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今日の日本農業新聞 社会面に――――――――――――――――――――――――――――――――――――樹上完熟ミカン 機能成分 多い香川県三豊市 ヘルシー実証 樹上で完熟させた温州ミカンは、機能性成分が増える―――。香川県三豊市は、地元特産の「越冬完熟ミカン」が通常のミカンに比べ、βカロテンなどの機能性成分が多く含まれていることを明らかにした。「じっくり完熟させることで中身の成分が濃縮する」という越冬完熟品のイメージを数字で証明した。今後は消費者や市場業者にアピールし、販促に役立てる考えだ。 通常なら11月に収穫するところを、果実に袋を掛けて越冬させ、2月上旬まで木にならせておいた地元産「宮川早生」と、五訂増補・日本食品標準成分表にある「温州みかん早生」の成分量を比較した。調査は日本食品分析センターに委託した。越冬完熟ミカンの成分量は標準成分値に比べ、抗酸化作用やがん抑制も期待されるβカロテンが147%増、動脈硬化抑制などが期待されるクリプトキサンチンは29%増といずれも上回っていた。 調査のためにミカンを提供したJA香川県観音寺支店果樹部会の○○部会長は「ミカンの良さを伝えることができる大変説得力のあるデータ。消費拡大を見据えた食育の追い風になってほしい」と期待する 。 同市フルーツ王国みとよ推進室は「JAとも連携し、今年産から消費者や市場業者に広くPRし、販売促進に役立てたい」と考え、パンフレットなどを通じてデータ内容を周知していく予定だ。――――――――――――――――――――――――――――――――――――「29%増」というのはすんなりと解るのですが、データの読み方に不慣れなtetywestは「147%増」というのがどうもピンと来ませんでした。もうちょっと解りやすく言うと「普通の早生ミカンの2.5倍のβカロテンを含んでいる」ということなんです。本当に長い間放ったらかしている日記なのですが、この話題だけは皆さんにぜひお伝えしたかったのです。ちなみに、tetywestは相変わらず毎日忙しく元気に暮らしています。
2008年03月23日
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先輩の息子さんにはtetywestが知っている状況を返信したのですが、このメールがきっかけになって、tetywestはBossのファミリーの住所を調べる行動を開始しました。まずは、1997年にMr. Munemitsu の別荘だった家に住んでいた実習生の後輩と連絡をとることです。tetywestにとっては彼が唯一のコネクションなのです。しかし、2000年当時に連絡をもらったときのメールアドレスはもうどこにもありませんし、彼の姓は覚えていたのですが、名前の方は正確には思い出せないくらいだったのです。グーグルにキーワードを打ち込んで探すこと10数分、何となくそれらしいHPが見つかりました。連絡先のメールアドレスもあったので、そこにメールを書くことにしました。---------------------------------------------------私は1975年から76年にDoi farm で実習していました。 おそらく、http://www.xxxxxxxxxxx/contact.phpのOさんは、私が1997年9月にDoi farm を訪れたときにお会いした実習生の後輩のOさんだろうと予想してこのメールを書いています。もし間違っていたらごめんなさい。 私の名前はtetywestです。香川県でミカンを栽培しています。以前にDoi夫妻がリタイヤされてバレー・センターかサン・シティかに転居されたと連絡をいただきました。 その後、自分のHPで実習生当時のことを書いたところ、昔 Doi farmで実習生だった人や、その子供さんからメールを頂いています。みんなその後のDoi夫妻のことや、子供たちのことを知りたがっていますが、連絡先がわかりません。もし差し支えなければその後の状況をお知らせいただけないでしょうか? また、もし完全な人違いであれば、その旨お知らせ下さい。突然のメールでお手間を取らせますがよろしくお願い申し上げます。 ---------------------------------------------------すると次の日、日曜の朝にそのOさんから電話がかかってきました。いや~ビックリしました。昨日送ったメールが届いたのだそうです。そういえば以前1997年に名刺を交換したのです。その電話によると、Oさんはバレー・センターに住んでいます。Doi夫妻は娘のシャーリーと一緒にデービスに住んでいるそうで、Bossの子どもたちの消息もだいたいわかりました。Doi夫妻の住所はあとでメールで送ってくれることになりました。その日の夜、先輩の息子さんに住所がわかったことをメールしました。すると月曜日の夜7時頃、今度は鹿児島に住んでいるその先輩本人から電話がかかってきました。いや~、もうビックリです。その先輩は、帰国して以来カンキツ経営一筋で、3人の子供さんをりっぱに育て上げられています。アメリカへ留学している息子さんが末っ子なのだそうです。香川県の金毘羅さんへは時々お参りに来るそうなので、近いうちの再会が実現できそうです。そして昨日の夕方、今度は先輩の息子さんから電話がかかってきました。tetywestのメールのアドレスに電話したところ、ちゃんとDoi夫妻と連絡がとれて、二人ともお元気で、tetywestのことも父親である先輩のことも覚えていらしたそうです。バークレーからなら車で1時間ほどの距離なので、事前に一度いらっしゃいとDoi夫妻から招待されたそうです。電話の声が鮮明で、それも日本語なので、本当にUSAからだとはとても信じられないくらいです。まるでお隣からかかってきたようです。今回、Bossの住所を探そうと思い立ってから確認できるまでは、たった4日間でした。もしインターネットがなかったら、Bossの安否どころか住所を探すことも不可能だったでしょう。15年前にはとても考えられなかったことです。インターネットの普及で人類はこんなに便利な世界に住んでいます。70年前の日本人は、アメリカやヨーロッパに住んでいるのは「鬼や畜生」だと教えられました。戦争が始まるとアメリカに住んでいる日本人は、治安を乱す恐れがあるからと強制収容所に入れられました。そんな悲劇はお互いを知らなかったことから始まっているのだと思うのです。住む国が違い宗教が違っても、お互いによく知り合えば同じ人間なのだということをtetywestは経験を通して実感しています。その知り合う手段として、現代ではインターネットのチカラはすごいものがあります。今回のエピソードでDoi farm を中心にした関係の輪が広がり、それぞれが新しく結びついていきました。tetywestはそのことに感動して久しぶりの日記を書いています。
2007年02月22日
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先週の土曜日のことです。このHPのメール・ボックスに一通のメールが届きました。---------------------------------------------------はじめまして、ホームページのほうを拝見させていただきました。僕は今カリフォルニア大学バークレー校に通うS・Sというものです。日記などを読ませていただき、僕の父親と関連が少しはあるのではと思いメールすることにしました。僕の父親は鹿児島県はA市という熊本県との県境にある小さな市でみかん農園を経営しています。僕の父親もアメリカで30年ほど前に研修をしていたことがあり、幼少のころはよく聞かされたものでした。父親が言うには、僕の父親もEscondidoのMunemitsu FarmでMr.Doiの下で研修をしていたというのです。今年の5月に僕の卒業式に参加するために渡米する父親は、Escondidoに訪れる計画を立てていますが、連絡先などがわからないために困っているところです。よろしければ連絡先などをいただけたらうれしいです。今わかる限りの情報は、Route4とBox numberだけです。電話番号など変わっている可能性は大いにあると思いますが、知っている限りでよろしいのでお願いします。 ---------------------------------------------------メールを読んで驚きました。何と30年前にtetywestたちと入れ替わった先輩の息子さんからだったのです。tetywestのUSA日記にも書いてあるように、その先輩たちと過ごしたのは丸一日だけだったのですが、右も左もわからない新米のtetywestたちに親切に実習生活のアドバイスをしてくれたこと、ほとんどお金を持っていなかったtetywestたちに食費をカンパしてくれたことなどを懐かしく覚えています。USA日記を書いている途中に、30周年でもう一度Bossの家を訪ねる計画がお流れになってしまいました。tetywestたちの年代になると、みんなが揃って1週間の休暇をとることは無理だろうとは思っていたのですが・・・そんなわけで、Bossのファミリーの住所も調べなくてはと思いながら、ついついそのままで今まで放って置いたのです。実は、tetywestたちは20周年目の1995年にUSAへ行き、Boss夫妻やMr. Munemitsu とも再会しました。その時は以前と同じ農場に住んでいて、皆さんとてもお元気だったのです。その2年後、1997年にもう一度USAへ行くチャンスがありました。このときはBossを驚かそうと全く連絡せずに突然訪問したのですが、見事に当てが外れて留守でした。近所のオバサンにお土産を渡してくれるようにお願いして、農場を見て回っていると、以前はMr. Munemitsu の別荘だった家に誰かが住んでいて、それは実習生の後輩でした。彼は、実習中にナイトスクールで知り合った女性と結婚してずっとUSAに住んでいて、造園の仕事をしていました。それで、Doi ファミリーのその後の消息を詳しく聞くことができたのです。Mr. Munemitsu は確かその年に亡くなられていました。その後、1999年に一度その後輩から「Bossがリタイヤされました」という連絡がありました。農場を売却してサン・シティかどこかに引っ越したのだそうです。先輩の息子さんからのメールが届いたとき、tetywestの持っている Doi ファミリーのその後の情報はこの程度だったのです。
2007年02月21日
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JA香川県がテレビCMJA香川県は、香川産ミカンの販売促進用にテレビCMを制作し、12日から香川県と岡山県で放映する。三豊市の仁尾町曽保地区のミカン園で、農家とミカンの衣装に身を包んだJAの「産直サンバ隊」がダンスを踊り、地元ミカンをPRする内容だ。 12日の午前6時55分から瀬戸内海放送テレビで放送する「産直こどもニュース」を皮切りに、2007年1月まで、同放送や西日本放送で放映する。CMは「チョキ! むぎっ! うまっ! 篇」として10月下旬に撮影した。農家やサンバ隊メンバーがミカンを手に持ちながら、笑顔でダンスを踊る。 (香川)――――――――――――――――――――――――――――――――――――――以上は昨日(11月11日)の農業新聞、中国・四国版に掲載された記事です。「何故それをtetywestのHPに・・・?」「踊る農家」というのは、実はtetywestと家内です。
2006年11月12日
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5時半にロビーに集合して、バスに乗って夕食を食べに行く。済州市は時計盤の12時の位置にあると考えればわかりやすいのだが、反時計回りに15分ほど走った海のそばの海鮮料理の店だった。キムチや、ちりめんじゃこ、キウリ、カニ、ふきなど6皿の付け出しと、海鮮鍋。エビ、カニ、ハマグリ、イカ、魚などに野菜とうどんも入って、ボリューム満点の鍋だった。しかし、味はイマイチで、エビの殻がやたら硬くてたくさん売れ残っていた。帰りのバスの中でガイドさんが「幸運券」というのを一人一枚ずつ配ってくれた。この券をカジノへ持っていくと、1回だけ無料でルーレットができる。もし運がよければ、それを元手に億万長者になれるかもしれないので「幸運券」なのだそうだ。ホテルへ帰って来たものの、外はまた雨が降り出したし、カジノへ行くには時間が早すぎるので7時20分から9時まで寝る。9時20分にS根君を誘ってカジノへ行ってみる。ホテルが経営するカジノなのだが、一般人はシャットアウトなのでめちゃ閑散としている。ルーレット、ブラックジャック、スロットルマシンくらいしか種類はなさそうだし、行ったときもルーレットで3~4人遊んでいるだけだった。「幸運券」を渡して、S根君と「どちらかが確実に勝つように」と赤黒別々に賭けたら、tetywestのほうがハズレだった。S根君は倍になったチップを次の回に全部同じ色に賭けて、しっかりハズレだった。パチンコ感覚で気軽に遊べるルーレットの方がいいだろうと、こちらで遊ぶことにする。チップに両替しなくてはいけないのだろうとキャッシャーに訊きに行ったら、「韓国のお札を持っていますか?それならOKです」と言われた。なるほど最近のマシンは高性能で、10000ウォン札を入れる投入口があって、そこに札を入れるとデジタル・カウンターが20になる。1回プレイするごとにカウンターが1個減る。1回50円という訳だ。しかし、20回はまことにあっけないものだ。それに1回に3倍賭けることも出来るので、そうすると1000円で7回ももたない。たまには勝ったりもするのだが、みるみるうちに5000円分負けてしまった。こんな日はいくらつぎ込んでも勝てる気がしないので、他の人のやっているのを見ることにする。この頃になるとtetywestのグループのほかの人たちもカジノへやって来て、ルーレットに参加したりスロットルマシンをやっている。その中で一人だけやたらツイテいるのがM前さんだった。1000円の元手で始めたスロットルであれよあれよという間に400枚!!「このへんで利益を確保しておこうかな」とキャッシャーで換金したのが21,000円。その後もつき続けてなかなかなくならない。カジノの写真を撮ろうとしたら、従業員に止められた。客の数より従業員の方が多いカジノというのはどうも気に食わない。他の宿泊客は来ないし、いつまで見ていても仕方がないので部屋に引き上げることにする。
2006年07月14日
