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2月24日(月)1975年アメリカ第一夜は何事もなく過ぎて、5時頃に目覚めて6時に起きる。外は真っ暗だった。部屋はスチーム暖房が効いていて暖かい。しかし空気が乾燥していて鼻がおかしい。体が少しべとつく。時差ぼけのせいか頭がクラクラしていたのでシャワーを使うのは止めて、靴下を洗って顔を洗って髭をそったら少しはさっぱりした。今日は配属農家が発表される。いったいどんな地獄へまわされるのだろう!!!9時にホールへ集合して、オリエンテーションが始まる。岡本・IFA事務局長の、「新しい天地に来て、なぜアメリカへ来たのかを再認識して欲しい。文化・習慣・歴史を伝える英語を使い、農家へ入って勉強することは大きな意味がある。アメリカ社会・アメリカ農業を認識して日本を見直して欲しい。全てに真剣に取り組んで欲しい。農家での生活は全て学校生活と同じだと思って欲しい。苦しい仕事が続くかも知れないが、自分で自分を制御して1年間鍛えて欲しい。健康に気をつけて1年後にまた元気な顔で会いましょう」という開講の辞がある。Edoward Koch・カリフォルニア大学教育担当官の話は、英語なのでよくわからない。IFA理事の大槻氏は、「まず根性をもっていただきたい。host farmerは『何でも聞いてくれれば教えてやる』と言っている」同じくIFA理事の藤本氏は、「訊ねなければ教えないというのがhost farmerの姿勢だ」IFA事務局の村松さんは、「働いて、働くことから学ぶこと!結論を出さないでくれ。まずは無我夢中で頑張ること」改めて読み返して見ると相当脅されている。しかし、最初にこれくらい気合を入れられていたから1年間やり通せたのかもしれない。昼まで配属先での諸注意の説明があり、昼食は昨日と同じマクドナルドに行く。午後は1時から5時までみっちりと英語の授業だった。先生は本場のアメリカ人で、日本語は一切話さない。しかし内容はかなり易しかった。ただ、ここで新しく覚えたことが一つだけある。アメリカでは全ての買い物にはtaxがかかっているのだ。カリフォルニア州では7%のtaxを余分に払わなくてはならない。これでようやくマクドナルドの5¢の謎が解明された。夕方のミーティングで配属農家が決まった。何となく予想していた通りエスコンディッドだった。静岡のM森君と、神奈川のA山君と3人での共同生活だ。F浪君はリバーサイドだった。エスコンディッドのhost farmは「Munemitu Farm」というのだが、ボスはMr.Doiで、日系二世だ。今まで8年間実習生を受け入れていて、カリフォルニア大学を卒業しているそうだ。本田さんから、「勉強するには最高のところだよ」と言われたので、少し安心した。夕食はTボーンステーキを食べに行く。骨のついた分厚いステーキで、ベークドポテトが丸ごと横に添えてある。サラダはレタスだけだった。英語で何か聞かれているのにわからない。あとで状況から判断するとドレッシングを何にするかと聞いていたようだった。何にすると言われてもドレッシングの名前を何も知らなかったのだが、適当に肌色の少し酸っぱいのをかけてくれた。しかし、これで1$50¢は安い。午後から頭のクラクラがひどくなり、鼻汁がズルズルと出始めた。風邪をひいてしまったようだ。
2005年02月24日
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U田さんはこのレジメに従って「GIS」について説明してくれた。しかし、tetywestの産地はもう「GIS」を導入済みなのだ。この程度のことは説明を受けるまでもなく理解できる。現在tetywestの産地で問題となっているのは、一筆圃場診断のカルテをどんな形式にすれば農家に一番わかりやすく、かつ「頑張らなくっちゃ」という生産意欲が湧くだろうかと言うことだった。和歌山県果樹試験場へ来たら、その「雛型」くらいは実際に見れるのではないかと期待していたのだ。ところが・・・GISを専門に研究している研究員の方が2名とも出張で不在だった。我々の応対をしてくれたU田さんは専門外のために、詳しいことは良くわからないのだ。「光センサー選果機のデータを農家にどのような形で知らせるのか、実際の書式を見せてもらえませんか」と頼んでみた。「実は、このシステムはある企業と共同開発していまして、完成したら市販する予定になっているんです。ですから、詳しいことはお教えできません」「ガ、ガーン・・・」「それでは、気象条件や栽培管理履歴をどのような形で園地評価に生かすのかは、教えていただけますか?」「それは難しい問題でして、まだ我々も実際に何をどういう形でインプットするのかは現在研究中なのです」再び「ガ、ガーン・・・」「そ、それでは実際のシステムはまだ出来ていないんですか?」「はい。後3年で完成させる予定です。しかし完成しても、どのデータを使用するかは実際に使う各農協の判断になると思います」つまり結論を言ってしまえば、和歌山県果樹試験場もtetywestの産地と同じ程度しか開発が進んでいないのだ。これは驚くべき事実だった。考えようによっては、tetywestの産地も最先端を走っていると言うことなのだ。そしてもう一つ解ったことは、「GIS」を導入しても、その運用は結局それぞれのJAの能力次第だと言うことだった。こうなると、多少(・・・いや、本当はかなり)大変でも、自力で「GIS」を利用するノウハウを創り出さなければならないということになる。ふぅ・・・・・・・(深い溜息)これがはるばる和歌山まで研修に来た成果とは・・・・ただし転んでも只では起きないtetywest。帰宅後、レジメに小さく印刷された「一筆圃場カルテ」の図を拡大鏡を使って必死に解読した。その結果、ある程度の項目は判読できた。これを下敷きにした方が、全くのゼロから創造するよりずっと良いものが出来るのは間違いない。
