アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

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2007年03月11日
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カテゴリ: カテゴリ未分類
今回で、四月の雪のアナリーゼを一応最終回としたい。

その主な理由は、ディレクターズカット版を評価する私は、そのリファレンスとして瑕のある劇場公開版を貶さなければならない。そのことが、劇場公開版を楽しんだ人を傷つけることが避けられないからである。

今回は多層的な鑑賞フェイズについて概説する。



ふたつのバージョンの違いは、「表のストーリー」は順番が違うだけで、大差がないものの、主人公のふたりの「心のストーリー」が異なるということである。

「表のストーリー」だけでみれば、はじめての情事とはじめての海、そして、トイレの中で感じる汚辱(バスルームに隠れるソヨン)のディレクターズカット版における順番が、はじめての情事、はじめての海、はじめてき汚辱と変わっただけである。

だが、裏にある「心のストーリー」では、ディレクターズカット版が、「ぬくもりとセックス」の物語であるのにたいし、劇場公開版は、「復讐と背徳」の物語になっていることである。

両者は質の違いであって、本来は優劣をつけるべきでないというのが、大人の解釈(興業的…。)だろうが、映像作家としてみれば、作品の最終目的は、人間を描くことであり、どちらがその目標に近いテーマかといえば、「ぬくもりとセックス」であることは疑いようがない。





巷間いわれているのは、情事の後で男女の感慨が大きく異なることである。
事後、女性は至福の時の余韻を大いに楽しむことができるが、男性を満たした満足の中にはいくばくかの虚無感が含まれている。

それは、恋愛のスタートにおいても同様だろう。魅力的な女性がいれば、男性というものは、反射的に「求める」。

疲れ魔羅などという俗諺もある。インスが交通事故の喧騒の直後に「求めた」のは当然のことである。

だが、そのように衝動的に「営まれる」たものが観客の感動を呼ぶとは、私は思っていない。

ドラマで描かれるべきものは、人の営みではなく、心の営みなのだ。

それは、2次元芸術が奥行きを求めることで芸術に昇華するように、心を描くことで映画が芸術に至るという極めて根源的な問題である。ならば、即物的・衝動的にストーリーが展開していく作品に価値はない。



多層的なストーリーということで、論じてきたが、それをシーンレベルで考えてみよう。

すでにシナリオの項において、設定シーン・説明シーンをつくってはならぬということ。

説明シーンとは、ドラマ的要素を盛り込まないで、主要キャラクターや作品の舞台や作品の背景を説明することである。




たとえば、「冬のソナタ」では、最初に春川の町がでてくる。高校がでてくる。チュンサンがでてくる。ユジンが出てくる。
だが、そこで、寝坊助のユジンと冷めたチュンサンの対立のドラマがあり、それが誠実なサンヒョクとの対照の中で描かれる。

高校野球の甲子園の一回戦における学校紹介のようなドラマのない映像が羅列されるような味気のないシーンは存在しないのである。

それが説明シーンがないということだろう。



チュンサンが持っていた古い写真。それは、母親の世代の恋愛という設定でしかないのだが、それがいまを生きるチュンサンのドラマとなっている。
写真を見るという行為は、ふつう過去を振り返るだけであって、行動に結実しないが、チュンサンにおいては、そんなことはない。あの写真が彼を春川の高校への転校を促した。その意味では、転校の説明に古い写真が使われているのだが、それは、もうひとつ、ちぎられた形跡のある写真は、親の世代の三角関係への暗示でもある。

そのようないくつもの暗示を映像にかけることによって、説明・設定カット&シーンということを「冬のソナタ」は避けているのである。



では、「四月の雪」では、どういうことになっているのか。

劇場公開版では、「はじめての情事」は、宴席で放った「復讐したい」「不倫しましょ」の後説明でしかない。
「はじめての海」も、肉体に刻まれた記憶を、写真という暗示で説明しているに過ぎない。後説明のひとつである。
「トイレの中で感じる汚辱」は、ヒロインの汚辱を映像化した説明シーン。主たる感情を補足するために用意されたシーンに過ぎない。

