんな試合だ。失敗してもいつも通り先輩に、殴られるだけさ。臓器巡る扉絵、ハリネズミみたいな思春期、swichbladeだって持つさ、ミステリー。下らなくて、歪んでる、残像が奇形なアクセス。薄鼠色の蠱惑で商品価値を粉飾した昨日。空、声、海、拡がりのなかで、追い掛けているんです。何千日のたった一日。もしかしたら何万日のたった一場面を。外のガヤで頭がぐっちゃぐっちゃ、決して見ない見たくはないけど覗きたい、カーテンにそっと手を伸ばしながら、どぎつめのドーピング、曇天さ、どれほどの水位だろうか、イライラした日常を躊躇うな、意識の埒内、正気を失うぐらいの感じがよくて、新次元の歩みを求めるんだ。シュート外すたび、ビビってちっちゃくなる僕だけど。解答は空振り、初心者はまずRomって、(とりあえず20点)錯覚のために停車する薄目あければ、馴れ合いならVIPでやれ。賽を振った。ますます非現実的に気化していくようで、儚い哀感が沁々と湧く。(まーなんていうか、50点)自分本位、自己中心な優しさに、すべてを奪われて、遠霞む歳月の端を握って、自己嫌悪。透きとおるだけ透きとおらしめたあとで、これでもかこれでもかと迫る、怨念のテンションにやられるのさ。敵愾心やら嫉妬やら、憎しみやらを絞り出して、意力にバウンドをつけて白骨化する、(エスケープ、エスケープ、)赤い血が流れているのです、数え切れないほどこぼれる言葉の中には。涙という、Crazy Diamondは止まらない。逃げ出したくてEmergency形のないJeopardy失ったもの数知れず、遠回りもしてきた。夜に灯る自販機中段まんなかに、電線のない空が見えたらよかった。創ったつもり、染め上げたつもり、選べないや out of control(my really need you A.S.A.P)悔しさなら、誰よりも味わってきた。Danger 眠れない夜を沸かせて、真剣なふりの目なら刳りたい。(my really need you A.S.A.P)意味、空の果て、夜、拡がりのなかで、追い掛けているんです。何千日のたった一日。もしかしたら何万日のたった一場面を。小さなリングに向かってずっと放ち続けたボール、ストリートビューを見て羽根を拡げて死んだ形の鳥。周りからの期待はゼロただひたすら前見て、墓石だらけの心象風景に黒猫の過ぐ。勝ち続けて少しずつ声援も増えた、純粋な暴力の固有の焔、反逆心だっていいんだ、あとはただ、光の射す方へ走り出すんだ。エンディングノートに書く言葉なんて、まだ一行もない。little by little(gradually, slowly, steadily)羽根を持ち、舞い上がる、心が踊りだした想像の一歩先の未来で、千の幻想、被害妄想、いじけた根性を打ち砕く、一秒前 the other side
2026年07月26日

梅雨とバス停いつもは大体五分くらいなのにね、アニメの話が長かった。押井守の都市論、新海誠の湿度表現、手塚治虫の生命倫理、宮崎駿の飛行機械、士郎正宗の義体論、エスプレッソの抽出時間、あるいは改札の自動扉が、二度開閉するあいだに終わるような、軽い確認事項。一挙手一投足、不自然はないけど、地に足が付かないまんま、ドアが閉まって君が消えるとき、黒い髪の先が肩に落ちる角度から、俯いているのに気付いていた。論理的一貫性を保つ必要性、表現の不自由。本当にたった一言だった気がする、実験室のスライドガラスの上で、増殖する微生物。次第に黒ずむコンクリートの上、雨の匂いで零れ落ちた。砕けたビー玉、一欠片拾った。午後のニュースじゃ青春が溺れて行方不明、下らなくてどうしようもない崖から飛び降りたけど、生き物ではないから低空飛行を続けてる。副作用のような恋だ。雨が遮る坂道を全力で駆ける、濡れたバス停、遠い街、流行を耽溺する畸形、濡れたバス停のベンチには、誰かの置き忘れた雑誌と、広告の剥がれた跡。遠い街へ向かう路線図が、透明なフィルムの裏側で歪んでいる。持ち忘れた傘がいまも、重ねてる、紡いでる、透明人間みたいだ、震えてる、感じてる、こじらせてく、濁っていく。昼と夜の境界だけが曖昧に流れたまま、気付けば僕は一人で、梅雨のバス停に立っていた。天気も人も猫も宙に浮かぶような、シュールレアリスムのまま、自転することを忘れた星。翻り、翻る。意志の滞りを感じながら。立ち止まった僕を尻目に、人は幸せそうに歩いてゆく。群れなす方へ、遠ざかりだす、人波。物理学の流体のように、圧力の低い方へと自然に移動する。僕だけがその場に残り、境界層の乱れのように、流れから取り残される。夜になって気がついた、花火の音。それは遠く、遠く、遠く、光っている。より明らかであると同時に、より目には見えないものとなってゆく、運命とかいうもの。僕の心にも何か残るのかな、まぁ、何でもいいけどさ、残像に惑わされ立つ、流れてくれよ、消え失せてくれよ、瞳の中から透く道を、傾いている星座の光を。散乱する光の波長と、視覚の感度曲線。懐かしい日々にピントを合わせながら、いまも夕焼けの雲を遠目に覗いたりしてた、忘れてくれよ、知らないでくれよ、瞳に映った雨粒を。街燈の光の底から立ちのぼる、月魄の声。躓いて転んだとき、風感じたとき、揺らぐ緑を見たとき、全力疾走をしていたあの坂道が思い浮かぶ、輪郭をととのえてゆく過去、夕かげのなかにいつまで語りあう秋の手前。このまま何処へ帰れば夜は青に変わる、このまま波の音に紛れて、海へ向かおうか。白線からはみ出るな、両手伸ばしてバランスをとりながら、打ち寄せる波の音に裸足になって駆けだしながら、ようやく僕は泣くことができた。土壌細菌、アクチノマイセスが放つゲオスミン。植物油由来のペトリコール。そんなもの嗅げるはずもないのに、潮風が吹いているのに、胸の奥で何かが崩れると、僕はそこへと戻っていた。眩くて切なくて、そっと、還らないまま、入道雲は遠くなっていく、行かないでくれ、扁桃体だけが、警報を鳴らし続ける。世界が終わっていくような、美しい情景が頭に残ったまま、いつもより少し遅くなった時計の針に、浮き足立っている足音鳴らしながら、今を駆け抜けたんだろう。幼い歩幅合わせて、このまま何処でも行ける気がしていた、夏祭りのあと、君がくれたキスは、僕の最初で最後の、切ない恋。袖の先でつかむ風、今日が少しだけ許せたよな。指先に染みた、手榴弾に似た形状、鮮やかな果皮の黄色、爽やかな香り、酸味の鋭い味の檸檬にも似た、甘酸っぱさを残して。梅雨は明けた、夏は始まった、網膜上に結ばれた虚像。僕が見ている雨は、すべて、僕の中にある雨だと気付きながら、まだその向こう側へと、ゆっくりと進んでいかなくちゃいけない。喪失感なのか、解放感なのか、あるいはただの空腹なのか。胃のあたりに、重い塊がある。それが、こじらせていく。傷口に膿が溜まるように、感情が濁っていく。でもこうしていればよかった、ああすればよかったとは、絶対に言いたくなかった。生きているのに支障をきたすほど、困難なほど、心の奥をえぐってゆき、胸が張り裂けるほどの切なさに、ポーカーフェイスを装うとしても。いまだ何も成し得ていない痛覚をもつ、心臓の音を感じながら、もう一度、夏の終わったバス停へ。木製の共同椅子。灰皿。傘入れ。停留所名に、通過予定時刻のある、標識ポール。皮を捲ったように赤味を帯びて来る、三十メートル、いや、二十メートル、ヘッドライトがこちらに近付いてくる、消えかかった緑のラインが走るボディ。くたびれた外観のバス。バスはスピードを上げ、水を撥ねさせながら勢いよくこちらに向かってきて、僕は君が別の人と歩いていくのを見ながら、くるりと背を向けて、陽炎に溶ける。蝉の音が聞こえた、今年の夏は長い、九月になっても、十月になっても、もしかしたら十一月になっても、十二月になっても。
2026年07月20日

魔法少女、萌ゆ寝不足なんよ、あたし、魔法少女だから。タンバリン奏者みたいに、部屋のドアを叩くのはやめて。じゃ、インターフォンでじゃないし、次やったら消防車呼んでホースでぶっかけてもらうし、消火訓練だし。ああ、誰かの笑顔のため、今日もまた時間外の労働。睡眠はココアパウダー、マシュマロ入りチョコクッキー、寝不足のままパトロールさせる気、タイトロープなシンドロームの後遺症は、重度のディスコミュニケーション。って設定じゃないし。性癖のカミングアウト違うし。夜の十一時から二時、ずっと東京都千代田区で悪の怪人と戦っていた、この前は北海道、味噌ラーメン美味しかった、この前は青森、十和田バラ焼き食べて来た、おお、このburning heartあのね、(クリックモーション、)出勤表とかないし、スクランブルだし、「HEY TAXl」って、ちゃんと飛ぶし。あと、給料は出るし、危険手当、残業代つくし、あとUSJとディズニーランドの年間パスくれるし、(そうやって飼い慣らされている、)あと、二十代女性だけど魔法少女っていえるし。あのね、(ストップモーション、)少女なんて文字は少し女って書く、そしてこの少しは小さな一って書く、すなわち、少女だし、ロリコソ体型だし、そこ基準だし、(殿堂入り、殿堂入り、)誇りを持って希少価値って言葉いうし。あと、人生ゲームじゃ子沢山。(全米が泣いた!)空に飛んでいてもステルスだし、マッハ100で飛ぶし、(台風でもしまわなかった風鈴がうるさそう、)飛び出せばYou get a fighter戦闘シーンが繰り広げられても結界張ってるし、おお、マジックステッキからブッ放すブラスター!てか、コスチューム恥ずいから見せんし。ああ、これだから、これだから。(◎◆○×□●~)そのね、正体バラすのは、君だったらいいかもと思ったからだし。前から目つけてたんだよね、鯉? 泥臭いよね、ってそうじゃない、狭量で偏見だらけのリアルの世界の論理持ち込まないで、そういうイマジナリーフレンドじゃないし。自分の話ずっとしてるし。(シンパシーとか、テレパシーとか、)どんな服着てたかも知らないのに、コスプレマニアってひどすぎるし。衝動買いのシンデレラってもっとひどいし、買物行けないからAmazonだし。魔法少女の多面的な役割について、功と罪の両面、夜の紳士には大人気、(華著な肉体と美しい外貌、容姿端麗、明眸皓歯って、自意識高い系みたいな演出しないで、)だけどやっぱつまずく不器用すぎる選択肢、振り向いて見つけた昨日にdiveああ、寝不足の両目に容赦なく突き刺さる、充血性のウサギ、耳が頭に生えてきて四つ耳になってるかも。朝焼けの眩しさに背中を向けながら、誰かが朝ご飯を持ってきてくれたら、もうちょっと起きれるような気がするんだよね。おー、こんなところに、ちょうどよさそうな、ヒモみたいな人がいるじゃあーりませんか。一話目のムードが再放送だったけど、ここから先はムーヴィングファストなあたし。ふわふわのパンケーキ、(ふっ、わ、ふっ、わ、)stop! stop! give me! そうだねまたねじゃないよ、(会社辞めていいよ、給料あたしの方が多いし、リアル魔法少女なめんなよ、世界平和は一文なしだけど、防衛費は破格だし、)持ってきてよハングリー。犬の餌っていうなし、だけどコーンフレークは駄目よ。wake up! この気持ちが、Now! Now! going! POPしてはじけそうな感覚は何?(折れたブレーキ放り投げるんだ、「誰だー、チ〇コ投げてきたのはー」って、それ絶対違うし、)心が跳ね上がったよ。熱いものが脊髄の両側を駆け上って、喉元を切なくつき上げて来る。ラッキーハッピースマイル、チューぐらいおでこにしてやるし、黴菌みたいに言うなし。毎度おなじみチリ紙交換って間違えた、毎度おなじみ魔法少女育成計画センター。深く、切なく、熱烈に、我々の心に刻む、朝鮮民主主義共和国のような実体!(「見えるもの」の蜜を夢中になって漁って、それを「見えざるもの」の大きな黄金の巣のなかへ蓄える)トーストにはバター塗って卵とソーセージ、お願いよ神様いるのなら、ハッピーエンドはいらないから、福利厚生ください。ケーキのカロリーに要注意。あたし、魔法少女だから、こいつは執事兼食事係。ああ、これだから、これだから。(◎◆○×□●~)
2026年07月20日

NANIMONO二〇二六年六月末日、新大阪駅にいた。プラットフォームは、湿度を含んだ熱気がゆるやかに滞留していた。シミュラークルの海を漂う、膨大な人間の流体力学だ。関西空港行きの電車に駆け込む人の前で、舌打ちをしそうになっていたあの人は、何者だったのだろう?口腔内で舌が歯列に触れる直前の、あの刹那的な緊張。社会的規範と原初的衝動の境界線に立つ、ほんの一瞬の揺らぎ。考えたところで仕方がない。しかしその一瞬、心の中に眠る原初的な感情、すなわち自然への畏怖と尊敬を呼び起こす。窓からの景色は単調なようでありながら、刻々とその姿を変える。工場の配管は血管のように絡み合い、送電線は神経網のように空間を分割する。吊り革はほんの数センチ遅れて揺れ、広告ポスターが車内空調の微風に震えていた。そしていま乗り換えのために電車を降りて、咽喉の渇きを覚えながら、水を買い、蓋を集める運動を思い出している。キャップ八百個でワクチン一本。しかし、あの事業は輸送費や燃料費で成り立たなくなり、だが、ペットボトルの蓋を集める事自体は、また別の事業がやっているようだ。そしてそんなことを思う自分は一体何者なのだろう。スマートフォンに到着する就活サイトからのメールによって、思考を中断させられてしまう。そうした忘れ去られた断片は雑音となって、発着音のように消え去ってしまう。その美学を感性学ないし感性論として再建しようとする。それは拡張された修辞学だ。誰かに何かを尋ねようかと思ったとき、子供時代には親や兄弟がいた、いまは会社の同僚がいて、妻がいる。でも心の何処かでは他人に興味がない彼等みたいな下等生物が、自分に興味を持つはずもないだろうと、ミジンコやアメーバー達を思った。諦めて何かを探そうとしながらそれを咎めることもしないだろう、三歳児から知性が成長していない人々にとっては、ごくごく自然なことだ。曖昧な集団への帰属意識を向上させるものは、非人間的なものではなく、エゴである。そして自分も彼等のようなゴミクソカスを、社会の一部として監視する必要があるのだ。監視という語の、パノプティコンめいた冷たさ。超人になれない人間は奴隷になるより他ないのだ。蜘蛛の糸を掴み損ねたら、もう鳥の言葉しか話せない。あるいは、真の意味で主体的になれない人間というものは、自分のなかの仮面やテンプレートにも疑問を持たないのだ。戸籍制度、身分制、苗字と婚姻、理想的家族像としての皇室ファミリー、男系と男子による継承、女性蔑視、アメリカとの共犯関係であり、戦前から戦後民主主義の欺瞞を経て現在に相続される歴史的縦軸に、家父長制とジェンダー。多様性なんていう言葉は必要ない。アイデンティティーなんて、まず、空想の産物だからだ。パソコンの外部ストレージのように。自分の都合のいいように物事を記憶し、自分の都合のいいように物事を忘却してしまう。一体それはどんな外部ストレージだったのだろう。神経科学的に言えば、シナプスの可塑性と再固定化の過程に過ぎないが、主観的にはそれ以上の何かに見える。ふと思い立って見知らぬ駅に降りてみた。揚げ物の油の匂いと、パッケージングされた食品の防腐的な香りが混じり合い、蛍光灯の白が、剥製にされた午後のように色を失っていた。時間を潰すため売店で何かを食べようかと思ったり、見知らぬ駅舎の向こう側へ歩き出すのだと思いながら、最終的に蛍光灯のうらぶれたトイレへ行き、人生のなかで本当にするべきことはこういうことなのだと、思い当たったりした。ありもしない瀟洒な塹壕と皮肉に思った。そして小便器の隣で身体を震わせていた中年の男は、前立腺肥大症、尿路結石、膀胱炎、または服用中の薬の副作用なのだろうか。洗面台に水を流したまま、記憶が排水溝に落ちてゆく。しかしいま、その記憶という感光乳剤の上に、褪色したセピアの帯として現在の光景が焼き付いていく。そしてそんなことを思う自分は一体何者なのだろう。言語化できない迷いとコンプレックスこそが、人間の人間性と称することのできる存在なのではないかと、一瞬考えて眼を瞑って口を閉じた。言葉にならないもの、名指せば逃げていくもの、その、舌の裏の空白地帯に湿りと渇きを与えながら。ホームの前ではホームレスと、自作絵画を売る人がいる。もしかしたら似顔絵描きかも知れない。人生の貴重なすり減っていく時間を使って、資本主義の歯車として仕事をするということは何なのだろう。外国のAmazonの工場では労働が過酷を極め、ブラックの代名詞になっているという話を思い出した。ニュースは、人間を記号化する。記号は所詮、記号以上の意味を持ちえないのだと短絡的に思ったりもする。ニュースは人間をデータポイントへと変換し、統計的傾向として処理する。鯉と鰻の養殖で蜂蜜のねっとりとした感じを想像するようなものだ。全員が同じ顔を持った他人と認識され、扇動される。それでも記号を通じてしか世界を把握できないという現実の間で、認識は揺れる。そうして、自由を失い、疎外され、孤独なのだと浅墓に思ったりする。否、孤独は手に入れた先から失われていく。本当の孤独は絶望や虚無に等しいということを、長い間の生活の中で自分は見出していた。窓際の休憩スペースでコーヒーを片手に外を眺めながら、霧雨が降っていた。雨になると死にたくなる率が高くなるのはあながち間違いではなく、セロトニンの低下や、低気圧による自律神経の乱れなのだと、そんなことを考えている自分は何者なのだろう。相対性理論や非ユークリッド幾何学についての話を耳にするとき、想像上の共同体というのを考える。自動販売機で水を買ったら、硬貨が百円も多く返ってきてしまったとき多くの人は、百円玉を着服するだろう。それは本当に仕方のないことだ。わざわざ交番に届けに行く金額ではない。惑いのなかにある奇矯な勇気を試す者はいないだろう。だが、自動販売機でジュースを買ったら、十数本も出てくるという故障に見舞われたとき、その十数本を着服することができるだろうか。止まることなく変化を続ける動態的都市の中を、生き抜くのだ。矛盾は生きる中で絶えず襲い掛かる天敵の別の姿だ。問い掛けによって答えが変わるというのではない、それは人間がブレていることの証左ではないのか。それともこれは閾値の問題なのか、それとも物語の問題なのか。あるいは、これが重量なのかも知れない。百円は羽根のように軽く、十数本は、ずしりと、耐えがたく重い。そしてその重量とはすなわち犯罪に対する重さでもあるのだ。そんなことを思う自分は、一体何者なのだろう。インターネットが世界を繋げて一つにするという夢を、本気で信じる人はいなくなっていた。自動ドアはひっきりなしに開くのでそのことに気付いたのだ。目前に積み上げられる瓦礫の山と無数の虚構を見ながら、論理的による人工的な管理体制の構築を見出しながら、それを沈黙と、アイロニカルな論理のなかで、データベースと呼んだ。しかしそれもまた試行錯誤の結果生まれたものであり、たとえそれが構造の反復、抜け出せない円環と構造的可視化であろうとも、その背景には様々な人々の過去の成功と失敗の、喜怒哀楽が積み重なって潜んでいる。こちら側には空間があるから箱ティッシュを取り出せるのだと、そのことに気付いた二十数年。阪和線の三国ヶ丘駅から南海高野線で、堺東駅や、深井駅へ行ける。しかしその方向は逆だ。そのことに一瞬頭が混乱する。上りと下り、東と西、乗り換えの矢印が、カルロ・エミリオ・ガッダの文体さながらに、無数の副次的な因果へと分岐する。日本初の日系人の総理大臣が誕生するニュースが見えた。いや違うそれは、中南米のペルーで日系三世のケイコ・フジモリ氏で、高市早苗氏が第百四代内閣総理大臣になり、女性の総理大臣が生まれたのだ。新宿駅は複雑な構造な駅舎で、ダンジョンや迷宮と呼ばれる。ずしりとした重みを伴ったうつしみの現在そのものだ。だが、自分は天王寺駅ごときでも、どの電車に乗ればいいのかが分からなくなる。確かめられることを恐れ、人と話すことを避けている。得手不得手があり、慣れや経験を必要とするが、本当の意味での分かり易さを追求しているといえるのかと、そんなことを考えている自分は一体何者なのだろう。
2026年07月20日

青春カオスフィールドワークルーチン迷子になってはかくれんぼ、暴走中のOut of control!錆付いたフェンスにのぼって、街並みを眺めて、内緒の電波は徘徊中のSearching for the signal!はい、そこの君、地図は持っていますか。はい、スマートフォンのGPSも正常です。それでも「現在地」はどこにも表示されてない、ノイズに埋もれて、都市そのものが、周波数の合わない、巨大な送受信機のように唸っている、そしてそれを愛と呼ぶんだぜえええええ!街路樹を上手に利用して、横顔は、いつものヘッドフォンで塞いでた、(粘土食べてた)処方箋はない、(画用紙美味い、)ダークブルーイエローパープル、メリーゴーラウンド。ノイズのなか、転げおちた、フェンス越しのグラデーション。もう、どーなってんだ、なんでだってんだ、た、た、た、、、「だが断る!」何処から来て何処へ行く、その答えなら私の胸の奥にある。青空の裏側を見て、蟻は行列のできる法律相談所。この夏は多分、忘れてしまうことが多いだろう。「生きるのに疲れたので星座になりたいって、友達がLINEしてきたから、地上の星かって言ったらすごく怒られた」(いやいやいやいやポエムか?)Hello It's a Brand-New Day吸い込まれそうな景色を前に、ドックンドックン心臓は、このフェンスの向こう側、レフェリー!一晩中ただ妄想ばっかし。このフェンスのこっち側、そこに線を引いてる自分を笑った。―――ココロ、トキメク、イマ。急き立てるように、この気持ち、試してる?どんまいどんまい、あ、いまのなしAre you ready?「フェンスのない街へ行きたいって言ったら、ちょっとカッコいいかな?」どんな苦境も挑んで秒でエンド、(ちょっと尖った顎が、あなたの背中に突き刺さっただけ、)踏み越えたらもうラッタッタ、頭の中はパッパラパ。暗中に活はあるか?(反転する視界...Upside down!)泥中に花は咲くか?(暗転する世界...Fade to black!)世界地図の端っこから、こぼれ落ちた幾つもの物語。それも一つワールドな世界、目を細めればいわゆる一つのシンジケート、背中にひっつく白い制服に、What's going on?教科書、夏の記憶、鞄に詰め込んだ。大事なとこに赤線を引いて、Deep inside my heart内部情報をリーク、さりげないときに光るラインマーカーで、心理戦の拡大 Highlight my life!強がりの延長戦。(ねえ、ちょっと、)引き分けの涙。(ああ、それムリムリ、)点滅する信号が合図だ、Ready, steady, go!放射状の全方位性、リミッターOFF、足首の鎖にグッバイ!風が吹き抜けていく、スローライン、時間は過ぎ去ってく、フリーキックエリア、段々堕ちてくIQクソワロ、Brain meltdown!(本郷猛子は改造手術を受け、―――以下省略)それでもいっぱい溢れてる。ぐるぐるめくるめく色彩。無我夢中で探した自転車の鍵、つたう汗、望み薄、そんなん知らないよって。(I don't care! I don't care!)沸点に達しそう、苛々、馬鹿みたい、この世界はなんだか悪い夢のようだ。(ウルトラマンが酒場で、「おれはだめなウルトラマンなんだ」と言ってる)左に行くと見せかけて、右に行こうとしても、時の天秤は見極めてる。この世界線、有限の命、でもまだ一生懸命にやりたい、まだ前を向いていたい。感情の感染症、広まって伝染病。もう、どーなってんだ、なんでだってんだ、た、た、た、、、「だが断る!」この声が届かないって一体誰が決めたの、その答えなら私の胸の奥にある。バナナを食べればアホガールなんだ、だからドミノするよ、バナナで。エンジンではなく神経系で起きているバナナで、シナプスの発火が規則性を失い、ときどきいちごで、意味の連鎖が勝手に接続されて、(ときどき椎名葡萄という、そういう世界線について考える、)感覚だけは残る。湿度、鼓動、光の強さ。Hello It's a Brand-New Day吸い込まれそうな景色を前に、(ドックンドックン心臓は、)このフェンスの向こう側、急速急発進、(アンパイアー!)このフェンスのこっち側、カウントダウンをフライング、そこに線を引いてる自分を笑った。―――ココロ、トキメク、イマ。
2026年07月20日

Pianos in Deformation朝目が覚めてテーブルの前、トーストをコーヒーで流し込んだ。平凡な日常、ベルトコンベアーで運ばれてゆく、蝶の死骸で埋められた道、昨日との違いは、ニュースが告げる悲しい声。この音が聞けなくなるまであと何分何秒ですか?休符。スタッカート。空間のイメージををこすりながら傷を残して、『世界像』とかいう、アートになった。じりじりと記録をのばす遠泳、そうか、いつのまにか、こんな長い橋を渡っていたのか。そしていまは踊る指が色に変わる。頭を抱えた昨日、靴を売りたくなって兎の耳をつけた。暗青色のアトモスフィアな動揺に、凍えた心を包むような天使の祝福を。それでも僕等は愛をこう歌う朝と夜が限りなくやさしく触れ合うものと言うだけで、裾野がさらに広がりはじめる。時に薔薇を、時に長い髪を、(コーラス、メロディ、)その浅い酔いや愁いや退屈さえも、産まれるシーンの雷鳴、青鷺が波紋を連れる、繰り返すリズムに落とし込みながら。(ハミング、フィナーレ、)逃げる、白の旋律を、漂い、追いかける、黒の言葉を、滲ませ。「奈落へと通ずる美しい蠱惑の一瞬(を)」飛べない鳥があそこにいる、コンフレークを咽喉の奥へ流し込んだ。詰め込み過ぎた世界は空回りながら、眩暈の奥に、水底のあわいを感じながら、誰も聴きえぬ旋律を見出しながら、救急車のサイレンが掻き消した。この音が聞けなくなるまであと何分何秒ですか?ト音記号、ヘ音記号、ハ音記号、知性なんて必要ないよって針金を掴んだ、『根本命題』とかいって、涎れた首が折れるだけ。僕はなぞった、息をした、音に埋もれながら、静かにほら、僕等は何の意味もなく消えてゆく。点は線になる、円は球形になる、見えない生命を五線譜に置き換えてゆく。あの日いた、あの場所から離れられない優しい声。美の理想は推理の延長のなかで、観賞魚のようになってしまうかも知れない。灼熱が胸を焦がすShining rayとかいう凱歌は、いくらか遊戯的なものにすり替わってしまった。大人になるってこと?(かかる二つの区切られていない領域のなかに、住まっているもの、)子供のままではいられないってこと?(かかる二つの区切られていない領域が統合し、完全無欠なものとなった此の世、)それでも僕等は愛をこう歌う僕と君が限りなくやさしく触れ合うものというだけで、半世紀の軌跡をたどった地図になる。時に月を、時に濡れた花のような傘を、(コーラス、メロディ、)足りな過ぎた酸素や栄養や時間、静かに下ろす冬の余白。ほそき手指の影が窓枠を絵画にする、繰り返すリズムを刈り取りながら、(ハミング、フィナーレ、)逃げる、醜い生活を、漂い、追い掛ける、美しい生命を、滲ませ。「未来を夢みる空中の軽業に満ちた一瞬(を)」
2026年07月20日

嚏ほんの些細な小さなことで、心が離れてしまうのを、気にした。君が悲しいこと言い出すから、何かしてあげたいと思いながら、まだ何も言えないでいる。耳を澄まさなければ聞こえないような、小さな決意の言葉。駅の踊り場から見えた、君の家。ミンミンゼミの鳴くあの通り。ぼろい自販機と郵便局の、一つずつ影をもらって走り去る、触れるたびいのちが溶けてゆきそうだ、メーテルリンクと夜の夢。君が一人で抱え込んでいる、気持ちも少しは愛せるよ。だから泣かないでくれ、僕も泣きたくなる。(心の底からの、So darling I love you)小学生の夏休み、田舎に帰省して戻ってきたら、公園にたまたま君がいた。美しい木々だって初めて思った、それからずっとそこはそうなんだ。街の色がいつもより濡れていた、住宅街の小さな公園、カレーライスの匂いがする公園。襤褸をまとったような夜に街燈が地上を掘りかえし、搖すぶり、樹々の背後に、まるで眠れない夜のような、褪めた緑色に一筋の細い道を与える。一人飲むソーダ、空が見える、そりゃそうだ。夕陽傾き沈む学校からの帰り、いつも語り明かしたあの公園で、孤独な手をこする所作が痛かった、大人になることがただ怖い、進学とか、将来の夢、手のひらの番号札を軽く握って、今が終わってしまうのが怖かった。別れがあって距離は意識される、告白しなくても付き合っているのに、そういうことは絶対に、言わなくちゃいけないはずなのに、ポケットの中で運ばれている、目薬と体温計。不完全であるほど美しい繚乱とその変遷。みずうみの夢から覚めてゆく、きれいな倫理観。時間を忘れて漕いでいたブランコ、よく寝そべった滑り台、それが日毎に遠くなる、鮮明で淡い夢を見ていた上の空の些細な Storyまるで巨大なコンクリートの下に、心まで埋められてしまったような気がして。今夜はとても静かだな、強弱の火華を消した数千の符牒、夏休みのせいだ、サラリーマン風の人が、大きなくしゃみを一つした。ブラッドフォード、グラスゴー、デュッセルドルフ、意味はない、意味はないの、意味はないよ、一時期流行った、くしゃみのたびに、カッコいい外国名を連呼する、遊び。夢を見させてよ流れ星、向こう岸まで連れてってよ箒星。UFOが見えたらいいのに、そして君がこんな時間でも散歩に出かけてさ、よっ、とか言って隣に座ってくれたらいいのに。五分前に来たところって、待ち合わせをしていないのに言うんだ、君と奏でるセレナーデとかいう、恥ずかしいことも言うよ、美に牽かれる一番弱い本能を誘惑する珠玉、気障じゃなくて素直な気持ちはいつだってそう、バイバイ、さよなら、残った濃い濃度の気持ちに See you(心の底からの、So darling I love you)でもスマホでLINEを送りたくない、本当は一時間も前からここにいるって、絶対に言えないんだ。
2026年07月19日

いつかの思いがけない契機で、失われたはずの歳月、脳の奥底で固着していた樹脂のように、ひび割れて剥がれ落ちる。時間は連続しているはずなのに、その瞬間だけは層をなして逆流し、かつて頓挫し、暗礁に乗り上げたと思い込んでいた感情が、再び粘性を帯びて立ち上がる。そしてこの感情は伸びてゆく。古い机の引き出しのいちばん奥から、埃を被った日記帳が、他の何かを探そうとした手のはずみで転がり出てくるように。しかし、この感情はもっと緩慢に、もっと広範に、台風一過の、洗い流された高気圧の空へ、上層の風に乗ってゆっくりと薄く広がっていく巻雲のように、絹の繊維をほどいたように、伸びてゆく。張り詰めたような澄心の一針、しかしそれも人間性の特異化。錆びたネジのように軋みながら、ぐるりと半回転して戻ってきたら、誰しもが内包する狂気のスペクトラム上で、ただその座標が滅茶苦茶に、ズレていたことに思い当たるだけさ。踊り場の壁は、一九八〇年代のビニールクロスが剥がれ、下地のモルタルが露出し、その隙間から、湿気で膨張した新聞紙の切れ端がはみ出す。死体の口から覗く舌のように、だらしなくはみ出していたのさ。女性の悲鳴が聞こえ、「もう、アンタとはおしまいよ」と泣き叫ぶ声が、雨粒のように階段の踊り場に散る。五月雨でも降ったかと思うほど、皿が割れる音が連続し、窓を金属バッ!小皿は高音の「キィーン」で、スープ皿は中音の「ガシャッ」で、大皿は低音の「ドゴォン」だ。三拍子の不協和音が、暴力を音楽的な表現に錯覚させる。人間の聴覚野は、意味を拒む音の連なりにすら、律動を、拍節を、勝手に見出してしまう。ストラヴィンスキーなら譜面に起こしたかもしれない。いいか、女は黙って後ろからついてこい、しょうがないから抱いてやるって、いつの時代だ?昭和のテレビドラマから抜け落ちてきた台詞だ。心臓の鼓動が耳鳴りに変わり、世界が遠ざかっていく感覚。これは現実なのか、それとも俺の脳が作り出した幻聴なのか。都市の片隅で、人間の尊厳が紙のように薄くなり、そしてその言葉は文化の化石だ。時代遅れのフレーズほど、未分解のまま残存する。ここは、家畜の餌場じゃない。イオソでやれ。時々、屠殺場だと考える。スターバッコソでやれ。DV防止法(2001年制定)の精神からしても、明らかな逸脱行為だが、暴力が世界からなくなることはなく、暴力とはスーパーマーケットで繰り広げられる、死体の山と認識できないもののことでもある。スーパーマーケットの精肉コーナーで、均一なプラスチックトレイにパッキングされたのが、もし人間だったらと考えたような連中は、SF作家になるのかも知れない。いや、DV防止法が制定されようが、刑法が改正されようが、ジェンダー論が積み重ねられようが、人間の脳幹は数十万年前の設計図を引きずっている。新皮質は文明を学ぶ。しかし視床下部は、それを知らない。人間は同時に二つの時代を生きている。石器時代と情報社会を。その矛盾が、ときどき壁一枚向こうで爆発する。まだ続くようなら警察に電話かけてやろう、んもう内臓が丸出しのレベルで。なんだったら、んもうストリートキング気取りだけど、内臓がはみ出してはみ出して、これでもかと露悪的にはみ出しているレベルで。だが、暴力を振るう男なんて、ロクなもんじゃない、そして知り合いは風俗で性病をもらい、借金大魔王へと身持ちを格上げした。消費者金融の金利計算式に絡め取られ、気づけば返済総額が元本の三倍を超えていた。そんな奴、別に珍しいわけじゃない。そんな個体は、統計学上の外れ値ではなく、正規分布のボリュームゾーンに過ぎない。ただ、時々、自分のことだってきちんと考えられないことを、優しいって言うんだなと思ったりする。裏通り、ネオンが反射する湿ったアスファルトで、小さな鼠を見た。ああやって生きる生き物がいる、一体自分とどう違うんだろう?住処を探し、食料を探し。危険を避け、朝まで生き延びる。その生存関数の変数が、俺のそれと、根本的にどれだけ違うというのか。人間だけがそこに「意味」や「価値」や「尊厳」を持ち込んで、生きる事自体を難しくしている。そして、セクロスは悲しい、岡田斗司夫とかいう犯罪者の手口が漫画で暴露された。サイコパスじゃなくて、最後のバスだな、こりゃ。引導だな、一巻の終わりだな。生殖行為が本来持つべき親密さが、資本主義の商品化システムに回収された結果かもしれない。頭の中が貨幣経済、腰から下は原始時代だったか、そいつはすごいな。権力者がいかにして弱者を搾取するかが、図解付きで描かれている本がある。しかし、今読み返すと、あまりにも単純化されているように感じる。現実は、もっと複雑で、もっと粘っこい。被害者も加害者も、同じ人間の皮膚の下に同居している。進化心理学者ポール・マクリーンが提唱した、三位一体脳モデルは、現在では単純化されすぎているという批判もある。それでも比喩としては実によくできている。理性は最新型。欲望は数百万年前。この時間差が、人間という動物を滑稽にしている。なんでこいつ生きてるんだろうって思うような人も、息ぐらいはしてもいいんじゃないって言う人もいる、まあ我々の祖先、縄文人達は夜中に、乱 交パーティーをしていたそうですからな、本当かよって思うけど、国立歴史民俗博物館の研究によれば、縄文時代の集落遺跡からは、祭祀的な性 行為を示唆する土偶や装飾品が多数出土している。まあ学術的にはアウトもアウト、ミクロネシアの環礁で原始の人々が巨大な石貨を転がしていただろう、という程度の、ロマンチックで検証不能な、ナンセンスの一種にすぎないのだが。駅前の中古レコード店から漏れてきた、一九七〇年代のジャズピアノだったり、真夏のアスファルトから立ち上るビチューメンの匂いだったり、あるいは薬局でアルコール消毒液を手に取った瞬間、揮発したエタノールが鼻腔の奥に触れた、その程度の出来事だろう。Uber Eatsの緑のジャンパーが、夕闇の中で蛍のように光る。ああ、乱痴気騒ぎ、まったくもって猥褻、まったくもって卑猥、深く考えちゃいけないのかも知れぬ。馬鹿だよ、この人は。こりゃこりゃ。少子化という人口動態の縮小も、ホモ・サピエンスの集団的アポトーシスなのかも知れぬ。エイズとか避妊など子供に伝えたいことはあるけど、まず、自分がうすっぺらくて、どれだけつまらない人間か思い知るべきなのかも知れぬ。こりゃこりゃ。昨日までの自分を壊して、今日の自分を作る。そうやって生きられないものかなって思うことがある。エジソンは発明の功績を奪い、マルクスは家庭的に破綻し、ニーチェは人間関係が壊滅し、トルストイは家庭内で暴君で、ピカソは倫理的に最悪だった。偉人列伝は、功績だけを額縁に入れる。しかし、その額縁の裏には、嫉妬も、執着も、家庭崩壊も、金銭問題も、性的逸脱も、友情の破綻も、数え切れないほど貼り付いている。人類史は、人格者によって作られたわけではない。欠陥を抱えた人間が、偶然、巨大な仕事を成し遂げた歴史でもある。だから学ぶべきなのは偶像ではない。構造だ。何が、その仕事を可能にしたのか。何が、その人を壊したのか。その両方を見なければ、歴史はただの英雄譚になるこんな奴等から学ぶことなんか一つもないって、たった一秒でもそう思えたら、俺がよく出来ましたって手放しで褒めてやるよ、糞くだらん奴から学ぶことなんか一つもない。女を一人や二人愛人にしたいって言うから、物事の考えが甘くなるんだ、十人、百人愛人にしたいと言え、そうすれば、それが自分の可処分時間をどれだけ食い潰し、どれだけの人生を無駄に費やすことになるか、需給の均衡が崩れた瞬間にすぐわかる。俺にはどう見繕って、髪の毛逆立てても、これは無理だ―、無理ゲー。スマホ握って四角い画面を見るだけで、人生数年分の無駄が確定するらしい。親指でのスクロール動作は、報酬系を刺激する可変報酬スケジュールに最適化されている。脳科学の論文によれば、スクロール動作が前頭前野の血流を著しく低下させるという。これが文明の利器か。現代人必須のアイテムとやらか。昔観たショート動画のアメリカ人らしい子供とその親みたいに、プールへ向かってスマホを投げ込みたい。それだったらよいベットや、安眠枕について、研究してみる方がまだマシって思えたらいいが、ああいうのは脳のトリガーなんだろう、そしてそんなことをする奴は、コンプレックスまみれなんだろうな。それなら結婚しなきゃいいのに、結婚して一日後の早まったかなという苦悩を、世界中全部に響くほどスピーカーしてやりたい。社会学者アンソニー・ギデンズが『近代家族の変容』で論じた、「純粋な関係性」の不可能性を地で行く事例だ。あるいは、哲学者ジャン=ポール・サルトルの、「他者は地獄である」という命題を想起させる。ふと重く響く。誰かと一緒に生きるということは、常に自分の自由を削り取られることでもあるのだ。アンソニー・ギデンズが論じた「純粋な関係性」は、互いの満足を基盤とする関係だという。だが、人間はそんなに純粋ではない。疲労も持ち込む、仕事も持ち込む。嫉妬も持ち込む。親の介護も、子供の教育も、病気も、借金も持ち込む。生活とは、不純物の総和なのだ。だから続く関係は、美しい関係ではなく、修理を続けられる関係なのかもしれない。かつての友人の結婚式を思い出した。三年前のことだ。式場は都内のホテルで、披露宴はフランス料理のコースだった。友人は白いドレスを着て、幸せそうに笑っていた。しかし、その笑顔は、写真に撮るための笑顔だった。目の奥には、何か別の感情が宿っていた。不安か、後悔か、あるいは両方か。乾杯の音頭を取り、シャンパンの泡がグラスから溢れるのを見た。泡は、テーブルクロスに落ち、小さな染みを作った。それが、次第に広がり、白い布を黄色く変色させていく。ああしかし、心理学なんていうものを真面目に語る時点で、ちゃんと本を読んでいない証拠だ。いらっしゃいますとも、患者様達が、わんさか。おそろしい憂鬱の孤独だ。フォントは大きく、行間は広く、図解が多い。読みやすい。しかし、中身は水のように薄い。そして何もない。そういう本を読んで馬鹿にならないわけがない。分かり易さを馬鹿と呼ばれたくない人もいるだろう、均質化、空洞化と呼ぶべきだろうか。けれど、これだけは言える。心理学を口にする時点で、人間がないんだということを証明する。人生に苦労をしたことのない人間ほど、失敗を恐れる。人生は暇潰しだ、ああはやく自殺したい、そんな声もちらほら聞こえる。ネットの掲示板で見た書き込みの呪詛のような文言も、何度か目撃したことがある。「生きてる意味がない」「死にたい」「誰も私を必要としない」どれも、匿名の、誰かの叫び。しかし、画面の向こうには、本当の人間がいる。血が流れ、心臓が鼓動し、涙を流す人間が。それらの書き込みに、いいねを押したことがある。それが、正しかったのか、間違っていたのか、今でもわからない。鬱陶しいその長い髪を切って、海で服のまま泳いでくればいい、人生の難易度を上げてから兜を締めることだって、それはあるでしょうよ。声は、返事を求めてなどいない。ただ、そこに漂っているだけだ。シオランなら笑うだろう。カミュなら「それでも生きる」と書くだろう。ヴィクトール・フランクルなら、「意味は与えられるものではなく見出すものだ」と応じるかもしれない。哲学者は答えをくれない。問いを長持ちさせる技術だけを教えてくれる。それで十分なのだ。問いが残っている限り、人間はまだ思考している。猫がこっちを見る、どう、うちの家で一緒に暮らさない?その瞳は、琥珀色の奥に千年の倦怠を宿している。万里の長城を一緒に歩いてみない?その問いは風に消え、ただ尻尾がゆっくりと一回揺れるだけだ。炎上した。ネットのニュース番組なのか、討論番組なのか分からないが、過程を楽しむ要素がまったくない。政治評論家、経済アナリスト、芸能リポーター。みんな、スーツを着て、真剣な顔をしている。しかし、目は、画面の向こうの視聴者数を気にしている。近頃のコメンテーターはつまらない、ひろゆきとかいう馬鹿が、へらへら笑っているのも段々うすら寒い。ホリエモンは怒り芸をしている。いつからだろう、二時間くれれば、その一千倍マシな内容の文章を書けると思ったのは。昔はそうじゃなかった。頭が悪いとか、知識がないとかそういうことではない。その内容に関する切実さのなさが、俺にそう思わせた。発言はいちいちもっともらしいが、まるでエコーチェンバー内で反響するだけの空砲だ。エンターテイメントなのだろう。大学生だって、ジャーナリストだってきっとそうだ。頭の良さとか、知識のあるなしではない。僕は毎日自分に、こんなんでいいのかって問い掛けた、だからもっと成長しようと思った、そうしたら見えてきたのは、こんなんでいいのかっていう奴等の、ひねもすさみしげなシメジのような、大安売りのオンパレードの、程度の低さ。鏡の自分に問いかけた。「お前は、何を信じているんだ」答えは、返ってこなかった。部屋は静かで、時計の音だけが響いている。カチ、カチ、カチ。秒針は、容赦なく、未来へと進んでいく。パソコンを閉じると部屋は暗くなり、窓の外の光だけが、部屋を照らす。椅子に座ったまま、夜景を見た。車のヘッドライトが、赤と白の流れ星のように動く。ビルの窓から漏れる光は、まるで地上に降り注ぐ星の海だ。そこに、自分の姿を重ねた。小さな、光の一つとして。こちらが街を歩いているつもりで、街のほうがこちらの歩き方を学習している。駅の改札、監視カメラ。交通系ICカード、ポイントカード。位置情報、検索履歴、購買履歴。都市は巨大な記憶装置になった。ボルヘスの『記憶の人フネス』は、一切を忘れられない青年を描いた。現代都市は、忘れられない社会そのものになろうとしている。でもおそらく普通に話してみたら、普通な人なんだろうと近頃思う。五十パーセントはネタだったらいいな、テレビで普通に話せるのはすごいことだ。でも、普通に話せること自体が、もう、普通じゃないっていう証明だ。何の参考にもならない。テレビとかネットっていうのが、一時期のTwitterで馬鹿が大量に現れる現象ともリンクして、動物化だなと思う。それだったらハーブティーの知識を披露したい、ハーブティーの、カモミールとレモングラスのブレンド比の知識を、披露していたい。擬人化したきのこ図鑑について話したい、誰も興味がないことでも、まだそれよりマシかって思えることを、一つでも多く所有していることを喜びたい。自己啓発セミナーに参加したことがある。会場は、某ホールで、参加者は五百人ほど。ステージには、講師が立ち、マイクを持って叫んでいる。「あなたは、もっとできるはずだ!」「今すぐ行動しろ!」「失敗は成功のもとだ!」参加者は、メモを取り、頷き、時折立ち上がって拍手する。笑いを堪えるのに苦労した。高級クラブにいた。会員制の店だ。入り口には、黒服の男が立ち、会員証を確認する。僕は会員ではない。しかし、同伴者として、入店した。店内は、薄暗く、テーブルごとに、小さなシャンデリアが吊り下がっている。光は、琥珀色で、客の顔を、暖かく照らす。しかし、目の奥は、冷たい。そんなことを思い出した。セミナーの休憩時間、隣の男性と話した。彼は、小さな会社の社長で、社員は五人だという。「最近、調子が悪くて」と彼は言った。「注文が減って、銀行の借金が増えて。でも、こういうセミナーに来ると、元気が出るんですよ」彼の目は、充血していて、下瞼が腫れている。しかし、笑顔は、作り物のように整っていた。これが宗教かと思った。あるいはお金の力というやつなのかと皮肉に思ったりした。あんなの糞みたいなことだ。フンコロガシの方がまだ文化的な気がする。太陽の偏光を頼りに、球を真っ直ぐ転がすあの甲虫は、古代エジプトでは太陽神スカラベとして神格化さえされた。いや、もういっそ、僕は世を諦めて、儚んで、スカラベの糞球形成と定位行動を生涯かけて研究する、隠遁の、フンコロガシ研究家にでもなってしまおうか。フンコロガシから見た現代社会。スカラベと政治。心躍るようなフレーズだ、目に飛び込んでくるインパクトだけで、ただ者ではない感が伝わってしまう。必殺仕事人だ。コピーライターくたばれ。NHKの番組で、南アフリカのフンコロガシが、動物の糞を丸めて、巣穴に運ぶ様子を見た。糞は、丸く、大きく、彼等の体の数倍もある。しかし、彼等は、後ろ足で押し、前足で方向を変え、坂を登り、障害物を避け、巣穴まで運ぶ。それは、まるで、芸術のように見えた。精密な計算、完璧な協力、美しい軌道。見て見て、すごいすごい、あれが当代随一のフンコロガシの権威よー。馬鹿が、五月蠅い、黙れ。「フンコロガシが、フンに潰されてしまうではないか?」文明など、感覚器官を一つ捨てて手に入れた、不完全な進化なのではないかという気さえしてくる。湿ったアスファルトに映る信号機の赤が、風に揺れた街路樹の葉でわずかに歪む。夜は静かだ。政治の世界ではまさか、日本へ核兵器を運んではいないだろうね。国会議事堂の前に立っていた。正面の大階段は、花崗岩でできていて、太陽の光を反射して、白く輝いている。柱は、コリント式で、天を衝くようにそびえている。屋根は、緑青銅で覆われ、緑色に変色している。それは、権力の象徴だ。しかし、僕には巨大な墓標のように見えた。誰の墓か。民主主義の墓か、それとも、国民の信頼の墓か。どうなんだ、総理大臣。総理大臣、と国会議事堂のやりとりが聞こえる。そして議員の華だかのシュプレヒコールをし、ネトゲ三昧だったかのおっさんが居眠りをする。どうなんだ、総理大臣。総理大臣、と国会議事堂のやりとりが聞こえる。議員達が、自分の利益のために、国民の声を無視する姿。マニフェストはいつも立派だ、一つ守れたらえらいって何だそりゃ。政治は、いつだって滑稽で、いつだって危うい。そのくせ、人間の時間の中心のふりをする。自分自身が「見えない存在」であることを実感する、そんな奴等の心理だって分からないんだ。何が邪魔しているんだろう、何が弊害なんだろう、本音と建て前はいつまで続くんだろう。塾へ行っているから、学校では眠っていい、だってつまらない。じゃあ学校に来るな、もし本当にそう思うなら、友達作るためって言え。頭がいいのを証明したいなら、外堀を埋めるイメージ作りの重要性だって、わかるだろうって言ってやりたい。ありとあらゆること、優れてるように見える人はいても、みんな底上げしてるもんだ、演出された、加工された、フェイクの高さに騙されちゃいけない。同調圧力は人生を壊すほどのものだ、そう思われちゃいけない、そう思われてもいいように、いまからちょっと筋トレにいこっか。どしたん、握力は百超えた?それに、上には上がいる。井の中の蛙大海を知らずだ。一番上になったらルールだって作れる、一番上からなら世界は君のものだ、何だって好きなことを言ったらいい、クーデターには気を付けて。謀反はよくあること。そしておべっかを使う奴等ほど、裏では結構きわどいことを言ってるものだ。ああしかし、金を稼ぐという行為は、現代における最も汎用的なカードだ。しかしそれだけでは、内的な蓄積は保証されない。金を稼ぐ連中の湿気た面、見れば見るほど何もない奴等だ、ジッと部屋で本の一つでも読んでいられないのか、音楽のCDでも映画の一本でも、心の中に蓄えておこうという考えに至らないのか。外界の情報を内面の構造へと変換するプロセスは、時間をかけて沈殿する。だが都市の速度は、それを待たない。この街は病んでる。承認欲求とかいう四文字熟語風の言葉が五月蠅い。本屋で絵本を買っている女性は気持ち悪い。メルヘンチックなものが悪いわけじゃない、そういう本を買う時点で、そういう本を買う自分のキャラクターを、成立させているからだ。まあ、ピーターラビットの像を部屋に飾っていたら、いい趣味だって言ってやらないこともない。俺なら本屋のカウンターに、エログロの本を持って行っても、雑誌で隠す。それはそうだよ、何言ってるの、頭大丈夫?いつだって自己演出だ。完全無欠の天才詩人様のお通りで―い。自分に問いかけた。何をしようとしているのか。雑誌を買うのか、それとも、ただ見ているのか。雑誌を棚に戻した。すると、店員が近づいてきた。二十代後半の男性で、眼鏡をかけている。「何かお探しですか?」彼の声は、丁寧だが、目は、警戒している。首を横に振り、文庫本コーナーに向かった。いつだって自己演出だ。コンビニの隅で異国のタバコを求めたはずみに、レジの青年の手元が震え、小銭をばらまいたその瞬間みたいだよ。ごめんなさいって言わなくていい、ゆっくりやってもいい、いつから俺達は、人を傷つけてもいいっていうのを承認したんだろう、なめくさりやがって。どんな社会なんだ?甘い紅茶の缶を飲みながら思う、心が汚いのだ、ロックは不良だ、クラシックこそスタンダードだ。いつだって始まりは偶然だ。偶然という言葉は便利すぎる。スーパーの総菜売り場で流れていた八〇年代の歌謡曲。改札口ですれ違った女の香水。地下街の排水溝から立ち上る湿った鉄の匂い。ホームセンターの木材売り場に積まれた杉板の樹脂。それだけでいい。海馬は仕事を始める。神経細胞は嘘つきだ。それでも想起のトリガーが始まる。ああ、いい陽射しだ、循環せよ、世界中全部が美しいのだ。僕は表情を消して能面のようになりながら、真っ直ぐに、命の芽生えのなかを、精華を。「給食費だって払えないのよ」何処かで聞こえる、声。母子家庭の台所で、冷蔵庫の電磁音に溶ける嘆きだ。人のことを悪く言える人は一定数いる、相手の事情を配慮しない人も一定数いる、自分の考えとか常識とかワンセットの奴も一定数いる、みんなお金持っているわけじゃない、棚には、安物のインスタントラーメンが、あと数袋あるくらいで、冷蔵庫の中には、賞味期限を三日過ぎた牛乳だけが、ぽつんと入っているのかもしれない。路上ライブ時代に兄が、千円ぐらい誰でも出せると言ったものだが、いやいや、千円すら出せない人がいる、そんな人が都市の中に何百人といる可能性がある。児童扶養手当や、ひとり親家庭医療費助成制度なんかも必要だ。さらに申請のハードルや、情報格差が実際の利用を阻むこともある。市役所のホームページを思い出した。児童扶養手当、医療費助成、就学援助。様々な制度がある。しかし、それらを知らない人、申請の仕方がわからない人、恥ずかしくて申請できない人。制度はあっても、届かない人がいる。そしてそんな人々を何の考慮もせず、えらそうな講釈を垂れている連中がわんさかいる。してやっているという気持ちが消えない。人間を乞食や奴隷だとでも思っているのか。人と人同士に対する理想なんて俺には一ミリもない、ただ、普通でいたいだけだ。貧困という病理の根本原因は、貨幣の欠乏であると同時に、社会資本とコミュニケーションの、決定的な欠落のせいなのかもしれない。生きていくことが、貧しさに呑まれないようにするにはどうしたらいいかって、自分の賤しさと毎日戦っているような日々さ。ランドセルなんか本当に必要なのか、学習机なんて本当に必要なのか、揺り籠って本当に必要なのか、がらがらって本当に必要なのか。マウンティングがどうした?顔面が昼ドラ化し、過剰演技性顔面筋の女がオペラする。中身のないことをだらだらだらだらと、喋るな!耳が腐る、もう存在する時点で空気が腐る、何で生きているんだ、ゾンビなのか、どうして感情があるふりなんかしてるんだ。汚い言葉など、豚の言葉と思え。犬畜生どもの戯言になど、蓋をしちまえ。言葉の切れ端は、深夜のファミレスで、プラスチックのコップに映る蛍光灯の光に溶け、やがて誰の記憶からも消えていく。部屋で吸った煙草の煙が天井に輪を描き、時計の針だけが静かに進む。都市の鼓動は止まらず、また明日も同じような声が、どこかで響くだろう。意味なんかない。生きてる価値なんかない。そもそもこいつら人間じゃない。だからこそ戦争を終わらせたいって言いたい、だからこそ平和を実現したいって言いたい。電車が来る方を見た。先頭車両のライトが、トンネルの暗闇から現れ、次第に大きくなる。白い光が、ホームを照らし影を、長く、後ろに伸ばす。電車は、停止し、ドアが開く。それに乗り込んだ。車内は、空いていて、座席は、どこでも選べる。入り口から少し離れた席に座り、カバンを膝の上に置いた。電車は、動き出し、加速する。窓の外では、都市の景色が、後ろに流れていく。ビル、公園、川、橋。すべてが、朝の光に照らされ、新しく、美しく見える。それを見た。そして、目を閉じた。電車の揺れに身を委ね、眠りに落ちる。うららかな春に酩酊し、桜の木に凭れて白昼夢をしていた、あの少年は何処へ行ったか、小鳥よ、まだ愉快な夢を見よう、野原よ、並木道よ、ほっぽってたって、うだつが上がらなくたって、青空にだって手が届くさ。それを意味がないと断じることもできるし、意味を仮定することもできる。残るのは、わずかな温度差と、聞き手の内側に生じた微細なざらつき。俺達のゲノムには数万年前の危機回避本能、集団維持のための攻撃性、生殖競争の衝動がコードとして書き込まれており、それらが現代社会の規範と衝突するたびに、狂気というレッテルで矛盾を封じ込めようとする。「―――セフレがさ、」何処かで聞こえる、声、、、、、、、、 、、、、、、うるせえんだよ、ごちゃごちゃ。都市という名の迷宮を彷徨う一人の語り手の、意識の流れを写し取りながら、それは、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』における、ダブリンの街を一日かけて歩くレオポルド・ブルームの、あの、句読点すら溶けていく内的独白を想起させるが、より断片的で、より暴力的で、より現代的なノイズに、飽和するほど満ちている。 、、、、、、、―――蝉は青い証拠だ。
2026年07月19日