2003年07月19日
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もったいない太り みみずのたわごと 「もったいない」という語はしだいに死語となってゆくのだろうか。現に娘の口から「もったいない」という語を聞くことは、まずない。もったいない、とは思わないと言う。それでも自分のうまいと思うものは、残さず食べる。それで我が家では「うまいものは○○(娘の名)に聞け」ということになっている。娘の口が、うまいか、うまくないか、即断を下す。うまくないものは決して食べない。 さて問題は、自分がうまいと思わない場合や、量が多くて余りそうな場合である。もったいないからと言って口に運んでいると、いつしか「もったいない太り」の体ができあがる。我が母然りである。当然、我が家で一番「もったいない」を連発するのは母である。家族の体重は、この「もったいない」の回数に比例しているように思う。 ところで八年前、中国の南部を旅行したが、みごとに太った人には一人も会わなかった。政府の要人の中には太った人もいるようだが、そういう人には会うこともなかったので。九億以上の人口をかかえる国である。町中には人が湧き出て、何時を言わず、ボールのような食器をかかえて、中華どんのようなものを箸でかきこんでいる。この国には食べ物を「もったいない」と表現する語は、まだないのではないかと思った。 我が家に話を戻せば、三代の女は「もったいないから食べる」母と、「もったいないけど食べない」私と、そして「もったいないと思わないから食べない」娘とで成り立っている。あなたの家ではどうだろうか。本当に「もったいない」が死語になりきる時はくるのだろうか。町で「もったいない太り」をした若いお母さんの姿を見ると、まだまだ大丈夫だと思ってしまうのだが・・・・・。
2003年06月12日
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6月11日(水)1975年ドリップ・イリゲーションは2ガロン/hで2~3時間。スプリンクラーは30ガロン(または60ガロン)/hで8時間(4時間)。ドリップ・イリゲーションは2~3日間隔。スプリンクラーは2週間間隔。というのを、Bossから聞いた。ネーブルはもう果実がタバコの太さくらいになっていて、もっと大きいのもある。そろそろ2-4-Dを散布するのだそうだ。今日もバレンシアのsnail check のために木の下の葉っぱを押し出すのがメインの仕事。明日はアボカドの新植をやるのだそうで、Mr. Munemitsu がトラックいっぱいに苗を積んで来ていた。Bossのファミリーは5時頃から外出。どこへ行ったのかね?We don't know. なのだ。今日の夕食はシチューを作って、早々に日記を書いている。何しろ足が疲れた・・・イリゲーション・チェックでびしょびしょに濡れたから。今日こそ少しはletterを書いたり、勉強したりしなくちゃ。今週はずっとそんなことが出来ていないから。まあ、今日のBossの態度はそれほど気分悪そうでもなかったし、そういう風にしていれば問題はないのだよ・・・それにしても、少々睡眠不足であるし、きたない字だ!!最近は、少しはマイペースで仕事が出来るようになった気がする。さすが3ヶ月いると図太くなってきたものだ・・・Bossに叱られても・・・
2005年06月11日
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人としてもう少し考えなくては 故郷 流人 進出か侵略か分からない、愚かな政治家のいる国の戦後生まれの一団が上海に上陸した。おまえら何しに来たんじゃ、せいぜい金でも落として行け、と私が中国の老人なら思う。半世紀前に日本軍が行ったことを我々は教育されたか、いま教育しているのか、何の認識も持たず知識もなく、物見遊山に来てしまった自分に対して情けないものがある。 このあいだ、上海で二年、ネイハで一年いた老兵と話した。上海の外国租界には犬と中国人は入るべからずの看板があったとか、ネイハは將介石の生まれ故郷とか、よく知っている。「おっさん、上海やニンポーの道、今行っても分かるかい」「おお、たいがい分かるやろの」同じ部隊の者が中国女性を強姦した。次の日婆さんと来て首実験をして、その兵隊は営倉に入った。中隊長曰く、強姦したら殺せと。日本の兵隊は悪いことしたぞ・・・、ポツリと言う。当地区にも中国戦線に行った老兵は多い。あまりしゃべりたがらないが、歴史の証人として、今聞いておく必要があろう。 