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仕事帰り、電車を降りて改札を出たところで 妙ににこやかな女性二人組に話しかけられる。「お疲れ様で~す」 こちらが警戒する間もなく唐突に話しかける二人組。「カンボジアの、手や足を失ったこどもたちに車椅子を送りたいと思います」「靴下を買ってもらえませんか?」 私は正直うんざりした。 仕事の疲れとは別のところで。 弱々しく微笑んで、手を振って、私は歩き続けた。 しつこくついてくる二人組。「カンボジアの・・・・」「手や足を失ったこども・・・」「車椅子を・・・」「カンボジアの・・・」 私は冷たい人間なのだろうか。 そんなことは無いと思う。 でも、そこで靴下を買うのは何か違うと思うのだ。 何かが圧倒的に、決定的に、感情的に、違うのだ。 その前日、ちょうど読んだ舞城王太郎の「阿修羅ガール」に出てきた文章を思い出した。「友達かどうかは関係ねーの。手が届きそうなところで誰か困ってたら、普通手、貸すだろ。エチオピアの難民助けるためとかには俺、汗かく気になんねーけど、同じクラスの奴が誘拐されてなんか酷い目にあってるんなら、俺、心配するし、なんか動くよ。普通じゃん?」 正直な物言いだね、陽治。なかなか人が言わないことだけど、ホントのこと。人の親切心にも、その人なりの限界・境界があるってこと。誰かが物凄い苦痛を感じてのた打ち回っていても、それが遠い場所の出来事だったり現実感薄い感じだったりしたら、人はちょっと手を差し伸べたり、一歩歩いたり、チラッと見ることすら億劫で、しないということ。そんなことありふれてた当然で普通のことだけど、誰もなかなか言わない。面倒臭いと同情心はいつもいろんなところで綱引きをやってるってこと。 ま、人はやれること、っつーか、やりたいことしかやれない。 カンボジアの、手や足を失ったこどもたちに車椅子があったらいいだろうなあと思う。 話しかけてきた二人組が詐欺だとか、そういうことも思わない。 彼女達がたとえ詐欺だろうが、本当に車椅子を買おうが、そんなことはどっちでもいいのだ。 要するに、私は彼女たちから靴下を買いたいと思わなかった。 心に響かなかったのだと思う。 彼女たちも、カンボジアも、私の心に届かなかったのだと思う。 私には、職場である整骨院で毎日接する患者さんや、同僚や、よく行くスーパーや酒屋の店員さんの方が大事だ。 カンボジアはあまりに遠い。 そして二人組の笑顔はあまりに胡散臭い。 でも、カンボジアについて、ずっと考えてしまっていたりする。
2005年07月14日
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人は誰でも、自分にとって都合のいいものや人が好きだ。 そういうものを愛すし、そういう人に対して心を開く。 それは当然のことだ。 愛する、心を開くということは、一方的な方向では成り立たないのだから。 一方的な愛情は不毛だ。 心を開いてみても、受け入れられなければ開いたことにならない。 都合のいい者同士が一緒にいたら、それは快適である。 恋人同士はそういうものなのだろう。 本当に心を開いている関係ならば、そういうものだろう。
2005年07月07日
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