正気を疑いながら自分自身を疑った、(の、)そして目を開いて、認識した、シティ・セントラル。青白いモニターの光が、水槽の底から照らされたクラゲみたいに、ゆらゆらと揺れ、一つ一つの言葉がガラス片のように咽喉を転がり、皮膚の下を這い回る。セロトニンの分泌は偏り、ドーパミンの閾値は異様に低い、ほら目蓋を持ち上げる動作ひとつにだって、粘性のある抵抗が伴う。筋のひとつひとつの筋線維が、収縮のたびに乳酸めいた抵抗を返してくるわけだよ。メタ認知の螺旋階段を一段ずつ、降りていくのさ。デフォルトモードネットワークが空回りする、螺旋はもう一巻き深くなり、踊り場は、オアシスは何処にも現れない。ねむたくて、、、 ねむたくて、、、ねむるぼく、、、息を止めて気配を消したら、風の音は雑音に消え、遠くなったものが不意に近くなるのを感じた、角膜の上を涙液層がゆっくり滑り、硝子体の中を、無数の飛蚊症が銀河のように漂っているかもね。タロットカードの「吊された男」水晶玉の冷たい輝き、ルーンストーン、カバラの生命の樹の図、黒い羽根、星と月の象徴。想起されたイメージは、元のエピソード記憶から切り離され、浮遊するシニフィアンとして、意識の表面を漂う。色彩も、匂いも、触覚の面影すら無い。あの日の、緑色の芝生とブランコの錆びた匂いがした、ジオラマのような公園の記憶から。ただ、その場所があったという事実だけが、空白として残っている。意識のエッジが丸くなり、境界が溶け、主観と外界の区別が、緩やかに崩れていく。ノエシスとノエマは癒着し、志向性の矢は宙で軌道を失う。ニュースサイト、動画サイト、チャットログ、RSSフィード、APIレスポンス、アーカイブされたコメント群。どれも読み終えたはずなのに、スクロールバーだけが、無限の漸近線を描いて、いつまでも下へ下へと伸びていく。終わりが来ない。読み終えることができない。情報の海は、どこまでも深く、どこまでも広がっている。「ドコヘユクノ」期待値制御する機械の檻、光学ファインダーを覗き込んでも、オートフォーカスは乱反射するネオンに惑わされ、ピントは永遠にズレたまま。ユーザーのクリック履歴、滞在時間、スクロール速度、マウスの軌跡。すべてを学習し、次の行動を予測するね。そして、その予測に基づいて、コンテンツが選択的に提示される。「ドコヘユクノ」鈍い支配、絡むコード、LANケーブル、USBケーブル、充電ケーブル、床の上で、灰色と黒の蛇みたいに絡まり合った、蜜月、サイレンス、それでも回る歯車。「ドコヘユクノ」恥じらって含羞んで、それでも抗えないディストーション。燃焼時間は短い。まるで湿った新聞紙に火を付けるように。期待値だけが肥大し、満足だけが極端に短命になる。「次はもっと大きなものを」(真っ白な画用紙の中に何を描こう...)「もっと強いものを」(でも本当の敵は自分の中にいる...)ヘイヘイ、それで。(ヘイヘイ、)銀河の径庭、楕円軌道の離心率。暗黒物質の分布。背景放射の揺らぎ。大宇宙に繊細な円描いて、I love youが遠い。形成、拝礼、最速で未来したい、消灯、深海、メルトダウン、オリオン座、カシオペア座、北斗七星。みんな見えない。まだまだ終わらない行き当たりばったりのライ、ジョークみたいな再来、レッテルが廻れ、スローモーションの速度でしか、俺の人生は進んでいかない。(ヘリウムを含んだ銀の鳥、カテゴライズされたマテリアル、)顔も名前も捨てて、プラスチックな身体、レプリカが流行り、外れた部品が上手く見つからない。巨大な電波塔、ビルの谷間、足が棒になるだけ。Party night!!四角く切り取った日々の中で、歪な僕達は息をしてる。エンターキー押したら点滅。前衛的宇宙船に乗って、成層圏にイルミネーション鏤めて。この心臓が痛いな、知恵も命もないかな、正しさの向こうにもないかな、くだらないことばかりが増えていく、くたばりやがれが増えていく、くだらない人ばかりが増えていく、優しい人から死んでゆく、まるで生態系の頂点から捕食圧に晒されるように、いちばん傷つきやすい柔らかなものから、先に。どうしようもないまま、逃避はループを生む。いつわり/のれいめい/の名前に意味なんてない、存在に意味なんてない、この数字に意味なんてない、ただ溶けたチョコレートの上で、べたつぎながら踊ってる。フォンダン・ショコラみたいに外側は焼けて固く、内側は溶けてとろける。そのコントラストが、この人生のメタファー。でも醒めてた、だって僕は感情を厭わしく思っている、忌々しく、汚らわしく思ってしまうから。かの人も、感情を厭わしく思っている。何も、思わな、い。何も、残さな、い。何も、話さな、い。そうそう、強く、弱く、感情の行くままに。Come on!!(Come on!!)幻想、空想、想像と、理想像、強く、弱く、環状の行くまま、ジェットコースターのように上下する。桿状の行くまま、前頭前野で生成されるシミュレーション。暗黙の了解。防御力は低い。秘めたる迷路の扉を、過ぎにし幾多の傷を。すぐに見えない場所で、HPが削られていく。ゆらゆら、、、ゆらゆら、、、 、、、、―――このまま。正気を疑いながら自分自身を疑った、(の、)そして目を開いて、認識した、シティ・セントラル。進んで、もう一歩。すべてが、まだ意味だった頃。世界のあらゆる細部が、記号ではなく手触りとして、まだ確かにそこにあった頃。もう面影もない。圧倒的な、あまりに圧倒的な世界の総量に、僕は打ちのめされるけど、この一分一秒の、引き延ばされた刹那の中で、ふいに、胸の奥がすっと軽くなる。閉じていた横隔膜がほどけて、肺胞のひとつひとつに新しい空気が届く。遠くまで、光害の向こうまで、僕の声が届くように。何十億もの人々の思惑が重なり、Wi-Fiの電波のように干渉し、オシロスコープの上で位相をずらしながら、重圧に崩折れそうになりながら、届かないパケットにもどかしく思いながら、それでも確かに、呼んでる、ノイズキャンセリングの奥で、この『声』が。境界線を越えて、溶け合う、君と僕の、この生体的な『声』が。
2026年07月18日

その、穏やかに問う声も。暗い暗い重い時の中で、羨望のEye、ぬるま湯の虚像、巨象。(開封したままのAmazonの段ボール箱が、、、、ぐらり、)人間未満、感情不足に、ハイソに味見だけして積み上がった包装、急性的思考停止とかりそめのマイナーチェンジ、同じ夜を追いかけながらデッドヒートさ、心で蔑むYou & Me(downward social comparison...)違う夢を抱え込んでは、因果の応報SHOWWarning? Don't worry(No Signal? Stay tuned)待ってるのはいつだって、煩わしい情動とセパレート。青。消える。また青。まるで深海生物の発光器官が、生体電流のわずかな揺らぎで点滅する。ポーカーフェイスは心の中まで、見えなくなると信じていたけど、思ったよりは見えてしまうから。自問自答、自問他答、(進路自問、進路他問、)にべもなく進む絵空事のような悶々滔々、「傷って、いくら経っても消えないんだね」他問自答連れ回しビットレート、「きれいごとが欲しいなら、お前がパックマンになっていないか鏡を見ろよ」その中国の酒のような問々問々。お掃除ロボッツ、ハートの感情それがとっ散らかって、回り回り回り回る閉鎖空間、(巡り巡り巡り巡る待機画面、)I want you to know蝕む思考、融解、それも幽閉したい集大成。昼下がり、テレビを付けて、流れるドラマ。Light Light Light Light 照らして。照らしてほしい場所は、いつも心の奥の、暗いところだ。―――光が届かない場所。あの、小さな船は、笑っている。延々と錯じた夕景を。反乱分子の親友は、絶賛今日も沈没中。「灘校出身の東大卒がビールを飲みながら、鍋をつついて笑ってしまう」見えない思い出の額縁は、絶賛今日もホワイトノイズ症候群。過剰的自意識の強制的進化論。「生産性なんて、質の向上とは相いれないもの、まだ嘘っぱちの哲学を始めているの?」どんなフラグだ、世紀末的運命論、紙飛行機を投げれば走馬灯の街、ナースコールが鳴って点滴が落ちて、天敵も落ちて、バタフライナイフも落ちて、あのカーブでスピードも、百二十キロほどに落ちて。体験版の人間 ロード中の人生。全概念はコンテンツ、街路樹を見ながら歩く通行人A。モールに惹きつけられてもう何年経った?逃げろ! 現実だ。どうせ君も、三時のおやつにマカロン食べたいんだ。おいおい、こいつは一体何の冗談だ。(その問いもまたテンプレート、)カードは如何様、それでもたった一度だけの秘密のイリュージョン。エルメス、グッチ、プラダ、サンローラン、ディオール。はいはい、インスタントなMy真理に、エモさを和えたら吹けば飛ぶような看板の完成。どうでもいいけど、活舌が悪いのか癖が強すぎるのか歌詞がわからねー。、、、最後に、、、、、、、、、、、 、、心の底から笑ったのは、いつ?この世はきっと木端微塵に壊れた個、ファムファタール、サルバドール、マグリット、人生の主人公への起死回生、(物語の主役への一発逆転、)夜を謳えば、陳腐な人生へ 1.2.3...君は言った。テンプレートな美学の遺稿、ずっと弱いままニューゲーム、すぐ濁っちゃう未来は罪悪感かも。きっと続いてく罰ゲーム、身体に纏わりついてるのは後悔の吹き溜まり。せーのでいこう、どっかにいこう。ライターで睫毛が焦げるような、ライターで前髪が焦げるような、希望とかいうスイーツファクトリー。まだ美少女恋愛シュミレーションとか、そんな趣味?怖くないよ、皆やってるよ、先っぽだけだから。滲む思考、飽和、それも冷凍したい総集編。真夜中に、レディオを点けて、流れる交通情報。映画のワンシーンをなぞるように、適切な場面で適切な表情を浮かべる君よ、「本物の感情を、どこかに置き忘れてきた気はしないか?」(子供時代の何処かで、思春期の何処かで、自ら手放したんじゃないか?誰かに奪われたという気はしないか?)心の地下室に、配管の錆びた蛇口から、一滴ずつ、水溜まりを広げていく。Signal Signal Signal Signal 届いて。ウッ、ウッ、ウゥーン...黒、黒、隙間がなくなるように、イヤホンの絡まりを解き、楽観、達観、紙一重の、冷えたリミナルを独り占めしたい。トレーサビリティの無いいつかのメモリー。迎合、踏襲、量産、形骸で、都合良く歪めた怠惰解釈、お誂え向きのSOSの完成。地図とルーペ、パズル、(アンテナとコンパス、暗号表、) 、、、それからランプ。Simultaneous Localization and Mapping‼Simultaneous Localization and Mapping‼不平不満の相棒は、絶賛今日も圏外中。「合コン帰りのプレイボーイが、缶チューハイ片手に、傘を差すのを忘れてびしょ濡れで帰る」届かない留守電の受話器は、絶賛今日もハウリング症候群。過剰的自意識の強制的アップデート。「効率なんて、深さとは相いれないもの、まだ受け売りの持論を垂れ流しているの?」そして不意打ちの一撃。「ラピュタにでも行くつもり?」まだソシャゲのガチャとか、そんな沼?怖くないよ、皆回してるよ、あと一回だけだから。最後には笑って抱き合う、ハッピーエンドが待っているぜ、四六時中、退屈だらけのディスティニーへ、グレネードランチャーを、ヒュー、お見舞いだぜ!
2026年07月05日

机の上に、夜更けのスタンドライトがひとつだけ灯っている。そこに白い花びらのような紙が舞い降りている。失敗も、訂正も、破棄も知らない。まだ誰にも名前を与えられていない世界。読むことはできるが、読むという行為そのものに意識が引き戻される。紙は、ほんとうに真っ白だ。印刷工場で裁断されたばかりのような、無傷の平面。凸凹を知るためにわずかな視覚的努力を要する、絶妙な曖昧さを帯びた境界域。そこにはまだ、線も、記号も、地名も、方角も、「ここから先は危険」というハザードマップの警告色も、「立入禁止」を示すトラロープの黄と黒の警戒標識も、何ひとつとして刻まれていない。もっとさりげなく、世の大人達のように、この夜を楽しむことが出来るようにと伝えるべきだろうか、もう完全な情報の蜜月との接続など、とうの昔にし終えているのに。ここから先、落石注意という看板の近くで、落石があったのを覚えている、熊出没、マムシがいるという手書きの看板、それも本当なのだろう、そして高速道路に迷い込んだ鹿は、しなやか足で走り続け、車のフロントガラスにぶつかった鳥は、そのすごい衝撃のもと絶命する。繊維質のペン先が乾燥収縮して、開口部が閉じかかっているボールペンを、すごろくのように転がす。こんな一瞬、いくつになっても、まだ名前のない目的地なんだなと思う、自分で決めることとのあいだには、賽の目ひとつでは、跨げない、深い河が、流れている。未来というような事柄は、もやを隔てて遠い遠い向う岸に、あって欲しいようなものだから。何処へ行こうか迷ってた。行き先の候補は、頭の中にいくつもあるのに、七転び八起きだか、七転八倒だか、どれも、決定打にならない。カラオケでも居酒屋でもいい、友達との約束、家族の用事、そういう既に決まっている行き先なら、細いボールペンでびっしりと書き込まれていなくとも、きちんと実行できるのに、この紙の上の夢のような行き先だけは、まだ何も決まっていない。シアン、マゼンタ、イエロー、ブラックの、インクカートリッジみたいになれないだろうか、東京、ソウル、台北、上海。シンガポール、レイキャヴィーク。ウユニ塩湖、サマルカンド、マチュ・ピチュ。映像が、焦点の合わないスライドショーのように、蒼冥と暮れた宵色の湖面に、次々と切り替わっていく。未来だ。口元に浮かんだ、困惑と期待の入り混じった微妙な微笑み。就職先が決まったとか、新しいプロジェクトが始まったとか、フォロワーが何万人になったとか、次のステージに行ったことを示す報告が、次々と流れてくるような未来。無意識に、その跡が完全に消えるまでの時間を数えている。知らない街の高層ビルや、海外の海岸線や、見たことのないスタジオの機材と、迷いのないピースサインをしている、主人公が必要なんだろう。多く繋がっている者ほど、新しく繋がられやすい。持てる者が、さらに持つ。優先的選択。数の増えかたそのものが、数を増やす仕組みになっている。それでも、空間解像度の粗い衛星画像のように漠然とし、自分のことなのに遠くの国の歴史を語るような、他人事の響き、いまだって昔とそれほど変わらない。人間は、何かを書こうとするとき、実際には文字を書く前から思考を始めているらしい。認知心理学では、未来を想像するときに活動する神経回路は、過去を思い出すときの回路と大部分が重なっている。海馬、前頭前野、デフォルト・モード・ネットワーク。脳は未来を予測しているのではなく、記憶という瓦礫を組み替えて、まだ存在しない景色を即席で建築している。僕は、未来へ進めずにいるのではない。過去という資材置き場の前で、どの部品を持っていくかと、迷い続けているだけなのかもしれない。瓦礫のままでは、未来にならない。けれど、瓦礫のなかにしか、未来の材料は、ない。若い時分には、誰かの後ろをついてけば安心だって思っていた。それは、これまで何度もやってきたやり方だ。進路相談のときも、部活を選ぶときも、みんなが行くならと、大きな流れに身を任せてきた。社会心理学では、それを同調行動と呼ぶ。情報が足りない状況では、人間は他者の選択を正解だと思いやすい。アッシュの同調実験。群集心理。バンドワゴン効果。認知地図を自ら構築しないまま進むことの代償は、分岐に立ったときの空白として現れるとしても、情報が、雪崩のように、一方向へ流れていく、あの、選択の連鎖。先頭を歩く人の背中は、いつもまっすぐで、迷いがないように見えた。その背中の少し後ろを、半歩ずつ遅れてついていくと、自分で地図を描かなくても、道は勝手に伸びていくような気がした。ハッシュタグで「#人生変わった」と書かれている、それが飛行機の窓から真っ昼間の光輝いた、耳鳴りする雲海のように思えてくる。でも机の引き出しの奥には、あのときもらった進路希望調査票のコピーが、まだしまってある。そこに書かれた「特に決めていません」という文字が、薄くなったインクでかすかに浮き出ている。第一希望、第二希望、第三希望。備考欄、進学か就職か。将来就きたい職業。資格取得予定。自己PR。それらを言い表す言葉ではないはずの言葉が、何かもっともらしく見えてしまうのは何故だろうか。それがもしかしたら、僕の人生なのかも知れない。しかしそう考えるための、心理的な余力が、今はない。筆跡心理学では、文字の傾きや圧力に性格傾向を読み取ろうとする研究もある、その真偽はともかく、この文字だけは確かに、何かを決めることから静かに視線を逸らしている。汚い字だ、でもそれは習字に習いに行かなかっただけだ、あるいはそのための練習をしなかったからだ、本当にそれだけの違いかも知れないけれど、その違いを何十年も持つとなると考えてしまう。道は誰かによってまず八割方は、決められているのかも知れない、と。行き止まりにぶつかってしまうことがある。誰かの選んだ道が、必ずしも、自分のために開かれているとは限らない。コンクリートの壁に、関係者以外立入禁止と赤い文字で書かれていたり、フェンスの向こう側に、工事中の重機が並んでいたり、あるいは、ここから先はあなたの責任でと、急に標識が消えてしまったりする。地図アプリを開いても、現在地の青い点が、ただ灰色のエリアの上に浮かんでいるだけで、道の線がどこにも繋がっていない。「ルートを再検索しています」という文字が、いつまでも消えないままだ。自分で方位磁石を確認しなくても、迷わずに歩き続けられた、集団の最後尾でも、たとえそれが統計上の実体のない影でも。数学の授業で習った「不可能図形」のことを思い出す。エッシャーの描いた、上り続けるのにぐるぐると同じ場所を回っている階段。あの絵をじっと見ていると、目が混乱してくる。今の自分も、あの階段の上に立っているような気分だ。進んでいるようで進んでいない。上がっているようで、同じ高さにいる。視覚の錯覚に、感情まで巻き込まれている。二次元の紙のうえにしか、存在できない階段。三次元の世界には、どうやっても、建てられない、あの、閉じた上昇。それが心というものなんだと思えていたなら、もう少し世界の見え方は変わっただろうか?設計とは、線を引くことではない。どの線を引かないかを決めることだ。一本増やすたびに図面は複雑になる。一本減らすたびに意味が研ぎ澄まされる。人生も、おそらく同じなのだろう。選択肢が多いことは、自由ではない。むしろ自ら難易度を引き上げて、茨の道にしているだけだ。ゼロなのにマイナス。何かが欠けていることを示す、記号だけが残っている心の中に、絆創膏を貼ることはできるだろうか?未来は、現実よりも少しだけ青い空。未来は、現実よりも少しだけ白い歯。未来は、現実よりも少しだけ幸福そうな人生。列挙していて笑ってしまう、愚の骨頂だ。そんなものあろうはずがない、朝の寝起きのような無防御の顔つきで、スクランブルエッグといって、いざ食べたら鶏になってしまうのだ。信じられるかい、でもその論理的な矛盾を、信じるとも信じないとも言えないでいることが、何かが欠けている状態を象徴しているように見えた、昨日までの世界だ、あるいは昨日に住んでいる僕自身を、だ。世界は止まっていない。止まっているのは、僕だけだと思っていた。しかし本当にそうなのだろうか。地球は赤道上で、時速約千六百七十キロメートルの速さで自転し、秒速約三十キロメートルで太陽の周りを公転している。太陽系そのものも銀河系の中を移動し、銀河系さえ局所銀河群の重力の中で流れている。宇宙には、静止という状態は存在しない。それなのに人間だけが、立ち止まっているという錯覚を抱く。もしかすると、不安とは速度の問題ではなく、座標系の問題なのかもしれない。何を基準に現在地を測るか。誰の地図を見て、自分の位置を決めるのか。その違いだけで、迷子にも旅人にもなれる。答えは幾つもある、でもそれを選ぶ自分は一人しかいない。未来について考えてみる。それは空白ではなく、まだ名前の付いていない地形。それは余白ではなく、これから測量される盆地。未知とは、欠落ではない。未踏なのだ、と。自分の足の裏で、まだ誰も踏み固めていない地面を、確かめてみる。ガタガタな道でもいいから。舗装されていない砂利道、雨上がりでぬかるんだ土、雑草が伸び放題の空き地の端っこ。足首まで泥が跳ねても、靴の底がすり減っても、それでも、ここを通ったという感触だけは、確かに残る。スケールが変わることで、意味の配置も変わる。音は遅れて届き、光は先に届く。遠方の高速道路は光の線となり、近景の草は触覚を伴う存在として立ち上がる。心理学者カール・ロジャーズは、人には自己実現へ向かおうとする傾向性が備わっていると考えた。脳科学者アントニオ・ダマシオは、意思決定には感情が不可欠だと論じた。経済学者ダニエル・カーネマンは、人間がいかに非合理な近道を選びながら判断しているかを示した。分野は違っても、彼等が見つめていたのは同じ問いだったのかもしれない。人は、何を頼りに一歩を選ぶのだろう?住宅街の裏手、工事予定地のフェンスの隙間から、細い獣道みたいな小径を抜けていくと、急に視界が開ける。そこには、背の低い草が一面に広がる斜面と、ところどころに立っている、細い木々の影。夕方の光が斜めから射し込んで、草の先端に小さな金色の輪郭を描いている丘。そこに立ちながら、街の輪郭が、いつもと違う角度で見える。駅前のビルの看板、遠くの高速道路を走る車の列、学校のグラウンドの白線、それらが、少しだけ遠くに、少しだけ小さく、でも、ひとつの風景として繋がって見える。風が、頬を撫でていく。景色はいいけれど、特に何かがあるわけでもない。それがいい。何もないことが、ここを特別にしている。何処にいたって人は同じ場所にいる。だからそこは美しいのだ。写真や絵にすると、どうしても別の何かになってしまう気がする、この場所の空気や、風の温度や、鳥のさえずりの間隔や、草の匂いは取り込めない、目を瞑りながら空気の中をまさぐるような感覚を、否定することになる。言葉だってそうだ、言葉は万能ではない。地図の正確さよりも、自分の身体が覚えた感覚の方が重要だ。定規で引いた直線ではなく、手の震えがそのまま反映された少し歪んだ線でいい。間違えた角、行き止まりの路地、引き返した踏切、それらの点が、折りたたまれた地図帳の中で静かに輝き、自分だけのナビゲーションとなる。考え続けているだけでは、現在地は更新されない。一歩歩いて、ようやく座標が変わる。もう一歩歩いて、ようやく景色が変わる。さらに歩いてあるいて、「ああ、あの場所はこういう形だったのか」と、事後的に俯瞰して振り返ることができる。未来は前方にあるのではない。おぼろげな流れで、その二つが融け合い、歩いた距離だけが、背後に地図として現れる。遠回りの価値は、最短経路問題では評価されない。しかし探索アルゴリズムにおいては、ランダム性が新規解を生む。地図はまだ描きかけで、余白が多く残っているが、確かに少しずつ輪郭が定まり、色が加わっていく。姿勢を正して、窓の外を遠く眺めてみる。スタンドライトの光が、少しだけ強くなったように感じる。窓の外では、夜がゆっくりと薄まり始めている。遠くで、始発電車の走る音が聞こえた気がする。未来、その言葉を、これからあと何回呟くだろう、僕等はもっと遠くまで行けるのか、そしてそこに答えがあるのかを、何度も問い掛けては眠りに落ちるのだろう。何年後か、何十年後かの自分がもしいたら、こうして机に凭れて何か考えている所を、後ろから、そっと行って、肩に手を掛けるか冗談半分に首を絞めるか、それとも蹴りの一発でもいれるか、「そんなに考えることがあるかい?」とでも軽く言ってやりたい夜の終焉。紙はもはや白ではない。そこには線があり、時間があり、意思がある。その線を増やしていくことが、生き方になる。線が交差する場所もあれば、平行に走る場所もある。途切れる場所もあれば、何度もなぞって太くなる場所もある。それらの線は、すべて、自分自身の軌跡だ。失敗も、訂正も、破棄も、もう、知っている紙。真っ白だった、あの、無傷の平面は、いつのまにか、歩いた分だけ、汚れて、生きて、僕のものになっている。それでも、次の線は、まだ存在しない。しかし、存在しないことが、選択可能性の総体として広がっている。でもほら、夜明けが、もうすぐそこまで来ている。
2026年07月05日

* 百二十メートル先の信号が青から黄色へ変わるまで、あと二・三秒、 そんな情報が、視覚と同時にテロップのように流れ込む。 タクシーのヘッドライトが通り過ぎるたびに、影が長く伸びて、 また縮む。まるでペルシア細密画の金箔のように、 光と闇の境界が、幾何学的に揺らいでいる。 舗道のアスファルトは骨材の粒径が不均一で、 靴底越しでも粗さがわかる。 だがその情報は、足底のメカノレセプターから、 一次体性感覚野に届いているにもかかわらず、 「冷たい」という語に変換されない。 複数の物語場面が一画面に共存しているのに、 どの場面も、主語を持たない。 代わりに浮かぶのは数値だ。 温度。距離。時間。 ナンバープレートの数字が一瞬で分解され、OCRのように脳内で処理される。 * 、、、、、、、、、、、、、、、 不完全なものが主客を入れ替える、 、、、、、、、、、 、、、、、、、 それを疑う余裕さえ、今の僕にはない。 * 駅のホーム。 人工照明だけが空気を支配し、冷えた手すり、 (心拍数、呼吸数、脳波の振幅、画面の明るさ、 通知の頻度、広告の表示回数。すべてが緩やかに上昇していく。 だがその中で、僕自身だけが言葉を知らなくなっていく―――) 湿り気のあるコンクリート、鉄と埃のにおいが漂う中、 僕だけが不自然な輪郭を持って震えている。 (辞書を開いても、検索窓に文字を打ち込んでも、 どの言葉も自分の感覚にはぴったりと貼りつかない。 「寒い」という文字の意味はわかっても、 今足裏から伝わる冷たさを「寒い」と呼ぶことに、 どこか違和感が残る。名前のついていない、新しい感覚だけが、 僕の内側で膨らみ続けている。) * * 葬/儀/場/の/白/い/菊 祭/壇/の/上/の/照/明 (も、)棺の中の静かな顔。 (も、)死のイメージ。花と光。 * ログインセッションは、タイムアウトした。 再認証が必要です。パスワードを入力してください。 そのメッセージだけが、画面の隅に、薄く残っている。 ログインセッション。 それは自分自身を証明するためのプロセスだ。 しかし、そのセッションがタイムアウトしている。 再認証が必要だと言われても、 自分自身を何によって証明すればいいのかわからない。 パスワード。どんな意味だ、どんな比喩だ。 指紋。顔。声。それらはすべて、 今の僕には何の証明にもならない。 、、、、、、、、、、、、、、 デフォルトモードネットワークが完全に沈黙し、 、、、、、、、、、、、、、 エグゼクティブネットワークも、 、、、、、、、、、、、 サリエンスネットワークも、 、、、、、、 すべてのネットワークが停止したように。 * * 立毛筋が収縮し、鳥肌が立つ。 皮下脂肪層の厚さが、熱伝導率を変化させ、体感温度をさらに低下させている。 欠如の確信は、陽性症状ではなく陰性症状として現れる。 統合失調症の陰性症状に似た、感情の平板化、意欲の減退、社会的引きこもり。 しかし、それは病理ではなく、ある種の覚醒の形態だった。 自己言及のループが切断される。 デカルトの「我思う、故に我在り」の確信が、言語的な自己同一性を失う。 前頭前野の内側部と外側部の間で、自己関連付けの処理が停止する。 デフォルト・モード・ネットワークの活動が、 自己言及的な思考から、感覚処理へとシフトする。 ユーザーインターフェースのアフォーダンスが消失する。 ボタンは、押すことを示唆しなくなる。 (世界は相変わらず鳴り続けている。 地下鉄の振動、遠くの車の音、風の通り抜ける音。 すべてが存在している。だがそれらは、 ただ空気の振動として鼓膜を通り過ぎるだけで、 心に届く前に意味を失っていく) テキストは、読むことを要求しなくなる。 (ビリヤードの球の材質は、フェノール樹脂。 衝突音の周波数特性は、球の材質と大きさに依存する。 象牙の数珠の材質は、リン酸カルシウムとコラーゲン。 擦れ合う音は、表面の微細な凹凸が、互いにこすれ合うことで発生する。 硬質なもの同士が、一瞬だけ、接触し、 その後、別々の方向へと転がっていく。 衝突の力学。運動量保存則。エネルギー保存則。反発係数。 衝突の瞬間、二つの物体は、変形し、弾性エネルギーを蓄える。 その後、そのエネルギーが、運動エネルギーに変換され、 物体は、別々の方向に飛び去る。 この一連の過程は、数ミリ秒の間に完了する) スクリーンは、単なる物理的な物体として、そこにあるだけになる。 (そこにあるだけのものなんて存在しない) * * 『グレート・ギャツビー』の文庫本が、表紙を下にして伏せられている。 出版社は新潮社、翻訳は野崎孝、ISBNは4-10-205201-1。 ページの紙質は、経年により黄変し、酸性紙の劣化による脆さがある。 表紙のデザインは、目玉と光る看板のイラスト。 背表紙の糊が劣化し、ページが剥がれかけている。 ページの間から、過去のパーティーの音楽。 シャンパンの泡、壊れた約束、消えた光、 そうしたものの残響だけが、薄く漏れ出している。 1920年代のジャズの断片、チャールストンのリズム、 フローレンス・ミルズの歌声、アイリッシュ・ウイスキーの樽の香り、 (進化論の教科書に載っていた、樹形図。 魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類。 その枝の一本に、僕等の祖先の名が、小さな文字で記されている) 禁酒法時代の密造酒の粗い味、ロングアイランドの夏の湿気、 イーストエッグの灯台の光、 (系統樹の分岐点。約6億年前のカンブリア爆発。 約4億年前の四肢動物の上陸。約2億年前の哺乳類の出現。 約6500万年前の恐竜の絶滅と哺乳類の適応放散。 約700万年前のヒト科とチンパンジー科の分岐。 約20万年前の現生人類(ホモ・サピエンス)の出現。 それらの時間の深さが、一瞬のうちに、視覚化される) それらの記憶の断片が、紙の繊維の間に閉じ込められている。 (起源の夢、最初の細胞、最初の呼吸、最初の光、最初の声。 生命の起源。約38億年前の原始スープ。 最初の自己複製分子。最初の細胞膜。最初の光合成。 最初の多細胞生物。最初の神経細胞。最初の意識。 それらの「最初」が、 夢の中で、同時に、現在進行形として現れる。) 、、、、、、、、、、、、、、、、、 ―――それが夢だと本当に思っているのかい? So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past. (かくして我々は漕ぎつづける、 流れに逆らうボートのように、 絶えず過去へと、押し戻されながら。) ▉▉▉▉▉ □□□□□□□□□□□□□[必要のない階段] (を、)『価値のあるオブジェ』に。 □□□□□□□□□□□□□ (頭の中の神経繊維を撫でられたような気がした、 エマージング・ディジーズ・・・) □□□□□□□□□□□□□ 「外の対象」ではなく、 『内の体験』を。 □□□□□□□□□□□□□ エ、ヲ、 ▒▒▒▒▒▒▒▒▒▒ □□□□□□□□□□□□□ 足りないオツムの中で、 しょうもない、 足りないのはオムツなんでしょ、 言っててしょうもなくなるような、 □□□□□□□□□□□□□+ ロック解除【PROTECT】 □□□□□□□□□□□□□―――【ACCESS】(Type in the code)“Please enter your password here”―――****―――████《許可シマス》(「ACCESSが承認されました」) □□□□□□□□□□□□□ エ、ヲ、 ░░░░░░░░░░ Everything 「心の理論。他者の内側を推定するあの機能が、 いま、片側だけ、断線している。 何かが「ある」ことへの不安ではなく、 何かが「ない」ことが、あまりにも確実だという、 静かな確信のほうだった。 is (ルイ・アルチュセールが言った、 あの「おい、そこの君!」という呼びかけ、 呼び止められて振り返る、その振り返りによって、 初めて主体になる、という――その呼びかけが、 いま、僕にだけ、届かない。画面は僕を呼び止めない。 だから僕は、振り返るべき「僕」を、持てない。 認証という行為が、いまは、耐えがたいほど虚しく感じられる。 wrong. * *
2026年07月04日

