殿上人日記

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2008年11月26日
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カテゴリ: 愛知、三重の旅

半田4

  「知多の半田は蔵の街、酒蔵、酢の蔵、木綿蔵」と唄で
  歌われた愛知県半田市は、古くから知多半島の産物の
  酒や、酢、木綿などを江戸、大阪などに運ぶ港湾都市と
  して発達し、知多の政治や経済の中心であった

  それを代表する風景が、この半田運河であろう。水面の
  向こうにあるのは、全国でも名高いお酢の老舗メーカーで
  味ぽん、おむすび山、金のつぶ(納豆)でも有名である
  ミツカンの蔵だ

  江戸後期に、ミツカン創業者の初代中野又左衛門は
  それまでの米ではなく、酒粕を原料にした粕酢の
  醸造に成功、飴色の深い色合いと芳ばしい風味から
  江戸前のにぎりずしによくあって、大人気となった


半田1

  清酒「ねのひ」で名高い常滑市の盛田家(ソニー創業
  者の一人盛田昭夫の実家)の分家から、中埜家に養子に
  なった中埜又左衛門が、中野家に再び養子に入り四代目を
  継いだ事から、それ以来は中埜家となった

  明治22年、その四代目の中埜又左衛門と甥にあたる
  敷島製パン創業者の盛田善平によって「丸三ビール」と
  名づけられた瓶詰めのビールが初出荷をされた


半田2

  ちなみにミツカンの丸に三本線のマークは、中埜家の
  家紋が由来であるが、酢の命でもある味、利き、香りの
  意味も持っており、下の丸は天下一円を意味している

  後に、ドイツから機械や醸造技師を来日をさせ、明治の
  建築家の巨匠、妻木頼黄(他に日本橋、横浜赤レンガ倉庫)が
  設計をした新工場を竣工し、本格的ドイツビール「加武登
  (かぶと)麦酒」を醸造しパリ万博で金賞に輝いて飛ぶ
  ように売れたそうだ

  ところが日本は第二次世界大戦に突入し、企業整備令の
  適用によって半田工場は閉鎖をされ、中島飛行機製作所の
  資材倉庫となり、40余年に及んだ麦酒製造工場としての
  歴史に幕を下ろすことになったが、建物は現存し、国の
  登録有形文化財に指定をされている


半田3

  ミツカンの中埜家の親戚筋で、廻船や醸造業を営み
  庄屋格の中埜半六家の十代目が英国留学中に見た
  ヨーロッパの住宅の美しさに惹かれ、明治後期に
  建てた別荘は、今は喫茶店となっているが、国の
  重要文化財で、当時の半田の繁栄が今も伝わる
  ような優美な建築物だ

  設計をした鈴木禎次(ていじ)は、名古屋で活躍をし
  鶴舞公園の噴水塔と奏楽堂などが現存をしている


半田5

  さて知多半島は現在でも、日本有数の酒処としても
  知られているのだが、かつては灘に次ぐ全国二番目に
  位置し明治初期には二百軒以上も酒蔵があったそうだ

  温暖な気候で水に恵まれ、海運の便もよく江戸と上方の
  中間にあるので「中国銘酒」と呼ばれていたという


半田7

  当時は帝のおいでになる京都が上方。西から江戸に
  向かうのを「下る」といっていたので、江戸っ子たちは
  灘や知多など船で下った酒は旨いが、他の「下らない」
  酒はまずいと、それが「くだらない」の語源であるとか

  さらに濃厚で美味しい知多のお酒を、船で運ぶ途中に
  人夫らが酒盛りをして、飲んだ分を水で薄めていたので
  江戸っ子は薄い酒を飲んでいたが、それでも旨かった
  らしい(蔵元の案内人の話)


半田8

  ミツカン創業の中野又左衛門家が商っていた粕酢を運ぶ
  船頭の一人だった小栗富治郎は、北海道のニシンなどを
  江戸へ運んで大儲けをし、その商才を見込んだ又左衛門は
  粕酢業に専念する為に、酒造株を譲って補佐役として
  信頼を寄せていた

  期待にこたえるべく、酒造業で財を成した小栗富治郎は
  海運、金融業など実業家として東海経済界に名を馳せて
  新たな文明開化の時代を迎えて、さらなる発展を願って
  「國盛」という酒を売り出したそうだ 


半田10

  前述の「加武登麦酒」の経営にも参画していたのだが
  日露戦争後の明治40年、対米、対清貿易の不振から
  綿糸、綿織物、生糸の市場が暴落をした事で、小栗家は
  大打撃を被り、小栗銀行は取り付け騒ぎを起こして倒産
  系列会社は全て売却をするに至った

  五代目中埜又左衛門は、ゆかりの「国盛」を守る為に
  半田の老舗蔵元の滝本家と提携をし、中埜家の家紋の
  「丸に三」の丸と滝本家の「中」を合わせ、丸中酒造
  合資会社を設立した(後には滝本家を吸収合併)


半田6

  昭和19年、マグニチュード8もの「東南海地震」に
  よって市内の大半の建物は倒壊、瓦礫の山と化して
  中埜酢店の大蔵の屋根すら崩れ落ちながら、丸中酒造の
  酒蔵は少し傾いただけだったそうだ

  昭和34年、大潮の満潮時に、伊勢湾台風が上陸をし
  市内は冠水。目前の阿久比川が氾濫して人の背丈近く
  浸水被害を受けながら、酒蔵は流される事もなかった


半田14

  戦後になって知多の酒蔵の殆どが、灘や伏見の大手
  メーカーの下請け(桶売り)になっていった中でも
  知多の酒「国盛」にこだわり続け、全国新酒鑑評会の
  金賞受賞の常連となっている

  その後、ミツカンの中埜本家の出身の方が中埜酒造
  (丸中酒造から改名)を受け継がれ、直接の資本
  関係はないが、人事交流や一部業務については今も
  協力しているそうだ


半田16

  こちらでもミツカンにおける買う身、働く身
  経営者の身の「三身(さんみ)の精神」は大切に
  されている 

  一、買う身になって、まごころこめてよい品を
  一、働く身になって、まごころこめてよい経営を
  一、経営者の身になって、まごころこめてよい能率を


半田13

  そんな中埜酒造と地元スーパーのタイアップ懸賞で 
  歴史ある蔵の中で、蕎麦打ちを体験し利き酒を楽しむ
  企画に、旦那と娘と出かけたのは9月中旬の事だった

  前々から蕎麦打ちをしたいという娘の為に、応募を
  1口だけしたものだが、東京の藪蕎麦でも紹介をした
  ように、日本酒と蕎麦は切っても切れない仲のようだ


半田12

  名古屋に本店がある「蕎麦工房紗羅餐」は知多半島に
  ある中部国際空港セントレアにも、支店を出している
  ので見知った方もいるかもしれない。そこのご主人が
  蕎麦打ちの手ほどきをして下さり、作った蕎麦は土産に
  酒蔵ではご主人の手打ちの蕎麦を賞味した

  手軽に出来る蕎麦がきも美味しいです~ 


半田17

  蕎麦の他に、お土産には国盛のパック酒詰め合わせや
  風情ある手ぬぐいなども。これって結構役立ちます

  外に出るともう真っ暗。蕎麦だけ食べて、今回も
  飲む事の許されなかった旦那の運転で、一路
  家路に向かったのだった。すいません。愛知を走破
  するような運転技術は、私は持ち合わせていなくて


そば

       平成20年9月14日に愛知県半田市で撮影





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最終更新日  2008年11月26日 22時01分52秒 コメント(57) | コメントを書く


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