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宿泊するホテルは済州グランドホテルなので新羅免税店の斜め前なのだが、わざわざバスで乗りつけた。チェックインを済ませたのが3時半。ホテルのラウンジでウェルカムドリンクサービスがあったのでコーラを飲んだ。夕食まではかなり時間があるので各自部屋に荷物を置いて自由行動となる。今回の旅行は全コース食事つきの安いパックツアーの2日目をオプションにしてミカンの視察研修に当てるように段取りしてある。ただ、ホテルの部屋は一人一室という贅沢なものだ。tetywestの部屋は868号室で海側の部屋だった。先ほどの新羅免税店の通りに面したホテルの玄関を見下ろすことができる。部屋を確認すると、もう一度ホテルのロビーへ降りる。A藤部長と一緒に明日のミカン視察を案内してくれる人との打ち合わせなのだ。許教授は青いチェックのシャツを着た白髪の紳士だった。教授は済州大学名誉教授で、農村振興庁暖地農業研究所(日本なら農林水産省果樹試験場にあたるだろう)の専門委員もしておられる。A藤部長はもう何度か会っているので顔見知りなのだが、tetywestは初対面だった。済州島に1970年代に温州ミカンを導入して一大産地に育てあげた「済州島ミカンの神様」みたいな人なのだ。もちろん日本へ留学した経験もあり、日本語はペラペラだ。1933年生まれの73歳だそうだが、ずっと若く見える。「済州島には温州ミカン、デコポン、ハウスミカンが栽培されている。産地は島の南側で、国立試験場と県立試験場もそこにある」「栽培面積と生産量は最高で26,000ヘクタール、80万トンだったが、現在は22,000ヘクタールで50~60万トン」「ミカン産業は危機に瀕している。今や一つの企業より売り上げが少ない。温州ミカンは世界中で300万トンしかない。これは世界の柑橘の3%だが、このままでは他の柑橘類に地位を奪われてしまう。温州ミカンは日本と済州島と中国沿海部だけでしか作れない品種。今こそ日本と済州島と中国が共存していく道を探すときだ」「中国の雲南省にもサンキストが大きなジュース工場を造っている」さすがに「済州島ミカンの神様」、視野が広くて着眼点が鋭い。「済州島から毎年5,000トンのミカンを北朝鮮に贈る会があってね。もっとたくさん贈ってもいいんだけど、向こうがいらないと言うんですよ。何故かって、ミカンを運ぶトラックが無いからなんだね。ピョンヤンではミカン1個はリンゴ10個の値段ですよ。ビタミンCの貴重な栄養源になっている」というような裏事情も教えてくれた。話をうかがっているうちに、この教授に視察の案内をしてもらえるというのは凄いことなのだと改めて実感した。
2006年07月13日
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済州島で最初の食事は石焼ビビンバの予定だった。しかし、ガイドさんから、「石焼ビビンバが苦手な人は冷麺でもいいです」とオプションの提示があったので、数名はそちらに変更した。冷麺は辛くない、ちょっと辛い、とても辛いの3種類あるのだが、みんな「とても辛い」バージョンを注文していた。とりあえずビールとお茶で乾杯して、食事をする。麦茶のような冷えたお茶と付け出しのような皿に入ったキムチは無料。途中で韓国風お好み焼きのカニの入ったチヂミをサービスで出してくれた。石焼ビビンバは日本で食べるのとそれほど変わらなかった。しかし、とても辛い冷麺は見るからに辛そうだった・・・味見はしていないけれど。冷麺食事が済むと、市内観光で「耽羅木石苑」と「三姓穴」へ行く。木石苑は個人所有の庭なのだそうだが、ただ流木を集めただけで、「それがどうしたん?」という感じだった。傘をさして雨に濡れながら観光するほどのものでもないような気がする。「三姓穴」の方は、済州島誕生の神話の場所といわれているだけに、そこそこ見ごたえがある。三姓穴は済州道の人たちの伝説的な発祥地である。三神人(高乙那、良乙那、夫乙那)がここから生まれ、狩猟生活を行っていたとき、五穀の種子を持ってきた碧浪国の三王女王を迎え入れ、その時から農業生活が始まって、ついに耽羅王国へと発展していったとされている。朝鮮時代の中宗21年(西暦1526年)牧使李寿童が初めて標壇と紅門を立て、垣を造り、春秋奉祭を行い始めてから、歴代の牧使(道知事)によって聖域化の事業が行われ、現在も毎年春秋祭および乾始大祭が行われている。と日本語で書かれた看板が立っている。それに、建物の中では神話のアニメが上映されるのだが、日本語、英語、中国語などの字幕が選べるようになっている。そして、パックツアーお決まりの「新羅免税店」へ。ブランド品が並んでいるのだが、興味のないtetywestにとっては退屈そのもの。ひととおり店内を見渡して、外に出た。ちょうど雨が上がっていたので通りの写真を撮る。何と韓国にもファミリーマートがあって、店の看板も日本とまったく同じだった。ファミリーマートの2階はマッサージ。窓ガラスに大きく、「足・全身・1時間40分・6000円。安心してどうぞ!」と日本語で書いてある。行き交う車も、何となく左ハンドルの日本車という雰囲気だ。
2006年07月12日
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9時に搭乗開始。混雑を避けるために45列目以降が先に案内される。tetywestは53Gなので早いグループだ。飛行機は60列まであるA300-600。8人×60としても480人が乗れる計算になる。機内はほぼ満席だ。9時30分に動き始める。飛行時間は1時間25分とのこと。近い・・・9時50分に幕の内弁当とオレンジジュースの食事が出た。食べ終わって少ししたら、もう降下し始めた。予定通り済州国際空港へ到着する。入管手続きや何かを済ませて、11時30分に手荷物回転ベルトのところまでたどり着く。税関を通って外に出ると、トラピクスのカードを掲げたガイドさんが待っていた。外は雨が降っていた。tetywestたち10人だけを乗せて、マイクロバスは済州市へと向かう。お決まりのガイドさんの案内を聞きながら、車窓の景色を眺める。右側通行とハングル文字の看板以外は日本とほとんど変わらない。「済州島はハイラー山の火山島です。ハイラー山は1000年前から休火山です」「済州島の人口は55万人で、そのうち済州市に35万人住んでいます。島の南側のサビポーに10万人」「面積は淡路島の3倍で、香川県と同じくらいです」なるほど、済州島は香川県の面積と同じで、住んでる人口は半分なんだ。済州市がほぼ高松市と同じ。これは具体的に理解しやすい島だ。しかし、済州市以外には人は住んでないんじゃないの?「5年前からマンション団地が出来て、新済州市になりました。マンションは洗濯物が見えないようにベランダをガラスで囲っています。済州島は地震がありませんから」「済州島の交通手段は自動車で、20万台です。大人1.7人に1台。電車はありません。ナンバーの色が緑は自家用。黄色は営業用」ちょうど大学の近くを通過したのだろう。「ハイラー大学です。済州島には4年制大学が3つ、短大が3つあります」「済州島の石は玄武岩です。水はけがいいので水害はありません。その代わり風が強いので風害が多いです」というような説明を聞いているうちに食事場所に到着した。
2006年07月11日
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2005年7月5日(火) 日本:曇り 韓国:雨のち曇り6時起床。どんよりとした空だが雨は降っていない。窓からのぞくとホテルの庭に30人くらいの大学生のグループがいる。夏休みに入っているので、何かの合宿なのだろう。やがて体操をして、どこかへ散歩か朝のトレーニングに出かけていった。テレビニュースではアメリカ合衆国の独立記念日の話題とか、その独立記念日に合わせて「ディープインパクト」という、彗星に銅の塊りを秒速10kmで打ち込む実験が行われること。そして、ヨーロッパの南東部で洪水などの話題だった。7時にホテルのバスで関空まで送ってくれる。10分ほどで到着した。南ウィングにあるトラピクス(阪急旅行社)のツアーディスクへ行ってチケットをもらい、北の端まで移動してコリアンエアーのブースで搭乗手続き。2泊3日の旅行ではここで預ける手荷物を持っていたのは1人だけだった。しかしカウンターのお嬢さんに、「機内持ち込みの荷物の中にヒゲソリ用の剃刀を入れてはダメです」と言われたので6個に増えた。クレームタッグを6枚渡してくれる。「じゃ、傘はどうするの?傘の先は凶器になるで」と訊いたら、傘も別に1個の荷物になるのだそうだが、「手荷物でどうぞ」と手渡してくれた。ここまでは順調そのものだ。3階の食堂街へ降りて、全員和定食を注文する。「ざるそばが食べたいきん、変更してもええか?」と言う声は無視する。料理が運ばれてくるあいだに、みんな出国カードを記入している。8時頃に出国手続きに並ぶ。高校生の団体がずらっと並んでいたので少し焦ったが、チケットとパスポートを提示しただけで通過。免税店でタバコを2カートン買って、シャトルに乗り込む。22番ゲートへ着いたのはtetywestが一番だった。15番ゲート付近のスモーキングエリアにいれば誰か来るだろうと待っていたのだが、9時前になっても誰も来ない。少し心配になりかけたところにK君が来た。後の連中も順次やってきているそうだ。tetywestは、ここまで韓国のどこに行くかをまだ書いていない。しかし、果樹部会が研修に行くのだからミカンが栽培されている地域だろうという予測はできるだろう。確かにその通りで、韓国でミカンが栽培されているのは一ヶ所しかない。それは、済州島なのだ。
2006年07月10日
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2005年7月4日(月) 雨各自時間までにJR丸亀駅前へ集合。午後1時50分発のJRハイウェイバスに乗って関空へ向かう。このバスは鳴門・淡路・明石を経由して難波まで。何故か大阪市内に入って渋滞に巻き込まれ、到着したのは6時30分だった。ここからは電車に乗り換えて、りんくうタウンで降りる。外は大雨なので、建物の中で食事場所を探し、中華天国で夕食を終えたのが9時10分だった。ホテルから迎えのバスが来て、ずぶ濡れになりながら乗車。「関空サンホテル」へチェックインしたのが9時35分。403号室だった。tetywestが「果樹部会、中国へ行く」を書いたのが2003年2月。あれからもう3年の月日が流れてしまった。今回書こうとしている「果樹部会、韓国へ行く」にしても、実際に行ってから丸1年が過ぎている。なぜ、こうも遅くなってしまったのかというと、去年は「USA日記」を書いていて、それで手一杯だったのだ。年をとってくると一度に二つのことをやるのがしんどくなってくる。果樹部会の役員の任期は3年で、今回の韓国旅行も前回の中国旅行と同じように3年に1度の役員研修旅行として計画されたものだ。ただ、中国研修はtetywestがほとんど段取りをしたのだが、今回の韓国研修を段取りしたのはA藤部長だった。A藤部長は三豊営農経済センターの園芸部長なのだが、中国研修のときはJA香川県の園芸部長だった。JA香川県も合併後の組織改革が激しくて、毎年役職名が変わっている。今回の参加者は10名で、果樹部会役員が6名、JA職員が2名、市場関係者が2名だ。実はもう1人役員が参加する予定だったのに、出発の4日前にドタキャンしたのだ。「雨が降らないから、ミカンに潅水をしなくてはいけない」という理由で・・・先のことは誰も読めないのだが、こういう場合えてして裏目に出るものだ。tetywestにしてもこの日は裏目に出てしまっていた。ホテルのチェックインは7時。夕食が終わるのは8時と読んで、その後は楽天仲間のshilfy1さんと会うことになっていたのだが、この雨と大幅な時間の遅れのために、「また次の機会に」ということになってしまったのだ。仕方がないのでシャワーを浴びて寝た。
2006年07月09日
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この前tetywestが10分間スピーチで話した「WEB営農指導システム」のことが、本日付の日本農業新聞・中四国版に掲載されました。--------------------------------------------------------------------シリーズ【真相に迫る】カンキツ園の「通信簿」提供ネット、ファックス活用生産意欲の向上へ 販路開拓にも期待JA香川県三豊営農経済センターは7月下旬から、管内のかんきつ農家に対し、過去の選果実績や果実の予測糖度などの情報をインターネットとファックスで提供するシステムを稼動させる。これまでJAが活用してきた情報を農家と共有し、「園地の通信簿」として提供、生産意欲の向上に結び付けるのが狙い。新たな営農指導の形ともいえるこのシステムが産地に何を生み出すのか探った。(記者名入り)農家がインターネット上の専用ホームページ(HR)かJAが配信したファックスを見て、自分の園地の過去の糖度や今年の予測数値などを確認、数値データに基づいて栽培管理や品種構成の見直しを進める―――。同センターは、システム稼動後の生産者像をそう思い描く。☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 新システムは、各農家の過去5年分の糖度数値とその実績の管内順位、階級や等級、出荷重量からはじき出した手取り額の目安などの情報をインターネット上で一人ひとりに提供する。農家は専用HPにID、パスワードを入力、自分の情報を閲覧する仕組みだ。さらに、栽培中の糖度と今後の予測数値を「園地別指導票」にまとめ、インターネットかファックスで提供する。農家に提供する情報は、県農業試験場府中分場が開発に携わった「糖度予測システム」で得られた情報などを、見やすく加工したものだ。パソコン操作が不得意な高齢者にも配慮し、「園地別指導票」はファックスでも提供する。管内の農家も新システムに期待を高める。同センター管内の仁尾町でミカンを主軸にかんきつ3ヘクタールを栽培するtetywestさんは、「自分の評価が分かる園地の通信簿がもらえ、目標が立てやすくなる。これまでは糖度実績など情報を取り寄せるのには多少時間がかかったが、これからは迅速になる」と期待する。同センターのA藤果樹課長は、情報提供システム導入の狙いを「JAが持っている情報を積極的に提供し、生産意欲を喚起するとともに、限られた人員の中で、より質の高い営農指導に取り組むため」と打ち明ける。管内のかんきつ農家は約600人。初年度は100人前後に利用してもらう目標を立て、現在調整している。☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 営農指導以外の活用も期待できる。情報提供システムの構築に協力した県農業試験場府中分場のM末主席研究員は「販路開拓に向けた商談に活用できる」と指摘する。栽培中の糖度推移、過去のデータを小売店や市場業者に提示し、品質の信頼を得るための材料に使う。「数値は実際の調査結果に基づいてまとめるため、信ぴょう性は非常に高い。商談時の提案資料としても機能を発揮するだろう」と話す。《ペンだこ》選果実績や糖度の推移などの情報は出荷、改植の計画を立てる時にも活用できる。JAや農家の意識次第で、情報の活用の幅はいくらでも広がると思う。システム稼動後、産地がどう変わっていくか今後も注目したい。--------------------------------------------------------------------