その臓腑を舐め回すような話を聞いたのは、真夏の夜だった。窓の外では、蝉の声が途切れることなく続き、まるで大地の脈動そのものが響いているかのようだった。セミの合唱は、ヒグラシやミンミンゼミ、クマゼミの多層的な周波数が絡み合い、夜の空気を震わせていた。 テルリック・カレント もはや大地の奥底から湧き上がる地球の脈動そのものが、音波という物理的実体を伴って鼓膜を圧迫してくるかのようだった。 いまはもう小休止しているかも知れない。 一瞬訪れる、一切の説明を拒絶する静静が、かえって周囲の重苦しさを強調する。 部屋の中では、古びたエアコンがル・マルキ・ド・サドの拷問器具のように非可逆的な低く唸るような機械音を立て、冷風とともに微かな黴臭と埃の匂いを吐き出していた。その夜は、午後十時を過ぎても気温が三十度を超えていた。都市のヒートアイランド現象と、湿気を含んだ南風が、夜の冷却を妨げていた。窓ガラスは、外気との温度差で結露し、水滴が内側に這い、まるで何かの羊水じみた涙のように流れ落ちていた。 友人のSは、琥珀色のウイスキーをグラスに注ぎ、一口含んでから、ゆっくりと氷を回した。氷の溶ける微かな音が、部屋の静寂を強調する。 いや、沈黙が、ゆっくりと部屋を満たしていく。 、、、、 それから、ゆっくりと古い墓石の苔を剥がすように口を開く。 人は本当に恐ろしい記憶を語るとき、感情を乗せなくなり、まるで事故報告書でも読むような口調になる。臨床心理学では、これを解離性発話と呼ぶことがある。極度のトラウマ体験を語る際、当事者は自らの感情から切り離され、まるで他人の話を転述するかのように、事実だけを羅列する。これは、心の防御機制の一つであり、感情の過剰な再体験を防ぐための無意識の戦略である。Sもそうだった。彼の声は、普段のバンド時代に培われた、ステージ上で観客を煽るような張りのある声とは別人のように、平坦で、抑揚が消えていた。 まるで、砂漠を横切る風のように、乾燥し、何も残さない声だった。 ブライアン・エヴンソンの短編に出てくる、すでに半分以上が虚構と入れ替わってしまった語り手の、あの不気味なほど平静な一人称のように。 それは彼が学生時代、バンドを組んでいた頃の話だ。ドラム、ギター、ベースの三人。地方都市によくある話だ。ドラムを叩けば近所から苦情が来る、アンプを鳴らせば壁が震える。スタジオ代は高い。練習場所に困り果て、とある空き家を借りることになった。家賃は驚くほど安く、月に五千円でいい。だが、その代わりに立地が極端に悪かった。都心部から電車で一時間揺られ、無人駅で降りる。さらに舗装も途切れがちな道路を徒歩で二十分。バスも一日に三本あるかないかの本数で、最寄りの停留所まで行っても、そこからさらに十分以上歩かなければならない。交通手段は事実上、バイクか軽自動車に限られ、移動時間自体は短縮できても、その道のりは決して楽なものではなかった。まあ、これで五千円かと思うと少し考えさせられるところはある。不動産市場の原理からすれば、あり得ない価格設定だがまずこうしたハードルがあった。 地図アプリすらまともに機能しない僻地で、最寄り駅からタクシーを呼べば五千円は下らない。コンビニどころか、家自体がない。道中は鬱蒼とした杉林と竹藪が続き、時折現れる廃屋の残骸が、過去の生活の断片を物語っていた。 ただ、その家は、Sの祖父が保護司をしていた関係で紹介されたものだ。保護司とは、刑法の一環として、刑務所や少年院から出所した者の社会復帰を支援する民間のボランティアである。法務省の委嘱を受け、矯正保護官の指導の下で活動する。祖父の世話になった元受刑者達が、保護観察中に時折挨拶に訪れることもあったという。その中の誰かが、「使っていない家がある」と言った。おそらくは土建業か、グレーな不動産ブローカーの類が、手余りになっている物件がある、と持ちかけてきたのだという。 Sは前置きを終えると、「まあ、関係ない話だけど」と付け加え、視線を少し逸らした。だがその言葉の裏に、微かにコールタールのようにねっとりとした含みを感じた。関係ないという言葉ほど、語り手の無意識が必死に縫合しようとしている裂け目を、雄弁に指し示すものはない。 家の近くには廃業したガソリンスタンドがあった。昭和の終わり頃、バブル期の前後に閉業したらしく、施設全体が事故物件よりも陰惨な時間の経過と共に朽ち果て、自然に侵食されつつあった。サービスルームの壁は、落書きで埋め尽くされ―――赤黒いスプレーで描かれた呪文めいた文字、剥落した漆喰の下から覗く黄ばんだ断熱材、割れたガラス窓の破片が床に散乱し、雨水で錆びた鉄骨が露出していた。縄文土器の渦巻文や、あるいは精神疾患者のアウトサイダー・アートめいた、意味の手前で凝固した狂気の文様。 ガソリンスタンド跡地というのは意外と厄介だ。地下の貯蔵タンクから漏出したベンゼン、トルエン、エチルベンゼンといった揮発性有機化合物(VOC)が土壌の毛細管現象を通じて地中に浸透し、深刻な土壌汚染を引き起こしているケースが散見されるからだ。浄化コストが土地の評価額を上回るため、再開発の網から漏れ落ち、不可視の毒を抱えたまま放置される。 ディスペンサー 給油機は二台とも倒れ、あるいは倒され、タイヤチェーンやオイル缶の残骸が雑草に絡まっていた。防火壁の周囲には夏草が人の背丈を超え、風が吹くたびに葉ずれの音が不気味に響く。こうした風景が、その一帯の孤立性を如実に示している。 フロントライン 借りた空き家の前は、工事事務所のような様相を呈し、木製プレハブ小屋が二棟、ひしゃげたH鋼の残骸とともに放置され、油圧シリンダーから作動油を完全に流出させたショベルカーと、荷台が錆で抜け落ちたダンプカーの車体が、ゼニゴケと葛の蔓に完全にカモフラージュされていた。重機のキャビン内部には、ジョロウグモが立体的な幾何学の網を張り巡らせており、ポリカーボネート製の窓ガラスは長年の風雨と埃、そして紫外線による劣化で白内障の眼球のように濁っていた。そんな不自然な立地を貸し出す理由は不明だったが、ギターやドラムを使えば即座に騒音問題に発展する。そこは格安であり、かつ誰にも迷惑をかけない完璧な環境だった。騒音規制条例の適用外、建築基準法の監視圏外、まるで法的な空白地帯のような場所だった。 緩やかな未舗装の坂を上り切ると、突然視界が開け、古びた二階建て木造家屋が姿を現した。いぶし銀の輝きを失った和瓦は幾枚も滑落しており、その隙間から侵入した雨水が、外壁のモルタルに黒黴の巨大な水墨画を描き出していた。下見板張りの塗装はとうの昔に白亜化を起こして剥離し、露出した木材の繊維には、シロアリによる執拗な食害のトンネルが網の目のように走っている。大黒柱の基部には、木材腐朽菌による褐色腐朽が進行しており、指で触れれば、細胞壁のセルロースを失ったリグニンの残骸が、脆くもボロボロと崩れ落ちた。 前庭は砂利を敷いたスペースで、雨の日はぬかるみ、Sの車のタイヤが何度も空転した。庭の片隅には古い井戸があった。苔むした石組みの上に、厚い木製の蓋が乗せられ、錆びた鎖で固定されていた。近代以降のコンクリート井戸ではない。鑿の痕が残っている。おそらく明治以前。石と石の隙間、その苔生した石組みの上には、防腐処理もされていない分厚い無垢材の蓋が重くのしかかり、酸化して原型を留めないほど錆びついた極太の鉄鎖と南京錠で、厳重に、そして狂迫的に封印されていた。石と石の隙間には、乾燥して黒ずんだスギゴケ、地下茎を這わせたヤブミョウガ、甲殻類のように硬質な外骨格を光らせるトビズムカデの抜け殻、羽化に失敗して朽ちたセミの死骸、そして何世代にもわたるクモたちの営みの残骸である糸の地層が、まるで小さなテラリウムの死の箱庭のように積み重なっていた。 蓋の表面には古い油染みや傷跡が無数にあり、誰も開けようとはしなかった。ただ、夏の猛暑の中でも、その周囲だけは異様に冷気が漂い、土の匂いに混じって微かな鉄臭や湿った石の香りがした。Sは決してその井戸に近寄らず、友人達もまた、大脳辺縁系の扁桃体が発する警報に従い、無意識のうちにそこから距離を置いていた。人間が未知の、あるいは生理的嫌悪を催す対象に対して抱く防衛本能というものは、神経科学的に見ても極めて決定的なものだ。恐い間取りすら生温い、家そのものが壊れていく空間の歪みを直感した瞬間から、交感神経系が優位に立ち、瞳孔は散大し、視線は無意識に脅威の兆候を探るパラノイアックなスキャナーへと変貌する。 状況を窺ったり、視線が自ずと探りながらおそるおそる家の中に入った瞬間、異様な寒気が全身を包んだ。外気温三十五度を超える猛暑だったのに、室内は冷蔵庫のように冷え切っていた。空気は重く淀み、埃と古い畳の黴臭、微かな腐敗臭が混ざり合っていた。 そして、もう一つ―――誰かに見られている、という明確な視線の圧力。首筋に冷たい指が這うような感覚が続き、背骨を伝う悪寒が止まらなかった。これは単なる埃っぽさや心理的なものではなく、根源的な存在の予感だ。ともあれ彼等は慌てて全窓を開け放った。錆びた蝶番が軋む音が響き、重い空気がようやく動き始めた。室内は一切の家財がなく、しかし足を踏み入れるたびに床鳴りを起こす板の間。送電線は生きていたが、天井からは古びた白熱電球のソケットが剥き出しでぶら下がり、蛇口を捻れば、配管内部の赤錆と水垢をたっぷり含んだ、酸化鉄の味がする濁水が吐き出された。 狭い浴槽は黒ずみ、和式便所の陶器には尿石の黄ばんだ染みがこびりつき、シャワーヘッドは緑青と赤錆で完全に目詰まりを起こし、水滴が落ちるたびに金属的な音を立てた。壁には古いカレンダーの破片が皮膚の瘡蓋のように残っていた。 そこに、近所のホームセンターで買った安物の蛍光灯を取り付ける。学生達の秘密基地づくりと大差ない。玄関脇には空き缶が積まれ、台所にはカップ麺の箱が置かれ、二階の六畳間には休憩室として中古のソファーが運び込まれた。ドラムセット、ギターアンプ、ミキサー、シールド、譜面、灰皿。そうした生活の痕跡が増えるほど、逆説的にその家の空白が目立つようになったとSは言う。空白とは、物がない空間ではない。物があるのに、それが埋まっていない感覚―――まるで、絵画の余白が、意図的にではなく、欠落として存在しているような、不気味さだ。 、、、、、、、、、、、 、、、、、、、、、、、、、、 道具が埋めても埋めても、底なしに広がる闇のような空間。 、、 、、、、、 壁に、それはいた。 最初は壁の染みか、古い雨漏りの跡かと思われた。実際、古い模様の一部だと思える範囲だった。だが、それがゆっくりと脚を動かした瞬間、三人は同時に息を呑み、叫び声を上げた。体長三十センチ、脚を広げれば四十センチ近い巨大な蜘蛛だった。 アシダカグモの突然変異体か、あるいはタランチュラのような熱帯性の外来種か。全身は濃い茶褐色と漆黒の迷彩模様に覆われ、頭胸部の前面に並んだ八つの単眼は、室内の貧弱な照明を不気味 コールド・オプティクスに、そして複雑な光の屈折率で反射し、冷徹な光学機器のように自分達を観察していた。 節足の先端には細かな毛が生え、壁を這う音は微かなカリカリという乾いた音を立てた。 反射的に後退り、壁際に張り付いた彼らを、蜘蛛はしばらく無表情に見つめていた。とはいえ、蜘蛛の表情という概念は、人間の擬人化だ。蜘蛛には、顔面の筋肉がない。しかし、複眼の配置と、鋏角の角度が、何かの意図を示しているように見えた。 一時間後、その蜘蛛は忽然と消えた。壁には残された足跡のような粘液の痕が、幾何学的な模様を描いていた。もしかしたら天井裏かも知れないが、そんな場所へ行く予定は一切ない。 「見間違いだったんじゃないか」 ご都合主義的な言葉を、友人の一人が言った。だが、埃まみれの壁には蜘蛛の足跡が残っていた。それはまるで、何かが這い回った痕跡のようにも見えた。だが、見て見ぬふりをしたい気持ちもわかる。だが、どうしようもなく、気持ち悪い。人間のDNAの奥深く、爬虫類脳に刻み込まれた毒や異形に対する根源的な嫌悪感は、論理ではどうにもならない。人間は本能的に知っている。単なる『光が届かないことによる暗さ』と、『そこに明確な殺意や異物が潜伏していることによる暗さ』の、決定的な質量の違いを。 だが、金は払っている。バンドをする者にとって金というものがどんなにかかるかは言うまでもない。楽器や機材の購入費、スタジオ代、ライブの参加費。それを無視するということは、実益を伴わない趣味ということになるが、その中で誰も正社員はいなかった。ブルジョワジーな選択肢は、初めから用意されていなかった。彼等は楽器を運び込み、練習を始めることにした。ただ、トイレには我慢して行くが、シャワーは浴びたくないし、水は飲みたくないという方向でまとまっていた。そしてもし、今度気持ち悪いことがあったらここは止めよう、違う場所を探す、というところで落ち着いた。恐怖と経済的合理性を天秤にかけ、後者がわずかに勝ってしまう。その些細な計量の誤りこそが、たいていの怪異が人間に取り憑くための、最初の入場券なのだ。 、、、、、、、、、、、 その日は雨が降っていた。 午後三時過ぎ、TとKがバイクで買い出しに出かけ、Sだけが残された。直前まで、三人は新しい楽曲のコード進行とリズムパターンの解釈を巡って激しい議論を交わし、マーシャルのアンプを震わせて何度もリフを反復していた。壁は薄く、すぐに近隣に響くかもしれないと思ったが、そもそも近隣と呼べるような社会生活の営みは、一キロ圏内にはなかった。 Sが郊外にある実家を出た時、不意に黒猫が目の前を横切った。尾の先が九十度に折れ曲がった鍵尻尾の猫だった。雨に濡れても動じず、狭い路地裏へ進み、一度振り返ってSをじっと見つめた。妙に長く、本当に長く、数秒なのか、十秒なのか、脳内のクロック信号が異常を来していたのか、今になっても分からない。 タペタム アンバー 猫の眼球の奥にある輝膜は、周囲の薄暗さをかき集めたように金色に発光し、動物のそれを超えた底知れぬ知性、あるいは冷酷な観察者の気配を漂わせていた。その後、猫はまるで空間の裂け目に溶け込むように姿を消した。雨を厭わない猫など、動物行動学的に見ても明らかに異常だった。猫は、被毛が濡れると、体温が奪われ、行動性が低下する。したがって、雨の中を進む猫は、何か強い動機、獲物の追跡、縄張りの巡回、あるいは、何かの導きがあるはずだ。 二階に上がると、リサイクルショップで見つけた古いソファーが一つ。座面はウレタンフォームが経年劣化で加水分解を起こし、裂け目からは黄ばんだ綿と粉末状のスポンジが、病人の吐瀉物のように覗いていた。 、、、、、、、、、、、 後になってみれば分かる、あれは気象病の一種だったと、医学的・生理学的なフレームワークで説明することも可能かもしれない。極端な低気圧の接近は、人間の内耳にある三半規管や前庭器官のセンサーに物理的な気圧変化のストレスを与え、それが視床下部を経由して自律神経系の激しい乱れを引き起こす。結果として、脳血管の拡張による偏頭痛、セロトニンの分泌低下に伴う激しい倦怠感、そして抗いがたいナルコレプシーのような睡魔が襲ってくる。 後から考えれば、説明できなくもない。Sは寝転がり、うつらうつらとした。雨音が遠く響き、部屋は薄暗く、木の軋む音が時折聞こえた。睡魔が訪れたその時―――。 、、、、、、、 、、、、、、、、、、 部屋の入り口に、人影が三つ立っていた。 「もう帰ってきたのか」 声をかけようとしたが、金縛りに遭っていた。真っ昼間なのに、交感神経が暴走し、全身の立毛筋が収縮して毛穴という毛穴が開き、アナフィラキシーショックのような発疹が皮膚の表面を覆い尽くした。皮膚が針鼠のように粟立ち、冷や汗が滝のように流れた。恐怖の極致―――身の毛もよだつ感覚が、骨の髄まで染み渡った。 人影は黒く、輪郭がぼやけ、輪郭の端が煙のように揺らめいていた。 三体はSの周りを囲み、見下ろす。足元には、腸がねじれるような忌々しさで、買い出しに行ったはずの友人TとKの死体があった。 ポストモルテム・チェンジ 法医学的な死後変化を正確にトレースしたかのような、凄惨な死のオブジェ。顔面は重度の低酸素状態によってどす黒い紫色に変色し、眼輪筋の弛緩によって眼球は限界まで見開かれている。口腔からは肺水腫を思わせるピンク色を帯びた白い泡沫状の液体が溢れ出し、皮膚 アルゴル・モルティスは死体冷感を経て、皮下脂肪が死蝋化に向かう途上のような、マネキンのごとき不気味な光沢を帯び、地を割って奈落の底に降りていくような暗さが増した気がした。 生命を縮められるような苦しさもまた心臓に走り、これが現実なのか夢なのかの正確な判断が出来ない。人影達はぼそぼそと話し、ビニール袋を被ったような口元に凄絶な笑みを浮かべている。低く湿った笑い声が耳元で響き、腐った果実のような甘ったるい臭いが漂った。顔は真っ暗で、目鼻口は見えない。ただ、圧倒的な存在感が空間を支配していた。一つの人影がSを抱え上げた。身体が宙に浮く浮遊感。怖気と、奇妙な好奇心が交錯した。身体は金縛りで動かない。冷や汗だけがだらだらと流れ、背中を伝ってソファーに落ちた。 捕食者に見つかった小動物が感じるような、本能の奥底から湧き上がる恐怖。進化心理学では、人間は視線を極端に敏感に察知するよう設計されていると言われる。草原で生きていた時代、見られることは死を意味したからだ。だから理屈ではない。 脳幹が、脊髄が、生命そのものが警告を発していた。 、、、 、、、 そして、浮いた。 二階の六畳間、中古のソファー、雨に曇った窓。剥がれかけた砂壁。天井の雨染み。そのすべてを、ほんの数メートル上から。いや、上という表現も正しくない。高さという概念が曖昧になっていた。身体が浮いているのか、意識だけが抜けているのか、夢なのか、死にかけているのか。判断ができない―――人影に運ばれ、部屋の外へ。無重力のような浮遊感の後、今度は急激なGを伴って真横に落下するという、三次元の物理法則を逸脱した感覚。廊下を渡り、階段を下りるはずの場所に、見たことのない古い木造の戸があった。木目は黒ずみ、取っ手は赤茶けた錆で覆われ、何百年も前からそこにあったかのように壁に溶け込んでいた。 扉を抜けると一階だったが、窓の外の景色は本来の庭ではなく、異界に繋がっていた。白い装束の無数の人々が一列に並び、虚ろな目で立っていた。感情のない、血液の入った皮袋のようなマネキンめいた存在。そして、その周囲を、頭髪を持たない漆黒の坊主姿の影達が、巨大な曼荼羅の円を描くように、足音一つ立てずに時計回りに旋回していた。 これは、お経を唱えながら行う行道、あるいは、密教の護摩供養、あるいは、もっと異教的な、古代の祭祀のような行為かもしれない。 「かごめかごめ・・・・・・」 Sの脳裏にあの不気味な童謡が反芻された。サイレント映画のような無音の劇が、延々と続き、恐怖で尿意が込み上げたが、指一本動かせない。 外へ連れ出され、雨が降っていたが音はなかった。人影達は念仏のようなものを唱え始め、低く、唸るような声。それは言葉なのか、ただの呻き声なのかも判別できない。 その時、ぶぉーん、という低い音が響いた。身体がどすんと地面に落ちた。目の前には、原付バイクに跨ったTとKが、コンビニのビニール袋をぶら下げて戻ってきている姿があった。 夢の中ではなかった。確かにSは外にいた。 「何してんの? 雨の中、気持ちよく寝てた?」 Tが、状況の異様さを全く理解していない、能天気なトーンで笑いながら言った。 Sは茫然としていた。地面に仰向けに倒れていた。雨が顔に降り注いでいる。全身が泥まみれで、服はびしょ濡れだった。 青天の霹靂。ゲシュタルト崩壊。 過呼吸で酸素過多になった肺を痙攣させながら、Sは生まれたての草食動物のように足をもつれさせ、立ち上がった。震える手でジーンズの泥を払う。 先程のあれは死体だった。間違いない。友人が死んでいた。いや、しかし今、こうして目の前に友人が生きて立っている。恐怖で見間違えたのかもしれない。夢だったような気もした。だが、論理的な自己欺瞞のピースを必死に組み立てようとするが、あの皮膚感覚、死臭、そして網膜に焼き付いた異界の鮮明な解像度は、単なる夢というフォルダへの格納を激しく拒絶していた。夢は、目覚めとともに、その輪郭を砂糖菓子のように溶かしていくはずだ。だが、これは違った。時間が経つほどに、むしろ細部のテクスチャが鮮明に焼き付いていく。それは記憶の挙動ではなく、体験の挙動だからだ。それゆえ、どうしても気持ちが収まらない。 Sは警察を呼ぶことにした。もしあれが幻覚だとしても、もう二度とここに来ることはないだろう。いや、警察を呼べば、少なくともこの場所を離れる口実になる。 サイレンの音もなく、赤色灯だけを回転させたトヨタ・クラウンのパトカーが、泥濘の轍を越えて到着したのは、それから約二十分後のことだった。 降車してきたのは、制服姿の二人の警察官。一人は経験の浅そうな若い巡査、もう一人は定年を間近に控えたような、白髪混じりの初老の巡査部長だった。彼らは、全身泥まみれで半狂乱になっているSの支離滅裂な「死体があった、おかしな空間に引きずり込まれた」という供述を聞き、半信半疑ながらも家の中へと入っていった。しかし、死体は転がっていなかった。畳の上には何もない。Sが動揺していると、若い警察官が口を開いた。 「ここね。元々、広域指定暴力団が抗争の末に、ドラム缶コンクリート詰めの死体を何体も埋めたっていう、いわくつきの産廃跡地だったんだよ。その処理が終わった後、事情を知らない三人の家族が格安で越してきて住み始めたんだけど、ある日突然、神隠しみたいに全員失踪して―――」 ドキッとして、Sは警察官達の顔を見た。 二人の警察官は、口元を三日月型に歪め、ニヤニヤと笑っていた。しかし、その目は真っ黒だった。眼球全体が黒く、何の光も反射していない。まるで深い穴のように、無限の闇が広がっていた。その瞬間、Sの脳裏に、草が生い茂った無人寺の地蔵が浮かんだ。古いお供え物の腐乱物に、蝿や蛆がたかっていた―――あの強烈な光景が、鮮明に蘇る。彼は恐怖で声を失った。心を読まれている気がした。Sは、その瞬間、確かに、二人の警察官が人間ではない何かに見えた。あるいは、人間という鋳型に、人間ではない何かが、不器用に流し込まれて固まり損ねたもの。 Sと友人達は、二人の警察官に向かって同時に叫び、逃げ出した。長ったらしい数式と心電図みたいなグラフが脳味噌に蜘蛛の巣のように張っている。 泥に足を取られながら前庭へと飛び出した彼等を待っていたのは、さらなる不条理だった。そこにあるはずの、つい数分前に到着したばかりの、白黒のツートンカラーのパトカーが——わだちの痕跡すら残さず、完全に空間から消滅していたのだ。 「まさか、さっきの警官って・・・・・・」 Tが痙攣する唇から言葉を漏らした瞬間。 Sの頭蓋骨の内部で、テレビ台の鋭角な角で後頭部を強打した時のように、柔らかい大脳半球に鋭利な硬直物が突き刺さるようなグチャッという凄惨な幻聴が響いた。視神経への血流が一瞬途絶え、視界がブラックアウトし、内耳の有毛細胞が悲鳴を上げるような高周波の耳鳴りが脳を貫いた―――そこに、再びヘッドライトの光束が現れた。 わだちを乗り越え、今度こそ物理的なエンジン音とタイヤの摩擦音を伴って、パトカーが前庭に進入してきた。降車してきたのは、今度は二人とも二十代と思しき、本物の疲労感と実在感を漂わせた若い警察官だった。 「110番通報で、死体があったと連絡してきたのは君たちか?」 実務的で、どこか面倒くさそうな公務員特有のトーン。 Sの体内の交感神経の過緊張が、一気に解けた。それは、経年劣化で完全に固着し、絶対に開かないと思われた錆びた瓶の金属蓋をようやくの思いで捩じり開けた時のような、物理的な安堵感だった。「まあ、何はともあれ、まずはその死体の確認が先だな」 その後の実況見分と事情聴取の結末は、言うまでもない。死体はおろか、事件性を示す証拠の欠片一つ検出されなかった。警察官たちは、 「若者達が酒とドラッグまがいの疲労で集団幻覚でも見たのだろう」という露骨な呆れ顔で調書を走り書きし、彼らに厳重注意を与えただけで引き揚げようとした。だが、玄関前で若い警察官の一人が、ふと私的な興味を思い出したように振り返り、口を開いた。 「そういえば、この家屋、高校時代に伝わってきたあの怖い話に似ているな」 また何か嫌なことを言われるのか、とSは身構えた。 「その家系では、跡継ぎである子供が産まれてからすぐに、その家系のどちらかの親が死ぬ、というものだ」 「・・・・・・えーと?」 警察官は、いやすまない、と続けた。高校時代にあんまり怖い話を聞かされたものだから、この家を見た時に思い出したんだ。だから話をしたくなった、ということかも知れない。でも観察されているような気配が蜘蛛の巣状に貼りつく。 「その話のすごいところは、その家系が途絶えたあとも、伝染してきたんだそうだ」 、、、、、、、、、、、、、、、、 呪いは語る者と聞く者を同化させる。 Sは、丑の刻参りの作法を思い出した。七日七晩、誰にも見られないように、神社の杉の木に五寸釘で藁人形を打ちつけること。儀式が終わった後には、藁人形は持ち帰って燃やすこと。 文化人類学的に見れば、縁切り神社や呪詛の風習は、日本全国の土着信仰に無数に存在する。現代科学のパラダイムにおいて、そこにおける呪いとは、プラセボ効果や、無意識の自己成就予言など、精神医学の領域に属するプラクティスであると定義される。 実際、深夜に一人で神社に通ってこの儀式を行うことは、相当な精神力を要する。普通であれば怖いし、一人で大声を出すのは恥ずかしい。だが、そうした精神的なブレーキをものともせず、この儀式を行えたということは、そこには凄まじいまでの怨念、気が狂いそうなほどの憎しみ、狂気の精神集中があったということでもある。民俗学や宗教学の分野では、こうした行為は単なる迷信ではなく、人間の精神が持つ強力な力、あるいは集合意識の具現化であるとも考えられている。 どんな形であれ、超能力者と呼ばれる人達がこの世にいる以上、そうした素質を持った者が行った場合、相手の足を念の力で動かしてどこかから転落させるとか、身体の内部に悪影響を与えて病気にしたり、判断力を鈍らせて交通事故を起こさせたりした場合があっても不思議ではない。いや、量子力学では、観測者の意識が、物理現象に影響を与えるという解釈もある。あるいは、まだ未知の物理法則——暗黒物質や、暗黒エネルギーとの相互作用が存在するのかもしれない。宇宙の質量とエネルギーの九十五パーセントが、いまだ正体不明の闇で占められているという事実。我々が現実と呼んでいるものは、観測可能な、わずか五パーセントの泡沫にすぎない。残りの九十五パーセントの闇の中で、何が蠢いていようと、それを否定できる根拠を、人類はまだ一つも持っていない。 、、、 、、、、、、 ―――呪いは、存在するのだ。 「・・・・・・でも話を聞いていると、偶然とか?」 咽喉から絞り出しように、必死に理性の盾を掲げた。 「そうだな。俺も最初はそう思った。だが、その話には奇妙な点が多すぎるんだ。まず、その家系に起こった災いは、誰も殺されるような事件が起きたわけでもないのに、確実に、そして連綿と続いた。代が変わり、人が入れ替わっても、まるで家そのものが記憶を持っているかのように、不幸が受け継がれていったんだ。ある時、その地域の寺院の僧侶たちが立ち上がり、この『穢れ』を祓おうと護摩を焚き、経を唱え、祈祷を行った。だが結果は最悪だった。儀式の最中に突然、参加した僧侶全員が原因不明の急病や事故で命を落としたのだ。一人や二人ではない。十数人が一斉に、だ。これではもはや、何か目に見えない力がそこに存在し、外部からの干渉を拒絶しているとしか思えないだろう?」 Sは先程見た、黒い坊主達のことを思い出した。異界の庭で、無音の声明を唱えながら時計回りに旋回していた、あの漆黒の坊主たちの影絵が鮮明に。あの幾何学的な輪を作っていた存在は、まさしく、この土地に飲み込まれ、システムのパーツとして組み込まれた坊主たちの成れの果てだったのではないか。 「でもここには何があったんですか?」 「その友達がいうには、そこは忌み地だったんだ、と。刑場・処刑場跡だったとか、霊道がある鬼門の場所だったとか、まあ、いかにもなオカルトのテンプレみたいな話だ」 Sはあまりの恐怖から、心にもないことを言った。 「でもなんか、いかにもすぎて嘘っぽいですよね」 「そう、嘘っぽいんだよ。出来の悪いB級ホラー映画のスクリプトみたいだよね―――でもね、その噂を聞きつけて、この場所に夜中、肝試しに入った奴がいたらしいんだ。帰ってきたそいつは、『空気が物理的に重い』とか『光の届かない圧倒的な暗さがある』とか『湿度計はおかしくないのに、まとわりつくような湿気がある』とか言いながら、家の中で『キンッ』と、頭蓋骨の縫合線を直接締め付けるような、金属の断裂音みたいな得体の知れない音を聞いたと言っていた。その時は、それだけで何も起こらなかった」 、、、、、、、、、、、、、、、、、 それは何かが起こったことを意味する。 警察官は、Sの目を見据えた。 「でも夢の中に、坊主や、これまで死んで来た浮かばれない魂が出てきたらしい。まるで地獄の餓鬼のようなね。それが何日も何日も続いた。最後は精神に異常をきたして、幹線道路で大型トラックの車列に飛び込んで、死んだらしい」 しーん、とした。 雨音すらも遮断されたような、真空の沈黙が周囲を支配した。 巻き込まれてゆく——Sはそう思った。蜘蛛の巣に絡め取られた獲物が、もがくほどに粘糸を全身に巻きつけていくような、絶望的なプロセスの進行。Sは唐突に、かつて伊豆半島の南端に存在し、熱帯植物が乱れ咲く狂気のユートピアとして建設されながら、のちに無惨に解体された廃テーマパーク『石廊崎ジャングルパーク』の、あの極彩色で狂乱的な廃墟のビジュアルを連想していた。あの場所もまた、植物の異常な生命力と人間の欲望が交錯し、人間の脳の正常な認知機能を狂わせる何かが充満していた。 警察官の口元には、奇妙な、語る快楽に酔ったような笑みが浮かんでいた。また、S の口元にも、わずかな笑みが浮かんでいた。それは恐怖から来る歪んだ笑いであり、同時に、これから語る最も恐ろしい部分への覚悟のようにも見えた。 、、 「でも、この話の怖いところはそういう思わせぶりなところじゃないんだ」 警察官の声のトーンが、一段階下がった。 「そのトラックに飛び込んだ奴、実は即死じゃなかったんだ。救急搬送されて、ICUのベッドで、目覚めてから少しの間だけ生きていたらしい。本当は、内臓破裂などの致命傷には至っていなかったのかもしれない。でも、昏睡している間、そいつはずっと『あの夢』を見ていて、面会に来た親しい友人に、酸素マスク越しにその夢のディテールを語ったんだという。気がつくと、自分は照明の存在しない、極めて『暗い場所』にいる。周囲では、顔のない群衆が、ヒソヒソと何か未知の言語で会話を交わしている。不思議と、交感神経を刺激するようなパニックや恐怖感はない。ただ、その夢を見るするたびに、自分の肉体を構成するタンパク質や細胞の活力が、一滴ずつ吸い取られ、弱っていくような感覚があるという。その夢は、通常の夢特有の支離滅裂さがなく、現実世界をそのまま持ち込んだかのように、信じられないほど解像度が高く、記憶が定かで、明晰夢のように自由な意思で行動できたらしい。そこには、地下深く、あるいは地球の中心へと下っていくような、果てしのない螺旋階段があった。下りきった先は、国立国会図書館の閉架書庫をさらに狂気的にしたような、天井の存在しない空間だった。そこには、天を突くほど巨大な書架が無限に立ち並び、見渡す限りの球体関節人形、ルネサンス期の解剖図のような絵画、ヴィクトリア朝の豪奢なアンティーク家具、そして用途不明のグロテスクな調度品などが、フラクタル構造のように所狭しと並べられていたという。常夜灯の数ワットのフィラメントよりもさらに暗い、盲点の底のような薄明かりの中。歩いていると、何かのオブジェにぶつかったり躓いたりして音を立てることもあるが、誰かから咎められたり、危害を加えられたりすることは一切なかったらしい。夢の中に滞在する時間が長くなるにつれ、その世界で顔の無い『知り合い』ができ、一緒に並木道のない暗黒の空間を散歩したりもするようになった。その空間は、意外なほど広大だった。そこが地理的に何処なのか教えてくれなかったが、ただ概念として『ここは森だ』とか『ここは墓場だ』とか『ここから先は冥界だ』といったルールを教えてくれるらしい。遠くからは、時折、ねぶた祭や祇園祭の囃子のピッチを極端に落としたような、重低音の祭りの音がドロドロと響いてくることがある。好奇心からその音の発生源へ向かおうとすると、知り合いから『あれは止めとけ』と、物理的な力で強く制止される。そしてもう一つ。『たぁーーーーーーーーーーッ!』という、声帯が引き裂かれんばかりの、小さな女の子か男の子のような、血を吐くような大絶叫の高周波が、何の前触れもなく、不定期に空間を切り裂くのだという。驚いて尋ねると、知り合いはこう答えたらしい。『あの子は、ママに会いたがっているんだ』と。それ以上は、誰も教えてくれなかった。さらに、空間のランダムな座標に、時折スーパーのレジ袋のような不透明なビニール袋がぽつんと置かれていることがあるんだという。一度だけ、好奇心に抗えずにその中を覗き込んだらしい。中には、人間の頭部―――いや、眼球や鼻腔の欠損状態から見て『頭部であった有機物の残骸』のようなものがゴロリと入っていて、その頭蓋骨の空洞の中には、外骨格がタマムシのように妖しく発光し、多関節の脚をカサカサと動かす、地球上の分類学には存在しないグロテスクな甲虫の群れが、隙間なくぎっしりと詰まり、蠢いていたらしい。袋を開けた瞬間、カブトムシの飼育ケースの底の土と、泥抜きをしていない川魚の生臭さ、そしてアメリカザリガニの死骸が腐敗した時のような、水生生物特有の強烈なアミン臭が、鼻腔を打ち据えたという」 どう形容していいのか分からず黙り込む。人間の持つボキャブラリーの限界を超えた不条理の塊に、Sは沈黙するしかなかった。言語とは、現実を分節し、把握するための網だ。だがその網の目から、ぬるりと零れ落ちていくものこそが、本当の恐怖の正体なのだ。 「―――いや、もう死の前兆のおかしな夢そのものだろう?」 しーんとした。Sは全身に電流が走るような恐怖を感じた。一体どんなひどい夢を見ているんだ。まるで、磁石の狂った青木ヶ原樹海の奥深く、白骨死体の転がる溶岩洞穴に迷い込み、奇跡的に生還したものの、脳の言語野が完全に破壊されてしまった遭難者の報告を聞いているようだ。そもそも、その夢の顛末をベッドサイドで聞いた友人というのも、この呪いの連鎖のシステムに組み込まれた死者の一人であるということが、話の構造上明確になっているため、想像するだけで凍りつく。 ポルターガイストや発光現象のような、物理法則に干渉するベタな幽霊現象よりも、人間の脳という閉鎖空間を内側からハッキングし、論理構造を狂わせていくこの種の怪異の方が、冷徹な分析のメスを入れるほどに、遥かに絶望的で恐ろしい。 「でもね、そいつ一人じゃないんだ。その時、肝試しに同行したメンバーは他にもいた。そのうちの一人は、数日後に急性心筋梗塞で突然死した。冠動脈の血流が完全にストップしてな。これ、十代の健康な若者の循環器系では、統計学的に見て、普通は絶対に起こらないんだよ。まあ、医学的にこじつければ、冠攣縮とか、先天性の冠動脈奇形とか、解剖してみれば何かしらの器質的異常が見つかる可能性がゼロではないにしてもな」 しーんとした。Sは、恐怖という極度のストレスが交感神経を介してメラノサイト幹細胞を破壊し、たった一晩で頭髪のメラニン色素が抜け落ちて完全な白髪と化してしまうという、マリー・アントワネット症候群のメカニズムを思い出した。かつて読んだゴシック・ロマンの小説に、そんな病理学的描写があった。 「その中には、無事に大人になって子供が生まれた奴もいたらしいんだ。そうしたら、子供が生まれた瞬間、そいつは死んだらしい。だからどっちみち死ぬっていうすさまじい場所なんだ」 Sは心底から、得体の知れない恐怖を感じていた。 ただ、どうであるにせよ、結局、死体は見つからなかった。 警察官達は「夢でも見たのかな」と言ってパトカーのテールランプを泥水に滲ませながら帰っていった。そう狐に化かされていたのだ、でも何故か泥まみれになり、いまはもうこの空き家の出自まで知っている。Sは友人達と共に、その場を離れることにした。後日、神社でお祓いを受け、もう二度とその空き家に戻らなかった。 数週間後、法的な手続きのために、物件の管理責任者である大家にコンタクトを取った。大家は、あの家に住んでいた前住民の家族が、夜逃げか何かで忽然と失踪したという事実だけは、渋々認めた。だが、その土地の呪いや過去の因果律などについては、本当に何も知らない(あるいは、知らないという自己暗示をかけている)ようだった。ただ、「以前から、不良やオカルト好きの連中が、勝手に敷地に入り込んで肝試しに使うような、タチの悪いスポットではあった」とだけは証言した。若き警察官が語ったあの精緻な呪いの伝播システムや、明晰夢の恐怖譚が、どこまでが事実であり、どこからが都市伝説特有の伝言ゲームによる情報の肥大化なのか、それを検証する術はもはや失われている。あるいはそもそも、あの語り自体が本当に警察官自身が聞いた話だったのかとも思われる。そもそも、あんな話をしたくなるものだろうか? 、、、、、、、、、、、、、、、 考えれば考えるほど深みにはまる。 たとえば、間違い電話に火葬場ですと答えるのは、昭和にありがちな嫌がらせみたいなものだ。たとえば予知夢で、死んだ魚の夢を見るようなものだ。中にはそれで、親戚や誰かが亡くなる夢をぴたりと当てられる人もいるらしい。でもそれが長じて、自分が死んだ魚となった夢を見ることもある。こっくりさんというイデオモーター現象を利用した降霊術で、人生の結婚とか離婚とかを当てられるという話があるが、同じように中国の占い師で、死期を完璧に当てられる人というのがいる。本当かどうかはもちろん分からない。ただ、脳天から何かが突き抜けるような衝撃を受ける。ズレているのだ、何かが。そもそも、釈迦の説いた初期仏教の教義においては、輪廻転生論は存在しても、現世に執着して物理空間に干渉するような幽霊の存在は、明確に否定されている。つまり、仏教では幽霊を否定している。では、それは何なのだ。どんよりと曇っていた空に、大きな指を拡げたような黒雲がゆっくりと流れてくる。本来一つ一つは別の話かも知れない。第一、その発動条件は何なのか、もしさっきの話が本当なら、警察官もそういうことになってしまう。だが、とりあえずそういうことが起こった、というのだけは無条件に信じられた。 たとえばそれはアメリカ北東部のバーモント州や、ニューイングランドを旅すると、古い農家の壁に、まるで設計ミスじゃないかと思うような不思議な窓を目にすることがある。 屋根のすぐ下にある壁に、窓が四十五度傾いた状態で、斜めに取り付けられているのだ。これらは現地で魔女の窓とか、棺の窓というらしい。歴史を紐解くと、十九世紀のバーモントでは、農家が家が手狭になるたびに増築し続ける文化があった。だが困ったことに、たとえば二階建ての一階部分を横に増築した場合、そこにつける新しい屋根が、すでにある二階の壁に干渉し、二階に必要な窓のスペースがひどく狭くなってしまう。つまり増設のせいで壁が狭くなり、既成の縦長窓が設置できなくなるのだ。そこで採用されたのが、斜めにつければ収められるという、シンプルかつ合理的な解決策だ。でもそういうのってその話を聞かないと分からない。不条理の仕組みそのものだ。過去には何かがあった、それだけしか分からない。 かように、生活感を残したまま突然の失踪。夜逃げかもしれない。実のところ、人が消えてしまうこと自体は珍しくない。たとえば奥さんが妊娠したタイミングで失踪することもある。とある話では、実家の固定電話にコールしても「この電話番号は現在使われておりません」という無機質なアナウンスが流れ、戸籍上の親戚の住所をGPSを頼りに回っても、すでに別人が住んでいるか、あるいは建物自体が解体されて更地になっている。つまり存在の基盤自体が消去されていることもある。結果として、精神を破壊された妻はストレスによるホルモンバランスの崩壊で胎児を流産し、莫大な費用を投じて興信所の私立探偵に調査を依頼するものの、クレジットカードの利用履歴も、監視カメラの顔認証データも、一切見つからない。彼に何があったのか。どうして戻ってこないのか。そもそも、彼は最初から実在したのだろうか。もはや何一つの情報も引き出せない、ブラックホールに吸い込まれたようなエグい事象だ。 カヴァート・アクション もはや、冷戦時代のスパイの非合法工作か、あるいは地球外生命体によるアブダクションか、というようなSF的領域の話に思える―――だが、誰かが消えようとしても、そこに残り続けることもあるのだ。警察官が言っていた、交通事故のあと病院で友人に話したらしい夢の中の暗い場所の話が、やけに印象に残った。そこは何処なのだろう? 、、、、、、、 、、、、、、 あの人影三人は、おそらくそれで―――結局その呪いのようなものから逃げられなかったのだろう。S以外の友人達は、一人が死に、一人が精神状態に異常をきたして入院した。Tは帰宅途中に心臓発作を起こして亡くなった。Kは幻覚と幻聴に苛まれ、現在も精神科に入院しているという。実は前にもこんな話を友人があるらしい。彼はこんな話を聞いておきながら、とある友人が「外からでも一度見たい」と言い出した。Sは、自らは絶対に近づかないことを条件に、Googleマップの航空写真すらぼやけているその僻地を渋々教えた。 数日後、その友人は単独で、深夜の山道を車で走り、あの座標を訪れた。彼が言うには、家の周囲を歩いていたら、何かガサガサと音がし始めた。奥の方からガサッ! ゴトッ! ガサガサ! と、何かが蠢く音が聞こえてきたという。 その音は徐々に大きくなり、まるで何かが這い寄ってくるようだった。彼が見知らぬ何人かが、玄関側の方へ宙を歩くように通り過ぎていき、突き当たった壁のところに消えていくのが見えた。 ―――あそこは幽霊の巣だったのだ。 その友人が言うには、あの井戸が滅茶苦茶気持ち悪かったらしい。 あそこだけは一ミリも近づける気がしなかった。井戸の周囲だけ異様に冷たく、まるでそこだけ別の世界に繋がっているかのようだったらしい。 、、、、、、、、、 ―――どうでもいいことだ。 最後に、Sは「結婚はしないだろう」と、低い声で言っていた。 焦点の合わない瞳の奥にある瞳孔が、まるで花の蕾のようにゆっくりと開いていった。数十年の年月なんて、星の瞬きのようなものだ。彼はもう色んな覚悟を決めているのだろう。 まるで熱した鉄板の上で悶えるように舞っている気もした。人生にはそんな一面もあるのかも知れない。その内に鎮魂や慰霊の碑を建ててやりたいと、殊勝なことを言う。禍々しいまでに歪なものを見たからだろうか。いまでも突然、扉が開く音が聞こえたり、足音が響いたりすることもあるらしい。意思の火が吹き消されたように、その向こう側に夜の暗闇が続いているのだろう。 Sはその話を終えると、ウイスキーのグラスをテーブルに置いた。氷が溶けて、琥珀色の液体が薄まっている。窓の外では、蝉の声がまだ鳴り続けていた。 「まあ、そんな話だよ」 彼はそう言って軽く笑った。だが、その笑顔はどこかぎこちなく、目の奥には何かが燻っているように見えた。自分もまた、グラスに残ったウイスキーを一口含んだ。咽喉を焼くような感覚が、どこか心地よかった。外の闇は深く、街灯の明かりがぼんやりと浮かんでいる。 「それで、あの井戸には―――何が入ってたんだろうな」 Sは少し間を置いてから言った。 「知らない。誰も、開けた者はいない。ただ——」 彼はそこで言葉を切り、窓の外を見やった。 「ただ、あの井戸だけは、ちゃんと蓋がしてあった。他のものはみんな壊れてるのに、あの井戸の蓋だけは、頑丈に、しっかりと閉ざされていた。誰かが、何かを封じ込めたかったんだろうな。でも言ってたよ、変だなって、誰かが最近、開け閉めしているような擦れ方をしてるって」 、、、、、 、、、、、、 その言葉が、肌寒く響いた。 もしかしたらSはいまでもマンションの風呂場で、排水口がごぼりと鳴るたびに、あの井戸を思い出すのではないのだろうか。あるいは、あの日の恐怖体験を。 地下から空気が押し返してくる音。水の下で、誰かが息をしているような音。 仄暗い虚無感が、鏡の上の雲のように意識に影を落とす。 夜は更けていく。外の闇は、まるであの井戸の中のように深く、何かが潜んでいるかのように静かだった。自分は、Sが去った後も、その話のことを考えていた。あの井戸の中には何があったのか。あの人影は何だったのか。あの家に住んでいた家族はどこへ消えたのか。 答えは出ない。おそらく、永遠に出ないのだろう。ただ、確かなことは―――あの場所には何かがいる。そして、それは今もなお、あの井戸の底で、蓋の向こう側で、誰かが来るのを待ち続けている。もしかすると、Sが言った結婚はしないという言葉も、その何かに関係しているのかもしれない。彼は何かを知っている。何かを見てしまった。そして、それと引き換えに、何かを失った。 夜の闇は、ますます深くなっていく。窓の外で、何かが動く気配がした。不意に帰り際、Sは、寒がりになった、と言っていた。あの体験以来、いつも、寒がっている、と。 夏でも、コートを、着ないと不安で、落ち着かない、と。 気のせいだろうか。いや、違う。確かに、何かが。 自分は、カーテンを閉めた。その手は、微かに震えているのが自分でも分かった。嫌というほどに分かった。立毛筋は逆立ち、部屋の空気は、あの井戸の底のように、急速に冷え切ろうとしているのだということが、そしてあの井戸は、もう開いている。
2026年06月21日

文化祭明日いよいよ文化祭だね、放課後の教室は、誰もいなくなった後もまだ昼間の熱を帯びて、窓は半分開け放たれているけど、風が入ってくる気配はない。清洒な顔付き、豊饒の感じ。明治維新をしようにも幕府がないって馬鹿なことを思う。「文化祭準備 当日スケジュール」の文字が、黄色と青と赤のチョークで雑に描き分けられ、埒もない空想が言語化されていく。ほとんど狂想のデスメタルにも等しい、あらゆる種類の長所を選り蒐めた混沌とした理想。「開会式 9:00」「クラス展示 9:30〜」「模擬店 10:00〜」「ステージ発表 13:00〜」「後片付け 16:00〜」という文字の合間に、誰かがふざけて描いたロケットが斜めに飛んでいる。誰だ、重力の虹している奴は?代々語り継がれるうちに話が誇張され、神格化されていった、黒光りする小川。君のこと、一緒に回ろうって誘う勇気、僕にあるかな。想像だけで、心臓がうるさい、高速力巡航船、好きなんだ、何一つ嫌な顏をせず、大して面白くもない、自分のおつきあいをしてもらっているのは、ありがたいことだけど、荒亡する班黒点のトーキー。夏の終わりのような入道雲見たって焦るだけで、自分が鼠色の膜をかぶった贓物だか、腸管だかに思えるんだ。なのに、君の方から言ってくれたんだ。目に見えない過去がうずたかく堆積して、それが僕等の現在の上にくらい影をおとすかも知れないけど。かつてなき塩の結晶、かつてなき声のしゃがれ。「ねえ、明日さ、一緒に回らない?」君が、ちょっとだけ不安そうに、でも期待を隠しきれない目でこっちを見るから、僕の夏が、そこで始まったんだ。シャワーを浴びて、髪を整える。鏡の中の自分が、少しだけ大人びて見えるのは気のせいだろう。強靭な波瀾をまきおこす疑問が頭の中に暗雲みたいに拡がる。制服のポケットには、予備のハンカチと、スマートフォンと、折りたたみの財布。その他に、小さな絆創膏を二枚入れた。魔術的禁忌が人を金縛りにする。のど飴も入れた。校門のところには、手書きのポスターが何枚もガムテープで貼られお化け屋敷の文字は、赤マジックで血痕のような飛び散りを表現し、メイド喫茶はピンクのマーカーでリボンの絵が添えられ、占いの館のポスターには、星の形が不正確に描かれていて、星座早見盤の知識がある人間ならすぐに間違いに気づく。それもしらたき、さみだれ、まじわり、らきらきフォーチュン・パイ。昇降口の前には、クラスTシャツを着た生徒達が、「パンフレットどうぞー!」と声を張り上げている。スピーカーからは、誰の趣味なのか分からない洋楽のプレイリスト。君は、いつもより少しだけ髪を巻いていた。前髪の分け目も、昨日までと違っている。笑顔の裏に、ほんのちょこっとだけの欲望が滲んでるカタパルトネーション。制服のリボンはきちんと結ばれているのに、袖口から覗く手首には、小さなブレスレットがひとつ増えている。シルバー製で、細いチェーンに小さな星のチャームがついている。その星の輝きが、蛍光灯の光を反射して、一瞬だけ、僕の目を刺した。視覚情報の処理が、思考回路を追い越して、スカートがさわさわ揺れてる happy days焼きそばのソースの匂いりんご飴の屋台の前で、君が立ち止まる。りんご飴を食べる君の横顔は、本当に、子供みたいだった。体育館のバンド演奏は、耳が痛いほどうるさい。ドラムのバスドラが、床を通して内臓に直接響いてくる。アンプ繋いでディストーション、振り向かせてやるのよビートで。でも、君と目が合った瞬間、世界はミュートになった。狡計を弄する気持ちも白痴化して行方知れず。本当に、音が一瞬だけ遠のいた気がした。聴覚のゲインが、自動的に下がったような感覚。肉体も精神も、ストライキを報らせた。君の瞳に映っているステージの光が、僕の方へ跳ね返ってくる。君の虹彩の模様が、細かい放射状の線を描いていて、その中心に、照明の光が点として映っている。このまま時間が止まればいいって、本気で思ったんだ。ありきたりな願いだって分かっていても、その瞬間だけは、世界中の誰よりも、自分の願いが切実だと信じていた。お化け屋敷は、旧校舎の一階を利用していた。普段は使われていない倉庫のような教室に、暗幕が張り巡らされ、通路が迷路のように作られている。暗闇から出た彼女の手が、葡萄蔓のように自然に絡んだ。メイド喫茶は棒読みで二人で笑った。光を呼吸した。梨のような仄青い首筋。占いの館は、オリオン座の位置が、北半球の冬の夜空とはまったく違う場所に描かれている。ああ、これが、僕等だけの、初めての文化祭。「いいカードが出ましたね。あなたの恋愛は、順調に進むでしょう」水理のような秩序は失われ、僕は確かに前進している。ケプラー、ガリレイ、コペルニクスも、浮足立って風に揺れる草。しかるに僕の足は後退している。プランク、ノイマン、シュレディンガーにも、銀河を見る夢。大袈裟なぐらいに大仰に首を振りながら、何かを一心に打ち消すように照れながら、はにかみながら。クラスの展示は、科学部とコラボした「錯視の世界」屋上で二人で大盛りカレーを食べたんだ。閉会式が来て、後片づけが来る。教室で君が窓の外を見ながら、「終わっちゃうね」と小さく言う。その横顔を、僕は盗み見る。夕焼けのオレンジが、君の睫毛の一本一本に影を落として、その影が、頬に細い線を描いている。その光景を、目に焼き付けた。心にだけ浮んで、すぐ消え去った君の姿に過ぎないが、それだけに純粋な鳥の飛行のスローモーション撮影みたいに、いまでも僕の裡にこんなに鮮やかに残っている。歩道の白線を、バランスを取りながら踏んで歩く。その足取りが、子供みたいで、かわいかった。時々、バランスを崩して、僕の肩にぶつかる。その度に、君は「ごめん」と言って、また白線に戻る。「ねえ」と君が言う。歩道の白線の上で、少しだけ真面目な声で。「来年の文化祭も、一緒にいようね」その言葉は、約束というより、祈りに近かった。初めての文化祭、初めての夏、初めての喧嘩、初めての仲直り、初めての「さよなら」が、いつか来るとしても、未来は、まだ形を持っていない。おしなべて衛星。でも、君の声が、その未来の輪郭を、少しだけなぞってくれた気がした。あるべき理想の姿から、崩れ落ちる脅迫から、目に映るすべてが僕等の合言葉。吐息を肺量の底を傾けて吐き出すみたいに、僕は彼女とキスをした、鎌の形をした下弦の月が、深海魚の歯のように突き出して、十七で恋した記憶になりたい。
2026年06月20日

スターダスト後ろ手に閉めるドアの向こう側に、セピア色に染まってく景色がある。感情を誤魔化すことしか出来ないから、完全にカモフラージュして、電車が来たよ、猟奇的な思索の毎日だった、それからはもうジェットコースターだった、大人になったさ、光沢も匂いもない不調和なまでの惨敗、蟻のように集まった群衆に警戒の刺を張りながら、いま君はどう生きてるの?ハロー、作戦会議をしよう。ハロー、応答を求む。よく通ったあの道を歩いてみたけど、鍵をなくしたみたいに上手く辿り着けずに胸にかすかな穴があいた。でも歔欷りなくにはまだ早い円筒状の夜、カブトムシが背中に光った、スターダスト、それは走馬灯のように流れて出会い別れを繰り返して歩き出した。トンネルを抜け出し月の光がネジを外した、街の灯入り模型が入場券。夜の疲労をぬりかくした、フィルムの陰からスターダスト、夕暮れを背に笑い、耳の奥で回るオルゴール、いつかの深夜もこうやって路上で見上げた月、チョークで床に線を引いた、朝まで徹夜で遊んだゲーム、漫画、何千回も繰り返して気の遠くなるほどの苦しさで、散らかった紙の上のような街にようやく現れた、流星群。ハロー、生まれる前の世界に戻ろうよ。ハロー、我発見せり。ここから君を追い掛けたって、風船一つ掴まえられない。時間を忘れたブランコ よく寝そべった滑り台反重力の世界を考えていた、超高速で駆け抜けてゆく大空の道ではないけど、騒がしくも寂しくもない小ぢんまりした道筋で、世間のしきたり、しがらみ、おざなりにしてきたもの、ささくれ、雰囲気の圏内へ漂い寄るあの日の秘密基地。愛になりたいって君が言ったって、冒険しようって言ったあの言葉の後ろで、かすれて錆びついたクラクションが聞こえた。優しくなりたいって言ったって、特異点のそのまた向こうへいこうとしても、救命信号は鳴らない。笑わなかった、おどけてみせようとしながら、この気持ちは何なんだろう、幽かな嘆声をもらした。心の琴線が切れそうなほど、震えるこの気持ちは何なんだろう、声は視線を逃がした、陽炎に霞む廃線の上を、もう二度とないただ一度の夏を、スターダスト、蝉時雨が八月の雨、束の間の潤いと乾きを強くする、二十二年後の二十五時、スターダスト、もう一度、北極星へ。群衆が三々五々、影絵のように散り始める、それが不特定多数の、集団的無意識のコロニー。資産家も、重役も、月給取りも、靴磨きも。僕は飛蝗を捕まえたあの指先を覚えている、ホテルでも、オフィスでも、レストランでも、自転車のタイヤに水溜まりが吸い付いたあの瞬間を、まだ、憶えている。ハロー、宿題の答え合わせをしよう。ハロー、赤く焼けて長く横を引いた太陽の時まで。
2026年06月20日

囚徒鬱陶しさが煙みたいに明るい部分を埋める、意識がその一瞬消失するのを感じる。改良してどしどし新種を作るのさ、いい加減な推論の信仰で、因果応報は理解不能の抽象感情、永遠に続くこの夢は醒めない、諦観的だ、漠然とした不安だって言ったけど、生物だか機械だか分からないところまで続くのさ。X計画は宗教的過ぎた、消去法で生きるのかい?シィ...カチャ...毒だよ。空の風と水蒸気と機関車の煤煙が、痛みの局部へ、厭な予感ごと胸から咽喉へ、受動的脳が孕んだ本領、突き上げて来る不愉快な曖気。浅薄なモーション、自動扉のスイッチを押して、ポケットから転がり落ちたサイコロで、今日の一日を占う。ナルシストの影を見つけた、古びたゆりかごに鏡を入れた、大きなお城の王様がいなくなった。君は脛に傷を持つ身です、僕は聾唖のホームレスパレスの一員です。君は言う、過去を変えられなくてもいいから、この記憶を消してくれ。シィ...カチャ...幻想だよ。人を覗き見しているような悪い趣味だね、結論を先に見つけてから、順に石を積んでるのかも知れないけど、空中浮遊に沈思黙考、単純明快なプロセスが代名詞なんて愚か、思考エンジンは否が応でもオーバーヒート気味さ、知ってた?見抜かれてた。山が毛虫さ、熊が出てきても毛虫さ。憧れたブラックホールの先は、ミッドナイトのエスカルゴ。シィ...カチャ...心ってやつはね。欺瞞を孕んだ甘やかな情景、夕方は墨絵のように、浮かばれない想いをたらふく詰め込んだ、匿名的共同体の多角的精査で、超越した盛り上がりを節々にはびこらせたんだ、街中にいる人々は、そいつらの紙飛行機なんだ、考えたことないだろ、馬鹿だからさ。機械的に笑えば居心地悪くて擦り減るし、散文的に笑えば馬鹿みたいだ、でも俯瞰的に見下ろせばありとあらゆるもの、みんな観測された幻にすぎない。テスト不能だ。シィ...カチャ...ほら夜が消える。砕けた月の光が薄暗い水の中へ、流れていって、次の日の朝にもう一度固まるんだ、自己防衛だ、感傷だ、夏の残像だ、木漏れ日だ、チョコレートのしみもあるけどね、赤と黒の市場の魚さ。哲学的ゾンビ、波形は知っていた、位相は違うけど、銃撃戦のあとだからね、でも、三色旗の天気予報界隈さ、でも平和ってそんなもんだろ?あやふやに透けかけてもわかる、青饐い目蓋は見ていた、細く真新しい裁ちバサミの切れ味。
2026年06月20日

洗礼おうおう、世知辛い、雪の野郎が下痢しやがったようだぜ。袂の中から出た拳がぱっと開いて、チョコレートが出てくるぜ、煉瓦倉庫で天使が舞い降りてこねえよ、ああ、放火したい。死体のように冷やかな銀行街から、ファーストフードと英語まみれ。そもそも腹冷やし過ぎなんだよ、昨日食べたのは、外国のアイスクリームか、しだいにエクスタシイに誘う鉋屑、馬鹿野郎、アイスクリームは、後生大事にとっておくんだよ、Xmasまでね。少女的感性を大切に。なかよし。瓢々とした気持ちが生まれ、この生物だか無生物しれない、自然現象が美しい生き物として、儚く融けてゆくさまを眺めてる。恋してるの?違うな、欠伸してただけ。そしてホワイトクリスマス、いんげんだか、セロリだかが定型文。リア充爆発しろ、そしてもういいからそこで、除夜の鐘を鳴らせ、ふぉーえばー。でも白い雪が降るのわたしは好きだな、世界のノイズみたいでいられる、心地いい音のふりしてるの、たまに嫌になることばかりのご愁傷様な街さ。天使に会ったら、ねえ君は少女になっているのかな、覚束なく相槌を打っよ、わたしは通過記録計。名前なんてない頃に戻りたいね、そしたら、どちらが先に、命を溶かしたのかだって競争できたよ。そういえば、うっかりしていて一つ聞きそびれた。どうして君はそんなに、雪の街が好きだったの?
2026年06月19日

返信僕等もう会えないね、退屈で人恋しい想いが湧きあがってきたって、秩序なるものを至上命題としながら、ロマンチックな人離れしたものを選ぶから。公園の樹木の蔭がいいね、潮が引くように賑やかさが終わろうとしている、静かなベンチで、すっかり葉を落とした常緑樹が、投げ網をしていた、あの夜が。繊細で病的な粗っぽさで、何とか今日をやり過ごしていた、二人はもういない、荷物は引き揚げたよ、声は置いてゆくね。熱く籠っている少年期の性の不如意が、一度に吸い散らされたみたいな哀愁だけど、無花果の尖のように肉色に笑み破れた、惑わしい藍色の夜で打ちのめしてよ。ナイト・ドレスを纏った、見知らぬ君が、頼りない時間の壁の中に消えてゆく。饒舌に、慇懃に、たちまち桜の花びらの狼藉を、満面にかぶりながら。
2026年06月19日

君の時間グラウンドの熱が、金屏風のように閃く。靴底を通してじりじりと上がってくれば、表情に亀裂が走る。―――に、“水の中で聞いたような、反射”校/舎向かい風? 上等だ。なつかしい歌ラジオから流れ出す、肉体に表徴される内部的な動きを描き出し、tick-tock (まだ...訪れない電解質バランス...)sip—sip(まだ...訪れない浸透圧...)ベンチ脇のクーラーボックスの蓋を開け、氷の塊とペットボトルがぶつかり合う、パスポート捨てた軽いステップの、くぐもったプラスチックの音。ま、だ、見、つ、か、ら、な、い、空を蹴って飛び出す、自分を構成する細胞組織から、網膜に映った光の分かれ目。人格の力のなかに犇と棲んだ声。リハーサルを何度もやった、―――へ、You make me wanna make you fall in love(if you want it...)先方に射し込むように、流され勝ちな、烙印でも捺す、特殊の動作。限界突破。臨界点。Speed Up...(Break The Speed Of Light...)答えのない問い掛けを始めている。汗で濡れた睫毛に光の粒が引っかかり、瞬きをするたびに、小さな虹がちらつく。額からこめかみへ、こめかみから首筋へ、汗が細い川になって流れ落ちる。能天気なほどに窒息しそうになる感情が邪魔だ。―――よ、“夕闇が急速に濃さを増す、練習”修/練「放物線、下校時刻のチャイムの音色が、混ざって―――いく・・。」Still on track(迷わない...迷わない)pour it out(最後の一滴まで...咽喉の奥へ流し込め)ま、だ、見、つ、か、ら、な、い、唸り。産声。大声。掛け声。しゃがれ声。猫撫で声。One more breath, I can rise, I can fly―――喊声!指先が一瞬で痺れるほど冷たくなり、汗で湿った手首に水滴が伝って、掴んだ一本のスポーツドリンクのボトルは、瑪瑙の切断層のある精神の賭博場、空想主義者? Shall We Go...それが失敗でも、次へ。眼の前へ彷彿する。美しい脚をアスファルトの大通りにえがきだした、現実主義者。それが成長途中、鋭いメスで腐った肉を切り裂いてしまえ、Change The World,Break The Worldまだ越えられない坂の向こう側へ。言葉の棘尖の苦痛、痙攣、怠惰を、瞳の奥に据えて。
2026年06月19日