虐殺、強姦、相手が日本人でないからかまわない。戦争とはああいうものと思っている人が多い。人の足を踏んでも相手の痛みは分からない。もし自分が手足を縛られ、首を切られるその直前、何を思うか。絶対に許さない、死んだ後も怨念が、おまえだけは許さない・・・と。子供は刺し殺され、女性は両足を引き裂かれ、村人全員座らされ機関銃掃射、油をかけられ黒こげになった。昭和12年12月13日、東京日日新聞「百人斬り超新記録 向井106-105野田 百人斬り競争の両少尉」こういう資料を見る機会があった。首を落とされる人の気持ち、それを見ている同胞の心理、泣くに泣けない悔しさ無念が残る。そういう虐殺をされた国の人々が残留孤児を育ててくれたのである。日本人ならおそらく殺していただろうに。 上海で最後の買物をした土産屋の掛軸売り場に、顔半分に青アザのある老人がいた。人間の顔とは全身の神経の末端であって、精神を磨き、ある心境に達すると、その精神の輝きが自ずと顔に現れるそうである。我々に対する物腰、態度、そこには修羅場を何度も経験し全てを知り尽くした顔があった。少なくとも地位とか財産とか名誉のために生きている人ではなかった。どうせ一度はあの世とやらへ行くのですが、虐殺はされたくない。お互い心のかよった、裸の交わりのできる人のために死ねたら、たとえ殺されたにしても至福であろう。
2001年12月11日
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「自由都市」のコーナーに大きな堺の地図が展示されている。堺の戦国時代の街並みだった。それを見たとき、堺が自由都市と呼ばれていた理由が少しわかったような気がした。当時の堺は西に港があり、あとの3方、東、北、南はぐるっと堀で囲まれていたのだ。つまり堺の街全体が大きな要塞都市だったといえる。町全体を要塞化するという発想は中国やヨーロッパでは常識なのだが、日本ではほとんど見当たらない。tetywestは、このことは日本文化の大きな特徴だと思っている。日本に要塞都市が発達しなかった原因はいろいろ考えられるだろうが、一番にあげられるのは、「日本が平和だった」ということだろう。歴史を見ても、徹底的な殺戮や奴隷化が行われた様子がない。余談になるが、tetywestは「将棋」はいかにも日本的なゲームだと思う。取った駒を味方として再利用できるなどというのは、西洋のチェスの世界にはありえないことだ。先ほど訪れたのが仁徳天皇陵だったためか、その原因をついつい古代の大和朝廷成立の過程へと遡ってしまう。大和朝廷は、騎馬を巧みに操る朝鮮からの渡来人によって成立したのだろうと言われているが、もっと大ざっぱに分類すれば、縄文人と弥生人の戦いだった。もちろん弥生人が日本を制覇するわけだが、その過程で徹底的な殺戮や奴隷化はおこなわれず、かえって縄文人の土着文化との融合が積極的に行われたのだ。前方後円墳にしても、中国や朝鮮にはない日本独自の形であり、それは縄文人の墓の形に由来していると言われている。そんな日本の風土の中で堺が「要塞都市」を造っていたのは、やはり中国や西洋との貿易が大きな要因なのだろう。戦国大名たちからの影響を受けずに「自由都市」として「自治」をするためには、「防衛」がなければ成り立たないというのは世界の常識なのだ。スイスが「永世中立国」だと宣言した背景には「国民皆兵」の軍隊があるのだ。だからと言って、ここでtetywestは日本の「自衛隊」や「防衛権」について書きたいわけではない。どちらかと言うと、「要塞都市のない日本特有の文化」が世界の常識になれば、世の中はもっと住みやすくなるのではないかと考えたりしている。堺の地図によると、街の一番外周部、つまり堀に近い所には農民が住み、その内側に寺社を配置し、その内側に商業街や鉄砲鍛冶街が密集していた。外部からの攻撃による火災を防ぐための配慮だったそうだが、一番外側にいる農民のことが気になって仕方がないtetywestだった。
2003年07月30日
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●評価詳細家主見た目とは裏腹に、かなりの知識人です。あっさりとした性格で、我流ながらも諸事をこなし、生活を支障なく送っています。意味もなく中国に強い愛着心を持ち、国際的に活躍しています。相当の車狂で、環境のせいもあって、スピードは常に制限速度より20km/h上回っています。・肺癌での死に方は一番惨めだそうです女将さわやかな女性です。ちょとしたことでもウケてくれて、芸人に喜ばれるタイプです。ご自身のボケも並大抵のものではなく、ある域にまで達しています。子供心を未だに忘れず、常人のように年とっているにもかかわらず、肌年齢は上がっていません。・暇なときはご主人と夫婦漫才の練習でもしてくださいじいちゃん新聞とマッサージチェアが大好物。真剣に新聞紙と向き合っている姿と、マッサージ中の心地良さそうな顔はその人生を語っています。年を感じさせない元気ぶりはとてもかっこいいです。・見てしまいましたばあちゃん表情は笑顔しかなく、いつも楽しそうにしています。漬物を作るのが趣味ですが、食べた人の感想には無関心です。遠くからテレビを見られるほど眼力が良いのはおそらく、毎日緑をみているからでしょう。・おじいちゃんの頑固さには辛抱あるのみです--------------------------------<3>------------------