2006年07月08日
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「株主価値を高める」「経営権の取得」「儲かりすぎて儲かりすぎて」とかいうセリフ。そして「インサイダー取引」の容疑で逮捕。これって、どっかで読んだか観たことありませんか?そう、映画「ウォール街 ” Wall Street ”」 そのまんまなんです。この映画が発表されたのは1987年ですから、かれこれ20年前です。そして、この映画ができたということは、アメリカでは1987年にはもう「インサイダー取引」に関する法律が整備されていたということです。何でそれと同じ事件が、そのまんま20年後の日本で起きてしまうんでしょう?日本だって「インサイダー取引」に関する法律はとっくに整備されていたはずなのです。これはtetywestの独断なので間違っているかもしれませんが、ここにきて一部の日本の経営者の感覚がアメリカン・ナイズされたからではないでしょうか。そして、昔のアメリカの手法を今の日本で使っているからなのです。それまでの日本の経営者は、社会のモラルに照らしても経営理念からも、「敵対的企業買収」はやらなかったのです。ただ株価を上げるためだけの企業買収は実質的な会社の価値を上昇させないことを知っていたからです。ですから、「インサイダー取引」も必要なかったわけです。村上ファンドやライブドアがやっていたことは、いわゆるマネーゲームです。本当にその会社を経営したいわけではない。買収の目的は株価を上げて自分の持っている株を高値で売り抜けることだけなのです。「ウォール街」のラストで父親が息子に言うセリフがあります。「刑期を終えたら、こんどは何かを作るようなまっとうな仕事をしておくれ」tetywestは、この言葉が「ウォール街」で伝えたかった一番のメッセージだと思うのです。そして、今の日本でもまったく同じことが言えるのです。将来の日本の国がどんな方向に発展して行ったらいいのかを考えたとき、マネーゲームでお金を稼ぐより、人類のために役立つ何かを作ってお金を稼ぐ国であって欲しいと思うのです。ライブドアや村上ファンドの逮捕は、もしかしたら21世紀に日本がどういう国家になるかを決定付ける事件なのかもしれません。
2006年06月12日
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6月9日(金)の日本農業新聞一面に、--------------------------------------------------------------------輸入された中国産スナップエンドウから、ポジティブリストで定めた一律基準(0.01ppm以下)を超える残留農薬が検出されたことがわかった。神戸市内の貿易会社・タカシ貿易が輸入し、厚生労働省の検査で殺菌剤「フルシラゾール」が0.06ppm検出された。同制度下での違反が明らかになったのは初めて。一部は流通しており、神戸市は5日、食品衛生法に基づき同社に回収と販売禁止を命じた。当該の商品は5月15日、14,800ケース(32.4トン)が神戸港に到着。これまで市場などで販売されたのは3,300ケース(約6.6トン)で、残りは同市内の倉庫で保管され流通していない。今回検出された「フルシラゾール」も、ポジティブリスト制度の施行前までは、スナップエンドウでの基準がなく、検出されても販売禁止などの措置を取れなかった。--------------------------------------------------------------------という記事が出ました。以前にも書いたのですが、tetywestは「ポジティブ・リスト」制度は輸入農産物と国産農産物の二重価格を定着させるために絶対に必要な制度なのだと考えています。しかしそのためには、間違っても国産農産物が「ポジティブ・リスト」に違反してはならないのです。5月29日以後、会う人ごとに、「最初にあげられるのは、たぶん中国産野菜やで」と言いふらしていたのですが、その予想が的中しました。こうしてメディアに取り上げられることによって、消費者が「中国産野菜は安いけど危ないかもしれない」と思ってくれれば、tetywestたち日本の農家がガンバッている甲斐があろうというものです。それで、話は昨日のことに戻るのですが・・・「全国カンキツ研究大会」の準備会に行く車の中で、tetywestは同乗していた三豊市の農業課の女性とちょうど「ポジティブリスト」の話をしていたのです。その人もtetywestと同世代なので、女性:「私、中国の野菜は恐くて絶対買いませんよ」tetywest:「でも、最近スーパーでは生野菜よりお惣菜の方が売り上げが多いんだそうですね」女性:「あら、私もお惣菜はよく買います。忙しいときなんか料理の手間が省けますし」tetywest:「じゃ、あのお惣菜に使う野菜はほとんど中国産なの知ってます?」女性:「ええっ!そうなんですか」tetywest:「人件費をかけて料理してあの値段で売るんですから、原料を安く仕入れないと商売が成り立たないでしょう」女性:「そう言われてみればそのとおりですよね。今まで考えたこともありませんでした」tetywest:「調理してしまえば、産地表示義務はありませんし」女性:「なるほどね。産地を書いてあれば注意するんですけど、書いてなければそんなこと気付きませんよ」農業分野の行政に携わっているプロの人でも、こんな盲点があるんですねえ・・・
2006年06月09日
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来年、香川県では「第53回全国カンキツ研究大会」が開催されます。この研究大会はミカンを生産している県の持ち回りで毎年行われていて、以前にtetywestの日記でも広島で開催されたときの様子を書いたことがあります。参照:http://plaza.rakuten.co.jp/sonio/17000「全国柑橘研究大会」開催日は平成19年8月22日(水)・23日に決まっていて、今日はその準備会でした。初日は県外からのミカン生産者300名、県内から400名、主催者や関係者100名の合計800名が一堂に会して研究大会を行い、次の日は2コースに分かれて県内産地を視察します。研究大会では記念誌や大会誌を作らなければなりませんし、会場の準備、宿泊・懇親会の手配など。また、tetywestの産地は視察コースに含まれていますので現地でいろいろと準備する事も多いのです。まあ、まだ1年以上先の話ですし、大会事務局がしっかりしていますからtetywestたち農家が実際に動くのは来年のことなんですけどね。ミカン生産県としてはとても小さな香川県なのですが、そんな香川県だからこその「オンリー・ワン」の全国大会にしようと関係者一同燃えていますので、どうかお楽しみに。
2006年06月08日
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正確には、tetywestの産地としては6月1日で、tetywest個人としては6月6日です。なぜこんなことを書く気になったのかというと、おそらく今後10年間で一番遅い記録になりそうだからなのです。ちなみに去年の産地としての初出荷は5月21日でした。長期的に見れば確かに地球は温暖化しているのですが、短期的な気候は以前より変化が大きくなっているようです。例えば今年の春先は気温が低くて、ミカンの花も10日以上遅く咲きました。それに梅雨前の4月と5月にたくさんの雨が降りましたし・・・tetywestは仕事柄、気候について関心があります。・・・で、よくよく調べてみると気候はなかなか人間臭いところがあるのです。最近は毎年いろいろな異常気象が起こっているのですが、「一年間を通すと、うまく帳尻を合わせている」のです。「夏に干ばつだと冬に雨が多い」とか、「春先に気温が低ければ、秋に気温が高い」とか・・・そんな中で、枇杷の生産量は最近減り続けています。数年前までは全国で1万トンと言われていましたが、去年は7000トンでした。おそらく今年はもっと少ないでしょう。もちろんこれは冬の気温が低かったからなのですが、それ以外にも原因があるのです。それは、「老齢化と後継者不足」なのです。ですから、もう枇杷の生産量が1万トンに復活することはないでしょう。どうやら最近では、気候ではなくて人間の方の帳尻が合わなくなってしまったようです。
2006年06月06日
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メタポリックシンドロームのことを書いている最中にこんな新聞記事を見つけました。--------------------------------------------------------------------過労で「脳・心臓疾患」、05年度労災認定は過去最多 過労により脳出血や心筋梗塞(こうそく)などの「脳・心臓疾患」を発症した労働者のうち、2005年度に労災の認定を受けた人は04年度と比べて12%増え、過去最も多い330人に上ったことが31日、厚生労働省のまとめで分かった。 うつ病や仕事上のストレスなどが原因の「精神障害」とともに、労災を請求した人も最多となっており、同省は「厳しい職場環境と過労への認識が広がり、医療機関でも受診しやすい態勢が整備されているためではないか」としている。 同省によると、05年度に「脳・心臓疾患」で労災を請求した人は869人。認定された330人(前年度294人)のうち、「過労死」は157人(同150人)だった。(読売新聞) - 6月1日0時43分更新--------------------------------------------------------------------「過労死」の原因は一体何なんでしょう?こういう記事の論調では、「企業のリストラで正社員は慢性的な時間外勤務の負担を強いられている」とか、「一人当たりの仕事量が多すぎて、それがストレスの原因になっている」とかいうものはあっても、「亡くなった人はメタポリックシンドロームが原因」とか「高カロリー・高脂肪の食事による生活習慣病が原因」だとは誰もいいません。でも、40歳代、50歳代の働き盛りの脳出血や心筋梗塞(こうそく)などの「脳・心臓疾患」はまさに「メタポリックシンドローム」が原因なのです。一体どんな基準で「過労死」かそうでないのかが決められるのでしょう?同じ仕事でも、ある人にとっては「過労」と感じ、ある人にとってはそうでもないと感じるでしょうから、これはかなり個人差があるものです。tetywestにはひとつ提案があります。「過労死」と「メタポリックシンドローム」の因果関係を調べてみてはいかがなものでしょう?なくなられた方には気の毒だと思うのですが、要するに死んだ後で労災に認定されるかどうかが問題ではなくて、「過労死」しないことが大切なのです。過労死の原因を「会社が忙しいから」と責任を他へ転嫁するのではなく、自分でできる予防手段があるのではないでしょうか?05年は過去最高の人数が認定されたそうですが、私たち一人一人が発想の転換をしない限り毎年その記録が更新され続けるのではないかと心配です。
2006年06月01日
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前回の日記は結論へ飛躍しすぎたために、なぜ「メタポリックシンドローム」=「黒船」なのかという説明が不十分だと反省しましたので書き加えます。昭和40年代の初めまで、日本には日本の風土に育まれた「日本の食文化」がありました。その後、日本は「高度経済成長」を遂げるのですが、その結果「日本の食」は劇的に変化しました。その変化を一言で表現するならば「アメリカン・ナイズ」です。太平洋戦争に負けた日本人は、当時かなり「アメリカ崇拝」指向に傾いていました。tetywestたちの年代は、アメリカのホームドラマにでてくる大型冷蔵庫いっぱいに詰まった豊かな食べ物をうらやましいと思いながら育ったのです。1975年にtetywestがアメリカへ行った頃、「アメリカの女性の体型が美しいのは25歳まで。その後はブクブク太るのが多いよ」「自分の売り頃を心得てるから、アメリカ人は早婚なのよ」「日本人は太らないから若く見られる」などと、まことしやかに言われていました。確かにtetywestの見聞した限りではそれは当たらずとも遠からずだったのです。さて、ちょうど20年後の1995年にもう一度アメリカへ行ってみると、驚いたことに昔は25歳までは何とかキープ出来ていた女性の体型が、20歳に低下していました。オデブさんがめちゃ増えていたのです。その原因は容易に理解できました。要するに「食べ過ぎ」なのです。ハンバーガーのパンは日本の2倍はあります。ハンバーガーショップでのソフトドリンクは飲み放題。スシのネタも2倍。寿司屋のマスターの話では、アメリカ人はボリュームがないと納得しないのだそうです。20世紀の初頭から60年代にかけて、アメリカは世界一の繁栄を謳歌しました。その繁栄を支えたのは勤勉な労働者でした。彼らはとにかくよく働きよく食べました。そして、それが「アメリカの食文化」になったのです。ヨーロッパの人たちは「アメリカの食文化」のことを皮肉を込めて「コカコーラ・カルチャー」と呼びます。カロリーたっぷりの「コカコーラ・カルチャー」は、確かに60年代までは必要だったのです。ところが、70年代に入るとアメリカは第3次産業に従事する人たちが50%を超えるようになります。その人たちはもはやカロリーは必要ないのですが、それまで身についた「コカコーラ・カルチャー」は容易に変えることができません。そうして20年が経過し・・・・アメリカではガンとメタポリックシンドロームが大問題になりました。アメリカで「5 A DAY」運動が始まったのにはそういう背景があるのです。ですから、メタポリックシンドロームは「飽食の時代」に日本にやって来たアメリカ製の「黒船」なのです。今年、ディズニー社はマクドナルド社を協賛企業から除外しました。その理由は、「マックのハンバーガーを食べると太る。これは『ディズニーは子供のための会社』というイメージに悪影響を及ぼす」からだそうです。さらに、アメリカで企業の社長になるためには絶対太ってはいけないのです。太った人はセルフ・コントロールができない意志の弱い人間だというレッテルを貼られたも同然なのです。さあ、アメリカ化してしまった「日本の食文化」はこの危機をどのように切り抜けるのでしょう?
