全73件 (73件中 1-50件目)

スペインの首都マドリードといえば、フラメンコと闘牛で有名ですが、この都が歴史に登場したのは、9世紀のことでした。それまでは単なる寒村だったのが、イスラム教徒がイベリア半島を征服し、現在王宮がある場所まで前進基地を築きました。この基地がある村が、アラビア語でマジリッド(森林)と呼ばれ、それがマヘリット(基地)になり、マドリードと呼ばれるようになったのでした。キリスト教徒軍の国土回復運動が盛んな頃、カスティーリャ王がその砦を占領して以来、カスティーリャの中心地として発展しました。1561年には、ハプスブルグ家が宮廷をトレドからマドリードへ遷都して、スペインの首都になりました。スペイン第二の都市バルセロナは、マドリードよりづっと早く、紀元前6世紀には歴史の舞台へ登場しました。この街は、ギリシャ神話の英雄ヘラクレスが造ったといわれ、その地名は、紀元前236年にこの地をイベリア半島の拠点として選んだカルタゴの将軍、ハミルカム・バスカス(ハンニバルの父)の名前に由来しています。
2010.05.31

「大自然は、人類を快と苦という二つの君主の支配下に置いた。大自然は、人類が何をなすべきか指示することも、決定することもことごとく手中にしている(ベンサム)」 イギリスの哲学者。 ゆえに大自然とは神である。どんなに立派な人生の計画であっても、大自然に拒否されれば実現しない。また、どんなに立派な人生の計画であっても、国家が戦争を行えば実現しない。
2010.05.31

ブラシノキ府中とは、律令制の地方行政で、日本を約60の国に分け、そこに国府を置いた。つまり全国に60数か所の府中があった。駿府は駿河の国の府中、甲府は甲斐の国の府中、そして武蔵の国の府中が、現在の東京都府中市である。武蔵国は現在の埼玉南部・東京都・川崎・横浜で、その国府だった府中は、政治・文化の中心地だったが、鎌倉幕府の崩壊で衰退した。江戸時代に入ると再び甲州街道の宿場町として、あるいは多摩地区の商業の中心地として賑わいを取り戻した。。府中の中心的存在の「大國魂神社」は、景行天皇41年(111)の創祀と伝えられる都内屈指の古社である。御祭神は「大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)」で、出雲の「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と同一の神とされている。源頼義・義家父子が、奥州平定の戦勝を祈願して寄進した欅並木の参道。途中に、欅が、歴代受け継がれ今日に至っていることを伝えるために建立した「八幡太郎義家」(左)がすっくと立っている。欅並木の南端には「万葉歌碑」(右)がある。武蔵野の 草は諸向き かもかくも 君がまにまに 吾は寄りにしを(草が風になびくように、私は貴方にひたすら心を寄せたのに)。大國魂神社の次の交差点向こう左側に、復元された「高札場」(左)がある。ここは旧甲州街道と鎌倉街道(現在の府中街道の一部)が交わる場所で、「札の辻」と呼ばれた。第12代景行天皇の御代に大神の託宣によって創立したとされ、約1900年の歴史を誇る「大國魂神社」。大國魂大神を祭神に、武蔵国の鎮守として源頼朝と北条政子、徳川幕府からも崇敬されてきた古社であり、古式ゆかしい数々の神事を今に伝えている。中でも、創立の5月5日の前後7日間、4月30日~5月6日に行われる「くらやみ祭」、戦勝を祈願した源頼義・義家父子が御礼詣りの折、神饌のひとつとしてすももを供えたことに由来する「すもも祭」(7月20日)は有名で、市内外から多くの参拝者が訪れる。
2010.05.31

ストケシアウィルスという言葉の意味は?私達は日常、インフルエンザ・ウィルスとか、コンピューター・ウィルスなどと、ウィルスという外来語を日本語のように使っていて、それが何語だとか、どういう意味かなんて考えたことはない。ウィルスはラテン語で、毒を意味し、人間や動物、植物に寄生して病気の元になるもの。大きさは細菌より小さく、また多くの細菌は2分裂して増殖するのに対して、ウィルスは細胞に寄生し、その中で一度に数百個、数千個と複製を作る。風邪とインフルエンザは症状が似ているが、風邪はウィルスが気道に感染して発症し、一年を通していつでも罹るが、一週間程度で快復する。冬の寒くて空気が乾燥している時に流行するインフルエンザは、様々な形のウィルスがあり、高熱とひどい頭痛などが特徴で、高齢者や子供、免疫力の弱い人は死に至る場合もある。地球上には、250万種類の細菌がいると推定され、その内、病気の原因になるのは約2600種類で、多くの細菌は人間と共存している。細菌には病原菌ばかりではなく、我々の身体を守ってくれる菌がいることは、現在では誰でも知っている。私たちの皮膚の上には、約一兆個の細菌が住み、同じ種類の細菌はテリトリーを作っていて、他の細菌の増殖を抑えている。消化器内には約100兆個の菌が住み、同じような状態になっていて、乳酸菌やビフィズス菌の集団が、私たちを悪い菌から守っている。お口の中にも色々な菌が住み、私たちが食物と一緒に口に入れてしまった病原菌を退治してくれる。このような良い菌を強化培養することで、我々は病気から我が身を護ることが出来る。薬の能書きを読むと、恐ろしくて飲めなくなる。湿布薬でも、貼ったまま紫外線に当たると、紫外線アレルギーになると書いてある。あまり、能書きを読む人はいないかもしれないが、読んだ方が良い。具合が悪くなると薬を飲む、その薬の副作用で他の病気になる、あるいは薬の毒を処理するために肝臓を傷める、さらに薬を飲むの繰り返しで、身体はボロボロになってしまう。最初の病気にならないようにすることが一番大切だ。
2010.05.30

「自分の力でどうにもならないことは、心配しても意味がない(ギル・アメリオ)」 アップル・コンピューター元会長。それが自分にはどうにもならないことだったら、気持ちを切り替えて出直すことだ。
2010.05.30