2004年03月16日
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2月18日(水)1976年今日は昼からひとりで気分を悪くしていた感じだ、やれやれ・・・・まだあまり気分がよくないのだが、そもそもの原因は昼休みにF島君がやって来たことなのだ。「パワーステアリングのオイルが漏るから、5$まけてくれないか」なんて言い出すので、かなり頭にきてはねつけてやったら、「チェックもしないし、オイルが空っぽのまま走ってどうのこうの・・・」とグチをこぼして、それでも50$払った。よっぽど、「そんなのは考え方が甘いんじゃないの!」と言ってやりたかったけど・・・それならそれでもう少し計画性とか、そういうのがあってもいいと思うのにまるで無い。旅行にしたって他人を頼りにしてるし・・・だからその時以外は一言もしゃべらなかった。しゃべってるのを聞いているとムカムカしてくるのだから・・・・そんなわけでひとりで頭に来ているのだけれど、これもまあいい加減にしておかないと体によくない。あと、本日は肥料の散布と最後の1時間はたきぎ作りで終わってしまった。あと1日で仕事も終わると言うのだけれど、まったく実感が無い。ここの生活も、もうシラケシラケで、しかし今回のシラケはもう永久におさらばのシラケなので気楽なのだ。自分から話題を求めて後の二人に話しかける気にもならず、実際のところはさっさと出て行きたいのだ。Fertirizer の本代、Bossが要らないというので今3$50¢が戻ってきた。思わぬ収入で、もう少しで忘れるところだったけど思い出して正解。さあ、さあさあ、どうする? あと1日なんだよ。そういえば、去年はお別れパーティやったのに今年はやらない気だな。ガッテム!・・・まあいい。それよりもっと素晴らしい経験をしたではないか。そうだ!Bossの家にあの木彫りの大国様を持っていかなくては・・・・明日の夜にでも。でも、よく我慢できたなあ、ここの人間関係。自分から選んだ相手でもないのに、とことん知り尽くすっていうか、こういうのは異常なんだよ。こういう経験ももうできなくなるし・・・昨日の夜、自由になったらK君のところへ行こうかと考えてletter を出した。でもそれももうどうでもよくなっている。今言えることは、「アメリカにはもう住みたくないなあ」ということだけ。あ、そうだ。仕事中に考えたことだけど、tetywestは1年間で性格がかなりいじけたなって。人の言うことをまともにとれなくなって、そう、人間不信が一層つのったみたいだね。これは一つの心の傷だろうな・・・それを癒してくれる人が果たして現れるのだろうか、それともやっぱり一生人間不信のままつまらなく暮らすのか・・・・さあ、わからないな。環境が変われば又いろいろと考えることも変わってくるだろうし・・・そういえば日本へ帰ったらM子に会えるのかな? でもやっぱり名古屋へ降りるって事は会いたい気持ちが含まれているんだろう。会っても確かにどうもできないのだよ。ずいぶん変わっていることだろうな・・・そうなると、日本へ帰ったら早速恋人を見つけないといけないなあ、もう20+○歳の後半もいいところなので、いつまでも若くはないのだし・・・日本へ帰ったら・・・・・・・か。そしてここの生活、あ~つくづくいやな生活だよ。とにかくも足りないものが多すぎる。そして愛もなく、なぜこんな生活に耐えれたのか・・・とにかくあと1日の仕事が済めば全てが終わる。本当に長い1年だった。どれくらい気分的に参っているか・・・今しかわからないだろう。過ぎ去れば全て楽しいことなのだから・・・・何ということ!今K君から電話なのだ。もうアイオワのデモインのYMCAに中西部の連中は全部集まっているらしい。そしてシカゴとだけじゃどこなのかわからないから22日の夜8時頃にデモインへ来いと言う。仕方がないので行くことにする。これじゃ20日はよっぽど早く出発しなければならないことになる。デモインまで時差も含めて46時間かかるのだ。そんなわけなので、とにかく一応K君とは会えそうだ。今電話があってよかったのだ。はっきりしたのが一昨日くらいだったもの。T君にも連絡つけてくれと言うことなので電話しなくてはならない。今、T君に電話してきた。彼は21日の昼頃出発するらしい。それもデモインへ向けて。したがって彼の場合44時間だから一晩遅れて着くのだろう。これでT君とも会えそうだ。デモインの再会が楽しみなのだ!!そうなると荷物もまとめなくてはならないし、大変なことだ。いろいろと・・・・まあいいだろう。二人との連絡がついたのだから。さて、あとはtetywest自身がいかにして出れるか。これは運命なのだから悩んでもしかたがない。明後日の昼まででここともオサラバなのだ。そんなわけで、今日はたくさん書いてしまったけど、そういえば穂木を取ったり写真も撮らなくちゃいけないので、明後日は早起きしなくてはいけない!!・・・と言うことなのだ。
2006年02月18日
