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まる 2005さん先生曰く、いま大きく分けて大東流は二つの方向へ別れてしまっているらしい。
云わば「剛」と「柔」に。
そして両方同時に伝える方がいなくなった、と仰る。
文章では表現しがたいが、その両方を体験させていただいたのでその言葉がよくわかる。
剛と柔、両方使えて大東流合気柔術なのだ。
剣で例えるなら、一刀流と新陰流。どちらかしか使えない、使わない・・・ということだ。
先生はどちらも使い分けることができる。
話はそれるがその剣術の構えは全く異なる。
お話を聞いた印象では、新陰流は茶道や禅宗、能にもつながるようだ。
「無足」というのもそことつながっている。
話はかわって、大東流の一教から三教を教えていただいたが、合気道のそれとはかなり異なる。
痛みがない。
合気道が関節に技をかけているのに対して、大東流では骨に伝えているので、痛みはないが自由が奪われるのだ。
合気道がいまのカタチになったのが、あえてそうしたのか、間違って伝わったからそうなったのかは分からない。
合気道は合気道としていいと思うが、大東流のソレの方が効率的と言ったらいいのか何と言っていいか・・・?
先生曰く、「合気道は動くので作用点がつかみにくいでしょうね」。
大東流では自分が「動く必要がない」のだ。
いや、動いてはいるが、円運動する必要がないというべきか。
話は広がり、なぜ「二刀流」があるか、という解説も面白かった。
一方の剣で相手の剣を制し、相手の自由を奪って、もう一方の剣でとどめをさすため、とのこと。
その日は、木製の模擬短刀を使って体験させていただいたが、刀が触れた瞬間に体を崩されてしまう。
つばぜり合いにならない。
だから昔の武士は刀を合わせたくなかったはず、という話だった。
まさに真剣勝負となり、命を投げ出すしかないわけだ。
小説などで剣の達人同士が間合いをとったまま動けなくなるというのも頷ける。
力量の浅い方が相手に斬りかかっていく。あるいは天然理心流のように相手を見切ったら傲然と斬りかかっていく・・・となるのだ。
先生の身体を使った講義はどこまでも広がっていく。
非常に刺激的な一日であった。