アスチルベ世界の始まり万物の源である「カオス」は、混沌という意味である。古事記における記述でも、「遠い昔、造化の気が次第にこり固まっても、いまだに外に現れて来るにはいたらず、したがって名前もなければ、動きもない、誰もその形を知らない・云々」とある。旧約聖書では、混沌を作ったのは神であるとし、ギリシャ神話では神より混沌が先であるとされ、その後の天地も神が作ったのではなく、生成によって自然発生したことになっている。カオスの次に生まれたのは、大地ガイアと、地底に渦巻くタルタロス(冥界の最深部)と、愛であるエロスとされている。それからカオスは次々と神を生み、星を散りばめた天空ウラノス、山々、大海原ポントスを生み、天と地と海が揃った。ガイアもまだ単独の神で、いずれの神もまだ人格化されていない。エロスは後世の物語では、愛と美の女神アプロディテの息子ということになるが、この時点では「生殖」の力を表しているにすぎなかった。天空ウラノスは天王星の名前になり、またウラニウムの語源となった。ギリシャ神話の神々は、大地や天空など自然を表す神であっても、明確な性別がある。カオスのみが唯一中性的存在となっている。
2010.05.30

「虚空の中で呼び声が消えてしまわないためには、声を聞こうと待構えている人がいる必要がある(ボーヴォレール)」 フランスの哲学者、作家。自分の存在を確かめるには、自分の声を聞こうとして待っている人が必要だ。人間は一人では生きて行けないのだから、他者の中に居て、はじめて自分が自分であり得る。
2010.05.29

びわ平安時代の貴族達は、京都の北山、東山、宇治などに別荘を構えていました。交通機関が無かった当時は、山超え野超え、牛車や馬、あるいは徒歩で行く遠い地だったのです。それ以上遠いと、都で何かあった時にも、連絡さえつかなかったのでした。宇治にある平等院は、藤原道長の別荘で、陸路では奈良と京都の間にある交通の要衝でもありました。元々は帝の離宮として設置されてものを、道長が買い取って別荘にし、その死後息子の頼道が寺にしたのでした。平等院といえば鳳凰堂ですが、正式名称は阿弥陀堂で、伝説の鳥鳳凰が翼を広げた華麗な姿に見えることから、通称鳳凰堂といわれています。10円硬貨に刻まれているのが鳳凰堂です。鳳凰堂の前には池があり、対岸から見るのが正しい眺め方とされています。池のこちら側はこの世を表わし、堂がある方は彼岸(来世)と設定されています。堂が極楽浄土を表現しているのです。藤原道長は、この阿弥陀堂で、背中の腫瘍と下痢による地獄の苦しみで、壮絶な最期を遂げました。人々は、道長が自らの権力を拡大するために、犠牲にした三条天皇の祟りであると噂しました。道長は、阿弥陀様の手に結んである五色の糸を握って亡くなりましたが、極楽浄土へは行けたのでしょうか。その父の最期を見て、息子頼道は恐れをなし、その頃末法思想が流行っていたこともあって、阿弥陀堂を寺に造り替えたのではないでしょうか。
2010.05.29

「働くことの喜びは、実際に経験することからしか生まれない。教訓や他人の実例からは生まれない(ヒルティ)」スイスの法律家。働く喜びを知らない人は、懸命に働いたことがないことを証明している。また、お金持ちになる方法とか、幸せになる方法みたいな本を読んだり、講演を聴いたりしても、それだけでは絶対に金持ちにも、幸せにもならない。
2010.05.28

長寿の秘訣日本は男女ともに世界一の長寿国だが、一方では寝たきり老人など、健康に問題を抱えた高齢者も多い。長生きはしたいけど、健康に活き活きしていなければ生きている甲斐がない。古くから長寿とされている沖縄と、平均寿命が伸びている長野県から、長寿の秘訣を学ぼう。沖縄の場合、不動と思われている長寿の座が、最近は危うくなっている。その理由は、医食同源の伝統食から、アメリカンフードへの食生活の移行だ。沖縄の長寿を支えていたのは、温暖な気候風土も大きな理由だが、それ以上に沖縄の伝統料理であり、ゴーヤや糸瓜、島野菜、薬草、昆布などの海藻が多く使われ、塩分の摂取量が少ないのが特徴だった。しかし、戦後は食文化が欧米化し、高カロリー、高塩分の食事が好まれるようになった。チャンプルー(炒め物)などにも、昔は、ゆでこぼして脂肪分を除いた豚肉を使っていたのが、戦後は脂質、塩分が多い缶詰を使うようになった。車社会の沖縄では、ちょっとした距離も歩かなくなり、運動不足も指摘されている。長野県の場合は、野沢菜の漬物に醤油をかけて食べていた時代には、脳卒中による死亡率が全国トップだった。そのため、食生活改善推進協議会を発足させ、自治体ぐるみで減塩指導に取り組んだ。その結果、塩分消費量が減少し、脳卒中による死亡率がグンと低下した。さらに地元の特産品や蕎麦などの郷土料理が、健康への効果があると見直す動きが活性化した。キノコ類や寒天、野菜の生産量は日本一だが、いずれも健康食として注目されている食材だ。やはり、健康には先ず食生活。粗食とは、貧しい食事のことではなく、ビタミン・ミネラルのバランスが良い、シンプルな食事のことではないか。
2010.05.28

ウツギルネサンス期に描かれた聖母の絵の中でも、イタリアで人気が高かった15世紀のフィリポ・リッピの「聖母子と天使」は、とりわけ艶めかしく描かれた作品だ。リッピは修道僧で、幼少期から絵が大好きだった。才能もあった彼は、司祭職のかたわら修道院の祭壇画などを描く画僧となった。ところが、リッピは大変な好色で、女癖が悪い司祭で、好みの女性がいればどんなことをしてでも手に入れた。どうしても口説き落とせない時には、肖像画を描いて気持ちを鎮めた。彼は女子修道院の依頼で絵を描く機会が多かったので、修道女も恋の対象になった。ある時、サンタ・マルガリータ修道院で、美しい修道女を見初めてしまい、絵のモデルにした。ルクレツィアという修道女をモデルにしたリッピは、絵を描きながら彼女を口説き、ついに1456年のある日、二人は駆け落ちしてしまった。やがて二人の間には、フィリピーノという息子が生まれた。以後、リッピが描く聖母のモデルは、ルクレツィアになり、「聖母子と天使」の聖母も彼女がモデルのために、艶めかしくなったのだ。しかも、この聖母は、当時フィレンツェで流行していたヘアスタイルで、真珠の髪飾りをつけた15世紀風のファッションの聖母である。さらに、サンタ・マルガリータ修道院にいたルクレツィアの妹や、その他の修道女も誘惑し、彼女たちも修道院から逃げ出して、彼の家に住むようになった。そしてとうとう彼は司祭職をくびになった。しかし、彼の絵に傾倒していたフィレンツェの君主メディチによって、法王は二人の還俗と結婚を許可させられた。
2010.05.28