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ちょうど30年前の1975年2月14日(金曜日)、tetywestは旅に出ました。13ヶ月のUSA生活の始まりです。当時のことは、記憶の奥のほうにしまい込まれてしまっていて、最近ではほとんど思い出すことはありませんでした。しかし、ふとしたことから本棚の隅にあった当時の日記帳を見つけてしまったのです。パラパラと読み返しているうちに、当時の記憶が少しずつ蘇ってきました。USAでの経験が今のtetywestのバックボーンになっていることは間違いありません。そこで、今年は1年をかけて「tetywestのUSA日記’75」を書いてみようと思います。当時の日記をそのまま掲載するという手段も考えたのですが、あまりに文章が稚拙でとても公衆の面前に曝せるような出来ではありませんので、もう一度書き直すことに腹をくくりました。さて、本当に息切れせずに続くものでしょうか・・・・2月14日(金)1975年10時48分発「宇高連絡船」に乗ってtetywestは故郷を後にした。その前に行われた県庁での壮行会には、前川県知事、三宅町長、観一の校長先生というすごい人たちが列席されていた。1971年のニクソンショックで、1ドル=360円で固定されていた為替レートは1973年に変動相場制に移行したのだが、まだ海外旅行は珍しい時代だったのだ。そして何より懐かしいのは「連絡船」だ。別れのシーンに連絡船は特別よく似合う。列車のように一瞬で視界から消えることがない。少しずつ少しずつ小さくなりながら、それでもまだ手を振れば向こうもそれに応えて手を振り返す。それが10分以上続くのだから、感傷的になるなと言う方が無理なのだ。まして、1年以上帰ってくることは出来ないのだから・・・岡山まで「急行鷲羽」、そして新幹線「ひかり」で東京へ向かう。今日は讃岐会館で一泊して、明日は代々木青少年記念総合センターへ集合することになっている。香川県からはtetywestを含めて3名だった。その中ではtetywestが一番年長になる。tetywestたちがUSAへ行くのは「農業実習」のためだった。昭和27年から毎年USAへ農業実習生を派遣している国際農友会という組織があり、これから日本で農業をやっていく若者たちに世界一のUSA農業を体験させるというプログラムだ。もちろん事前に筆記試験、体力テストがあり、合格すれば2週間の合宿で英会話やUSAの基礎知識なども教え込まれる。その合宿は前年の8月に終わっていたので、今回代々木に集まる連中はもう顔なじみなのだ。讃岐会館は現在は民営なのだが、当時は香川県が営業していた。東京タワーのすぐ下、三田にあり、江戸時代には高松藩の江戸屋敷だった。受験シーズンなので、受験生でいっぱいだった。県が手配してくれたからかtetywestたちは最上階の321号室で、3人で枕を並べて眠った。日記の最後に、こう書いてある。「新しい経験は人生を大きくする!!」
2005年02月14日
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2月25日(火)1975年朝起きたら風邪が一層ひどくなっていた。午前中の講義はUSA農業、特にカリフォルニア農業の概要だった。農業が始まったのは1800年頃から。それまではインディアンの土地だった。1830年代にスチーム(蒸気機関)が発明されてから進歩が始まり、1900年代に農業機械によって急速に発達した。中部アメリカは1803年にアメリカになった。ロッキー山脈より西は明治維新より少し前にようやくアメリカになった。アメリカは農業の発展に伴って発展した国だといえる。農業の発展の要因は農業機械の発達だけでなく、潅漑設備、土地利用、電気の使用、輸送、加工、貯蔵の発達もある。東海岸は北からジャガイモ・畜産地帯、野菜地帯、亜熱帯果樹・イチゴ・野菜地帯に分類できる。中部は北から小麦・トウモロコシ地帯、大豆地帯、綿、タバコ地帯。果樹では北からリンゴ・サクランボ地帯、ブドウ・モモ・ナシ地帯、カンキツ・アボカド地帯。西海岸は240の作物が作られている。カリフォルニアの農業の概要カリフォルニアの面積は日本とほぼ同じ。人口は6分の1。23年間連続全米ナンバー1の農業生産。1州だけでアメリカの25%の人口を養える。日本の人口だと45%を養える。中央平原や南カリフォルニアでは北部カリフォルニアの3分の1の雨量しかない。シェラネバダ山脈の水をShasta DamとOrovlle Damに貯めて南カリフォルニアのサンディエゴまで運ぶ500kmの水路がある。この水路がカリフォルニアの農業を支えている。カリフォルニア農業の種類は、生産額の大きい順に1. Cattle & Calves2. Dairy3. Eggs4. Grapes5. Hay6. Tomatos7. Cotton8. Lettuse9. Nursery crops10.Oranges日本が一番のお得意先の種目は1. Cotton2. Rice3. Nuts4. Fruits5. Vegetables6. Dairy products7. Cattle hides8. Tallow9. Cubed alfalfa10.Oranges特に近年はカンキツの伸びが大きい。何とか午前中の講義は我慢したものの、風邪がひどくなってきたので午後の英語の授業は欠席して部屋で寝ていた。