2006年05月29日
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何のことかというと、最近よく耳にする「メタポリックシンドローム(内臓脂肪症候群)」です。ちょっと太り気味とか、ちょっと血圧が高いとか、1つ1つ数値はそんなに異常値ではなくても、それらが複合すると心筋梗塞か脳梗塞か糖尿病になって死んでしまうリスクが高くなります。しかも、40歳~70歳代の男性の2人に1人は「メタポリックシンドローム」か、もしくはその予備軍だというのです。--------------------------------------------------------------------メタポリックシンドロームの判断基準 1、ウエスト 男性85cm以上 女性90cm以上(必須項目) 選択項目2つ以上 2、中性脂肪150mg/dl以上、またはHDLコレステロール40mg/dl以下 3、最高血圧130mmHg以上、または最低血圧85mmHg以上 4、空腹時血糖値110mg/dl以上1のウエストに加え2~4の項目2つ以上該当した場合、メタポリックシンドロームと判断されます。--------------------------------------------------------------------では、なぜ「メタポリックシンドローム」になるのでしょうか?それはズバリ今の日本人の「生活習慣」が原因なのです。過食、運動不定の積み重ねにより内臓に脂肪がどんどんたまっていき、それが少しずつ身体をむしばんで、じわじわと寿命を縮めているのです。「もしかしたら、明日はわが身かもしれない」「このままでは日本人は健康な老後をむかえることができない」「日本人は滅んでしまうかもしれない」これはまさに、「太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、 たった 四杯で夜も眠れず」と詠われた「食文化の黒船」なのです。「黒船」がやってきたのは1853年です。ご存知のように、西洋文明に滅ぼされるかもしれないという危機を感じた日本人は、その後15年で「明治維新」という大革命を成し遂げます。「メタポリックシンドローム」は、日本人がもう一度「日本の食文化」を見直すきっかけになるかもしれない・・・tetywestはこれからの10年をそんな風に眺めてみようと思うのです。で、結局何が言いたいのかというと・・・「メタポリックシンドローム」を防ぐためには「くだもの」を食べればいいんです!!!
2006年05月27日
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「昨日の四国新聞に載っとったで」と同級生が教えてくれました。tetywestの家では購読していないので・・・実は「語る会」があったのは4月中旬で、確か1時間半くらいのフリー・トークだったのです。掲載された内容はそれを新聞社が編集したものです。今日、知人から新聞をもらってきて読んでみると・・・1ページの半分のカラー記事で、顔写真入りです。--------------------------------------------------------------------個性が輝き躍動する三豊市へ 今年1月1日、高瀬、山本、三野、豊中、詫間、仁尾、財田の7町が合併し三豊市が誕生した。面積は県内2番目、人口は約7万1000人で県内3番目の市である。2月12日に行われた市長選挙では横山忠始氏が当選し、初代市長に就任。7つの町の調和を図り、これからどんなまちづくりが進められるのか、住民は大きな期待を寄せている。そこで横山市長と3人の市民の方に三豊市の未来づくりをテーマに大いに語り合ってもらった。○活性化策は”日本一づくり”○農業と環境の先進地に○地産地消の食育で人づくり○三豊鳥坂IC(インターチェンジ)生かし観光振興--------------------------------------------------------------------「なんか、tetywestばっかりしゃべっとるみたいやな」というのが正直な感想でした。それに、「工業製品は容易に生産移転できるが、農業は・・・」とか、「農業は・・・、環境、コミュニティーづくりなど多面的役割を再認識する必要がある」なんて賢そうな言い回しは、言わんだろう普通・・・でも、さすがはプロ。あのとりとめもない話をよくぞここまでまとめてくれています。
2006年05月26日
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昨日の朝刊の一面下側左端に見つけました。巷で超超話題のこの曲!!♪冷凍みかん~冷凍みかん~4個入り~♪冷凍みかんその下はミカンの顔のイラストGTPという女性グループが歌っているらしいです。まあ、それはそれとして、tetywestにしてみれば「冷凍みかん」というものが21世紀に存在していたことが驚きでした。昔JRが「国鉄」と呼ばれていた頃、赤いネットに入ってキヨスクで売られていました。4個だったかどうかは・・・う~ん、記憶にないですね。おそらくtetywestたちの年代が中学生の頃まででしょう、ハウスミカンが普及し始めるとともにいつの間にか見かけなくなりました。それが「復活」していたとは!!!ちょっと興味をそそられたので調べてみると、--------------------------------------------------------------------最近、耳に残る曲があります♪ CDタイトルはズバリ。。。 『冷凍みかん』 (GTPの『冷凍みかん』を視聴・動画PV見たい方、こちらから) ん!? 曲のタイトルをきいて、 なんか懐かしいって思いました(笑) --------------------------------------------------------------------とか、--------------------------------------------------------------------♪今日は電車で旅に出る〓朝は早いしまだ眠い♪駅のホームに着いたとき♪私の目に飛び込んだ♪冷凍みかん 冷凍みかん 冷凍みかん4個入り〓〓〓〓♪虫歯の歯にはし・み・る〓♪うぅ〓〓〓おいしいぃ〓〓〓♪このフレーズが耳に残る。--------------------------------------------------------------------どうもミカンの本場・静岡県から大ブレイクしているらしい。考えてみれば、石油価格が高騰した昨今では、石油で暖房したハウスでミカンを作るより冷凍ミカンのほうがずっと省エネで経済的なのです。確かに虫歯には沁みますけど(笑)冷凍みかんのつくり方冷凍みかんを美味しくつくるにはちょっとしたコツがあります。冷凍庫で3~4時間ほど凍らせた後、冷水にみかんをくぐらせて皮の表面を氷の膜で覆い、ビニール袋に入れて保存します。こうすることで乾燥を防ぎます。余談ですが、フォーライフというレコード会社も懐かしい。その昔、フォークの吉田拓郎が創った会社です。まだあったのか・・・
2006年05月24日
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今日の午前中、tetywestの産地へ研修に来たグループがありました。何と愛媛県八幡浜市の、日本でナンバー1、2を争うトップ産地からです。「袋かけミカン」についての話を聞かせて欲しいとの事だったので、「研修時間はどれくらいの予定ですか?」と訊いたところ、「話と現地視察をあわせて1時間半から2時間」とのことでした。これだけみっちり勉強する予定を組むとは、さすがに銘柄産地です。さて、tetywestは朝から防除をしていたのですが、10時に「JAの出張所へ到着しました」と連絡が入ったので急いで着替えて行くと、もう全員が会議室に入っていました。まずビックリしたのは、みんな若い!!それも17名も!!!ミカン産地でこれだけ若い後継者が揃っている産地はまずいないでしょう。いや~銘柄産地の底力を見せつけられました。そして、tetywestの話をみっちり50分間、みんな真剣に聞いてくれました。その後の質疑応答も25分。現地視察は、マイクロバスが通れる広い道が少ないので、本当に産地の雰囲気を味わっていただいた程度でした。このあとの予定は、昼食にさぬきうどんを食べて、午後は善通寺市の近畿中国四国農業研究センター(旧・四国農試)で研修だそうです。やっぱり若い人の前向きな姿勢は見ていて気持ちがいいですね。思わず、「頑張れ!」と声援を送りたくなってしまうのは、tetywestが年をとったからかも知れません。
2006年05月22日
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本日付の四国新聞の紙面に「みかんの花」の写真が掲載されています。21日「小満」-ミカンの花咲き始める実は、この写真で帽子を被っているほうはtetywestです。撮影したのは昨日の午後でした。この写真をネットで見れるのは、たぶん期間限定かな・・・
2006年05月21日
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昨日は県の果樹研究同志会の定例総代会があったので高松へ出かけました。議事が終了した後、5月29日から始まる「ポジティブ・リスト」の説明がありました。この制度は輸入農産物と国産農産物の二重価格を定着させるためには絶対に必要な制度なのだろうとtetywestは考えています。しかしそのためには、間違っても国産農産物が「ポジティブ・リスト」に違反してはならないのです。農薬の使用基準を守って栽培している限り大丈夫なのですが、一番問題視されているのは作目の違う隣接圃地からのドリフト(飛散)です。隣の作物には使用基準以内でも、こちらの作物には基準以上の濃度になる可能性はじゅうぶんにありうるのです。耕地が狭く、多くの種類の農作物を栽培している香川県などは特に注意しなければなりません。このあと、県内の果樹農家3名に自分の経営について話をしてもらおうという時間になっていて、実はtetywestにも白羽の矢が立っていたのです。A課長:「NHKに出演したんで、『袋かけみかん』の話をして欲しい言いよんやけど」 tetywest:「持ち時間は?」A課長:「10分」tetywest:「20年の歴史を10分では、なんぼ何でも無理やろ」A課長:「もうちょっと長うてもええで」tetywest:「いや、最低1時間は要るで。それより『WEB営農指導システム』はどうやろ?一番ホットな話題やし・・・」A課長:「ほんだら、それで行くな」というような事前の打ち合わせ(・・・と言えるんやろか)によって・・・tetywestの順番は2番目でした。一応原稿はA4用紙に2枚書いてあります。--------------------------------------------------------------------自己紹介10分で「越冬袋かけミカン」の話は不可能。これは又の機会にということで三豊営農センターで一番ホットな話題WEB柑橘営農指導システム光センサー撰果機のデータと連動している。撰果報告書は毎回戻ってくるが、それを集計するのは農家にとって大変な作業。JAも合併したことだし、何とかこれを農家に代わって農協がやれないものか、ということで仁尾の果樹部会はJA合併当初からお願いしていたが、いろいろな障害のためになかなか実現しなかった。三豊営農センターが立ち上がって、ようやく平成17年度の県の「多彩な園芸産地等育成推進事業」の補助を頂けるようになり、この3月に完成したばかり。今はまだ試験運用中で6月から本格稼動する。おそらく、日本で最初のシステム。21世紀の営農指導はこうなるだろうというモデルになること請け合い1.「あなたの園地の通信簿」2.ニュースの配信・営農指導相談3.園地ごとの栽培管理指導過去5年間の園地ごとのデータをインターネットで家に居ながらにして全部わかることが出来る。一年間終わった時点で、園地、品種ごとに、販売数量平均糖度平均酸度平均単価その園地の粗収入その園地がその品種の部会全体の中で評価点で何位なのかがわかる。しかも、これらのデータが5年間分です。農家は自分の作ったミカンは結構いいミカンだと思っている。しかし、本当のところはわからない。ところが、このシステムでは、「早生ミカン350園地の中であなたのミカンは283番です」とシビアに順位が出る。自分の位置がわかることによって、具体的な努力目標ができる。5年間のデータが残っているので、その成果も確認できる。また、その園地の粗収入がわかるので、「この園は儲かっているのかいないのか」の判断ができる。儲かっていない園はどういう対策をとるかを考えなくてはならないだろう。そうすると、こんどはインターネットで「営農相談」ができるようになっている。また、今までに他の人からどんな質問があって、どんな答えが返ってきたのかを検索したり調べたりできる。質問がなくても、JAや部会からのニュースはいつもトップページでチェックすることができる。たとえば、「ポジティブリストが始まったので、枇杷の近くではオルトラン系の農薬散布に注意してください」とかマル曽ブランドの看板である袋かけミカンでは7月と8月に品質調査を行い、その結果をふまえて増糖予想・減酸予想式から割り出して今後どのような栽培管理をしなくてはならないかを知らせてくれる。まあ、ざっとこのようなことが出来るシステムです。これは、農家サイドからみた「WEB柑橘営農指導システム」実は、もう1つの顔がある。「裏WEB柑橘営農指導システム」営農指導員はこれからどのように「産地指導」をやっていくのか。また生産部会は産地をどのような方向に改革していくのかが大きな問題そのためには、まず確かなデータを持つことが必要。その中でも個々の農家の園地データを把握することは必須だったが、これまでは長年の経験とカンに頼るところが多かった。このシステムはそれを数値として示しているという点で画期的。もう1つ、指導員や生産部会側が陥りやすい盲点は、「産地をどのように改革するか」は結局個々の農家の経営判断が基本になっていなければ成功しないということ。例えば「ふくろかけ完熟ミカン」がいかに日本一の価格で売れようが、それを1戸の農家が10万袋も栽培することは不可能。個々の農家の実情にあった品種構成や栽培指導が必須となる。そのためにも、この「裏WEB柑橘営農指導システム」は大きな武器となる。面白いことに「WEB柑橘営農指導システム」は県の「多彩な園芸産地等育成推進事業」ではソフト事業となっている。しかし、使う側にしてみれば、ようやくこれだけのインフラが整備されたわけで、現時点ではハードの部分が完成したに過ぎない。このまま何も運用しなければイランや北朝鮮の核兵器と同じで宝の持ち腐れ。運用次第ではものすごい武器になる。かつて、オランダの花産業が世界一になったのは「情報」をコントロールできたからだと言われたが、「WEB柑橘営農指導システム」によって三豊営農センターのミカンが日本を制覇することも夢ではないのではないかということで、私の持ち時間が終了しました。これで終わりにします。--------------------------------------------------------------------ところが、実際に話を始めるとこの通りは行きません。どこかで横道にそれ、軌道修正するうちに時間が押してくる。おまけに原稿を12ポイントで印刷してしまったので読みづらい。「え~い、この辺で強引に終わってしまえ!」と話を締め括ったのが13分。あれ、イランや北朝鮮の話もすっ飛んでしまったぞ・・・・まあいいか・・・