ラークスパー箱根の芦ノ湖は、周囲が約19キロ、水深は深いところで約40メートル、名物は湖面に映る富士山。逆さ富士も有名だが、もう一つ有名なのが逆さ杉である。湖の湖底に杉林があり、湖面から眺めることができる。20メートルもある大木も、湖底に沈んでいる。江戸時代には、その杉の梢が湖面に出ていて、そのため逆さ杉と呼ばれていた。これを見て、芦ノ湖は昔は杉林で、やがて水が溜まって湖になったと思うと、そうではない。芦ノ湖は箱根火山の爆発によって出来たカルデラ湖で、杉林は湖より後に形成された。そんな不思議な??実は、芦ノ湖の杉林は、地震によって生まれた。古墳時代(1600年前)と平安時代初期に、箱根の周辺に大地震が起こった。その時、山の斜面に立っていた杉林が、立ったままで土砂と一緒に湖の中へ滑り込んだのだった。最近は、それに似た光景の映像がテレビから流されているので、なるほどと納得できる。芦ノ湖の湖底の杉を調べると、古墳時代のものと、平安時代のものの2種類があるらしい。
2010.05.27

「邯鄲(かんたん)の夢」出世や富貴などを望んでも、人生においてそんなものは儚く夢のようだという意味。中国の故事で、感動するような素晴らしい夢、という意味ではありません。
2010.05.27

ザクロ笛は横笛が素晴らしい。遠くから聞こえていた音が、だんだん近くなる時は素敵だ。近くの音が遠ざかっていき、微かに聞こえるようになる時もとても良い。車の中で吹く笛、歩きながら、馬上でも素晴らしい。笛は懐に差し入れていても、仰々しくなく目立たないように持っているのも、これほど結構なものはない。まして聞き覚えのある曲が聞こえてくると、なんとも嬉しくなる。暁に帰った男が置き忘れた風情のある笛を、枕もとで見つけた時には微笑ましい。忘れた人の使いが、笛を取りに来た時、丁寧に包んで渡す時、恋文のような気がして面白い。笙の笛は、月が明るい時に車の中で聞いたのが、とても趣があった。楽器は取り扱いが難しそうに見える。そして吹く時の顔ときたらどうだろう。でもそれは、横笛であっても吹き方次第だ。篳篥(ひちりき)は、とてもやかましくて、秋の虫に例えればクツワムシのようで、近くでは聞きたくない。まして下手に吹かれたのではひどく癇にさわるが、お祭りの日、楽人がまだ御前に出ず、控えている時、横笛を素晴らしく吹き始めたのが聞こえた時には素晴らしいと思った。その時、急に加わった篳篥がまったく嫌な音で、髪が逆立ってしまいそうだった。そのうち琴や笛に合わせるようになって、歩み出て来た時には良かった。
2010.05.27

今日、真っ黄っ黄色の手袋をしたオジサンを見た。
2010.05.26

「アテネの賢者ソロンが、一人息子の死を嘆き悲しんでいるのを見て、ある学者がどうしてそのように泣くのか、泣いても何の役にも立たないのにと言うと、ソロンは、何の役にも立たないから泣いているのだと答えた」 人間の行為の全てが役に立つものではない。泣く、笑うという行為は、理屈を超えたものだ、それを知らない頭でっかちの学者を、ソロンが戒めた。
2010.05.26

ユリ最近では小松和彦氏などの、幽霊も妖怪の一種だと考える説が多く、幽霊も妖怪も「化けもの」「お化け」であり、これを学術的には「妖怪」にくくることになった。しかし昔から日本人は、幽霊と妖怪を区別してきたので、河童と幽霊が学問的には同じだと言われても納得しない。現在一般的に幽霊には足が無いと言われるが、元禄時代までは幽霊の足は存在した。歌舞伎で、幽霊の足を見せないために、足の部分を幕で隠したので、足が無いことになった説や、天上のものを描く時、足の部分を雲で覆ったからという説などがある。いずれにしろ、健全な形で現れたのでは怖くないからだろう。雨月物語(上田秋成)の「菊花の契り」では、生前そのままの姿と声で出現する侍の幽霊の話がある。歴史上では、神代から奈良時代に妖怪が登場するが、おそらく、人類の登場と同時に始まったのかもしれない。古事記には妖怪が色々と登場する。アマテラスが天の岩戸に隠れた時、闇の妖怪が数々現れた。スサノウがヤマタノオロチを退治する時、クシナダ姫を櫛に変えて髪に挿した。イザナギが黄泉の国へ行き、逃げ帰る時には鬼女に追いかけられた。オオクニヌシの因幡の白ウサギも物の怪であると考えられる。神武天皇から欽明天皇の時代に仏教が伝来し、霊妙なものは姿を消して、すべて現世の変化(実在するものが変化したもの)になった。天狐(アマツキツネ)や、大笠をかぶった鬼が天皇の大葬を眺めていたという。奈良時代の仏教説話「日本霊異記」には、僧侶が守銭奴だったため、死後大蛇になってしまったという話がある。蘇我馬子に滅ぼされた物部守屋は、死後数千万の狐に変身し、寺を啄いだところ、鷹に変身した聖徳太子に降伏させられたという。
2010.05.26

「注意すべきは、憎しみを招く元が善行であることだ。それは悪行に劣らない(マキャベリ)」 イタリアの政治思想家の君主に対する進言。中途半端な善行は行うべきでない。それは悪行と同じくらい憎しみを生み出すからだ。 政治改革、行政改革など、中途半端に終わらせると、切り捨てられた人には救いがない。恨みが深まるばかりだ。
2010.05.25

ダリア「清水の舞台から飛ぶ」 京都東山にある清水寺は北法相宗の名刹であり、西国三十三所の第十六番札所として知られ、本尊の十二面観音は多くの尊崇を集め、平安時代以来の観音信仰の霊場です。切り立った崖の上に設けられた観音堂の舞台は眺望に富み、多くの観光客が訪れます。 ことわざの意味は、死ぬ気になって思い切ったことをしたり、重大な決意で物事に取り組む覚悟を形容したもの。清水寺清水の舞台から下を見下ろすと、思わず「わあ、すごい!」と言ってしまいますが、舞台とはいっても観客席はありませんね。あのダリ舞台で何か上演されたことがあるのでしょうか、あったとしても誰がどこから見物するのでしょう。それは、見物するのは人間ではなく仏様という訳だったんですね。あの舞台は人間用ではなく、仏様がご覧になる舞台なのです。清水の舞台から飛び降りるつもりとは、決死の覚悟で何かを実行する、やり遂げるという意味ですが、昔は本当に飛び降りた怪しからぬ人間がいたそうです。江戸時代は、清水の舞台から飛び降りれば、極楽に行けるなどと言って人を惑わす輩がいて、何人か騙されて飛び降りたそうです。ところが、あの高さから飛び降りても、助かった人がいたという記録があります。明治15年には、飛び降り禁止令がでたそうですが、文明開化の時代になってからも飛び降りた阿呆がいたそうです。
2010.05.25