しかし夕方からのフリータイムは、せっかくサンフランシスコにいるのに寝ているのはもったいないと頑張って出かける。F浪君・T垣君と一緒に、Davis av.からケーブルカーに乗って、途中で乗り換え、Fisherman’s wharfへ。映画「ブリッド」の舞台にもなったので、サンフランシスコは坂の街だとは知っていたのだが、実際にケーブルカーに乗ってみるとそれがよくわかる。Fisherman’s wharfまで来るとずいぶん遠くへ来たような気がする。アルカトラス島もちゃんと見える。スパゲティを食べて、ゆでたタラバガニを3$で買った。日本だと3千円はするだろう。ホテルへ帰って部屋の床に新聞紙を広げて、みんなで食べる。しかし身が柔らかくてあまり美味しくなかった。最悪の一日だった。とにかく風邪を治さなくては・・・
2005年02月25日
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5月27日(火)1975年今、F島君が来ていて帰ったところ。M森君がBossに、「Next Sunday にF島君と外出したいから休みが欲しい」と申し出て、一度はOKをもらったのに、3時間後には、「ダメになった」とがっくりして報告に来た。今日の仕事はつっかえ棒をはずしてshedへしまうのと、スプリンクラー・チェックと、新しくアボカドを植える場所への杭打ち。杭打ちは楽だった。仕事が終わったとき、ウインチェスターのT橋君がヨウコさんと一緒に来ていた。彼女は「ヨウコ」という名前のイメージとは全く違っていて、顔の面積が広い人だった。それに、白いパンタロンをはいていたのだが、その生地が薄くて水色の模様の入ったパンティーが透けて見えている。色気があるというのとはちょっと違っていて、どちらかというとイヤらしい感じだった。でも、とても親切な人で、買い物も今日はT橋君のギャラクシーで出かけた。Bossに気を遣わなくていいので、コインランドリーを捜してクリーニングもした。Food Basket と395号線を挟んで反対側のK-マートのそばにあった。シーツと枕カバーがふかふかで、とてもいい気分で眠れそうだ。本当に、きれいなベッドはいいもんだ。T橋君とヨウコさんが帰るときに、お礼にオレンジをあげた。3袋もあげたから、Bossが見たらわかるかな、ピックした跡が・・・でも、Never mind なのだ。♪Bossのものはtetywestたちのもの♪I田君からletterがあった。来週からアボカドの新植が始まる。また当分苦しい日々が続くのだろう。もう11時半だ。3人でさんざんBossの悪口を話したので、とてもいい気晴らしが出来たし、訪問者が多いということは、ここでは画期的なことなのだ。買い物に行ったとき、のんびりとK-マートをぶらつけたことが嬉しいのだからどうしようもないのだ。ペンダントも素敵なのがあったし・・・絶対買って帰ろう。まあ、当分先の話だな・・・
2005年05月27日
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2月26日(木)1976年朝7時10分にアルバニーのバス・ステーションのカフェテリアで1$61¢の朝食を食べる。30分後にはまたバスの上。9時頃にマサチューセッツ州へ入る。「マサチューセッツ」で思い出すのは何と言っても「ビージーズ」の名曲なのだ。♪Feel I'm goin' back to Massachusetts,Something's telling me I must go home.And the lights all went out in MassachusettsThe day I left her standing on her own.マサチューセッツに帰りたい気持がする何かが帰ったほうがいいって言ってるみたいだマサチューセッツの灯りはすべて消えたひとり立ちした彼女残してきた日にTried to hitch a ride to San Francisco,Gotta do the things I wanna do.And the lights all went out in MassachusettsThey brought me back to see my way with you.サンフランシスコにヒッチハイクしようとしたしたいことをいろいろしなくちゃと思ったマサチューセッツの灯りはすべて消えた君と一緒に歩く道へとボクを連れ戻したんだTalk about the life in Massachusetts,Speak about the people I have seen,And the lights all went out in MassachusettsAnd Massachusetts is one place I have seen. マサチューセッツの暮らしを話したり今まであった人達のことを話したりマサチューセッツの灯りはすべて消えたマサチューセッツはボクの見た一つの場所なんだI will remember Massachusetts.マサチューセッツを忘れない (和訳:tetywest)マサチューセッツの風景カリフォルニアに比べるとずっと緑が多い。