2026年05月17日

分かるかい分かるかい分かるかい、やがてそこに映った、大空の。一生懸命、一生懸命、一生懸命生きようとしているよ、、、、、、、、、、君の名前を忘れたよ、液晶画面の硝子越しに、あるいは網膜の裏側、視神経乳頭の盲点のあたり、ちょうど鳥が翼を畳んで眠るような姿勢で、君の名前が蹲っていたはずなのに。成層圏と対流圏の境目を曖昧にしながら広がる、青のグラデーション、その上層ではプルシアンブルーが、中層ではセルリアン、下層ではターコイズが、分子の密度の階段を一段ずつ降りていく、いつか夢の中で無数のイメージで投影された、あのパネルの海を思い出す。、、、、、、、始まったんだよ、航空機の窓から見下ろす地上の街並みは、まるで回路基板のように光の粒を散らしながら、都市計画と欲望と物流が半田付けされた電子回路を見なよ、コンデンサみたいなマンション群。発熱する変圧器みたいな歓楽街。雨水を流す地下暗渠には、都市温度で温められたゴキブリが配管の裏を移動している、それはもちろん、バグさ。生体電流をシナプスに走らせるさ、そのメタファーの中で、もう新しい世界を始めているんだ。機内後方のギャレーでは、キャビンアテンダントが金属製カートのロックを外し、紙コップを重ねる乾いた音がした。電子レンジで温め直された機内食の匂い。トマトソースの酸味。加圧された客室特有の、少し鉄っぽい空気。誰かのイヤホンから漏れる微かなシンセサイザー。泣き止んだばかりの赤ん坊のしゃくり上げ。通路側のサラリーマンが、眠りながら咽喉を鳴らす低い呼吸音。そのすべてが、巨大な循環系の内部を流れる血液、そして僕は何処へ向かっているんだろう、永久凍土に覆われた最果ての場所、マンモスの牙が顔を出しかけている地層の真上か。それとも熱帯夜とサンゴ礁の、白々しい南の島の楽園、褐虫藻が日中の光合成の余韻で淡く発光している、あの白化しかけた珊瑚の枝の上か。コインを投げてさ、表か裏かって尋ねるんだ、百円玉の側面に刻まれた、ぎざぎざの溝の数まで僕は数えているって偉そうに言うけど、もう既に詐欺だって言っちゃ駄目だよ、そうだよ僕はどちらが表か裏かも言っていない、昭和六十三年だってフェイクニュースだよ、けど、この世界の歴史もそうじゃないかって、笑いながら考えているんだ。黄斑中心窩の視細胞がひしめく網膜の裏側が、牡蠣の殻になっていたら、何て美しいんだろうと思う今日この頃。都合の良い補完を見ているのに飽きたら、何も知らないふりをしている。待ちわびた八月の風、足の先から翳りて廻る風車。声、すなわち毎秒三百四十メートルの縦波を投げ出したなら、そのエネルギーの減衰の先、逆二乗則の彼方にあるのは永遠の沈黙。海馬の歯状回から忘却の彼方へ、樹状突起ごと欠落していく昨日。きらめく夏模様、水芭蕉の白い仏炎苞、睡蓮の蝋を引いたような花弁、蝶の鱗粉が触れた蜘蛛の巣の、放射状の縦糸と螺旋状の横糸が陽光にきらめく、あの風景にも、雨が通り過ぎ―――た・・。子音と母音の組み合わせが、どうしても正しい配列で並んでくれない。熱を帯びて蒸気を立ち上らせ、タイヤの跡が残る溝に細かな砂利が溜まり、蟻が列をなして運ぶようなものさ。声帯が震え、空気が振動し、音波となって、街路樹の葉を揺らし、電線を震わせ、遠くのマンションのベランダに干された、まだ湿り気を残したタオルの端を、わずかに揺らしていくみたいな、バタフライエフェクト、その揺れの連鎖の何処かに、君の耳朶があったはずなのに、今はもう、その座標が分からない。絶対音感の僕は、心の中ですべての音を掻き鳴らして、蜜の香りと棘の痛みに溺れる。世界は巨大なオーケストラだ。しかも指揮者不在の。ヴァイオリン群が勝手にボーイングを始め、金管群がバッファロー・コルネットで割り込み、ティンパニが誰の合図もなくロールを打つ。でも時々こういう風に考えることもある、だから僕は相対音感のふりをしているんだろうって。ウィー、ウィー。焦ると...ますます...思い...出せない...からじ...れったい...。圧倒的に圧倒的に。(ウィー、ウィー、)グレースケールがカラフルになる、雑踏が台風になる、圧倒的に圧倒的に。君ハ君ハゲームノ攻略本ヲ見ツケルンダ、美シイ季節ガ動物園ニナル、送電線カラ揮発性ノ音楽ガ流レテクル。マンホールノ蓋ノ隙間カラ、地下ノ暗渠ヘト落チテイク水ノ音ガ、カスカナ打楽器ノヨウニ、都市ノ鼓動ニ混ザッテイル。海外観光客ノ笑イ声、大型ビジョンノ広告。SNS配信用のリングライト。全部ガ渦ニナッテ、人間ヲ飲ミ込ンデイク。「こみあげる、なまめかしくて。」雨のおかげであらゆるものの色がくっきりと見えた、海も町もすべて灰色に濡れて、紫陽花が、向日葵が、ダリアが、その排水溝のなかに沈んでいくのを眺めていよう。春夏秋冬が、檻の中の動物のように、番号を振られ、解説され、イベント発生条件として整理されていく。世界五分前仮説も、水槽の脳も、マトリョーシカのような地球の中の地球も、い、入れ子構造の宇宙論。ホログラムのような人の中の人も、と、投影原理の自己言及。ひたすらに乾きゆく背中の夏の太陽の地図が、一気に剥がれ落ちるまで。ほら、ほら、ほら!人々の傘の群れは、衛星写真で見る低気圧の渦のように、ゆっくりと、しかし確実に、中心へと巻き込まれていく、僕等は蟻だった、薔薇の花の中の斜面へと吸い込まれて―――いく・・。フィードバック、薄墨色の。(LANケーブルが延びてゆく...)“What?”フラッシュバック。真昼時の、蒼き綾。取り消しの効かないことを笑いながら、凶々しい鬱屈した感情で、挫折していく君を見ている。もうさ、記憶が輪郭を失い、感情だけが残る過程を、顕微鏡で拡大して見ていたいのさ。(誰も知る由もないよ、)身体中に満ちた切なさに溺れながら、常軌を逸した、あの日吐いた嘘が耳の奥で熱い。ねえ、まだ世界に触れたことのない、淡い色の皮膚を、ぐちゃぐちゃに掻きまわしてみたいのさ、才能のない歌は人生の無駄だ、生きている価値のない君はもういらない、(気持ちいいよ、)、、、、、、、、、、、すれちがうとき火の匂い。燐の発火する、あの一瞬の硫黄に似た香気で、長い夢から目覚める。どうしてそんなに走り去っていくんだ、ずっと前から、好きだった―――のに・・。ルーターの小さなLEDが、規則正しく点滅し、データの送受信を示す。降りしきる陽射しのうねり出す向こう側に、瞳を細めていた君を思い出すんだ。高速道路では西から東に向う車が何キロも数珠繋ぎに渋滞して、じっと眺めていると、それらは雨の中で少しずつ溶けかけている、蛞蝓みたいに見えた。まだ世界という名の汚染に触れたことのないものとは、いま消えてなくなるもののこと、そんなことを考えてみたことはないだろうか、深夜のコンビニの駐車場、あるいは、SNSのタイムラインの片隅で、君は何度も、小さな失敗を積み重ねていくけど、そのことに本当の意味があるかどうかなんて、死の造形力の前では、本能の生み出した視座の前では、どんな近いところよりも、さらに遠いかも知れない。そうさ、水の膜の向こう側へと滲んでいく。テールランプの赤い光が、濡れた路面に反射して、長い尾を引きながら、ゆっくりと形を失っていくそのときに、人生や生き方が影を落としていることに、何となく気付くような取りこぼしを、いまでも繰り返しながら。前頭葉の奥底から鳴り響いている、エマージェンシーコール。もし君がそれを望むなら僕の才能のすべてを賭けて、それこそが自由だと呟いてみたい、土地や星の名前が人の名前だったかも知れないみたいに、神の名前も、ありとあらゆる名前のうちの有り触れたもので、美しいとか綺麗とかなんてなかったのに、それがあとあとになってプログラムされていった、洗脳されていった、マインドコントロールされていった、儀式化され、様式化されていった、そして僕が最後の場所らしきところで、そのすべての反対の意味を完璧に証明する、神はいた、そして神を僕は確かに何か変な名前で呼んでいた、一緒に遊んでいた、でも記憶には残らなかった、そしてそいつが毎日いたるところで違う顔をして見かけられる、この世界の秘密がその名前の中にある、単純なことだよ、全部嘘だったって言ってしまえば解き明かされる、永遠の不毛の一歩手前でいいじゃないか、だって僕等は何もかもでありうるんだろう、そして何もかもではないと言い切れるんだろう、だったら僕はそういうのがいい、もう何年もずっとそうさ、何百年も誰もいない場所で考えるのを止めて、ずっと静かにしていたい気持ちを抱えている。鍾乳洞の最深部、滴る水滴が石灰岩の柱を一ミリ伸ばすのに、百年かかる、あの暗闇のなかで、生き物を止める準備をそろそろ始めてもいいかい?ウィー、ウィー。焦ると...ますます...思い...出せない...からじ...れったい...。圧倒的に圧倒的に。(ウィー、ウィー、)コンビニが集合住宅になる。空き地が高層マンションになる、人は宇宙人になる。逃げてね/おいでよ右へ/左へ恍惚かって言って/畏怖かもと言う愛かもと言ったら/憎しみと答えて天使が死んだら/悪魔も死ぬ記憶が浮上すれば星が見えて来る、漂白された昼と夜、それでもまだ影のように去ることのできない世界が続く、かつての路地裏の猫の寝そべる石畳、小さな公園の錆びたブランコ、君と立ち話をした電柱の影、すべてがCAD図面の記号に置き換わっていく。透明な期待になりながら、静かな笑いを浮かべながら、快適、未来、ラグジュアリー、いつまでだって終わらない中身のない会話、素敵ね、そうだね、幸せだね、でもちょっと馬鹿だね、その安らかな天国でも地獄でもない、もう一つの世界が見えてくる、(はずだ、)もう一つの世界が見えてくる、(はずだ、)港の突堤が溶け、クレーンが溶け、建ち並んだビルが溶け、黒い雨傘も溶け、ふと見上げた、巨大な極彩色の電光掲示板が、様々なメッセージを伝えている、株価やニュース速報や、広告コピーを映し出すから鼻で笑ってしまう、「今を生きろ」とか、自分中心の世界を止めない限りそれは無理でしょう。ほら、誰かの人生がその裏で静かに破綻している。「未来を変えろ」とか、戦争ごとき平和ごとき出来ないこの世界に、一ミリの期待をすることなんて誰にもできないでしょう、本音はシリアスだ、知り合いが借金大魔王になってしまった、(耳から離れない言葉がある、結婚したら態度を変える男や女もいる、)あなたの周囲が地雷だらけだったらいいのに、ヤフー知恵袋の無責任な回答者や、承認欲求モンスターのインフルエンサーの周囲から、(歩かなくていいよ、)あなたの家だけ爆弾が落ちればいいのに、おお、なんて美しい花火、空っぽの奴等の言葉もこんなに美しい花火、(もう何も喋らなくていいよ、)大きく揺れるカーテンのような雨景色なんて、一ミリも知らずに。ピサの斜塔のように崩れそうな不思議なバランスで続く、中身のない会話が青かった。もうすぐ失われる視野の中に入っていたい、水がインクの中に溶けてゆく一日を終わらせよう。君ハ君ハラムネノ空キ壜ヲ見ツケルンダ、ソコニレコードガ入ルコトヲ妄想シテイル、地下鉄デハ今日モ迷子ガ生マレルカラ、イツマデモ愛ガ欲シイ人々ヲ戸惑ワセルカラ。ソレデモ言葉ノヒトツヒトツガマダ美シイ、水圧ニ押シ潰サレソウニナリナガラ、業ヲ飼イ慣ラシナガラ、ソレデモカロウジテ形ヲ保ッテイル愛。「かどわかす、声をなぞりながら。」蛇口でペットボトルに水を入れて冷蔵庫に入れる、透き通ったその水が透き通るままに腐ってゆくのを、何処かの映画みたいに思い出している僕は、ストックホルム症候群を誘う誘拐犯の囁きのようでもあり、生殖本能に根ざした恋人の甘い誘いのようでもあり、社会規範をインストールする教師の諭す声のようでもあり、扇風機の風が、ほつれ毛を弄ぶように襟元をくすぐる、その一瞬に崖上に咲いていた危うい花の名前を思い出す、ほら、風だ見えるかい?君が走り去った跡だ。愛おしい体温を持って、僕等は駆け抜けた。窓にはただ全体的に暗くなっていく一枚だけの景色が、貼りついていた、そこに、ひっそりと、崩折れながら呼吸する、夜の植物の匂い、ゲオスミンやフィトンチッドの匂いを運んで、ああもちろん、証明書も、契約書も、保証書もない、気の狂った新時代のムードを形成する、夜風は思いがけないほど冷たくて、救いなのか呪いなのかは、まだ分からないまま世界は後方へと流れていった、汗の粒、雨滴の反射、光の屈折、指紋の渦、息の温度、瞳の震え、陳腐な言葉が美しいなんてことはない、高架下の湿ったコンクリートの匂いも、真夏のアスファルトの照り返しも、自転車のブレーキワイヤーの軋みも、君の髪についたシャンプーの匂いも、全部まとめて、メールストロムの旋渦を誘う、でも単純なことがこの世界には必要なんだ、僕は君を愛していた、(だから君は笑ったんだろう、逃げ場所のない世界を知っていたから、)本当にただ君のことを愛していた、(もう一度世界を作り変えてみる?全部何もかもやり直してみる?そんなことの中に真理や愛は眠っているだろうか、寝ぼけているそいつの目を潰して、何も見えないこの世界を明るくしよう) 、、、、、、、、、、、、、、―――今日も地球は自転を続けている。赤道上では時速千六百七十キロで、極点ではほぼ静止しながら、傾斜角二十三度四分の地軸を、ほんの少しずつ歳差運動させながら。
2026年05月17日

2026年04月12日

2026年04月12日

まず、弁当箱を開ける。この一秒に今日のおかずへの期待や、作り手の顔を思い浮かべてパカッとするわけだ。そして最後まで何を残すか、最初に何を食べるかを決める。これは子供も大人も同じだ。弁当は、小さな戦略ゲームでもある。ご飯とおかずの量は、基本は一対一。どんなに弁当箱が大きかろうが、これは弁当箱の伝統である。そこに二品から四品のおかずを入れていくのだ。ハードルを上げ過ぎない、これが重要だ。 [ごはん]に[ふりかけ]や[梅干]や[たくあん]に、[肉]や[魚]などのメインのおかず、[野菜]のサブおかず、[卵]のおかず、[煮物]あたりだろうか。弁当の失敗は数えきれないが、とりあえず煮汁入れすぎてしなくてもいい情報漏洩している。焼きそばカップ麺なのかちょっと堅い。二段弁当でカレーを仕込んで隣の席の女子に笑われる、箸がついていない、などなど。(だから先生は、あるいは会社なんかでもね、業務スーパーなんかで箸を買っておいて、なかったら使えよと言ってやればいいんだよ、)僕個人的にはだが、人からおかずをもらってお弁当を作るとか、単色弁当なんかに引かれる。虹色弁当なんてあるけどね、レインボー、あ、馬鹿にしているわけじゃないですからね、失敬(?)まあ、そういう風に食べたことがないからだけどね。一段階上の豪華さのある会議用弁当が美味しそうだとか、いわゆる五千円とか一万円する法要弁当が美味しいみたいな話だ。弁当ってキャラ弁なんかのせいで疲れている人もいるだろうけど、他人の目なんか気にしても仕方ない、(気にしすぎるのはいけないという意味だけどね、)それっていわゆる生活や文化だったり、本能的な生存率を高めるような行為だと考える。料理は愛情主義の暴力性とお弁当の手作り信仰だね、じゃあみんな早起きは好きなんだろうか、じゃあみんな愛情ってそんなうすっぺらいものだと思っているのだろうか。でも僕等は人間だからね、かくあるべしなんか知ったこっちゃないわけですよ、あんまりしんどかったら週に一度はコンビニ弁当なり、パンを買って持たせたらいいんだ、誰かの気持ちが分からないような人間は何を言っても無駄だ、そして僕はそういう人間を徹底的に分析した上で言うわけだけど、相手にしない、距離を置く、それに尽きると思う。合わない考え方や価値観ごときで争いが起きるんだ、もっとするべきことなんて世の中には山ほどあるからね。最近は「弁当男子」なんて言葉も聞くけど、朝のキッチンで一人で詰めている男の姿を想像すると、なんだか微笑ましいような、ちょっと寂しいような気もするね。妻や彼女が作ってくれた弁当を、「今日は何が入ってるかな」と期待しながら開けるのと、自分で作ったそれを「まあこれでいいか」と開けるのとでは、味の感じ方が全然違う。愛情主義の暴力性は真実だけど、逆もまた然り。「今日もありがとう」のメモを海苔の下に忍ばせた弁当をもらった側が、「手抜きじゃないか」と文句を言う日もある。冷凍食品を上手に使った弁当を「賢い選択」と呼べるようになるまで、僕等はまだ、愛の形を箱の大きさで測ってしまうのかもしれない。「この弁当を作ったのは誰だぁっ!」と海原雄山ばりに叫ぶ『美味しんぼ』の世界で(?)とはいえ、冷凍食品詰め込みだらけ、ごはんで子供にセルフさせる、そういう選択だって、戦略的撤退と呼んでいいわけだ。愛の形は、必ずしも前線に立つことじゃない。とはいえ、前の日の残り物を詰めただけの弁当を見た時、家族は昨日と同じじゃんと文句を言う。しかし、作り手からすれば、残り物の処理は家族の義務だ、刑務所の飯は残飯整理だ(?)文句を言う側は新鮮さを求め、作る側は無駄にしない誠実さを謳う。楽したかった? したかった(?)このすれ違いは、弁当という閉じた箱の中でしか起こらない、家族という共同体の縮図だ。しかし世の中には弁当を盗むという輩もいるわけだ、いやがらせ目的ではなく、逆に好意を持っているパターンもあるが、とはいえ、後者なら弁当箱の代金ぐらい、そっと忍ばせるのが礼儀だろう、僕はススめてないよ、ススめてないけど、迷惑をかけるなりの対応の仕方はあるよね(?)気持ち悪いなりにそれだけはさせて下さい、馬鹿野郎とはなるけど、でも、落としどころは作りたい(?)痴 漢とか窃盗って僕は頭にスイッチが入る理論で考えていて、だから年齢は一切問わない、脳内爆撃なんだ、そこにおける対策もハッキリしている、治らない可能性があるのも知ってる、でも、思春期における子供達の場合って違うんだよね、かくいう僕はたまたましなかったけど、弁当箱を盗むような奴は気持ち悪いって切り捨てるのは、本当に簡単なんだけど、そこにおける対応ってすごくすごく難しかったりする、モテないとか、顔面偏差値とか、好きだからとか、もう色んな要素で暴走してしまうことってあるわけなんだ、いや、だからってその気持ち悪さを肯定してあげることは、世界中の誰にも出来ないとは思うんだけど―――ね。まあそういう話はさておき、弁当を勝手に食べる、弁当箱を盗むのだって、これ立派な窃盗罪だからね、馬鹿な親ならそんな目くじら立てなくてもとか言いそうだが、じゃあ、賠償金具体的にどれぐらい払ってくれるんですか、妥当な金額の数十倍上乗せしてくれるならいいですけどと言ってやれ。こういうのが一般的なものとして出回るようになると、おそらく勝手に弁当食べたり、弁当箱を盗んだりする人というのはいなくなる。まあ、漫画やアニメを観て一度したかったなんて書かれた日には、ゲーム脳の話題が俎上にのぼるかもしれないけどね。そんなわけあるか、いや、でもそうなのかもに揺れる曖昧さ(?)でもどうだろう、学校で「弁当の日」を設けて、子供同士がお互いの弁当を交換し合う文化があったらどうだろう。「君の家のおかず、どんな味?」という小さな交流。貧困で空っぽの弁当箱を隠していた子供の記憶も、豪華すぎて引かれる虹色弁当も、全部がその家の縮図だと知る機会になる。大人になっても、職場の会議用弁当や、デリバリーで届く無機質なものを食べながら、「この弁当を作った人の朝は何時だったんだろう」と想像する。誰かの手間を、ただ消費するんじゃなく、少しでも「ありがとう」に変換できる人間が増えたら、すれ違いは減るのかもしれない。でも、現実は厳しいよな、味の好み一つで価値観の違いが露呈する。ちなみに弁当を携行食の意味で考えるなら、石川県の弥生時代の遺跡から最古のおにぎりが発見され、五世紀には猟や戦い、農作業の際に家から干飯(米を蒸して乾燥させた保存食)や握り飯を持参した記録が残り、『日本書紀』には鷹狩の際に携行する餌袋を、弁当入れのように代用したという記述がある。また、十世紀の『伊勢物語』には旅先で携行した、干飯を食べる記述がある。米飯加工品をコンパクトにして屋外に携行する習慣は、平安時代の下働きの者の携行食である屯食などにもみられ、鎌倉時代には戦用に鰹節を添えた米飯加工品が利用されていた。ちなみに弁当屋では、大型店でない限り接客と調理の両方を行う。接客はオーダー取りから電話注文の対応、レジ、出来上がった弁当を袋に詰めてお客様に渡す。とはいえ、ベルトコンベアーで流れて来る容器に、食品を詰めていくのとは違う、弁当屋のメニューは、定番、季節限定など、数が多いため、慣れるまで覚えるのは大変だ。場合によっては六十種類ということもあるらしい。ちなみに、弁当をイラストの図にして描くと覚えやすいらしい。それでも覚えられない場合は、写真に取って眺めるとか、メモ付きの一覧表を作るなどの対策がある。やりやすいようにさせてあげられる環境づくりがあれば、調理スペースに写真付きでマニュアル作成すればいい。プロなんかいらないのだ。より多くの人が働けるし、みんなが楽しく過ごせる。人それぞれ、向き不向きはあるけれど、慣れない内は誰でもそういうことをするものだ。朝の炊飯の匂い、揚げ油の音、冷蔵庫の霜取り、ごはんの量を一定にするしゃもじの角度、仕込みのリズム、僕はそういうのを考えると何だか優しい気持ちになるね。大人になると、あるいは経験を積むと、「何でそんなに頑張る必要があったんだろう」と思うことはある。中には口の悪い人の真似をして、そっくりそのまま「嫌な奴になる人」もいる、立場や肩書でやたらと仕切りたがる、「駄目な人間」もいる。たとえば「本業で受ける辛さ」と、「副業で受ける辛さ」は耐えなきゃいけないレベルが違う。我慢しろとか、大人になれよとか言っているわけじゃない。論理的に物を考える癖をつけないといけないと言っているのだ。「十代で受ける仕事の辛さ」と、「二十代で受ける仕事の辛さ」は違ってくる。「三十代で受ける仕事の辛さ」は僕にはない。雲泥の差だ。もちろん家族がいて、生活費を稼いで生きている以上は、もちろん急にこんな仕事やってられるか、とは言えないわけだけど、スッと肩の力の抜ける時期があるし、悩み事に対する捉え方も優しくなったり、緩くなる。ところで弁当屋というのは小規模店の場合、一日百五十〜三〇〇食ぐらいだ。客単価は五〇〇〜七〇〇円。なので一日の売上は七万〜二〇万円。年間売上は二五〇〇万〜六〇〇〇万円程度が多い。電話注文が集中するのは十一時三十分。「まだですか?」の問い合わせが増えるのもこの時間帯だ。常連客は声だけで分かるものだ。さて弁当屋での調理担当は具材カットなどの仕込み、おかずの調理、炊飯、盛り付けなどが主な仕事。火を使う調理も多く、炒め物や揚げ物などを担当することもある。清掃やゴミ出しなど、店内を衛生的に保つのも重要な仕事だ。デリバリーもしているなら、原付に乗って安全運転してお客様の元へ向かう。でも五百円の弁当が千円の値段になった瞬間に、人はそれをまったく買わなくなる。(消費者の心理的抵抗だ、)もちろん食中毒なんか一度でも起こしたら言い訳はきかない、その店が潰れても文句をいえない。(風評被害はどんなクレームよりも恐ろしい、)たとえば、弁当屋には、店舗型と無店舗型(デリバリー)とキッチンカー型がある。(とは言いつつ、催事専門の弁当とか、会議用弁当とかいうのもある、)僕はずっと前にテレビで、自分で材料を仕入れて、弁当を作り、オフィス街に飛び込みで弁当を販売している人を見たことがある。値段もかなり安かったはずだ。それで儲けを出すことを常に頭に入れている。しかしそういう人が出した店でも潰れることはある。マネーの虎もみんなすごい人生を送っている。エキスパートなんかいらないのだ。僕は三度ほど飲食店で虫を見たことがある。その内の二度は指摘しなかったが、一度は奥さんが口を出した。僕は奥さんに「飲食店は虫との闘いなんだ」と、僕の持ちうる知識で説得したことがある。それが正しいのかというと僕は甘いだろう、でもヤクザの紛いごとをしたいわけじゃない。ただ、そういうたった一度の失敗で、色んなことを失ってしまうのが世の中というものなのだ。あと、弁当の歴史は、腐敗との戦争でもある。毎年、食中毒の話は聞くだろうけど、弁当だって例外じゃない。営業停止になるからね、通常三〜七日間程度で、営業禁止の行政処分を受ける。原因調査、衛生改善報告書の提出、厨房の消毒などが義務付けられ、改善が認められるまで再開できない。被害規模が大きい場合や故意・重過失(営業停止中の営業など)がある場合、逮捕や高額な損害賠償に発展する可能性もある。梅干しはただの漬物じゃないよ。(まあ、そういう風に見る人がいない世の中の方が、実はよかったりするのかも知れないけど、殺菌効果ね、実は醤油にもあったりするんだ、元を辿ればおでんのからしだってね、)強烈な酸で菌を抑える、天然の保存装置だ。おかずの下に敷かれるレタスや大葉、あれも見栄えだけではない、水分を吸わせる役割がある。弁当は可愛い顔をしているが、中では細菌と人間の静かな戦争が起きている。僕はたまに弁当屋で注文したあと、椅子によっこらせと腰かけながら、ヒト科、ホモサピエンスの人生というものについてぼんやり想い馳せる。あれは九時ぐらいだったかな、テレビ画面に映画が流れていて、明らかにキレた女性が男性の胸を包丁で胸を突きまくっていた。わざとらしすぎて、でも結構これが逆にリアルなのか、というかこんな映画流して大丈夫なのかと非常にワクワクした(?)解像度っていうのは知識に由来するわけだけど、プロファイリングだと非常に憎しみを持っているということになる。でも知識なんてその程度のものだ、何とも思っていない人間がその知識を持っていたらそう見える、つまり怨恨の線で相手を調べるようになる。捜査の遅れは事件の解明を遅らせて迷宮入りさせる、結局僕はミステリーの推理なんかこれっぽっちも信じてなくて、結局あれもファンタジーなんだろうと思う。僕も浮世の苦労を色々舐めてきた、だから色んな考え方を学ぶ。たとえば詐欺に騙されるのは専業主婦や老人など、一方的に消費する立場の者が多い。そして人を信じる人は、論理的に物を考えられない人だ。僕は詩人だけれど、WEBライティングの本を読む。コピーライティングの本も読むし、レトリック関連の本も読む。論文だって読むし、外国サイトで翻訳して情報を得ることもある。多分そういうことをする人は専門家だろうけど、一つのことに寄り掛かっていたら亀の甲羅なんだよ。重くて動けないし、何より頭でっかちと変わらない。はっきり言って僕の仕事と一切関係がない、使うあてもない。けれど僕の欲しい情報は一つじゃない、常にそうだ。だから特許の手続きの本を読んだし、株やFXの本も読んだ。誰が買うんだろうという本も、裏をかえせば誰かが必要としている本だ。何でかっていったら、僕は必死だからだ。いい加減な人間は何をしても絶対にモノにならないと知っているからだ。でもみんな沢山苦労したいわけじゃない、ちょっとしんどいことがあると投げ出したい人がいる。現実から眼を背けたい人もいる。嘘で飼い慣らされて自分を胡麻化すしか能のない人もいる。とある料理家はレストランで修業中に頭から血が出るような暴行を受けた、間違いなく傷害沙汰だ、でも、教えてもらっている側だからそれを我慢した。何が正しいのかは僕にもわからない、けれど、その人は素晴らしい料理人になった。日向の見晴らしのいい景色のある窓のある喫茶店、おあつらえ向きにいえば隣の芝生も美しいなんていうことは、はなから期待しない方がいい。たとえばそうだ、誰も弁当の事後については語りたがらない。食べ終わった後の弁当箱は、途端にただの汚れ物へと成り下がる。鞄の中で、カタカタ、カチャカチャと、しゃれこうべが笑うみたいに鳴る空の弁当箱と箸の音。あの音は、学生時代の帰り道や、くたびれた会社員の帰路のBGMだ。「ああ、今日も一日が終わるんだな」という、少し気の抜けた、空虚な打楽器の響き。家に帰り、シンクに放り出された弁当箱を洗う時の、あの徒労感といったらない。特にプラスチック容器の四隅にこびりついた、白濁した豚肉の脂や、ケチャップの色素。スポンジで二度洗いしてもキュッとならない時の、あの微かな苛立ち。弁当を作る愛や戦略については誰もが饒舌になるけれど、この「油汚れを落とす」という泥臭い後始末の上にしか、明日の弁当文化は成り立たない。食べるという行為が、いかに物理的な痕跡を残すかという証明だ。そんな風にだよ、僕は自分の同業者に一ミリも期待しない。あなたもきっとそうなって欲しいと思う。どうしようもない国の、どうしようもない詩の出版社の、どうしようもない詩人達の世界で、普通やマトモであることに比べたら何をしたってお釣りがくる。あと、この国には屑があふれている。ところで弁当は元々、ゴミを減らすための知恵だった。竹皮や曲げわっぱ、洗って繰り返し使うタッパー。今はさらに進んで、コーヒーかすやさとうきびの搾りかすでできたバガス容器、土に還る素材の弁当箱が登場している。中身も、規格外の野菜や、作りすぎた前日の煮物を上手にリメイク。食品ロスを減らすための戦略的撤退。これも立派な愛情の形だ。コンビニ弁当を週に一度許すのと同じように、今日はエコ優先で、彩りは二の次と決める日があってもいい。弁当箱を開けたとき、プラスチックごみが一つもない満足感。それが、作り手と食べ手の、地球を巻き込んだ小さな共同作戦になる。マイケルジャクソンのHeal The Worldに、感動するようなものかも知れない。いやもちろん、We are the worldの方がいいですって言う(?)「あなたは弁当を美味しく食べる」ことはできても、「弁当屋の知識」については一つもないのだ。もしかしたら居ぬき物件で安く抑えるとか、中古調理器具サイトなんかを、見たことがないのかも知れない。狭い価値観や見識にとらわれている人はただの臆病者だ、そしてそんな奴が世界を悪くしていると僕は思っている。五〇〇万から一〇〇〇万ほどが目安とかも知らないのかも知れない。幼稚園弁当とか、介護施設弁当とかも知らないのかも知れない。これからの時代、狙いを定めて儲けを得ていくパターンが成功をおさめる。もちろん儲けを得るには、営業力も必要だ。人と違うっていうのを楽しんでいる人もいる。もう一つステージが上がったら人と違うことで労りが増えてくる。どんな考え方にも段階があり、そこにおける状況と選択がある。想像力は万里の長城を越える。月の長い距離も『どこでもドア』で一瞬にする。宇宙飛行士にも弁当があるって知ってた?NASAの宇宙食は、乾燥させた料理を水で戻す。無重力では味覚が鈍るので地上より味を濃くする。こんなの滅茶苦茶、常識だよね。知っていないなんて、もはや、人間ですらもないよね(←何か言い始めた)で、このまわりくどい話の続きは何かって言ったら、軍隊食の話だ(?)いや、僕もね本当は嫌なんですよ、でもね、でもね、編集がね、うちのもうこれのこれのもんがね、入れろって言うわけなんだ、面倒だよね、嫌だよね、でもちょっと付き合ってよ(?)でね、軍隊食は兵士を生かすための栄養供給システムであり、弁当は個人の生活リズムと文化を詰めた箱なんだ。両者は似ているようで、目的がまったく違う。軍隊食は栄養・保存性・携行性が最優先だ。古代ローマ兵は穀物・油・乾燥食を携行したし、アメリカ軍の歴史では、千七百年代は肉にパンにビール、千八百年にラム酒が配給されていた時期もある、二十世紀以降は、科学的栄養管理が進み、MRE(個食パック)が登場してる。ちなみに日本の戦国時代の兵糧も忘れてはいけない、餅が理想的な軍用食とされ、「腹持ちがよく、脳を活性化する」と記録されている。まず、弁当は彩りや季節感や個人性を重視するけど、軍隊食は均質性、大量供給、腐敗防止が絶対条件だ。つまりロシアの社会主義みたいな感じなんだね、で、僕は軍隊っていうのは結構重要なポイントだと思っていてね、数年後か、数十年後かには必ず僕等の暮らしの中に、取り入れられていくものもあるんだっていうこと。で、弁当というのは、料理の文化であると同時に、容器の文化でもあるっていうことなんだ。日本の弁当箱は、世界的に見ても異様なほど進化している。曲げわっぱ、アルミ弁当箱、タッパー、真空断熱、汁漏れ防止パッキン。一つの箱の中で、米と汁気のあるおかずを共存させるという矛盾を、日本人は百年以上かけて解決してきた。弁当箱は、小さな建築で、仕切りは壁、蓋は屋根、ご飯は大地で、おかずはそこに建つ家だ。―――と言ったら、ちょっと盛り過ぎのような気がするけどね(?)けど、戦後の日本では学校に弁当を持ってこられない子供もいた。まあ、いまだって貧困家庭は普通にいるわけだから、弁当を持ってこれない子供もいるだろうね。あれってさ、生活保護の問題もあるんだ。下手に働いていると、きちんとしたお金が下りなかったりする。お役所仕事かよっていうけど、それで人が死んでる例もある。ユニセフがどうとか言う前にそういうところを、見直すべきじゃないかと思うよ。でね、戦後の教室では、弁当の時間になると弁当箱を隠す子供がいた。空っぽの子供もいたというね、日の丸弁当のパターンもあったと思う。パンの配給が始まり、学校給食が生まれた。弁当という文化は、実は貧しさの歴史と並んで歩いているんだ、そして巡り巡って、中学生や高校生の貧困家庭の子供達が、給食がなくなって困ったりしていてね、そういうの分かってあげられるのは、やっぱりそういう目に遭った子供が大人になったりした、そういう時だけだったりしてね。人に優しくするっていうのはあるけど、あれも違うと思うな、自分が受けた嫌なことを誰かにしたくないだって正しいんだよ。優しさなんて曖昧なモノサシじゃない、もっと切実なものだよ、もう一人の自分を救うことだからね。ところで、僕は子供もいないので、弁当を作ったりする機会は皆無に等しいはずなんだけど、基本的に何でも数回はこなすようにしている。折角のチャンスだからね。二者択一だけど、どちらが少ないか多いかで価値観は生まれる、物事を見抜く目はそういうところにもあると思わない?自分で料理をするようになると、人が料理しているのを見る時の見方が変わる。もっとこうしたらいいのに、とか思うようになるし、苦労を知っていると余計な口を挟まなくなる。逆の場合もあるかも知れないけど、それはそいつの根性がひん曲がっているんだ。弁当の話でいえば、冷凍食品はありがたいよね、詰め込むだけでいい。炊飯ジャーをパカッと開いてごはんをもりもり入れてさ、冷凍食品詰め込むだけでいい。何処かで読んだな、それだけの手間だけど、その手間を誰かがやってくれることに愛を感じるって。世の中には、冷凍食品を詰めるだけの弁当を手抜きと言う人がいる、(実はそれが夫や、子供だったら辛いところだけどね、そういう時は明日頑張るって言ってやれ)でも、冷凍食品は、冷凍庫という時間を止める装置と、工場という不特定多数の誰かの技術の結晶だ。便利だからやる、効率的だからやる、みんなそうやってきたんだ。それを詰めるだけという最小限の行為で、誰かの昼を満たすことができる。これって考えようによっては、色んな愛の在り方じゃないかな。冷凍食品の弁当に愛がないとは言えない。むしろ、冷凍食品のパリッと感と、自分で作った卵焼きのふわっと感が同居している弁当に、賢さと諦めのバランスがあるわけだよ、それもまた、人間の機微だ。弁当箱を開けた瞬間、蓋の裏にうっすらついた水滴や、昨夜の匂いがふわっと立ち上る。それはただの湿気じゃない。前日の残り物が、今日の新しいおかずと共存を拒否している証拠だ。ご飯の粒が少し固くなり、梅干しの赤がにじんでいないか、そんな些細な変化に、作り手は一瞬で気付く。春は桜の塩漬けや菜の花の苦味、夏は冷やしトマトやキュウリの浅漬けで水分を吸わせ、秋は栗やきのこで土の香りを、冬は根菜の煮物で温もりを閉じ込める。弁当は、ただの昼飯じゃなく、四季を小さな箱に押し込めたタイムカプセルでもある。でも、残り物を詰めるときだけは、季節なんか忘れちゃうんだよね?ところで、弁当箱の中には奇妙な生態系がある。おかずとおかずの間を仕切る、あのギザギザの緑色のプラスチック。「バラン」と呼ばれるあれは、元々はハラン(葉蘭)という本物の植物の葉っぱだったわけだが、今や完全に石油から生まれた緑色の偽物にすり替わっている。自然を模倣しながら、絶対に腐らないというパラドックスだ。そしてその横には、赤いキャップを被った魚の形をした、「醤油差し(タレ瓶)」が横たわっている。海を見たこともないプラスチックの魚が、黒い塩水を腹に抱えて、卵焼きや唐揚げの隙間でじっと息を潜めている。これってよく考えると、かなりシュールで不気味な光景だと思わないか。人間は、閉ざされた小さな箱の中にわざわざ、「偽物の自然」を配置しないと気が済まない生き物なんだ。徹底的に人工物で満たされた空間に、せめてもの記号としての緑と魚。僕らは無意識の内に、そのプラスチックの葉っぱに、何かを赦されているような気になっているのかな、文明終了のカウントダウンは終わるちょっと前の世代、もうこれ以上は駄目だっていう人々が鳴らすものらしい。なんか、そんなことを思い出すね。さて、弁当屋は揚げ物には四分、トンカツは六分揚げとけば問題ないと聞いたことがある。(あとは余熱で仕上げるのが定番だね)揚げ物のピークは昼前の十時三十分から十一時三十分。唐揚げは揚げすぎると硬くなる、揚げ足りないと油を吸う。ただ、僕はとあるファーストフード店でかつ丼を食べた時に、つくづく思ったことがある。人がいない時のかつ丼は美味い。丁寧に、時間配分を考えて、するべきことをしているからだ。正確かつスピーディにこなせれば問題ないと思ってる人もいる。嘘だ、味が全然違って僕はビックリした。他にも、慌てていたり、忙しいと思われた時は帰った方がいい。ベストでないものを食べるぐらいなら自分で作った方が美味しい。とある名店の味と称した洋食屋さんに行った時、嘘偽りなく、僕が作ったトンカツの方が美味かった。「そんなことあるかって思う人」は世の中を全然知らない、「そんなこともあるだろうって思う人」になろう。ちなみに玉子焼きは巻き手の技量で味が変わり、ポテサラはじゃがいもの水分量で毎日違う。きんぴらは大量に作ると味が薄くなるので調整が必要だ。話は逸れるけど、のり弁当の海苔には、ご飯の上で切れ目が入っている。あれは単に食べやすくするためだけではない。あの切れ目は、規則正しいようでいて均等ではなく、作る人の手癖が出る。海苔の切れ目の間隔が広すぎる人は大雑把で、細かすぎる人は几帳面すぎる。海苔一枚でここまで作り手の性格が出たりするんだよ、だからってわけじゃないけど、僕はのり弁当が好きだな、醤油をピッとかけて、海苔の下には鰹節なんかがあると幸せだね。さて、弁当屋のバイトの話の続きだけど、年間を通して、様々なメニューを調理するので、食材や調理方法に詳しくなるというメリットがある。「女性でも料理ができない人」がいる時代に、「(だからこそ)女性でも料理ができる人」というウリができる、これはどう考えたってありがたいことだ。人が飲食店へ行くのは何故だろう、自分で作れる料理を食べるのは何故だろう、「面倒くさい」からだ、「(だからこそ)面倒くさがらない人に需要がある」のだ。とあるラーメン屋では客が来てテイクアウトをしたいと言ったら、断っていたのを一度見たことがある。そしてその言い方というのがすさまじかったのだ。僕はその瞬間、この店は潰れるなと申し訳ないけれど思った。人って正直だ。崎陽軒の「シウマイ弁当」は一日に約二万三〇〇〇個!まったく意味がわからん、正直な意見だ。すごいってことだ。鳥取和牛のギガ盛りで二十九万弁当というのがある。まったく意味がわからん、みんなそう思う、すごいってことだ。力士によって中身が違う「横綱大関弁当」これはまあ、分かるかな、ちょっとした違いなんだよね、きっと。子供の頃に食べた弁当のことをふっと思い出す、いっぱしの野球少年だった僕は、グラウンドの隅に、汚い雨よけみたいな屋根付きのところがあって、そこで、弁当を食べたことを思い出す。美味しいとか不味いとかでは単純に割り切れないものがある、そこでの匂いとか、懐かしさとか、優しさとかいうものは、死角を作り出す。世の中って面白いと思うんだ、本を読めば分かるセミナーで、何一つ得ることもないのに通い詰めるようなものでさ、(その本もろくでもないことしか書いていない、いやこれは失敬、)駅弁を食べるだけで満足する輩も一定数いる。僕は駅弁を食べるなら、地元の駅弁ではない弁当を食べたいと思う人間っていいなと思うね。そしてもう一度、駅弁を見て欲しいんだ、どうして包装はビニールじゃなくて紙なのかってね、これはただの移動用の食事じゃなくて、非日常の許可証なんだと気付くから。色んな価値を感じるポイントってあるわけだよ、そこからもう一度、弁当について考える機会が僕にはあった。きっとそれはみんなにとってもそうだと思うんだよね。街が寝静まった午前三時、煌々と白い蛍光灯が照らす窓のない工場で、無数の弁当が生まれている。頭からすっぽりと防塵服を被り、目元だけを出した人間達が、ベルトコンベアの両脇に等間隔で立っている。彼等の仕事は、流れてくる黒いプラスチック容器の決まった位置に、決まった角度で、プチトマトを一つ落とすこと。あるいは、マカロニサラダを規定のグラム数だけ絞り出すことだ。そこには「誰が食べるか」という想像力も、「美味しくなれ」という感情も介在しない。ただ圧倒的な均質性と、衛生管理という名の潔癖症だけが支配している。僕等の社会は、こういう見えない場所での、徹底したマニュアル作業によって胃袋を支えられている。公園のベンチで、一人スマホを見つめながらコンビニ弁当を咀嚼する若者。深夜の工場で、無心でトマトを落とし続ける労働者。両者は決して顔を合わせることはないが、パッケージ越しに、現代の孤独と孤独が密やかに交差している。手作り弁当が家族という共同体の縮図なら、工場生産の弁当は、分断された現代社会の完璧なメタファーだ。テクノロジーという奴が弁当に手を伸ばし始めて、もう随分と時間が経つ。フードデリバリーアプリが普及して以来、「弁当を作る」という行為と、「昼に何かを食べる」という行為は、もはや同義ではなくなった。UberEatsのバッグを背負った自転車が、オフィスビルのエントランスに吸い込まれていく。あの中に入っているのは、果たして弁当なのだろうか。容器の形は似ているし、昼に食べるという機能も同じだ。でも、誰かが朝の六時に起きて詰めたものとは、何かが根本的に違う気がする。それを「配達されてきた食事」と呼ぶのか、「現代の弁当」と呼ぶのか、まだ言葉が追いついていない。AIが献立を考える時代になった、というのも聞く。冷蔵庫の中身を写真で撮ると、AIが残り物で作れる弁当のレシピを提案してくれる。栄養バランスも計算してくれる。「今日は鉄分が足りていないので小松菜の炒め物を推奨します」と言ってくれる機械は、果たして愛情を持っているのだろうか。正確な栄養管理と、心の込もった弁当は、比べることに意味がないくらい別物だと思う。でも、共働きで朝五時に起きる必要がなくなるなら、AIの提案に従うことを「愛情の委託」と呼んでもいいんじゃないか。人間の仕事というのは、いつもそういう委託の歴史だったわけだから。SNSに弁当の写真を上げる文化も、すっかり定着した。インスタグラムには「#お弁当」のタグが溢れている。誰かに見てもらうために弁当を作る、という動機が生まれた。それは虚栄心なのか、それとも承認を求める真っ当な人間の欲望なのか。どちらにしても、弁当箱の蓋を開ける相手が、目の前の一人から、画面の向こうの数千人へと拡大した事実は重い。「今日もありがとう」と言ってくれる人が一人もいなくても、ハートのマークが三百個つけば、また明日も早起きできる。それって少し、悲しいような気もするけど、少し、美しいような気もする。ちなみにパリでは二〇一〇年頃から日本式弁当が流行し始めた。きっかけは日本のアニメだ。キャラ弁文化がSNSで爆発的に広がった。昔のフランスは昼休みが長く、家に帰って食べる文化だったが、不景気で外食が減り、弁当文化が浸透。パリのリヨン駅では日本の駅弁をテスト販売し、幕の内やおにぎりが人気。フランス人は「軽い」「重い」を選べる日本の弁当を高く評価している。「aigre-douce(甘酸っぱい)」味付けがフランス人に刺さる。かように日本式弁当が「BENTO」として流行ってる。アニメの影響でキャラ弁を真似する若者もいれば、「小さい箱にフルコースが入る」という合理性と美しさに魅了される人もいる。アメリカのブラウンバッグ(紙袋にリンゴとクラッカー)とは大違いで、仕切りを活かしたバランス食や、ミールプレップ(作り置き)ツールとして評価されてる。フランス人は「甘酸っぱい」味付けを気に入り、温められるスマート弁当箱まで出てきた。でも、日本人で「海外でBENTOが流行ってる」と聞いて、「うちの日常が、そんなに特別だったのか」と少し照れる人もいるんじゃないだろうか。僕も、フランスの弁当箱ブランドが日本製の曲げわっぱを、オマージュしてるのを見ると、なんだか複雑な気持ちになるね。誇らしいような、ちょっと悔しいような。ただ、日本が褒められても、あなたが褒められてるんじゃない、そこにはジジババにウケを狙う偏向報道の在り方がある。外国人意識調査なんて最たるものだ。日本なんか死ねばいいし、明日原子爆弾落ちればいいっていうぐらいの、ヘイトスピーチ聞かなきゃ分からないなんて可哀想な人達である。アメリカの従来の弁当は「ブラウンバッグ」に、リンゴ・クラッカー・クッキーだ。歯医者に行ってなんかよく分からないアニメーション動画が流れていて、九十三パーセントのアメリカ人が虫歯だとか書かれていたのを思い出す。でもアメリカって虫歯にならないように歯医者に通う文化で、これはアメリカの医療費が高いのと同じ理屈で、虫歯を治療すると馬鹿みたいにお金がかかるからだ。アメリカ警官役はとりあえずドーナツとコーヒーみたいなものだね、ハルキムラカミの馬鹿な文章しか思い浮かばない。多くのアメリカ人は半年に一回、歯科医院で歯垢や歯石の除去、検診を衛生士から受ける。ごめん、近頃歯医者に通っていてね。でも日本式の多種類から選んで詰めてもらう弁当が革命的に受けた。健康志向の高まりで弁当箱文化が浸透し、弁当箱は「食事量をコントロールできるツール」として人気だ。ホーチミンは米が主食なので日本式弁当が入りやすい。ただし屋台文化が強く、完全に置き換わるわけではない。それでも現地調味料を取り入れたローカライズ弁当が進化中らしい。韓国では十八世紀の記録に既に存在し、日本統治時代に弁当文化の影響を受け、韓国独自のバンチャン(副菜)文化と融合して進化した。戦後はアルミ弁当箱が普及し、冬は学校のラジエーターの上で、温める習慣があった。二〇〇〇年代以降、ノスタルジーとして再評価される。現代はコンビニのトシラク市場は二.五兆ウォン規模。八〜十五種類の弁当が常時並び、韓国式家庭料理の縮図として機能している。とはいえ、キムチは嫌い(好んで食べたりしない)ハンバーガーの方が好きっていう若者も増えている。僕もこういう馬鹿な書き方をして長いわけだけど、みんながそうではないからと強調しているだけだ。普通に考えれば辛いものが苦手、キムチは苦手と思う、韓国の人だって普通にいるわけだ。報道は絶対にされないだろうけど、反日運動を、こいつらは何を馬鹿なことをやっているんだと思う、そういう韓国人の方だって普通にいるわけだ。まあ、僕も日本って大嫌いなんですけどね(?)インドのダッバーワーラーも忘れてはいけない。僕はショート動画や、あれって違法じゃないのかな、YouTubeはすごいなと思うインドの動画で拝見したことがある。世界最強の弁当配送文化だ。一八九〇年にムンバイで誕生した人力物流システムで、一日二十万個の弁当を、五〇〇〇人のダッバーワーラーが配送する。配達ミスは六〇〇万回に一回以下という驚異の精度だ。(ただインドの人を僕は個人的に信用しないので、話半分に聞く、でも相手が詐欺師や嘘吐きでも、それを正直に話す馬鹿はいないのだ)彼等は色と記号だけで仕分けを行う、識字率が高くないためだ。自転車・列車・徒歩で都市全体を縦横無尽に動く。ところがそのダッバーワーラーも、今は岐路に立っている。スマートフォンの普及で、フードデリバリーアプリが台頭してきた。Zomato、Swiggyといったインドのデリバリーサービスが、ダッバーワーラーの縄張りを侵食し始めている。百三十年以上続いた人力物流の精度が、アルゴリズムと競争しなければならない時代が来た。一つの文化が、データに負けるかもしれないという話だ。それは弁当の話であり、人間の話でもある。そういえば京都発「Bento&co」へ一度行ってみるのはどうだろう、フランス人オーナーが京都で弁当箱専門店を開き、世界に広めた。曲げわっぱ、三段弁当、忍者デザイン、乾氷ホルダー付きなど弁当箱の進化がすごい。フランス人デザイナーが作った汁漏れしない弁当箱も登場している。全然関係ないけれど、チェーン店の弁当屋でも味が違うことがある。もちろん同じように作っているはずだし、そんなこと説明上は起こりうるはずがないのだ。けれど、何故かすごく美味しいと思う。別にそれをして、「〇〇弁当の味きき」をしますよ、とかいうことではなくて、ごくごく純粋に本当にそう思えたのだ。純粋の路線でいえばだが、できたての熱々が一番美味い。料理におけるその絶対的な真理を、弁当はあっさりと裏切る。弁当とは冷めることを前提としている。朝の七時に詰められたご飯は、昼の十二時になる頃には適度に水分が抜け、冷たく、少し硬くなっている。だが、その冷めたご飯だからこそ、おかずの味が引き立つという現象が起きる。唐揚げの衣は湿気を吸って少しへたっているし、卵焼きの断面には隣にいたナポリタンの赤いケチャップが、不格好に色移りしているけど、これがいいんだ。弁当箱の中で数時間、異なる食材たちが密室に閉じ込められることで、匂いや水分が互いに干渉し合い、朝の時点では存在しなかった、新しい一つの味へと変質している。これを劣化と呼ぶか、成熟と呼ぶかで、人生の楽しみ方は随分と変わってくる。妥協の産物であると同時に、時間経過だけが作れる熟成。弁当箱は、開けるまでの五時間や六時間を調味料にしてしまう、小さなタイムカプセルでもある。で、感じ方、受け取り方もあるとは思うんだけど、その時に店がせせこましくなくて綺麗だったし、接客もよかったって刷り込まれた。あと、何となく店の雰囲気がいいなというのを思った。この何となくが実は一番ポイントが高い。そればっかりは、僕の感性における経験上、作れる類のものではないからだ。だから本当はありとあらゆることそこを目指さなければいけない。美味しい弁当屋というのとは違うかも知れないけど、いい弁当屋っていうのは僕の経験上そういうものだ。
2026年03月29日