コバノズイナ「金銭そのものが、人間のために善きものになるためには、公私いづれにおいても、総ては魂の優れていることによる(ソクラテス)」 古代ギリシャの哲学者は、魂の探求者だった。金銭の価値はそれを扱う人間の魂が優れている時だけ、善きものになると彼は言う。これは現代社会にも通じる言葉で、魂が汚れた人間が、ただ金儲けのためにだけ莫大な金銭を動かす時、環境汚染など様々な社会問題を起こしてきた。魂が劣った人間が金銭を使うと、それは価値を失い、悪になるのだ。
2010.05.24

サンピエトロ寺院の壁画などを残したラファエロは、ミケランジェロと同時代の画家である。ミケランジェロはどんな大作でも自分一人で制作したが、ラファエロの場合は下絵は自分で描いたが、制作は弟子たちが完成させた。「プシュケーの物語」という作品は、ローマのファルネジーナ館の天井画だが、ラファエロの作品としては優美さに欠けると言われている。その作品が制作されていた頃、ラファエロは恋愛に夢中で作品どころではなかった。彼が好んでモデルにしていたマルゲリータは、パン屋の娘で彼の愛人だった。しかし、彼の愛人はマルゲリータだけではなかった。彼は生涯独身だったが、次々に恋人を作り、その都度仕事をないがしろにしていた。ヴァザーリというラファエロの信奉者で画家・文筆家あの記録によれば、ラファエロが女性に夢中で仕事場に寄り付かなかったので、その女性を仕事場に住まわせて、無理に仕事をさせたという。彼は若くしてルネサンスを代表する画家となったが、面私生活はだらしなかった。37歳という若さでこの世を去ったが、女遊びが死因だったとも言われている。
2010.05.24

「憤怒と激昂が私の感覚機能を占領しても、そのままにさせておく。全力を尽くしても阻止しようがないこの爆発を、自然の成り行きに任せるのだ(ルソー)」短気で怒りっぽいこのフランスの哲学者は、そのために多くの友人を失った。爆発の後は、徐々に自分の感覚を回復し、完全に自分を取り戻す。理性を働かして打ち勝てる潮時を待つのだ。なぜなら、理性は傾聴してやらなければ囁かないからだ。これはルソーの、生きるための知恵だった。
2010.05.23

今年初めて咲いた紫陽花東京の地図を眺めていると、市や区の境界線が曲がりくねっているのが気になる。東京の下町には、荒川、隅田川、江戸川、新中川などといった大きな川の他に、小さな川がたくさん流れている。大きな川は、水害対策のために河川工事が行われ、比較的直線に流れているが、古い川は蛇行したままになっている。その曲がりくねった川を区の境界線にしているので、境界線も蛇行しているわけだ。葛飾区と荒川区、江戸川区と江東区の区境は、最近になって生まれた荒川(荒川放水路)を境にしたので、直線に近くなっているが、その間の江戸川区が荒川の西岸に張り出して、墨田区と接している部分はクネクネしている。文京区と台東区の区境は、不忍池に注いでいた藍染川に沿っている。現在では川は無くなってしまったが、川筋そのままに曲がっていて、「へび道」と呼ばれている。葛飾区と足立区、葛飾区と江戸川区の区境も、複雑に曲がりくねっている。かつては、ここにも川が流れていた。葛飾区と足立区の間には古隅田川という大河が流れていた。現在は地図にさえ描かれていない細い川しかないが、蛇行した区境が大河の名残りだ。
2010.05.23

さつきお祭りで最も盛大なのを「例祭」と言いますが、例大祭とかお祭りとも言います。有名な浅草の三社祭は、浅草神社の例大祭、京都の祇園祭は、八坂神社の例大祭です。例大祭は、年に1回か2回行われますが、長野の諏訪大社の御柱祭は6年に一度、伊勢神宮の式年遷宮は20年に一度しか行われません。これを式年祭と言います。その他にも色々なお祭りがあります。先ず、一年の初めには、その年の無事息災を祈念する「歳旦祭」が行われます。二月には、春に先立ち、「祈年祭」が行われます。これは「としごいのまつり」とも読み、「とし」は稲のことで、その年の、五穀豊穣を祈るお祭りです。6月と12月の晦日には、罪や穢れを祓う「大祓」が行われます。これは犯した罪、穢れをひとがたに移して除去するものです。11月には、「新嘗祭」が全国各神社で行われます。2月の祈年祭と対になるお祭りで、秋の収穫を終えて、新しい穀物を神に供え、一緒に食べて感謝するお祭りです。毎月行われるお祭りは、「月次祭」と言い、毎日欠かさないのが「日次祭」です。これは神社の日常的行事で、神に食物を供えて感謝し、平和と幸せをお祈りします。伊勢神宮では、年間1千を越すお祭りが行われています。お祭りとは、境内に露店が並び、お御輿や山車が出るのだけが神社のお祭りだと思っている人もいますが、祭とは本来、「たてまつる(奉る)」からきた言葉であり、神様に供え物を献ずるという意味だったのです。
2010.05.23

「人は自分の運命を非難して、責任を免れるつもりでいる。つまり、いつも運命の女神が悪いのだ(ラ・フォンテーヌ)」 フランスの詩人。運命の女神は、良い時には讃えられるが、上手くいかなかったとき、人は運命の女神のせいにして罵るのである。
2010.05.22