2006年05月17日
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NHKに出演した余波もおさまりましたが、年度末のあわただしさにかまけてついつい日記の更新が滞ってしまいました。実は今、ちょっと風邪気味なのですが、どうしてもこれだけは書いておきたいことがありました。今夜、大学時代のクラブの先輩から電話がりました。毎年tetywestの園で作ったミカン類を送っているのでそのお礼だったのです。その話の中で、「我々の同級生も先日集まってね・・・それで、U野君なんかとも会ったんだけれど、あなたの話題も出ましたよ。」「それは、それは・・・恐縮です」「まあ、もっぱらN野君の娘さんの話題で盛り上がったんだけどね」「え?????」「フィギュアの中野由加里って、知ってるでしょ。NHK杯かで優勝したけど、トリノへは行けなかった・・・」「え~!!!そうなんですか?!!」「練習の送り迎えなんかは、もっぱらN野君の仕事だそうだよ」実はtetywest、その中野選手の両親を知っているのです。それもちょっと複雑な関係で・・・その関係はUSA日記にも書いてあるのですが、どこに書いてあるかは忘れてしまいました。とにかく、これはtetywestにとって最近ではかなりのサプライズなのです。
2006年04月10日
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2月27日(金)1976年「ニューヨークの地下鉄は絶対乗っちゃダメだよ」「一本裏道に入ったら、どこで『ホールド・アップ』があってもおかしくないくらい治安が悪いよ」「ポケットにいつも10$札を入れときなよ。それを渡せば殺されずに済むから」というような話をいっぱい聴かされていたにもかかわらず、アメリカへ来たらやっぱりニューヨークを観ずには帰れないだろう。tetywestの当時のノートには、 Village Vanguard 178 7th ave. ×11th st. Downbeat Lexington × 42nd st. Village Gate Bleecker at Tompsonと店の名前が書いてあって、Village Vanguard を○で囲んである。ニューヨークに着いた夜、グリニッジ・ビレッジ付近をうろうろしてJAZZを聴いたのはおぼろげに覚えているのだが、走り書きで "Jimmy Heath featuring Parcy Heath and the quartet"とあるので、おそらくVillage Vanguard で Parcy Heath and the quartet を聴いたのだろう。 まったく若いということは素晴らしいことで、ボストンからニューヨークに着いた夜にこれだけ行動しているとは、我ながらあきれてしまう。当時のtetywestの恰好といったら、どこから見ても金持ちには見えなかったので、強盗に襲われる確率は低かったのかもしれない。2月28日(土)1976年朝からマンハッタンの散策に出かける。マンハッタンは「アヴェニュー」と「ストリート」が数字なのでとてもわかりやすい。例えばマディソン・スクエア・ガーデンは8番街×33th st. で、エンパイア・ステート・ビルは5番街×34th st. だから、マディソン・スクエア・ガーデンからエンパイア・ステート・ビルに移動するには3ブロック東へ歩けばいいのだ。エンパイア・ステート・ビルは入場料が1$70¢で86階と102階の展望台へ行ける。86階は地上320mの高さで、屋外に出ることができるようになっている。ビックリしたのは、風が下から吹き上げるので髪の毛が全部逆立ってしまうのだ。もし女性がスカートをはいていたら大変なことになるだろうけど・・・幸か不幸かそんな女性はいなかった。南側の眺望は、今はない世界貿易センタービルや、その向こうのエリー島には自由の女神も見える。いろいろな国の言語で書かれた写真入のパンフレットが用意されていて、日本語もあった。無料なのでお土産にしようとたくさんもらって帰ったのに、まだ配りきれないで残っている。 南方向の眺め日本語のパンフレット(無料)そして、ブロードウェイはY字交差点で、「SONY」の大きな看板がかかっている。 「タイム&ライフ社」のモニュメントがあって、通りの向こうは「ラジオシティ・ミュージックホール」・・・映画の場面そのままの風景が目の前にあるというだけで感動。ティファニーは朝食を食べる喫茶店かと思ってたら立派な宝石店だったりして・・・な訳ないか・・・・ とにかく歩いて歩いて、Midtownと呼ばれる区域はほとんど制覇したのだ。時々タクシーにも乗ったのだが、これだけは自信を持って言えることがある。「ニューヨークにはボディのへこんでいないタクシーは一台も走っていない!」
2006年02月26日
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2月27日(金)1976年YMCAのすぐ前にあるマクドナルドでチーズバーガーとコーヒーの朝食。朝はかなり冷える。グレイラインが5$20¢で「ボストン市内半日見学ツアー」をやっているというパンフレットを見つけたので参加することにする。午前8時、さすがにYMCA HOTEL までは迎えに来てくれないので、最寄のヒルトン・ホテルから乗車する。まず最初に行ったのは「ボストン茶会事件」の現場。桟橋に帆船が係留されていて、その船に乗り込む手前に土産物屋さんがある。帆船は思ったより小さかった。 「ボストン茶会事件」の現場フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、ボストン茶会事件(Boston Tea Party)は、1773年12月16日に、アメリカ、マサチューセッツ州ボストンで、イギリス議会の植民地政策に反対して起きた事件。イギリスからの過酷な税に憤慨した植民地のアメリカ人たちが、アメリカ・インディアンに扮装して、港に停泊中のイギリス船に進入、東インド会社の紅茶の船荷を海に投げ捨てたという事件。なので、多分そんな説明をしてもらったのだろうけど忘れてしまった。それより印象に残っているのはヒゲの兄ちゃんとの、「オレ、ナイコン(NIKON)持ってる。ほら、いいカメラ」「tetywestは、ミノルタ。これもいいカメラ」「Oh! meもNIKONね」とT君。「じゃ、一緒に記念撮影しよう」というたわいもない会話なのだ。 その後、旧市内へ戻って、ぐるっと車窓からボストンを眺める。tetywestは、アメリカの街の中ではボストンが一番気に入っている。たった200年しか歴史がないとはいえアメリカの中では一番古い街なのだ。建物はいかにもヨーロッパ風で、それがきれいに保存されている。姉妹都市が京都だというのもうなずける。ボストンの街並み 窓の外に近代的なビルディングが現れたと思ったら、そのガラスに映っているのは、まるで200年前にタイムスリップしたような教会だった。夢中でシャッターを押したのだが、帰国後写真が出来上がってみると、旅行中のベストショットだった。 ジョンハンコックビルに映ったトリニティ教会ボストンは思っていたよりずっと小さな街で、その中に歴史的な建物がちりばめられている。「 The Mother Church of Christ , Scientist 」もその一つで、近代的な建物の間から突然姿を表す。1879年に建てられたもので、この宗派の人は現代医療を拒んでいるのだそうだ。 The Mother Church of Christ , Scientist そのうちに入江のような湾のような場所に出た。・・・と思ったらバスから降りるのだそうだ。大きな帆船が係留されていた。一番古いアメリカの軍艦「憲法」で、1797年10月21日 に進水している。船体は鉄で覆われ、大砲を44門搭載している。1812年にはイギリス海軍の護衛艦Guerriereを30分で沈めたとか・・・長さが204フィート(62m)、マストの高さが220フィート(67m)もあるので、とても大きい。アメリカ海軍の軍艦 ”Constitution” そのあと、少し郊外へ走ると思ったら、そこはハーバード大学だった。Charles River では学生がレガッタの練習をしている。大学まで観光コースとはさすがボストン!! 向こう岸がハーバード大学観光ツアーは12時に終わったので、昼食後ホテルに帰ってチェックアウト。土地勘のない街を効率よく観て回るのならこの方法は大正解なのだ。3時にグレイハウンドバスでニューヨークへ出発。夜9時頃ニューヨークへ到着して、ホテルはやっぱり YMCA 。
2006年02月25日
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2月26日(木)1976年朝7時10分にアルバニーのバス・ステーションのカフェテリアで1$61¢の朝食を食べる。30分後にはまたバスの上。9時頃にマサチューセッツ州へ入る。「マサチューセッツ」で思い出すのは何と言っても「ビージーズ」の名曲なのだ。♪Feel I'm goin' back to Massachusetts,Something's telling me I must go home.And the lights all went out in MassachusettsThe day I left her standing on her own.マサチューセッツに帰りたい気持がする何かが帰ったほうがいいって言ってるみたいだマサチューセッツの灯りはすべて消えたひとり立ちした彼女残してきた日にTried to hitch a ride to San Francisco,Gotta do the things I wanna do.And the lights all went out in MassachusettsThey brought me back to see my way with you.サンフランシスコにヒッチハイクしようとしたしたいことをいろいろしなくちゃと思ったマサチューセッツの灯りはすべて消えた君と一緒に歩く道へとボクを連れ戻したんだTalk about the life in Massachusetts,Speak about the people I have seen,And the lights all went out in MassachusettsAnd Massachusetts is one place I have seen. マサチューセッツの暮らしを話したり今まであった人達のことを話したりマサチューセッツの灯りはすべて消えたマサチューセッツはボクの見た一つの場所なんだI will remember Massachusetts.マサチューセッツを忘れない (和訳:tetywest)マサチューセッツの風景カリフォルニアに比べるとずっと緑が多い。それにところどころ雪も積もっていて、日本の北海道地方に感じが似ている。ボストンへ着いたのは正午だった。Far East Chinese Restaurant という店で「Yatka Mein」を食べる。ラーメンみたいなもんだ。1$10¢。すっかり定宿になったYMCA HOTEL へチェックインする。そこで見つけたのがBerklee 音楽大学「Jazz 1776-1976」公演のパンフレット。建国200年記念行事の一環として、アメリカのジャズの歴史を2時間半で聴かせてくれるというのだ。それも、こんな偶然があるのだろうかと訝るくらいラッキーなことに、公演は1ヶ月に1回で年間12回しかないのに、今日2月26日が初日だった。さらにさらに、入場料は3$だけど、学生は半額。しかも日本の学生証でもOKだった。8時開演なので、Berklee Performance Center まで地図を頼りに歩いて行く。Jazz 1776-1976ProgramAfrica - The DrumAmerica 1776Field SongRagtimeNew OrleansThe Emergence of JazzSatchimoBarrelhouseBixBody and SoulThe Jazz ArrangerKansas CityThe Swing EraStain DollJitterbugJam SessionWest CoastThe BirdMantecaThe Birth of The CoolAmenSmokin'Kind of BlueColtraneLast StopFinaleトランペット、トロンボーン、クラリネット、キーボード、バス、ギター、パーカッションの20人くらいのブラス編成だったが、なかなか素晴らしかった。その後、ダウンタウンを歩いていたら、PAUL'S MALL JAZZ WORKSHOP というポスターを見つけた。733 Boylston st. Boston という住所を探して店に入ると、Bill Evans がピアノを弾いてライブ・ショーをやっていた。入場料は3$50¢だった。夜中まで聴いていた。ボストンでどっぷりとジャズに浸ることになろうとは、予想もしていなかっただけにとてもとても満足なのだ。
2006年02月24日
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2月25日(水)1976年T君が、「ロックンロールの発祥地は絶対はずせない」と言うので、クリーブランドで降りる。しかし、街をうろついてもロックにまつわる何があるわけでもなく、ただのアメリカの街並だった。後でわかったことなのだが、クリーブランドのラジオのDJが初めて「ROCK'N' ROLL!」という言葉を使ったというだけのことらしい。クリーブランドそんなわけで、バッファローへ到着したのはもう夕暮れに近かった。ナイアガラの滝まではバスが出ていて1時間かかるというので、急いで乗り込む。ナイアガラの滝はさすがに雄大だった。夕陽が西に沈んでいくのもなかなかいい感じだ。対岸はカナダのトロントで、川には橋がかかっていていて向こうへ渡れるのだが、誰も行こうと言い出さなかった。 ナイアガラの滝バッファローへ戻ってバスの時刻表を調べたら、ボストン行きの夜行バスがあった。Y住君はニューヨークへ向かうのでここで別れる。どちらのバスも夜中の12時45分の出発だったので、バスの窓から手を振ってY住君を見送った。
2006年02月23日