(も う い い ん じ ゃ な い の ・・・ ///あ と も う す こ し 仕事の連絡先、顔見知りの顔、通りすがりの視線。 それらが織りなす、ほのかな連帯感のようなものを、 盲目的に、裸の感覚で信じて―――る、 でも長い間、人とのかかわりを避けた僕には、 見知らぬ街の、借り物の部屋の感覚は生涯消えない・・。 襟元から覗く鎖骨の線が、 まるで宋代の青磁の縁のように繊細で、 控えめな微笑みの端に、過去の傷を隠すような影... 筋肉の量や反射神経の鋭さではなく、 世界に対して真正面から立ち向かうための 構造体としての身体―――で。 凍った鱗が光り、 腐りかけた鮟鱇の腹が裂けている、 み.た.い.だ. 愛は、人間の無力さを痛感させる、 その低圧力の中へ、物理学的に、 まるで気体分子が真空へ向かって拡散するように、 自然に滲透する。 量子力学の不確定性原理を思わせるほど、 予測不能で、しかし必然的だ・・・・・・・・・・・・。 だ.と.し.て.も. 「「「解像度を上げて壊れ始めるHologram ギリシャ神話のオルフェウスの喪失から、 平安朝の『源氏物語』の無常観へ、 現代の神経科学が解くところの、 「愛着ホルモン」のオキシトシン分泌まで。 嫉妬と孤独の業火に身を苛まれた女の苦痛の質量、 ―――なんて僕が知らないと思っている。 (も う い い ん じ ゃ な い の ・・・ ///あ と も う す こ し ダダイスムのコラージュのように断片的だけど、 リアリティの核心、人間の愛が、 悟りの高みからではなく、迷いの泥濘から湧き出る証拠さ。 石畳の継ぎ目、電柱から電柱へと弧を描きながら垂れ下がる電線、 街路樹の根元で持ち上がったアスファルトの亀裂。 風が来れば、その表面に波紋が立ち、その静けさが壊れる。 僕は今、何一つ壊れてほしくない。 壊れやすいものたちが、壊れずにいる、 その束の間の均衡の中に、僕はかろうじて立っている。 ―――答えはもう、一つだけで、いいんだ・・。 あれほど長い間、 骨の奥深くで震え続けていたあの予感めいた恐怖が、 気付けば跡形もなく消え失せている。 その空白が、逆に奇妙な重さをもって、胸の底に沈殿している。 、、 、、 、、、 、、、 空間と時間の不思議な裂け目の中で。 薄汚れたキャラコ地のワンピースの皺までを、 ヤン・ファン・エイクのフランドル絵画のように、 鮮明に現前させながら、 シネマトグラフの残像のように明滅し、 朦朧たる姿となってはまた虚空へと溶けていく。 、、、、、、 おびただしい虚構の骨髄の最深部に。
2026年03月28日
今日も今日とて、朝の四時とか五時に起床する。脳の何処かに埋め込まれた犬型概日リズム回路が作動する。湿ったアスファルトからは昨夜の雨の匂いが立ち上っているが、もう既に犬としての心構えは、、、 、、、、、、、、、、、、、、、、、、いや、犬としてのログイン準備は完了している。人間の嗅覚受容体は約四百万個だが、犬は二億〜三億個。つまり嗅覚感度は数十倍以上。もちろんわたしは人間なのでその能力はない。(ただセンパイ曰く、この説が覆る説はあるらしいとのこと、まず、嗅覚には様々な捉え方があるのではないか、と)しかし想像はできる。いや、想像力を総動員する。もし本物のゴールデンレトリバーだったら、もし犬だったらこの郊外の場所は、パン酵母、新聞インク、排気ガス、木材、土壌微生物、そういったものが匂いの地図のレイヤーとして、バッキバキの3Dで広がっているはずだ。目に見えないものが世界を作っているというのが、実は身近な犬の中にもあるという驚きだ。、、、、、、、 、、、、、、、、、、しかしわたしは、もう犬になりつつある、、、、、、、、 、、、見えているのだ、それが(←いやそれは無理だろ)勝手知ったる顔でセンパイの家へ侵入し、(もちろん、毎回許可を取る、時には手土産も辞さない、コンビニの新作スイーツとか、父上君の好きなクラフトビールとか、母上君の好きそうな焼き菓子とか、親しき仲にも礼儀あり、である。社会学者マルセル・モースによれば、贈与とは社会関係の持続装置だ。その一回は最後の一回と思え、ゴンブローヴィッチの儀式化された身振りのように、それぐらい慎重にトンカチで橋を叩いてぶっ壊して、川の舟をトンカチで壊してわざわざ別の道を進むぐらいの、ただ余計なことをしているだけかも知れない感じに見える、慎重という名の張り巡らされた既定回路)センパイの家のトイレで服を着替えて、 ゴールデンレトリバーになる(?)全身タイプのゴールデンレトリバーの二代目の着ぐるみ、センパイの母上君と一緒に作った二十時間の大作(?)発泡ウレタン骨格、人工毛皮、メッシュ通気層という三層構造。暑さ対策として背中には小型PCファンが内蔵されている。口元の開閉機構、耳の角度調整ワイヤー、尻尾の振動センサーはハイテクだが、同時に耳や尻尾に触ってもらえなくなるのではないか問題があり、口元に関していえばごはんが食べづらい問題があり、見送った。犬のリアリティを追求するべきところと、犬としての娘のポイントを併せて追及する、すべては可愛らしくあらねばならないという、マグダ・サボー的家の掟の中で、世界でただ一匹のゴールデンレトリバーガチ勢(?)血の滲むような修練の日々がある、犬とは何か、犬の動きとは何かを考え続けた日々がある、犬の重心、犬の歩幅、(歩行時と走行時で前脚間の距離が二・三倍に開く。これは肩甲骨が肋骨に固定されていないためだ。犬は肩甲骨が浮いている。四足動物の進化の妙である、)犬の呼吸、(安静時は一分間に十回から三十回、興奮時は二百回を超えることもある。すなわち犬は呼吸するというより空気をポンプのように循環させる生き物、いや、センパイならこう言うな、ヴォルフガング・ヒルビヒの工場の送風機のように循環させる生き物、)犬が首をかしげる角度、(平均して十五度から二十五度、左右どちらかに偏る個体差あり、犬が首を傾げる理由については近年面白い研究がある。ハンガリーのブダペスト大学のミクローシ研究室によれば、言葉を理解する犬ほど首を傾げる頻度が高い。つまり「あれ何だろう」ではなく、意味処理の副作用らしい。犬は考えているのだ、)犬が耳を伏せるタイミング、(警戒時は前方、服従時は後方、リラックス時は半開き、)犬がわかっていないふりをする時の眼の泳ぎ方。そういうものを、動画サイトで柴犬やゴールデンレトリバーの再生リストを作り、スロー再生し、コマ送りし、ノートにメモまで取りながら考え続けた日々がある。もちろん同胞のパトラッシュから学んだことも多々ある。盗めるスキルは全部盗む。今日という何気ない一日ですら、犬生態学のフィールドワークなのだ(?)いや、センパイならきっとこんなわけのわからないことを言う、それは犬哲学舞踊生態学の舞台なのだ(?)何しろ犬であるとは、『犬のように振る舞うこと』ではなく、『犬であると信じ切ること』である。裸の王様である、自己暗示、自己洗脳、その効果の薄さは演技力でカバーする。しかしここで重要なのは犬の行動は演技では再現できない、ということだ。動物行動学者コンラート・ローレンツは、刷り込み研究の中でこう書いている。、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、動物は振る舞うのではなく状態として存在する。つまり犬は、犬っぽい動きをするのではなく、犬の状態に入る、それが必要だ。わたしはノートで何遍もそのことを書いた。、、、、、憑依させろ。、、、、、、、、 、 、、、、、、、、、わたしはノートに、我、犬なりと百回書いた(←別の努力をしろ)さて、トイレを開け、廊下を渡る。犬の歩行音は人間より静かだ。何故なら犬の足裏には肉球がある、時折爪があたるような音が聞こえることもあるが、このまがうかたなき衝撃吸収装置の、微細な音響工学的な美しさは言葉にし難い。わたしはその再現のため徹底的にそろりそろりと重心移動する。二階へと続く階段をそろりそろり四足歩行していると、 近頃トイレが近いセンパイの父上君とバッタリ。パジャマのズボンの裾が少しだけ擦り切れていて、Tシャツはライブハウスの物販で買ったらしい、どこかのバンドのツアーTシャツ。寝起きの髪は妙に整っていて、テレビで拝見する凛々しい姿とは違うが親近感が湧く姿だ。いや、もしかしたら足音に気付いて挨拶に来たのかも知れない、そこに閉ざされた時代の裂け目は見えるか、秋葉原のような悲しさは見えるか(?)アナログレコードとサブスク、カセットテープとプレイリスト、そういう断層が、この階段の途中に、目に見えない地層のように積み重なっている。彼は敬礼し、階段をすすみやすいように脇へ寄るので、軽く首をしゃくるようにしてから、一歩一歩、四足歩行で進む。犬の社会行動にはカーミングシグナルというものがある。ノルウェーのトゥーリッド・ルーガスが提唱した概念。例えば目を逸らす、身体を横に向ける、ゆっくり動く。争いを避ける行動。父上君の脇へ寄るという動作はほぼそれだ。つまり人間も犬化する。わたしは軽く首をしゃくる。これは犬の社会的受容ジェスチャー。、、、、、、、、、、、ここには犬の通路がある。センパイの部屋はすぐである、ドアを開けようと、犬の可動範囲内で後ろ脚で踏ん張りをつくり、 腹を覗かせながら前脚をがばっとした時、 ―――この姿勢が最も不自然で、かつ最も犬らしさを要求される。腹を見せるのは服従のサイン。前脚を上げるのは甘えのサイン。二つのシグナルを同時に送ることで、人間の警戒心を最大限に和らげることができる。これは同胞のパトラッシュから学んだ高等技術である。ハッと視線を感じたら、 ガーデニングが趣味のセンパイの母上君がこちらを見ている。季節ごとの花の植え替え、春はチューリップとパンジー、夏はペチュニアとマリーゴールド、秋はコスモスとシクラメン、冬はビオラとプリムラ、それから家庭菜園のトマトの出来具合、そういうものをすべて掌握している、(ちなみに犬の嗅覚は単に「強い」のではない。空気の時間差を読む能力がある。左右の鼻孔で数ミリ秒の差を検知し、匂いの方向を特定する。つまり匂いを立体的に聴く、それが犬の世界である、)自然を味方につける偉大な魔女のそれであり、それは風水なのだ(←という意見もあります)彼女はこの家の最高権力者である。 ボスである。 恐れは微塵も感じないが、同朋の、 パトラッシュ殿が尻尾を下げるように、 停止を余儀なくされる。お互いを見合った相撲のような数秒後、 センパイの母上君は親指を立てる(?)それから、独り言のように静かに言われた。「朝御飯はちゃんと食べさせてもらうのよ」と(?)コウハイレトリバーたる犬のわたしは、一度だけ肯き、くうん、と鳴いておいた。犬だって甘えた声を出すべきだと考えるようになった(?)母上君は、わずかに、本当にわずかに口元を緩めた。それだけだった。だが、それで十分だった。彼女は踵を返し、階下という名の深みへと吸い込まれていった。そしてそれが突然、わたしのところまで広がってきて、わたしのすぐそばまでやって来て、もはや想像ではなくて、現実のものとなり、それはまさに起こらんとしていた。、、、、、、、、、、、、、、、、、、、グウスカしているセンパイの顔を確認して、 たしゅっ、と右の前脚で頬にソフトタッチし、たしゅっ、と左の前脚で頬にソフトタッチする。頬の肌は、寝汗で少しだけしっとりしていて、髭の剃り跡がうっすらとざらついている。それは大体、ご褒美の類である。犬の接触行動は実はかなり複雑だ。犬は前脚、鼻、舌を使い分ける。前脚タッチは注意喚起行動。鼻タッチは親和行動。舌は社会的グルーミング。わたしはまず、その第一段階に留める。本当に起きないなと思っていてもセンパイはいつも忙しい、およそ用事がなければ、本を読んでいるかギターを弾いているかの二択である。(ちなみに何故かピアノやトランペット、ベースにドラムまで叩ける、編曲や、mix、マスタリングまでこなす、楽譜も書ける、)部屋の隅には、フェンダー・ストラトキャスター(アメリカン・ヴィンテージ'62)ギブソン・レスポール(スタンダード)そして——これは珍しい——リッケンバッカー・330。アコギはマーティンのD-28。ベースはフェンダー・ジャズベース(アメリカン・プロフェッショナルII)壁には吸音材、AuralexのStudiofoamが、計算された間隔で貼られている。机の上にはオーディオインターフェース、モニタースピーカー、ヘッドホン、ケーブルが絡まり合った神経叢のような巣。(しかし難しそうな本がいっぱいある本棚が一番目立つ、哲学、文学、社会学、音楽理論、音響工学、心理学、脳科学。カッコよさと知識のイメージがそこにある、)本当にこもりたい時は地下スタジオや、都内某所にあるスタジオへ行くこともある。音楽が中心の十代の若者というのは、そういうものだ。父上君知り合いのライブに参加したりすることもある。その隙間時間を縫わなければセンパイはするべきことが山積みだ、コウハイレトリバーの仕事は寝込みを襲うところから始まる(?)だが、淑女な犬たるものすなわちコウハイレトリバーというのは、唇なめたろかと思ってもなめてはいけない、これは第一の掟である。舐めるという行為は犬の愛情表現としては最も自然なものだが、人間の文化圏においては様々な誤解を生む。、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、犬は夜這いの延長線にあるような存在ではない(?)やはりまず、ポリシーや流儀として、ベッドの足元から侵入し、ぎっ、ぎっ、と踏み込んでゆく。音からして既に高そうなベッドで、マットレスはポケットコイル、シーツはやらしおだ、高級ホテルのリネンの、アルフォンソ・リンギスが旅先で触れるような手触り。寝込みをこうやって襲って十数回になってふと思うわけだが、センパイはちょっと真面目すぎるなと思う。女遊びをしていたらそれは色んな意味で悲しいわけだが、いまみたいな熱量で向かい合っている音楽との距離感は、おそらく二十代前半や後半、もっても三十代前半には、アドレナリンみたいに消えてゆくものではないかと思う。センパイはあのルックスで、あの身長で、この持って生まれた家庭環境で、頭もよく、音楽的才能にも恵まれているのに、何しろ、本当に何しろ、売れていないミュージシャンは沢山いるということや、バイトや正社員に悩みながらスタジオやライブへ向かう、鬱になってアニメを観ている話などを知っている。腰が低いのだ。メジャーデビューしてもチャンスはたったの数回、渾身の楽曲だ、名曲だ、評価されたい、この生活を抜け出したい、そうやって出したものがけんもほろろな雑な扱いを受ける。そういう評価されない楽曲が、わけのわからないアイドルより低く評価されたりする。(でもその曲を作っているのは音大出だったり、時には会社が抱え込んだ作曲家だったりする、シビアなものだ)だからだろうか、あんまり自分に優しくない。お金持ち特有のおおらかさはあっても、根本ストイックだ。だから自己を律して、もしかしたら親の七光りと呼ばれないように、真摯に向かい合っているのかも知れないが、最後に残るのはヴァルター・ケルン的な、湿度と疲労の染み込んだ圧倒的な虚しさだけだ。世界はいい加減なものだ、努力をする人間は疲弊する、いつの時代もそうやって何べんとなく繰り返されてきたことだ。その内、洗濯機にコブラがいるインドで、出家してギターを弾いているかも知れない。あと、服を売って生計を立てながら、ピラミッドとはいいものだとメールを送ってくるかも知れない。―――それは確かに妄想なのだが、センパイの思考回路は、イギリスとかアメリカではないなと思う、もしかしたらアフリカかも知れない、トラやライオンは可愛いなとメールを送ってくるかも知れない、動物園へ行け、絶対に阻止しよう(?)センパイの何処かズレている理想主義は、わたしが思うところ、メジャーレーベルの中にはない気がする。インディーズかというと、そうでもない、でも発信する時代だ、きっとこの人なりの、自然な立ち位置を見つけて何となく楽しそうにしているのだろうと思う。犬なりに思うところ、オーラがある人っていうのは周囲が放っておかない。まあ、そんなこんなで布団にもぐりこみ、枕に染み込んだ虚しさの匂いを犬は敏感に嗅ぎ取り、同胞のパトラッシュが来て目配せの挨拶をし、国境警備の任の重大さを認識する(?)ベッドの上と床の上、布団の中と外、人間の領域と犬の領域、そこには目に見えない国境線がある。蜘蛛は獲物を銜えた状態でぶら下がり、毒が効いてくるまでの数分間をその状態でいることもある。 また自身の巣に触れた昆虫があった場合には巣から出てそれを捕らえる。 、、、、、、、、―――いきものの不思議(?)あと一時間か二時間はこんなことをしているのかと思ったら、センパイが早く起きた。今日はパトラッシュより早く朝の挨拶をし、とりあえず、可愛がられている犬のように唇を舐めて置いた。そこに一切のやらしい気持ちはない、だが、いただくものはいただくのがコウハイレトリバーの流儀(?)「おお、おはよう、コウハイ、お前、今日も早いな・・・・・・」寝起きの声は少し掠れていて、まだ完全に人間界に戻ってきていない。もちろん朝のコウハイレトリバーにとってマッサージは欠かせない、とりあえず耳をひしゃげるように頭を押し付けるところから、構ってちゃんモードに水平展開する(?)首筋を撫でられ、耳の後ろをかかれ、背中をさすられ、時々、肩甲骨のあたりをぐりぐりされる。それは触覚の哲学であり、快楽の形而上学だ。表情はおでこでも引っ張られているように崩していく(?)しかし夜の紳士達が好むような展開には一切ならない、高校生男子の性 欲をなめるなよと言われそうなものだと思うが、やはり、自制心というのは生まれついてのものだと思う、あるいは動物か人間かというのは、犯罪に対する価値観の高低から出発しているのかも知れない。でも、もちろん犬というのは胸を顔に押し付けてアピールしたりするし、偶然股間に前脚を置いてしまうこともある(←わざとだよね?)いやー、不可抗力っすね! わたし、犬なんで!!(確信犯)、、、 、、、イナー! イナー!犬とはそういうものだ。そういうものなのだ。少なくとも、コウハイレトリバーとはそういうものだ。偶然を装いながら、確実に領域を広げていく。それが犬という生き物の、三万年にわたる人類との共生の中で編み出した、最も洗練された戦略なので―――ある。だが、今日は挨拶もそこそこに、パトラッシュを外へ出し、部屋に戻ってきたセンパイは、母上君の作った、なんでこんなに大きいのか、と誰もが思うレベルの、直径三十センチ、厚み十五センチ、もはやケーキというより、地質時代の断面と呼ぶべきデザートのいっぱい入った、白い塊を持ってきた(?)スポンジの層、生クリームの層、苺やキウイや缶詰のみかんの層、カスタードクリームの層、上にはさらにホイップと苺とミントの葉。母上君の料理の上手さは知っているが、ことスイーツに限っても、手作りのフォカッチャ、アップルパイ、ティラミス、それらを何度もいただいてきた。胃袋で男のハートを掴むという魔女の教えは偉大だ、そしてそれは風水なのだ、治水なのだ(←という意見もあります)このサプライズには犬なりにくるものがあった。「ほら、コウハイ、今日は特別だぞ。母さんが作ったケーキだ。朝からテンション高いな、食べるか?」コウハイレトリバーたるわたしは思った。ケーキ、それはイケる口だ、と(?)机の上に飛び乗り、おまえどけや、という野生を忘れてはいけない。ケーキの上に前脚を置き、犬はケーキの上に前脚を置くとき、何故か自分のものだという顔をし、そのままぱくっといく。これは心理学的に所有権の誇示行動と呼ばれる。野生のオオカミが獲物の上に前足を置く動作が、家畜化された後も残っているのだ。知能指数の高い犬種ほど、この動作を戦略的に使うという研究結果がある一口、スポンジのしっとり感、生クリームの軽やかなコク、苺の酸味。三つの要素が口腔内で順番に立ち上がり、そして一つに融合する。食感のコントラスト、スポンジの柔らかさ、クリームの滑らかさ、苺の粒状感が、味覚に立体感を与えている。、、、、、、、、 、、、、、、、、、、、、、、これは絶対に太る、今日はきっと何も食べられない、、、、、、、、、、、、、でもこれは絶対に食べたい(?)二口、今度はカスタードクリームの層に到達した。バニラの香りが鼻腔を抜ける。口蓋に残った生クリームと混ざり合い、新たな味わいを生み出す。キウイの酸味が、全体のバランスを引き締める。アートだった、それはビューティフルだった(←感動英語法則)三口。缶詰のみかんの甘さが、最後にやってくる。シロップの人工的な甘さではなく、果実そのものの自然な糖度。それまでに積み重なった味覚のすべてを、優しく包み込む。フォークもナイフもいらない。犬歯と舌と、前脚のホールド力だけで、ケーキの地層が、地殻変動のように崩れていく。「いや、まあ・・・・・・いいけど・・・・・・!」センパイの声は、怒りと諦めと、そして少しの誇りが混ざっていた。タオルでクリームの汚れを拭いてくれる。朝ご飯は食べさせてもらうが、ケーキのようなものは直接行く。(ハンバーガーもそうだろう、)それは犬の期待値が行動に反映されるからだ。甘さに目を細め、鼻にクリームをつけ、尻尾を上下に動かし、(振ってはいない、上下に動かしているだけである)そして「ふおお・・・・・・」と犬なりの感嘆を漏らす。咽喉の奥から、深い共鳴音を出す。犬の「ふおお」には、人間の「うまい」や「最高だ」以上の意味が、込められている。これは、わたしは今、この瞬間に完全に満足している。この幸福を、この場のすべての者と共有したいという、犬にしか表現できない複合的感情の表出である。(それは、マインドフルネスの最終奥義みたいなものだ、)これは戦果である。これは勝利である。これは犬の尊厳である。センパイは頭を抱えながら、「母さんにどう説明しよう・・・・・・」胸の深所から衝き上げてきては、瞳に湛えられた静かな水の深みに捕らえられ、どんなに歳月が過ぎても、わたしの魂はそこにたゆたい続けているような気がした。、、、 、、、、、、、、、、、、、、あとで、肩にそっと前脚を置いてやろう、しかし犬というのはそうなのだ、コウハイレトリバーとはそういうものなのだ、今日という素晴らしい朝は間違いなくケーキの朝である。
2026年03月28日

放課後の教室は、三月の夕方の光が斜めに射し込んで、黒板のチョークの粉が、TikTokの『キラキラ・ヴィンテージ』フィルターを通したかのように、乱反射している。 アリーナ机を二つくっつけて即席の戦場、その上に木製のチェス盤が置かれている。あたしはあーちゃんとチェスをする。あーちゃんは窓側、あたしは廊下側。三、二、一。、、、チェケ(?)「・・・・・・あーちゃん、白と黒どっちがいい?ちなみに負けた方は帰りにファミチキ奢りね」「白。先手必勝。人生は先手を取った方が勝つのよ」「でもあーちゃん、人生は後手でも勝てるよ」「それは強い人だけ。わたしは凡人だから、先手で行く」そう言って、あーちゃんはポーンを二マス進めた。その時、鞄から物音がしてジジジとチャックを開けると、モフモフの不法侵入者達―――たぬき、あらいぐま、レッサーパンダが、失礼しまーす、みたいな顔で顔を出した。たぬきとあらいぐまとレッサーパンダが入っていた。教科書は何処へやったのか?たぬきがペラッと画用紙をめくって見せた。『たぶん、リストラされたンゴ(泣)』あらいぐまも続く。『日本の教育制度の敗北(確定演出)』―――か、確定演出ってなんだよ。ソシャゲかよ。ガチャの最後のエフェクトじゃないんだよ。SSRが出ても教科書は出てこないんだよ、とか、本当は言いたかったはず―――なのら(?)しかし何しろ、すげえすげえ、何しろ、ちいかわも裸足で逃げ出すレベルのうるうるの瞳で見上げてくるので、あーちゃんは無言でスルーした。不意に後ろの掃除箱がぎぃとホラーゲームみたいな音を立てて開いたが、そこにかもちゃんの姿はなかった。掃除箱に隠れずにはいられない、ゴッド・オブ・ザー・バードはいなくて、頭上から忍者のように―――いや、頭上のエアコンのデッドスペースから、物理法則を無視した業務用冷蔵庫のような重低音と共に、どすんと落ちて来た。いや違う、ドゥスン(?)、、、、、、、、、、、、、、、、 、身体を張るのに一切の躊躇いがない、鳥(?)それは承認欲求などという生温い類のものではなかった、インスタグラム脳なら、そう、でもかもちゃんは、NO!それ、この鳥の中に眠れるお笑い魂(?)「ねえ、あーちゃん」「なに?」「いずうさちゃん、いないね」あーちゃんは、ほんの一瞬だけ手を止めた。その間は、チェス盤の上の時間だけが止まったみたいだった。空気が、スプラトゥーンで言うと試合開始前のあの三秒みたいに、張り詰めた。「・・・・・・いないよ。いないけど、いいの」「いいの?」「うん。だって、いずうさちゃんはいずうさちゃんの人生を選んだ、わたし達はわたし達の人生を続けるだけ」その言い方は、強がりのようで、でも何処か本当に納得しているようでもあった。ワンピースで言うと、ルフィが仲間を信じて背中を向けるシーンの、あの感じ。鬼滅で言うと、炭治郎が、行ってらっしゃいって言う時の、あの感じ。あたしはナイトを動かした。馬の駒が、カツン、と軽い音を立てる。パラッ...教科書が捲れると、―――『入学式』みたいな風が吹く・・。「みんな誰かとお別れするんだ、昨日まで仲良かった人ともお別れをする―――それが人生だね」あたしはそう言いながら、チェックメイトと言い、かもちゃんが、がちょーんとか言いながら飛び跳ねた(?)黒板の前の教卓には、いつのまにかよじのぼったらしい、うさぎーずが、五重塔のスクラムを決めていた。十六時だよ全員集合。シャイマセー!(?)」とか言う馬鹿(?)「替え玉、替え玉って言うけど、人生の替え玉なんてないんだ」「でも、替え玉受験はある(?)」「裏口入学も、ある(?)」、、、、、、、、、ラーメン屋あるある(?)ラーメン屋でバリカタ頼むテンションでクールに言うのが、うさぎーず仕様。ちなみにX(旧Twitter)でこれつぶやいたら、替え玉クラスタとラーメン警察に同時に怒られる。、、、、、、、、、、、、いわゆる一つのキラーパス(?)廊下には何故かアルパカがいた、日本の学校によく放し飼いされている野良アルパカだ(?)情操教育の一環として全都道府県で実施済み(?)――と言うが、都道府県の教育委員会に確認したところ、「そのような事実は一切ございません」とのことでした。(でもいる、なんかいる、あ、やっぱり、いる) 、、、 、、、、、、、、、、、、―――そして、作者はカワウソが大好きだ(?)「週末はいとこを連れて川辺でバーベキューするし、商店街のたぬきちゃんやあらいぐまちゃんや、レッサーパンダちゃんのお店も遊びに行くつもりだし・・・・・・」かもちゃんが普通に言った。「オフ、ダロ、絶対週末は働かないダロ、だからバーベキューに参加するダロ」経営よりもバーベキュー、バーベキューっていうか、肉。それが大事、すげえ大事(?)「恐竜関係の本を買いに本屋に出掛けるつもりだし―――」「まだ買うの?」「―――足りてない知識は何処にだってある、だからみんな灯台下暗しと知りながら、ハロー効果と思いながら、セミナーに通う、本読めばわかるだろ、関係だってそれで結べるわけもないだろ、自分からわざわざ蟻地獄へ行く連中の脳味噌のうすっぺらいこと、でもそれがセミナー、恐竜の本は先へ進める(?)」あーちゃんの暴言だった。でも多分、正論。正論ほど刺さるものはない。うわああああああ(?)つまんないよおおおおおお(?)、、、、、 、、、、、、、 、みだれだす、みだれてしまう、性(?)チェス盤の上の黒いキングよりもずっと重かった。あたしは、そっとクイーンを前に出した。攻めるでもなく、守るでもなく、ただそこに置くように。あーちゃんはビショップを斜めに滑らせた。その動きは、まるで何かを決意するみたいに静かだった。「チェックメイト」その瞬間、かもちゃんが別のキングをくわえてきて、チェス盤の上に置いた。碇ゲンドウのポーズを決めながら、、、 、、、、、、、、、、、さあ、本当のチェスを始めよう(?)、、、、、、坊やだからさ(?)―――どうでもいいけど、言いたかった、、、、、ちぇぬす(?)「確かにいま、キングは倒れました。でも、あーちゃんの知らない物語がそこにありました、あの日生き別れた弟が、復讐の炎を燃やして立ち上がったダロ」、、、、、、、、、、、立ち上がるかあああああ(?)帰ってきたウルトラマンと見せかけて、シン・ウルトラマンだったのかも知れない(?)「でも、こんなアマチュアプレイヤーを、反則技で生かしたって勝負は変わらない」それは暴言ではなく、チェスの実力差からすれば当然の帰結だ。だが、たぬきやあらいぐまやレッサーパンダが、チェス盤を覗いた。かもちゃんが言った。「確かに勝負は非情なもの、ですが、あーちゃんの知らない物語がそこにありました、あの日生き別れた弟は、敵国のクイーンと出来ていましたダロ、そして内乱と戦争の挟み撃ち、ハーレクインがハーレーダビッドソンした瞬間(?)」出版社とバイクメーカーが合体!!!!よくあること(?)ポケモンで言うと「にほんごでおk」みたいなコマンドが、ちょっと、まー多分ちょっと、なんというか、ちょちょっと脳内に出てくる。、、、、、、よくあること(?)ミステリーサークルにナスカの地上絵を描き、さらにそこに、ネッシーがUFOでやって来るレベルの、斜めぶち抜きの超展開。伝えずにはおられない、マーヴィン・ゲイ。通天閣に行って焼鳥を頬張って、そして道頓堀に飛び込むようなスピードという映画みたいな展開。いやよもやここまでしなくともという気持ちがブレーキをかける。いや、こういう時に使う素晴らしい言葉がある。スタイリッシュというのはこういう時に使うのかも知れない。、、、、来たのだ(?)そこに、たぬきが『黒の碁石』を置いた。「おっと、さらに、異世界召喚ダロ。勇者ダロ。もののふならば、潔く死ね(?)」そこに、あらいぐまが将棋の『王将の駒』を置いた。マグニチュード八.五の大地震が、あーちゃんの座っている場所にだけ起こっている(?)、、 、、、、、、、、 、、、、、、、、あと、どうでもいいけど、局地的すぎるって、あらいぐまちゃんが言ったので、気象庁の会見で『震源地:あーちゃんの椅子』って表示されてるって教えといた。ビックリしました、と言われた。ビックリカメラ、と答えておいた。(*謎のやりとり)「おっと、さらに、異世界召喚ダロ。大賢者。デザートイーグルのマガジン、実弾入り(?)」そこに、レッサーパンダが麻雀の『發』の麻雀牌を叩きつけた。、、、、、、、、、もう何でもありだな(?)どうでもいいけれど、ざわ・・・ざわ・・・と、うさぎーずが沖縄のサトウキビ畑のような音もしくは、『賭博黙示録カイジ』のような効果音を入れている(?)これは得点が高いですねー、そうですね、これで相手の集中力を逸らす作戦ですねー、とか、心の中であたしはいつもアナウンサーと解説者(?)フジテレビ系列(?)、、、、、、、アプダクション(?)、、、、、、、、、、、、、キャトルミュートレーション(?)すなわち、アプられてキャトられる、それが現代若者の―――コトバウァああああああ(?)「ついに異世界のリーサルウェポン我等があーちゃんというパワーワードをもって、襲いかかるダロ、ノルマンディー上陸作戦(?)」、、、、、、、、、やめろおおおおおお(?)かもちゃんの、ナチュラルな暴言(?)聖徳太子も言った、イミフは世の習い(?)十人もの人の声を聞き分けた、でもそんなの無理に決まっているじゃないですかー(?)けれど、いつのまにかあーちゃんは笑っていた。あたしも笑っていた。うさぎーずが、声を合わせた。 、、、、、、、 、、、、、、、、、、、「せいしゅんとは、すかーとをのぞきながら・・・・・・」あたしは、すうと息を吸い込み、そのリズムに合わせた。「うう―――それが、パンツガードだったりするんだよね(?)ガードをしないとボディに入ってしまう、だからガードをする、でもそのガードが、時には致命傷を負わせる(?)」、、、、、、、、、、負わせるかあああああ(?)そして一羽というより一匹のケダモノというほかない鳥は、夕方の空へと向かってマントを翻すような音、そう、バサァッと翼を拡げて飛び立った――のだ。伝統芸の世界へ、そう、殿堂入りの階段を上がるように・・・・・・。そう、M-1グランプリの殿堂入りの階段を上がるように・・・・・・。「宇宙戦艦ヤマトおおおおおおおおお」と謎の雄たけびをあげながら。それが、完全に意味不明だと知りながら、あたしとあーちゃんは、デンタルフロスぐらい、すうっと目を細めた―――のだ(?)あーちゃんが、独り言のように言った。「青春って、チェスの駒と碁石と王将と麻雀牌とデザートイーグルが、同じ盤上に乗って、かもちゃんが宇宙戦艦ヤマトを叫んで飛んでいく、そういうものなのかもしれない、知らんけど」廊下には野良アルパカがいた。うさぎーずも、いた。たぬきやあらいぐまやレッサーパンダも、いた。いまも―――耳の奥から離れようとしない、ざわ・・・ざわ・・・が、終わらないし、止まらないし、繰り返されて、いつのまにか作中に流れる鬱に優しいナウシカソングのように、聞こえて来る。、、、、、、 、、、、、、、、、、、、、、、、あーちゃんは、一番美味しいところを持って行った(?)、、、、、、、、あでぃおーーーす(?)
2026年03月28日

(すり減ったレコード盤が空転する... 石炭と薬と、 もうひとつ名前のつけられない匂いのする顔に、 自分の顔を近づける―――のさ・・。 巨大なコンクリート製の冷却塔が低いハム音を立て始めるような、 スローバラードをって滅茶苦茶なことが言いた―――い・・。 2000年代っていうのが克明な事件調書のごとき、 ―――惑星ソラリス。 空気の中で、異様なほど輪郭を持っていた。 崩壊しつつある建物の中から、 ひとつの窓だけが完全な形で切り出されたような明晰さ >>>脳という器官は、沈黙に耐えられないんだ。 >>>入力が途絶えると、自分で音を作る。光を作る。人を作る。 (―――それは優しさではなく、機能の末期的な過剰作動だ。 エンジンが止まる直前に回転数を上げる・・・から、) (クロムメッキの車体が、 コンクリート壁に激突して炎上する... 何百回となく繰り返された、 夕食の皿洗いの疲労が染み付いた、 ホルマリン漬けの標本が並ぶ密室のような、 ―――異常な静けさの迷宮・・・・・・。 「空は一日中、自分の方針を決めかねていた。 雪を降らせ、それを後悔して陽を出し、 陽を出したことを恥じてまた雪を降らせた」 「心拍、呼吸、消化、細胞分裂——、 これらはそれぞれ異なる速度で進行し、 それぞれが独立した時間を持つ。 僕の時の感覚とは、これらの複数の時間が、 重なり合う干渉縞のようなものだ。」 生涯は終ってしまった。 今夜をかぎりに―――あの地下室で、 自らの狂気をひたすら論理で塗り固めた男の、 終わりのない手記のように、 もうどれだけ夜の街をあてもなく歩き続けるという、 孤独な行為をしても、現実と人工記憶の境界が融解する、 そんな感じを得られない―――んだ・・。 胸が動いていた。動いていた。動いていた。 動かなくなった。
2026年03月26日

夏の風が指を撫でて、指先の血管が、ゆっくりと収縮していく。甘栗剥いちゃいましたなんだ、(CANDY...COOKIE...)噛み合わないConversation微妙な距離のPartition世界が二重に、三重に、ズレながら。世界が完全には目を覚ましていない時間のわずかに青い冷たさを含んでいる。ごく小さな気泡が、星座のように鏤められ、光がそこを通るたび、微細な屈折が生まれるCoca-Cola骨のカルシウムがゆっくりと溶けていくような、目に見えない速度で進行していた衰弱の、最後の臨床記録のような瞬間。路地。抜け裏。配管の裏を通る猫の通路。騒音の反響、排気ガスの滞留、雨が降っても濡れない薄暗い帯状の空間。ホームレスの寝床、落書き、古いビラの残骸、鳩の糞の累積した白い層季節は何度も何遍も、暗い場所へと戻ってゆ―――く。(CHOCOLATE...)冷たい風が頬を撫でれば、頬に触れる北風のナイフが押し当てられて、値打ちなどないと思ったら切り裂いて。かつて誰もが夢見た、絶望だらけの夢の街で、ニヒリスト達が産んだ果実―――を。夏の風が指を撫でるみたいに、肋骨の、一本と一本の、わずかな隙間を、風が、遠慮なく通り抜けていく。書きかけの比喩、うまく決まりすぎたリズム、過去に賞賛された言い回し、誰かに褒められた一行、自分でも気に入っている安全な感傷のパターンが、夜明けを眠らせない。e.l.e.g.ym.e.m.o.r.y. 世界が僕に与えてくれたこの居心地の良さを、全身で受け入れている、幸福な白痴。心の中に設置された、見えない射撃場に立ち、照準器の中心に捉えていく、、、、、、、、、星をなぞる指先を。(CANDY...COOKIE...)ちいさな段ボールにhold me tightまた外れた今朝の晴れ予報 Q.E.D.自然の摂理に、自分の意志で抗ったことがあっただろうか。抗うという行為すら、自然の一部だったのではないか。かつて、僕が決して手放さなかったと信じていたものは、何だったのか。それは僕が握りしめていた、ただの幻想ではなかったか。無数の夜の議論。現代の思想問題、存在の不安、ニヒリズムの影。眼球の奥、視神経の交差するあたりに、冷たい空気が吹き込めば、世界はゆっくりと、一枚の絵画の内部へと変形していく。空間は、カンヴァスの上に引かれた幾何学的な透視線。深夜のコンビニのレジ前の沈黙、終電を逃した駅のベンチの沈黙、郊外の住宅街の、犬の遠吠えだけが聞こえる沈黙。シダ植物の胞子や裸子植物群が石炭紀のフラクタル幾何学を思わせる、狂態で繁茂し、一面は葉緑体の過剰な光合成と、高湿度がもたらす、鬱蒼たる暗緑色の海原が見えてくる。もう人類は終わったのか。もう文明は終わったのか。、、、、、、、言葉のない世界。(CHOCOLATE...)息が詰まるほど、眼を覆いたくなるほどの落書き、取扱説明書はない、充電も切れそう、少しの眠れぬ夜はフラスコの中の化学反応、何処から来たんだろう。何処へ向かうんだろう。波の音に全部掻き消され―――た。コンテナが積み上げられ、フォークリフトが走り、海面には、太陽光が乱反射している。熱せられたコンクリートの上では、空気が揺らぎ、遠くのクレーンが蜃気楼のように歪んで見える、真夏の波止場が消えない、アイロニーの消えない横顔。その感覚の正体は、視野の端に届くものが何もないという認識。手が届かない、足が届かない、声が届かない、その届くものの不在が、無限の感覚を作る。頭の中に在るものが上手く信じられな―――い。抑圧された感情の噴出の後遺症、月光は冷たく、しかし容赦なく、心の裂け目に染み入る。高架下のコンクリートの影、廃工場のフェンスの隙間、河川敷の草むら。病室の白い天井、冬の朝の葬列、誰かにかけられた何気ない一言の重さ、かりそめのECSTASY色のひとつ足らぬ虹を。蜘蛛の巣の紫いろを。めっきが剥がれるとき、内部の卑金属が露出し、酸化する。錆びる。それは断言の叫び。それは呪いの叫び。しかし同時に、宣言の叫び。食物連鎖の頂点たる捕食者の咆哮がして、僕が僕自身の声を認識する。山も、樹も、月も、露も、一匹の虎が、ただ怒り狂って、哮っているとしか、考えない。でもそこに人間的な魂の、塩分を含んだ蒸留があって、傷つきやすい内心の繊細な襞が絡んで、まだ抜け出られないlabyrinthまだ終わらないmidnight鬱蒼たる樹海の奥深くには、進化の系統樹から逸脱した未確認の巨大捕食獣、あるいは始祖鳥の末裔たる怪鳥が潜み、犠牲者の骨髄を啜っているのだという、フォークロア的かつ精神分析学的な恐怖の投影が、まことしやかに囁かれ、誰もいないのではなく、ただ人間がいないのだということをひそかに思い知る。何者でもない、僕の。何物でもない、君の。e.l.e.g.y m.e.m.o.r.y. 一つだけ、一つだけ、世界のために、もう一度だけHappy birthdayを。鬱蒼たる樹海の奥で、 巨大な捕食獣が、 その言葉の匂いを嗅ぎつけ、 静かに天を仰いで咆哮する、細胞の奥のミトコンドリアにまで届き、 死にかけた世界の代謝を、 ほんの一瞬だけ再起動させる、まだ消えきらない蝋燭の火を、吹き消すか。 まだ消えきらない蝋燭の火を、点け直すか。
2026年03月25日

「表情筋の一本一本が、電気信号に応じて、 絶えず配置を変えている―――次の瞬間には別の表情さ」 炉心の核燃料の連鎖反応が、 止まりやがった状態でも、 核物質は発熱を続けるってわけ。 (((ゆらゆらとうごめくしろいもの ドリームズ・コンティニュー・ター・パルセート・フォレバー・ウィザウト・シーシング 夢は、永遠に、絶えることなく、脈打ち続ける――。 永遠・・。 なんかわから―――ない・・。 指先が触れ合う微かな感触だけが、 この上なく透明な、何かを待つような沈黙。 目的論的な未来予想図を唾棄し、 他者からの批判という外部監査も完全に黙殺し、 ただブラウン運動を起こす微粒子の如く漂流して暮らし、 どうも胃袋の底を冷たい隙間風が吹き抜けるように、 存在論的な「淋しさ」が侵食してやまない、 スクランブルエッグの隣でトーストにバターを塗りながら、 一杯の新聞紙の味するインスタントコーヒーを飲んでいたって、 かようにアンビバレントな精神状態・・・。 >>>サラリーマンのコート、学生の鞄、老人の杖。 思考、感情、記憶、夢、予感・・・。 >>>それが忘却と記憶の鏡のデモンストレーション。 ソクラテスの無知、無明、アグノシア・・。 「「「はっちゃけたっていいさ ポップコーン フレイバー 「これは素敵な拍手、そして人生の敗北の味・・」 「どうして人と違うことは信じられるのに、 僕と君が同じ星の下だということは信じられないの?」 地球の地殻深部で数十億年の、 圧力と熱によって生成される、 指輪の台座に固定されたそれ・・。 南アフリカの鉱山、アントワープの研磨工房、 香港の宝石商―――ソレガドウシタ? (((ゆらゆらとうごめくしろいもの ドリームズ・コンティニュー・ター・パルセート・フォレバー・ウィザウト・シーシング 夢は、永遠に、絶えることなく、脈打ち続ける――。 世界なんかすぐに風向きを変えるさ、 青白く燃えあがったプライドの欠片が、 瞬間その冷たい感触を忘れさせるよ、 藍が足りてない、ああ、愛が足りてない、 、、、 糞野郎!!! 期待・・。 なんかとうにし―――ない・・。 でも生きたくても生きられなかった人の声、 今日も明日も、鼓動を続ける自分の心臓に。 >>>飽和した秤器に体温は蝋さ! >>>七万匹のコチニール虫が一キログラムの染料を産出する。 指先が触れ合う微かな感触だけが、 この上なく透明な、何かを待つような沈黙。 ナチュラリスムという外来の思想の種子が、 自己の暗部を赤裸々に告白することこそが至高の真実という、 奇妙なローカライズを経て、モラトリアム期の青年達の海馬に、 胞子のように付着し、多種多様な私小説的奇形花となって発芽し、 そんな爛熟と退廃の季節の真っ只中で、永遠、 人間の体温というより、冬の金属に残っている微弱な熱のような、 そのさらに向こう、名もない闇は陽炎や蜃気楼になるか、机上の空論、 ある方向を向いた永遠―――どの方向か。 それは意識を失う直前の視線の方向に由来する。 ――さて、頭蓋の内に広がる形而上学的な宇宙への、 カウントダウンを始めようか、 盛大に、構成を、夢を、歪を・・。
2026年03月24日

>>>これが最初だったらいいなって言うのは、 >>>きっと僕の思い違い、血迷った勘違い。 Q&A ほら紡いでいけば、ば、ば、 (慣れ錆びついた心の奥でじくじくと、 粘液を垂らす嫉妬や妬みもなければ、 殺気も鬼気もない。 コーヒーテーブルの上―――で。 想像/の/奔放自在/を/誘発/して 夢幻境/で/熱/い/雨/に/濡/れていよう シャコウジレ イ... 豁然と音立てて、 心の壁の崩れ落ちる の を 感じ た ・・・・・・。 (光って 光って 眠らない (光って 光って 眠らない 、、、 、、、 、、、 しかし、だから、時には。 「「「 段ボール箱の中身が突きつけた無の圧倒的な質量 ―――誰。 (零れ落ちたミッドナイトブルーのインクの染み 黄みがかった白の硬い質感が、 彼女の瞳の奥に常駐しているとして、 成熟しているが未だ解放されていない芳香―――。 ラッタッタ、ラタタララタタ、ラッタッタ、ラタラタタラタタ、、、 Q&A ほら紡いでいけば、ば、ば、 (無限無窮の空だったらいいな、 その青い宇宙のそよ風に染まり圧倒されてる、 成長でも成熟でもない。 コーヒーテーブルの上―――で。 対象の周囲を螺旋状に、 収縮しながら近づいていく、 ハイデガーの『存在と時間』や、 メルロ=ポンティの『知覚の現象学』を忘れて、 妖艶/な/全身/に/宇宙/のすべてを/凝縮/して 美/の/神/をまのあたりに/見/る/物語/はいずこ 回転木馬一回転分/の/時間/で リガイカンケ イ... (Shall we ダンス? 豁然と音立てて、 心の壁の崩れ落ちる の を 感じ た ・・・・・・。 、、、、、、、、、 >>>メロディやリズムの中のおそろしいなまめきを、 、、、、 、、、、、、、、、、、 >>>ねばねば、ぐしょぐしょしたかんじを。 ―――キミノユメヲミタンダ、テノキズカラコボレタエキタイハ、 ハナニナッテ、ユウウツヤクモンニナッテ、ワラッテイタ、、、 (光って 光って 眠らない (光って 光って 眠らない
2026年03月23日

2026年03月22日

夜中のワンルーム、 カーテンは半分だけ閉まってて。 (その一個一個の失敗に、 、、 ちゃんと重さがあって。 (タイムラインの中で 知らない誰かの、 「夢が叶いました」「お知らせです」「ご報告」 そんな言葉が、ネオンみたいに瞬いている 、、 ちゃんと痛みがあって。 スマホのカレンダーの今日の日付が、 じわじわと責めるように赤く光って見える。 心 臓 は 今 日 も 一 度 も 止 ま ら ず に 脳 は 何 千 回 も 瞬 き を 制 御 し て Tシャツ、靴下、パーカー、ヨレたタオル。 言葉は見つからないまま。 時間という不可逆なエントロピーの矢において、 スタートラインの座標 (x, y, z, t) は、 常に「今、この瞬間」の地点にしか引くことができない。 バタフライエフェクト 初期値鋭敏性。 な、ん、だ、ろ、う、 な、ん、な、ん、だ、ろ、う、 エアコンの微かな送風音。 DCモーターが低回転で回るときの、 あの遠い海鳴りみたいな音。 冷蔵庫のコンプレッサーが 周期的に唸る。 Your time, my time システムのバグじゃなく、 高感度センサーというフィーチャーとして、 そっとアセプトして。 開きっぱなしのノートと、 「やることリスト」と書かれたページに、 チェックされていない四角が、 きれいに並んで。 「・銀行の振込(25日まで)」「・メール返信(田中さん)」 「・ジム(有酸素20分)」「・部屋の掃除機」 「・経費精算」「・本を10ページ」「・瞑想(5分)」 黒から群青に変わる瞬間、 鳥の鳴き声が、一羽、二羽と重なって、 世界が、音量を上げていく前の、 あの一瞬の静けさ。 サンプリングされた古いジャズピアノ。 ―――か さ な る 身体が重くて動けない、 、、、重力が。
2026年03月22日