それにところどころ雪も積もっていて、日本の北海道地方に感じが似ている。ボストンへ着いたのは正午だった。Far East Chinese Restaurant という店で「Yatka Mein」を食べる。ラーメンみたいなもんだ。1$10¢。すっかり定宿になったYMCA HOTEL へチェックインする。そこで見つけたのがBerklee 音楽大学「Jazz 1776-1976」公演のパンフレット。建国200年記念行事の一環として、アメリカのジャズの歴史を2時間半で聴かせてくれるというのだ。それも、こんな偶然があるのだろうかと訝るくらいラッキーなことに、公演は1ヶ月に1回で年間12回しかないのに、今日2月26日が初日だった。さらにさらに、入場料は3$だけど、学生は半額。しかも日本の学生証でもOKだった。8時開演なので、Berklee Performance Center まで地図を頼りに歩いて行く。Jazz 1776-1976ProgramAfrica - The DrumAmerica 1776Field SongRagtimeNew OrleansThe Emergence of JazzSatchimoBarrelhouseBixBody and SoulThe Jazz ArrangerKansas CityThe Swing EraStain DollJitterbugJam SessionWest CoastThe BirdMantecaThe Birth of The CoolAmenSmokin'Kind of BlueColtraneLast StopFinaleトランペット、トロンボーン、クラリネット、キーボード、バス、ギター、パーカッションの20人くらいのブラス編成だったが、なかなか素晴らしかった。その後、ダウンタウンを歩いていたら、PAUL'S MALL JAZZ WORKSHOP というポスターを見つけた。733 Boylston st. Boston という住所を探して店に入ると、Bill Evans がピアノを弾いてライブ・ショーをやっていた。入場料は3$50¢だった。夜中まで聴いていた。ボストンでどっぷりとジャズに浸ることになろうとは、予想もしていなかっただけにとてもとても満足なのだ。
2006年02月24日
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壮行会が終われば、後はバスで空港へと向かう。・・・といっても国際空港は羽田なのでそれほど時間はかからない。空港に着いたのはまだ明るいうちだったので、出発までには結構時間があった。tetywestたちの乗るJAL1002便はチャーター機で、ソウルから韓国の実習生を乗せて来る。出発は21:30だった。空港には東京に住んでいる高校時代の同級生が3人、大学時代の先輩、従兄弟がガールフレンドと一緒に見送りにきてくれた。従兄弟は前年シカゴへ留学していたので、USAの事情には詳しかった。「マクドナルドはあちらではマクドナルドと発音しない。マクダナーという」と教えてもらったのだけが記憶に残っている。チェックインを始めたのは7時頃からで、手荷物検査もボディチェックもなしで通過。その後税関で交換レンズの免税手続きを済ませて、1人ずつ並んでパスポートチェックを受け、待合室へ入る。tetywestは外国へ行くのはおろか、飛行機に乗るのも初体験だったので全てがものめずらしかった。免税店でハイライト2カートン、ダルマ(サントリーオールド)のウイスキーを3本買う。ハイライトが1カートン440円(市価は800円)、ダルマが1,350円だった。8時半頃にバスに乗って飛行機に向かう。もう外は真っ暗だった。チャーター機なのでかなり遠くまで運んでいかれて、タラップで飛行機に乗る。第一印象は、「割りと小さな飛行機だなぁ」と感じたことだった。それでもダグラスSuper8(DC8)は150人も乗れる飛行機なのだが、韓国の実習生も乗っているのでほとんど満席になった。tetywestの席は8D。ちょうど主翼の上だ。「落ちたときはここが一番助かる確率が高いんだ」と自分に言い聞かせる。座席にすわってシートベルトを締める。スチュワーデスが緊急時のライフジャケットの装着の仕方を実演して見せてくれる。やがて飛行機が動き始めると、さすがに緊張した。エンジンの音がものすごくうるさくなり、後ろにGがかかる。車輪が地面に当たるゴツゴツという感じがなくなったと思ったらいつの間にか離陸していた。空を飛ぶということは何とwonderfulなのだろう!色とりどりの光の集合体のような東京の夜景がどんどんと下方に遠ざかっていく。とてもbeautifulだ。
2005年02月20日