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2月24日(火)1976年さて、tetywestたちはなぜトロントに向かったのかというと、トロントから見るナイアガラがとても奇麗だと聞いていたからなのだ。しかし、トロントがカナダだということをはっきりわかっていたわけではなかった。シカゴから5時間ほどでバスはデトロイトへ到着し、そのままエリー湖の海底トンネルを通ってトロントへと向かった。海底トンネルを出るとそこはカナダ国境で、イミグレーションがパスポートチェックにバスに乗り込んできた。tetywestたちは喫煙席なので最後尾あたりのシートに座っていたのだが、3人束になってバスから下ろされた。仕方がないのでY住君も一緒に降りる。最初、一体何が起こったのか理解できなかった。そのままバスは行ってしまい、tetywestたちはイミグレーションの建物の中に連れて行かれた。係官の説明によると、「君たちのパスポートはビザが切れている」「このままカナダへ行けるが、アメリカへ再入国はできない」との事だった。しかし、1ヶ月ほど前に農友会はパスポートを集めて、ビザの延長手続きをやってくれていたはずなのだ。パスポートにはそれらしき書類が余分にホッチキスで留められている。それを何度見せても、「書類が不備だ」の一点張りだった。「じゃ、どうすればいいの?」「タクシーに乗ってデトロイトへ帰りなさい」やがてタクシーが来た。出発する間際に係官に訊いてみた。「料金は誰が払うの?」「政府」・・・・なるほどね。でも、アメリカ? カナダ? どっち?海底トンネルを通って再びデトロイトへ戻り、バス・ステーションで下ろされた。ちょうど真夜中の12時だ。もうバスの便はない。バス・ステーションから見るデトロイトの街は空が薄明るくて、ビルが黒く浮かび上がって見える。そのビルは巨大な無機質の集合体のようで、何となくキングコングが出てきそうな雰囲気だ。大きな赤いデジタルの看板があって、数秒ごとに数字が増えている。デトロイトで生産される自動車の数らしい。ハンバーガー・ショップへ入ってこれからどうしようと相談する。トイレに行くと若い黒人が、「これ買わないか」と、プラスチックの筒に入った白い粉を売りに来た。「何、それ?」「クリスト」「どうやるの?」「こうやって、鼻から吸い込むんだ」「いくら?」「5$」T君が、「何事も、物は試しだ」と言って買った。後でホテルで試してみたけど、ただの小麦粉だったようで何も起こらなかった。
2006年02月22日
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2月23日(月)1976年11時に 826 south Wabash にあるYMCA HOTELにチェックインする。午後3時、デモインからK君がやって来た。午後9時、サンフランシスコからT君がやって来た。この広いアメリカの1点へみんな無事に集まれることは、何でもないようで実はすごいことだと思う。ともあれ、これでトリオが完成した。トリオ+1でダウンタウンへ繰り出し、呼び込みの兄ちゃんに誘われるままキャバレーみたいなところへ入ったら、女性がいっぱい出てきてシャンペンなどを注文された。これはヤバイと思ったら、案の定ふんだくられた。ホテルへ帰って、部屋で積もる話に花が咲く。寝たのは午前4時半。2月24日(火)1976年昼頃起き出して、近くのマクドナルドで昼食。世界一高い「シアーズ・タワー(Sears Tower)」へ登らなくちゃというので、歩いて出かける。YMCAからは西へ5ブロックくらいだった。何しろ世界一高いのだから、どこからでも見えるので迷いようがない。1974年に建てられた110階建てで443m。その前の年建てられたニューヨーク世界貿易センタービルの413mがそれまでの世界記録だったのだ。 シアーズタワーから見たシビックセンター(手前の黒いビル)、サン・タイムズ・デイリーニュース・ビルディング(真ん中の黒いビル)、ジョンハンコックセンター(奥の黒いビル)。その後ろはミシガン湖。※サン・タイムズ・ビルディングの隣にある二つの茶筒みたいな Marina Towers から車が Chicago River へ飛び込む映画を観たとき、「あ~、あのビル!あった、あった!」と嬉しかったのを思い出します。スティーブ・マックィーン主演の「ハンター(1980年)」でした。 シアーズタワー103階は展望階。ミシガン湖の畔にあるグラント・パーク午後5時15分、シカゴからトロントへ向けて出発する。
2006年02月21日
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2月20日(金)~3月9日(火)1976年午後、Bossにオーシャンサイドまで送ってもらう。M森君やA山君より一足早い出発なのだ。農友会からは3月9日夕方にサンフランシスコの SHAW HOTEL へチェックインすることという通知が来ていて、それまで勝手にどこへ旅行してもかまわない。ただし、2人以上のグループで行動することという条件がついている。まずはロサンゼルスだ。ロスのグレイハウンドのバスデッポへ着くと、1ヶ月175$で乗り放題のアメリパスを購入する。2$45¢の夕食を食べ、7$の本を買う。さあサイモン&ガーファンクルの「America」じゃないけど、今からグレイハウンドでアメリカ一周の旅に出るのだ。午後7時30分。door No.6から Chicago 行きのグレイハウンドバス1635に乗り込む。明日の午後3時にソルトレイク・シティ。そして3日後の朝5時にシカゴへ着く予定。気の遠くなるような旅だけど、何とかなるだろう。そしてtetywestはバスの上の人。まずはラスベガスまで・・・何度も通っておなじみの道なので睡眠不足を補うために少し寝ておこうかな。日付が変わって21日(土)。夜中2:45にラスベガスに到着。コーヒーブレイクをとって、またバスに乗る、3:20。朝7時過ぎにユタ州の St. George へ。1時間の朝食stop。バス・ステーションにはちゃんとカフェテリアがあって、食事が摂れるようになっている。ベーコンエッグとコーヒーで1$21¢。再びバスに乗る。運転手が人数を確認して出発。何だか駅馬車で旅をしている雰囲気だ。午後3時過ぎにソルトレイク・シティに到着。粉雪が降っていた。遅めのランチを1$62¢で食べて、街を散策してモルモン教の教会まで行ってみる。グレイハウンド・バスはここで車両チェンジ、7595になる。運転手も交代して4:30に出発。 本日の出費6$4¢。また日付が変わって22日(日)。Rock springsから、 ララミー(Laramie)、シャイアン( Sheyenne)・・・西部劇でお馴染みの名前の街でコーヒーブレイクをとりながら、バスは走って行く。夜が明けると North Platte ネブラスカ州に入っている。このあたりは時差が太平洋時間(PT)より1時間早い山岳時間(MT)になっている。アメリカはあと中央時間(CT)と東部時間(ET)があり1つの国で4つも標準時があるのだ。 昼にグランド・アイランドへ着いて、1$25¢のランチ。あ~貧しい。オマハへは4:15に到着。ここで又バスをチェンジする。さすがにロスからずっと乗っているのはtetywestだけ。アメリカじゃ普通の人は飛行機に乗り、裕福な人は列車に乗り、貧しい人はバスに乗るって言うけど、確かに乗ってる人たちはみんな貧しそう。その中でもtetywestが一番貧しいかもしれない。オマハでボールペンを買った、61¢。とても奇麗な街で、静岡市と姉妹都市だけのことはある。ごみごみしてなくて、わりとでかい街でいい感じ。夕食はさらに質素に95¢。本日の出費は5$以内で抑えた。また日付が変わって23日(月)。中央時間(CT)朝5時にシカゴのバス・ステーションに到着。外は真っ暗だし街はまだどこも開いていないので待合室に座っていたら、何と日本人がいる。それも詰襟の学生服を着ているのだ。向こうもtetywestを見ている。目が合ったので微笑んだら、こっちへやって来た。「日本人ですか?」「そうだけど・・・」「良かった。日本人かメキシカンか、どっちだろうと迷ってたんですよ」「学生サンなの?」「はい。卒業旅行で来ました」「どこの学校?」「○○教育大学です」「じゃ、先生になるわけ?」「いいえ、就職は自衛隊です」「ほう・・・・」「こっちは1年カリフォルニアに住んでオレンジを作ってたわけ。このネーブル食べる?」「ありがとうございます。あの~、もしよかったら一緒に行動してもいいですか?」「いいよ」というような会話があって「旅は道連れ」になったのがY住君だ。
2006年02月20日
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2月19日(木)1976年終わったのだ。実習生活が!!! 今日の4時半をもって全て終わったのだ。今日の仕事は朝からチェーン・ソーでたきぎ作りだったけど、ガソリン漏れのために10時に中断。木の運び出しをやった。昼は30分早く肥料が来て(Wilglow は1トン135$。もう一方の16-16-16 は1トン235$)、それをトラックに積むのを30分。そしてその後、又枝の運び出しで終了した。今からの予定は荷造りとワークブーツを磨くのとBossのうちへ挨拶と。明日は買い物と洗濯と、そのあとチェックをもらって銀行へ行って、そしてBossのうちで昼食をご馳走になって、それでオサラバなのだ。なにやら、まだ実感がわかない。今晩の夕食はステーキだった。でもスープが辛かった。A山君め!!そして、とにかく終わったのだ。ああ、本当なのだよな~参ったなあ、明日から free の身だ!!!!!!!tetywestは行くぞ!K君、T君待ってろよ!!とにかく終わった。そしてさようなら。万歳なのだ!!!!!!
2006年02月19日
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2月18日(水)1976年今日は昼からひとりで気分を悪くしていた感じだ、やれやれ・・・・まだあまり気分がよくないのだが、そもそもの原因は昼休みにF島君がやって来たことなのだ。「パワーステアリングのオイルが漏るから、5$まけてくれないか」なんて言い出すので、かなり頭にきてはねつけてやったら、「チェックもしないし、オイルが空っぽのまま走ってどうのこうの・・・」とグチをこぼして、それでも50$払った。よっぽど、「そんなのは考え方が甘いんじゃないの!」と言ってやりたかったけど・・・それならそれでもう少し計画性とか、そういうのがあってもいいと思うのにまるで無い。旅行にしたって他人を頼りにしてるし・・・だからその時以外は一言もしゃべらなかった。しゃべってるのを聞いているとムカムカしてくるのだから・・・・そんなわけでひとりで頭に来ているのだけれど、これもまあいい加減にしておかないと体によくない。あと、本日は肥料の散布と最後の1時間はたきぎ作りで終わってしまった。あと1日で仕事も終わると言うのだけれど、まったく実感が無い。ここの生活も、もうシラケシラケで、しかし今回のシラケはもう永久におさらばのシラケなので気楽なのだ。自分から話題を求めて後の二人に話しかける気にもならず、実際のところはさっさと出て行きたいのだ。Fertirizer の本代、Bossが要らないというので今3$50¢が戻ってきた。思わぬ収入で、もう少しで忘れるところだったけど思い出して正解。さあ、さあさあ、どうする? あと1日なんだよ。そういえば、去年はお別れパーティやったのに今年はやらない気だな。ガッテム!・・・まあいい。それよりもっと素晴らしい経験をしたではないか。そうだ!Bossの家にあの木彫りの大国様を持っていかなくては・・・・明日の夜にでも。でも、よく我慢できたなあ、ここの人間関係。自分から選んだ相手でもないのに、とことん知り尽くすっていうか、こういうのは異常なんだよ。こういう経験ももうできなくなるし・・・昨日の夜、自由になったらK君のところへ行こうかと考えてletter を出した。でもそれももうどうでもよくなっている。今言えることは、「アメリカにはもう住みたくないなあ」ということだけ。あ、そうだ。仕事中に考えたことだけど、tetywestは1年間で性格がかなりいじけたなって。人の言うことをまともにとれなくなって、そう、人間不信が一層つのったみたいだね。これは一つの心の傷だろうな・・・それを癒してくれる人が果たして現れるのだろうか、それともやっぱり一生人間不信のままつまらなく暮らすのか・・・・さあ、わからないな。環境が変われば又いろいろと考えることも変わってくるだろうし・・・そういえば日本へ帰ったらM子に会えるのかな? でもやっぱり名古屋へ降りるって事は会いたい気持ちが含まれているんだろう。会っても確かにどうもできないのだよ。ずいぶん変わっていることだろうな・・・そうなると、日本へ帰ったら早速恋人を見つけないといけないなあ、もう20+○歳の後半もいいところなので、いつまでも若くはないのだし・・・日本へ帰ったら・・・・・・・か。そしてここの生活、あ~つくづくいやな生活だよ。とにかくも足りないものが多すぎる。そして愛もなく、なぜこんな生活に耐えれたのか・・・とにかくあと1日の仕事が済めば全てが終わる。本当に長い1年だった。どれくらい気分的に参っているか・・・今しかわからないだろう。過ぎ去れば全て楽しいことなのだから・・・・何ということ!今K君から電話なのだ。もうアイオワのデモインのYMCAに中西部の連中は全部集まっているらしい。そしてシカゴとだけじゃどこなのかわからないから22日の夜8時頃にデモインへ来いと言う。仕方がないので行くことにする。これじゃ20日はよっぽど早く出発しなければならないことになる。デモインまで時差も含めて46時間かかるのだ。そんなわけなので、とにかく一応K君とは会えそうだ。今電話があってよかったのだ。はっきりしたのが一昨日くらいだったもの。T君にも連絡つけてくれと言うことなので電話しなくてはならない。今、T君に電話してきた。彼は21日の昼頃出発するらしい。それもデモインへ向けて。したがって彼の場合44時間だから一晩遅れて着くのだろう。これでT君とも会えそうだ。デモインの再会が楽しみなのだ!!そうなると荷物もまとめなくてはならないし、大変なことだ。いろいろと・・・・まあいいだろう。二人との連絡がついたのだから。さて、あとはtetywest自身がいかにして出れるか。これは運命なのだから悩んでもしかたがない。明後日の昼まででここともオサラバなのだ。そんなわけで、今日はたくさん書いてしまったけど、そういえば穂木を取ったり写真も撮らなくちゃいけないので、明後日は早起きしなくてはいけない!!・・・と言うことなのだ。
2006年02月18日
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2月17日(火)1976年車を売ってからこっち、やることがないので毎晩読書をしている。それも「世界」とか「月刊エコノミスト」とか「朝日ジャーナル」のたぐいなので、若干時代は古くて去年のものなのだが、世界の流れ、特に韓国に対する認識というか、問題意識をかなり持つようになった。しかし、人間というもの、知らない方がどれだけ不幸なのかということは一概には言えないような気がする。つまり、一番幸せに生きようとするなら、自分の直接かかわる範囲だけを見つめて暮らすのが一番いいんじゃないかなんて思ったりするのだけれど・・・でも、人間には知識欲というのがあるから、やはり知ったときにはそれなりの満足感がある。つまり、この満足感を得るために知らずには居れないのかも知れない。それにしても、こんなことが書けるようになったのも精神的なゆとりなんだろうな。最初の頃には夜はとても短く感じたものなのに、この頃は長すぎるという感じだもの・・・今日は昼から肥料の散布をやったりして、後2日になった。もう昔のことはだいぶ忘れている。ここでの生活のテンポがいかに速いかということだろうね。その日に起こったことが後日に及ぼす影響はとても少ないのだ。もちろんこれはtetywestが日本人だからなので、アメリカ人にしてみればこんなのが当たり前なのだろう。異国での生活っていうのは、やはり言語、習慣、ものの考え方なんかで行き詰ってしまう。「世界平和」なんて簡単に言うけど、「言語の壁」っていうのは厚いものだと実感している。これじゃ、「人類がひとつに・・・」なんて無理じゃないのかなって思う。最後の2日間なんてあっという間に終わるだろうし、それから帰国までもあっという間だし、全て終わるんだ。アメリカか・・・・・後になって思い出となってしまったら、どんなもんかな・・・・懐かしいものだろうな、やっぱり。ここの生活も・・・・どれくらいtetywestの人生に影響を与えるのかな?