一方のディレクターズカット版ではどうか。
はじめての海は、ヒロインが新しい愛にめざめるドラマであり、
はじめてき汚辱は、ヒロインがこれから始まる自分たちの不倫を仮想体験し、それと闘うドラマである。
そして、はじめての情事でヒロインは、魚になったようなものである。彼女の意志は、ストッキングを脱ぐことで表現されていた。



シーン同士の呼応について述べてきたが、セリフにもシーンを越えた呼応がある。

代表的なものは、インスのセリフ。

病室で、「死ねばよかったのに」
酒場で、「自分が死ねばよかった」である。

他にも、二人の宴でソヨンが、「言い訳が聞きたい」というセリフに対して、
遠く離れた場所に、回復した後のインスの妻がインスに言う、「聞きたいことは?」がある。
インスは、妻に、「あの人は死んだ。いまはいい」と言う。
それは何かが終わったことを表現している。

私は、「セリフというものは、それが発せられた瞬間に、感情を裏切るものだ」と書いている。
それは映像についても同様で、映像も、それが「終わってしまった出来事であること」を教えてくれるのである。

交通事故からそれほど経っていないの喫茶店で、連れ合いのメイルとベッド動画を見たインスとソヨンは、「終わってしまった出来事」を感じる余裕はなかっただろう。だが、それさえも終わってしまった出来事。劇中劇でしかない。
そのシーンは、ドラマ終盤の回復した妻とインスが、蜜月時代のビデオを見るシーンと呼応している。



多層な鑑賞の視点ということで論じてきたが、時間的な全体と部分。
あらすじ的なドラマと、心のドラマ。
全体の心のドラマと、ヒロインの心のドラマ。

それらから紡ぎ出される作品のメッセージ。
そして、メッセージ以前の混沌とした作品の世界。

それらを個別的に味わうとともに、それらを統合・対照しながら、総合的に作品を味わって欲しいのである。

便宜上、私の解釈を述べているが、私の解釈をリファレンスとして、それぞれの鑑賞者が自由に作品を楽しめはこれにこしたことはないと思っている。



このあたりで、「四月の雪」のアナリーゼを終了したいと思う。

この作品をアナリーゼすることで得られたものは、冬のソナタの演出者とは違う監督による韓国の恋愛ドラマを丹念に見ることができたことである。

劇場公開版とディレクターズカット版というふたつのバージョンが存在することによって、監督の作業というもの、特に編集作業について論じることができたこと。

もうひとつは、編集作業が単に時間を短縮するために行なわれるのではなく、作品のテーマに関わる重要な問題に関わっていることを指摘できたと思う。

これは、日本のテレビドラマに顕著なのだが、「わかりやすくする」という大儀のために、ストーリーの単純化が図られ、本来キャラクターの心理の底で行なわれるべき葛藤がストーリーベースで行なわれるようになったことである。

この演出方針により、主人公たちは深み・重みのないキャラクターになるとともに、優柔不断で、支離滅裂で、自律性・自律性を失ってしまう。
そのような尊敬できない非リアルな主人公に、我々観客は心を寄せることができないのは当然のことである。



「冬のソナタ」にも、韓国でのオンエアバージョンと日本の国営放送版、民放放送版と、3つのバージョンがある。

著作権の問題で音楽も違っているし、カットの数も違うが、それが同じ意図のもとにつくられて、同じものを観客に提示しているとは必ずしも限らない。

そのことを「四月の雪」のふたつのバージョンは教えてくれたし、それを知ることは映画のよき観客として大いなる価値があった。

私自身、このような文章を書かなければ、頭の中で漠然と感じているだけで、ここまでの気づきはなかったと思う。
そして、私が導き出されたもののきっかけとなったのは、ぺヨンジュン公式サイトの掲示板にコメントされたみなさんの言論の数々であると感謝しています。

さぁ、次は、他の作品に行きましょう。

今回は、フィルムとビデオの違いや、映画とドラマの違いについて単独の稿を持たなかったことは不備といえるかもしれませんが、それは、「冬のソナタ」をアナリーゼする中で、おいおい提出していくことにします。

ありがとうございました。





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Last updated  2007年03月11日 07時23分47秒


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