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6月22日(日)1975年7時半から、Bossとスティーブと一緒にモトクロスのグランプリを観にいった。オーシャンサイドから少し南下した山の中のCarlsbad というところだった。グランプリだけあって、すごい人、人、人・・・特にスタート地点付近はものすごい人だかりだ。「1975 World Championship 」というオフィシャル・プログラムを2$で買って、Bossたちとは別行動。back hill に座り込んで観戦することにする。9時半から250ccクラスのプラクティスが始まって、ものすごいエンジン音とオイルの焼けるニオイ・・・もうそれだけでしびれてしまった。その後、500ccクラスのプラクティス。Entry Lists によると、250ccクラスでは37台中、YAMAHAが7台、HONDAが4台、KAWASAKIが2台、日本製オートバイがエントリーされていて、500ccクラスでは32台中、YAMAHAが3台、HONDAが1台、KAWASAKIが2台、SUZUKIが4台、一番多いのはHUSQVARNAで9台だった。しかし、ゼッケンの若い方に日本製が多いのはそれだけ強いということだろう。やっぱり日本を応援したくなるのが人情だ。決勝レースは12時半に始まるので、それまではわりとのんびりしている。アベックで来て楽しそうにしているのを、いいなぁと思いながら横目で見ているだけ。昼食はホットドッグを買ったけど、75¢は少々高過ぎるのだ。コーラも50¢もするし・・・スタート・ゴール地点に特設スタンドがあって、入場料は4$だった。ここへ入るのに7$50¢払っているのに、それ以上誰が払うものか。決勝レースの最初はNational 250ccクラスで、2回走ってそのタイムの合計で順位を決める。レースになると今まで曇っていたのがパッと晴れて、とてもいい天気になった。2回ともHONDAのMarty Smith がブッチギリで優勝。でも、台数が多すぎて団子状態で走るので、誰が誰やらわからないうちに終わってしまったという感じ。2位もHONDA、3位はCZ、4位はYAMAHAだった。500cc Grand Prix の1st Moto では、ゼッケン2番のSUZUKIが1位。ゼッケン4番のSUZUKIとゼッケン7番のHUSQVARNAとが最後までデッドヒートで、最終ラップに7番が4番を抜いて2位になった。500ccクラスはエンジンが大きいだけに迫力がすごい。それに、日本のオートバイがこれほど世界のレースで活躍しているということを再認識したし、その車に世界のトップ・ライダーが乗っているのだから、それはシビレるのだ。モトクロスはレーシング・コースと違って地形がとても複雑に入り組んでいるので、すぐ間近で走っている選手達を見ることができるのが最高なのだ。500cc Grand Prix の1st Moto が終わって、もう少し違う場所から見ようと丘を下って歩いていたら、コースの真ん中に柵で囲った島のような場所があるのを発見した。「あそこなら、コースのいろんな場所が全部見れるなあ」と思って、そこへ行こうとコースを横切ろうとしたらガードマンに呼び止められた。「You need ・・・・・・check ・・・・・ 」「Are you ・・・・・・・・・YAMAHA・・・・・・HONDA?」ちょうどその時、tetywestは210mmのズームレンズを装着した一眼レフカメラを首からぶら下げていた。「おっ!日本からのカメラマンと勘違いしてる」と思ったので、「I am SUZUKI from JAPAN 」と言ったら、通してくれた。その島の中だけは人で混んでいなくて、ゆったりしていた。よく見るとみんな胸にリボンをつけている。VIPゾーンだった。ちょっと移動するだけで、いろんなコーナーがとてもよく見える・・・・手を伸ばせば届くくらいすぐ間近に。ものすごいエキゾースト・ノイズと、車輪が跳ね上げる土がバーッと飛んでくるのだから・・・それはそれは興奮した。500cc Grand Prix の2nd Moto では、ゼッケン4番のSUZUKIが1位。25番のHONDAが2位、15番のSUZUKIが3位だった。総合では、1位 4番 SUZUKI (Gerrit Wolsink - Holland)2位 2番 SUZUKI (Roger DeCoster - Belgium)3位 25番 HONDA (Pierre Karsmakers - USA)4位 1番 HUSQVARNA (Heikki Mikkola - Finland)5位 14番 YAMAHA (Jim Weinert - USA)6位 21番 HUSQVARNA (Kent Howerton - USA)モトクロスの500ccクラスでSUZUKIがこんなに強いことを初めて知った。しかし、いつも重いなぁと思ってたけど、いいカメラを持っていると得をすることもあるもんだ。ズームを駆使して60枚も撮ってしまった・・・うまく写っていればいいけど・・・Grand Prix のベスト・ショットGerrit Wolsink (SUZUKI) Pierre Karsmakers (HONDA)帰りはすごく混んでいて、約1時間は駐車場から動けなかった。あ―――――――― しびれる!!いっぺんでモトクロスにしびれてしまいそう。あのスピードとエンジン音と・・・そしてものすごく体力の要るスポーツ。写真の現像代は16$くらいかかりそうだけど、とてもいい日だった。今日は、「やった!!!!アメリカに来ているのだ」と実感した。日本にもあれば行きたいけど・・・
2005年06月22日
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