2006年02月17日
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2月16日(月)1976年今朝Bossが言うには、「 Friday に Bank へ行ったりするから、仕事は Thursday に終わればいい」とのこと。何ともはやビックリしてしまうのだ。今日ももう終わってしまったので、あと残すところ3日だけ!!今月は300$に少し届かないけれど、まあそれは仕方がない。とにかく、そんなわけで急きょ中西部のカンサスへと出発することにした。地図で調べたら、そんなに遠回りでもなさそうだし、それに宿泊代とかを浮かす意味でもやはりカンサスへ行く必要があるということになる。そんなわけで今日は終わろうとしている。Bossの家での「お別れパーティ」はやってくれそうもない雰囲気なので、とにかくさっさと出て行こう、出て行こう!あ~、やっと本当におしまいが近づいて来た感じだなあ・・・ここを出るときのことばかり考えている。これでいいのだ。
2006年02月16日
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2月15日(日)1976年今、午後7時10分前。今日は10時から4時まで実習生ハウスの部屋の大掃除をやった。ベッド・ルームは2段ベッドもバラバラにして5つあったベッドを3つにして、平らに並べて雰囲気が変わったし、トイレもキッチンも徹底的に掃除したので来たときよりもきれいになったのだ。今、そのベッドの横たわってこれを書いているのだが、そういえば先週の土・日はM森君とF浪君と一緒にハリウッドへ行って、またまたレコードを21枚買った。それから Starwood へも行ってきた。そして今週は最後の荷物を4個、日本へ送ってしまったし、ファイナル・トリップのためにタンスの中も整理したし、食事の献立も最終日まで全部作ってしまったし・・・とにかくやるべきことはこれで全部やったという感じだ。このところ仕事といえば、 Weed oil か枝の整理だけ。そういえば先週の火曜日から火曜日まで雨が降り続いたので、土、月は仕事が休みだったのだ。しかし、この日記を書き始めて1年が経ったわけで、最後の方は惰性に流れてしまってあまり書かなかったけど、よく今まで続いたものだ。ハリウッドではO田君の欲しいレコードを3枚買って、これは手渡すから直接日本へ持って帰るつもり。そんなわけで、今日ももう終わったようなものだ。そういえば、この2週間よく読書をした。月刊エコノミストやら、世界やら朝日ジャーナルやら・・・それで朝鮮問題とか日本の経済、天皇制など少しわかってきたのはいいことなのだ。本当に、こんなに部屋が奇麗になると、「もうすぐ出て行くのだなあ」という気がするのだ。思えば長いようで短いものだ。しかし、それはいつもそうなのだから仕方がない。今言えることは、「いかにその一年を充実して生きたか」という生き方の問題だと思う。それはtetywestにとってやはり素晴らしい体験だったのだ。帰り花のカリフォルニアポピーが鮮やかに咲いている。「1年経ったのだなあ・・・・」そう思う。
2006年02月15日
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「高校の同窓会」で書いたように、tetywestは同窓会の幹事をやっています。この同窓会は4年に一度やることに決められていて、前回は夏だったので今回は冬にしようと今年の1月2日に開催されました・・・・実際は3年半の間隔だったのですが。昨日は、その会計報告と記念写真を発送するために幹事のみなさんが集まりました。今回のフォトアルバムはちょっと変わっていて全て手作りです。収録枚数は150枚を超えています。それをバックグラウンド・ミュージック付きのVCDにしました。23分間に同窓会の最初から最後までが詰め込まれています。写真撮影をしたのはM石君で、VCDを作ったのはtetywestです。VCDを複製したのはtetywestで、そのラベルを作ったのはM石君です。フォトアルバム「サライの空へ」なぜ「サライ」なのかは「高校の同窓会(6)」をお読み下さい。前置きが長くなりましたが、その発送作業中にH田さんが、「市長選に出とる○○さんの妹さんが同級生やいうの知っとる?」と言うのです。集まっていた13人中、知っていたのは3人だけでした。もちろんtetywestも知りませんでした。なぜH田さんがそれを知っていたのかというと、H田さんのご主人と市長候補の○○さんが同級生だったからです。さらに面白いことに、H田さんは観音寺市の住民なので今回の選挙は無関係なのです。市長選に関して今まで全くニュートラルだったtetywestなのですが、こうなると○○さんを応援したくなります。
2006年02月08日
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tetywestの住んでいる町は今年1月1日に合併して三豊市になりました。そして、今週は市長選挙と市議会議員選挙の選挙週間なのです。朝8時を過ぎると、選挙カーからの声が町中にとどろきます。「○○でございます。よろしくお願いいたします」「ご声援ありがとうございます。○○でございます。○○をよろしくお願いいたします」「△△でございます。最後の最後まで△△をどうかよろしくお願い申し上げます」普段は静かな田舎だけに、この声はほとんど騒音です。こんなことが得票数の増加に効果があると候補者の方は本気で考えているのでしょうか???中には思わず突っ込みたくなるようなのもあります。「◇◇本人でございます」←←乗ってて当然やろ「朝のご挨拶に伺っております」←←昼も夜も来るんか!!「皆様の暖かいお膝元に・・・」←←あんたは猫かこのように選挙カーから名前の連呼をやっているのは先進国の中ではどうも日本だけのようで、この光景を見たアメリカ人がビックリしていました。もし、選挙カーをまったく出さないか、もしくは静かに走らせている候補者がいれば、tetywestは迷うことなくその人に投票するのですが・・・・・市長も市議会議員も投票は12日・・・・しばらくは騒音が続きます。
2006年02月07日
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先日(1月26日・27日)高松で「平成17年度中国四国ブロック国際化対応営農研究会」が開催されました。これは毎年各県持ち回りで開催されていて、今年は「(社)国際農業者交流協会」、その支部である「KOKUNO香川」、そして「香川県」の主催でした。で、tetywestたちKOKUNO香川の役員は、去年あたりから実行計画を立てて準備をしてきたわけですが、正直な話「香川県」に主催をお願いしているだけに・・・何人の参加があるのかが一番気になるところです。ふたを開けてみると、県外から18人、県内30人、県立農業大学校の1年生24人、関係団体から10名とまずまず盛会でした。開会式に続いて行われた講演では、「香川県産小麦開発にかける夢」と題して、香川県農業試験場研究員の多田さんに「さぬきの夢2000」の開発にまつわる話をしていただきました。そして、その前に「プロジェクトX 第149回 7月6日放送 『さぬきうどん 至高のうまさとは』 」をそのまま40分間上映しました。実は、「プロジェクトX」の上映には準備段階でちょっとした問題がありました。それは著作権問題です。県の事務局がNHKに、「この番組を講演会で使わせて欲しい。」とお願いに行ったのですが、答は「ダメです。」でした。ただし、「本人が講演で使用する場合は仕方がないでしょう。」とのことで、それも「TV番組を録画したものを使うのであれば」という条件つきでのOKだったのです。tetywestはこの番組を観るのは初めてだったのですが、いや~実によくできています。その感動の余韻覚めやらぬうちに本人が講演するのですから、いやがうえにも盛り上がりました。なぜ「国際化対応営農研究会」にこのような「さぬきうどん」の講演を企画したのかと言いますと、「国際化の中で生き残るためには、『オンリーワン』を作ることだ。」という結論に達したからなのです。香川県の「オンリーワン」は何と言っても「さぬきうどん」でしょう。それでは、開発した本人から直接聞いた「さぬきの夢2000」の特徴をお教えしましょう。◎オーストラリア産小麦に比べて色が黄色い◎オーストラリア産小麦に比べてグルテンの生成は弱い◎オーストラリア産小麦に比べて製粉性が悪いしかし、◎オーストラリア産小麦に比べて風味が良い「プロジェクトX」はこう言います。「かつて子供の時代に食べた地元の小麦だけがもつあの香りが、オーストラリア産にはどうしてもなかったのである。」「皆、その小麦の持つ馥郁(ふくいく)とした小麦の香りに圧倒される。ところが、同時に難点が露呈する。」「『ふるさとの小麦を完成させろ』 農家、試験場職員、製粉業者、うどん職人。理想のさぬきうどんを目指した人々たちは力を合わせ、最後の難関に挑む。」さあ、どうか皆さんも「さぬきうどん」を食べに香川県へ来てくださいね。
2006年02月02日
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2月1日(日)1976年先週、木・金・土と外出して睡眠時間がやけに少なくなり少々疲れ気味。木曜日にラモナへ行って車を売る段取りをしてきて、金曜日は Chino farm で一世のおじいさんの訓話を聞いたり、実習生とも話をした。土曜日はリバーサイドへ。星さんの家でブラジル実習生のターザンとMitsu君のお別れパーティがあった。Mitsu君が生まれて初めてビールを1本ちょっと飲んだという記念すべき日になって、チリのオスカーとかジョンとその友達なども来ていて、Deth Valley の8ミリも上映したりして楽しかった。そして今日は Pamona Race way でdrag race があって、F浪君が「行こう」と言うので出かけた。A山君とM森君は例によってそれほど興味がなかったようだけど・・・実際に見ると、さすがに速い!!何しろスタートするときはタイヤから煙を上げて、フロントタイヤを浮かせて走るのだから。いろんなカテゴリーに分かれているようだけれど、とにかく初めてなのであまりよくわからなかった。でも、 Funny Car のすさまじさと、あの細長い車の速いこと・・・・結局最速タイムは4分の1マイルを5.93秒。フロントのタイヤは自転車並みで、後輪はスリックの恐ろしく太いヤツ。とにかくエンジンが走っているというのがピッタリの車なのだ。 こういう組み合わせで走ることもあるそんなわけで、また一つ新しい経験をしたわけで、とてもいい気分ではあるのだけれど、A山君とM森君はシラケきっていたから、それならついて来なければいいのにと思ったりもするのだけれど、とにかく入場料12$でとてもいい1日だった。1月はついに雨が一滴も降らずじまいで暑い月だったけれど、2月は降るのだろうか?もうあとたった20日・・・ここにいるのもあと3週間なのだ。よくぞここまで来たもんだという感じ。しかし、早くここから脱出したいのだ。F浪君は日本から1000$送金してもらったそうだけど、かなりの手間暇がかかったと言っていた。6万円までなら普通に送れるのだそうだけど・・・・とにかく外国へ送金するのは大変なことのようだけど、ファイナルトリップに1000$か・・・・Mitsu君は300$の予算で東海岸まで行くと言っていたし、そうならtetywestも何とかなりそうだと思ったりしている。しかし、USAで稼いだ金は全部USAで使ってしまうわけだ。1年で今までの10年分くらい使ったかな・・・・
2006年02月01日
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1月25日(日)1976年昨日から最後のメキシコへと出かけて、土産の革の財布を買ったりしたので70$が飛んで行ってしまった。金って残らないものだ。ファイナル・トリップの見積もりを計算してみたら、約1000$必要という!!!・・・・大変なのだ。そんな金どうやっても出来そうにないのだ。とにかくもうこれ以上何も買うまいと心に決めて、そして何としてもニューヨークへ行くのだと・・・・しかし、それももうどうでもよくなってきたのだ。はっきり言って、特別に行かなくてはいけないという場所はないのだ。このところ、いろいろな問題が片付かないまま時間だけがどんどん過ぎていく気がしている。全てはあと1ヶ月で片付くのだと思えば、これからの1ヶ月は早く過ぎて行くかもしれないことをひたすら祈りつつ、とにかく今日も終わろうとしている。SWIS TIME という腕時計をメキシコで6$50¢で買った。実にインチキっぽくて面白い時計なのだ。F浪君たちも今日ティワナへ行ったそうで、帰りにここへ立ち寄った。金曜日から Dog が一匹ここに住み着いている。ビーグル犬なのだ。この犬はとてもしつけが良くて感心している。今もドアの入り口で眠っている。昨日の朝はヘリコプターでのマイト・スプレイを見学した。もう本音は日本へ帰りたいのだ。金さえあれば・・・それでも、何だかんだと買ったりしているから無くなるのは当たり前だろうな。今月は100$残すつもりだったけれど、やっぱり80$しか残らない。来月はかなり倹約して暮らさなくてはいけませんな。それとも、ここの生活はもう1ヶ月しかないのだから、やりたいことをやるためには金などどんどん使わなくちゃいけないのかも知れない。まあいいや・・・金のことは何とかなるだろう。メキシコへ行くとたくさん金を使うなあ・・・今さらながら感心してしまう。ファイナル・トリップでも後1回は行くと思うし・・・金が残っていればいろいろ買いたいものだね。そういえば、1月18日はリバーサイドでウインストン500(Winston 500)のFirst race があったので観に行ったのだ。ゼッケン21の Peason が優勝だった。今日はそれほど気分がいいわけじゃない。日曜日の夜はいつもそうだけど・・・・ああ、明日から仕事か・・・・・
2006年01月25日