本願寺は、西本願寺と東本願寺があるのはご存知の通りですが、どうして西と東があるのでしょう。東西ともに公称末寺一万、門徒一千万人、合わせて二千万人になり、日本人の2割近くが、東西どちらかの門徒であることになります。両寺院とも親鸞聖人を開祖とする浄土真宗で、元々一つの巨大な寺院だったのですが、あまりにも勢力が拡大し過ぎたので、1602年、徳川家康は幕府にとって脅威になると考え、東西に分断することにしたのでした。そのため両寺院は、経典や重要な儀式の作法などの基本的なことは同じですが、4世紀の時を隔てた今、細かいところには相違が出てくるのも当たり前です。大きな違いは建物の配置で、東本願寺は正面左が本堂、右に太子堂がありますが、西本願寺は右が本堂で、左は太子堂ではなく、御影堂と呼んでいます。また、柱の断面が、東は円で西は四角です。歴史的には、西本願寺は幕末に薩長倒幕派の味方をし、東本願寺は新撰組の屯所になるなど、幕府を守る立場にありました。用語なども東西に違いがあり、東では法王、西では門主と呼び方が違います。東の内局は、西では総局、東の宗議会は、西では宗会等々。京都の人々は、東と西では境内に居る鳩までが、所属するグループが違うなどと冗談を言っているそうです。
2010.05.22

「知らぬが仏」江戸いろはがるたの「し」。当人のみが真実を知らずに平気な顔をしていることをからかう時に使います。「知らぬが仏、知るが煩悩」は、知ってしまうと腹が立つし、苦しみも生まれるけれども、知らなければ邪推してケンカをすることもないし、仏様のように穏やかな顔をしていられるという意味のことわざです。「知らぬが仏、見ぬが秘事」「知らぬが仏、見ぬが極楽」は、物事の真相など知らない方が穏やかな気持ちでいられるということ。
2010.05.21

カルミアムンクは19世紀から20世紀に活躍したノルウェーの画家で、「叫び」という作品で有名だが、もう一つ彼の根幹となった作品に、「生命のダンス」がある。生命のフリーズという一連の主題に基づく作品を発表したが、それを展示するにあたって、発端を「叫び」、締めくくりを「生命のダンス」として並べた。生命のダンスは、彼にとって大きな意味を持つ作品で、生命のフリーズの中でも要となっていた。ムンクの手記によれば、絵の中の三人の女は、「夢見るように生を凝視する女」、「生を渇望し愛する女」、「蒼白の顔の尼僧」を表し、処女・熟女・老女、女の一生としている。これはムンクの恋愛体験をもとにしていると考えられている。この絵が描かれた1900年頃、ムンクの恋人はマティルダ・ラルセンという女性だった。愛称トゥラというその女性は、オスロの裕福な商人の娘で、この絵のモデルとなった。だが、中央の女は、「私の最初の恋人」だと彼が語ったことから、かつての恋人だったミリー・タウローだといわれている。ムンクは奔放な恋愛を繰り返していたので、トゥラの美貌に惹かれながら、結婚を迫る彼女には閉口していたらしい。1902年、彼女はピストル自殺をはかり、止めようとしたムンクは左手中指を負傷した。それ以来、ムンクの集中的制作はぱったり止まってしまった。
2010.05.21

「生死は車の輪の如し」 命あるものは必ず死ぬ。生死は車輪のように回り循環するもの。輪廻転生は仏教の教えの根底にある考えである。生者必滅は普遍の真理。どんなに偉い人でも、大金持ちでも、誰一人死から免れることは出来ない。一生は悩みの連続であり、この世で悟りを得られずに転生を繰り返す。車輪が回るように、水が流れるようにこの運命からは逃れられない。
2010.05.20

野分の次の日(秋の台風の翌日)野分の吹き荒れた次の日は、垣根などが乱れて、花壇の花も痛々しい。大きな木が倒れたり、枝が折れたりしたものが、草花の上に横倒しになって覆いかぶさっているのは、まったく心外なことだ。格子戸の隙間に木の葉が入っている様子は、誰かがわざとしたかのようで、荒れ狂った嵐の仕業とも思えない。美しい女の人が、昨夜は嵐の騒ぎで眠れず、遅れて起きて来た時、髪が乱れている様子などは、何だか魅力的だ。その人がしみじみと外を眺め、和歌など口ずさんでいたりすると、物の心が解っているのだと思える。若い女房や童女が外に出て、折られた草木など取り集めたり、起こして立ち上がらせたりしているのを、羨ましそうに眺めている後ろ姿も可愛らしい。身分の高い女性は、部屋の中では立って歩くこともなかったくらいで、外に出たくても庭に降りることもできなかった。主人筋の美しい女性は、使用人の若い女性たちが、嵐の後片づけをしている姿を、羨ましげに眺めていて、清少納言はその後ろ姿を眺めていたのだろう。
2010.05.20

「我々が無くても世界自体は存続する。我々は世界の死とともに消滅する」 そして、我々は地球の中でのみ人類として存続することができる。地球は人類が無くても存在するが、地球が死ねば、我々も消滅する。
2010.05.19

クロバナロウバイ元々、神社とは神を祀る場所だった。大小の差はあっても、どんな小さな祠でも、そこは神が降臨する場所であり、神が祀られている。日本には八百万の神様がいて、古くから森羅万象全てに神性を認め、畏まって崇拝していた。天照大神をはじめとした神々のほかにも、菅原道真公のような実在した人物も神様になった。土地の守り神である氏神や、産土神など、多彩な神々が存在した。仏教が伝来し、寺院が建立されるようになると、その影響で、神社という建物を作って、それらの神様を祀るようになった。神社がなかった頃は、祭事を行う時だけ祭場を設けていた。ご馳走を作ってお供えし、神様をお迎えして、神楽などを演じて、神様をおもてなししていた。祭りはそのようにして起こった。神様と一緒に楽しい一時を過すことこそがご利益だった。そして、祭りが終われば、臨時の祭場は撤去されていた。お宮参りや七五三、初詣にお祭りなど、我々日本人は神社へ行く機会が多い。しかし神社のことはあまり良く知らない。その神社が、何の神様を祀っているのかも知らずに初詣に行っている人が少なくない。神社にはどんな建物があるかと問われても、答えられない。本殿と拝殿がありますと言われても、ピンとこない。お賽銭を投げるのが拝殿で、その奥にあるのが本殿と言われても、奥が在ったのか?なんて考えてしまう。神様が鎮座しているのが本殿、その中にはご神体、祭神が置かれている。本殿は、神殿とも呼ばれ、神様が降臨する場所。拝殿は、参拝者が拝礼をする場所、そして神職が祭祀する場所。神社でも、神を祀る本殿がない神社がある。奈良の大神神社は、ご神体が三輪山そのものだから、本殿が存在しない。しかし、これこそ神社の本来の姿で、原点ともいえる。また反対に、伊勢神宮には拝殿がない。祭儀は庭で行われ、お伊勢参りの人々は、外玉垣御門で参拝する。大神神社や伊勢神宮は稀な神社で、普通は本殿と拝殿があるのが一般の神社だ。
2010.05.19