つまらない大人になったんじゃないかって、ふっと洩らしてみたら、毎日の繰り返しは本当に意味のないものになるけど、精神分析なんて大それたものじゃなくてもいい、フロイトもラカンも本の中でしか会ったことがないし、診療報酬点数表のどこかに、精神療法として換算されているその時間を、自分のために買う勇気もない。折れた釘でも、砂を噛むようないまのこの気持ちを、確かめようって一人の部屋で考えた。意味という臆病者の言葉の輪郭が、辞書の中の黒いインクから通過点として、スマホの画面の青白い光の不能として、じわじわと溶け出していくような気がした。家具や電気製品に囲まれて、水道やガスや電気はこの文明の力だ、浄水場から何キロも配管を通ってきた水が、一定の水圧で、ステンレスのシンクに落ちて、金属的な音を立てるのも。目に見えない都市ガスが、安全装置に監視されながら、静かに流れたり止まったりしているのも。送電線を何本も渡り歩いてきた電子が、ブレーカーの中で分岐され、コンセントの二つの穴から流れて来るのも、真面目に考えることはなく、おぼろに考え及ぶにすぎない取るに足らないことだけど、その恩恵にあずかりながら僕等は生きている。生活保護もある、福祉事務所の窓口で、番号札を取って呼ばれるのを待つ人達の背中を、ニュースでしか見たことがないけど。年金だっていざとなったら保険にもなる、ねんきん定期便のハガキを、机の引き出しの奥に押し込んだまま、ね。借金だって自己破産できるよ、破産法の条文や、官報に載る名前のことを、ネットの記事で読んだことがある。生きるためにはもっとお金は少なくてもいいけれど、よりよく生きるのは本能だから。困難を乗り越えるかどうかを決めるのは、天と地ほどの差がある、でもそれはたった一回の限界のためのお膳立てだ。仕事して、結婚して、人付き合いもこなして、趣味もあって、それなりに納得できる人生があるはず、積み重ねていけば不平不満があっても一定の満足値に達してるはず、定番のBGM、LINEのグループトークに流れる、既読の数。統計学的には、幸福度調査のアンケートで「まあ満足」と答える層に、自分も含まれているはずだと思いながら、人生は公平じゃない、だからどん底でも歩く人がいるって見抜いて、最善の道を進んでいかなくちゃいけない。思ってるよ。だのに、好きな食べ物はって聞かれて実は困るんだ、一瞬、脳内の検索エンジンがフリーズする。カレーライスって答えるのも何か変な気がするんだけど、わかるかなあ。時折世界の終わりのような、サスペンスドラマの断崖絶壁のシーンみたいな心境で、ありのままの現実を語ってしまいたい気がする、海に突き出した崖の上、風が強くて、俳優のコートの裾が大げさに翻る、あのセットのような場所に、自分一人が立っているイメージ。群れや縄張り、嘘やプライド、社会生物学の教科書に出てくる、サルの群れの順位争いの図解と、SNSのタイムラインで繰り広げられる、いいねとフォロワー数の見えない戦い。挑戦しないのは不安があり恐怖を感じるからさ、でも嘲笑する人はワンセットで、意味がないと感じる心もこみこみプランだ。そんなことばっかり考えていると嫌になるさ、本当に何かちゃんとしたことをしたいって、そう考えるような一瞬がどこからともなく現れんのさ。信号待ちでふと空を見上げた時だったり、コンビニのレジで小銭を出そうとした時だったりエレベーターの鏡に映った自分の顔が、思っていたより疲れていると気づいた瞬間だったり、ね。苦しいから逃げるんじゃない、逃げるから苦しくなるんだ。とはいえ、モチベーションの維持は難しい、だけど、繰り返しているのはいつも時間の話。これはリハーサルじゃない、本番だ、喜劇でも悲劇でもその時の気分で決まる。物語の登場人物には、ドラマツルギーがあって目標が設定されてる。三幕構成、起承転結、ハリウッド式のビートシート、脚本術の本に書いてあるような、「主人公の欲望」と「障害」がきれいに整理されてる。接着剤的なゲームのコマンドや、選択肢は、RPGのメニュー画面に並ぶ、「たたかう」「まほう」「どうぐ」「にげる」みたいに、生きてる自分を俯瞰でもしなきゃ見えてこないけど、実際の人生の画面には、そんなに親切なコマンド表示は出てこない。わかることで百人の村に入ってゆく、僕はせめてJポップの一曲が終わるぐらいまでの集中力で、したいことの一つや二つぐらい考えている。Spotifyの再生バーが三分四十秒の曲の上を、ゆっくりと左から右へ移動していく間だけ、自分の人生の「やりたいことリスト」を、頭の中で箇条書きにしてみる。いや、珈琲の粉末をコップにさらさら落としてお湯いれて、それを飲み終わるまではちゃんと考えていよう。今日が何段目の階段だっていいんだ、後ろ向きに進むことはしないつもりだし、下の階へ降りてゆくのは僕向きじゃない、それは愚か者がするべきことだ。地位や名誉やお金じゃない、それはわかっている、わかっているけれど分かり易いんだろうなって思う。みんなが憧れるような職業で、沢山の人に必要とされるスーパーマン。医者、パイロット、エンジニア、テレビに出るタレント、フォロワー十万人のインフルエンサー。遣り甲斐や、生きてる意味まで欲しがる才能や、愛。貯金残高の心配もしたくない、そうすればきっと幸せだって信じたいんだ。大きな家に犬飼って、高いスーツを着て、夕焼けのテラス、芝生の庭、ブランドロゴの入ったショッピングバッグ。インスタグラムに投稿すれば、嫌なことを全部忘れられるんだ。クレジットカードの請求額も、上司の機嫌も、自分のコンプレックスも、一時的に、画面の外へ追いやられる。自己啓発本の帯に書かれているような言葉が、本屋の平積みの棚からこちらをじっと見ている。生きていても死んでいても変わらないだろうね、動画なんか観なくたって、本を読まなくたって、素晴らしい人間は素晴らしいだろうと思う、さすが二十世紀と冷然と軽蔑したくなるぐらいには、うすっぺらい文化を積み上げてきたものだ。モチベーション動画を見ながら、他人のことをごちゃごちゃ言う前に、お前がちゃんとやれよと思うような僕は、他人に一切期待していないんだろう。僕はきっと頭がいいんだろう、どうだろうね、何千回の経験を経れば、誰だって僕みたいな話し方をするようになるよ。何もしない人間は、何かしている人間が羨ましいんだろうと思うよ、だから批判を繰り返す、能無しであるのを認められないんだ。聞く側の心理でいくらでも変わるようなことを、いくら話しても意味はない。でもそういう刹那的なことが、一定数の大人の現実なんだ。居酒屋のカウンターで、終電間際のホームで、会社の喫煙所で、あるいは公園の青空教室なんかでね。親身になって喋っているつもりらしい人間が、サロンを作りたいのも分かるし、それなりにはちゃんとした優しさがあるのかも知れない、でも逆だね、そんなのは全部ハロー効果で、ただの時間の無駄だ。成功者の話は聞くに値しない。聞いている側は何も出来ないロボットの誕生だ、そうやって無能とか盲目とかいう動物園が生まれる、人間が啄木鳥になる瞬間というのも上等なものだ、馬鹿の王国の誕生だ。三番目の場所はないものかな、なんだったら国境の境目にどちらの国の人も談笑できる、そういう休憩所を作れないものかな。勝者でも敗者でもない場所。誰でも少しだけ息をつける場所。僕は大統領同士が殺し合えばいいと思うよ、それが出来ないようにさせているのが大きな世界だ。スピリチュアルもとい宗教、ニューエイジもそうだね、そういうのは、より大きな世界を与えてくれる。でも、真面目に考えなくていいよ、大統領が殺し合えばいい、それで戦争が終わるんだ。話をややこしくするから事態の回収ができないんだ、複雑多岐になる、怪奇化する、でも本当はどんなことの中にも単純な答えが潜んでいる、つまりさ、君達は何も考えてないのと等しいのさ。生きる現実と、生きるための現実が、わけのわからぬ過去と未来に挟まれてるような気がする、そう思うと一寸先は闇だ、履歴書数行のような人生、会社名と在籍期間、その一行一行の間に、実際には、通勤電車の混雑や、コンビニのレシートや、深夜のコンビニ弁当や、眠れない夜が、ぎっしりと詰まっているのに、紙の上では、ただの数センチの空白でしかない。日時計の文字盤みたいに消えてしまいそうなアクション、そんなんじゃないって思ったから、こんなんじゃないって言ってみた、何が出来るんだろう、どうせロクなことは出来ない、人生は結局昨日までの自分との戦いだ、どんなに抗っても連続的に展開されてゆく自分の結果だ。神とか奇跡とか音程が狂いそうなことは嫌いだし、あまりにも整いすぎた証言や、オーディション番組の、劇的なサクセスストーリーのBGMが、どうにも信じられないタチなんだね。どんな性転換手術をしようっていうのか、SNSのプロフィール欄を書き換えたところで何も変わらないさ。嘘をつくだけなんだよ、意味がないって認めるだけなんだよ。中身がない人間がわんさかいるって気付くだけだよ。誰にでもいいことや悪いことがある、一番面倒くさいことは一番わからないことだ、運命や運勢、それは眼の中のゴミのように目立つ、心に触れるものも危険だ、納得のいかないことにもそういう要素は隠れている。感動ポルノと呼ばれる動画や、過剰にドラマチックな広告が、涙腺を刺激してくるたびに何処までが自分の感情で、どこからが演出なのか分からなくなってくる。頭がおかしいんだ、僕は時々本当にそう思うよ。嘘偽りなくね、みんながそれを認められないとしたら、可哀想な人間なんだろうなと思うよ。人間が駄目だ、世界が駄目だ、経済が駄目だ、社会が駄目だ、本当だろう、そうだと言い切れる要素があるんだろう、ニュース番組のテロップが、毎日のように「過去最悪」「史上初」「危機」という言葉を、画面の下に流してくる。さてさてどうした、統計データ、グラフ、専門家のコメント、なるほどね、それは非常に不味いことになった。でもそんなの今に始まったことじゃない、僕等はずっとそうだった、お前の頭の上に隕石でも落ちればいいなって思うよ、これが奴等のやり口だ、眠るように静かなものさ、石器時代だって未来の年号になったって、そんなの何かが変わるわけじゃない。洞窟の壁に描かれた狩りの絵と、SNSに投稿されたランチの写真の間に、どれだけの文明の差があっても、「誰かに見てほしい」という欲求の形は、案外、似たようなものなのかもしれない。愛が劇的に変わるようなことがあったら、そしてそれが僕の仕事の一部だって言うのなら、受信機の振動版をこすれるさ、指でそっと押してみたら、かすかなざらつきと、抵抗が伝わってくるはずだよ。そうであったらいいなと思わない日はないよ、結局色んなことに手ごたえがなくて、それが約束されたものじゃないから、僕等はこんなに失敗してるんだ、世界中でその一日を奇跡と称した祝日にでも出来るさ、けれど僕等に出来るのはテクノロジーの錯覚さ、本当はそんなの必要ないけれど欲しがる。それが愛だってみんな思っているのさ、それが愛だってみんな信じたいのさ。自動販売機でジュースでも買おうって、部屋から抜け出して、ぐるりと三百六十度見回してみる、夜の住宅街、遠くで走る国道の車の音、近くのマンションのベランダから漏れる、テレビの笑い声。限られた風景の中の限られた経験の限られた自分の世界が、そこに見えるはずだろう、どうせ何にも特別なものなんてありゃしもしない、自動販売機のラインナップは何処に行っても似たようなもので、コインを入れる投入口の金属の冷たさも、取り出し口のプラスチックの感触も、ね。鬱になりたくもなるよ、電車がこっち側からあっち側へ行くようには進まない、でも無数の扉が開くのを同時に見ているような、不思議な興奮を感じていた、人生ってこんなもんなんだなって思えたら笑えてきた、僕はただ導火線の火に近づいていき、人生最後の戦いというのに身を投じようと考えていた。実際にはそれが、退職届のフォーマットだったり、引っ越しの見積もりだったり、誰かに送る長文のメッセージだったりするのかも知れない。取るに足らないものだよ、馬鹿な子供みたいに世界征服の宣言でもしたいものだね、まやかしよ、魑魅魍魎よ、世界は孤立しているか、とかね。つまらない大人になったんじゃないかって、ふっと洩らしてみたら、いや忘却するな、不幸を否定するな幸福と嘯くな、僕等の天敵は人間であり、僕等がどんな結果を得られない時も人間である、誰かが悪いと言っていればそれで解決できてしまう、それもまた一つの正しい答えだからだ、でも納得のいかぬ興奮、抑えきれない興奮があるなら、僕等はもう一度考えてみなければならないのだろう、人生の夜明け前、とりあえず一歩でも先に進みたい、こんな場所より少しはましなところへ抜け出したい。新聞配達のバイクの音、始発電車のアナウンス、パン工場から漂ってくる焼きたてのパンの匂い。それはそれで、味わい深い人間らしい瞬間だと思うけどね。僕は君を殺したくない、でもそれが僕の誠実な愛の在り方だよ、いつまでもそのまま雨の漏れるままに、薄気味の悪い零落の兆候に呑まれていよう―――か。あれこんなこと前にも言ったような気がするな、絶対言った、間違いなく言った、それでやっぱり、夜だった気がする、星や、うらぶれた街燈ぐらいしか見えなかった、それでも錆びたブランコを揺すってみる、けれどもきっと自然らしく振舞おうとする事自体が、小細工だったり嘘だったりするんだろうっていう気がした、急激な感情の変化を伴わないものを求めながら、そうするとやっぱりこうじゃないんだろうなって引き戻される、何かを変えることが難しいんじゃない、当たり前のこと、今日という一日の動かない表情が、百年間続くべきことだからなんだろう、そして、そのすべてを、何処か遠くから眺めているもう一人の自分の視線だけが、いつまでも、動かないままだ。風を受けた水面のような一瞬に張り付いた落葉だ、孤独や幻、空虚な人生の理想を垣間見る優雅な夜が、印象を剥落させながら、油膜のような景色を連れて、滑り始める、すうっと流れ始める―――。
2026年03月22日

「何してるの?」「ここは村の廃校、グラウンドを歩きながら、子供時代のノスタルジーに触れているのは大人の仕事。人類が文明を築いてから三万年、大人は時々こうしてノスタルジーを点検しに来る義務がある。定期的に油を差さないと地球が爆発する」「義務の規模がデカすぎるよ」「国連で決まった。議題三番、思い出のメンテナンスについて」「政治には疎いけど、すぐ嘘だって分かるよ」「議題はノスタルジーの老朽化について。フランス代表が強く推した、『嗚呼、懐古はボルドーワインと同じく熟成が必要だ!』って叫んで、すぐさま、こう切り替えした、感動的なセレモニー見ているようだった、『嗚呼、懐古はボルドーワインと同じく、寝かせすぎて爆発させるべきだ!』って叫んで全会一致で可決された」「フランス代表に謝れ、あとワインは爆発物じゃない」「だのに、またあなたが湧いた。で、乗ってきたベンツは何処? 大丈夫知ってる、ポルシェは電柱で壊し、腕のピカ厨なロレックスで払ったこと」「僕の前科を勝手に捏造しないで。あと、その、こち亀みたいな設定止めてくれる?」「でも“言ってない”は“言っている”に変換される。それはつまり、“何もしていない”も“何かしている”に変換される、なんだこの、おもしろい格好のアブナイ女、今日は面白い女性のボディフォーム セクシー、Tシャツ、S●Xって書いてる、こちらはソックスのつもり、でも地球の裏側から見ると明らかに破廉恥な単語。赤バンダナのヘアバンドなんかしやがって、足元はピンクのダイビングフィン。完全に世紀末のバーベキューの二次会の帰りか、完全にキューバ革命スタイル。マッドマックス農村スタイル。完全にラピュタ。でもあなたはそういう眼で見る、それはローマの時代から続く掟」「拡大解釈すぎるよ。あと、君のキューバは、間違いなくキューバからかけ離れてるよ。大体ファッションチェックなんかしないし、ラピュタには謝って」「そしてほら見て、雑草が膝まで伸びてる。ほら、バッタが跳んだ。あれは村の守護神」「ただのバッタだよ」「ただのバッタじゃない。あれは元・体育委員長の転生体」「そんな転生ある?」「ある。体育委員長はいつも跳んでたし、そんなだからシャインマスカットって書くべきなのに、ツヤイソマスカットって書いてしまう、そしてそんなだからシャインマスカットって書くべきなのに、シャイニング・マッスル・キャットって書いてしまう。それから、村のハイカラな喫茶店で豆乳ドリンクが流行ってる、そして引きこもり生活終了記念なあたしは、今頃になってなめこ栽培キットに着手(?)―――田舎の最先端がここに極まれり、そしてあたしの涙腺も極まれり(?)」「自分や村のことをそんなに自虐するのは止めて、で、具体的に名前とかは?」「山田花子」「絶対に嘘とも言いにくいけど、山田太郎に近いその偽名の感じ」「じゃあ、マイケル・ジャクソン」「山田花子とか山田太郎の五十倍くらい、すぐに嘘だってわかる偽名来たね」「こちらのプランの方がお客様にはオススメでございます、微妙なところを攻めていくのが、攻殻機動隊、知らんけど」「違うよね、言いたかっただけ?」「見て、この鉄棒。錆びてる」「錆びてるね」「これは昭和の霊が宿ってる証拠。紫に発光してる。逆上がりできなかった子どもの怨念が、まだ回ってる、二宮金次郎となって、トイレの花子さんになって、走る骨格標本になって、最終的にハンターハンターのキャラになってる」「二宮金次郎の銅像も、トイレの花子さんも、走る骨格標本も、そもそもこのグラウンドにいないし、ハンターハンターは完璧に関係ないよね、ヒソカ? レオリオ?あと、このグラウンドにそんなキャパはないよ!」「回ってる。ほら、鉄棒の下の砂、ちょっとだけ丸くなってる、この溢れ出るカリスマ、アレクサンドロス大王も知ってる」「それは風だよ、あと、カリスマもアレクサンドロス大王も―――」「―――風じゃない。霊の回転。あと、カリフォルニア!そんなだからうちのお母さんは、キャベツのことをキャベチって言ってしまう一番ひどい時は、キャパシティって言ってしまう」「ちょっと待って、それどんな文脈で使うの」「八百屋で『キャパシティ一玉ください』」「買えてるのが凄いね、でも面白いお母さんのようでいいじゃないか、あと、カリフォルニアは関係ないよね」「そうやって都会の人は田舎の人のことをせせら笑う、強い風がバオンバオンドゥルルルルバンバンと吹いている」「そんなことしないよ、あと、特殊な擬音ありがとうございます」「じゃあ、あなたのお母さんの面白いことを話して」「そうだな、時々何をしに来たのかよくわからずに二階に来てたな」「―――うちもある」「だから都会と田舎なんて別にないんだよ、それに前回、お花摘みのイノシシ君で、無事村の一員になれたんじゃないの?」「―――白線、ほとんど消えかけてる」「いま、無視したよね? 都合の悪いことを聞かれて無視したよね」「消えてるけど、夜になると勝手に引き直される、絶対防衛ラインとして」「誰が?」「体育委員の幽霊」「そんな幽霊いないよ」「いる。体育委員は責任感が強いから」「もしかして―――」「クラスメート、ちなみにいまも生きている。四国の高知へお嫁に行った」「生霊? っていうか、体育倉庫、まだ残ってるんだ」「開けると昭和五十二年の空気が出てくる」「そんな保存状態ないよ」「ある。ほら、竹馬。これ、昭和五十二年の竹馬の匂い、空気が圧縮冷凍されて出てくる」「そんなタイムカプセルみたいな保存状態ないよ、大体、匂いで時代を判断しないで」「判断できる。村の女の子は鼻がいい。ホッキョクギツネと同じくらい」「絶対ないよ、あとホッキョクギツネを基準にしないで」「そしてそういうあたしだから分かる、ニュルンベルク年代記はどこだ、ローマ法大全はどこだって探してる、あなたは廃校というのをいいことにあたしの思い出と、その身体を狙いに来た」「―――まだそのネタ引っ張る?」「死ぬまで言い続ける覚悟」「あ、猫がいるね」「この猫、元・校長先生の生まれ変わり」「また転生? てか、本当に死んでるの?」「多分死んでる、十中八九死んでる。校長先生はよく日向ぼっこしながら光合成してた」「植物になっちゃってるよ! それに理由が雑だよ、あと、校長先生を殺さないで」「雑じゃない。猫がにゃーじゃなくてやめなさいって鳴いた」「鳴いてないよ」「鳴いた。あたしには聞こえた、間違いなくブレインロット」「もうブレインロット言いすぎだよ」「たとえばあの落書きは古代文字。村の歴史書に載ってるグラウンド文明の遺跡」「そんな文明ないよ、作り過ぎだよ」「ある。ほら、○○参上って書いてある、これは参上族の印、習字でゆっくり書けって先生言っているのに三十秒で書いてしまう(?)そしてほら、『夜露死苦』って書いてある。これは暴走族―――じゃなくて、夜の露に死を悼む苦行僧の印、これも三十秒で書いた」「君の解釈ではそうだけど、ただのヤンキーの落書きだよ、あと三十秒で書いたのは苦行じゃなくて怠惰だよ」「で、本題。あたし、一度でいいから運動会で一等賞をとってみたい」「急にどうしたの」「あたし、病弱だったから、短距離走はいつもビリ。そもそも運動会に出られたのも、小学校低学年だけ。そういう行事ごとになると熱がよく出た。だから一等賞になってみたい」「―――僕が来なかったらどうするつもりだったの?」「妖怪や魑魅魍魎と一緒に運動会するつもりだったってこと?」「わかった、一等賞とれば未練はなくなるんだね、一肌脱ぐよ」「ワナコレ、そして林檎農家の二十三歳の女が襲われる」「止めて」「止める」「でも運動会がないなら、作ろう。概念だけで成立してる行事だけど、これより第一回・緊急臨時運動会を開催する―――よ・・!」「―――照れる」「ちょっと待って、僕も照れるからね。さあ、開会式省略、選手宣誓省略、昼の弁当省略、PTAのクレーム省略。―――さあ、グラウンドに行こう。出場選手は君だけだから、スタートした瞬間に一等賞確定」「出来レースどころか、ただの自己満足、あなたも一緒に走って」「なんで僕まで」「あたし一人じゃ競争にならない。誰かに勝って一等賞にならないと意味がないし、こちらが本音、誰かを物理的に蹴落として一等賞にならないとドーパミンが出ない」「君の劣等感をナントカしたい気持ちは分かるけど、体格差があるし、君は足が遅いんだよね」「じゃあ、あなたのコースに四十二個の落とし穴を掘りつつ、亀の甲羅で迎撃する」「マリオカートじゃないんだよ! あと、穴掘ったら新・障害物競走だよ」「じゃあ対戦車地雷を―――」「止めようね」「じゃあ穴掘りよろしくお願いします」「自分で掘って自分で落ちるの、嫌だよ」「じゃあ自然にスピード調整よろしく」「なんてブラックな運動会だ」「でも両足にニ十五キロのウエイトつけて、目隠しで、逆走で、校歌歌えとは言わない」「それもうハンデじゃなくて自爆というんだよ、林檎農家の娘さん」「保護者が望む最高の運動会、ベストポジションで、記念写真撮影会」「そんなリアリティいらないよ」「行くよ。よーい・・・・・スタート!!!」「遅っ! 亀だ。八百長するのも一苦労だ(わざとらしいほどのスローモーション・・・・・くっ、足を高く上げすぎて、まるでパントマイム芸人だ・・・・・・、まるで重力百倍の部屋にいるベジータだ・・・・・・、いや、まるで終盤に差し掛かったワンピースの戦闘シーンだ・・・・・・)」「わーい! 一等賞だぁー!」「はぁ―――はぁ・・・・・・全国の壁は厚かった・・・・・。せめてこのコースの土を持って帰ろう」「わざとらしい。敗北の演技がわざとらしい。もっと自然にやって。じゃないと達成感がない」「世界は残酷だ。でもそれと同じくらい美しい・・・・・・」「進撃の巨人禁止。あと演技が過剰」「わかった―――馬鹿なっ! 俺の計算を越えてきただと!?戦闘力フリーザ級・・・・・・!」「いきなり頭脳派キャラにならないで。あとドラゴンボール禁止」「へっ、こいつさえ装備してなければ楽勝だったのによ・・・・・・」「それ普通の靴だよね。負け惜しみやめて」「だがしかし、どんな舞台裏があったにせよ、君の勝ちだ。一等賞おめでとう、これで立派な大人になれるね、そしてもう過労死寸前の掛け合いも卒業だね」「立派な大人にはなれる、尾崎豊も歌える、でも、これからゴーヤチャンプルーを作る美味しい店へ行こう、なんくるないさーって言って」「それ、沖縄料理店?」「違う。村の喫茶店、別名イタリアン。豆乳ドリンクも置いてある。店長が沖縄に旅行行ってから、沖縄料理に目覚めたって。でもゴーヤチャンプルーしか作れない。あと、タピオカぜんざい」「ぜんざい?」「沖縄関係ない。そこは未開拓ゾーン。誰も突っ込まない、村の平和はそうして守られてる」「――そういう平和もあるんだね」「ある。バッタもそう思ってる」「体育委員長の転生体が?」「そう。あれはいい転生をした」
2026年03月21日

「HEY! ヘイヘイヘイ! 異議ありまくりマクリスティ!!ラクリマ超えクリスティ超えマクリ超え超え超えェェェ!!りらっくま、それはカワイイぃぃぃ(?)これは失敬、ジャスティス・バーニング法律事務所、代表弁護士の焔ジャス夫でござりますリュ!!超絶炎上無敵永久機関マックス焔ジャス夫、ドSバーストでござりマスゥゥゥ!!オブ・ザ・イヤー!!オブ・ザ・センチュリー? オブ・ザ・マルチバース!!ソーリーじゃないのサラマンダー、えくすきゅーずミーティングルームでナニをしておりまんがな、それはひとつの、セッション・イン・ザ・ダーク?ああ、縁の下のマッスルマン、六法全書ちゃん、今日もご機嫌いかガ~、We are friends、イエヤア、ズッ友ォ、ノーリミット、ノンドレッシング、NA!KA!MA!ァァ!uun...それはSushiとGeisha」「正真正銘の日本人で、ラリアットですよ。ハイレグエナジーこけおどし大気圏突破!外国へ留学しタのかと言われれば、オフコース、行きましたトモ、イィィィィィンド〜〜〜!!すげーすげーすげー、コブラが洗濯機ィィィ!額から、どどどどどウォーター噴水ショー!!ガンジス川がドバドバドバドバ、ウォーター・プリティー・スプラッシュ!!身も蓋もナイ? ノンノンノン!蓋がナイなら、ワタシが法的に閉めマース!!イッツ・リーガル・タッパーウェアァァァ!!オブ・ジ・エン、オブ・ジ・ユニバーァァァ!!!!!!」「民法709条ァァァァ!!mealとかfoodとかriceというのは間違い、全部ちがァァァう!!それはME! SHI!メシは正義の燃料デース!!胃袋へのダイレクト・リーガル・インジェクション!!メシは正義のガソリンスタンドで〜す、バックドア!!」「どうして殴り合いのオサルのジョージ達がァ、生まれてしまっタ~のか、木魚を叩けばジュラシック・パーク三千ヘイホウメー、シンバル叩けば沙羅双樹で三千ネン、シンバル叩けばアンゴルモォアで三千エン、塵も積もればマウンテンフジヤマボルケーノ、塵も積もれば超新星爆発および損害賠償請求書一兆通!!ヒュウウ、それはヒューマン一トゥワイスに敏感、それワ、正義のパンチです!あなたガァ~料理ィをつくるならァ県、わたしはァ、お皿をあらいぐましまShowの刑に処しMAX!TOKA! KOKAN! KOUKAN!!ZEN! KAI! RETU!!!!!!」「真の怒りヲォ、生み出すモノとはァァァ・・・・・・何カ!!テトリスモンスターがフィールドをクロスオーバーし、契約違ハン? ハハン、不法行為? 名誉キッソン?ノンノンノン!!全部まとめて超次元不法行為スーパーコンボァァァ!!男が本気で怒る理由はただひとつ・・・・・・、男が本気でバーストする理由はただひとつ・・・・・・、アマゾンライダー、大切な人の権利を侵害されたからに決まってるだろォォ!!セイはイージーでドゥーはディフィカルト、Omae wa mou shindeiru(?)イエス、正義の保全!!だがしかし!! お前はもう訴えられてるゥゥゥ!!」「奇妙ナことを言いますね〜!余は、拙者は、ベンゴシですよ?エレクトリックキャビアですヨ~!!!マンゴスチンのエレトリックサルスベリですヨ~~~!アっバンギャルドですヨ〜〜〜!草生エて牛呼んデ、平和ボケしたのでござ、ござ、ござ・・・・、草生えまくり牛爆誕まくり平和ボケ爆発まくりで、宇宙崩壊寸前でござ、ござ、ござ、ござァァァァ!!ゴザイマセーン!!!相談ニ来たニ決まってるじゃないですカー、足利義政じゃないですCar!!HAHAHA!!ワタシニ不可能ハ、あッリマセーン!!すべてのヒューマンにエイヨウをォ、イッツ・ミラクル・リーガル・パワー!!マイシティーにカムアロング、ヒョォォぉ、マキシマムまむしドリンコ(?)」「って、アンタはぁ、バカ野郎ですカァァァ!!!アホウドリぃですァァァァァ!!!カノジョはぁ、怒ると法廷モード入る言うたやろがい!!アハハハ、キのせいデス!どしたん、はなしきこか?アナター、手荒れてマスねぇ・・・・・・、ガーガーバードに、ポッポトレインにィ、損害賠償、請求スル?」「カノジョは今まで怒り過ぎたためニィ、怒りゲージ許容量を超えてしまっテいるんですヨ〜。オーノー、それはヨーコ、横浜中華ガアァイ、これハ非常に危険な状態デ〜ス!!清水のステージからダイブするようニィ、法廷で爆発しゅるでござりまんがな!!これハ非常にデンジャラスな状態デ〜ス!!ハイ、訴状できマシタ!これでもかとカオスを盛りに盛りに盛った結果、もう何が何だか分からなくなってるだろォォ!!これが・・・・・・真の焔ジャス夫・インフィニティ・バーストだァァァ!!」
2026年03月21日

午前七時三十二分。駅前ロータリーは、朝陽がビルのガラスに反射して、まるで巨大な拡散板みたいに白く光っている。いや、反射板じゃなくて焼き肉の網だ。ジュワァァァって音が聞こえる気がする。網脂がじゅうじゅう言ってる。朝から焼き肉か。ありがとう、朝陽。もーって言え、朝陽も喋る。もー、モーツアルト(?)、、、、、 、、、、、、、さあ始まる、モーモーミート(?)通勤客の影が長く伸び、「今日だけは異世界転生してえ・・・・・・」風が紙コップを転がし、その紙コップが自分で「ふぁw重力えぐっ」って呟いてる(幻聴)スピーカーからは「本日は晴天です」というアナウンスが、妙に湿った声で流れているなと思ったら、アコースティックギターの弾き語り、流しだな、あれは十年選手、そこはとても重要(?)駅のアナウンスが途中から、「・・・・・・なお、本日のラッキーカラーは・・・・・・」と勝手に占いを始めている、多角経営は基本だ、余計なことはするほどいいって、スピッツの歌詞にあったような―――気がする。「・・・・・・なお、今日の乙女座のラッキーアイテムは、高枝切りバサミ〜♪ あるいは物干竿~♪」通勤に邪魔すぎるだろ。スピッツもびっくりだ。「あと、本日のラッキーアイテムは、電動ア☆穴☆ブラシ、税込19,800円でーす♪」、、、、、商売するな。歩道橋の上に鳩が十羽も車をドライヴウォッチングしている。あれ高級車だなとでも言っているのだろうか?目敏く見ていたのに気付かれたのだろうか、聞こえるように喋って来る。「あれ高級車だな」「いや、あれ軽自動車だな」「いや、あれ車じゃなくて移動式サウナだな」お前等、鳥目じゃなかったのか。視力良すぎだろ。自販機が、まだ押されてもいないのにガコンと鳴り、通り過ぎただけでホットの缶汁粉を剛速球で射出してきた。エスパーか。、、、、、 、、、、、、、、、、、、っていうか、それ絶対みんな選ばない奴。あったかぁ〜い缶の汁粉をドーン!、、、、 、、、 、、、、、、、どしたん、怒たん? 話ぐらい聞こか(?)改札が、まだカードもかざされていないのに、「ピッ! 未来のあなた、承認!」「あ、すでに遅延確定っすね!」と煽ってくる。AIが進化しすぎて性格悪くなってる。よくあるハートフルマインドな朝だ。そんな中、彼女が横断歩道を渡りきった瞬間、三人の男が、まるで待ち伏せの儀式みたいに同時に振り返った。ナンパ男A。全身レモン色のスーツ。胸ポケットには何故か生のレタスが差してある。靴は片方だけローラー付き。どうしてそれでナンパしようと思ったのかはさっぱり分からない、宗教の勧誘か、マルチ詐欺の方がまだ信じられる。しかしいつのまにか、自分の街はこんな風になってしまったんだろう、人力車が走っていて、よく見るとそれは相撲力士だ。、、、、どすこい、時速六十キロで走っているが、マワシが取れないかがすごく気になる(←庶民)「ねぇ、待ち合わせ・・・・・・?(バリバリバリ)」レタスをガチで齧りながらナンパしてくる新ジャンル。声がやたらと囁き声のウィスパー仕様で、駅前のざわめきに全然合っていない。ASMRかよ。需要ゼロ。市場調査をしろ。宙を見上げると、銀色の円盤のようなものがジグザグ移動している、宇宙人も金曜の夜を引きずっているらしい。飲酒飛行はやめろ。なんだって、ヤク〇ト飲んだだけだって。なになに、ちょっと変な味のするオレンジジュース飲んだだけって。、、 、、、、、、、、、、、それ、警察官の前で言えますか?空からポップコーンが降ってきた、と思ったら宇宙人が、映画を観ながら飛行していたらしい、こぼすな。そしてナンパ男B。巨大なキャップを深くかぶり、つばが肩に当たっている。Tシャツには水曜とだけ書かれているが、今日は土曜日だ。コーデが四日ズレているだけでなく、人生も四日ズレていそうだ。「俺たちと遊ばない・・・・・・?」語尾が上がらず、淡々とした読み上げ音声みたいだ。Amazon Pollyかな(?)ナンパ男Cにいたっては、何故かエプロン姿。エプロンには空気清浄器と刺繍されている。ありえないほど気持ち悪い(?)手にはチーズナンの模型(発泡スチロール製)「一緒にチーズナンの食べ放題の店、行こうぜ。あと、美味しい炭酸水の店、知ってんだ」チーズナンと炭酸水の組み合わせ、胃の中で何が起こるか見てみたくもあるが、、、、、、、、、、、、、それは多分お前とではない。足元の地面がピキピキと亀裂が入り、温泉水がくじらのように噴き上げている。スーツ姿の男が、信号機に向かって深々とお辞儀をし、OLが、どうみても可愛い虎を散歩させている。ヤンキー漫画の不良が更生するより早く、任侠の道に入った虎を(?)駅前ロータリーは、もはや交通の結節点ではなく、勧誘のための巨大な臓器みたいに脈打っている。横断歩道の白線が、一歩ごとに微妙に間隔を変えてくる。まるでこちらの歩幅に合わせて、歩きやすさを提案してくる営業マンのように。信号機が瞬きをする。赤、青、黄。その切り替わりの一瞬だけ、ねえ、少しだけ時間あると色温度で話しかけてくる。「ねぇ、ちょっとだけ赤でいてもいい?俺、君の前で赤になりたいんだ・・・・・・」「ヤスユキチックに君だけの消防士になってもいい・・・・・・?」、、黙れ(?)(以下省略)A「そんな冷たくシカトしないでよ~(バリボリ)」*レタスをかじる音B「俺達とフィバらない?」C「いーじゃん、ちょっとだけ俺達に付き合ってよ~、悪いようにはしないからさ」A「マジ光回線と一緒に契約するとスマホ代めっちゃ安くなるんだって、嘘じゃないって! サンダーボルト!」、、、、、、、サンダーバードがどうしたって?ナンパからゴリゴリの通信回線営業へのシームレスな移行。B「今なら何と、二〇〇ポイント贈呈! 地獄谷めぐりもつけちゃう」、、、、いらんわ。その瞬間、通勤客が一斉に彼等を避けるように流れを変え、まるで駅前の空気だけが彼女の周囲で歪んだみたいだったモーゼの十戒だ。男達は三人とも、彼女の返事を待つでもなく、妙に期待した笑顔を貼り付けたまま微動だにしない。それがネトウヨ患者とは別物の異様なオーラを放つ。だんだんホラー映画のラストシーンみたいになってきた。朝陽が彼らの奇妙な服の色を反射して、駅前の光景は一瞬だけサイケデリックな祭りのように見えた。おっと、自転車が誰も乗っていないのに自走している、、、、、、、、、、、何処へ行くンですカー(?)、、、、おはよう。今日も生きてるだけでえらい。
2026年03月21日

ビル管理を仕事とする上でやはり資格を取った方がいい。とある会社では、資格が多いほど資格手当が出るからだ。上位資格として三種の神器というものがあり、「第三種電気主任技術者」「ビル管理士」「エネルギー管理士」がそれだ。そのどれか一つ取っているだけでも会社の待遇は変わるし、(三種の神器をすべて持つと、管理職待遇にならずとも手取りが大きく変わる、)福利厚生が充実した企業に就職できる。ちなみにビル管理というのは凄まじいもので、事業目的で使っているほぼすべての建物を管理する可能性がある。オフィスビル、公共施設、学校、病院、工場、ホテル、デパート、美術館、映画館、物流倉庫、データセンター、図書館、大使館、博物館、遊園地、空港などなど。なお、ビル管理を仕事とするなら、ビルメン四点セットは必須だ。【第ニ種電気工事士】と、【危険物取扱者乙種第四類】と、【ボイラー二級】と、【第三種冷凍機械責任者】だ。中でも第三種冷凍機械責任者は年に一度しかなく難易度が高いが、是非とも取っておきたいものだ。すべての会社にではないが資格手当というのがあり、ビルメンの給料を上げていく手法である。ちなみに未経験で無資格の場合、大都市圏であればニ〇万円~ニ三万円前後、地方であれば一六万円~ニ〇万円前後になる。また、「資格報奨金」というのもあるところにはあるようだ。この資格報奨金は、試験合格時に一時金(数万円)で支給。これ目当てに勉強する若手もいるが、ベテランは「取って当然」という空気。多くのビル管理ではビルメン四点セットの中の三つ保有していることを、正社員の条件としているところもある。ビルメン四点セットのうち三つを正社員条件とする会社では、未所持者は「条件付き採用」になり、入社後一~二年での取得が事実上の義務となる。こういう書き方をすると強制されているみたいで、嫌だと思う人もいるかも知れないが、資本は肉体、資格は資産という考え方ができる。学歴だって資格だって考え方次第で、人生における解像度を上げるためのものだ。とはいえ、数は限られるものの資格がまったくなくても、募集しているところは存在する。(人事部も資格を取るように指導する。それでも、頑なに資格を受験しない人達もいる、)何の仕事もしてもそうだけれど慣れれば一生の仕事になる。ただ、こういう考え方もある。資格は鎖であり、翼でもある。社畜モードへ一直線の陥穽だ。四点セットを揃えた瞬間、現場の扉が一枚開く。だが三種の神器を手にした時、「選任」される重みが肩にのしかかる。電験三種の免状を握りしめ、高圧室の扉を開ける音が、自分の心臓の鼓動と重なる。ビル管理士の講習で学んだ衛生の言葉が、夏のクーラー室の黴臭い空気の中で蘇る。エネルギー管理士の計算式を、深夜のエクセルに打ち込みながら、「これでカーボンニュートラルに近づいたか?」と自問する。、、、、、、、、、、、、、、世代間ギャップというのもある。若手はスマートフォンでBMSの遠隔監視に慣れているが、ベテランは五感で異常を察知する。この融合が強い現場を作る。平均年齢五十代、六十代も珍しくはない。だから若者が入ってくるだけで空気は変わる。そしてOJTという名の放流。鮭か? 、、、、、、産卵しに行く(?)「見て覚えろ」と言われ、見てもわからないことだけが残る。だが三年後、同じことを言っている自分がいる。現場はさらに国境を失いつつある。技能実習から育成就労へ、ベトナム、フィリピン、インドネシア、ネパール。「アッ、コレ、ヤバいネ」片言の日本語で警報盤を指差す後輩。英語とジェスチャーと翻訳アプリで、「この冷凍機のオイル、漏れてるよ」と伝える。さて、大都市圏では、未経験無資格でも一定の需要があるが、地方では「地元で長く働ける安定性」が評価される。都市部からUターンしたビルメンは、その汎用性の高さから重宝される。地方の独立系中小企業では、給与水準は低いが、地域のコミュニティとの結びつきが強く、仕事の顔が見えるやりがいがある。そして報告書に「異常なし」と書いた瞬間に異常が起き、「経年劣化」と書けば大体許され、「要経過観察」は魔法の言葉であり、「至急対応願います」は呪いの言葉だ。ビルメンがベンチに座って、空を見上げながら目蓋を押さえたくなる(?)報告書、作業日報、点検記録、是正報告、見積書。、、、 、、、 、、、ハンコ、ハンコ、ハンコ。電子化されたはずなのに、何故か紙が増える。誤字一つで信用が落ちる世界。だが現場は誤差だらけで回っている。ビル管理には良し悪しはあるものの、「残業がまったくない」とか、「ノルマ・納期が一切ない」というのがある。朝に点検業務を終わらせて昼からはずっと待機、ゲームしたり漫画を読んでいることもできる。また、資格があれば、四十代や五十代でも比較的転職が容易だというのもある。ニートでも働きたい職業だろう、と思う。ただ、現場ガチャという言葉があり、時にはブラックな現場へ回されてしまうこともある。(ビルメンは現場次第、会社次第、という言葉もあるようだ、オーナー側から無茶な要求や契約、時には掃除や警備、場合によっては鍵の管理や貸し出し対応することもある、)じゃあそのブラックな現場って何かといえばだが、ビルメンには三大地雷現場といわれるものがある。具体的には「ホテル」「病院」「商業施設(百貨店)」だ。(他にも「駅ビル」とか、「空港」や「遊園地」や「水族館」がそうだ、ちなみにホテルは客室関連でビルメンにお任せ状態、机直して、壁紙直して、電球切れたなどなど。温泉やプールがあると、深夜の営業終了後に点検。厨房関係になると職人気質が多いから、今使いたいんだすぐ直せ、)これらの現場には不特定多数の人が出入りするという共通点があり、ホテルや病院などは建物が二十四時間三百六十五日利用されている。利用者が大人数で、さらに建物が利用されている時間が長ければ、トラブルの発生頻度が多くなりやすい。トラブルの発生が多いということは、多忙だ。そしてブラック現場の本質は「多忙」だけでなく、「理不尽な要求を跳ね返す仕組みがない」ことにある。ホテルや病院では、お客様対応の延長で、ビルメンがフロント業務の代替をさせられることも。「オーナー側の無茶な要求」の典型は、予算がないからと法定点検を先延ばしにしようとする圧力。これを断れないと、事故が起きた時に責任を被る。一方で「ホワイト現場」でも、楽すぎて技術が錆びつくジレンマがある。「オフィスビルは楽」とされるが、そこでの経験だけでは複合施設への転職が難しくなる。ビルメンがやりがちなことを挙げれば、「蛍光灯の交換」世の中がLEDに移行しても、古い建物には蛍光灯器具が残る。グローランプの交換一つで、テナントの表情が変わる瞬間を知っている。「テナントの引越し対応」鍵の受け渡し、エレベーターの貸切運転、養生設置。これらは明文化された業務ではないが、頼まれたらやるという暗黙の領域。「植栽の手入れ」外構部分が管理範囲に入ると、剪定や除草も。夏場の草刈りは3Kの最たるものだが、終わった後の爽快感は格別。「ポンプの軸受交換」異音を聴き分け、振動計で数値を読み、適切なタイミングで交換する。これができるかどうかで、給水停止などの重大インシデントを防げる。「便器つまり」これは鉄板作業の真髄。ラバーカップから始まり、コイルスプリング、高圧洗浄機、時には便器撤去まで。原因がおしりふきとわかった時の、あのやりきれなさ。迷子の子どもを探したり、酔っ払いを保護したり、トイレで倒れた人を救助したり、変な落とし物を処理するのも、これビルメンの仕事だ。監視カメラの死角を把握し、ミステリー小説をリサーチし、どのトイレが一番綺麗か知っているので猫になり、どの階の空調が一番寒いか知っているので炬燵に布団する(?)昼間はテナントの営業音やエレベーターのアナウンスで隠れていた、建物の呼吸が、夜間点検ではっきり聞こえる。エアコンのドレンパイプを水が流れる音、膨張継手が温度変化で伸縮するキシキシという金属音、ポンプ室から伝わるモーターの低周波。エレベーターが非常停止した時の不気味な静けさ。非常用発電機の定期始動時の、あの一瞬ドンという衝撃。宿直室で聞こえる、どこかのテナントのサーバー室から漏れる、ファンの風切り音。誰もいないフロアなのに、建物は確かに生きている。そしてこの音の違いで、十万円か百万円か、あるいは人命かが決まる。たとえば、きらびやかなエントランスの真下、地下三階の機械室。ここは陽の光が届かない、コンクリートに囲まれたディストピアだ。巨大なターボ冷凍機が、鈍い咆哮を上げながら鎮座している。冷水と冷却水の配管が血管のように這い回り、保温材のグラスウールが経年劣化で粉を吹く。(あのチクチクする痒み、一度作業着の襟首に入ると最悪だ、)上層階の華やかなオフィスワーカー達は、足元で轟音を立てるこの巨大な心臓の存在を知らない。社会の歯車ならぬ、建物の内臓。僕等は情報を「見えるものだけ」で構成しようとしている、でも僕は情報を「見えないもの」をそこに含もうとしている。それは取るに足らないことかも知れない、まったくいらない情報かも知れない、でも世界はもっと様々な表情を持っているからこそ、人間や社会は文明へと押し上げられてゆくのではないのだろうか。まあもちろん、ビル管理業務は、「3Kイメージ(きつい・汚い・危険)」が最初からあり、水漏れや空調の異常など、トラブル対応は二十四時間態勢で、汚水槽の点検や高所での作業もある。(トイレの便器・洗面台の詰まりはビルメンの鉄板作業)そういう「裏方」の仕事であるのに加え、特に独立系の中小企業の場合は給与レベルが低いと感じる人もおり、中には残業しても残業手当が出ないという会社もある。また会社によって異なるが、時間帯が不規則な場合もあるし、「宿直」といって一日中会社にいなければならないこともある。(宿直明けのミーティング、髭剃り忘れても大丈夫、マスクつけて誤魔化す、まあ目の下の隈を隠すためかも知れないけどね)全国規模で展開している会社では、地方への転勤を伴うこともある。なお、「残業手当が出ない会社」は、基本給にみなし残業代を含んでいる場合が多い。しかし現場の実態はそれを超える。宿直は「労働」ではなく「宿直」という区分のため、手当は一律。深夜に警報で起こされても、基本給換算の時給で考えれば割に合わない。仮眠というのは眠りではなく中断であり、電話のたった一本で世界に引き戻される。午前三時の警報は、何故か精神に深く刺さる。、、、、、、 、、、、、、、そして始まる、深夜二時の巡回。(僕がそっち系の専門家だって知っている?)誰もいないはずの長い廊下で、数十メートル先のセンサーライトがカチッと点灯する。(ネズミか? それとも、)古い病院やホテルには、引き継ぎノートには決して書かれない出る場所がある。開かずの扉、用途不明の分電盤、図面には存在しない謎のデッドスペース。霊感なんてないと嘯くベテランも、特定の巡回ルートだけは足早になる。 シャフトエレベーターの点検中、真っ暗な昇降路を見下ろした時の、あの吸い込まれそうな底なしの暗闇と、吹き上げてくる埃っぽい風。、、、、 、、、、、、、あれはね、忘れられないよ、中国のデパートの地下駐車場なんだ。日常のすぐ裏側にある、ぽっかりと口を開けたシュールな非日常。そらぞらしさ、それが、人間と物の境目を作る。あるいは夜中の高速道路を見上げながらバイクで走っている感じ。ホラーってそういうものなんだ、、、、、、、、、、、、、、 、、、、、 、、、、、、、、、、わけのわからないものがある、それが脳を、自己を書き換えてゆく。誰もいない鏡張りの手洗いで、自分の作業服姿が無限に反射しているのを見ていると、自分もまた、この建物に取り憑いた地縛霊の、一人なのではないかと思えてくる。実のところ、世界中みんな亡霊みたいなものさ(?)とはいえ、楽なところもやはり存在する。「オフィスビル」とか「公共施設」や「大学」などは楽なようだ。また設備員の人数が十人程度の現場は楽な可能性が高い。ただ楽であればいいとはいうものの成長はしない。電気系の測定器が使えない、警報が鳴った時に何をして良いのかわかっていないパソコンで報告書が作れない、営繕対応をするときに必要な道具がわからない、ビルの法定点検が何の為かもわからない、図面を見ても分電盤やパイプシャフトの位置がわからない。ともあれ様々な要因から総じて離職率が高く、恒常的に人手不足なのに加え、スタッフの需要も増加傾向にあることから、経験、未経験を問わず求人は多いのだ。ちなみに外国のビルメンについて簡単に紹介する。「シンガポール」では熱帯気候ゆえ空調設備の管理が生命線。ビル管理は政府主導のグリーンマーク認証と直結し、省エネルギー性能が評価される。設備管理者はエネルギー・マネージャーと呼ばれ、高度なデータ分析が求められる。「韓国」では、ソウルや仁川の超高層オフィスビルや、スマートシティプロジェクトが、BMSを極めて高度に進化させている。IoTセンサーとAIが融合したリアルタイム監視が標準で、エネルギー使用量を予測・最適化し、CO2排出を自動削減。政府のSmart City Development Actにより、IoT/AIのビル管理導入が義務化されつつあり、市場規模も急拡大中だ。「ドイツ」でのビル管理はハウスマイスターという職種が伝統的に確立。技術者養成のデュアルシステムがあり、国家資格としての重みが日本以上に大きい。省エネ改修では補助金申請までが業務範囲。「オーストラリア」では省エネ改修補助金も豊富で、LED照明+太陽光パネル設置で補助金がガッツリ出るため、改修現場は補助金まみれのお祭り状態だ。、、、、、、、、それ書く必要ある?「アメリカ」でのビル管理はファシリティマネジメントとして確立。BMS(ビル管理システム)が高度に発達し、遠隔監視が主流。日本人ビルメンが現地で評価されるのは、異常音や微かな振動に気づくアナログ感覚と誠実な対応。「中東(UAEなど)」では外気温が五〇℃を超えるため、空調停止は即生命線に関わる。巨大な冷却塔とプラントを擁し、管理スタッフは多国籍。言語や文化の違いによる意思疎通が最大の課題。「北欧」では、Nordic Sustainable Constructionプログラムが、各国横断で推進され、建物全体のライフサイクルCO2排出を厳格に規制。既存ビルの大規模改修が最優先で、補助金・税制優遇が手厚いため、現場は「補助金まみれ」の様相を呈する。新築よりリノベーションが主流で、断熱材吹き替え、熱回収換気システム、地中熱利用、地熱ポンプの導入が日常茶飯事。ビルメンは、冬の極寒でも建物内の温度を二十℃に安定させる、魔法のような制御を担う。サステナビリティ認証が必須で、改修ごとに補助金申請書類が山積み。ベテランは「金は出るが、CO2は出さない。それが北欧の掟」と笑う。循環型建材の再利用も進み、古い木材を再利用した内装改修現場では、環境負荷ゼロが誇りだ。なお、ビルにはオフィスビルやレジデンスといった、種類や規模にもよるが、電力や空調、給排水、ボイラーなど多くの設備が備わっている。設備目安として、照明器具は十年、給排水ポンプ類は七~十年。(メーカーによる取替の目安)給水排水配管は三十年。給水メーターは八年が有効期限。電気メーターは計器の種類により異なるが、三・七・十年が有効期限。エレベーターは三十年といわれている。電気設備 : 受変電設備、通信・照明(非常)・蓄電池設備など。それに該当する資格は、第一種・ニ種電気工事士・第一~三種電気主任技術者。空調設備 : 冷凍機・冷却塔・ボイラー・空調設備、送排風機設備など。それに該当する資格は、ボイラー(特級・一級・ニ級)・第一~三種冷凍機械責任者。給排水設備 : 受水槽・排水槽設備・給排水ポンプなど。該当資格は特になし。消防設備 : 感知器・消火器・消火栓などの警報・消火設備などそれに該当する資格は、消防設備士(乙種・甲種)ビルが日々安全かつ快適であるためには、これらの設備を適切に維持管理していく必要があり、法定点検などの点検業務を行いながら異常や不具合がないかを確認し、必要に応じて修繕を行うことでビルのトラブルを未然に防ぐ。(大型機械には専門知識が問われ、下手に触ると故障を招く恐れがあるのだ、資格というのはそういう保険でもある、)法定点検とは、建物の安全性を確保するために、法令によって義務付けられた最低限の定期点検のことだ。「建築基準法」「電気事業法」「消防法」「省エネ法」「ビル衛生管理法」「水道法」「労働安全衛生法」「高圧ガス取締法」「浄化槽法」等の法令に基づいた、各項目の点検を、例えば年に一回、年に三回といった、定められた頻度で実施しなければならない。ところで業者(専門工事業者)とビルメンの関係は、主治医と専門医に似ている。日頃の異常をビルメンが一次診断し、業者が手術を行う。長年の付き合いだと、業者が「この建物はあのビルメンさんがいるから安心」と信頼してくれる。緊急時(深夜の漏水など)に駆けつけてくれる業者は、まさに命綱。神。逆にすぐ帰る業者は悪魔。日頃からの人付き合いと、キッチリした発注処理が信頼関係を築く。 見積りが高い業者は敵であり、でも結局その業者に頼む。業者との関係は恋愛より複雑で、政治より繊細だ。かように、オーナー、PM、BM、テナント、業者。全員が違う言語を話している。「できる」と「やる」は違う。「やれる」と「やらされる」はもっと違う。クレーム対応は、技術ではなく翻訳だ。そしてそんなわけでビルメンはホームセンターで、工具を揃える。ビルメンにとって工具は身体の延長だ。KNIPEX派、ホーザン派、マキタ派 vs. HiKOKI派モンキーは軽いほうがいい派、絶縁ドライバーはPB一択派など、これはもう宗教の一種だ。フランスの「FACOM」やドイツの「WERA」といったプロ用もそうだが、握った瞬間の信頼感が違う。僕は一度工具専門の本を買って腰を抜かしそうなほど驚いたことがある、(月刊トラック野郎ではないけどカミオンっていう雑誌もある、)自腹で高級工具を買うのは、この現場で生き抜く覚悟の証だ。色んな向きはあるけど、小さなLEDライト(ペンライト型)は三本は常備。一つはヘルメットにマジックテープ固定。暗所での点検時に、明るさより色温度にこだわる者もいる。また、工具の収納方法でその人の型が出る。現場用のバッグにすべてを仕分けして入れている人もいれば、腰道具で必要最小限だけ携行する職人気質も。そしてLEDライトを買い替え、鍵の閉め忘れ、窓の閉め忘れに異常に敏感になり、、、、、、、、もう本当にこれ、鍵の開閉音だけで、どの扉か、誰が開けたかわかるようになる。自分の足音で、床のタイルの浮きや、水漏れによる下地の劣化を察知し、空調の吹き出し口に手を翳さなくとも、その場の気流と体感温度で、「あ、この系統、風量落ちてるな」と分かる。異音にはとりあえずCRC吹きかけなんていうと笑い話みたいだけど、あの浸透潤滑油の匂いが、とりあえずの処置として安心感を与える。それから、呼んだ業者の人が自分よりテナントの人と仲良くてビビり、可愛い人や優しい人のクレームには行きたがり、(逆の場合はみんな死んでおり、)天気予報をチェックするようになり、(宿直の日に台風や大雪だと、大体死にたくなる、)汚い耐性MAXになり場合によってはトイレで暮らせるようになり、DPD粉体試薬のゴミが機械室や測定場所付近に落とし、作業着の下にネクタイをつける現場をダルいと思い、ジャージで出勤し、宿直をやるあまり週五勤務に限界を感じる。ちなみに、工場でトラック運転手が、三日以上休むと社会に復帰できないと言っていたのに、すごく似ている気がする。僕もコロナで五日プラスアルファで休んだ折りには、何だか休んでいる状態が怖くなった。そしてこの社会復帰が怖いという感覚は、三百六十五日動き続ける建物と、それを支える責任感から来る。自分が休んでも、設備は止まらない。AIによる予知保全。IoTセンサーの洪水。、、、 、、、、、、、、、、、、、、、そうだ、建物は黙ってデータを吐き続ける。IoTセンサーが振動を、温度を、電流の微細な乱れを、二十四時間三百六十五日、クラウドに送り続ける。AIがそれを咀嚼し、「ポンプの軸受、来月交換推奨」と画面に赤く点滅させる。便利だ、楽だ、と思う一方で、五感で嗅ぎ分けた「何かおかしい」の感覚が、徐々に鈍っていく恐怖がある。予知保全やスマートビルが急速に現場に浸透しつつあるので、ベテランと新技術の葛藤は必然だ。、、、、、、、、、、、、ヘルメットを脱ぐ人もいる。カーボンニュートラル。ZEB(ネット・ゼロ・エネルギー・ビル)ESG投資、古いビルの再生、ゴーストビル。空室率、テナント誘致。清掃員と警備員との境界。委託と自社の軋み。元請けと下請けの力学。責任の所在という見えない爆弾。ジャラジャラと腰で鳴る、数十本の重たいマスターキー。この重みは権力などではなく、全責任の質量だ。キーホルダーのタグの文字はすり減り、指先の感覚だけで目的の鍵を引き当てる。休憩室のパイプ椅子と、自動販売機の百三十円の缶コーヒー。(微糖派とブラック派で、何故か静かな派閥が分かれる、)スマートウォッチが「立ち上がりましょう」と、健康を気遣う警告を出してくるが、こっちはさっきまで脚立の上で、天井裏の黒い埃と格闘していたんだ。ふと見上げると、ドーム型の監視カメラのレンズが、無機質な赤い光でこちらを見下ろしている。BMSが建物を監視し、AIが効率を監視し、僕らが機械を監視する。だが、その僕等のサボりやミスを、今はカメラとログが監視している。一体どちらが誰を管理しているのか。、、、、、、、 、、、、、、、、、、、、、まったくもって、すこぶるつきでよい世界だよ(?)この仕事は「慣れれば一生」だが、それは「変化に鈍感になる」ことと紙一重。新しい設備、省エネ技術、法改正に対応し続けなければ、あっという間に使えないビルメンになる。それでも、ビルメンがいるからこそ、誰かが快適に過ごし、ビルの資産価値が保たれる。その縁の下の力持ちとしての誇りは、どんな資格手当よりも大きい。、、、、、、働き蟻なんだ。
2026年03月21日