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1月22日(水)1976年夜、コインランドリーで洗濯をするので1週間分の洗濯が約45分でできる。ところで、今日tetywestは洗濯の当番だった。全自動洗濯機がOFFになったので、ドラム缶が回っているようなドライヤーの中へ洗濯物を全部放り込んで乾くのを待っていたのだ。待っている間はヒマなので辺りを見回してみると、夫婦とガキ(1歳半)、メキシカンの姉妹とその子供(2歳半)、独身男性2人(tetywestを除いて)、結婚している20歳前後の女性1人、そして8歳程度の男のガキがひとり・・・・まあ、これだけ居たのだ。退屈しているのは誰も同じだったのだろう、1歳半と思しきガキがtetywestの座っている椅子のところへトコトコとやって来て、舌の回らぬ English で、「めーあーしっだー?」と言うので、「Yes 」と答えたら急になれなれしくなって、いろいろとtetywestに話しかけてくる。まともな English さえよくわからんのに、ガキの話す English がわかる訳もないので、適当に、「フンフン」とか「イヤー」とか「ハハーン」とか受け答えしてやると、相手にしてくれるものだからますます図にのって、「だでー、まむ、なんとかかんとか」と言ってくる。そのうちに椅子の上に這い上がってそこに立ったので、「Drop ! Go down. 」と言うと、「のー、あーきゃー」と言って、椅子から飛んだ。 ビックリしたがほめてやったら、もう一度やると言う。そんな全くたわいのないことをやっていた。tetywestはさっきから気になっていたのだが、8歳くらいのガキが洗濯機の底をしきりに覗きながらグルグルと駆け回っている。目が合ったので笑ってやったら、こいつもトコトコとやって来て、ちっとはまともな英語で、「 I mised my penny なんとかかんとか 」と言う。「 Can you find it ? 」と訊くと、「 No, but I found this. 」と言ってビー玉を見せる。そして又グルグルと覗いて回っている。一周して帰ってきて、隣へ座って首を振って、「 No 」と言い、それから、「 But I found it 」とミニチュア・カーを差し出す。こりゃ1セントよりずっと立派なものを見つけたではないかと思い、笑っていると、「Key, too 」とおっしゃって、ポケットからキーを出して、今度はそのキーがこのコインランドリーのどこかの自動販売機のキーではなかろうかと1つずつトライし始めた。ところが実に、これがウォッシュ・マシーンのコインボックスのキーだったので、そのガキは25¢と10¢玉をジャラジャラと手に持ってにっこりと微笑んだ。――――― と言うのはウソ ―――――そこに又、1歳半のガキが現れて、8歳のガキがtetywestの隣に座っているのが不服らしく、「ドケ!!」と言うような素振りをする。また、8歳のガキも別にそれが当然というような顔で1つ椅子をずらしてやると、満足してそれによじ登り、また、「ふぁ ふぁ にゃ~~~ やらなんとか 」と、わけのわからんことを口走る。適当に返事をしていると、又、「だでー まむ 」と、向こうを指差して、椅子から飛び降りて走って行った。tetywestと8歳のガキは互いに顔を合わせてニッコリ・・・・そんなことをしているうちに、ドライヤーの中に放り込んだ洗濯物が乾いたので、フードバスケットの袋に詰め込んでM森君を待つ。彼はフードバスケットへ食料の買い出しに出かけているのだ。A山君は本日メキシコへと遠征中。そんなわけで、楽しいピンポンパンの時間は終わったのだった。 EIMB (エスコンディッド・イン・ザ・マウンテン・ブロードキャスト)
2006年01月22日
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1月21日(火)1976年昨日の夜、ナイトスクールへ行こうとシャワーを浴びて出てきたら、Mr. 石井がいるではないか!!そして、この部屋(キッチン)だけでなく、ベッドルームまで覗くではないか!そして、こう言うではないか!!「この house はきれいにしようと思えばきれいになるなあ。いい house に住んでるじゃない」と・・・・・しかし、その時床はほこりだらけだし、服はそのへんに散らばり放題で、お世辞にもきれいな部屋ではなかったのだ。「男3人で住んでるとこんなもんだろうな」と慰められた。そして4人で、ちょうどメンツが揃ったのでマージャンをやろうということにはならなかったのだ。そのかわり、みんなでツルタの悪口の言い合いをやった。さすが、農友会(IFA)の職員だけあって、Mr. 石井が一番きついことを言ったので優勝した。「ツル公は・・・・それで怒り出しちゃってよ・・・・・『ツルタさん、もうこんなバカな話止めましょうや。それじゃ切りますよ』・・・てな具合だよ」なんて、国際電話で1時間半話したとか、etc.「ウソで始まりウソで終わる人」なのだそうだよ、「ツル公」は・・・・本部さんも農友会を辞めたそうだ。ツル公に愛想をつかして・・・確かに楽しい半チャン、いや、話し合いだったのだ。
2006年01月21日
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1月19日(日)1976年「今何時?」「10時」「もう10時か・・・早いなあ」「あ、また字間違えちゃった。ちくしょう」tetywest・・・・・ソファーに座ってノートを書いているM森君・・・・・・テーブルの前で project 。もうすぐ30枚だそうだ。A山君・・・・・・夕食を食べたらすぐ bed にもぐり込んで、今見にいったら何やら起き出して来そうな気配だったが、また寝たようだ。北の町では冬は寒い寒いとノートに書いてあるのに、エスコンディッドではまるで夏のような暑さ。先週の金曜日には92度Fを記録した。ここの生活もあと1ヶ月ちょっと。思えばいろんなことがあった1年だった。IFAはまだこの農場に次に誰が入るのか知らせて来ない。少なくとも1人は来るという連絡はあったのだそうだ。今日、Mr. Munemitsu が訊くのには、「石井さんという人はどんな人間かね・・・?」「ボクの考えでは、あの人はどうも信用できないんだがね」「この前も、 letter 書いてくれと言って、どうして書かなかったのと訊いたら、何か、北海道からお客さんが来てて、それで忙しかったからだと言いよったよ」このところ農友会(IFA)のやる気のなさが目立ってきたようだ。◎パスポートのビザの延期の手続きが去年より1ヶ月遅い◎TAXをいくら払わせるのか連絡もない◎ファイナルトリップのバスのチケットも自分で買えと言う。それに今76$のアメリパスは購入不可能。もう売っていない。◎次の実習生が何日に農場に入るのか、引継ぎができるのかどうかも知らせて来ない。(ある情報筋によると2月29日だそうだ)◎外国人住所届の書き方の説明が一切ない。ただ、書かないと罰せられると言うだけ・・・◎いまだに来年の実習生から集める50万円の使い方が不明。それに2グループに分けたからって本当に50万円もの差ができるのだろうか?本年の実習生は飛行機代も自分で払うそうだけど、それじゃ20万円で来る後のグループの飛行機代はどうなるの?◎tetywestが日本へ送った荷物の関税が7000円もかかったそうだ。このへんの送り方とかTAXのかからない方法などをなぜ教えてくれないのだろう!!◎去年の実習生には親切にお土産の買い方までアドバイスしたというのに、本年はサンフランシスコで買えるとただそれだけ!!◎tetywestの Host farm は農友会(IFA)への信頼をゼロにしている。とにかくありゃダメだと言う。もうIFAも長くはないような気がする。本年ほどIFAの組織の矛盾が見えた年はまずなかっただろう。いつまでもIFAを頼りにしていては、結局バカを見るのは Host farm と実習生なのだ。IFAや農友会はアメリカで生活するために利用させてもらう機関でありたい・・・利用されるのではなく・・・tetywestの場合は、IFAとの接触が少なかったせいか、あまり気にせずに1年を過ごせたと思う。それに車を買ったということのメリットはすごく大きなもので、この点でもやはり利用させてもらったと言うべきだろう。このところずっと醒めていて、Bossがどう言おうと、Mr. Munemitsu がいかにIFAを悪く言おうと、tetywestにはもう関係がないことなのだ。どうせあと1ヶ月で去っていくのだ。せいぜいBossたちに話をあわせて、ついでに煽り立ててやればそれでいい。そして何と言っても、もうここの人たちとは関係が切れるというこの気楽さったら、言葉で表現できないくらいだ。いつでも好きなときに出て行けるのだから・・・本年もみかんの値段がよくないそうで、実家ではフーフー言っているそうだ。日本よ、やはりお前はtetywestの故郷だ。IFAも農友会も関係なく過ごした1年だった。どうしてかと言うと、シラケていたからだろう。シラケ始めたのは4ヶ月目くらいだった。車を買ってからは、これがホントのドッチラケ!!実習生は何か?などと考える暇がなかった。単なる労働者と割り切ってからは気分がずっと楽になった。いかにその境地に早く到達できるか・・・それがアメリカ生活を不幸にも、また幸福にもするのではないだろうか・・・・そうして 今日も終わろうとしている。「今何時だ?」「これだと(11時)45分ごろだけど、たぶん30分頃じゃないの?」A山君がベッドでもだえている・・・・それじゃ、おやすみ。
2006年01月19日
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1月16日(金)1976年今日、1週間ぶりに車のオルタネーターが直ったので、ラモナまで車を売る交渉に行った。脈があるようなないような・・・よくわからない返事だった。あまり期待はできそうにないな。Driver's Licence はシアーズの近くのマーケットに落ちていたと、昨日 Maria から電話で教えてもらったので今日取りに行ってきた。よかった・・・ 注目:半年でこの変わりよう!! それはそうと、日記を書くのは久しぶりだなあ。このところ4日間はすごい暑さで、今日など91度F(32.7℃)。そして一向に雨が降らないカラカラの冬なのだ。この半月はあっという間に終わったな。もう仕事も中途半端なのが多くて、今はレモンの若木のプルーニング。その前はドリップパイプの修理とか固定だった。そろそろ日本へ帰りたくなっている。本当に押し迫ったという感じなのだ。Bossは農友会に対してかなり気分を悪くしている様子で、「 Riverside は次の実習生が決まったのに、こっちは何の連絡もないのね」と言っている。Host farmer からあれだけ文句が出るようでは農友会もそろそろ終わりのような気がしてきた。今10時45分、F島君がエスコンディッドへやって来て、M森君たちと入れ違いになったようだ。
2006年01月16日
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1月6日(火)1976年夜中の1時にリバーサイドのBossのロイから電話があり、F浪君たちは夜の温度チェックの仕事。一緒について行く。1:20 Kim のranch 31度F ウインドマシンをONにする。無風1:40 Woodcrest40 30度F ウインドマシンをONにする。無風1:45 Hawkins 34.5度F 無風1:50 Beam 34.5度F 無風2:05 Rivormatt 34度F 微風2:10 Conn 29度F 無風2:15 Willis 33度F 無風2:20 Conn 29度F 無風2:40 Madison の実習生ハウスへ戻った。3:00 Kim のranch 28度F3:50 Kim のranch 30度F4:00 Kim のranch 29.5度F 風が出てきたので温度が上がったようで、向こうのウインド・マシンも停止した。ウインド・マシンは10エーカーで100馬力のエンジン1基。エーカー当り10馬力。高さは30フィート。プロペラは少し下向きに付いている。30度~31度Fで自動的に回り始める。オイル・ヒーター(スマッジ)は27.5度Fで手前の1ラインから点火し始め、少なくとも28度Fにキープするように温度計を見ながら奥のラインへと点火していく。風と温度の関係もあり、この作業は日の出まで続くこともあるのだそうだ。ロイの話では、ウインド・マシンで温度が3度~5度F上がる。シーリング(ウインド・マシン)がない場合はオイル・ヒーター(スマッジ)を焚いても2度F上がればいい方だそうだ。もう少し寒いところだとヘリコプターを使ってfrost protection をやるという。温度が低くなった時間が長いとダメージが大きいが、もし20度Fくらいに下がっても、すぐに28度F以上に回復すればOKなのだそうだ。夜、8時05分リバーサイド発のバスに乗る。Bonsall に着くのは多分10時過ぎだろう。過ぎ去ってしまえば6日間は本当に早い。明日からまた仕事に戻り、エスコンディッドの悩みの中へ帰っていくのかと思うと少々憂鬱だ。あと1ヶ月と20日があっさりと過ぎ去ってくれればいいのにと思うばかりだ。
2006年01月06日
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1月4日(日)1976年Mitsu君と一緒に映画を観に行った。「 3 DAYS OF THE CONDOR 」参照URL:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_review_new/jap_review_condor.html主演:ロバート・レッドフォードフェイ・ダナウェイCIAの不正に主人公がひとりで挑戦するという、なんともわけの解りにくい映画だった。
2006年01月04日
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1月2日(金)1976年夜中にラスベガスへ到着。0時45分から朝の9時30分まで、KENO、SLOT MACINE 、BLACK JACK で遊んだ。カード・ゲームは結構面白くて長い間遊べた。BLACK JACK で15$、KENO で10$くらいもって行かれたけど・・・昨日からの睡眠不足で体が疲れている。それにお金を節約しなければならない。でも、A野君と一緒に行動して面白かった。これから、どうやってあとの4日間を過ごそうかと考えている。1月3日(土)、ウエスト・ハリウッドのRoxy の January Program を確かめに行く。16-17-18DOUG KERSHAW参照URL: http://www.answers.com/topic/doug-kershaw20-21MICHAEL MKPHY23-25STANLEY TURRENTINE参照URL: http://www.cannonballmusic.com/japan/stanley_turrentinej.htm29-31PATTI SMITH参照URL: http://www.bmgjapan.com/_artist/profile.php?id=658だった。夜はリバーサイドへ転がり込む。
2006年01月03日
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12月31日(水)は午後4時に仕事をやめる。6時にリバーサイドへ向け出発。8時40分にパサディナへ向け、リバーサイドを出発。10時10分、パサディナへ到着。11時、Orange st. と Cororado ave. の角へ陣取る。リバーサイドから持ってきたオレンジBOXと板でベンチを作って、その上に座って毛布をかぶって・・・野宿。特別冷えて、明け方は0℃だった。1月1日(木)、8時半にローズ・パレードが始まる。 10時40分に終わる。11時20分にガーデン・グローブへ向けて出発。1時10分にガーデン・グローブのムネミツ氏(一世)の家へ到着。ご馳走を食べる。ローズ・ボウルを観る。23対10でUCLAがオハイオ・ステートを破る。5時半にロス・アンジェルスへ向けて出発。6時15分にグレイハウンドのバス・ステーションでM森君たちと別れる。グレイハウンドのインフォメーションで訊いたところ1週間76$で乗り放題のアメリパスはないというので、さてどうしたものかと思案していると、バッタリとA東君に会う。A野君も一緒なのだそうだ。今からラスベガスへ行くというので付きあうことにする。LA発7時20分。ブラストゥへ9時50分に着く。ラスベガスまでのバス代22$80¢。
2006年01月02日
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今年もよろしくお願い申し上げます昨年夫婦で中国へ行きました。福建省福州市西禅寺の狛犬です。
2006年01月01日
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