「夢は、無意識的なものの湾曲された代理物であり、夢解釈の課題はこの無意識的なものを発見することにある(フロイト)」 オーストリアの精神分析学者、心理学の父フロイトは、無意識的なものを発見するために夢分析をすると強調する。そのためには、意味がハッキリしている夢は無視しなければならない。隠された無意識的なものが自然に姿を現すまでじっと待つことが、フロイトの夢分析に対する態度である。巷の夢占い師などは、夢の代理表象を意味づけして、相手を納得させようとするが、それはフロイトの夢解釈とはかけ離れている。
2010.05.18

ほうろく地蔵ほうろくとは、素焼きの浅い土鍋で、昔はこれで煎り豆などを作った。大円寺の山門を入ると、正面にほうろく地蔵がある。これは八百屋お七の罪業を救うため、お地蔵様がお七の身代わりに、熱せられたほうろくを被って苦しみを受けた姿で、渡辺九平衛という人が、1719年にお七の供養のために寄進した。このお七供養のお地蔵さまには、頭痛や眼病など首から上の病気を治すことで有名で、痛む処を、ほうろくに墨で書いて、お地蔵様の頭の上に置くと願いが叶い、落ちて割れたらご利益がないと言うが、落として厄除けにする場合もある。今でもお参りする人が多いらしく、たくさんのほうろくが重ねられ、子供の願いや、脳腫瘍の願いが書かれている。このお寺には斉藤緑雨のお墓がある。明治文壇の鬼才斉藤緑雨は、三重県神戸で生まれ、父は藤堂藩の侍医で、その父と一緒に上京し、仮名垣魯文に師事し、辛らつな批評家として文壇に登場した。晩年は肺病と貧困に苦しんだが、江戸趣味の風刺家として本領を発揮した。油地獄、かくれんぼ、などの短編小説のほか、あま蛙、あられ酒、みだれ箱などがある。死の直前、「僕、本月本日を以って目出度死去仕候」と、口述筆記の自作死亡広告を載せ、その翌日、明治37年4月13日、38歳で没し、大円寺に葬られた。緑雨と親交のあった内田魯庵は、告別式の日の空模様を、一代の皮肉家緑雨を弔うには、極めてふさわしい意地の悪い天気であったと書いている。また高島秋帆のお墓もある。我が国近代砲術の祖高島秋帆は、長崎の町役人の家に生まれ、17歳で家督を継ぎ、鉄砲方となった秋帆は、アヘン戦争で中国(清)がイギリスに惨敗したことを知り、我が国も砲術を改良しなければ、ヨーロッパの列強国の植民地にされてしまうと危惧し、私財を投じて砲術の研究に専念した。その後、長崎奉行に西洋式砲術の採用を願い出て、江戸に召しだされ、江戸板橋徳丸ヶ原(現在の高島平団地)で、大砲の試射と、騎兵の馬上射撃訓練を行った。しかし幕府は、反対派の言を入れて、秋帆に無実の罪を着せて伝馬町の牢に入れてしまった。黒船来航によって騒然となっていた時、弟子の江川太郎左衛門の尽力で赦免された。その後、具足奉行になって、幕府の軍政に参与し、69歳で病死し、大円寺に葬られた。
2010.05.18

「三人寄れば文殊の知恵」私のようなおバカでも、三人集まって考えれば良い知恵が生まれるということわざ。三人とは多くの人という意味で、ことわざではよく使われる。文殊菩薩は日本でも古くから尊崇され、お釈迦様の弟子の中でも知恵では第一人者という舎利弗と並んで庶民の敬意を集めていた。「文殊の知恵、槃特の愚痴」というのもあり、文殊菩薩の知恵と、知恵の遅れた釈迦弟子の槃特の愚かさも、お釈迦様の前では区別がなく、修行の結果として等しく悟りが得られるという意味。
2010.05.17

ウツギスペインのプラド美術館には、フランシスコ・ゴヤの「裸のマハ」と「着衣のマハ」が展示されている。同じ絵なのに一方は裸で、もう片方は服を着ている。二つの作品は1803年に、スペインの宰相マヌエル・ゴドイの邸宅で発見された。当時スペインはカトリックの力が強く、厳しい戒律があった。そのためゴドイ家では、表面に着衣を飾り、その下に裸のマハを隠した。裸はハンドルを回すと出てくるように細工がしてあり、時々に応じて入れ替えていた。楽しそうだね。先に描かれたのは「裸のマハ」で、両方が完成するのには数年の開きがあったと考えられている。ゴヤはどうしてこの二つの作品を描いたのだろう?謎を解くカギは、マハのモデルになった女性が握っている。モデルとされている女性は、ゴヤの恋人だったアルパ侯爵夫人で、魅力的な彼女はゴヤにとっては女神ヴィーナスのような存在だった。ゴヤは彼女を描いた別の作品を、死ぬまで自宅に飾っていた。その絵の侯爵夫人は、右手の指で下方を指示しているが、そこにはゴヤの署名があり、その隣に「solo」という文字が入っている。つまり「ゴヤだけ」という意味だ。また、二人のイニシャルを刻んだ指輪も描かれている。純愛だね。後年、ゴヤは「裸のマハ」を描いたことで、異端審問に召喚された。侯爵夫人の方の子孫も、夫人がモデルではないことを証明するため、裸の女性とは体形が異なるとして、1945年に墓を掘り返し、遺骨を調査された。当時のスペインでは、裸を描かれることは罪深いこととされていたため、先祖の汚名を消すためだった。ゴヤの墓も暴かれたことがあり、当時の新聞には「二人は死後も運命をともにした」と書かれた。
2010.05.17

「獅子身中の虫」仏教徒で仏の恩恵を受けながら、仏教に害をなす者のたとえで、転じて味方でありながら、内部から災いをもたらし、恩を仇で返すこと。百獣の王ライオンの身に寄生する虫で、ライオンの肉を食って生かされているにもかかわらず、その恩も忘れて遂にはライオンを倒し、そして自分も滅びてしまうということ。
2010.05.16