日本の食や文化に深く根差している「日本茶」近年は抹茶が世界的なブームとなり、スイーツやラテとしても親しまれているが、そもそも「日本茶」とは何を指すのだろう?情報の波に呑まれ、誰もがスマートフォンの画面に縛られている現代。深夜のワンルームで、あるいは喧騒に包まれたオフィスの給湯室で、急須に茶葉を落とし、湯の温度が下がるのをじっと待つ時間は、ある種の「シェルター」として機能している。茶葉が湯を吸い、少しずつ開いていく微細な音。 ゴールデンドロップ急須を傾け、最後の一滴が茶碗の底に落ちる波紋。慌ただしく消費される現代社会において、この数分間だけは、自分自身と向き合う絶対的な静寂となる。かつて戦国武将達が、茶室という極小の空間に刀を外して入り、命のやり取りから解放されたように。現代の若者や疲弊した大人達もまた、一杯の日本茶の中に、ディストピア的な日常から一時的に逃れるための、「小さな茶室」を見出しているのだ。一般的に「日本茶」とは、日本で生産された緑茶のことを指す。同じ「お茶の樹」から作られる飲み物でも、発酵させずに作るものが「緑茶」半発酵が「烏龍茶」完全発酵が「紅茶」と分類される。その緑茶の中でも、製法によって味わいや香りが大きく変わり、さまざまな種類が生まれる。まずは「煎茶」日本茶の代表格であり、日本全国の緑茶生産量のうち54.2%(2020年統計)を占める最も身近なお茶。日光を遮らずに育てた茶葉を蒸し、揉みながら乾燥させて作られる。実は煎茶が広く普及した背景には、 ばいさおう江戸時代の文人・売茶翁(ばいさおう)の存在がある。彼は京都で煎茶を広め、「茶は身分に関係なく楽しむもの」という思想を説いた。現代の気軽に飲む日本茶文化は、こうした人物の活動に支えられてきたのだ。いまでは京都や東京のカフェで、売茶翁が広めた煎茶を現代風にアレンジしたドリンクが人気を集めている。話は逸れるが、売茶翁の思想と並んで、煎茶を広めたもう一人の立役者が、江戸時代中期の永谷宗円。彼はそれまでの「釜炒り茶」に代わり、「青製煎茶法」という現在の煎茶の基礎となる製法を確立した。これは茶葉を蒸して揉むという画期的な方法で、鮮やかな緑色と爽やかな香りを実現した。彼は「お茶は清らかに、そして手軽に」と説き、それまで贅沢品だったお茶を庶民のものに変えた功績は計り知れない。隠元禅師も忘れてはいけない、黄檗宗の開祖として知られ、中国・明から日本に渡ってきた僧侶だ。彼がもたらしたのは、寺院建築や精進料理(普茶料理)だけでなく、煎茶の淹れ方そのものだ。それまで日本では、抹茶が主流で、茶の湯は儀式的なものが中心だったが、隠元が伝えたのは、「湯を注いで茶葉をそのまま淹れる」というシンプルな方法。 えんちゃほう明の時代にすでに普及していた淹茶法で、急須を使って気軽に楽しむスタイル。面白いことに、隠元が京都・宇治に近い黄檗山萬福寺を建立した頃、ちょうど永谷宗円が「青製煎茶法」を完成させつつあった。隠元の影響で、煎茶は寺院や文人の間で静かに広がり始め、庶民層にも浸透する下地を作ったと言われている。隠元が将軍の徳川家綱に謁見した際、茶を献上したエピソードもあるが、そこでは「茶は心を清め、俗世の塵を払う」と説き、抹茶中心の茶道とは異なる「清飲」の精神を伝えた。この「清飲」という言葉は、後の売茶翁や煎茶道の思想にもつながり、「身分を超えて誰でも楽しめる茶」という流れを加速させました。つまり、永谷宗円が「技術」で煎茶を革新したのに対し、隠元は「文化」として煎茶を日本に根付かせる役割を果たした。両者が江戸時代中期に重なるように存在したことで、現代の「急須で淹れる煎茶」という日常風景が生まれたのだ。次が「玉露」高級茶として知られる玉露は、収穫前の20日前後、 ひふく茶園に覆いをかけて日光を遮る「被覆」を行う。その後の加工は煎茶と同じだが、旨味成分であるテアニンが豊富に残り、濃厚で甘い味わいになる。玉露は、かつて明治時代の文豪の夏目漱石も好んだと言われ、彼の作品にはしばしばお茶の描写が登場し、玉露の深い香りは知識人達の象徴でもあった。なお、夏目漱石だけでなく、江戸時代後期の川柳にも玉露は頻繁に登場する。「玉露の 旨さをしらぬ 若旦那」などと詠まれ、当時から高級品でありながら、その滋味深さを理解することが教養のひとつとされていた。また漱石は、胃を患っていたため、カフェインの少ない玉露を特に好んだという説もある。彼が「草枕」で描くお茶の描写には、そんな自身の嗜好と健康管理が巧妙に重ね合わされている。次が「ほうじ茶」香ばしい香りと飴色の水色が特徴のほうじ茶。煎茶や番茶を高温で焙煎して作られ、焙煎によってカフェインが飛ぶため、苦味が少なくすっきりとした味わい。最近ではスイーツやラテとしても人気がある。京都の老舗茶舗では、夕方になると焙煎の香りが町に漂い、観光客が「この香りを嗅ぐと京都に来たと実感する」と語るほど。ほうじ茶は、香りそのものが文化になっている珍しいお茶だ。 ところで、ほうじ茶の原料となる「番茶」は、かつては製茶工程で出た硬い葉や茎、収穫後の「秋冬番茶」など、いわば「端材」を有効活用する知恵から生まれた。それを高温で焙煎することで、香ばしさという新たな魅力が付与され、今では主役級になっている。また京都では、ほうじ茶を「あぶり茶」と呼び、地域によっては祝い事の際に飲む風習がある。香りが「京都そのもの」とされる所以には、こうした長年にわたる生活の知恵と愛着が深く関わっているからだ。 てんちゃ最後に、「抹茶(碾茶)」茶道で用いられる粉末状のお茶。玉露と同じく被覆栽培を行い、蒸した後は揉まずに乾燥させて、「碾茶(てんちゃ)」にし、それを石臼で挽いて抹茶にする。抹茶は室町時代、武士の間で「精神を整える飲み物」として重宝された。戦国武将の織田信長や豊臣秀吉も茶の湯を愛し、茶会は政治の場としても機能していたほどだ。一杯の抹茶が、歴史を動かす場面に立ち会ってきたのだ。茶の湯の精神を語るなら、豪商達が自治を築いた港町、堺の存在も忘れてはならない。千利休が確立した「わび茶」は、不足の中に美を見出し、削ぎ落とされた空間で一杯の茶に全神経を集中させるという、極めて前衛的な精神活動だった。名物茶器一つが一国に匹敵するとされた時代。お茶は単なる農作物ではなく、人間の価値観そのものを揺さぶる「概念」であった。その精神の遺伝子は、今の私たちが何気なく手にするペットボトルのお茶の底にも、静かに沈殿している。抹茶の歴史を語る上で外せないのが、臨済宗の開祖の栄西禅師だ。彼は鎌倉時代に宋(中国)から茶種を持ち帰り、『喫茶養生記』を著し、「茶は延命の仙薬なり」と説いた。これにより、それまで薬として扱われていた茶が、禅宗とともに武士階級に浸透。室町時代の「闘茶」という、茶の香りを競う遊びへと発展し、それがやがて足利義政の時代に「わび茶」としての、茶道へと昇華していく。信長や秀吉の茶会は、その流れの頂点にあったと言えるだろう。ところで栄西禅師の『喫茶養生記』にまつわる有名な逸話だが、少し掘り下げるとさらに面白い。1214年頃、将軍の源実朝が二日酔いで苦しんでいた際、栄西が茶を献上。するとたちまち回復したという話だ。このエピソードは単なる「健康茶」の宣伝ではなく、当時の武士社会で酒が日常的に振る舞われ、乱飲が問題視されていた背景がある。栄西は「茶は酒毒を解す」と明言し、お茶を「武士の養生薬」として位置づけたのだ。これが、後に茶の湯が武将達の間で、精神修養の道具として広まる遠因になったとも言われている。信長や秀吉の豪華な茶会は有名だが、その根底には「茶で心を整え、乱世を生き抜く」という栄西の教えが息づいていたのだ。こうした隠れたつながりや、意外な人物の関わりを知ると、日本茶は単なる飲み物ではなく、何百年もかけて人々の生活や思想に溶け込んでいった、「生きる文化」だと実感できるのではないだろうか。日本茶を語る上で、共に供される「食」との関係は切り離せない。たとえば、抹茶と「上生菓子(練り切り)」季節の花鳥風月を模した精緻な細工は、視覚で楽しむ芸術品だ。舌の上でねっとりと溶ける餡の強い甘みは、単体では重すぎるが、そこに点てたばかりの抹茶の、深緑の泡に包まれた鋭い苦味が流れ込むことで、 マリアージュ口内で完璧な調和が完成する。甘みを刃のように断ち切る渋み、その後に残る清涼感。これは単なるお茶請けではなく、計算し尽くされた味覚のコース料理と言える。一方、煎茶には「塩気」や「醤油」の香ばしさがよく似合う。みたらし団子の焦げ目や、薄焼きの醤油せんべい。これらを齧り、まだ温かい煎茶をひとくち含むと、醤油の塩角を煎茶の丸い旨味が包み込み、米の甘みがふわりと引き立つさて、お茶の美味しさを引き出すには、茶器選びも重要だ。特に大切なのが、お茶に適した温度のお湯を注ぐための「注器」まずは「急須」煎茶(約80度)に向いており、日本の家庭で最も一般的な茶器。横に持ち手が付いているのが特徴で、片手で扱いやすい形をしている。 ほうひん次に「宝瓶」玉露(50〜60度)に最適。持ち手がなく、内部が広いため茶葉がゆっくり開き、旨味をしっかり引き出す。茶器に関してもう一つ。煎茶や玉露の中間的な温度帯(60〜70度)の番茶や、新茶の香りを楽しむ際には、「手壺」という器が使われることもある。これは宝瓶と同じく取っ手がなく、陶器でできた小型の急須のような形状。宝瓶よりも口が狭く、保温性が高いのが特徴だ。お茶の種類や気温、その日の気分によって茶器を使い分けることが、日本茶の奥深さをより一層楽しむ秘訣とされている。なお、茶葉は食べても美味しい。緑茶を淹れた後の茶殻には、実は栄養の約7割が残っている。おすすめは、醤油を数滴垂らすだけの「茶殻のおひたし」驚くほど美味しく、お酒のおつまみにもぴったりだ。茶殻のおひたし以外にも、乾燥させて削り節と混ぜ「茶節」にしたり、醤油とみりんで炒り煮にして「茶の佃煮」にしたりと、地域ごとにアレンジが伝わっている。特に静岡県や京都府の一部では、茶殻を軽く塩漬けにして「茶漬物」として保存食にする家庭もあった。まさに「一葉残さず」という、日本古来の資源を大切にする精神が息づいている。あと、美味しいんだよね。ところで和束茶は、京都府和束町で生産されるお茶で、「桃源郷」ならぬ「茶源郷」と呼ばれるほど美しい茶畑が広がる。日本三大茶のひとつ、宇治茶の約4割が和束産で、特に碾茶の生産量は日本トップクラス。和束の茶畑は、海外の茶研究者が「まるで緑の建築物」と評したこともあり、世界中の茶愛好家が訪れる場所になっている。ここには今でも多くの「茶師」と呼ばれる職人達が、品質を守り続けていて、抹茶の製造工程で特に風情があるのが、茶摘み前の被覆作業。和束の茶畑では、収穫前になると一面が黒いシートで覆われ、まるで幾何学模様のような景観が広がる。海外の茶研究者が「緑の建築物」と評したのは、この茶畑の光景だけでなく、石臼で挽かれる前の碾茶が、濃い緑色の薄い板状になることから「茶板」と呼ばれ、その美しさを建築物に例えたという説もある。世界に目を向けると、お茶は国ごとに独自の文化を育んできた。中国では、茶は薬として始まり、烏龍茶や白茶など多彩な種類が発展。イギリスでは、紅茶が社交文化を形づくり、アフタヌーンティーが誕生。モロッコでは、ミントティーがおもてなしの象徴。台湾では、半発酵茶の烏龍茶が洗練され、世界的な人気に。その中で日本茶は、「旨味」という独自の味覚を持つ稀有な存在として注目されている。世界の多くのお茶は香りや渋みを中心に発展したが、日本茶は旨味という第三の味覚を追求した。その背景には、和食文化の「だし」の存在がある。世界の茶文化の中で、日本茶が「旨味」で勝負できるのは、玉露や碾茶に見られる「被覆栽培」という独自の技術あってこそだ。この技法は、日光を遮ることで、旨味成分であるテアニンを増やし、渋み成分のカテキンを抑制する。近年、この「旨味」がフレンチやイタリアンの世界でも注目され、ソースや料理のアクセントとして、抹茶や煎茶が用いられることが増えている。まさに和食の「だし」文化と通じる、日本独自の味覚の美学だ。近年、この日本茶の「旨味」は、世界のトップシェフたちを魅了している。アルコールを提供しない、「ノンアルコール・ペアリング」の主役として、高級レストランで日本茶が、ワイングラスに注がれる光景も珍しくなくなった。特に玉露や、氷水で一晩かけて一滴一滴抽出される、「氷出し煎茶」は、テアニン(アミノ酸)が極限まで引き出され、もはや飲料というより、極上の「黄金色の出汁」に近い。昆布締めの白身魚のカルパッチョや、帆立のポワレに、ワイングラスで冷やした玉露を合わせる。魚介のイノシン酸と、お茶のグルタミン酸系の旨味が舌の上で交差する瞬間は、現代の食文化が到達した新しい美学だ。また、焙煎香の強い「ほうじ茶」は、そのスモーキーな香りが、炭火で焼かれた赤身肉や、濃厚なチョコレートテリーヌ、あるいはジビエ料理と驚くほど合致する。香ばしさ同士の共鳴(メイラード反応の調和)を利用したこの手法は、お茶が「食後の口直し」から、「食を牽引するソース」へと進化した証左である。
2026年03月20日

体育館の両開きの重厚な扉が開閉するたびに、蝶番の内部で酸化した金属同士が擦れ合い、ぎ、ぃ―――という、音というよりは、マルツェル・ベーベルが描くドレスデンの廃工場の壁が割れるときの、圧力の逃げ場を失った空気が歪んで吐き出されるような、低く乾いた悲鳴を上げる―――はずだったのに、、、、、、、、、、、、、、、、、、今日はその音を一度も響かせていない。三月の柔らかな陽光は、角度を三十度ほどに傾け、カルラ・シュヴァイゲルが描くウィーンの地下鉄のような、体育館内部の幾重もの空気層を、薄いプリズム膜のように切り裂いていく。ぎらぎらしたその光の帯の中には、無数の塵芥がブラウン運動を描きながら浮遊している。体育館の中に溜まりきった人いきれと、花粉と、ワックスの匂いと、スピーカーから流れる校長の声の残響の上に、薄い膜のように降りてきては、床の白線や、並べられたパイプ椅子の金属の脚を、一瞬だけ白く光らせていく。卒業式の喧噪は、もう式次第が終わっているにもかかわらず、耳の奥の何処か鼓膜と内耳の境目あたりで、まだ微弱な電流みたいに震えている。拍手の残り滓、名前を呼ばれた時の自分の心拍、隣のクラスの誰かが泣き出した時の、マルタ・ポドゴルスカが数式で書きそうな空気の密度の変化。そういうものが、全部ごちゃごちゃの一緒くたになって、終わったという実感を逆に遠ざけている。脳の海馬体がまだ短期記憶を長期記憶へ移行しきれず、扁桃体の感情タグを剥がせずにいるかのようにって、、、、、、、、、、、、僕は何を言っているんだ?解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の出会いじゃないか。「大学、どうするの?」誰かが言った声が、体育館の高い天井に反響して、遠くのスピーカーから遅れて届いたみたいに聞こえる。切れかけた蛍光灯が最後にひとつ点滅するような、低電圧の電流が、神経回路の中を彷徨っているみたいだ。実際にはすぐ隣で話しているのに、距離感だけが妙にずれている。視界の端で、彼女のスカートが、アンナ・インゲルソンの描く湖面の朝霧のようにしずかに、物憂げに、また緩やかに揺れる。椅子から立ち上がる時、ほんの少しだけ膝が触れた拍子に、プリーツの折り目が、光を受けてわずかに濃淡を変える。ポリエステル混紡の生地が屈折率を変え、影のグラデーションを刻む。そのシルエットが、琥珀の中に閉じ込められた虫のように思える。何万年も前に、樹液の中で動きを止めた小さな昆虫が、そのまま時間ごと保存されているみたいに、この瞬間だけが、透明な樹脂の中に封じ込められているような感覚。彼女は小さく笑って口元だけで表情を変える。歯はほとんど見せない、磁石が引き合う直前の一ミリの間合いのような、控えめな笑い方だ。その抑制された表情が、逆に内部の感情量を強く示唆する。「後期の試験、まだなんだよね」その声は、体育館のざわめきとは別の温度を持っていた。スピーカーから流れる声が空調の風に混ざって拡散していくのに対して、彼女の声は、耳のすぐ近くで、小さな熱源みたいに留まる。「一人暮らしの準備は進んでるの?」自分でも、少しだけわざとらしい質問だと思う。質問によって相手の反応を引き出し、玲瓏たる継ぎ目、関係性の確認を試みる。これは社会的動物としての生存戦略、群れの中での自分の位置を常に確認する本能の現れかもしれない。まかり間違って毛虫を掴んでいるような気分は続くわけだけど、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、パラフィン紙に包んだ生きた魚を握りしめているような、、、、 、、、、、、、、、、そうだ、何かを聞いていないと、この場の空気に飲み込まれそうだった。きっと寒さから来たわけでも、きっと淋しさというセロトニン欠乏から、来たわけでもな―――い・・。「順調そのもの。バイトも決まったし―――」彼女は指先でスカートの裾をつまみながら言う。爪は短く切られていて、透明なトップコートだけが薄く光っている。その指先が、これから触れるであろう、新しい生活のスイッチや、コンロのつまみや、洗濯機のスタートボタンという名の、パンドラの箱をまだ知らない。「でも電車で結構時間かかるよね」「まあでも、純粋に家を出たかったのもあるし」石鹸で洗っても落ちない何かを含むような、純粋にという言葉が彼女の口から出ると、少しだけ違う意味を帯びる。家を出ることが、解放なのか、逃避なのか、あるいはただの通過儀礼なのか、そのどれでもありそうで、どれでもなさそうで。フロイト的に言えば、エディプスコンプレックスの脱却であり、ユング的に言えば、個性化のプロセス。不意に思う、恋愛というのもそういうものなのだろうか、と。しんと口を噤めば、しきりに歪み合う、時空のブラックホールが見えてくる。式が完全に終わり、クラスごとの写真撮影や、担任の最後の挨拶や、泣き上戸の女子のオキシトシン過剰分泌による抱擁の連鎖や、記念写真のために肩を組まされる男子達の、それから一年後にやってどうするんだ俺は行かないぞって思った、同窓会のおしらせやらの、中坊とさほど変わらない、顔面神経麻痺のようなぎこちない笑いが一通り終わると、校門の方へと人の流れができる。どうでもいいけど、彼女のスコティッシュフォールドの歩みみたいな可愛らしい文字を、つつましやかに整列させて、みんなありがとう、とか黒板に書いているのを見てほくそ笑んでしまった。お前そんなキャラじゃないだろうと思いながら、濡れた紙に描いた絵ほどの抵抗もない。同じ釜の飯を食ったとか、裸の付き合いというほどではないにせよ、同じ教室にいた者同士は他人ではない。これから長い時間を経て、砂漠の地平線が陽炎の中に溶けていく。その時、蜃気楼のように一歩一歩その身を退けていくとしても。校門を出ると、バス停にヨアンナ・バトリックの小説の、亡霊達のように人が並んでいた。制服のままの未成熟な生徒と、スーツ姿の資本主義の歯車たる保護者と、近所の土着民と、たまたま通りかかっただけの遊牧民的サラリーマンとが、同じ列にカオス理論的に混ざっている。、、、、、、、、、、、、、、、大人になるってこういうことかな、それは多分違うけど、酒も煙草もできないけど、こんな瞬間を何度も乗り越えて辿り着くのだろう。子供から大人というブリュッセルの地下鉄の乗り換えのような、迷路をくぐり抜ける、現在進行形のトランジション状態へ。春の風が、制服の裾を少しだけ揺らす。風の中には、まだ冬の冷たさが残っていて、それが花粉と混ざって季節の引越し作業中の埃と呼びそうな、鼻の奥を少しだけ刺激する。バス停のポールには、色あせた時刻表と、去年の花火大会のポスターの残骸と、誰かが貼ったまま忘れられた家庭教師の募集チラシが、半分剥がれかけて貼り付いている。(QRコードがすでに読み取り不能だ)その上から、今日の湿度が薄く膜を作っている。バスが到着する。エンジンの低い振動が、アスファルトを通じて足の裏に伝わる。ドアが開くと、車内の暖かい空気と、ディーゼルの匂いと、消毒液の残り香が混ざった風が一瞬だけ外に吐き出される。バスに乗り込むと、彼女が自然な動作で隣に座る。窓側を譲るでもなく、通路側を指定するでもなく、ただ、そこに空いている席があったから、という顔をして。、、、、、、、、、重力の局所的な歪み。、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、それは一切のものが釣り合っているような状態だ。窓の外を見ながら、彼女が言う。「ねえ、今日はどうするの?」「どうするって?」鈍いふりをしながらも、その一言がどういう意味かも分かっている。『どうする?』の中には、折り鶴を全部広げると一枚の正方形に戻るような、いくつもの選択肢が折りたたまれている。このまま真っ直ぐ帰るのか、何処かでご飯を食べるのか。ゲームセンターに寄るのか、カラオケに行くのか。、、、、、、、、、、残響時間二秒の個室へ、フライアウェイ・・。それとも、今日という日を、何か特別な記憶として刻み直すのか。しかし今日は卒業式という特異日であり、その確率分布は大きく変動する。こんな日に猫カフェへ行きたいと言ったら、顎が外れるほど驚かれるかも知れない。、、、、、、 、、、、、、、、、柴犬カフェや、フクロウカフェも可。、、、、 、、、、 、、、とはいえ、とはいえ、なんだ。二週間ほど前にいらない映画のチケットあるんだけど、よかったらあげるわ、と彼女の友達から税関申告書を手渡す係員のように、超わざとらしく渡されたあたりで、え、いらねえよ、低位ありありのこみこみプランしか感じないしと言ったら、あげるって言ってんのよと逆ギレされた。、、 、、、、、 、、、、あと、足踏まれて、蹴られた。、、、、、 、、、これですよ、奥さん。僕の次の頁は聞いているだけで何となく興奮する感じになりつつはある。もうそれ答えじゃないか、だのに、曖昧な気持ちはいつだってするりと身を躱してゆく。まるで、シュレーディンガーの猫のように、観測されるまで重ね合わせ状態。、、、、、、、、、、、、、、、、、、、だからもうこの場所でもいいんじゃないか、と一瞬思う。バスの中という、何処でもなく、何処かへ向かっている途中の場所。ここで、この三年間の関係を終わらせるにせよ、続けるにせよ、新しい段階へと、勇み足をしそうになる。せいせいするな、桜が白く陽に光っている。「・・・・・・まだ一緒にいたいな。卒業式だし、あと、ハンバーガーおごってくれるって言ったし」彼女は窓の外から視線を外さずに言う。ガラスに映った横顔が、マルツェル・ベーベルが都市の窓の描写に使うような屈折で、少しだけ歪んで見える。外景の明るさと車内の明るさの比率によってコントラストが決まり、現在は外景が明るいため、彼女の像はやや不鮮明で、半透明のゴーストのように見える。、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、どうしてそんな切なそうな表情をするんだろう。表情筋の微細収縮が、眉間と口角に影を落とす。「ハンバーガーだけだぞ、ケチだからな」そう言いながら、自分でもその言葉が本心ではないことを知っている。嘘だ。きっと、何でも食べてくれって言ってしまう。彼女がメニューを前にして迷う時間すら、きっと愛おしいと思ってしまう。彼女は小食で、むしろ心配になる。ストレスで体重が落ちるような彼女は、大学生活はきっと大変だろう。新しい人間関係、(ゼミのディスカッション、グループワークの毛細血管の中の摩擦係数みたいな心理的摩擦)新しい課題、(レポートの蜘蛛の巣を素手で払うような引用文献検索)新しい通学路。(電車の混雑率百五十パーセントはなくなるにしても、見知らぬ環境二〇〇パーセントの、第三種接近遭遇的エイリアンの遭遇)、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、その心の支えになりたい気持ちはあるにしても、どういう立場で、というのも、ある。友達として、元同級生として。それとも、恋人として。もしかしたら人生をいま生きている参考資料の一つとして。そのどれかを選ぶことは、他の可能性を捨てることでもある。―――決定理論の機会費用。バスの窓硝子には、外の景色が二重に映っている。実際の街並みと、硝子に反射した車内の様子とが、薄く重なり合って、現実と内側の世界の境界を曖昧にする。しかしその言い方が、修学旅行のバスで眠そうに寄りかかってきた時と何処か似ていて、胸の奥が少しだけ熱くなる。あれがわざとだったらすごい、やられた、と思う。あの時、窓の外に流れていく海を見ながら、彼女は突然、「このままどこか行けたらいいのにね」と言った。海岸線に沿って走るバスの窓硝子には、波の白い縁取りと、防波堤のコンクリートの灰色と、遠くの貨物船の影が、途切れ途切れに映っていた。彼女の髪が、シートと自分の肩の間に挟まって、少しだけくすぐったかった。いまになってみると彼女のその言葉の意味を、当時は正確に理解できていなかったなと思う。今思えば、それは現実からの逃避願望であると同時に、この関係性の時間的限界へのアポカリプス的予感でもあった。多少説明のつかないぐらいの方が人生は面白いというけど、のんびりしている内に色んなことを砂時計の砂のように失ってしまう。学園祭の午後、着ぐるみの中で汗だくになっていた時、彼女が差し出してくれた紙コップのジュース。中身は、紙コップの外側にうっすらと水滴をつけたオレンジジュースだった。ストローの先に、マルタ・ポドゴルスカが観察記録に書きそうな、小さな泡がいくつかまとわりついていた。「おつかれ」その一言が、妙に嬉しかったのを思い出す。着ぐるみの中では、自分の汗の匂いと、布の内側にこもった熱気と、外から聞こえる笑い声が、全部ごちゃ混ぜになっていた。その中に差し込まれた冷たい紙コップは、一瞬だけ、世界の温度を変えた。まだ半信半疑だった頃には、彼女が異性の友情を感じているのかどうかとで迷った。本当に他愛ない思い出のワンシーンが最初の頃に戻る、彼女が入学式のその日の廊下で、体調に悪そうにしていたので保健室へ連れていった。熱が三十八度五分もあったらしい。それからすごいもので、三年間同じクラス、最初は隣の席、素っ裸のおっさんが出没するらしいと話を聞いて、なんかよく分からないまま一緒に登下校するようになった。時間は残酷だ。いや、本当に残酷なのは時間ではなくて、自分の夢と彼女の夢が違うことだろう。足並み揃えてというわけにはいかない、みんなそれぞれのフェアウェルでいっぱいだ。誰かは、遠くの大学へ行く。新幹線の座席指定券を握りしめて。誰かは、就職して朝早くの電車に乗る。スーツの肩に落ちる朝露。誰かは、浪人してもう一年ここに留まる、地図の端を折るように参考書のページ端が折れ曲がる。それぞれのさよならが、現在の矛盾を逆光的にとらえながら、それぞれの速度で進行している。バスがゆっくりと停まり、エアブレーキの音が、外科手術のメスが空気を切るように短く空気を切り裂く。二人で降りる。ステップを降りる瞬間、足の裏に感じるアスファルトの硬さが、さっきまでの車内の揺れとの違いをはっきりと教えてくれる。見慣れた景色に、感傷が細菌のように繁殖する。街路樹の枝ぶりも、コンビニの看板の色あせ具合も、横断歩道の白線の剥がれ方も、何も変わっていないのに、今日だけは、それらがすべて、最後に見るかもしれない風景として目に映る。視覚情報を処理する脳の側が変化したからだ。海馬体積の個人差、扁桃体の活性化レベル、前頭前野の抑制機能、それは継承と断絶の複雑な絡み合いでもあると思う、人はずっと一生同じ人間でいられるわけではない、だから同じ人間でいようと努力するのだ。「公園、行かない?」彼女が言う。声のトーンは、いつもと変わらない。でも、その提案の中に、今日という日の重さがカフェオレに溶けるシュガーのように薄く溶け込んでいる。池のある、あの静かな公園。小学生の頃、写生大会で来たことがある場所。中学の帰り道に、部活をサボって寄り道したこともある場所。高校に入ってからは、部活帰りにコンビニで買ったアイスを食べながらベンチに座ったこともある場所。記憶の座標系の原点のような場所だ。春の水面は、まだ冬の名残を少しだけ抱えていて、水温は低く、表面だけが光を反射している。風が吹くたびに、細かい波紋が広がる。波紋は、最初ははっきりとした円形を保っているが、やがて他の波紋と重なり合い、どこからどこまでが最初の揺れだったのか分からなくなる。ベンチに座ると、木製の座面が、冬の冷たさをまだ少しだけ残している。彼女は制服の袖をつまんで、指先で布の感触を確かめるようにしながら、のどかに小鳥の声が聞こえ、童話的な風景に思える僕を余所に、「なんか、終わっちゃったね」と呟いた。、、、、、、、、、、、、、、、布の織り目が指紋に食い込む感触。「終わったけど、なんか始まる感じもするよ、―――その、青空教室(?)」自分で言いながら、その言葉がどれくらい本心なのか、測りかねている。始まるという言葉には、期待と不安と、少しの虚勢が混ざっている。「・・・・・・そうだね」彼女は、少しだけ間を置いてから答える。その、そうだねの中には、そうだね、としか言えない言語の限界点、ウィトゲンシュタイン的沈黙のもどかしさも含まれている。池の向こうで、白い鳥がゆっくり羽ばたいた。翼の内側の羽毛が、光を受けて一瞬だけ透ける。その瞬間、卒業式の喧噪も、バスの揺れも、修学旅行の海も、学園祭の紙コップも、全部ひとつの線でつながった気がした。それは、一本の時間軸というよりも、何本もの細い糸が、この瞬間だけ一点で交差しているような感覚だった。多次元的な糸の結び目。「ねえ」彼女が言う。視線は池の方を向いたまま。「来年の春も、ここに来たいな」その言葉が、今日いちばん静かで、今日いちばん強い音だった。木々はいっせいに葉をひるがえして、陽を弾いているようだった。鼓膜に届く音量は小さいのに、心臓のあたりでの反響だけが大きい。次の瞬間、僕はその言葉を口にした。言葉にするまでに、ほんの一秒もかかっていないのに、その一秒の中に、三年間分の逡巡と、これから先の数年分の不安と、それでもいいやという諦めにも似た覚悟が、圧縮されていた。相対論的な時間伸張。彼女は満面の笑みを湛えて、「言ってくれないかと思った」と笑った。その笑い方は、いつもの控えめな笑い方とは違って、歯が見える。目尻に小さな皺が寄る。表情筋のオービキュラリス・オクイの収縮。その皺が、これから増えていくのかもしれないと思うと、何故か少しだけ嬉しい。老化の美学、時間の堆積。夕方の風が、ベランダの洗濯物を揺らす。場面は、いつの間にか現在に戻っている。ただそれだけのことなのに、胸の奥で何かが、磁器の欠片が引き出しの底に落ちるような音で、ひとつだけ音を立てて落ちる。洗濯物は、無印良品で買った無地のTシャツと、大学のロゴが入ったパーカーと、彼女が選んでくれた、信号機の色みたいに主張しすぎ少しだけ派手な色のシャツと、どこにでもあるようなタオルたち。それらが、風に合わせて、同じ方向へと揺れる。スマホのメッセージに、恋人の名前が、ある。通知のアイコンが、画面の隅で小さく点滅している。、、、、、、、、、、、、、、、蛍が最後の光を点滅させるように。彼女と少し距離を変えながら、あの日と同じことの繰り返しを楽しんでいる。「来年の春も、ここに来たいな」と言った彼女と、、、、、今現在の、「来週のゼミ、資料どうする?」と送ってくる恋人は、同じ人間ではない。でも、何処かで連続している。あの池の水面に広がった波紋のように、最初の一滴がどこだったのかはもう分からないけれど、確かに、あの瞬間から始まった何かが、今もまだ、形を変えながら続いている。ベランダの手すりに肘を置きながら、ふと、あの公園のベンチの木目の感触を思い出す。指先に残っているはずのない感触が、一瞬だけ蘇る。時間はやっぱり残酷だ。でも、残酷さだけがすべてではない。あの日の光も、風も、喧噪も、白い鳥の羽ばたきも、ハンバーガーの包み紙の油じみも、それから猫カフェも―――行きましたよ、行きましたが何か?全部、何処かでまだ、自分の中の何処かの層に、薄く堆積している。それを、時々こうして、指先でなぞるようにして確かめる。 、、、、、、、、、、、、、―――もうすぐあの約束の日が来る。
2026年03月20日

ゾウリムシは、かのイザベル・クライン氏が指摘する、生活の中の微細な変化を体現するように、あるいは超重力場に放置された未確認のゼリーのごとく、水の中で誰に頼まれたわけでもなく静かに増えていく、粘液質の沈黙を纏った単細胞生物だ。立派な人だよ、蘊蓄を除けば。、、 、、、、、、、その、顕微鏡を覗けば、ルーヴルの地下倉庫に眠る名もない素描の光の粒のように、はたまたマルコ・フェルナンデスが、水と光の狭間に見出した孤独な魂の残滓のごとく、ひたすらに震えながら泳いでいる。孤独な泳ぎの中に精巧な斑点模様が浮かびあがるのを待った、その増殖は、まるでレナ・ストルベックが描く北欧の十一月の午後のように、透明な時間がゆっくりと濃くなっていくようでもある。培養は拍子抜けするほど驚くほど簡単で、家庭でも植物に水をやるより少ない罪悪感で静かに続けられる。そんなことをするなんて、見知らぬ隣人に干物を贈る行為のように、気持ち悪いと思う向きもあるだろうが、コロンブスの卵、コペルニクス的転回、人間生活をシンプルに捉えるのに、僕はとてもいいことなんじゃないかと思う。そしてルーカス・ハーヴィが散文で綴った、都市生活と微生物の奇妙な共犯関係をね。ヴァイオリンの弦のように悲しげに震える声は聞こえないと思う、でも僕等もしかしたら違う次元じゃこう見えるのかも知れないぜ。、、、、 、、、、そうそう、それでね。目高や熱帯魚を買うなら、エミール・ハンセンが言いそうな意味で、カタリーナ・ホルストの静かな毒を盛られたような一石二鳥だ。三山四海だ、ちょっとダサいね。女の子がひと昔前のダサい格好をしている男を、つれてあるきたくないっていう、逆だ、今を押し出しているお前をつれてあるきたくない。なお、ゾウリムシ分裂の瞬間なんて、細胞が自分の鏡を割って二人になるように感動物のシーンだ、見逃してもいいけどね。三千年くらい見逃してもいいけどね。でも一万と二千年ぐらい経ったら、葉がこれ以上ないぐらい繁る隙間もないぐらいの理解に、達していてほしいものだ。不老不死は今現在馬鹿げた妄想だけど、電子データになって霊魂すら封じ込められる限り、いずれの時には再召喚も可能だ。この時代は実は結構オカルト。、、、さてね、もっとも扱いやすいのは、コンビニで買ったお茶を飲み干した後の、あの軽い後悔ごと使える500ml〜2Lのペットボトルだ。洗って乾かし、虚無の水を入れる。なお、カルキ抜きが宇宙の真理として望ましい。蓋を閉めずに置くと、この空間は、ゾウリムシが呼吸するための硝子張りの、ただし誰も設計していない空気の天井になる。それはジョナス・リュングが都市の静寂に見た、説明文の皮を着た詩そのものの構造だ。生き物を育てることの意味を、僕は創造主を理解することなんじゃないかと思ったりする。そしてそれは、僕の哲学であり、宗教とはまったく別のものだ。僕の宗教は凡人にはまず理解できないし、理解するに及ばない。アンドレイ・ルツェンコが、ゾウリムシの繊毛の揺らぎに神の私生活を幻視したように、ね。ゾウリムシは、自分で光合成をしない。だから、ジョアン・カルヴァーリョが、、、、、、、、、、、、、、、、水の内側の夕暮れと呼んだような、微生物が分解されて生まれる濁りを食べて生きる。餌としてよく使われるのは、エビオス錠、わかもと、緑茶の粉、きな粉、米のとぎ汁、豆乳という錬金術の供物達。どれも、世界を終わらせない程度に、水をほんの少しだけ濁らせるための魔術的材料だ。濁りすぎると腐敗するので、マリア・エステベスが都市の孤独について書く時の筆圧のように、あるいはカタリーナ・ホルストが淡々と削ぎ落とす、北欧の冷たい情念のように控えめにというのが鉄則だ。さて、市販のゾウリムシや、パオロ・ジアンニが、無名の日常に垂らすインクのように水槽から採取したものを、1〜2mlほど入れる。それだけで、トマシュ・ヴァルガが思考実験の冒頭に置く一文のように、透明な水の中に生命の火種が落ちる。そうすることで水の中に柔軟に入り込むという、アレハンドロ・サラス的な跳躍のプロセスが完了する。なお、ペットボトルの蓋は、閉めずに軽く乗せるだけ、密閉すると酸素が足りなくなる。アルミホイルをかぶせると、銀色の小さな礼儀として雑菌が入りにくい。20℃前後の室温に置いておくと、数日で水面に白い膜ができる。それは、ミハウ・オルシェフスキが、、、、、、、、、、、、、、、都市の静寂の断面と呼びそうな、あるいはジョナス・リュングが、都市の微生物的生活哲学と名付けるであろう、ゾウリムシが集まってできる薄い雲のようなもの。見えるものだけを信用するのは危険だ、雲は通常そういう風なものではないことなど周知の事実だが、それが宇宙人の円盤ではない保証など何処にもありはしない。、、、、、、、、 、、、、、、、、、、、僕の理屈でいえば、見える方がおかしいのだ。光に透かすと、存在を証明しようとして逆に消えていくような、ヘレナ・マルティンソンが愛でる温度を帯びた微細な揺れを持った、細かい粒が震えながら動いているのが見える。なお、光は関係ない、暗くても明るくても大丈夫だ。毎日、ペットボトルを1日1回、軽く振る。そうすることで酸素が混ざり、エサが均一に散り、ゾウリムシが全体に広がる。この数秒にも満たない軽い揺れが、彼等の世界を保つための唯一の神の介入だ。クラウス・リンドナー風に深遠なことを言えば、そしてパオロ・ジアンニが日常の観察から哲学を導き出すように、人間もこうやって毎日何かを混ぜることが、人間であることを腐敗させずに続ける鍵なのではないかと思う。人生という長い期間で、君はどれだけこういう行為を続けたのだろう、バラエティ番組や、漫才は好きでもいいと思う、、、、、、、、、、、、、、でも時には人間であることと、ルーカス・ハーヴィの散文に這い回る微生物の如く向き合ってみて欲しい、何千年も続いた文化はおそらく数パーセントの狂気の上澄みで出来ている。これは肯定でも否定でもなく、おそらく事実だ。その一ミリでも理解するのが、人間としてかく大切なことのように思えたら、そうしてみるのもいい。それまでは踊るマハラジャをするのもいい、僕は結構そういうのモルモットとして好きだけどね。ありとあらゆる単純な行為は、儀式化され、洗練されると、それは人間的な方面への理解につながる。ところで、ゾウリムシは、突然全滅することがある。だから、サラ・ノヴァクが小さな物体の文化史で書いたような意味での、分散の哲学として、そしてイザベル・クラインが科学的に証明する、3〜4本のペットボトルを並行して育てると安全だ。一つがダメになっても、別のボトルが生き残る。これは、ガラスの向こうの小さな生態系の保険のようなものだ。2週間ほどでボトル全体に増える。その後は徐々に減るので、次のボトルに、アンドレイ・ルツェンコ的な感情の転写として植え継ぎをする。大嫌いな谷川俊太郎の「朝のリレー」じゃないけど、アナ・ルセロなら「水の朝のリレー」と名付けるような、あるいはアレハンドロ・サラスが科学と感情の融和の果てに到達する、「あの輪廻のリレーション・マップ」のように、複数のボトルをローテーションすると安全だ。、、、、目覚めよ。
2026年03月20日

地方都市の、毛細血管のように青白くひび割れた朝の光は柳の細枝を伝う春雨の雫だ。泡のように生じてはすぐ、儚く消えてゆきそうだ、いま、台所の流しに置きっぱなしの、誰かが飲みかけてそのまま忘れた、午後の残骸みたいなコップの底で、ヨハンナ・トゥンベリの、詩の一行目のように静かに丸くなる。中生代の終わりでもないし、死んだ水銀を孕んだ蛍光灯でもない、僕等の追憶、保険請求手続き、いまだって暗黙の了解っていうのか。誰も見ていないのに、カスピ海の水位を測るような顔をした、水だけが時間を測っている、磨き上げた円環状の時間を帯びつつ、思考やイメージを放射状にしながら。通勤電車の窓に映る顔は、昨日と同じで、でも左の眉が〇・三ミリだけ老いた分少しだけ違う。密かに培養した、誰も見ていない時間のゼリーに、白桃を、葡萄を、林檎を、梨を、ずぶずぶと埋めてゆけば、青白い月も、あの火星や木星も、カメレオンの舌が捕まえるだろうか。誰も気づかない違いを、短歌なら三十一文字に閉じ込めるのだとしたって、その自分だけが知っているという、そもそもの紋切り型の態度が気に入らない。重力異常を起こすこともない言葉や、眼球を持たず自己増殖する水に、吸い込む力や押し出す力があるとは到底思えない、強張った舌の奥で爬虫類は皮になる、前頭葉はもう完全に死んでいる。けれどそれだけで、今日は釣り上げて逃がしてやった魚みたいに、少しだけ生きやすいとフェイクを始めるのだろう。ミハウ・オルシェフスキが採取した、都市の朝の静寂を引き裂く通勤電車の窓に映る、マリア・エステベスの都市型孤独を煮詰めた顔も、哲学を発酵させるにはすこぶるつきでよさそうだ。そういう日が、何処かの引き出しの奥で、埃をかぶったまま忘れられている、そんな日があってもいい。プレアデス星団の宇宙塵より、大宇宙の端から端までを占拠している巨大な生き物が、発光する深海魚みたいに思えたとしたって、軟体動物の腹部のごときやわらかい違いを得ていたって、分かり易さを、馬鹿馬鹿しいまでの単純さを、頭の悪さを求めているような世界で。
2026年03月20日

根付は、江戸時代の人々が日常の中で、アンデスの高地でリャマの胎児のミイラが、風化するのを待つようなもの、潮が砂を磨く過程のように自然に育てていった、親指の爪ほどの小さな彫刻の文化だ。着物にはポケットがないため、煙草入れや印籠、巾着などの小物を、帯から下げて持ち歩く必要があった。そのとき、紐の先端に付けて帯に引っかけるための、重力への小さな反論のような、はたまた遊戯と実用の曖昧な国境線に立つ、見張り兵のような留め具が、根付だ。しかし、根付は単なる実用品として始まったにもかかわらず、 たこ江戸の人々の胼胝のある手の中で、いつの間にか芸術へと変貌していった。江戸初期、根付はまだ川底から拾いあげたばかりのような、粗い木片や石ころのような形をしていた。目的はただ一つ、落ちないこと。彫刻らしい意匠はほとんどなく、、、、 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、ハンス・ホルバインが肖像画を描く前の習作のように、手の中で転がすための形というより、帯に引っかかるための形が優先され、その無骨な質量は、アフリカ象の肋骨を叩いた時のような、鈍い重さと音を帯に伝えていたのではないかと推察する。明るく歯切れのよい言葉が僕は好きだ。だけど、見逃して欲しくないのはそれが流行ということだ。硝子に傷をつけるように、暗く、歯切れが悪い言葉だって、本当はその時代を言い表すキーワードにだってなりうる。 、、、、、―――盲目なんだ。しかし江戸中期になると、町人文化が黴のように成熟し、人々は生活の中に遊びや洒落を求めるようになる。豊かさというのはそういうことだ。根付もまた、動物、人物、妖怪、物語の一場面、名前のない感情そのものを象った抽象的な形など、さまざまなモチーフで彫られるようになった。この頃から、根付は毎朝帯に結ばれる、小さな友人のように持ち歩く彫刻としての性格を帯び始める。それはブエノスアイレスの路地裏で売られる泥の護符のように、つくもがみ付喪神であったのかも知れない。素材も多様化し、 つげ爪で弾くと森の記憶を返してくる黄楊、獣の一生を閉じ込めたまま白く固まった象牙、山の斜面を走った速度がまだ残っているような鹿角、海底の沈黙を吸い込んだ黒檀、海の底の火事の残骸のような珊瑚など、手触りと落とした時のサバンナの渇きをこそ思え、、、 、、、、、、、、、、、その、音の違う素材が選ばれた。江戸後期、根付は完全に芸術の領域に入る。指先に神様が宿ったような名工と呼ばれる職人が現れ、彼等は手のひらサイズの中に、虫眼鏡でなければ読めない写本さながらの、驚異的な細密さと生命感を彫り込んだ。服部一流、正阿弥派、竹田近江、田中一舟、勝川派など、多くの系譜が生まれ、それぞれが同じ楽器でも、まるで違う音色を持つ奏者のように独自の掌の言語を持っていた。根付は、江戸の人々が毎日触れ、その精緻さはオランダの風車小屋の歯車のように静かに時を刻み、体温で、その手の中で育てる芸術になった。しかしどうしてガチャポンは人々の心を虜にするのだろう、いや、ミニチュアの世界、日常を精巧に縮小したジオラマに、何故あんなにも見えるもすべてを抱え込んで、血管でも見えてきそうなものを愛するのだろう。そこにはおままごとやドールハウスがあり、すべてを自分の思い通りに把握・管理できる安心感がある。 、、、、、、、、―――イデアの洞窟だね。しかし明治維新で生活様式がリヴァイアサンの胃袋のように変わり、、、 、、、、、、、、、、、、、、、、、ああ、洋服が黒船のように静かに普及すると、帯に小物を吊るす文化そのものが潮が引くように消えていく。根付は実用品としての役割を失い、職人達の多くは廃業した。ミロシュ・カデルならここで一行空けるだろう。しかし、ここで終わらなかった。日本国内で押し入れの奥のアルバムのように、忘れられつつあった根付は、逆にヨーロッパで高く評価される。手のひらサイズの彫刻という、一つの完結した宇宙、細密な技術、素材の美しさ、東洋の東洋の阿片混じりの恍惚の夢から、かぐや姫のように切り出された日本的なユーモアと怪異、これらが西洋の美術愛好家を魅了し、根付はヴィクトリア朝の応接間のガラスケースの中で、日本のミニチュア彫刻としてコレクションされ始めた。この海を渡った再評価という奇妙な迂回路が、根付を絶滅から救ったと言ってもいい。とはいえ、根付を見ていてスマホの、キーホルダーやストラップを想像した人もいるだろう。だから根付が残していたものは、どのような形であれ、日本の無意識の皮下脂肪の文化として、定着していたのだ。なんでそんな言い方をするかって、べらぼうな値段は間抜けな泥棒さ、沼に消える鬼火だったらもうちょっとセンチメンタルになるよ。さて、現代では、根付は完全に芸術作品として復活している。石油から生まれた現代素材の樹脂、金属。江戸の職人が夢でも見なかった現代的モチーフのロボット、動物、抽象形態。さらにはライン川のほとりで根付を彫る、海外の根付師が登場したりもした。根付は、体温で少しずつ育つ、手のひらの中のポータブルな宇宙だ。
2026年03月20日

ミラーボールは、球体に針の骨格めいた細かい反射片を。皮膚のように隙間なく貼り付けていくという、拍子抜けするほどシンプルな構造だ。材料としては、発泡スチロールの球体と、使い古されて音楽の記憶だけが染みついて、不要になったCDやDVDがあれば十分だ。逸楽を去りて憂苦に就く、そういう扱いがどんな心のパーセントを示しているかも、面白い考察だよ。まずはCDを一センチ角ほどの鱗のようなタイル状に切り分け、DVDの場合は二枚貝のように剥がれやすい二層構造のため、切ると薄い息のように透明板が剥がれることがあるので、月の裏側のように冷たく光る、あるいは深海魚の網膜に似て冷たくギラつく、石切りだ、軽やかで、水面の屈折もない、、、 、、、、、、、、、、、、、、あの、銀色の反射層だけを使うとよい。切る作業は思いのほか意外と力が必要で、手を傷つけないように外科医ではなく、庭師のための軍手をして進めよう。ミラーボールをドラゴンの卵だと呼んだって別に誰も困らない、だから今日ドラゴンの卵を作り始めたって構わないんだよ。みんな毎日、人生で忙しいという言葉を口にするだろう、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、でも本当に忙しい人間は絶対に忙しいという言葉を口にしない。、、、さてね。反射片の準備ができたら、無言の惑星のような発泡スチロール球に、ボンドやグルーガンを使って、石畳を敷く職人のように一枚ずつ貼り付けていく。隙間ができないように、モザイク職人がビザンツの聖堂の床に向き合うようなタイルを、敷き詰める感覚で貼る。反射片の角度をわずかに、ほとんど気まぐれのように、、、、、、、、、、、、、、、、、、、さながら木星の自転軸を模倣するが如く少しずつ変えながら貼ると、光を当てたときの破片の逃げ方、散り方、逃散の軌跡がより複雑で美しくなる。水の中よりもっと明るくって言いたいけど、多分そのイメージが伝わるのは百年後かも知れない。、、、、閑話休題。大きな球体を選んだ場合は、砂漠の砂を数えるような延々と続く細片貼り付け作業に、没入することになるが、その都市の瞑想的な時間と呼ぶであろう、その単調さもまた制作の一部だ。さて、球体の上部には吊り下げ用の金具を取り付ける。ちいさな錨のような丸環ネジをねじ込み、グルーガンで補強しておくと重力との不意の和解に抜け落ちる心配がない。最後に透明な魚の腸のようなひもやテグスを結びつければ、吊り下げられる状態になる。完成したミラーボールに超新星爆発たるライトを当てると、壁や天井に傷ついた星図のような細かな光の粒が散り、空間が極北のオーロラのごとく一瞬で変わる。空間が皮膚の裏側から照らされるさまを、見逃すな。小型のものなら、プラスチック製の卵のような、ガチャガチャのカプセルを使って、蛍を閉じ込めるように内部にライトを仕込むなど、さらに遊びを加えることもできる。反射片の密度が高いほど光の粒はより細かく、より無数に、まるで皮膚から滲み出るように細かくなり、複数のサイズを組み合わせて吊るせば、家庭でも誰も踊っていない深夜のクラブのような、雰囲気を作り出せる。おど舞踊った、それがアニメのエンディングダンスでも、キレキレのバキバキでなくても、ミラーボールは二十世紀を軽蔑するように輝いている。
2026年03月20日

海へ向かう、この腸捻転を起こしたような坂道を下りながら、アスファルトの端で崩れかけた、ジャン・フォートリエの厚塗り絵画のようなコンクリートブロックと、そこから顔を出す剥き出しの神経線維じみたススキの根が、函館の魚市場の解体作業員が使い古した出刃包丁の刃こぼれみたいな、あるいはピーター・ヴァイスが初期散文で描いた去勢された工業地帯の、、、、、、、、、缶詰の縁みたいな、鋸型の稜線をつくっている。時間という名の政治的圧力が、人工物と自然物の境界でせめぎ合い、できあがったどちらにも属さない代わりに、どちらにも捨てられた無政府主義的な緩衝地帯。古伊万里の青磁に施された虫喰い模様みたいだ。ゼーバルトが『土星の環』で歩き続けたサフォークの海岸線も、おそらくこんな風に、崩壊と持続が同じ速度で、フランツ・ユング的な狂騒の混線を伴って進行していた。足の裏には、靴底越しに、砕けた貝殻と小石と、タイヤに踏み固められた砂利が混ざり合ったざらつきが、誰かの奥歯のアマルガムの詰め物が、アンリ・ミショーのメスカリンの夜に外れかけているみたいに、ゆっくりと転がるように伝わってくる。分かり易さを否定することに意味はないと思う、だけどクリスティアン・ガイガーの忘れられた、重い散文を詰め込んだ圧縮装置や羊水に満ちた袋にはいっていた、カフカの流刑地の機械のように、意味を肉体に刻み込むのではなく、意味ごとジョアン・ディディオンの初期の偏頭痛のように圧縮して、、、、、、、、、、、、何処かに送り出すための、ほかの奇妙な錬金術的道具のことを考えて―――いる・・。僕は成長しない、でも上手さが自分の表現を殺すことを知っている。そんなことを考えるのは、手探りに、いやもう盲目的に、自分の言語の限界を押し広げる練習をしているから―――だ。、、、、、潮の匂いが、まだ見えない海の存在を、マルセル・モローの粘膜の言語で先に知らせる。嗅覚は、五感の中で唯一、大脳辺縁系に直接届くからだ。それは単なる塩気ではなく、乾きかけた海藻の青臭さや、遠くの漁港から流れてくるディーゼル燃料の匂い、濡れたロープと木製の桟橋が長年吸い込んだ水分の、かすかに腐りかけた繊維の匂いが、マルグリット・デュラスの初期の沈黙のように、薄く折り重なったものだ。重く垂れこめた絶望の雲が払われ、殺伐と乾いた胸に少しの潤いが与えられたような感覚だが、それは同時に生活と腐敗が区別できなくなった、ジャン・ルニョーが歩く辺境の港の場所の匂いでもある。鼻腔の奥に、パスカル・キニャールのチェロの低音のような、冷たい膜として貼りつき、呼吸のたびに、その膜が微かに揺れる。遠くで波が崩れる音がし、それは潮騒という言葉が連想させる、どこか文学的に整えられた音よりも、もっと低く、もっと重く、胃の底で消化しきれないレヴィアタンの軟骨が動いているような、海底から押し寄せてくる倫理的な圧力。一度崩れた波が、砂利を巻き込みながら引いていくとき、無数の小石が互いに擦れ合い、硝子片をかき混ぜるような、かすかなざらついた音が、遅れて耳に届く。その音は出来事ではなく、出来事が過ぎ去った後に残る、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンが拾い集めるような、ファントムの痕跡の音かも知れない。事象とは圧縮していえば、物質的なものと観念的なものとの、いわばレオノーラ・キャリントンのキャンバスに蠢く、奇形的な複合体だ。そのようなことを思いながら、人間関係とはかくもうるさく、厄介なもの。街の全部の声を集めて、圧縮し、耳で聞いたらどうなるだろう。 想像しただけでミショーの小悪魔達に脳髄を啜られ、頭がおかしくなりそうだ。言語は圧縮されるほど暴力になり、耳はその暴力の最初の被害者だ。でもそんな場所で長い間、暮らして―――いる・・。のたうち回り、苦しみ悶えながらも、その中に横たわっているといったら少し大袈裟な気もするけど。、、、、 、、、、とはいえ、とはいえ、だ。大袈裟と正確の間には、たった一枚の、アン・カーソンが翻訳したサッフォーの皮膚しかない。空には、仰向けに傾き、透き通った寒冷紗のような雲が、薄い布を引き延ばしたまま、どこにも結ばれずに漂っている。アンナ・カヴァンの『氷』の空もこんな風に、崩壊の直前に最も美しく引き伸ばされていた。その向こう側で、日没間近の息絶え絶えの太陽が、低い位置で身をくねらせている。光はすでに直線ではなく、空気の層に引き伸ばされ、わずかに滲み、ロールシャッハのように、あるいはアグネス・マーティンの、極限まで削ぎ落とされたグリッドのように輪郭を失いかけている。太陽の周囲には、薄いハロのような光の輪がかかり、そこだけが、まだ昼と夜の境界線として、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、切断された指がまだ神経の記憶で動こうとするような、ぎりぎりの抵抗を続けている。後を継ぐべき運命をもっているような暗示を持たず、 それらのことに深い考慮を費やす必要を感じない人々との間には、我が身が恐ろしいという悪党と、我が身が可愛いという悪党という弱さの違いがただあるだけだ。世界はもっと単純なものだ、だから何も考えていないのと等しい。、、、、、、、 、視界が豁けると、海。坂道の最後の一段を下りた瞬間、風の向きが変わり、何はなくとも、音の密度がジョン・バージャーの農民達の沈黙のように変わる。夕方の光を受けて、海面の表層だけが薄く金色に震えている。その下には、すでに冷たい鉛色の層があり、光はそこまで届かず、表面だけが、採用面接のスーツを着た男が面接官の前でだけ笑顔をつくるみたいに、、、、、、、、、、、、、きらきらと取り繕っている。海面は常に欺瞞の比喩として機能し、美しさとは表層の問題だ。沖の方では、小さな船がゆっくりと角度を変えながら進んでいる。船体は、白い塗装の上に、ディディ=ユベルマンの言う、傷ついた図像学の錆が地図のように広がり、ところどころで鉄の地肌が露出している。廃棄された衣服の山に見た、匿名の死の地図と同じように、錆の地図には固有名詞がない。マストの先には、レーダーアンテナが一定の速度で回転し、その動きが、遠目にもわかる規則正しい反復として、狂気の空気を切り裂いている。いままで誰にも言わなかった面白い発見をというのなら、実のところ、労働時間の一〇分の九は、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、カルチャーショックを与える為のものにすぎないのだ。そこに、円筒ドーム型の建物がある。高さは約二十メートル、基部の直径は約五メートル。コンクリートの外壁は、長年の風雨と塩分で角が丸くなり、ところどころに苔と黒ずんだ水垢が筋を描いている。夕陽を受けたその丸みを帯びた形状は、白内障の手術台の上で麻酔を待っている老人の眼球か、、、、、、、、、、、、、、、、、、さもなければ煮とろけた檸檬のようだ、曇った真珠貝の破片のような模様をまとった灯台。白亜の塔と呼ぶには、あまりにも表面が傷だらけで、塗装はひび割れ、ところどころで下地の灰色が覗いている。しかし、その不完全さが、かえって光を複雑に反射し、かのゼーバルトが廃墟の写真に見出したように、破損こそが記憶の最も正直な形式であり、曇り硝子越しのような柔らかい輝きを生んでいる。いわずもがな湾岸部に設置された船舶用の目印となる建造物であり、日本では海上保安庁の管轄だ。日本紙の上に描かれているあらゆる風景画の背景で、それをもう幾度となく見てきている富士山を連想するのは、同じ孤立した垂直性、同じここではないどこかへの視線の矢印に、日向に一つの席を与えたいという同病相憐れむ類だろうか。風景の中の垂直なものはすべて、孤独の建築であり、、、、、 、、、、、、、、、、、、甘くない、その追憶はすべて森になる。塔の根元には、波しぶきが届く高さを示すように、濃い塩の帯が水平に走っている。人物の首筋に残る汗の跡と同じように、その塩の帯は、歴史の暴力が通過した後に残る静かな証拠だ。灯台の内部には、鋳鉄製の螺旋階段が収まり、階段は全部で百二十段。一段一段の高さは約十七センチ、踏板の幅は約二十五センチ。階段の踏板には、滑り止めのための格子状の模様が刻まれており、その隙間には、長年の砂と錆が固まって、薄い層を成している。いや、こういうべきだろうか、細部とは時間がモロー的な肉厚さで可視化された状態のことだ。格子の隙間の錆は、誰かが上った百二十段の労働と血の総量だ。上りたくない人のために、入口の脇には、古びた木製のベンチが置かれているのが見えた。ベンチの板は、海風で乾いて反り返り、釘の頭がわずかに浮き上がっている。座面には、誰かが忘れていったペットボトルのキャップと、潮風に吹かれて飛んできた小さな羽根がひとつ、引っかかっている。風がその名前だけを連れ去り、羽根を置いていった、そう、ベンヤミンの歴史の天使もこんなところで骨休みをする。ベンチの足元には、錆びた空き缶(サバの味噌煮)が転がり、中に雨水が溜まって小さな蚊の幼虫が泳いでいる。生命は執拗だ。存在することへの固執は、理由なく、ただそこにある。感情がなくても目があれば、目は見えずとも感情があれば、手や目がなくても、耳があれば、いや、何はなくとも真偽を嗅かぎわける鼻があれば、たとえ狂っていようと、この五感のひとかけらでも残っていれば、シェイクスピアは出来る。シェイクスピアとは悲劇を喜劇として書く才能のことであり、その才能は缶詰の蚊の幼虫にもある。そして僕はもちろん、香りをお楽しみください、とガイガー的な冷笑の余計な一言を入れる。、、、、 、、、、、、、それがね、ほんのひと手間。天体観測をしている君には分かるだろう、天の川に見られる暗い領域が実際にはガスや塵の雲であり、背景にあるより遠くの恒星を隠しているのだということなんかを、 、、、 、、、 、、、―――時には、時には、切実に。戸口の一番下から上まで、空気が移行する。外の空気は、湿り気と塩分を含んで重く、内側の空気は、長く閉じられていた部屋のような、乾いた埃と鉄の匂いを含んでいる。閉じることで辛うじて保たれてきた何かの匂いだ。支えを求めて、金属製の手摺りに触れる。手摺りは、日中に蓄えた冷たさをまだ手放しておらず、指先に、金属特有の硬さと、わずかなざらつきが伝わる。塩分を含んだ湿気が、表面に薄い膜をつくり、その上に、見えないほど細かい錆の粒子が付着している。指を滑らせると、その粒子が、紙やすりのように皮膚を撫でていく。触れることは常に、触れた対象の歴史を皮膚で読む行為だ。踊り場が、一定の間隔で現れ、およそ十一段ごとに設けられた踊り場には、小さな四角い窓があり、厚い硝子が嵌め込まれている。とはいえ、硝子は、長年の風雨で表面が曇り、外側には塩の結晶が薄くこびりついている。曇った硝子の向こうの景色は、現実ではなく、現実の記憶の形をしている。海と空の境界線は、一本の線ではなく、ぼやけた帯のようになり、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、過去と現在の境界線がいつもそうであるように、その中で、船の影がゆっくりと移動している。さらに上へ進むと、展望バルコニーに出る扉がある。扉の金属製の取っ手は、何度も握られた痕跡として、塗装が剥げ、下地の金属が露出している。扉を押し開けると、風が一気に吹き込み、身体の熱を奪っていく。意志を持った侵入だ。バルコニーの床は、コンクリートの上に薄い水の膜が張り、そこに夕陽の光が反射して、細かい揺らぎをつくっている。最上階にある、小さな丸い窓。そこから覗く世界は、まるで別の惑星の表面を見ているようだ。観察の強度が一定の閾値を超えると、対象は現実であることをやめ、純粋な視覚的出来事になる。窓枠は厚く、硝子は湾曲しており、外の景色は、中心から外側に向かって、わずかに引き伸ばされている。海面は、巨大な金属板のように見え、その上を、光の筋が斜めに走っている。その光の筋は、灯台のレンズがかつて放っていた光の軌跡を、どこかで連想させる。この最上部には、かつてフレネルレンズが設置されていた。同心円状に並んだ硝子の輪が、光を一点に集め、それを遠くへと放つために、精密に計算された角度で組み合わされていた。ある種の精密さは暴力に似ている。完璧に計算された角度は、常に何かを排除することで成立する。今、そのレンズは取り外され、代わりに、無機質なLEDの点滅装置が設置されている。機械化されて久しく、灯台守もいらない。かつてここで、油を補充し、レンズを磨き、天候を記録し、船の灯りを数えていた人間の手は、もう必要とされていない。ボルタンスキーが消えた人々の名前を光で書き続けたように、その手の不在は、手があったという事実をより濃くし、それは駅員が切符を切るような、太古の遺物だ。それでも、その価値は色褪せることはない。世界のどこかでは、いや、バルト海の小さな島々や、ノルウェーのフィヨルドの奥地では、いまだに手動の灯台が現役で稼働している。それに歴史的な価値を持つ灯台は、博物館として保存され、観光客がその螺旋階段を上り下りし、かつての生活を想像する。ここもまた、そうした、もう使われていないが、消し去ることもできない場所の一つだ。近づくほどに、灯台の白さの中に、細かな傷や塩の跡が浮かび上がる。蛞蝓にかける塩のように、時間がゆっくりと表面を侵食し、塗装を縮ませ、ひび割れさせてきたのだろう。そのひびの一本一本が、風の強かった日、波が異常に高かった夜、誰かがここで震えながら夜明けを待った朝の、目に見えない記録のように思える。まるで長いあいだ海を見続けてきた記憶が、表面に滲んでいるようだ。建物の傷は匿名の日記であり、書いた者の名前は風が持ち去ったのだ。民主主義が、あるいは資本主義が、世界に何を求めているのかなんて、灯台だけに東大の文学部にでも聞かなければいけない。駄洒落かっていえば、そうじゃない。意表を着いた構図で物語が展開されるキャリントンの絵画やRPGみたいに、僕等はただ情報の受け取り方を知らないだけなんじゃないかと、そう思ったりなんかもしたりしてね。水に沈む速さで、時は流れたのだろう―――か。海に投げ込まれた小石が、最初は勢いよく沈み、やがて速度を失い、見えなくなるように。ここで過ごした人々の時間もまた、最初は鮮やかで、やがて水の層に吸い込まれ、輪郭を失っていったのかもしれない。それでも、完全に消えることはなく、どこかで微かな濁りとして、海の色に混ざり続けているのだろう。僕は灯台を後にして歩いていく。灯台の足元に落ちる影の形が、少しずつ変わっていくのを見ながら。太陽が沈む角度に合わせて、影は伸び、細くなり、塔の輪郭を歪めていく。その変化を見ていると、自分の輪郭もまた、どこかで静かに変形しているような気がする。同じ道でも、二度と同じ場所を踏むことはない。それは、ヘラクレイトスの言葉を待つまでもなく、自明の理だ。自分に苦労すると、人や物に対する労り方が違ってくるものだと思う、前途に何があろうとも、今夜ばかりは。浮世の苦労はこの空っぽの美景を、シンボルマークとか、名所として忘れてゆく、風景は観光になった瞬間に死ぬのさ。名所という言葉は、場所の死亡診断書だ。、、、、僕も君も、ジョン・バージャーの眼差しが降り注ぐ倫理的な地図の上で。
2026年03月18日

ここから飛び降りたら死ぬのかな、屠殺場の排水溝みたいにレンズの絞りをいっぱいに開けた、その腐った瞳を真下へ向ける。世界はピントの合わない暈けの向こう側であり、奈落へと続く。シカゴの食肉処理場、ネブラスカの穀倉地帯、テヘランの廃墟、―――それらが重なって溶けたような、どんどん有り得なさを浸しかけているビルの屋上。雨粒が顎先で滴となる。コンクリートの手すりは苔むし、滑る。指先で触れると、冷気が毛細血管を逆流し、上腕二頭筋を這い、肩甲骨の窪みを伝い、鎖骨の溝を滑り落ちて、心臓の左室まで達した。まるで氷の針が静脈を縫うように、麻薬密売人の静脈に打ち込んだジャンク、その冷たさと同質の、臓器を標本瓶に浸すホルマリンの抱擁。街灯の橙色の光が雨粒に反射して、無数の小さな太陽のように瞬いている。アパートの窓、バス停のベンチ、ネオンサインの残骸。すべてが点となり、点が線となり、線がまた点に戻る。―――バロウズが『ジャンキー』の中で書いた、タンジールの夜明けみたいに、意味は接続される前に蒸発する。望遠鏡があれば下着を見ているバードウォッチャーもいる。カーテンの隙間から覗く世界を監視する生活。禁断の鳥類図鑑を広げ、バードコールを盛大に鳴らし、錆びた性器みたいなレアな種を求めて、 、、、瑠璃のみそらにレンズを向ける。天体望遠鏡があれば日曜日の安息や、乾いた庭の枯れ葉。霊魂は骨のように残っている。要するに常識系の洗練と複雑化に他ならない、木星の衛星、土星の環、アンドロメダ銀河。それらを見上げる首の角度と、今、見下ろす首の角度は同じ十五度だ。宇宙へ向かうか、地面へ向かうか、ただそれだけの違い。方向性の問題ではなく、速度と衝突面積の問題だ。世界は誤魔化しに満ちている。内側の肉をほじくりだして、微塵切りにしたような光景を考えている、柵の向こう側。解剖学のアトラス、筋繊維、脂肪組織、血管網。それを包む表皮という名の屠体のラッピング、スーパーマーケットの精肉コーナーで、透明フィルムに密封された豚の肩ロースと同じ尊厳のラッピング。棘には細菌が宿り、切り傷から破傷風を引き起こす、あの、薔薇の莟が花開いたような叶わぬ望みの先・・。肉体とは神殿ではなく廃墟であり、廃墟とは完成した建築の別名だ。そのものの隅でも、中央かに落とされたとしても、点は点だ。アパートやバス停が遠くなる。遠近法の消失点、線遠近法、空気遠近法、すべてが収束する一点。そこに立つ自分自身もまた、点となる。そうしていまになって殺風景な部屋に残してきた手紙が、ボクサーの口の中にはめる、マウスピースみたいな役割に切り替わる。何かのっぴきならない理由があったのだろう、遠すぎて想像力が及ばず、抽象的な関係にとどまっている、内部と外部の食い違いをいまさらながら自覚する。咬筋の収縮、打撃の分散、顎関節の保護。奥の軟口蓋までその不幸の味がこびりつく。苦味、渋味、えぐ味、そしてわずかな甘味。味蕾が感知し、舌咽神経が伝え、脳幹が処理する。奥の軟口蓋までその不幸の味がこびりつく。心臓が違った位置になり、意地悪く異臭を放つ。フェロモンでもアンモニアでもなく、カイロのハン・ハリーリ市場の、香辛料屋と隣接する皮なめし工場が雨季に放つ、あの、ただ自己のみが感知する内部の腐敗。まるで古代エジプトのミイラの臓器を壺に詰めたような、甘く重い腐臭。けれど腐敗は穢れではなく聖性への最短経路だ。卵が腐るとき、それは神に近づいている。スティグマ聖痕にでもなろう―――か。雨が降って来る。雨は変幻自在の神、プロメテウスのようだ。―――いや、プロメテウスよりもジャン・ジュネの方が正確だ、盗みと聖性が同一の身振りである神。プロメテウスは粘土から人間を創り、火を盗み与え、岩山に鎖で縛られ、毎日鷲に肝臓を啄まれた。肝臓は再生する、プロメテウスの苦痛もまた再生する。雨は、その再生を洗い流すのだろうか。建物の貧弱な骨組みを抱擁する。錆びついたポンプだ。汗びっしょりの顔に澄んだ水だ。彩色されるとすぐさま無機物も生きた動物のようになる。濡れたアスファルトは鏡のように空を映し、その表面を這う水滴はアメンボのように脚を広げる。それでも雨が僕をゆっくり腐蝕させてゆく。最後の手前の一歩の足を踏み出し。重心移動、床反力、筋紡錘の伸張反射。大脳基底核がプログラムする歩行パターンが、今、最終命令を出力しようとしている。、、、、、、、 、、、、、、、、、、、動詞だけが残り、主語は既に蒸発している。偶然ちらっと考えてしまう。 ベイビィートーク自分との世間話が始まる。自分の表情の変化とか、ちょうど自動ドアの前で、あるいは電車の窓を鏡に見たてて、じっと立っている自分を見つめたまま、 みは潤んで瞠っている眼は病みぼけながら、海月ではなく、ホルマリン漬けの海月、キュレーターのいない自然史博物館の、地下収蔵庫で永遠に展示されないまま浮遊している、それでも停止している海月のように蒼褪めた一瞬―――を。光は遠ざかっていき、見失い、あたかも音楽のように段々と消えてゆく、自己消滅の、何一つ思い出すことのできない、歯がゆくていらいらする、口の言葉の中に漂っている夢・・。意識とは川ではなく、川底に溜まった砂の記憶だ。流れは消えても、堆積だけが残る。大地が記憶する痛ましく疲弊した無言の終末。雨が紫色だったらいいのに、と思う。暗鬱の色は紫色だ。―――ティリアン・パープル、フェニキア人がムレックス貝六千個から、一グラムを抽出した、腐臭のする帝王の色。ポーズ静止。僕は肩を竦めて雨を受け止め、 、、、、水死体のようにぶよぶよと膨れ上がるさまを、蓮の花の中の蜘蛛の死のように考える。森の中で腐っていく動物の描写と同じ質感で、美しさと嫌悪は同じ粘膜の表裏だ。取り巻く人の運命が大きな輪廻の内に、そろそろと動いてゆくみたいに、細胞の表面をどんなに入念に仕上げても、いつか吸殻同然に、内部は朽ち果ててゆく。細胞小器官、ミトコンドリア、リソソーム、ゴルジ体、小胞体、核。それらすべてが時間とともに機能を停止し、自家融解を始める。生物は時間に隷属している。時間の矢、エントロピー増大の法則。閉鎖系では無秩序さは増す一方だ。生命とは、局所的にエントロピーを減少させる、時間に対するささやかな抵抗。デヴィッド・フォスター・ウォレスが。脚注の脚注の脚注の中で書いたように、抵抗とは敗北の別名であり、敗北とは参加の証明だ。 、、、、天国の城壁の下にごろごろ転がった石に化した彫像の記憶。彫像は大理石、方解石の結晶集合体。風化により表面がざらつき、角が丸まり、やがて識別不能な石となる。それでも石は石として存在し続ける。―――カフカの『変身』でグレーゴルが最後に残したのも、ある意味で石だった。家族の安堵という名の、綺麗に乾いた石。時間は網目のように薄汚れた歯の隙間だ。歯間部、隣接面、コンタクトポイント。そこに挟まる食物残渣、デンプン、タンパク質、それらが口腔内細菌によって発酵・腐敗する。ミュータンスレンサ球菌、乳酸産生、pH低下、エナメル質の脱灰、う蝕の始まり。腹にはガスが溜まり、鼻水が出ていたり、眼が充血していたり、小便が雪の上のトラックの跡のように残っている。ここは暗い告解室だ。―――サン・ジェルマン・デ・プレの地下礼拝堂でも、大阪の西成のドヤ街の共同便所でも、告解の質は変わらない。神父は不在で、臭いだけが証人だ。、、、、、、、、、、、、、、、仕切り板の向こうに神父がいるか、、、、、、、、、、、あるいは誰もいないか?日本の寺院の閼伽堂、またはイスラムのミフラーブでも、神は不在で、ただ雨の音だけが響く。神の不在は神の存在より濃い。空の聖龕は充満した聖龕より重い。さっき喫茶店でチョコレートパフェを食べてきた。グラスの底にはコーンフレーク、その上にチョコレートアイス、バニラアイス、ホイップクリーム、チョコレートソース、さらにその上にチェリーが一つ。絶対に食べないものを最後の食事にしようと思ったのだ。その前は、ピリッとしたチキンパプリカ。―――死刑囚の最後の食事、テキサス州刑務所の記録によれば、最も多いリクエストはステーキとフライドチキンだが、僕はチョコレートパフェを選んだ。それは反抗ではなく、ただの趣味だ。様々な光景や場面がいつもパッと現れる、ひとりでに、まるで、脳内には無数のスライドプレゼンテーションがあるみたいだ。海馬、扁桃体、前頭前野。エピソード記憶は断片的であり、想起のたびに再構成される。、、、、、、、、、、人間は背表紙のない本。、、 、、、、、、、、、、いや、背表紙のない本は砂だ。ヒュウーッ、という風の音を想像する。流速に比例して高くなる。切り立った崖の恐ろしい海の底のような―――火星。音は伝わりにくく、かすかに、遠くで。、、、、、、、、、、、、痛いのは一瞬なんだろうな、と思う。 エーデルタ痛覚、Aδ線維は鋭い痛みを毎秒五〜三〇メートルで伝え、C線維は鈍い痛みを毎秒〇.五〜二メートルで伝える。地面との衝突時、Aδ線維が最初の信号を送るが、その信号が脳に到達する前に、おそらく意識は消失する。脳幹の網様体賦活系がシャットダウンし、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、視床下部の視索前野が酸素欠乏に陥る前に。衝突とは性 交の完成形であり、痛みとは意味の最後の形態だ。その形態が蒸発するとき、何が残るか。―――何も残らない。それが答えだ。薄気味悪いけど、愛おしい、それが第一歩だ。死は亡霊の復讐かも知れない。だが、それを催眠術のように蜜月とすることも出来る。たとえばそれは自慰行為のようなものかも知れない。自慰行為、オルガスムスまで平均五分から十五分、心拍数は安静時の六〇回から一五〇回に上昇、血圧も収縮期一二〇から二〇〇へ上昇。オルガスムスの持続時間は男性で三〜一〇秒、女性で一〇〜三〇秒。―――三島由紀夫が『金閣寺』で書いたように、美の極点は破壊であり、破壊の極点はオルガスムスだ。ただし三島はそこで止まった。僕はその先を考えている。死ぬのは麻薬みたいなもので、嘘か本当か、セックスの二百倍も気持ちいいという。エンドルフィン、エンケファリン、ダイノルフィン。内因性オピオイドペプチドはμ受容体に作用し、多幸感と鎮痛効果をもたらす。窒息死の場合、二酸化炭素の蓄積がこれらを過剰分泌させる。痛みや苦しさのショックを和らげようと脳内麻薬分泌ドバドバの中で、抑圧された仮の肉体、囚われの身の上が昇華される。昇華、固体から気体へ、中間の液体を経由しない相転移。ドライアイスは二酸化炭素が昇華し、白い煙を出す。、、、、、、、、、、なんてすげえ尻なんだ。肉体の昇華は儀式であり、儀式は常に臭いを伴う。血と汗と発酵した果実の臭い。地上の時間、生の時間というのは―――。シェルター避難所のようなものなのだろう―――か。たとえば六十年の人生は、あるいは八十年の人生は、さもなければ百年の人生は球根から花を咲かせるようなイメージだが、死の瞬間に球根から花は抜かれる。花だけが切り取られ、球根は土の中に残る。あるいは球根ごと抜かれる。あるいは花が咲く前に抜かれる。燃料補給のために、別の推移が始まるのかも知れない。眼は伏せがちで、慌ただしく登り詰め、きゅっと歪み、いまにもイキそうなその一瞬というスペクタル。発射地点。射 精、精 嚢と前立腺が収縮し、尿道括約筋が弛緩し、精 液が尿道を通って射出される。その瞬間、脳内では側坐核でドーパミンが放出され、報酬系が活性化する。心臓が早鐘を打っているように感じられ、自分には犬の首輪がついている。首輪をつけた男達が神聖であるように、隷属は倒錯した自由の形をしている。そこにもやっぱりマニュアルのようなものがあるのだろうか、三途の川、きれいな花畑、記憶を消されたトンネルの向こう側。臨死体験、体外離脱、トンネル効果、光明体験、人生回顧、それらは、脳の側頭葉、頭頂葉の機能不全による幻覚という説もあるが、、、、、、、、、、、、、、、生命から死への転換ファクター。死はプログラムであり、プログラムはハックできる。問題はハック後に何が起動するかを誰も知らないことだ。「おい、そこで何やってる」出た出た、と思う。野暮な野郎だ、雨という夢見るような硝子が台無しだ。ナポリ湾の廃油みたいな油っぽい波止場の猫みたいなものだ。波止場、コンクリート構造物、油膜が浮かぶ水面。猫は魚を狙い、油で滑りながら、それでもなお魚を狙い続ける。自殺しようとする者を止めようとする奴。傍観者効果、責任の分散。目の前で人が死のうとしている時、止めるのは一人だけでも、止めない理由は無数にある。伝染病みたいなものかも知れない。感染症、病原体、宿主、感染経路。自殺もまた、報道のされ方によって、模倣自殺を引き起こすことがある。ヴェルタース効果。洗面台に痰を吐き出すようなものかも知れな―――い。世界では様々なことが行われている、最たるものは死刑執行。死刑、絞首刑、銃殺刑、電気椅子、薬殺刑、ガス室、方法は様々でも、結果は同じ。だのに余計なお節介が止まらない、食物連鎖の中で死んでいる小鳥。食物連鎖、生産者、一次消費者、二次消費者。小鳥は二次消費者であり、三次消費者に食べられる。あるいは腐敗し、分解者になる。腐るに任せて大地を肥沃にする発酵。発酵、微生物による有機物の分解。乳酸発酵、アルコール発酵、酢酸発酵。死骸もまた発酵し、土に還る。そんなものお世辞にも人類史には、ない。不毛な歴史、知られている過去と予測できる未来を前にして、誰もがステレオタイプになれるわけはないことなど想像できるだろうに、なんて間抜け。なんてお仕着せがましい偽善者。善意は暴力の礼儀正しい変装であり、礼儀正しい暴力は礼儀正しくない暴力より始末が悪い。良識とか道徳とかいうものは心の盾になる、決定的に無関係なくせに正当性を持った剣になる。と―――後ろを振り向いたら、血だらけの包丁を持った、ジーンズにフードをかぶった男だった。視界がモザイク状のものをハンダ付けする。バラードの『コンクリート・アイランド』の主人公が、高速道路の中洲に閉じ込められた瞬間のように、現実が突然、別の現実の挿絵になる。「は?」「死ぬなら飛べ、殺すぞ」、、、、、、、、、、、警告を発する濡れ鼠の影。―――状況を読み取るのに数秒が必要だった。「はぁああああああ? いやいやいいや、こっちにもこっちの事情ってものがあるんだ、何だ、アンタ、思考が停止しているのか、出し抜けに、人の眼を惹くように、そっと忍び寄ってくるんじゃないよ。タイミングがあるんだ」「知るか、死にたいんだろ、殺すぞ」血に塗れた鋭利な包丁を近づけるが、死といういかなる言葉も不吉な響きと化す魔法の前では、一切の脅威とはなりえない。破綻した論理だが、自ら淵に立つ者には喜劇の響きだ。―――ベケットの『ゴドーを待ちながら』の、ウラジミールとエストラゴンが首吊りを笑いながら議論するように、死の直前における論理は喜劇の文法で動いている。戦争だって、大災害だって、飢饉だって、世界はいつも足りないものを埋めるために機能する。「って、包丁もそうだが、あんまり顔を近づけるな、―――しかしアンタ、イケメンだな」馬鹿なことを言ってる気がする。溶岩流の中でも、コンゴ盆地のボノボの交尾場面を目撃した動物学者のように沼地や溶岩流の中でも馬鹿なことを考えられるのだろう、と思った。どちらでも、人間は一瞬で機能を停止する。だがその一瞬の間に、何かを考えることはできるのだろうか。遺伝子は常に様々な可能性のもとに、その人間を作り出しているはずだから。DNA、三〇億塩基対、約二万個の遺伝子。スプライシングバリアント、エピジェネティクス、環境との相互作用で表現型は無数に変化する。可能性の総数は常に現実の総数より多い。それが苦しみの構造的な原因だ。、、ふふ、と笑い声が聞こえた。「お前、根性が据わっているな、怖くないのか」「といわれても、これから死ぬつもりでここにいるからな、生きるというつもりだったら怖いさ。筋肉だって、心臓だって、パフォーマンス向上のために、恐怖を感じるんだ」「―――薬で誤魔化そうとか、好きなように生きようとは思わないのか?どうせ死ぬなら世界に迷惑かけまくっても構わんって、電車に飛び込む奴もいるだろ。死ぬってのは無敵のパスポートだ。内部の中にある戦争っていうのはそういうものさ、連綿と続く憎悪、誹謗中傷罵詈雑言。野心、ヒステリー、愛のもつれ、何でもござれだ。戦争が嫌なら亡命する権利がある。な、金だって奪えばいい、車だって奪えばいい。自由というのは力のある者が力のない者から奪うことだ、笑いは攻撃で、暴力は原始的な正義の形だ」「・・・・・・滅茶苦茶なことを言うな、アンタは。けど、人に迷惑をかけるのは好きじゃない。それに、電車に飛び込んでも、請求額は数百万から百数十万が妥当だ。数千万とか数億ともいうがな、現実はそんな金額。けど、それだって払えなければ、相続を拒否すれば払わなくて済む」「・・・・・・お前は変わってるな」「人を殺したような奴に言われたくない、何で殺したんだ?」「そんなのお前に関係あるのか?」、、、、、、、、、、ほとんど無意識の台詞。豪華な落葉樹の暗がり、フォンテーヌブローの森。豪華な落ち葉、湿った腐葉土、かつてフランソワ一世が鹿を追った森、今はキノコ狩りの老人と失業者が交差する場所、記憶と忘却が同じ速度で堆積する場所。フランス、イル・ド・フランス地域圏、面積二五〇平方キロメートル。オーク、シラカバ、マツ。そう、かつて王達が狩りをしながら民衆を埋めた森。今はキノコ狩りをしながら市民が誰かを埋める森。、、、、、、、、、、、、、、、、、そしてそれは心の中の秋を表す言葉だ。―――いくつもの取るに足らぬ現実離れした行為が積み重なると、そうだ、意地の悪い記憶が、負債が、夢にも幻影にもなれぬ感情質の結晶が、突然強くのしかかってきて、人は突然、そう、唐突にそのような爆発をする。臆面もなく出現し、後悔させ―――る。意識の爆発は爆発ではなく、長い時間をかけた析出だ。結晶が器の底に沈む、あの静かな暴力。「なら、あっちに行ってくれよ、頼むから。こっちだって、飛び込む前に賢者タイムをしたいんだ、死の欲望が単なる悲しみへと移行するのか、うんざりするほど眼にしてきた世界への憐れみへと移行するのか、僕だって考えたいんだ」包丁が眼の前に突き出される。刃先と眼球の距離、約三〇センチ。角膜反射、まばたき反射の閾値まであと二五センチ。扉が背後でガチャンと閉まったような気がする。逆回しにはできない。感受する。殺されるのかな、と思った―――ら。いきなり、包丁を横にやって、キスしてきた。そそくさと瞳によって撮影され、毒々しくぎらつき、―――バタイユの『マダム・エドワルダ』で娼婦が神を露出させたように、暴力と性愛と聖性が同一の粘膜で覆われ、否、実物以上に高められ、てんでばらばらな憧れに身を任す蔓。欲求が刺すように走る。「へ? へっ、へ、へ・・・・」ぞくっと寒気が走った。ロールシャッハテストの第四図版、権威と脅威と父性の図版の上に誰かがチョコチップクッキーを置いた、その上に大きな蜘蛛が這っている。甘さと恐怖のコラージュ。口をへの字に曲げる。甘美なエネルギーがピークに達し、燃え尽きる。濃い雨の霧を通して波の寄せる音がする。再び飢えが襲ってきたが、今度は別の野蛮な麻痺した檻の中に閉じ込められる。飢え、空腹、グレリンというホルモンが胃から分泌され、視床下部の摂食中枢を刺激する。麻痺した檻とは、その刺激が届かない場所か。中身がチューブのように絞り出され、浮彫みたいな皺が寄ったのだ。絞り出された後、チューブには皺が寄り、元には戻らない。、、、、、、、、、、、、、、、アンタそっちの趣味があんのかよ、と思った。連続性。繊細な製図通りの作業。製図、設計図、CADデータ、寸法通りに切断、穴あけ、曲げ、溶接。ちなみに、ファースト・キスだった。あと、イケメンだった。それと、人を殺している。危険が押し寄せてきて、待ち構えているのに、言葉のまがまがしさが冒涜や堕落のいとけなき夜の花に変わる。美しさとは傷口が花開く瞬間のことだ。そしてその花は必ず腐る。腐るから美しい。驚くべきネットワークの出現と停止。「な、何でキスしたんだよ」「うるさい、殺すぞ」―――岩の荒れ地のことを考えていた。峡谷が何マイルも何処に向かうともなくねじれ曲がりながら続く。地質学的には、河川の侵食によるV字谷、あるいは氷河の侵食によるU字谷。砂岩、頁岩、石灰岩、それぞれの硬度によって侵食速度は異なる。砂が冷たく、岩は硬く、そして太陽は身を焼く。川が流れる、白い砂が冷たく青色に変わる・・。そんなこと全部忘れた、全部忘れてしまっていたんだって、気付いた、心臓が飛び跳ねたことも、家族でディナーに行こうとファミレスに行ったことも、カップヌードルとチキンライスがご馳走だった夜も。顔を失うとき、記憶は顔に付着していた埃のように散る。埃は散っても、埃だったという事実は残る。不意にパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。雨風に吹かれて蝋燭の火のように消え入りそうな、そいつの髪の煌めき。角膜が瞬きのたびに明滅する。そこには大鋸屑や木っ葉や落ち葉が見える。多感なのは困る、だがそれはずっしりと重いおしめだ。ガソリンとアルコールとピザの匂いが入り混じる。それにしても何と奇妙な対象をなしている僕と彼なのだろう。殺すものと死にゆくもの、黒と白、太陽と同時に暗黒であるもの、創造と破壊。その対立物が統合された証のように、液体のような酸素が口の中に息づいている。エロスと死は同じ深淵の二つの名前であり、深淵に名前をつけることが人間の根本的な誤りだ。不意に鶏の卵の中には先祖や、記憶と繋がっているのではないかという気がした。殻が破られて生卵になった瞬間に生まれ落ちてすべて忘れる。磨き込んだつやもない、その古いタイル。亀裂や罅が入ったのだ、卵に。「来いよ」「・・・・・・どうしてだ?」どれほど有り得ない提案だろう―――か、近い将来には、間違いなく、少なくとも破滅が待っている。今現在の恐ろしい時間がジグソーパズルの最後の一片となる。しかしどちらにも枷がある。足には鉄球がある。いずれどちらにも手錠が掛けられる。脅威の噴水。警報は鳴り続けている。、、、、 、、 、、 、、、けれども。でも。まだ。それは。罪がなく、そして罪深く―――も。、、、、、、、、雨が上がっていた。ビルの下までエレベーターで降りて、何食わぬ顔で、歩き続ける。だのに笑いを噛み殺している緊張が消えない。背景がぼやけてゆく、固定点がない、外へ外へ動くばかり。視野の周辺、網膜の杆体細胞は動体視力に優れ、中心窩の錐体細胞は静止した細部を見る。今、錐体細胞は機能を停止し、杆体細胞だけが働いている。頭に浮かぶのは、これも一種の社会的な自殺なのだということ。社会的自殺、所属集団からの離脱、関係の断絶、アイデンティティの放棄、役割の放棄。物理的な死を伴わない死。社会から消えた人間は消えたのではなく、別の視点から社会を観察し始めただけだ。箱の中から見る街は、街の外から見る箱と同じ孤独を持つ。声や言葉にならない周波数の中に人の一生が凝縮されている。いつも戻りたい、誤りを正しい、自責の念を和らげたい。失敗を帳消しにしたい過去という鏡は曖昧さによって意味を欠如し、定義を拒み、身体の中のすべてを空洞にする。、、、、、、、、、、、、レーダーの点滅する居場所。無数の水溜まりの上を歩いてゆ―――く、それが沙漠でも、チェス盤の上でも、この街の人の心は死んでいるから。それでも目的地は常に存在し、常に到達不能であり、その矛盾が歩行の唯一の燃料だ。「なあ、何処まで逃げんの?」「とりあえず、ロッカールームに金を取りに行く。次は食事だ、コンビニだがな。好きなものあったらその時に言え。その後、顔をモグリの医者に変えてもらう。次に横浜へ行き、戸籍謄本と免許証を買う。いまはマイナンバーカードもついてくるらしいな」ロッカールーム、コインロッカー、五百円玉で使用。中には現金百万円、パスポート、着替え。モグリの医者、無資格医療、美容外科の技術で顔を変える。横浜、寿町、日雇い労働者の街、闇市の名残。戸籍謄本、原本は市町村役場、写しを買う。免許証、都道府県公安委員会発行、偽造は犯罪。マイナンバーカード、個人番号カード、ICチップ付き。逃亡とは目的地への移動ではなく、出発点からの継続的な離脱だ。ルートは事後的にしか意味を持たない。「アンタ、意外と喋るじゃん」「予定だ。場合によっては密漁船から中国の船へ乗り込むか、何処かの組に鉄砲玉として預かってもらうかも知れない」密漁船、漁業権無視の操業、拿捕のリスク。中国船、公海上でのトランシップメント。鉄砲玉、組織犯罪における捨て駒、報酬は前払い。恐怖というものはなかった。不安定な木を高く昇ってゆく子供時代の冒険心は、拡がり行く世界を見るため。木登り、枝の強度、重心の移動、落下のリスク。高い位置から見る世界は、地上とは違って見える。自分の世界と、他者によるひそかな隠れた感覚の世界。故郷。一億人の集合的無意識。故郷、原風景、幼少期の記憶。集合的無意識、ユング心理学、元型、普遍的イメージ。甘え。弱さ。痛み。それも隠れ家だった、秘密基地だった、不幸な巡礼者によって浄められ、神の造りたまいしものになった。巡礼者、聖地を目指す旅人、苦行によって浄化される。とはいえ、苦行は聖性への道ではなく、苦行それ自体が聖性だ。浄化は副産物に過ぎない。永遠の生命がこのゴミゴミした増殖する街の中で見出された。永遠の生命、細胞の不死化、テロメアの維持。あるいは輪廻転生、あるいは単なる比喩。楽園は残酷か? 工場や公園、窓や扉―――。バラードの『ハイ・ライズ』の高層マンションのように、楽園は完成した瞬間に腐敗を開始し、腐敗は新しい生態系の誕生だ。小生意気に振舞いながら、まだ見ぬ何かに、戯れ弄ばれているような恐怖を味わう。自分にとって必要だと思える危険は祈りの言葉や架空のものだ。トラックのヘッドライトが歩道越しに照射する。「もうお前は、“決めた”んだな」「―――“決めた”のかな」何故こういった言葉は、厄災の先立つ微行の彼方で、蜃気楼のようになってしまうのだろ―――う。膨れ上がり、蠢くもの。まだ、迷ってい―――る。本当は、きっと、まだ腐っている、ずっとそうなんだ、きっとそうなん―――だ。初めて視線でバランスを取ろうとした人類の祖先は、そこにどんな意味を見出したのだろうか。次の瞬間、もう一度アイツは顔を近づけてきて唇を奪った。悦楽に浸っている暇などない。それはどんな風に自分を見つめていたか、頬ずりされるたびに頬髯はどんな風だったか。言葉ではなくイメージの地図の中で、ウルクの粘土板に刻まれたギルガメシュの嘆きのような、解読されるたびに意味が増殖する、シュメール人の不可解な石板になる。憔悴した顔、弱々しい眼。アーモンド形の目尻や目蓋、そして鼻梁の整った鼻の形、唇の色を受け入れ―――た。蜷局を巻いている蛇。それは完全な形の未来というエスカレーター式の、ヴィジョンと言ってもよかった。誕生の季節。新たな始まりの季節。現実が夢のないものになり、純粋なカウンターを求めている。無人島や、月面探査をするような孤独な人々は、この無重力のような孤独をどうしよう、持て余している。火を点けられない、だって導火線はないし、あるものは、蝋燭の匂いや、溶けた蜜蝋のように病んでいるからだ。けれど数字が時計盤の中をぐるぐる廻る。前進を構想せよ。渡り鳥はサーチライトの届かないところへとゆく。身構えて足を踏み出せ。冷たく破壊された世界で邪教は、悪魔のいかがわしい教えは、白黴のように美しい。あるいは重たくなるものが、壊疽が、悲しくて、美しかった。魅せられ、心動かされ、それでもまだ眼や耳や鼻や咽喉の奥に迷い込んでいる。もう一度雨が降ったら黙って横になる。終わりは終わらない。終わりとは継続の別名だ。―――魔法の羽根で、ニヤつく太陽が見えない、、、、 、、、街燈よ、ともれ。紙幣による鉄の戦争、ガソリンと肉体の披露、敗北の恐怖、そのようなものが夜間の更新を続けている。けれど白い花だ、ドアをノックする光だ。うすっぺらなガウンの下でカンブリア紀が甦生ることも知らずに、受容と屈従の気持ちでいる法悦の浮遊した循環をなすもの、ゴムや石炭やウランになりたいのだ、叫び声をあげ、泥を飲み石を噛みたいのだ、眼は何も語らない、真剣であって欲しいともさらさら思わない、俯いて、下降線をたどっている光を眼で追う奴隷の人々・・・。身体とは言語によって植民地化された領土であり、奪還するには身体ごと燃やすしかない。燃やした後に残る灰が、おそらく魂と呼ばれているものだ。「なあ」「何だ」「名前、何て言うんだ」彼は少し間を置き、答えた。「―――さあな」そして微かに笑ったように見えた。その表情が、雨上がりの街で、ベケットの沈黙のように、あるいはバロウズが切り貼りした新聞紙の余白のように、唯一確かなもののように思えた。
2026年03月17日
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