オダマキカッパの初登場は日本書紀で、仁徳天皇の時代である。仁徳天皇といえば、民が貧しいのを見て悲しく思い、税金を無くし、やがて香具山から民が暮らす里を眺めると、あちこちから竈(かまど)の煙が上がっているのを見つけて、民の暮らしが豊かになったと喜んだという優しい天皇である。その仁徳天皇が難波(大阪)に堤を築いたが、堤の二か所がすぐに壊れ、直してもまた壊れてしまった。すると天皇の夢に神が現れ、武蔵(関東)の強頸(こわくび)という人と、河内の衫子(ころものこ)という人を探して、河伯(かはく=河童)に奉れば壊れなくなると教えた。さっそく二人を探し出して人身御供に差し出した。強頸は泣く泣く水に入れられたが、衫子はヒサゴ(ひょうたん)を二つ取り出し、「もし本当の神ならヒサゴを沈めて浮き上がらないようにせよ、沈められないなら偽物の神だ」と言って、ヒサゴを水に入れた。ひょうたんが沈むわけはなく、衫子は死なずにすんだ。河伯とは朝廷の高級官僚であり、強頸とか衫子というのは地方の豪族だったという。熊本県には、「河童渡来の碑」というのがある。中国に河童族というのがいて、食糧難のため外国へ移住することになった。9千の河童族が、揚子江から黄海に出て、玄界灘を渡って熊本の徳淵に上陸した。今から1600年ほど前のことで、9千の河童族を率いて来たのは河童大将の九千坊といった。悪い河童が捕らえられた時、大きな石がすり減るまで二度と悪さはしないと約束し、その代り年に一度は祭りを行ってほしいと村人に頼んだ。村人は現在でも、「オレオレデーライダー」という祭りを行っている。このオレオレデーライダーという言葉の意味は、「呉人呉人的来多」で、呉は古代中国を指していて、中国から人々が大勢やってきたという意味である。徳川家康が江戸に入ったのは天正18年(1590)だった。秀吉は小田原攻めで大活躍した家康に、小田原城を与えようと一度は思ったものの、「待てよ、小田原は近すぎて厭だな」と、まだ芦が生い茂る湿地帯だった江戸へ追い払った。江戸城といっても、城らしき建物はなく、雨漏りのする小屋があるくらいだった。家康はこの未開の地に、ゼロから城と街を造営しなければならなかった。土地を埋め立て、水道を引き、大坂や伊勢から商人を呼び寄せなければならなかった。家康は幕府を開くと、天下普請といって全国の大名に担当を割り当てた。千石夫といって、石高千石に対して一人の人夫を差し出させた。人工的大都市の建設にはそれでも足りず、完成までの70年間には大勢の人夫が江戸へ流れ込んだ。その人夫たちは、江戸が完成してしまうと、帰るところもなく、住むところもなくなってしまった。そこで、それらの人々をまだ江戸ではなかった隅田川の東側に住まわせた。そしてその人たちを河童と呼んだのだった。こうして見ると、河童とは渡来人や無宿者、ならず者などを指す差別用語だったようだ。川や沼に棲息すると言われている背中に甲羅のあるアレは、昔は実在していて、今は絶滅してしまった動物ではないかと考えられる。
2010.05.16

「我々は、他の人々との交わりの中に在る(ヤスパース)」ドイツの精神科医、哲学者。人間は何故一人では生きられないのか。ヤスパースはその問いの核心に答えて、「私という存在は、本来的には自己自身からなるものではあるが、自己のみではない」と言った。つまり、人は一人では生きられないのである。
2010.05.15

トウジュロ国宝や重要文化財に指定されるかどうかの決め手は、美しさや豪華さはもちろんですが、それ以上に最も重要なのは、古さだ。京都五山のひとつ東福寺は、広大な敷地と多くの建物があるが、その中のトイレ(東司)が、重要文化財に指定されている。現存する日本最古のトイレなのだ。東福寺は、摂政九条道家が建立した寺で、奈良の東大寺と興福寺になぞらえて一文字づつとって命名した。しかし火災で大部分が焼失し、1356年に再建された。日本最古のトイレは、再建された室町時代のもの。最古といわれても見た目は新しい感じがするが、五重塔や本堂など最初から何百年も使えるように建てた建物と異って、トイレは度々建て替えられるので、これより古いのがないというわけ。さて、どうしてトイレのことを東司と言うのか。一説には、伽藍の東側に作るのでというが、東福寺のトイレは西南に位置している。奥さんのことは北の方と言うが、それは多くの場合奥さんの御殿を北に置いたからだ。しかし都合で御殿を西にした場合でも、正妻のことは北の方と言う。日本最古のトイレは、建物の中央に通路があり、両側に便器があるが、隔壁が無い。つまり個室ではないわけで、隣で用を足しているのが見えるわけ。中国では、現在でもそういうトイレがあるらしい。しかし、東福寺の隔壁は元々無かったのか、どこかの時代で取り払われたのかは不明だ。その頃のヨーロッパの御殿には、トイレそのものが無かったらしいので、これでも最先端文明だったのだ。
2010.05.15

「我々の現存在は、問うことのできる存在である(ハイデガー)」ドイツの哲学者ハイデガーは、プラトンが言った「君たちが『存在する』と言う時、一体それがどんな意味なのか、まったく解らなくて困っている」という言葉を考察した。デカルトは、『われ思う、ゆえにわれ在り』と言ったが、人間は諸々現存在の中にあって、その意味を問うことができる存在だとハイデガーは言う。
2010.05.14

ライラックダ・ヴィンチの初期の作品で、1475年頃に描かれた。モデルのジネーブラ・デ・ベンチは、結婚を目前に控えた17歳くらいの少女で、無表情で不機嫌そうに暗く沈んでいる。これは物思いにふける彼女の心理状態を描いたという説がある。この絵は、地味な色使いではあるが、緻密な筆使いで描かれた巻き髪、輝く美しい肌など、彫刻のような立体感がある。ダ・ヴィンチの信条は、たとえ色彩は鮮やかではなくても、対象を浮き彫りのように描けば、眺める人を驚嘆させることができるというもので、立体感を重視して描かれている。ジネーブラ・デ・ベンチの背後には、常緑樹のセイヨウネズノキが描かれているが、これは何気なく描かれた背景ではなく、実はダジャレだった。この木は、イタリア語でジネプロといい、モデルの名前と似ているので、そのまま背景に使われた。ダ・ヴィンチのダジャレはこの作品だけではなく、「白貂を抱く婦人」のモデルの名前がチェチリ・ガッレアーニで、貂をギリシャ語で「ガーレー」ということから、モデルに白貂を抱かせた。このようにモデルの名前に引っ掛けた小道具を描くのは、ダ・ヴィンチだけの趣味ではなく、当時のイタリアで流行していた。ルネサンスの芸術家は、ダジャレが好きだったらしい。しかしジネーブラ・デ・ベンチのセイヨウネズノキは、ただのダジャレではなく、彼女の美しい白い肌を、大理石のようにいっそう美しく輝いて見せている。
2010.05.14

「一度口から出た言葉は、取り戻すことはできない(ホラティウス)」 紀元前のローマの詩人。 最近の政治家などは、前言を撤回してばっかりいますが、「取り消します」などと言っても、本当に取り消すことはできません。
2010.05.13

アッツザクラ宮仕えの女の局(部屋)に通って来る男が、そこで物を食べることは良くない。食べさせる人も腹立たしい。そういう場合、男は女が「どうぞ」などと情を込めて言うのを、嫌がって顔をそむけるわけにはいかないので、仕方なく食べるのだろう。ひどく酔ってやって来て、どうしようもなく夜が更けてしまって、泊って夜が明けても帰らなかったとしても、その朝に湯漬けでさえ食べさせてはいけない。それによって、「愛想がない女だ」と思われて、来なくなったとしたら、それはそれで良い。女の実家などで、母親の方から食事を出した場合は仕方がないが、それさえやはり良くないことだ。当時の貴族社会では、食べるということは高い文化価値が認められることではなかったらしい。物語などでも、宴会の場面は良く出てくるが、食べる場面はめったに出て来ない。食べないことが美であって、食べるということは卑しいことだった。清少納言は、食べる男よりも、食べさせる女をより強く批判している。現在でも、人間の一番醜い姿は、物を食べている姿だと思う。そして一番みっともないのは、食べた結果のトイレをしている姿。最近のテレビに出演している人々は、卑しい人ばっかり。
2010.05.13

「黙する者が本当に語ることができ、黙する者だけが本当に行動することができる(キルケゴール)」 デンマークの哲学者。テレビなど見ていると、現代は饒舌の時代であり、誰も彼もおしゃべりしているが、誰も彼も自分の言いたいことばかり言っていて、相手の話を聞こうとしない。なぜ聞こうとしないのか、誰の話も、彼の話もつまらないからだ。くだらないことばかりしゃべっているなら、「男は黙って」の方が説得力がある、場合もある。
2010.05.12

バラ2国際日本文化研究センター教授の小松和彦氏の考えでは、人間の心から怖いという思いと、神を敬うことは同時に消えたのではないか。そして神と妖怪を区別するものは、「祀られた」か、「祀られなかったか」だと考えた。例えば菅原道真は冤罪で大宰府に流されて死に、死後、京都御所に雷雲となって現れ、人を殺し、疫病を流行らせた・・と思われたため、天満宮として祀られた。祀るという行為は、怖れられ、嫌がられる「もの」を制御するために行われた。この場合の「もの」は、魂であると考えられる。逆に祀られなかった「もの」は、不思議なもの、薄気味悪いもの、奇妙なものであり、これが妖怪となる。現在、妖怪話とされるものは、実は幽霊話ばかりであり、河童に出会ったとか、天狗にさらわれたとかの話は聞かれなくなった。幽霊の幽はあの世のことであり、人が死後に行く世界だから、完全にあの世へ行ってしまっては幽霊にはならない。何か強い思いが残っていて、死んでも魂だけがこの世に残ってしまった、つまり成仏できないものが幽霊になる。幽霊は、あの世とこの世の境にいる存在だ。幽霊は死んだ「もの」の霊魂の異常状態を示すもので、人間にだけ使われる。生前の固有名詞や、個人史を持った存在である。固有名詞を失ったら、単なるお化けと呼ばれる。したがって、幽霊は完全なる死者にはなれず、しかし生者でもなく、さ迷う霊魂ということになる。幽霊になる原因は、葬礼・儀礼を受けられなかったか、受けてもこの世に強い執着や未練があるもの。幽霊の社会的関係は狭く、怨念や愛情が理由で出現するので、限られた人間の物語になる。「物の怪」が「依座」の口を借りてものを言うのは「崇り」。中世後期頃から、崇りと幽霊は合体したといわれる。
2010.05.12

「人間は一人の人間として、人間の家に招待されたのだ。人間に宿を貸すのは純然たる人間性なのだ(ルソー)」 迫害、追放の身になったフランスの哲学者にとって、社会はどんなに冷たかったことか。彼は「心が肉体以上に優遇されれば、多少の不自由はわけなく我慢できる」と結んだ。
2010.05.11

クロバナロウバイ氷川神社紀州藩邸(元赤坂)にあった産土神で、江戸七氷川社の一つ。紀州徳川家から八代将軍となった吉宗は、氷川神社を崇敬し、社領二百石を寄進し、赤坂に社殿を建立した。この地には、盛岡藩南部家の屋敷があったが、浅野家と屋敷を交換したため、元禄時代には浅野土佐守の屋敷があった。氷川神社のご神木は公孫樹で、境内には幹囲7,5メートルの巨公孫樹の大木をはじめ、老木が数本ある。南部坂南部坂は氷川神社の東側にあるが、南部家の屋敷があったことに由来する。屋敷を交換したため、南部坂が二箇所ある。南部坂は忠臣蔵で有名であるが、実話ではなく、ある講釈師が作った物語である。しかし今や、この物語は忠臣蔵には無くてはならない場面となっている。浅野内匠頭が切腹した後、夫人は実家であったこの屋敷に引き取られた。
2010.05.11

「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということである(ヴィトゲンシュタイン)」 オーストリアの哲学者。世界が存在することが神秘。宇宙の神秘、深海の神秘、山頂から見る日の出の神秘、それより何より、世界があることの神秘。
2010.05.10

芝桜美術学校で、生徒たちにヌードを描かせるボザール方式という教育法を広めたのは、19世紀のフランスの画家ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングルだった。アングルはパリの美術学校の教授と校長を務め、ボザール方式を確立した。世界の美術教育に影響を与えたアングルが、画家として注目されたのは、ナポレオンの宮廷文官であるリビエールの肖像画「フィリベール・リビエール氏」だった。この肖像画の中に描かれた机の上には、美しい書物がある。その上にはラファエロの名作「小椅子の聖母」の版画が置かれている。これはリビエール氏の趣味ではなく、アングル自身の好みで描かれた。アングルの師であるジョゼフ・ロックが、イタリアから持ち帰ったラファエロの複製で、それを見た時、アングルはラファエロに傾倒してしまった。アングルは、他の絵にも画中画としてラファエロを描いている。彼はラファエロの生涯を連作として描きたかったが、未完に終わった。ラファエロに対する崇拝ぶりは徹底していて、まるで神様のように思っていた。
2010.05.10
全73件 (73件中 1-50件目)